- 白い飯を腹いっぱい食えるようになった都会で、なぜか人が死んでいった
- 「江戸わずらい」――箱根を越えると治る、というおかしな病気
- 軍隊という、脚気を育てるのに完璧な装置
- イギリス帰りの薩摩の軍医
- 犯人を探すのではなく、条件を一つずつ潰していく
- 龍驤の二百七十二日――三百七十六人のうち百六十九人が倒れ、二十五人が死んだ
- 天皇に直訴した軍医
- 同じ航路を、飯だけ変えて、もう一度走らせる
- パンを捨てる兵士たち
- 「机上の空論である」――学界からの集中砲火
- 脚気菌は、発見されたことになっていた
- 陸軍の現場は、監獄から答えを拾ってきた
- ドイツから届いた一本の論文
- 六人に八日ずつ食わせてみた試験
- 日清戦争――戦死九百九十七人、脚気死四千六十四人
- 新聞紙上の戦争
- 石黒忠悳の本音
- 日露戦争――二十五万人が倒れ、二万七千人が死んだ
- 廃屋の陰で死んだ「一兵卒」
- 責任者が委員長になる、という仕掛け
- オリザニンという名前は、なぜ世界に残らなかったのか
- 「君も麦飯迷信者の一人か」
- 森林太郎を、悪役ではなく構造として見る
- なぜ二十数年もかかったのか
- それから
- 結局、何が決着をつけたのか
白い飯を腹いっぱい食えるようになった都会で、なぜか人が死んでいった
数字の話は後でいくらでも出てくる。その前に、体に何が起きるかを書いておきたい。ここを飛ばすと、この話はただの行政の失敗談になってしまう。
始まりは、たいしたことがない。足がだるい。なんとなく重い。そのうち足の先がしびれてくる。靴下をはいているような、手袋をはめているような、妙に鈍い感じ方が、両足に左右対称で出る。
ふくらはぎを握ると痛い。しゃがんだ姿勢から立ち上がれない。膝の下を叩いても足が跳ねない。膝蓋腱反射の消失というやつだ。後の時代に健康診断の必須項目になった、あの検査のことだと思えばいい。
次にむくむ。すねを指で押すと、指の跡がそのまま残る。むくみは足から少しずつ上がってくる。息が切れる。動悸がする。
脈が速くなる。ところが手足の先はむしろ温かい。末梢の血管が開いて、心臓が必死に血を回しているからだ。
そして、最後に来るやつがある。
急に血圧が落ちる。脈が乱れる。呼吸が苦しくなる。胸の中をしめつけられるように苦しんで、心臓が止まる。衝心脚気という。
脚気心の劇症型だ。前の日まで歩いていた若い男が、一日か二日で死ぬ。当時の記録だと、こう書かれる。「心臓部は波動状に搏動し、胸内窘迫、四肢倦怠、尿閉を訴え、輾転反側して苦悶の状見るに忍びず」。転げ回って苦しむのを、見ていられない、ということだ。
いまならこれは教科書の一項目で済む。ビタミンB1、つまりチアミンの欠乏症だ。チアミンは糖をエネルギーに変える回路の補酵素として働く。だから足りなくなると、エネルギーを食う臓器から順に音を上げる。末梢神経がやられて多発神経障害になるのが乾性脚気。
心臓と血管がやられて高拍出性の心不全になるのが湿性脚気。脳の一部がやられればウェルニッケ脳症だ。ビタミンB1を入れてやれば、重症の心不全が数日で劇的に戻ることすらある。現代の症例報告を読んでいると、白飯に偏った食事をしていた高齢の患者に点滴でビタミンB1を入れたら、血圧が上がって尿が出て、肺のうっ血が引いていった、という記述が普通に出てくる。
つまり、答えを知ってさえいれば、こんなに簡単な病気もない。
知らないと、こうなる。日露戦争の陸軍で、脚気による死者が二万七千人を超えた。
「江戸わずらい」――箱根を越えると治る、というおかしな病気
脚気は明治に降ってわいたものではない。日本書紀にも、それらしい足の病の記述がある。平安期には白米を食える上層階級、つまり天皇や公卿のあいだで出ている。そして江戸だ。
元禄のころ、江戸で米を精白する技術と習慣が一気に広まった。玄米でも半つき米でもない。真っ白な飯であり、町人も下級武士もそれを食うようになった。すると、江戸に出てきた者が次々と足をやられる。
だるい、しびれる、むくむ。これが「江戸わずらい」だ。享保になると大坂と京都にも広がり、大坂では「腫病」と呼ばれた。文化文政で中国地方と九州へ、天保以降は全国の地方都市へ。白米が普及した順路を、そのままなぞって広がっていった。
ここで、当時の人たちを死ぬほど混乱させた特徴が出てくる。
江戸を離れると治るのだ。享保期の医家・香月牛山が『牛山活套』に書いている。仕官している者や商人が江戸へ行くと足や膝がだるくなる、俗に江戸わずらいという、ところが故郷へ帰る途中で箱根山を越えると自然に治る、と。
そりゃそうだ、としか言いようがない。故郷に帰れば白米ではなくなる。麦も雑穀も入る。おかずも変わる。だが当時の人にそれが分かるはずがない。
分かるのは「江戸という土地にいると罹り、離れると治る」という事実だけだ。だから土地の病、風土病だという発想になる。水が悪いんだ、空気が悪いんだ、という話にもなる。原因が食い物のほうにあるとは、なかなか思えない。
しかもこの病気、常識に真っ向から逆らう性質を持っている。
貧しい者より、いい物を食っていそうな者が罹る。老人や子どもより、元気な若い男が罹る。粗食の田舎者は平気で、白い飯を食う都会の勤め人が倒れる。白米は玄米より上等な食べ物だと誰もが信じていた時代に、「上等な物を食っている者が死ぬ病気」だったわけだ。これを栄養の不足と結びつけろというのは、当時の頭にはかなりの飛躍だった。
それでも、江戸の医者たちは経験からそこそこ正しいところまで来ていた。脚気の治療では「飲食の禁戒を守らなければ薬効なし」とまで言われ、食養生が最重要視されている。林一鳥や竹越元通といった医家は、素食、小豆、麦の煮汁、減塩、水の制限などをやらせた。やがて「脚気には小豆めし、麦めし」が世間の常識になり、そのまま明治へ受け継がれる。
これ、答えの半分にはもう届いているんだよな。麦を食わせろ、というのだから。
漢方医の遠田澄庵は、もっとはっきりしていた。脚気の原因は米食、つまり白米の食べ過ぎとその他の栄養不足にある、と言い切っている。治療では漢方薬と同時に、厳しい食事管理を課した。この時代としては革新的というほかない。遠田は幕末から明治初期の江戸で、脚気の名医として名を知られた人物だ。
そして、その遠田が診た患者の顔ぶれがすごい。
十三代将軍・徳川家定。安政五年、三十五歳で没。持病の脚気の悪化が通説だ。死の直前、大老・井伊直弼と実母の判断で、漢方医の青木春岱と遠田澄庵、蘭方医の伊東玄朴と戸塚静海が登城を許されて診察している。十四代・徳川家茂は慶応二年、二十歳で没。
やはり脚気とされ、甘い物好きが症状を悪化させたという話がついてまわる。そして家茂の正室、和宮親子内親王。明治七年に東京へ戻ったころから脚気を患い、明治十年八月に遠田の勧めで箱根塔ノ沢へ転地療養に出た。だが、九月二日、そこで脚気衝心により亡くなった。三十二歳。
塔ノ沢の人が「顔がひどく浮腫んでいた」と証言している。
その同じ明治十年、明治天皇自身も脚気を発病した。十月になってようやく治まっている。
将軍が死に、天皇が倒れる。事態を重く見た側近が脚気病院の設立を上申し、翌年できた病院は、漢方医と西洋医に治療成績を競わせる施設のようになった。世間はこれを「脚気相撲」と呼んだ。厳密な比較試験をやったわけでもないので、これという成果は出ないまま明治十五年に閉鎖される。
ここまでが前史だ。国の一番上から下まで、誰も原因を知らない。ただ「麦めしがいいらしい」という経験則だけが、漢方の世界に転がっている。
軍隊という、脚気を育てるのに完璧な装置
明治になって徴兵制ができ、軍隊ができた。すると脚気が爆発した。
理由は身も蓋もない。軍隊は白米を食わせる場所だったからだ。当時の陸海軍の兵食は、主食が白米で、副食は現金支給。金で渡されるものだから、兵は食費を切り詰めて差額を貯め込む。物価が上がれば副食の質も量も落ちる。
そのうえ「軍隊に入れば白い飯が腹いっぱい食える」というのが、貧しい農村から出てきた若い男にとっての軍隊の魅力ですらあった。
栄養学的には、これ以上ない最悪の組み合わせだ。糖質ばかり大量に摂ると、その代謝にビタミンB1が消費される。だから白米を大食いするほど足りなくなる。おまけに軍隊は激しい労働をやらせる。演習、行軍、艦上作業。
汗をかき、糖を燃やすほど、消える。夏に流行るのもそのためだ。
海軍の統計を見てみる。統計調査を始めた明治十一年から明治十六年まで、兵員の三割前後が毎年脚気になっていた。死亡率は二パーセントにもなる。総兵員がわずか五千人ほどの時代に、毎年千五百人から千九百人の脚気患者が出ている。三人に一人だ。
具体的な例を出す。明治八年、軍艦富士山の乗組員三百名のうち七十名が脚気になり、二十名が死んだ。二十人も死んでいるのに患者が七十人しかカウントされていないのは、重症者しか数えていないからだろう。明治十五年の壬午事変では、出動して清国艦隊とにらみ合った比叡ら三隻の軍艦で、水兵のほとんどが脚気に罹った。艦の戦闘能力はほとんど失われていたという。
戦う前に負けている。
陸軍も似たようなものだ。明治十一年から明治十八年の統計で、兵員の二割前後が脚気、死亡率は二パーセント台。明治九年には兵員千人あたり脚気の新患者が百八人、明治十七年には二百六十三人まで上がった。四人に一人が罹る計算になる。
しかも地域差が異常だった。明治十八年の数字を見ると、東京の師団で三十一・一パーセント、仙台で十三・八、名古屋で九・五、広島で〇・三、熊本で三・九、大阪では〇・七。同じ軍隊で、同じ制服を着て、同じ訓練をしている集団で、ここまで違う。
この差は何なのか。気候か。兵舎の造りか。土地の瘴気か。
いま見れば、答えは献立表のなかにある。だが当時はそう見えなかった。当時の医学に、微量栄養素という概念そのものが無かったからだ。人間に必要な栄養は蛋白質、脂肪、炭水化物、塩類の四つ。それさえ足りていれば栄養は満たされている。
それが最先端の知識だった。ビタミンという言葉が、世界のどこにもまだ存在しない。
だから脚気は「原因不明の死病」であり続けた。
イギリス帰りの薩摩の軍医
ここで高木兼寛が出てくる。
嘉永二年、いまの宮崎市高岡町の穆佐という村の生まれ。家は薩摩藩士といっても最下級の郷士で、父は普段は大工をして暮らしを立てていた。七歳で四書五経、九歳で示現流。十七歳で鹿児島に出て、蘭方医の石神良策に医学を学んだ。
慶応四年、戊辰戦争。高木は薩摩藩の若い軍医として従軍する。ここで彼が何を見たかというと、イギリス人医師ウィリアム・ウィリスの仕事ぶりだ。負傷者を前にして、西洋医学がまるで別次元の効果を出す。早く西洋医学を修めなければいけない、と切実に思ったという。
薩摩藩もこの戦争に懲りて、明治二年に藩立の鹿児島医学校をつくった。教師はそのウィリスであり、高木はすぐ入学し、助手を兼ねながら猛烈に勉強した。ウィリスは高木の才能と性格を気に入り、イギリス留学をしきりに勧めるようになる。
