元禄16年(1703年)に出た育児書に、病室の飾り方が書いてある。書いたのは医者の香月牛山で、書名は『小児必用養育草』という。疱瘡にかかった子の世話について、看病の心得を細かく並べた箇所があり、そこを読むと部屋の色がひとつに決まっていく。
屏風にも衣桁にも、赤い衣類をかける。病気の子には赤い衣類を着せ、看病する大人も、みな赤い衣類をまとうのがよいという。理由は一言だけ添えてあった。痘という病は赤い色を好むものだから、という趣旨の短い説明だ。部屋じゅうが、赤。
有効な薬はなく、かかれば子の顔にも命にも傷が残りかねない時代だった。親たちが病室で差し出せる手立ては、数えるほどしかない。赤は、そのひとつだったらしい。
この赤が、還暦の祝いの席にも座っている。60歳を迎えた人に赤い袖なしの綿入れを着せ、赤い頭巾をかぶせる、あの赤いちゃんちゃんこだ。なぜ60歳で、なぜちゃんちゃんこで、なぜ赤なのか。三つの問いは、それぞれ別の根から伸びている。
甲子に始まり癸亥で終わる、60枚の名札
いま干支といえば、子丑寅の十二支を思い浮かべる人が多いが、本来の干支はもう少し大きな仕組みを指す言葉だった。十干と十二支を組み合わせた名札のことで、全部で60通りある。名札は、60枚。
十干は甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の10種類、十二支は子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の12種類で、組み合わせ方は決まっている。甲子、乙丑、丙寅と、頭から順にひとつずつ並べていくのだ。名札の1枚目は、甲子。
十干が癸まで来れば甲に戻り、十二支も亥の次は子に戻る。10と12の最小公倍数は60なので、十干を6回、十二支を5回くり返したところで、二つの周期がちょうど揃う。最後の名札は癸亥で、その次はふたたび甲子になる。ここで一周。
年にもこの名札がつき、2019年は己亥の年にあたっていたが、同じ名の年は60年たたなければ戻ってこない。生まれた年の干支が巡ってくるのは、数えで言えば61年目にあたる。その節目の名が、還暦。
数え年は、生まれた年を1歳とし、正月に全員がそろって年を取る数え方で、満年齢より常に1つ多くなる。昔の還暦は数えの61歳を指していたが、満年齢なら60歳にあたる。暦が還るから、還暦と書く。本来は数え年で祝うものだが、近ごろは満年齢で祝う人のほうが多い。
別名もいくつかある。華甲もそのひとつで、華の字を分解すると十が6つと一が1つになり、合わせて61になる。甲は十干の最初の字で干支そのものを指し、漢字をばらして数にする遊びは、この呼び名にもあった。
本卦還りという言い方もある。本卦とは生まれた年の干支のことで、その本卦に戻るから、本卦還りと呼ぶ。辞書でも、還暦と同じ意味で載っている。名札がひとまわりして、元の場所に帰ってくる。
地味な話に聞こえるかもしれないが、ここが出発点になる。60年たつと、自分の名札がもう一度戻ってくる。生まれ直すという発想は、この仕組みの上に乗っている。出発点は、暦の数え方。
1966年生まれが、今年還暦を迎える
2026年は、丙午の年だ。前に丙午が来たのは1966年で、60年たって、同じ名札が戻ってきたことになる。1966年生まれの人は、今年が数えの61歳にあたり、満年齢なら誕生日を迎えた人から順に60歳になる。
丙午には、少し特別な事情がついてまわった。丙も午も火の性質を持つとされ、火が重なる年は火災が多いと、古くから考えられていた。これが江戸時代に、女性の話へ移っていく。丙午の生まれの女は気性が激しく、夫を不幸にする、という俗信だ。
きっかけは八百屋お七だと伝わる。お七の話は、井原西鶴の浮世草子『好色五人女』で知られている。1682年の大火にまつわる放火事件で処刑された娘が、丙午の生まれだったという。科学的な根拠は何もない。それでも縁談や結婚にかかわる迷信として、長く根を張った。
