- 「翌朝の電話――君、僕の猿に何をしたんだ」
- 「幻覚剤を追いかけていた男が、なぜ猿の側頭葉を切ったのか」
- 「二度目の手術のあとに現れた、六つの奇妙」
- 「見えているのに、何かがわからない――精神盲という言葉」
- 「口が目の代わりになる――口唇傾向」
- 「目に入るもの全部に手が伸びる――過変形視」
- 「怒らない、怖がらない――蛇に近づく猿」
- 「食べる、そして交わる――抑制が外れた二つの本能」
- 「そして、覚えていない――記憶という七番目の症状」
- 「一九五五年、人間で同じことが起きた日」
- 「完全型が初めて報告されるまで、さらに二十年」
- 「ヘルペスというもっとも多い引き金」
- 「外傷、脳卒中、てんかん、そして認知症」
- 「病室で起きたこと、その一――ペーパータオルを食べる二十一歳」
- 「病室で起きたこと、その二――洗濯機に靴下を入れた二十六歳の、三年間」
- 「病室で起きたこと、その三――事故から三週間後に草を噛みはじめた五歳」
- 「病室で起きたこと、その四――言葉の意味が消えたあとに来たもの」
- 「家族が最初に壊されるもの」
- 「治せる薬はない、それでも打つ手はある」
- 「ロボトミーの時代に、この発見はどう使われたか」
- 「扁桃体研究は、そのあとどこへ行ったか」
- 「なぜ怖がらないことが、本人にとって命取りなのか」
- 「そして、なぜ周囲には不気味なのか」
「翌朝の電話――君、僕の猿に何をしたんだ」
一九三六年十二月七日の午後、シカゴ大学の実験室で、一匹の猿の頭蓋が開かれた。執刀したのは脳外科医パウル・クランシー・ビューシー、当時三十二歳。手術台の上にいたのは「オーロラ」と呼ばれる成体のメスのアカゲザルで、この個体はもともと別の教授の実験動物だったのだが、あまりに獰猛で誰も扱えず、猿の扱いがうまいと評判だった心理学者ハインリヒ・クリューヴァーのところに押しつけられてきた、いわば厄介者だった。
檻に近づけば歯をむき、手を伸ばせば噛みつく。実験室の誰もが、この猿の前では一歩下がった。
ビューシーがその日切除したのは、左の側頭葉の大部分である。翌朝、クリューヴァーから電話がかかってきた。受話器の向こうで彼はこう叫んだという。「君、僕の猿に何をしたんだ」。ビューシーは何か取り返しのつかない失敗をやらかしたのかと青くなって実験室へ急いだのだが、そこで見たのは、まったく逆の光景だった。あれほど手のつけられなかったオーロラが、おとなしくなっていたのだ。誰にでも触らせる。
抱き上げても抵抗しない。ビューシーは後年、この瞬間を「信じられなかった」と書き残している。凶暴という言葉が服のように脱ぎ捨てられていた。
そのあと右の側頭葉も取ってしまうと、オーロラの変化はさらに徹底したものになる。ここから先に現れた症状の束が、のちに二人の名前を冠して呼ばれることになる、クリューヴァー・ビューシー症候群だ。恐怖が消え、何でも口に入れ、目に映るものすべてに触らずにいられなくなる。人間でも同じことが起きる。ヘルペスに脳を食われて、事故で頭を打って、認知症が進んで、あるいはてんかんの手術のあとで。
しかもこれは、一度なると多くの場合、元の人には戻らない。
「幻覚剤を追いかけていた男が、なぜ猿の側頭葉を切ったのか」
そもそもクリューヴァーは、側頭葉になど興味がなかった。彼が追いかけていたのは幻覚だったんだよな。
一八九七年にドイツのシュレスヴィヒ・ホルシュタインに生まれたクリューヴァーは、十七歳でしぶしぶ兵役につき、その後ハンブルク大学でゲシュタルト心理学の父の一人であるマックス・ヴェルトハイマーのもとに三年間ついた。一九二三年、貨物船に乗ってパナマ運河経由でアメリカへ渡り、翌年スタンフォード大学で博士号を取る。