とはいえ、一介の薩摩の若造に留学のあてなどない。海軍に入ればあるいは、という話になった。旧師の石神良策が海軍軍医部の最高責任者になっていたから、その伝手で明治五年四月に上京し、海軍軍医として出仕する。上京二か月目に、蘭英学者・瀬脇寿人の長女である富と結婚した。仲人はもちろん石神だ。
そして高輪の海軍病院で毎日患者を診るようになって、いきなり壁にぶつかる。脚気患者があまりにも多い。しかも多くが死ぬ。そして治療法がまったく無い。自分は無力だ、とひたすら思い知る日々だった。
この経験が、留学への渇望をさらに強くする。
明治六年八月、海軍病院内に軍医学校ができ、イギリスからウィリアム・アンダーソンが教師として招かれた。高木はその講義の通訳をしながら学んだ。アンダーソンは高木の熱意を高く買い、自分の母校であるロンドンのセント・トーマス病院医学校への留学を取り付けてくれる。
明治八年六月十三日、横浜を出航。アメリカ経由で、七月十六日にはもうロンドンに着いていた。船旅のあいだ、彼はかつてウィリスに勧められた解剖学の原書を四回読み返したという。
ここからの五年間が、後の全部を決める。
セント・トーマス病院医学校の教育は、徹底してベッドサイドだった。イギリスというのは、まず病人を収容する施設としての病院がある。そこで働く医者を育てるために医学校ができた、という順序の国だ。だから教育の中身が実際的で、患者中心になる。病院にはナイチンゲールが創設した看護学校があり、彼女が設計した病棟があった。
高木の留学時、ナイチンゲールは五十五歳ですでに病床にあったが、その患者中心の医療思想は高木に深く入り込んだ。
もうひとつ、イギリス医学には独特の癖があった。流行病の原因を単一の病原体に求めるより、生活様式や生活環境の側に求める傾向が強かったのだ。しかも海洋国家として、壊血病という栄養障害病と何百年も格闘してきた歴史がある。船乗りの病気を食い物で防ぐ、という発想が骨の髄まで染みている。
高木は明治十三年五月に卒業した。成績は抜群で、五年間で十三の優秀賞と名誉賞を取り、最優秀の卒業生に与えられるチェセルデン銀賞まで受けている。同じ年に王立外科学会の会員にもなった。
明治十三年十一月、帰国。すぐ東京海軍病院長になる。三十一歳だ。
やりたいことは二つあった。セント・トーマスのような病院と医学校を日本に作ること。そして、留学前からずっと頭を離れなかった脚気の研究だ。
犯人を探すのではなく、条件を一つずつ潰していく
帰国した高木がやったことは、当時の日本の医者の発想からすると、かなり変だった。
彼は顕微鏡を覗かなかった。代わりに、名簿と献立表と配置表を並べたのである。
脚気の原因になりそうな条件を、片っ端から挙げていく。気温、衣類、所属部署、艦船の種類、兵営、生計、食物。それぞれと脚気の罹患率の関係を、しらみつぶしに突き合わせた。いまの言葉でいえば疫学調査だ。というより、日本で最初の本格的な疫学調査だった。
だから高木は後に「日本の疫学の父」と呼ばれることになる。
出てきた結果はこうだ。
軍艦によって脚気の発生に大きな差がある。同じ艦の中でも、患者は下士官と水兵と囚人に集中していて、士官にはほとんど出ない。外国の港に停泊しているあいだは患者が減り、航海を始めると増える。そして、脚気が多い場所では炭水化物が多く蛋白質が少ない食事をしていて、脚気が少ない場所では蛋白質が多い食事をしている。
士官は洋食を食っていた。水兵は白米を食っていた。停泊中は現地の食い物が入る。出航すると兵食に戻る。
高木の結論は「脚気の原因は食物の組成にある」だった。もっと具体的には、炭水化物に対して蛋白質が少なすぎるのが悪い、という説だ。窒素と炭素の比で言うと理想が一対十五、これが一対二十三くらいまで崩れると脚気になる、実際の兵士の値は一対二十八だった、というのが彼の主張になる。
念のために言っておく。これは間違っている。
脚気の原因は蛋白質の不足ではない。ビタミンB1の欠乏だ。高木の理屈は、後から見れば的を外している。
ところが、間違った理屈から出てきた処方箋のほうは、これ以上ないくらい正しかった。白米に偏るのをやめろ、麦やパンや肉を増やして副食を豊かにしろ。それをやれば脚気は消える。理屈は外れているのに結果が当たっている。この厄介な状態が、この後二十年以上も論争の火種になり続ける。
高木は明治十五年十月七日、戸塚医務局長の名義で川村海軍卿に「脚気病予防之義ニ付上申」を出した。兵食を変えてくれ、という願いだ。返ってきた答えは期待外れで、とりあえず東京海軍病院で数人の患者に西洋風の食事を試してみろ、という程度のものだった。
そうこうしているあいだに、あの艦が帰ってきた。
龍驤の二百七十二日――三百七十六人のうち百六十九人が倒れ、二十五人が死んだ
練習艦龍驤が品川を出たのは明治十五年の十二月だ。十二月十九日に品海を出港したという記録と、十二月二十七日に品川を出航したという記録がある。乗せていたのは兵学校の第十期生二十七名を含む乗組員三百七十六名。目的地は南アメリカ西海岸方面。日本海軍として初めての南米遠洋航海だった。
航路を追ってみる。
明治十六年二月八日午後、ニュージーランドのウェリントン港に入港。二月二十四日午前に出港。四月二十六日、チリのバルパライソ港に入港だ。五月三日出港。五月十五日、ペルーのカヤオ港に入港。
五月二十日出発だ。そこから太平洋を横断して、七月三日、ホノルル港に入港した。
問題は、このカヤオからホノルルまでの五十八日間だ。
ここで百五十人が倒れ、二十三人が死んだ。
想像してほしい。帆船であり、帆を張り、畳み、索を引くには人手がいる。その人手が次々と甲板に倒れていく。帆を扱える者がいなくなったので、やむなく火力で走ることにした。
ところが石炭を焚く火夫も脚気で倒れる。最後は艦長以下の士官が代わるがわる釜を焚いて、辛うじてホノルルにたどり着いた、という状態だった。
ホノルルに入った龍驤が日本へ打った電報が残っている。
ビヤウシヤオオシ カウカイデキヌ カネオクレ
病者が多く航海できない、金を送れ。海軍の練習艦が、敵に一発も撃たれずに航海不能に陥った。
ホノルルで一か月ほど停泊し、患者の回復を待った。そしてここで、決定的なことが行われる。艦に積んでいた日本からの食料品を、全部捨てたのだ。かわりにパンと、新鮮な鳥獣肉と野菜を積み込んだ。
結果は劇的だった。ホノルルから日本へ帰るまでのあいだ、下士官以下の乗組員から新規の脚気患者は一人も出ていない。死者もゼロ。八月五日にホノルルを出て、九月十五日に品川へ帰着した。
全航程二百七十二日。乗組員三百七十六名のうち、重症の脚気患者は百六十九名。そのうち二十五名が死亡だ。患者の実に百六十名は下士官と水兵だった。士官はほとんど無事だ。
後年、海軍省がまとめた『竜驤艦脚気病調査書』には、この航海の献立が日ごとに記録されている。ホノルル到着前、下士官以下の肉類の摂取量は一人一日あたり平均およそ十四匁。到着後は五十五匁に跳ね上がる。三倍以上だ。米の摂取量は百八十六匁から百三匁へ四割減り、代わりにパンが六十四匁入った。
ついでに書いておくと、この調査書に出てくるホノルル以降の献立に、カレー粉もバターも西洋の調味料も一切出てこない。調味料は醤油と味噌だけだ。つまり、脚気を克服したのは純然たる和風のおかずだった。肉を大幅に増やした和食である。「海軍がカレーで脚気を治した」という話がよく流布しているが、少なくともこの龍驤の記録に、その根拠は無い。
天皇に直訴した軍医
龍驤が帰港した明治十六年九月十五日から、高木の動きは異様に速い。
十月五日、彼は海軍省医務局長に就任する。すぐさま龍驤の脚気多発を調査する委員会を立ち上げ、徹底的に洗った。そして、この結果を持って正攻法ではないルートに出る。
伊藤博文をはじめとする政府要人に、直接、側面援助を頼んで回ったのだ。
そして伊藤の計らいで、明治十六年十一月二十九日、赤坂御所に参内して明治天皇に拝謁した。同席したのは伊藤博文と有栖川宮。高木はここで、脚気の原因と予防法についての持論を奏上している。
念のために言うが、これは相当な越権だ。医務局長が、海軍という組織の指揮系統を飛び越えて、いきなり天皇に自説を説きに行っている。当時、明治天皇自身が前年から脚気を再発させていたという事情もあった。天皇は、漢方の食養生で脚気を克服した経験を持っていて、ドイツ医学系の侍医団と対立してすらいた。高木の説は、その天皇にとっては納得のいく話だったのだろう。
天皇が賛同したとなると、組織は動く。
明治十七年一月十五日、川村海軍卿の名で「艦船営下士以下食料給与概則」が出た。これまで金で渡していた食費を、現品支給に切り替える。食品の内容を規定し、牛肉などの肉類の支給を定め、洋食を導入する。
高木が三年がかりで取りに行った権限が、ここで手に入った。
同じ航路を、飯だけ変えて、もう一度走らせる
ここからが、日本の医学史でいちばん有名な実地試験になる。
明治十七年二月、練習艦筑波が遠洋航海に出る予定があった。当初の航路はハワイ行きで、前年の十二月十八日に令達が出ている。高木はこの筑波に目をつけた。そして伊藤博文らに働きかけて、筑波の航路を変更させる。
龍驤とまったく同じコースを走らせろ、と。
同じ海域、同じ季節、同じ期間、同じ練習艦。変えるのは食事だけ。前の航海で何人倒れたかは分かっている。今度の航海で何人倒れるかを見れば、食事のせいかどうかが分かる。
これは実験群と対照群を置いた比較試験そのものだ。現代の臨床試験の作法からすれば、前の航海を歴史的対照に使っているぶん厳密さは落ちる。だがビタミンという概念すら無い時代に、軍艦一隻を丸ごと使って数百人規模の介入試験をやろうとした人間が、ほかにどこにいたか。
明治十七年二月三日、筑波は乗組員三百三十三名を乗せて品川を出航した。積み込んだのは改善食だ。蛋白質を多くし、炭水化物を減らす。窒素対炭素の比を一対十五に設定。パン、肉類、コンデンスミルク、ビスケットなどを十分に積んだ。
そして高木の地獄の八か月が始まる。
なかなか成功の報告が来ないのだ。品川からチリまでの前半百四十日間、散発的に出る脚気患者の数は、前の龍驤と大差なかった。報告を待ち続けるうちに、高木の心はどんどん不安に傾いていく。
もし失敗したら。多くの兵士を殺したことになる。海軍の中枢どころか、天皇にまで嘘を申し上げたことになる。
彼はこの時期のことを、後年、若い軍医に訊かれている。もしあのとき筑波で脚気が多発して、栄養試験が失敗していたら、どうなさるおつもりだったのですか、と。
高木は言下に答えた。
その時は切腹してお詫びする覚悟であった。
これは誇張ではなかったらしい。高木は幼少から父に武士道の教育を叩き込まれている。武士道における切腹とは、みずからの罪を償い、不名誉を免れ、自分に邪心がなかったことを証明する方法だ。彼は本気で、それ以外に方法はないと思っていた。
しかも九月というのは、前回の龍驤が最も大量の患者を出した時期にあたる。ペルーからハワイまでの区間で百三十八人が倒れ、二十二人が死んだ、あの区間だ。高木は毎日のように、同じ光景が筑波の艦内で起きているところを妄想していた。