俗信は、人口の統計にはっきり跡を残した。1966年の出生数は約136万人で、前の年の1965年は約182万人だったから、たった1年で約25%も減った計算になる。合計特殊出生率も、1965年の2.14から1966年の1.58へ落ち、翌1967年は2.23へ戻っている。深い谷。
減り方の中身には、ひとつの見立てがある。ニッポンドットコムに載った分析は、前の年と次の年の出生数が想定より多かったことに注目した。前年は約8万7000人、翌年は約12万3000人も多い。丙午を避けて産む時期を前後にずらした夫婦が多かったのではないか、という読みだ。
同じ分析は、江戸末期や明治の丙午では、ここまで同年人口が少なくなっていないとも指摘する。迷信は昔からあったのに、谷ができたのは昭和だけだった。分析は、前後の年に産みを寄せた夫婦の動きを、その理由のひとつに挙げている。
1966年に生まれた赤ん坊は、60年かけて暦を一周した。いまの還暦の人たちは、生まれ年と同じ名札の年に立っている。暦が還るというのは、そういう手触りの話だ。迷信の側から見れば60年は長く、暦の側から見ればちょうど一周にあたる。
40歳から数えた祝いが、61歳に移ってきた
長寿を祝う習わしは、賀の祝い、算賀、年祝いなどと呼ばれる。祝いの起点は、古くは還暦より前にあり、奈良時代の記録に出てくるのは40歳の祝いだ。上代は10歳刻みで、40、50と祝うのが決まりだったという。
『東大寺要録』に、天平12年(740年)10月8日の記事がある。金鐘山寺で、良弁が審祥を招き、華厳経の講を初めて開いた日だ。その年は聖武天皇が40歳にあたり、40の賀の講も設けられて、開講のとき空に紫の雲が現れたという。
849年には、仁明天皇が40歳になった。『続日本後記』によれば、興福寺の大法師たちが祝いのために、聖像を40体つくり、金剛寿命陀羅尼経を40巻写した。天皇の年の数だけ、仏を造り、経を写す。これが、算賀の形。
『源氏物語』にも同じ祝いが出てきて、若菜上の巻では、光源氏が40の賀を二度受ける。算賀は、物語の中にまで描かれる行事になっていた。
61や77のように、10の倍数でない年を祝いはじめたのは、いつごろか。『日本国語大辞典』の算賀の項は、61の還暦、77の喜寿、88の米寿の祝いが、室町時代のころから行われ始めたと書く。
別の解説は、広く祝われるようになったのは江戸時代からだと説明する。日本に古くからあった長老の祝いは古稀からで、還暦が祝われるようになったのは近世以降だという書き方もある。始まりの時期は、資料によって幅がある。
奈良の貴族が40歳を祝い、室町の人々が61や77や88を足していった。江戸の世には、赤い袖なしを着せる形が広まったと言われる。祝いの形は、時代ごとに少しずつ積み重なってきた。
赤ん坊は赤い。昔の戸籍では緑だった
赤ちゃん、赤子、赤ん坊。どの呼び名にも赤の字がつくのは、生まれて間もない子の体が赤みがかって見えるからだという。見た目のままの、単純な名づけ。
古い呼び名に、みどりごがある。漢字では緑児と書き、大宝令は3歳以下の子を緑と呼ぶと定めている。正倉院に伝わる大宝2年(702年)の御野国の戸籍には、戸口24人のうち緑児が4人と記されている。
緑は色そのものを指す語ではなかったらしく、万葉集の解説には、ミドリは元来、草木の若い芽をいう、とある。新芽のような生気にあふれた子、という呼び方だ。赤は肌の色から、緑は芽の色から、赤ん坊には二つの色の名がついた。
還暦の祝いが選んだのは赤のほうで、理由は産着にあると、解説書や祝いの案内の多くが書く。生まれた子が着る衣が赤かったから、という説明だ。赤ちゃんに還る日には、赤い衣がふさわしい。
年を取って子どもに返る、という感覚は古くからあった。本卦還りの三つ子ということわざがあり、年老いると幼い子のように無邪気になる、という意味だ。還暦は、暦がひとまわりして生まれ変わる、よみがえりの歳だと祝いの解説は説明する。