学位論文のテーマは「直観像」、つまり見たものを写真のように鮮明に思い浮かべ続けてしまう子どもたちの、異様に強い視覚イメージについてだった。この時点で彼の関心は一貫している。人間の目の奥で何が起きているのか、見るという行為はどこまでが感覚でどこからが意味なのか。
その延長線上に、メスカリンがあった。ペヨーテというサボテンの乾いた頭を「メスカルボタン」と呼ぶ。そこに含まれる成分が見せる幻覚が、直観像とよく似ているらしい、という話に彼は飛びついた。一九二四年ごろ、ミネソタ大学の実験室で、彼は助手を一人つけて自分でメスカルボタンを飲んでいる。そして酔いのなかで自分に起きていることを、強迫的といっていいほど克明に記録し続けた。
彼が書き残したのは、主観と客観の境界が溶けていく感覚だ。自分と世界の切れ目がわからなくなる。彼はそこから、統合失調症で起きている主客関係のゆるみを理解する手がかりになるかもしれない、と考えた。ついでに、幻覚のなかで繰り返し現れる幾何学的な図形が、ミロの絵に出てくる形に似ていると気づき、各地の民族の幻視や象徴的な文様を研究する人類学者にとって面白いネタになるはずだ、とまで書いている。
守備範囲が異様に広い人なのだ。
自分で飲むだけでは足りず、彼は猿にメスカリンを打ちはじめる。目的は、この薬が猿の「似ているものと似ていないものを見分ける能力」をどう変えるかを測ることだった。そのために彼は「引き寄せ法」という装置まで作っている。水平な台の上に紐を二本置き、その先に重さも色も手ざわりも違う形をくくりつけて、猿にどちらかを引かせる。
暗いほうの円盤を選べば餌がもらえる、という具合に訓練し、そこから「猿にとってどこまでが同じ刺激なのか」の範囲を割り出す。一九三三年の著書はこの手法で集めたデータの塊で、序文はカール・ラシュレーが書いた。
そしてここで、決定的な観察が挟まる。メスカリンを打たれた猿は、噛む、舐めるといった口の動きを繰り返し、ときに痙攣した。クリューヴァーはこれを見て、ヒューリングス・ジャクソンが側頭葉てんかんの患者で記載した「鉤回発作」に似ている、と思ったのである。だとすれば、鉤という側頭葉の内側の出っぱりを切り取ってしまえば、メスカリンによる口の動きは消えるのではないか。
消えたなら、メスカリンが効いている場所はそこだと言える。実に筋の通った推論だった。
問題は、クリューヴァーが手術をできないことだった。そこで神経学クラブの仲間だった若い脳外科医、ビューシーに声がかかる。ところがビューシーは、鉤だけを狙って削るような繊細な手術は自分にはできないと言い、じゃあ側頭葉を丸ごと取りますよ、と決めてしまった。この乱暴な決断がなければ、症候群は発見されていない。ちなみにメスカリン仮説のほうは、あっさり外れている。
側頭葉を取ったあとの猿も、メスカリンを打たれれば相変わらず唇を鳴らしたからだ。ビューシーはのちに書いている。両側の側頭葉破壊による症候群の発見は、偶然に、事前の計画もなしにやってきた。だがそれは事故ではない。よく準備された、活発で、注意深い頭脳が、予期しないものを知覚し、その重要性を認識した結果である――と。
「二度目の手術のあとに現れた、六つの奇妙」
オーロラの右側頭葉が取られたあと、実験室で何が起きたか。クリューヴァーはのちに、これを「動物の脳手術によって生み出されたもっとも劇的な行動変化」と表現している。控えめな人物の言葉としては、かなり強い。
二人はこの一連の症状を、最初は単に「側頭葉症候群」と呼んでいた。報告は三年にわたって出ている。一九三七年、アメリカン・ジャーナル・オブ・フィジオロジー誌に「精神盲およびアカゲザルの両側側頭葉切除後に現れるその他の症状」。一九三八年、ジャーナル・オブ・サイコロジー誌に、精神盲に特に注目した分析。
そして一九三九年十二月、アーカイブズ・オブ・ニューロロジー・アンド・サイキアトリー誌の第四十二巻に、九百七十九ページから千ページまでを占める「サルにおける側頭葉機能の予備的分析」が載る。この最後の一本が、以後八十年以上引用され続ける古典になった。