待ちきれなくなった高木は、明治十七年九月十七日から、犬を使った飼育実験を始めている。脚気食群三頭と健康食群三頭に分け、軍医教官たちが一頭ずつ受け持って観察する、という地味で息の長い実験だ。筑波が駄目でも、こちらで何か有意な情報は得られるだろう、と考えたのだろう。世界で最初の疾患モデル研究のひとつに数えられる仕事になった。
そして皮肉なことに、その二日後だった。いや正確には、実験開始から三週間後の明治十七年十月九日。筑波からの電報が届く。
ビョウシャ一ニンモナシ アンシンアレ
病者一人もなし、安心あれ。
チリからハワイまでの区間、龍驤が百五十人の患者と二十三人の死者を出したまさにその航路で、筑波が出した脚気患者は、軽症一名だけだった。
十一月十六日、筑波は品川に帰着した。全航程二百八十七日。乗組員三百三十三名。脚気患者は延べ十六名、実数十四名だ。死者ゼロ。
そしてこの十四名について、記録にはこう書いてある。士官候補生四名はコンデンスミルクを飲まなかった者、水兵十名のうち八名は肉類を嫌って食べなかった者だった、と。
つまり、改善食をちゃんと食った人間からは、一人も出ていない。
数字を並べておく。龍驤は航海期間二百七十二日、乗員三百七十六名、脚気患者実数百六十九名、死者二十五名、窒素対炭素比は一対二十から二十八。筑波は二百八十七日、三百三十三名、患者実数十四名、死者ゼロ、窒素対炭素比は一対十五。
後年これをカイ二乗検定にかけてみた研究者がいる。当然のように統計学的有意差が出た。
高木はこの時点で、ほとんど何も分かっていない。蛋白質が効くのだと思い込んでいる。だが彼は「効くやり方」を掴んだ。そして掴んだものを、即座に全海軍へ展開する。
パンを捨てる兵士たち
ここで人間の面倒くささが出てくる。
高木が取ったのは洋食路線だった。明治十七年、海軍の兵食は全額現物支給になり、主食は白米からパンに変わった。牛肉も規定されたのである。理屈から言えば、これで脚気は消えるはずだ。
ところが兵が食わない。
当時の日本にはまだ肉食の文化が根づいていない。パンも未知の食い物だ。「腹が空いても洋食は食わない」という風評が立ち、実際にパンを捨てる者が続出したという。
考えてみれば当然の話で、徴兵で引っ張られてきた農村の若い男にとって、白い飯というのは憧れのご馳走である。それを取り上げて、得体の知れないパンと獣の肉を出される。しかも理由の説明は「窒素と炭素の比が」だ。納得するはずがない。
高木はここで、素早く方針を曲げた。
パンが駄目なら麦飯でいい。麦は米より蛋白質が多い。しかも麦飯なら、多くの兵が郷里で食い慣れていて、洋食よりは抵抗が少ない。
明治十八年二月十三日、「艦船営下士以下食料中米麦等分供与相成度儀上申」を提出。三月一日から、パン食に加えて麦飯が給与されることになった。挽割麦を五割混ぜたものだ。同年二月二十五日の演説で、高木はこう言い切っている。
目下脚気病の予防策には麦飯を措て又他に求むへき物ある事なし
このあと高木は、麦飯の効果を説いてまわる人になった。だから世間から「麦飯男爵」と呼ばれるようになる。
結果の数字が、もう身も蓋もない。
明治十六年、海軍の脚気新患者は千二百三十六人、発生率二十三・一パーセント、死亡四十九人。明治十七年、七百十八人、十二・七パーセント、死亡八人。明治十八年、四十一人、〇・六パーセント、死亡ゼロだ。
二年であり、二年で、三割が罹る病気を一パーセント未満まで落とした。以降、海軍の脚気発生率は一パーセントを割ったまま推移する。
高木がやったのは、原因を解明することではなかった。原因が分からないまま、病気を消したのだ。
普通なら、これで話は終わるはずだった。
「机上の空論である」――学界からの集中砲火
明治十八年三月二十八日、高木は『大日本私立衛生会雑誌』に自説を発表した。
そこから先は、袋叩きだったのである。
高木の説は二本立てだ。ひとつは比例不良説。脚気は炭水化物に対する蛋白質の不足で起きる。もうひとつは麦飯推奨説。麦は米より蛋白質が多いから麦のほうがよい。
この二つは、「原因不明の死病」の原因を確定する主張としては、たしかに根拠が薄い。医学的な論理も粗い。そこを東京帝国大学医学部を筆頭に、片っ端から突かれた。
ひと月後の四月二十五日、同じ雑誌で東京帝大生理学助手の村田豊作が反論した。しかも痛いところを突いている。化学的分析で蛋白質の量を言うのなら、麦よりもっと蛋白質の多い糠をなぜ食わせないのか、と。
これ、いま読むと思わず声が出る。糠こそ正解だったからだ。村田は高木を叩くつもりで、答えのすぐ横まで来ていた。
七月には東京帝大生理学教授の大沢謙二が出てきた。大沢は消化吸収試験を実際にやって、麦は米よりも蛋白質の吸収が悪いことを示したのである。だから食品分析表の数字だけに依拠した高木の説は机上の空論であり、誤っている、と。
これも科学の作法としては正しい批判だ。実験をやっているのは大沢のほうで、高木は分析表を引いているだけなのだから。
一般の医会からも反対が続いた。そちらの疑問はもっと素朴で、そのぶん強烈だった。食物が悪ければ体が弱って万病にかかりやすくなるはずだ、なのになぜ食物の不良が脚気だけの原因になるのか。
高木はこの反論に、学理で応じなかった。応じられなかった、というほうが正確かもしれない。彼がやったのは、海軍での兵食改革の結果を六回にわたって公表し続けることだけだった。そして明治十九年二月の公表を最後に、黙った。
のちに高木はこう述懐している。
当時斯学会に一人としてこの自説に賛する人は無かった、たまたま批評を加へる人があればそれはことごとく反駁の声であった
海軍軍医部を除いて、国内に味方は一人もいなかった。
ひとつ、後日談を書いておきたい。高木を痛烈に批判した大沢謙二は、演説の一年後くらいに高木に会って、こう詫びたという。
高木さん先年はどうも失礼しました。ああいう演説はしましたが、その後家の書生から、病気にかかったので麦飯をやってみたらすっかり調子がよくなった、という話を聞きました。私など試験管の先ばかり見てものを言うものですから、どうもこれで賢くなりましたのである。
科学者としてはまっとうな態度だ。だが、この程度の風向きの変化では、大勢はびくともしなかった。
脚気菌は、発見されたことになっていた
なぜびくともしなかったのか。時代の空気の話をしないといけない。
一八八〇年代というのは、細菌学が世界を席巻していた時期だ。ベルリンのロベルト・コッホが一八八二年に結核菌を発見し、病原菌を特定する研究手法を確立した。その学派の医学者たちが次々に病原菌を見つけ、ワクチンや血清療法を作り、それまで手の施しようのなかった病気を片付けていく。
原因不明の病気があれば、そこには未発見の菌がいる。それが最も正しく、最も輝かしい科学の姿だった。
日本に来ていた外国人教師たちも、当然そう考えた。東京大学医学部のエルヴィン・フォン・ベルツ、京都療病院のハインリヒ・ボートー・ショイベ。この二人が脚気伝染病説を強力な説に育てた。皮肉なことに、海軍で最初に軍医育成にあたったイギリス人医師のウィリアム・アンダーソンさえ、脚気は伝染病だと信じていた。
伝染病説の根拠は、それなりに筋が通って聞こえる。脚気は都市に集中する。兵営や寄宿舎や監獄など、大勢が群がって暮らす場所で増える。夏に流行って冬に引く。若者が罹りやすい。
死体を解剖すると、神経の病変が細菌とその毒でやられた多発神経炎に似ている。
どれも、白米偏食で説明したほうがきれいに説明がつく事実だ。だが当時の頭では、これは伝染病の特徴に見えた。
そして明治十八年二月、東京大学医学部講師の緒方正規が「脚気病毒の発見」を官報に発表した。翌明治十九年には第二報を出す。緒方はミュンヘン大学でペッテンコーフェルに衛生学を、ベルリン大学でレフレルに細菌学を学んで帰ってきた俊英だ。その彼が、脚気の病原菌を見つけたと言ったのだ。
一躍、有名になった。
そして陸軍軍医本部の実力者・石黒忠悳が、この脚気菌説を陸軍の脚気対策の原理に据えた。石黒はもともと明治十一年に『脚気論』を出版して細菌説を唱えていた人物で、緒方の報告は彼にとって渡りに船だったのである。
石黒の脚気対策の中身を並べてみると、いま読むと切なくなる。清潔にする。室内での泥靴を禁止する。夏はできるだけ脚絆を脱いで脚を楽にする。腰掛けるより床で胡座をする。
暑い日の演習は涼しい時間帯にする。換気を良くする。体を十分に動かして代謝を良くする。そして、栄養不足にならないよう滋養の良い物を食べる。
真面目にやっていて、ただ、病気は一つも減らない。
高木自身が、石黒の説を直接聞いている。明治十七年五月八日、築地精養軒で陸海軍の軍医上長官の協議会が開かれた。そこで高木は、石黒と石坂軍医正を相手に議論をした。高木が後年伝えたところによると、石黒の説はこうだ。脚気の原因は主として黴菌である。
黴菌は不潔な空気中に棲息し、肺やその他から排出されたものが空気中に充満し、体の外へ出られなくなって病を成す。だから兵営の造り方が悪い。煉瓦造りや西洋風の拵え方が悪い。模様替えをして空気の調整を十分にすれば、この病を防げる。
こういう説だった。
面白いのは、その緒方の脚気菌にとどめを刺したのが、緒方自身の弟子筋にあたる男だったことだ。北里柴三郎である。
北里は明治十八年に衛生局東京試験所で緒方の助手を務めていた。緒方が脚気菌を発表したその発表会で、脚気菌を注射したというモルモットを得意満面に見せていたのが北里だったという。ところがドイツ留学でコッホのもとに入り、細菌学の作法を徹底的に叩き込まれると、緒方の実験の不備がはっきり見えてしまった。
明治二十二年、北里は『中外医事新報』に「緒方氏の脚気バチルレン説を読む」を発表する。細菌学として基本的に間違っている、という内容だった。
そして、北里は正しかった。脚気菌は存在しない。
だがこの一件は、北里を日本の医学界で孤立させることになる。恩師を公然と否定した男、と見られたからだ。森林太郎は北里の留学延長に力を貸した人物でもあったが、この件では北里をこう評している。
識を重んぜんとするあまりに果ては情を忘れたり
学問を重んじるあまり、人情を忘れた、と。
ここに、この二十数年の論争の構造がほとんど全部詰まっている気がする。誰が正しいかより、誰が誰に義理を欠いたか。学問の内容より、学閥と人間関係。
ちなみに緒方と北里の関係は、世間が面白がったほどこじれてはいない。二人は熊本医学校の同級生で、私生活の交流は続いていた。明治四十三年の緒方の在職二十五年祝賀会では、北里が門弟総代として祝辞を読んでいる。緒方の臨終の前日にも北里は立ち会い、葬儀では弔辞を述べた。学問上は容赦なく叩き、人としては最後まで付き合う。
そういう関係だったらしい。
陸軍の現場は、監獄から答えを拾ってきた
ここで書いておかないとフェアではない話があり、陸軍だって、現場は答えにたどり着いていたのだ。しかも高木とほぼ同時に。
大阪陸軍病院長の堀内利国という軍医がいる。天保十五年生まれ。明治十五年から大阪鎮台の陸軍病院長で、二十七人の軍医と各課、大勢の衛生兵を指揮する立場にあった。