棺にまかれ、遺体に塗られた朱
赤を特別な色と見る感覚は、江戸よりずっと古い。日本玩具博物館の解説は、赤い色に特別な霊力がこもると見る感性が、縄文時代にはすでにあったとされる、と書く。古代の日本で、アカは明るい様子を表す言葉だったという。
墓にも赤が出る。日本では、後期旧石器時代から古墳時代までの墓で、赤い顔料が見つかっている。福岡市の埋蔵文化財の解説は、そう整理する。顔料は大きく2種類で、酸化鉄を主な成分とするベンガラと、硫化水銀を主な成分とする朱がある。
弥生から古墳の時代には、使い分けがあったらしい。石室や棺にはベンガラ、遺骸には朱、という使い分けが推定されている。考古学者の小林行雄は、1959年に書いた『古墳の話』に、聖なる赤という一項を立てた。
朱の原料の辰砂には、不思議な性質がある。熱すると目の前から消えて、冷やすと水銀に変わり、その水銀をまた熱すると赤い粉に戻る。福岡市の解説は、こうした変化も、朱が珍重された理由のひとつだったのだろうと考える。
朱は、産地が限られていた。ベンガラのように、簡単には作れない。貴重な鉱物。奈良県の大和天神山古墳では、竪穴式石室から41キロもの辰砂が見つかった。徳島市の鶴島山2号墳からは、顔が朱で染まった人骨が出ている。
辰砂の採掘は、縄文時代からあった。三重県の丹生の付近では、縄文時代後期の遺跡から、辰砂のついた石皿や、朱を入れた容器と考えられる土器が数多く出ている。徳島県阿南市の若杉山遺跡は、弥生時代の終わりから古墳時代の初めにかけての、大きな産地だったらしい。朱で彩色した縄文土器は、北海道の美々遺跡からも出ている。古い、古い赤。
何のための赤だったのか。答えは、ひとつに決まらない。小林行雄は、朱にはわずかな防腐の力があったからではないか、と考えた。一方で、防腐というより権力の誇示だった可能性を示す論文もある。
死は魂が身体から離れることだと考えられていた。古代には、人が亡くなってもすぐには埋めず、棺を仮の小屋に安置して儀礼を重ねる、もがりの習わしがあった。『魏志倭人伝』の「停喪十余日」の記述から、3世紀前半には日本でも行われていたとみられる。小林行雄は、遺骸に朱を塗って包みくるむ手段が、もがりの秘事として行われたことも想像できる、と述べている。
堺市博物館の展示解説は、赤を、死者の魂を鎮めて再生を願う色だったとみる。『魏志倭人伝』には、人々が体を赤く塗っていたという記述がある。生きた人間にとっても、赤には魔除けの意味があったとみる向きもある。
明日香村の古墳の調査では、石棺の蓋の合わせ目にだけベンガラを塗った例が報告された。調べた研究者は、邪悪なものが寄りつかないよう、棺の隙間を赤で密閉したのではないかと考える。魔除けの赤は、閉じ目に塗る赤でもあった。
神社の鳥居や社殿の赤も、丹塗と呼ばれる塗装だ。堺市博物館の解説は、多治速比売神社の本殿が昭和29年(1954年)の修理で鉛丹を使って丹塗にされたと紹介する。鉛丹は鉛の酸化物で、黄色みを帯びた赤をしており、古代から知られていた。
福岡市の解説によれば、赤い顔料が葬送に欠かせなかった時代は、古墳時代で終わる。奈良時代以降、辰砂や紅花は、顔料や染料であると同時に、病気の薬と位置づけられていく。墓の赤が、薬の赤へ移った。次の舞台は、病室。
疱瘡の病室は、赤で埋まった
江戸時代、疱瘡、麻疹、水疱瘡は、御役三病と呼ばれた。どれも一生に一度かかる病で、死亡率が高く、無事に終えることが切実な願いだったという。疱瘡は天然痘のことで、種痘が行き渡る明治の半ばまで、千数百年にわたって日本人を苦しめた。
疫病は、地震や火事と並ぶ江戸の恐怖の的。麻疹には、はしか絵と呼ばれる刷り物があった。いま残るはしか絵の多くは、文久2年(1862年)の江戸での流行のときに出たものだ。この年はコレラの流行も重なり、江戸の町では膨大な数の死者が出た。