一九三九年の論文で挙げられた症状は、大きく五つに整理されている。第一に、目は見えているのに物が何かわからないように振る舞う「精神盲」。第二に、手当たりしだいに物を口へ運び、舐め、軽く噛み、唇で触れ、匂いを嗅ぐという強い口唇傾向。第三に、視野に入るものすべてに注意を向け、反応せずにいられない「過変形視」。第四に、怒りと恐怖に結びついた運動的・音声的な反応が出てこなくなるという情動の変化。
第五に、性行動の増加。ここに、人間の症例で目立つ記憶障害と食行動の変化を加えて、今日では六つないし七つの症状として数えるのが普通になっている。
論文が偉かったのは、対照実験を丁寧に潰していることだ。「匂いが取れたせいでは」という疑いに対しては、あらかじめ嗅索を切ってから両側側頭葉を取っても、匂いを嗅ぐ動作以外の症状は全部そろって出る、と示した。
「側頭葉のどこか一部で足りるのでは」という疑いに対しては、第一側頭回だけの両側切除、第二・第三側頭回だけの両側切除、側頭葉と前頭葉のつながりを断つ処置、側頭葉と後頭葉のつながりを断つ処置、いずれでもこの症候群は出ないと報告した。そして片側だけの切除では、多少おとなしくなることはあっても、症候群そのものは現れない。
両側でなければだめなのだ、というこの一点が、のちに人間の臨床でこの診断を支える柱になる。
面白いのは、クリューヴァーとビューシーが「じゃあ責任病巣はどこか」を最後まで特定しようとしなかったことだ。クリューヴァーの関心はあくまで、この症状の束が、視覚と情動の体験の心理的な構造について何を語っているかにあった。彼が生涯かけて追ったのは「現象的な決定因をもつ行動」であり、脳の地図作りではなかった。
だからラシュレーが「その病変は視床下部まで入っているんじゃないか」と疑いを口にしたときも――これは結果的に間違った推測だったのだが――クリューヴァーは反論するために猿を殺して脳を調べる、ということをしなかった。せっかくおとなしくなった猿を、彼は手放したくなかったのである。
「見えているのに、何かがわからない――精神盲という言葉」
症状をひとつずつ見ていくと、この症候群の不気味さの正体が少しずつ形になってくる。まず精神盲だ。
ドイツ語のゼーレンブラインドハイトを訳したこの言葉は、視力そのものは保たれているのに、見えているものが何であるかがわからない状態を指す。今日の用語でいえば視覚失認である。クリューヴァーとビューシーが手術後の猿に見たのは、生きているものと生きていないもの、有害なものと無害なもの、どれに対しても、ためらいなく近づいていく行動だった。
彼らはこれを、リッサウアーのいう連合型精神盲に近いのではないかと考えている。網膜も視神経も視覚野も無事なのに、その像に貼りついているはずの意味のラベルだけが剥がれ落ちている。
ただし、猿に「失認」という言葉を当てるのは無理があるという批判は早くから出ていた。猿は「これが何かわかりません」と言ってくれないからだ。彼らが実際に観察したのは、猿があらゆる物体をひとつの一般的なクラスに属するもの――つまり「近づいて調べるべき何か」として扱う、という振る舞いだった。
複数の物を並べるテストでも、引き寄せ法のテストでも、檻のなかでの自由な行動でも、猿は同じ物を何度も何度も拾い上げ、口に入れ、触れる。まるで一度も調べたことがないかのように。手術前に確立していた視覚刺激への弁別反応は、術後に大きく崩れた。ただし訓練を積み直せば再獲得できたし、視覚刺激を「一般化」する能力自体は損なわれていないように見えた。だから純粋な視覚障害でもないし、純粋な知能低下でもない。
物と意味のあいだにあった何かが、選択的に抜けている。