この人も最初は伝染病説だった。明治十六年と十七年に兵営の改良を建議している。脚気は伝染病の一種だから、兵営を衛生的にすることが根絶の第一歩だと考えたからだ。建議は通って、明治十八年に兵営の改良は完成した。
ところが明治十七年、大量の脚気患者が出た。
そのとき、部下の重地正己という三等軍医が、自分の体験を話したのである。自分は脚気にかかったが、麦飯を試したらかからなくなった、と。
堀内は取り合わなかった。漢方医のデタラメだ、と馬鹿にした。麦飯が脚気に効くというのは漢方の世界では百年以上前から知られていた話で、遠田澄庵らも採用していたのである。だが、西洋医学を修めた軍医から見れば時代遅れの幼稚な処方でしかない。
だが重地は食い下がった。近頃、監獄では米飯を麦飯に変えたら脚気がめっきり減っている、という証拠がある、と。
ここで堀内が偉かった。それなら詳しい資料を取ってこい、と言ったのだ。質問条項を九つにまとめて、重地に持たせて神戸監獄へ行かせた。
なぜ監獄が麦飯だったのか、というのがまた妙な話でね。明治六年に神戸監獄で脚気が多発したとき、治療にあたった外国人医師が「監獄の環境が非人道的だ」と指摘した。それを受けて政府は囚人に白米を支給することにした。ところが明治十年になって、「農民の多くが米に麦を混ぜて食べているのに囚人が白米というのはどうか」という意見が出て、監獄の食事は麦飯に戻されたのである。
つまり、囚人の待遇を良くしようと白米にしたら脚気が増え、待遇を落として麦飯にしたら脚気が減った。善意が病気を作り、締め付けが病気を消した。
重地の報告を聞いた堀内は驚いて、他の監獄の資料も至急集めさせたのである。大阪監獄も同じ結果だった。明治十七年六月二十六日には京都、三重、和歌山、岡山の脚気の状況も調査した。
どこの監獄でも同じだったのである。白米を食わせていた時期は脚気が多発し、麦飯に切り替えて以降は激減している。
堀内はここで、自分が馬鹿にしていた漢方医の説に対して考えを改めた。そして、一度きりの事実ではなく、何度でも繰り返し同じことが起きる法則的な事実として、麦飯の効果を認識した。
明治十七年十月、大阪鎮台全体の兵食改正を建議する。監獄で大きな成果を上げた米麦の混食をすれば、軍隊でも脚気を絶滅ないし激減させられるはずだ、と。
司令官の山地元治が鎮台会議を招集した。反対論も出たが、堀内の集めた調査データが説得力を持った。明治十七年十二月四日に命令が発せられ、十二月五日から一年間、試験的に兵食を米六分・麦四分の麦飯にすることになったのである。
堀内は毎日、脚気患者がいつ出るかを見張り続けた。
出なかった。
翌年の八月になっても脚気患者はゼロ。同じ時期、東京、佐倉、仙台、青森など他の陸軍の部隊では数百人の脚気患者が出ている。大阪鎮台だけが無傷だった。明治十八年九月下旬、堀内は大阪鎮台の脚気ゼロを確認した。喜びようは、部下たちが驚くほどだったという。
この結果はすぐ他所へ伝わった。明治十八年十二月からは近衛軍医長の緒方惟準が近衛連隊に米七割・麦三割の麦飯を支給し、同じく劇的に脚気を減らした。近衛歩兵連隊の脚気患者数は、明治十六年に千七百四十四人、十七年に千六百九十八人、十八年に千百三十三人だったのが、十九年には百二十人になっている。
そして陸軍には、明治十七年九月二十五日に出された「精米ニ雑穀混用ノ達」というものがあった。これは元々、白米の代わりに安い麦や雑穀を混ぜて支給し、浮いた差額で副食を良くしようという節約案として出されたものだ。だが結果的に、現場の裁量で白米以外を主食にすることを認める根拠になった。
こうして麦飯は口コミで陸軍中に広がっていく。明治二十三年ごろにはほとんどの連隊が麦飯になった。そして麦飯が陸軍全体に行き渡っていた明治二十五年、陸軍の脚気死者は一人も出なかった。
ゼロである。
海軍も陸軍も、平時の兵営では脚気を消した。明治二十年代の日本は、原因を知らないまま、この病気に勝っていた。
なのに、その先で二万七千人が死ぬ。
ドイツから届いた一本の論文
筑波がチリからハワイへ向かって太平洋を横断していたころ、横浜から一人の二等軍医がドイツへ向けて出航している。
森林太郎。二十二歳。
文久二年、石見国津和野の代々典医の家に生まれた。入学年齢の上限が決まっていたので年齢を偽って十三歳で第一大学区医学校予科に入り、十九歳で東京大学医学部を卒業している。卒業席次は二十八人中八番。同期の他の学生より五歳から七歳年下でこの成績だから、相当に優秀だ。
留学の名目は陸軍衛生制度と衛生学の研究だが、実質的な任務がひとつあった。兵食の研究である。
石黒忠悳が後年、『懐旧九十年』でこう書いている。海軍で高木兼寛の主唱によりパンを主とする洋食が採用され、洋食と邦食の論議が非常にやかましくなった。しかし私は断じて洋食論に譲らなかった。我が国は建国以来、邦食で人口を増やして今日に至っている。改良するのは吝かではないが、どこが悪いのかをまず学問的に精査して、その成績によって徐々に改善すべきである。
しかも徴兵制度の下で、兵食を一般国民食とまったく違えるのは考えものだ。いざ大兵を挙げるときに食糧物資の調達で行き詰まる。パンの原料もその副食物も、今の現状ではとても困難である。そういう理由で洋食論に反対し、一方で兵食と我が国古来の食物との学問的研究のため、軍医森林太郎君にドイツ留学を命じた。
読むと分かるが、石黒の反対には合理的な部分も混じっていて、兵站の話だ。日本でパンと肉を大量調達できるのか、という疑問は、当時としてはまともな疑問だった。ただ、高木が明治十八年三月にはもう麦飯へ切り替えていることを、石黒は最後まで正面から見ようとしない。彼の頭の中で海軍の兵食改革は「洋食」のまま止まっている。
さて、ドイツの森だ。
留学中、石黒から脚気についての見解を再三催促されていた。そして森は、ライプチヒで「日本兵食論大意」を書いて石黒に送った。石黒はそれに賛辞の前書きをつけて医学誌に載せ、明治十九年一月の陸軍軍医学会で代読させている。より詳細な「日本兵食論」のほうは、当時世界的に権威のあった衛生学雑誌に全文ドイツ語で発表された。
内容を一行で言うと、日本食は悪くない、である。
米を主とした日本食は、調味よろしきを得るときは、人体を養い心力および体力を活発ならしめること、いささかも西洋食と異なることなし。
こう断言している。根拠は師のフランツ・ホフマンら欧州の大家の論説と、フォイトが定めた栄養価の標準値、そして日本で明治十五年ごろに出ていた国内論文だ。後の医学史家・山下政三の評価によれば、これらを種本にして書かれた「まったくの机上作」ということになる。
そして、この論文には決定的な一文が挟まっている。
米食と脚気の関係有無は余敢て説かず
脚気の話はしない、と宣言しているのだ。カッコ書きで注として入れてある。
これは教養人らしい用心深さでもある。自分は栄養価の話をしているのであって、脚気の原因論には踏み込まない、という切り分けだ。だが結果として何が起きたかというと、「日本食は栄養的に問題ない」という結論だけが独り歩きして、陸軍の白米主義を学問的に裏書きする文書として使われることになった。
論争すべき論点は「白米か麦飯か」だったのに、答えたのは「日本食か西洋食か」だった。問いのすり替えが、ここで起きている。
明治二十一年九月、森は帰国した。そして十一月、大日本私立衛生会で講演をする。演題が「非日本食論ハ将ニ其根拠ヲ失ハントス」。翌十二月にはそれを自費で単行本として出版した。
自費出版するくらいだから、内容にはよほど自信があったのだろう。
この講演の中に、有名な一節がある。
ローストビーフに飽くことを知らないイギリス流の偏屈学者のあとについて非日本食を唱えて、ある権力家の説をただちに認めて教義となし、この偽造の通則から根拠のない細則を作り
イギリス流の偏屈学者。名指しはしていないが、誰のことかは当時の誰にでも分かった。
同じ講演の中で森は、ドイツのショイベを引き合いに出してこう言っている。諸君、彼のショイベを見ずや。日本にいる時は日本人の食を調査し、ドイツに帰ってその説を公言して著名になった。ところが我が同胞人は同じ成果を一瞥し去って、みだりにローストビーフに飽くことを知らないイギリス流偏屈学者のきびすを踏んで日本食改善を唱えるにいたる。何ぞそれその行き方の雪と墨なるや。
権威あるドイツ人は日本食を評価しているのに、日本人が欧米に追従して日本食を貶めている。その態度の違いは雪と墨ほどだ、というわけだ。
ナショナリズムと、学問の権威と、個人的な反感が、ここで一本に撚り合わさっている。
森はもう一つ、非常に鋭い批判もしている。某国の某隊がある時期から米食を麦食に替えたところ、同時期から脚気患者が減少したという。ある者はこれを麦食の抗脚気作用によるもので米食こそ脚気の原因だと主張している。しかしこれは単に時期が偶然重なっただけかもしれないではないか、と。
前後関係は因果関係ではない。対照実験がない。統計にバイアスがある。
これは正論だ。実際、高木の研究法には森が指摘するような弱点があり、高木もそれには気づいていたらしい。
ただ、この正論には代償がついていた。正しい方法で証明されるまで、目の前で人が死んでいくのを止めない、という代償だ。
六人に八日ずつ食わせてみた試験
明治二十二年六月、陸軍医務局長・橋本綱常の名で陸軍兵食検査の上申書が出され、六月二十六日に陸軍大臣から裁可の達が出た。七月五日、試験委員に任命されたのが、陸軍一等軍医・森林太郎、陸軍二等薬剤官・大井玄洞、陸軍三等薬剤官・飯島信吉の三人だ。
明治二十二年八月から十二月にかけて、被験者六名に米食、麦食、洋食をそれぞれ八日間ずつ食べさせ、摂食量と排出量を調べた。
結果はこうだった。総熱量、蛋白補給能、体内活性度のすべてで米食が優秀。次が麦食。最も不良なのが洋食だ。
明治二十三年十月二十三日、医務局長に昇進していた石黒忠悳がこの『呈兵食試験報告表』を陸軍大臣・大山巌に提出し、この試験により米食が最も養価が高く利益が多いことは明らかである、と述べた。
この試験について、後世の評価は厳しい。被験者が三班各六名、実験日数が八日間。それだけでも統計的に何かを言える規模ではない。都合の悪いデータを統計から外し、数値を操作し、栄養をカロリー値だけの問題にすり替えた、と指摘する研究者もいる。
そして何より、この試験は脚気とは何の関係もない試験だった。カロリーと蛋白質の話しかしていないのだから、当然だ。
にもかかわらず、この結果は「米食が良い」という根拠として、以後ずっと引用され続けた。石黒はこれを麦飯を排斥する主張に使った。
日清戦争――戦死九百九十七人、脚気死四千六十四人
明治二十七年七月、日清戦争が始まったのである。
平時の兵営では、陸軍はもう麦飯だった。連隊ごとに経理部が麦を調達し、現場の裁量で米麦混食にしていた。だから脚気は抑えられていたのである。
だが戦時は違う。戦時になると大本営が設置され、食糧の調達も輸送も軍中央が決定して実施する。現場の裁量は消える。