国立国会図書館の解説によれば、天然痘は6世紀に日本へ伝わったといわれる。江戸時代には国内に定着して流行をくり返し、徳川幕府の将軍も、何人もかかっている。身分の上下に関係なく、誰の家にも入ってくる病だった。
治っても顔に跡が残ることから、見目定めの病という呼び名もある。有効な治療法はなく、人々は神頼みとまじないで立ち向かった。病をもたらすのは疱瘡神だと考えられていた。
疱瘡神は、断れない客。丁重に迎えて、つつがなく送り出す。そこで赤い色が大きな役を担った。東京都立図書館の解説によれば、この神が赤を嫌うのか好むのかは、信仰が地域によって両方あった。喜ばせるためとも、退散させるためとも、解釈は二つに分かれている。
ネット上の百科事典の疱瘡神の項は、別の理由も並べる。疱瘡のときの赤い発疹は経過がよいという見方や、健康の象徴である赤が病魔を払うという俗信だ。生き血を捧げて悪魔の怒りを解く、という意味もあったと考えられている。
病室の赤づくしは、絵図や文献にはっきり出てくる。赤い屏風を広げ、病気の子も看病する親も赤い着物をまとう。子の傍らには赤い張子の玩具を置き、壁には獅子頭や猿、犬を描いた赤い絵を貼った。どこを向いても、赤。
疱瘡神は、犬と赤が苦手だとする伝承もある。そのため地域によっては、張子の犬の人形を飾り、赤い御幣や赤一色で描いた鍾馗の絵をお守りにした。まだ疱瘡にかかっていない子どもに、赤い玩具や下着、置物を与えて、まじないにする風習もあった。
赤い玩具には、達磨、猩々、金太郎、鯛車などがある。なかでも疱瘡除けのみみずくは、江戸で達磨とともに盛んに贈られた張子だった。みみずくの見開いた目は、高熱で目が見えなくなるのを防ぐまじないだったという。『江都二色』という安永2年(1773年)刊の本に、そのみみずくの絵が載っている。
赤一色で刷った絵は赤絵と呼ばれ、疱瘡除けの呪力があるとされて、江戸ではよく好まれた。構図の定番は、鎮西八郎為朝や鍾馗が疱瘡神を追い払う場面だ。八丈島に流された為朝が疱瘡神を退治したので、島には疱瘡が流行しなかった。そんな伝説から、為朝が描かれるようになった。
明治33年(1900年)刊の『日本絵類考』によれば、疱瘡絵は古くは魔除けの鍾馗ばかりを描いたという。のちに、だるま、みみずく、金太郎、桃太郎などの絵柄が加わっていく。絵柄には、子どもの成長にかかわるものが多い。
国立国会図書館の解説は、為朝の伝説に但し書きを添え、実際には八丈島にも天然痘が流行したことがあったと書く。それでも人々は為朝にすがった。疱瘡絵は病の子へのお見舞いに贈られ、回復したあとは、焼き捨てたり川に流したりしたという。
お見舞いの菓子には、病気が軽くすむようにという語呂合わせで、軽焼きせんべいが選ばれた。菓子の袋にも、疱瘡除けの絵が描かれた。乳幼児の死亡率が高かった時代、これらの品には、子の命が助かるように、病後すみやかに治るようにという親の願いがこめられている。
種痘が広まると、赤いみみずくは廃れたと、日本玩具博物館は書く。種痘のあとも、地方には疱瘡神除けの習俗が残った。疱瘡の赤と還暦の赤は、別々の習わしだ。両者を直接つなぐ文献は、確かめられていない。
袖のない綿入れと、大黒様の頭巾
ちゃんちゃんことは何か。国語辞典は、袖なしの羽織で、綿を入れたものが多いと説明する。ちゃんちゃん、ちゃんこ、とも呼ぶ。本来は子どもの袖なし綿入れ羽織を指し、冬の防寒着として広く着られてきた。
袖がないから、脱ぎ着が楽で、重ね着もしやすい。農村では、今も大人が着ている。働く人の防寒着が、還暦の祝いの衣装にもなった。子ども用の標準の丈は50センチほどで、身頃に木綿の綿を入れ、紐の先に飾り糸をつける。
名の由来には説がある。世界大百科事典は、江戸時代に鉦を叩いて飴を売り歩いた清国人の服装に由来するという、と書く。鉦をチャンチャンと鳴らして売り歩いたから、という説明も見かける。