明治二十七年七月三十一日、勅令で「戦時陸軍給与規則」が公布された。戦時兵食の基準は、一日に精米六合、つまり白米九百グラム。それに肉と魚を百五十グラム、野菜類百五十グラム、漬物類五十六グラム。
主食は、白米である。
しかも、この規則どおりに給食されることはなかった。軍の兵站能力が低すぎたからだ。特に緒戦の朝鮮半島では食料の現地調達と補給に苦しみ、平壌攻略戦では豆やアワで飢えをしのぐ状況にまでなった。副食は規定どおりに届かない。白米だけがかろうじて届く。
大本営陸軍部で野戦衛生長官を務めた石黒忠悳は、後に『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』の中で、主食さえ食えば栄養は十分だという趣旨を述べている。米飯を過信し、副食を軽視する。その考えがそのまま兵の口に入るものを決めた。
黄海海戦の後、明治二十七年十月下旬から遼東半島に上陸した第二軍の一部で脚気患者が出はじめた。夏に脚気が多発することは経験的に分かっている。事態を憂慮した第二軍軍医部長・土岐頼徳が、明治二十八年二月十五日に麦飯給与の稟議を提出した。
その稟議の顛末が、記録にはこう書かれている。
稟議は施行せらるる筈なりしも、新作戦上海運すこぶる頻繁なる等、種々の困難陸続発起し、ついに実行の運に至らさりしは、最も遺憾とする所なり
結局、麦飯は給与されなかった。山下政三は、土岐が第二軍兵站部軍医部長であった森林太郎に相談して反対された、と推測している。もっとも制度上、戦時兵食を変更する権限は野戦衛生長官、つまり石黒にあり、土岐のような軍の軍医部長にその権限はなかった。
そして下関条約の調印後、台湾征服戦争が始まる。
ここが最悪だった。台湾は暑い。脚気が発生しやすい気温だ。そのうえ日清戦争と違って補給が順調で、内地から白米が潤沢に届いた。副食は貧弱なままで。
皮肉というのは、こういうことを言うのだと思う。補給がうまくいったせいで、兵が死んだ。
数字を出す。『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、日清戦争とその後の台湾平定を合わせて、陸軍の脚気患者数は四万千四百三十一人。脚気以外を含む総患者数が二十八万四千五百二十六人だから、入院患者の約四分の一が脚気だ。脚気による死亡者は四千六十四人。内訳は朝鮮百四十二人、清国千五百六十五人、台湾二千百四人、内地二百五十三人。
そして戦死者は、九百九十七人である。
戦闘で死んだ兵の四倍が、飯のせいで死んだ。
台湾だけを取り出すと数字はさらにおかしくなる。わずか十か月で脚気患者二万千八十七人、発生率百七・七パーセント、死亡率九・九八パーセント。発生率が百パーセントを超えているのは、延べ人数で数えているからで、つまり一人が二度罹っている計算になる。そして脚気患者の十人に一人が死んでいる。
公式記録の筆はこう書いている。
古今東西ノ戦役記録中殆ト其ノ類例ヲ見サル
自分たちで書いていて、類例を見ないと認めている。
この台湾総督府陸軍局軍医部長を、明治二十八年八月から務めたのが森林太郎だ。在任は三か月余り。そして九月に更迭される。後任は石黒に次ぐ序列第二位の石阪惟寛。その石阪も五か月で更迭され、明治二十九年一月十六日に序列第三位の土岐頼徳が着任した。
記録上、脚気患者数が跳ね上がるのは森の在任期間の後だ。この意味するところは、想像がつく。集計の仕方が変わったか、報告の仕方が変わったか、あるいは病気そのものが夏に向けて増えたか。どれもありうる。
土岐は着任すると、上官である石黒の指示を無視して、独断で全台湾軍への麦飯給与を命じた。
石黒は激怒した。ただし表沙汰にすると医務局内の統率責任を問われかねないので、穏便に撤回させようとしたのである。麦飯に代えることの禁止、麦飯の有効性は学問的に認められていないこと等を記した訓示を発令している。
土岐は明治二十九年三月二十六日付けで真っ向から反論した。麦飯を用いた結果として脚気が減った事実を論証したうえで、こう書いている。
小人が言葉巧みに貴官に勧めたせいではないのか
小人、というのは相当な言葉だ。誰を指しているかも、まあ、想像はつく。
新聞紙上の戦争
この件は新聞沙汰になった。
明治二十八年九月六日付けの『時事新報』に、石黒の談話文が載った。脚気をせん滅するのは、はなはだ困難である、という内容だ。
これに噛みついたのが海軍軍医の石神亨であり、九月十八日付けの同紙で、石黒を批判した。さらに十一月三日と五日付けで、海軍軍医の斎藤有記が陸軍衛生当局を批判した。両名とも、麦飯を給与しない陸軍の衛生当局を厳しく攻撃している。
海軍が公の場で陸軍を名指しで非難したのは、これが初めてだった。福沢諭吉が発行する『時事新報』という舞台を選んだあたりも、なかなか生々しい。
陸軍側の反論が、これまた常軌を逸していて、匿名を使って、こう書いた。
医学のことに於いては、我々の最も信用を置き候東京大学にて脚気には一方ならず研究なられ候えども「いまだ一定の病原・病理相分からず」と申され候に、石神様はその病原・病理をご発見に在りなされ候ことに御座候や。かつその発見は現今世界の学者仲間にて承認を得られたものに候や。
何によらず病を予防し病を治するには、病原・病理を明らかにせずでは、真に予防し得たるやを確言し難く、病原病理を究めずしてその予防治療を論ずるは大早計なるよう申す者もこれあり候由
丁寧語なのが余計に嫌味だ。要するに、東京大学が分からないと言っているものを、お前ごときが分かったつもりか、と言っている。
そして十一月二十三日付けの『東京医事新誌』で、高田亀という匿名の陸軍軍医が学理上の疑問点を並べて反論すると、石神も斎藤も黙った。ビタミンを知らない当時の栄養学と臨床医学では、なぜ麦飯が効くのかを説明できなかったからだ。
明治二十九年四月九日と十二日、『時事新報』は台湾の医務局批判を続けた。石黒は四月十八日の同紙に「石黒軍医総監の兵食談」を載せて自己弁論をする。そこにこう書いている。
米飯だと脚気になるという学説はいまだ学会に是認されていない。軍隊で支給するものは学会で公認したものでなければ改められない。臆説で軽々しく改めるわけにはいかない。森軍医監が真正な方法で行った兵食試験の結果、米飯が最も養兵に適することが分かっている。米飯に何の害があるのか。
米飯に比べて消化に悪く腐りやすい麦飯に何の益があるのか。これを学問上実験上確定しなければ、貴重な我が国軍隊の食料は変更できない。
学会が認めていないから変えられない。
この一文が、二万七千人の死に直結していく。
そしてこの騒動の後始末が、また救われない。二代目の台湾総督府陸軍局軍医部長だった石阪惟寛は明治二十九年五月四日付けで休職。土岐頼徳は罷免の日付すら資料上はっきりせず、五月十日に帰京したことが確認されるだけで、すぐ休職扱いになった。台湾兵站軍医部長の伍堂卓爾も休職。
以後、台湾からの報告から脚気の項目が外される。石黒が編纂委員長を務めた『陸軍衛生事蹟』には、土岐の台湾勤務の記載すらない。土岐の後に兵站軍医部長を務めた藤田嗣章の記録には、「石阪台湾総督府陸軍軍医部長の後任は暫く欠員で、私が前職のまま部長職を代行した」と書かれている。
麦飯を配って脚気を止めた男が、記録から消された。
石黒忠悳の本音
石黒忠悳が、なぜあそこまで麦飯を拒んだのか。本人の言葉が残っている。大正二年六月に出た『陸軍衛生制度史』に寄せた「陸軍衛生部旧事談」だ。長いが、これは丸ごと引く価値がある。
当局者は、其麦飯説に賛成して、兵隊には一般に麦飯を給す、米飯を給することは禁止だという事に賛成同意して置けば、別に心配はいらぬ、唯兵隊にまづい飯を食はせるという迄で、もしもそれで脚気が澤山ある時は、麦飯迄食はせたけれども、如此多いから仕方がないというて居れば楽だ、
併し医学を以て職に置かるる衛生官たる者の身になると、そう容易には定めされぬ、なぜとなれば、米は必ず脚気を発する毒物だという事は、どうも容易に決定されぬ。
国民の常食たる米食を止めさせて、専ら麦食をさすという命令を、しかも衛生官の建議として、殊更脚気予防の為とて発するには、確たる学理上の基礎に担らなければならぬ
読める。読めてしまう。
麦飯にしておけば自分は楽だ、と石黒は分かっていて、効かなくても言い訳が立つ、とも分かっている。それでも、学理上の根拠なしに国民の常食を変える命令は出せない、と言う。
これは、ある種の職業倫理ではある。科学者の良心と言ってもいい。根拠のないことを国家の命令にしてはいけない、という感覚は、いまでも正しい。
問題は、その良心の勘定に、死ぬ兵の数が入っていないことだ。
彼が天秤にかけたのは「学理上の根拠」と「自分が楽をすること」の二つだった。「いま目の前で死んでいる兵」は、その天秤に乗っていない。
石黒にはもう一つ、感情的な理由もあった。もともと麦飯論は漢方医の遠田澄庵の処方から来ている。明治初期、陸軍に脚気が出はじめた頃、漢方医流の人々がこう攻撃してきた。脚気は和漢固有の病で西洋にはないから、西洋医に治療が分かる道理がない、だから軍隊で多発しても治せない、脚気を防ぐには漢方医を軍医に用いなくてはならない、と。建白を出し、議論をふっかけてきた。
西洋医学で日本を近代化しようとしていた石黒にとって、これは絶対に負けられない戦いだった。麦飯を認めることは、漢方医に頭を下げることに見えたのである。
医学の問題が、いつのまにか組織防衛の問題にすり替わっている。
日露戦争――二十五万人が倒れ、二万七千人が死んだ
明治三十七年二月、日露戦争が始まった。
十年前の教訓は、活かされなかった。大本営陸軍部はまたしても戦時兵食の主食を白米飯、一日白米六合と定めたのである。
面白いのは、このとき陸軍大臣が寺内正毅だったことだ。寺内は麦飯派である。しかも本人が長年脚気を患い、麦飯で治った経験の持ち主だった。第一軍軍医部長の谷口謙が麦飯給与を意見具申し、野戦衛生長官の小池正直がそれに賛同して大本営会議に麦飯を提議もした。
それでも通らなかったのである。
反対理由を並べておく。麦は虫がつきやすい。変敗しやすい。味が悪い。輸送が困難。
戦地で主食を複雑にするのは実施上の困難が多い。
そして、もっと生々しい事情もあった。麦の取り合いだ。
陸軍は戦時馬糧として軍馬一頭あたり一日に大麦五升を規定していた。軍馬の数は、明治三十七年一月の平時で三万頭。それが明治三十八年八月には十七万二千頭になっている。馬が食う大麦の需要が爆発した。ところが当時の大麦は農民が自家消費する食糧であって、大量集荷の市場が存在しない。
陸軍糧秣廠長は麦の買い上げを命じられたが、市場が無いのだから不可能だと具申している。結局、行政機構を通じて農民から供出させる仕組みを、明治三十七年八月に関東府県で、九月に関西と中部で作り上げた。減った分の食糧を補うため、その年は米の輸入が急増している。明治三十五年まで年二百万石以下だった輸入が、三十七年には五百八十九万石だ。
兵と馬が、麦を取り合っていた。そして馬が勝った。
輸送そのものの限界もある。開戦当初の輸送能力では、兵員と兵器と弾薬を送るのが精一杯で、食糧は必要最低限の白米を送るのがやっとだった。
そして、理屈ではない部分がある。
白米飯は庶民憧れのご馳走で、麦飯は貧民の食事として蔑まれていた。死地へ送る兵士には白い飯を腹いっぱい食わせてやりたい、という心情が、上から下まであった。
これが一番、根が深い。
戦地で脚気が増えはじめたのは明治三十七年五月ごろ。気温の上昇とともに、猛烈な勢いで増えた。八月には脚気患者が一万六千名を数えている。
当時の献立を見ると、そりゃそうなるとしか言えない。明治三十七年八月の第一師団第二野戦病院の一週間の記録がある。病人に出す入院食である。
朝はワカメの味噌汁、梅干一個、味噌漬大根、福神漬け、ネギの味噌汁、大根漬け、かんぴょうの味噌汁。汁があるときは漬物がつかない。昼はかんぴょう、干鱈、切り昆布の煮付け、麩、ネギの煮付け、芋、缶詰の鮭、切干大根と牛肉の煮付け。夜は麩の煮付け、かんぴょうの煮付け、牛肉とネギの煮付け、卵、煮干し。ほかに鰹節。
これで一週間のメニューが全部だ。滋養を旨とした患者の入院食が、これである。
野戦の兵の食事はもっとひどい。ある兵士の日記にこうある。五分ばかりの奈良漬が朝食のおかず。昼は干したエビが少々。夜は千切り大根と牛肉缶詰を煮たもの少し。
翌日は梅干二個が朝食、昼は千切り大根に牛肉三十グラム、夜も昼と同じ。三日目はたくあん一切れで朝食、昼は卵一個と千切り大根、夜は馬鈴薯に千切り大根。
これに白米が六合つく。ビタミンB1の供給源がどこにも無い。
そのうえ日露戦争では、初めて兵士一人ひとりにアルミの飯盒が支給された。これで炊事班による集団炊事ではなく、塹壕の中でも各自が飯を炊いて食えるようになった。機動性は上がったのである。だが同時に、白飯にたくあん二切れ、という食事の個人化と副食の軽視をさらに進める要因にもなった。
戦地から後送されてくる傷病兵に脚気患者があまりにも多く、口伝えに戦地の惨状が内地に知れはじめる。世論は「陸軍は脚気防止の努力を怠っているのではないか」と騒ぎ出した。
明治三十七年十一月、陸軍は記者を集めて弁明会見を開く羽目になる。努力はしているので「父兄たるもの安心して」ほしい、と。
その一方で、野戦衛生長官の小池正直は各師団軍医部長に電報を打った。浮腫や自覚症状だけで「軽々シク脚気ノ病名ヲ下シ」てはならない、と。
病気を減らすのではなく、病名を減らす方向の指示である。
九月になってようやく、現地部隊からの要請を容れて一部に麦が輸送されはじめた。だが前線に届くのはさらに数か月先だ。五月に一万石の挽割麦を送ったという経理長官部の記録もあるが、その大半は変敗したという。
寺内正毅陸軍大臣が「出征部隊麦飯喫食ノ訓令」を正式に通達したのは、翌明治三十八年三月十日。奉天会戦の後である。内容は精米四合と挽割麦二合。
効果はあった。明治三十七年八月に一万六千名だった患者は、一部への麦飯支給で年末には約七千名に減り、訓令後の明治三十八年六月には三千名余りまで落ちた。
だが、止まりはしなかったのである。その年の夏の最盛期には再び六千名が後送されている。米四合に麦二合、つまり麦の比率三割では足りなかったのだ。現在の栄養学で計算すると、この組み合わせのビタミンB1量は兵士には明らかに不足だという。副食が貧弱すぎたことが、最後まで効いていた。
最終的な数字を並べる。
陸軍省編『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』第二巻統計と、陸軍一等軍医正・西村文雄編著『軍医の観たる日露戦争』によれば、国外での動員兵数九十九万九千八百六十八人。戦死四万六千四百二十三人、戦傷十五万三千六百二十三人、戦地入院二十五万千百八十五人。戦地入院のうち脚気が十一万七百五十一人、在隊の脚気患者が概数十四万九百三十一人だ。合わせて戦地で二十五万人強の脚気患者が発生した。
脚気の死亡が五千七百十一人、事故が二万千七百五十七人。この合計の二万七千四百六十八人が脚気死亡者とみられている。
別の史料、『医海時報』明治四十一年十月号に依拠する集計だと、全傷病者三十五万二千七百余人のうち脚気患者は内輪にみて二十一万千六百余人、他病に算入されたものを含めれば少なくとも二十五万人。戦病死者三万七千二百余人のうち脚気による死亡者は二万七千八百余人で、病死者の約七十五パーセントを占める。
日露戦争の参戦総兵員はおよそ百八万八千人。屍の山を築いたといわれる旅順戦を含めて、戦闘による死者の総数がおよそ四万六千四百人。
銃弾と砲弾で死んだ日本兵より、飯で死んだ日本兵のほうが多い、とまでは言えない。だが、同じ桁の数が飯で死んだ。それは動かない。
では海軍はどうだったか。
日清戦争で海軍の脚気患者は三十四名、死亡ゼロ。日露戦争で脚気患者八十七名、死亡三名。
そして、森林太郎がかつて要求した「厳密な対照実験」は、皮肉なことに、この戦争で実現してしまった。
旅順港の包囲戦だ。ここでは陸軍と海軍の兵が、まったく同じ土地で、同じ気候の中で、同じように戦っていた。違うのは食事だけ。陸軍は米食、海軍は麦飯。
結果は、米食の陸軍兵から脚気患者が激発し、麦飯の海軍兵からは一人も出なかった。
高木は後年、母校のセント・トーマス病院医学校での講演でこの話をしている。森が求めた実験の条件が揃ったとき、答えは一つしか出なかった。
廃屋の陰で死んだ「一兵卒」
数字ばかり並べてきたので、一人の死に方の話をする。
田山花袋は、日露戦争に記者として従軍している。遼陽会戦の直前まで、およそ半年。その記録を『第二軍従征日記』として明治三十八年一月、旅順陥落の直後に刊行した。
その本の中に、脚気の話は一行も出てこない。
戦地であれだけの脚気が出ていて、目撃していないはずがない。書けなかったのだろう。書いても検閲で削られただろう。
だが戦後、陸軍の脚気蔓延の責任を追及する世論が起きると、花袋は続けて二つの短編を発表した。明治四十年一月の「隣室」、そして明治四十一年一月の「一兵卒」だ。どちらも脚気による苦悶死を題材にしている。
「一兵卒」の主人公は脚気で入院していた兵だ。軍医が「後が大切だ」とあれほど止めたのに、彼は病院を出る。行軍していく部隊の後を追うためだ。
冒頭の描写がこうなっている。
渠は歩き出した。銃が重い、背嚢が重い、脚が重い、アルミニューム製の金椀が腰の剣に当ってカタカタと鳴る。其音が興奮した神経を夥しく刺戟するので、幾度かそれを直して見たが、何うしても鳴る、カタカタと鳴る。もう厭になって了った。
病気は本当に治ったので無いから、息が非常に切れる。全身には悪熱悪寒が絶えず往来する。頭脳が火のように熱して、顳が烈しい脈を打つ。何故、病院を出た。軍医が後が大切だと言ってあれほど留めたのに、何故病院を出た。
かう思ったが、渠はそれを悔いはしなかったのである。
そして彼は力尽きて、廃屋の陰に倒れる。
床近く蟋蟀が鳴いて居た。苦痛に悶えながら、ああ、蟋蟀が鳴いて居る、とかれは思った。其の哀切な虫の調が何だか全身に沁み入るように覚えたのである。
疼痛、疼痛、かれは更に輾転反側した。
苦しい、苦しい、苦しい。
続けざまにけたたましく叫んだ。
苦しい、誰か、誰か居らんか。
と暫くしてまた叫んだ。
黎明に兵站部の軍医が来た。けれど其の一時間前に、渠は既に死んで居た。
そして小説はこう終わる。暫くして砲声が盛に聞え出した。九月一日の遼陽攻撃は始まった。
脚気衝心である。前線にたどり着くことすらできずに、廃屋の陰で心臓が止まった。そして戦闘は、その男のことなど一秒も気にせずに始まる。
花袋が見たのは、こういう死だったのだろう。二十五万の患者と二万七千の死者という数字は、この死に方の二万七千回分だ。
なお、日露戦争期には脚気と赤痢の関係も軍医たちを悩ませている。当時の論文を読むと、赤痢患者に脚気が続発しやすいこと、赤痢の重症で死ぬ直前の状態と脚気衝心の症状が驚くほど似ていることが繰り返し報告されている。心音が奔馬調になり、呼吸困難、全身倦怠、尿閉を訴えて煩悶する。書き手は、この二つは同じ死に方ではないのかと疑いながら、答えにたどり着けずに終わる。
原因を掴んでいないと、目の前の現象がいくらでも別々のものに見えてしまう。
責任者が委員長になる、という仕掛け
戦後、批判は激しくなった。
東京帝国大学医科大学教授の山極勝三郎が、明治三十八年一月一日の『医海時報』に「脚気調査会」という一文を書き、国家事業として早急に脚気調査会を設立すべきだと主張した。衆議院議員で医師の山根正次が脚気病調査会設立建議案を議会に出し、明治三十八年二月二十五日に審議されて賛成多数で通過したのである。
だが、立ち消えになる。予算が組まれ、内務省の検討も終わり、大蔵省も同意して、あとは内閣と議会を通すだけ、というところまで来て消えた。日露戦争の莫大な出費による財政難が最大の理由とされる。
再び動き出したのは明治四十年だ。『医海時報』が「脚気病調査会の組織及方法」について懸賞論文を募集し、世論を作った。そして陸軍省で、医務局長に就任してまもない森林太郎の発案により、設立へ向けて動き出す。陸軍大臣の寺内正毅も熱心に動いた。
明治四十一年五月三十日、勅令第百三十九号「臨時脚気病調査会官制」が公布。七月四日、陸軍大臣官邸で発足式が行われた。文部省と内務省から横槍が入ったが、結局、陸軍大臣の監督する国家機関として設立された。
そして、官制の第二条で、会長は陸軍省医務局長が務めると定められたのである。
つまり、森林太郎が会長になった。
議会で陸軍の責任を追及する声から生まれた調査会の長に、頑として麦飯給与を否定してきた当事者が座る。
発足時の構成は、会長の森、幹事の大西亀次郎、委員十七名、臨時委員二名の計二十一名。委員の所属を見ると、伝染病研究所が三名、陸軍軍医が六名、海軍軍医が二名、東京帝大が三名、京都帝大が一名、医師が二名。臨時委員は東京帝国大学医科大学長の青山胤通と、伝染病研究所長の北里柴三郎だ。
大半が東大出身者で、陸軍関係者が多い。そして、栄養学の研究者が一人もいない。調査の予定項目にも栄養に関する調査は入っていなかった。
結果がどうなるかは、名簿を見た時点でだいたい分かる。
発足式の直前、明治四十一年六月二十二日、森と青山と北里の三人は、来日中のロベルト・コッホと面会して意見を求めている。コッホは脚気に詳しくないと前置きしたうえで、シンガポールやスマトラで流行するベリベリが伝染性だから、それと日本の脚気を比較研究するとよい、と助言した。
細菌学の神様が伝染性だと言った。調査会は早速、バタビア付近の現地調査を決める。
明治四十一年九月二十七日から十一月二十八日まで、都築甚之助、宮本叔、柴山五郎作の三委員が現地に滞在した。
ところが、彼らが見たものは予想と違った。
現地では明治三十年ごろにはもう白米がベリベリの原因だと確定していたのである。白米をやめて熟米や緑豆を食べさせた結果、一般のベリベリは減り、アチェ戦争の終結もあって軍隊のベリベリも減っている。入院患者がほとんどいなかったのだ。