日本大百科全書によれば、子ども用と還暦用は作りが違う。還暦の赤は、まちの幅が広く、衿は半纏のような立ち衿だ。子ども用の色には、男女とも白、男の子は淡いブルー、女の子は淡いピンクが挙がっている。
昔は、寒さの厳しい正月に年祝いをしていた。そこで防寒着のちゃんちゃんこを着るようになった、という説明もある。袖なしの綿入れは、冬の祝いにちょうどよい衣装だった。
還暦には、頭巾が添えられる。大黒頭巾と呼ばれる丸い頭巾で、焙烙頭巾とも呼ぶ。七福神の大黒天がかぶっているので縁起がよいとされ、本来は男性のかぶりものだったという。江戸末期には、年寄りのかぶりものにもなった。
扇子もよく一緒に贈られる。広げると末広がりの形になるからだ。赤い座布団を添える家もある。赤い衣装一式が、還暦の座を整えた。
では、赤いちゃんちゃんこは、いつ、誰が始めたのか。厳密な起源の年を特定した文献は、見つけにくい。江戸時代には長寿祝いの風習があり、赤い産着に由来する、という説明が一般的だ。確かなのは、そこまでになる。
七十七と八十八は、文字を割って生まれた
還暦の次は、古希。還暦のあとの祝いは、暦ではなく、詩や文字から名がついた。70歳の古希は、古稀とも書き、杜甫の詩『曲江』にある、人生七十古来稀なり、の一句による。昔は70歳まで生きる人が稀だったが、2022年の平均寿命は女性が87.09歳、男性が81.05歳だ。70歳は、もう稀ではない。
77歳は喜寿で、喜の字を草書体で書くと七十七に見え、80歳の傘寿は、傘の略字が八十に見えることに由来する。88歳の米寿は、米の字を分けると八十八になる。81歳の半寿は、半の字を分けて八十一だ。
90歳の卒寿は卒の略字が九十に見えることから、99歳の白寿は百から一を引くと白になることから、名がついた。100歳は百寿で、一世紀にあたるので紀寿とも呼ぶ。108歳の茶寿は、茶の字を十、十、八十八に分けて、足すと108になる。
111歳の皇寿は、皇を白と一と十と一に分け、白は99だから足して111になる。二度目の還暦を迎える大還暦まである。字を割って年を数える遊びは、ここまで行き着いた。
関西大学の研究者の論文は、この由来を整理している。喜寿、傘寿、卒寿の名は、いずれも俗字を分解して年を表す。俗字は平安時代に漢籍とともに日本へ入り、鎌倉と室町を経て江戸時代に定着して、国語辞典の項目に立つまでになった。
賀寿は、いまも増えている。66歳の緑寿は、2002年(平成14年)に日本百貨店協会が新しい賀寿として提唱した。六と六が重なるので、緑々寿に掛けて略した呼び名だという。
祝いには色もある。還暦は、赤。古希と喜寿に紫、傘寿と米寿に金茶や黄、白寿に白をあてる案内が多い。ただし、店や地域で扱いは少しずつ違う。
赤を着ない還暦が増えた
日本大百科全書は、還暦に赤い袖なしを着る風習について、こう書く。近年、この風習は敬遠されている、と。60歳は、隠居の年ではなくなった。ニッポンドットコムの2023年の記事は、60歳を、バリバリ現役世代と呼んでいる。
着せられる側の気持ちは、ひとつではない。祝いの案内サイトは、着ない理由として、老人扱いが嫌、写真が残るのが気まずい、仮装のようで落ち着かない、の三つを挙げる。着る理由は、伝統行事として意味がある、孫が喜ぶ、記念の写真になる、というものだ。
折衷案として、10分だけ着て写真を撮る、赤いストールで代える、といった祝い方が紹介されている。着るかどうかは、本人の気持ちを最優先にするのがよいと、案内は口をそろえる。
最近の贈答の案内は、赤を差し色にした小物を勧める。毎日使えて、赤が魔除けの意味を残せるからだ。形は今の暮らしに合わせ、意味は残す。そんな考え方。
赤いちゃんちゃんこは、袖を通す人が減った。けれど、赤という色は、60年の節目に居残っている。贈答の案内には、赤い財布、キーケース、ストール、傘、スニーカーが並ぶ。