それでも病理解剖をして、現地のベリベリと日本の脚気が同じものであることは確認した。伝染病説の証拠は何も見つからなかった。
だが調査報告は、現地研究者の白米原因説を否認する、歯切れの悪い曖昧な結論になったのである。帰国後、宮本と柴山は伝染病説を固持し続けている。
ただ一人、都築甚之助だけが転向した。
都築は帰国後、オランダの衛生学者クリスティアーン・エイクマンの動物実験の追試を始める。白米で飼育した鶏が脚気様の症状を起こし、玄米、熟米、焼米、麦で飼育すると発症せず、白米に糠や麦や赤小豆を混ぜると予防できることを確認した。明治四十三年三月の調査会と四月の日本医学会で「脚気ノ動物試験第一回報告」を発表し、米糠の有効成分の研究に進んでいることも公表した。
調査会の附属研究室で、都築と志賀潔は三百九十九名の脚気患者に米糠製剤を試したのである。服用者の五十八・六パーセントが治癒ないし軽快した。ただちに効果ありと判定できる数値ではなかった。
そして明治四十三年十二月九日、都築は調査会を去る。
経緯には二説ある。山下政三は「辞任」と書いている。だが都築の伝記には「免職」の経緯が書かれている。本人の知らないうちに、脚気薬「糠精」の広告に都築が実験証明したと書かれてしまい、都築をよく思わない委員から、効力不明の売薬に有効証明をするとは何事かと非難され、陸軍省へも抗議が行き、委員を免職になったというのだ。
都築が去ると、米糠の有効性を信じる委員はいなくなり、調査会での効否試験は一年で終了した。
都築自身は諦めなかった。明治四十四年四月、東京医学会総会で「脚気ノ動物試験第二回報告」を発表し、糠から抽出した有効成分を「アンチベリベリン」と名付けて、人の脚気に効果があったと報告したのである。実際に脚気患者の治療試験をやったという点で、これは世界に先行した仕事だった。さらに都築は、脚気は主食だけの問題ではなく副食の質と量が大きく関係することも指摘している。
これは今日の医学でもそのまま通用する見解だ。
面白いのは、このとき都築はもう委員ではないのに、森委員長の配慮で調査会でも発表させてもらっていることだ。報告の冒頭で、都築は森への感謝を述べている。
森という人は、こういうところがある。単純な悪役として描くと、必ずどこかが合わなくなる。
都築は明治四十四年四月からアンチベリベリンの販売を始めた。粗製剤ではあったが評判は高く、純粋なビタミンB1製剤が登場する昭和の初めまでよく売れ、多くの患者を救っている。
オリザニンという名前は、なぜ世界に残らなかったのか
同じころ、医学の外側から答えに手が届いた男がいる。
鈴木梅太郎。明治七年に静岡県で生まれ、東京帝国大学農科大学農芸化学科を出て、スイスとドイツに留学して有機化学を学んだ。医者ではない。農芸化学者だ。
彼もエイクマンの追試をやった。ニワトリとハトを白米で飼育すると脚気同様の症状が出て死ぬこと、糠と麦と玄米にはその症状を予防し回復させる成分があること、白米にはいろいろな成分が欠乏していることを確かめた。
明治四十三年六月十四日、東京化学会で「白米の食品としての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究」と題して報告。同年、臨時脚気病調査会でも発表している。
そして化学抽出に進んだ。結晶にまでは至らなかったが、糠のアルコールエキスから有効成分を濃縮して樹脂状の塊として取り出すことに成功する。これを仮に「アベリ酸」と命名した。
明治四十三年十二月十三日の東京化学会常会で第一報を報告。翌明治四十四年一月の東京化学会誌に「糠中の一有効成分に就て」として論文が掲載された。同年、「米糠中の一成分アベリ酸の製法」として特許第二〇七八五号も取得している。後に、米の学名オリザ・サティバにちなんで「オリザニン」と改名した。
この第一報が効いているのは、抗脚気因子の話で終わっていないところだ。鈴木はこの成分について、人と動物の生存に不可欠な未知の栄養素である、と強調している。つまり、後にビタミンと呼ばれる概念を、この時点ではっきり提示していた。
ほぼ同じ頃、イギリスのリスター研究所にいたポーランド人のカシミール・フンクが、糠と酵母から同様の有効成分を抽出し、「ビタミン」と命名した。明治四十五年、つまり一九一二年六月のことだ。
先に発表したのは鈴木である。だが世界に残ったのはフンクの名前だった。
理由はいくつかある。鈴木の第一報が日本文のみで発表されたこと。国際学会への発表がフンクより遅れたこと。鈴木がドイツ生化学誌に発表するのは一九一二年で、その大論文は六十五ページに及ぶ立派なものだった。だが、タイミングとしては一手遅い。
そしてフンクは一九一四年に単行本『ビタミン』を出版し、これがイギリスの医学雑誌で紹介されて世界に広まった。
論文ではなく本が、言葉を定着させた。
もう一つ、鈴木の言葉としてよく引かれる不運がある。ドイツ語訳の際に「これは新しい栄養素である」という趣旨の一行が訳出されなかった、という話だ。
ただ、鈴木の本当の不運は、国内にあった。
彼自身が後年、回顧録に書いている。読むと、笑っていいのか怒っていいのか分からなくなる。
最初、泉橋病院の若い医学士にオリザニンを送って試験を依頼した。一か月ほど経って返ってきた返事はこうだった。一人の労働者に試したところ、その患者は三日ばかりで軽快したと言って、その後は来なかったのである。もう一人は余程の重症だったが、数日の服用で非常に軽快に赴いたと言い、まだ症状が充分消失しないうちに退院してしまった。
多分オリザニンが効いたのだと思うが、しかし脚気は他の療法でも癒るから、これが特効薬だとは言えない。もっと継続して試験することは主任の先生が許さないから、これでお断りする。
次に同郷の開業医に頼んだら、断りの手紙が来た。
鈴木は書いている。そんな譯で、甚だ信用がなくて閉口した。
さらに、こういう話もある。東京化学会で鈴木が「オリザニンは脚気に効くだろう」と述べたことを、当時の医界の大立者だった某博士が伝え聞いて、ある新聞記者にこう話したという。
鈴木が脚気に糠が効くと云ったさうだが、馬鹿げた話だ、鰯の頭も信心からだ、糠で脚気が癒るなら、小便を飲んでも癒る
その後、鈴木がその博士に会ったとき、博士は本人に向かってこう言った。君が脚気の原因を見付けたということを人から聞いたが、それは嘘だらうと云ってやった、と。
鈴木が医者でも薬学者でもないから、脚気などが分かるものかと思われたのだろう、と鈴木は書いている。
一方で、効いた話は山ほどあった。
青山の農業大学へ教えに行く途中、一人の学生が別の学生の肩につかまって歩いているのを見た。どうしたのかと聞くと、脚気で動けないが今日は試験があるから助けて連れてきた、という。鈴木はすぐに三共からオリザニンを二瓶取り寄せてやった。二、三日後、その学生が下宿から一里余りを歩いて礼に来た。歩き方も普通の人と同じだったのである。
一瓶で治ったから残りの一瓶は大切に保存しておく、と言っていたという。
郷里の青年が脚気になり、国へ帰る汽車の中で衝心を起こして小田原の病院に運ばれ、危篤だという電報が来たこともあった。鈴木はオリザニンを二瓶持たせて、院長と相談のうえ服用させてくれと頼んだ。二、三日ですっかり軽快し、一週間ほどで国へ帰った。患者本人は意外の効果に驚いて感謝の手紙を寄越したが、院長は鈴木の薬が効いたとは言わなかった。
鈴木の実験室の研究生が理髪店に行ったとき、奥で大騒ぎしているので理由を聞くと、主人が脚気衝心を起こして悶え苦しんでいるという。研究生はちょうどポケットにオリザニンを入れていたので、これは脚気に良い薬だと言って一瓶の半分を服用させた。三十分ほどで、あれほど苦悶していた病人がけろりと平静になった。翌日までに全部服用させたら全快したのである。
こういう報告を、鈴木はたくさん集めていた。だが発表できなかった。
自分が医者でないから、発表する事が出来なかったのである。
そう書いている。
医学の外の人間が正解を持ってきても、医学の側がそれを受け取る回路を持っていなかった。それだけの話だ。
なお、鈴木は一九一四年、ゲッティンゲン大学薬理学教授ホイブナーによって、フンクとエイクマンとともにノーベル生理学・医学賞の候補に推薦されている。受賞はしていない。一九二九年、ノーベル賞はエイクマンとフレデリック・ホプキンズに与えられた。
日本でオリザニンの価値がようやく認められたのは、大正八年である。島薗順次郎が、鈴木の製法で自ら強力なオリザニンを作り、多数の脚気患者に試験して、衝心性の重症患者にも効果を出した。脚気の主原因はビタミンB欠乏であると断定したのは、この時だ。
鈴木が第一報を出してから、九年が経っていた。
「君も麦飯迷信者の一人か」
この話には、当事者たちの言葉が意外なほどよく残っている。いくつか並べておきたい。
まず森林太郎が医務局に入ったときのやりとりだ。
ハア、君も麦飯迷信者の一人か、之は学問上同意が出来かねる。僕が医務局に入つたとき、君が医務局長になつたからと云つて脚気予防に麦飯が必要だなどゝいふ俗論にマサカ化せられはしないね、と青山君までがさう云つたよ。僕もまだそこまで俗化してはゐないよ。
麦飯迷信者。俗論。俗化だ。
ここに出てくる青山君は、東京帝国大学医科大学長の青山胤通だ。彼は脚気は細菌による感染症だという緒方正規の説を死ぬまで主張し、食事によるものだと認めなかった。学長を十六年務めて、日本の医学界に睨みを利かせた人物である。
つまりこれは、日本の医学界の最高権威が、医務局長就任者に対して「まさか麦飯などという俗論に染まってはいまいな」と釘を刺した、という会話だ。
もう一つ。臨時脚気病調査会の第一回会合での、陸軍大臣・寺内正毅の挨拶がある。
寺内はここで、自分が長年脚気を患い麦飯で治った経験があること、陸軍への麦飯導入を石黒に激しく反対されたことを披瀝したうえで、こう言った。
当時は此席に居らるゝ森局長の如きも亦石黒説賛成者にして余を詰問せられし一人なりし
日清戦争のとき、通信輸送長官だった自分が麦を送ろうと主張したら、いまここに座っている森局長も石黒説の賛成者として私を詰問した一人だった、と。
調査会の発足式である。大臣が、新任の会長に向かって、公の場でこれを言った。
三つめ。高木兼寛が、筑波の結果が出なかった場合をどうするつもりだったかと問われたときの言葉を、もう一度書いておく。
その時は切腹してお詫びする覚悟であった。
三つの言葉を並べると、この論争の質が見えてくる。片方には「学問上同意が出来かねる」があり、もう片方には「切腹して詫びる」がある。どちらも本気だ。そして、どちらも科学ではない。
森林太郎を、悪役ではなく構造として見る
森鴎外を単独犯にするのは、たぶん間違っている。
まず事実関係を整理する。日清戦争のとき森は第二軍兵站軍医部長、のちに軍医部長。医務局長で野戦衛生長官だったのは石黒忠悳だ。台湾では総督府陸軍局軍医部長を務めたが在任は三か月余り。日露戦争のときは第二軍軍医部長で、陸軍全体の兵食を決める権限は持っていない。
医務局長は小池正直だった。森が陸軍軍医総監、陸軍省医務局長になるのは明治四十年十月。戦争が終わった後だ。
麦飯排斥を制度として動かしていた中心は、一貫して石黒である。石黒は森が陸軍に入る前から『脚気論』で細菌説を唱え、麦飯を否定していた。森の「日本兵食論大意」は石黒に送られ、石黒がそれを賛辞つきで公表した。つまり森は、石黒の思想を裏書きする学問的権威として使われた面がある。
一方で、森が自分から動いた部分も確実にある。帰国直後の講演で高木を名指しに近い形で攻撃したのは彼の意志だ。明治三十四年に「脚気減少は果して麦を以て米に代へたるに因する乎」という論説を衛生関係の七つの雑誌に掲載し、麦飯の効果を疑わせようとしたのも彼だ。この論説では台湾のデータを除外するなど、統計の扱いに問題があると指摘されている。
日露戦争の出征直前、広島で第一師団軍医部長の鶴田禎次郎が第三師団軍医部長の横井俊蔵と連れ立って麦飯給与を勧めに来たとき、直属上官である森の反応は、鶴田の従軍日誌によれば「返事なし」だった。
森が持っていたのは、いま読むとかなり近代的な科学観だ。因果関係は対照実験で示せ。前後関係を因果と取り違えるな。機序の分からない処方を国家の命令にするな。
この科学観は正しい。正しいのだが、この正しさには前提がある。研究をやっている当人が、判断の遅れによって死ぬ人間のコストを、ちゃんと勘定に入れていることだ。
森と石黒の判断には、その勘定が無い。厳密さを保つことのコストを、彼らは払っていない。払ったのは兵だ。
もう一つ。森には自分の説を検証する機会が何度もあった。エイクマンの鶏の実験も、バタビアの報告も、堀内の大阪鎮台の数字も、海軍の数字も、全部目の前にあった。細菌説が正しいなら、脚気菌を見つければいい。彼はそれをやっていない。
自分でやったのは六人に八日ずつ飯を食わせた兵食試験だけだ。
森のやったことを一言でまとめるなら、反証の提出ではなく、反論の提出だった。
そしてもう一つ、彼の名誉のために書いておくべきこともある。
臨時脚気病調査会を作るために動いたのは森だ。これは事実だ。文部省と内務省の横槍を押し返して国家機関として発足させ、当代一流の研究者を集めて官費を分与し、十六年間にわたって研究させた。個人レベルの細々とした研究では、脚気の原因解明はもっと遅れていたかもしれない。委員でなくなった都築甚之助に調査会で発表させたのも彼の配慮だ。
森は大正五年四月に医務局長を辞任して予備役になるまで会長を務め、その後は臨時委員として大正十一年七月に没するまで関わり続けた。最後に出席した大正十年十月二十八日の第二十五回総会は、報告の大部分がビタミンBに関する研究だった。
自分の説が完全に否定されていく場に、彼は最後まで座り続けたのである。
調査会への評価は、いまも真っ二つだ。国家的大研究事業だったと評する者もいれば、その十六年間の活動は栄養障害説の承認を遅らせるためだけにあったようなものだと評する者もいる。慈恵医大の松田誠は「この調査会には、はじめから脚気の本当の病因を追及する意欲も能力もなかった」と書いている。
どちらも、たぶん当たっている。
なぜ二十数年もかかったのか
答えが分かっている対処法が、二十年以上採用されなかった。その理由を構造として並べてみる。
第一に、「効く」と「分かる」を同じものだと考える癖があった。
高木も堀内も、効く方法は掴んだが、なぜ効くかは説明できなかった。石黒と森は、なぜ効くかが分からない方法は採用できないと考えたのである。ここで対立が起きた。
だが、この二つは本来、別々の問題だ。機序が分からなくても効果が再現するなら、使いながら機序を調べればいい。壊血病の柑橘類がそうだった。原因物質が分からないまま、何百年も船乗りを救っている。
第二に、学問の権威が実地の結果より上に置かれた。
石黒の言葉がそのままだ。学会で公認されていないものは軍隊で採用できない。学会に是認されていない学説では兵食は変えられない。これは一見まっとうな手続き論だが、実際には「東大が認めないものは認めない」という意味でしかなかった。そして東大は、自分たちの緒方正規が発表した脚気菌説を捨てられなかった。
第三に、学閥と留学先の系譜がそのまま陣営になったのである。
ドイツ医学対イギリス医学。東京帝国大学と陸軍軍医本部の系譜と、薩摩出身でイギリス帰りの海軍軍医の系譜。日本の医学は明治政府がドイツ医学を本流と定めたところから始まっている。だから高木の説は、内容を検討される前に「イギリス流」という出自で値踏みされた。森の「イギリス流の偏屈学者」という言い方が、それを一言で表している。
第四に、漢方医学との権力闘争が絡んだ。
麦飯論は元をたどれば漢方の処方だ。西洋医学で日本を近代化しようとしていた石黒にとって、麦飯を認めることは漢方医に軍門を下ることに見えた。医学の問題が、職能集団の生き残りの問題にすり替わった。
第五に、間違いを認めることが組織のメンツを傷つける構造ができ上がっていたのである。
台湾で麦飯を配った土岐頼徳は休職にされ、公式記録から名前を消された。麦糠製剤を売った都築甚之助は委員を外された。海軍を批判した陸軍の匿名論者は、相手の学問的資格を問うことで論点をずらしたのである。脚気の病名を軽々しくつけるなという電報が前線に飛んだ。
これらは全部、病気ではなく評判を管理する動きだ。
第六に、情の部分があった。
死地に送る兵には白い飯を腹いっぱい食わせてやりたい。麦飯は貧民の食い物だ。この感情は、上官にも兵士自身にもあった。海軍でパンを捨てた兵たちも同じ心の動きだ。
理屈を変えるより、感情を変えるほうがずっと難しい。
そして第七に、責任を取るべき人間に調査させる、という仕掛けがあった。
板倉聖宣がこれを痛烈に指摘している。脚気の問題で一番責任のある人物を調査会の会長にしてしまう。責任を取らせようとして責任者を長に据えると、その人は責任を取らないように工作する。科学者は客観的に研究するだろうと思うから、そういう人を平気で会長にする。だから論争で真理を決めてはいけない、多数決で真理を決めるようなやり方をしてはいけない、真理は実験で決まるということをはっきりさせなければいけない、と。
このどれか一つだけなら、たぶん乗り越えられた。全部が同時に効いたから、二十七年かかった。
それから
脚気の原因がビタミンB欠乏だとほぼ確定したのは、大正十三年四月八日の臨時脚気病調査会第二十九回総会である。大正十一年から十三年にかけて大規模な人体ビタミンB欠乏食試験を実施し、その結果を受けての結論だった。残る一パーセントの留保も、翌大正十四年に島薗順次郎が同調して消えた。
そして大正十三年十一月二十五日、勅令第二百九十号により調査会は廃止されたのである。原因がほぼ解明されたことと、政府の財政緊縮が理由だ。
高木兼寛はその四年前、大正九年四月十三日に亡くなっている。七十歳。明治三十八年に男爵になり、日本で最初の医学博士の一人になり、有志共立東京病院と成医会講習所を作り、それが東京慈恵会医科大学になった。南極大陸には、ビタミン研究への功績を記念して名付けられた高木岬がある。
森林太郎は大正十一年七月九日に没した。六十歳。遺言はよく知られている。
余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス
墓には階級も位階も勲等も刻まれず、「森林太郎ノ墓」とだけ彫られた。
そして肝心の病気のほうは、どうなったか。
減らなかった。少なくともすぐには。
軍隊から脚気が消えた後も、民間の脚気死亡者は年間一万人前後で推移し続けた。台湾や朝鮮から米が入って白米が手に入りやすくなり、大正十年から十四年にかけて一人あたりの米の消費量がピークになる。そして大正十二年、脚気死亡者数が約二万七千人という史上最悪の数字を記録した。人口十万人あたり四十六・五人だ。
日露戦争の脚気死者と、ほぼ同じ数の人が、一年間で死んでいる。
昭和に入っても年間一万人から二万人が続いた。減りはじめたのは昭和十四年、日中戦争で食糧が不足して米穀搗精等制限令が出され、白米が禁止されてからだ。玄米の重量の九割四分を下回る精白が禁じられた。おおよそ七分搗き米にあたる。
食糧難が、脚気を減らした。
戦後、昭和二十七年に栄養改善法が公布され、食生活が変わった。昭和二十九年にはビタミンB1誘導体のアリナミンが発売され、保健薬ブームを牽引する。脚気死亡者数は昭和三十一年に千人を割り、昭和四十年に百人を割り、昭和四十五年には二十人になった。
消滅である。
ただし、完全には消えていない。昭和五十年前後に脚気の再燃が報告された。原因は、糖分の多い清涼飲料水の多飲、インスタント食品や加工食品の多用、菓子類の大量摂取、低蛋白食、そして激しい運動。同じ年、高カロリー輸液の点滴でビタミンB1欠乏症が報告され、死亡例を含む重症例が相次いだ。平成三年に厚生省が緊急安全性情報を出し、平成九年には高カロリー輸液にビタミンB1を投与するよう通達が出ている。
平成二十六年にも、高齢者が買い物の不自由から副食を摂らず白米だけを食べて脚気を発症した症例が報告されている。
白米ばかり食べて、おかずが少ないと、人は足が動かなくなって心臓が止まる。
江戸の町人が「江戸わずらい」と呼んだのと、まったく同じ理屈で、いまも起きる。
結局、何が決着をつけたのか
この二十七年を振り返って、いちばん気味が悪いのはここだと思う。
論争は、論争では決着しなかった。
高木は学理で反論できずに黙った。森の批判には筋が通っていたのである。石黒の手続き論も、それ自体としては正論だった。緒方の脚気菌は、細菌学の作法を知らない者には反証できなかった。北里が反証したら、彼は日本の医学界で孤立したのである。
言葉の勝負では、権威を持っている側が勝つ。当たり前だ。
決着をつけたのは、数字だった。
明治十六年に千二百三十六人、明治十八年に四十一人。日清戦争で戦死九百九十七人、脚気死四千六十四人。日露戦争で脚気患者二十五万人、脚気死二万七千人、そして海軍は八十七人と三人だ。旅順の同じ土地で、米食の陸軍が倒れ、麦飯の海軍が倒れなかった。
誰かがうまいことを言ったから、ではない。人が大量に死んだから、動いた。
そして、その数字が出そろうまでのあいだ、正しい対処法はずっとそこにあった。堀内利国が神戸監獄の資料を取り寄せた明治十七年の時点で、もう転がっていたのである。高木が筑波の電報を受け取った明治十七年十月九日の時点で、証明されていた。
答えは、二十年以上ずっと、目の前にあった。
それを拾わなかったのは、頭が悪かったからではない。石黒も森も緒方も青山も、当代一級の頭脳だ。拾わなかったのは、拾うと自分たちの立っている足場が崩れるからだ。
だから、この話を「昔の人は無知だった」で終わらせるのは、たぶんいちばん危ない読み方になる。無知の話ではない。誰が正しいかを決める権限が、答えを持っている人ではなく、権威を持っている人の側にあった、という話だ。
そこは、いまでもあまり変わっていない気がする。