人間の症例では、これがもっと生々しい形をとる。二〇一八年にトルコの神経学の雑誌に報告された症例、二〇二一年にサウジアラビアで報告された脳梗塞後の六十八歳の男性の症例、いずれも入院直後の数日間、家族の顔がわからなかったと記載されている。目の前にいるのが誰なのかわからない。しかし視力検査は正常で、部屋のなかを歩ける。この「見えているのに知らない」という状態が、家族にとっては最初の一撃になる。
「口が目の代わりになる――口唇傾向」
精神盲とセットで現れるのが、口唇傾向だ。英語ではハイパーオラリティ。目で意味がわからないなら、口で確かめる。そういう補償行動として説明されることもあるが、実際の臨床像はもっと機械的で、もっと止まらない。
クリューヴァーとビューシーの猿は、視界に入ったものを片っ端から口に運び、舐め、軽く噛み、唇を当て、匂いを嗅いだ。食べられないものは吐き捨て、食べられるものは飲み込む。順序が逆なのだ。ふつうの動物は「食べられるかどうか」を判断してから口に入れる。この猿たちは、口に入れてから判断していた。判断のための試験装置が、口しかないのである。
人間でこれがどう見えるか。二〇一八年のトルコの症例では、二十六歳の女性が入院十六日目から、他の患者の病室を回って食べ物を探し、アルミホイルやペーパータオルを食べはじめた。二〇二一年のポルトガルの症例では、二十一歳の男性がペーパータオルを口に入れ、さらに自分の便を口に運んだ。二〇一一年にインドで報告された四十歳の女性は、自分の爪を噛み、しまいにはベッドシーツを噛んだ。
二〇〇五年にインドの軍病院から報告された二十一歳の男性は、体温計に噛みつき、自分の親指を噛んだ。二〇二二年にアメリカで報告された六十四歳の男性は、舌と指を血が出るまで噛み続けた。
この症状は、患者本人にとって最大の物理的な危険源になる。窒息、鋭利なものによる口腔内の裂傷、有害物の誤飲、感染。歯と歯茎はぼろぼろになる。にもかかわらず、口唇傾向はこの症候群のなかでもっとも消えにくい症状のひとつとされていて、成人でも小児でも出現率がとにかく高い。二〇二三年に発表された小児の外傷後症例三十三例のレビューでは、九十パーセント以上に口唇傾向が認められた。
二〇一七年の小児症例レビューでも、文献上の五十一例のうち九割が口唇傾向を示している。
「目に入るもの全部に手が伸びる――過変形視」
三つ目の症状は、日本語では過変形視と訳される。もとはヴェルニッケが使った言葉で、視野に入ってくる小さな物体に対して、繰り返し、執拗に反応してしまう状態を指す。
クリューヴァーとビューシーの記述で印象的なのは、この行動を「あたかも強いられたかのように」と形容している点だ。猿は選んで触っているのではない。目が捉えたものに、手が勝手についていく。報酬があろうがなかろうが、以前に触ったことがあろうがなかろうが、関係がない。刺激の履歴も価値も参照されていないのである。
人間の患者でこれを見た医師たちは、しばしば「気が散っている」と最初に記録する。だがそれは注意欠陥とは違う。注意が散るのではなく、注意が捕まってしまうのだ。二〇二一年のサウジアラビアの症例報告は、これを「視界に入るものに気づき、反応せずにはいられない衝動」と定義し直している。テーブルの上のコップ、看護師の名札、点滴のチューブ、そのすべてに手が伸びる。そして手が届いたものは、そのまま口へ行く。
過変形視と口唇傾向は、実際の病室では一本の動作としてつながっている。
「怒らない、怖がらない――蛇に近づく猿」
四つ目が、この症候群をもっとも有名にした症状だ。恐怖と怒りの消失。臨床用語ではプラシディティ、平静化と訳される。
クリューヴァーとビューシーの猿は、以前は避けていた蛇に平気で近づいた。自分を攻撃したばかりの蛇にすら、また近づいていったという記録が残っている。見知らぬ猿に対しても警戒しない。人間に対しても身構えない。怒りや恐怖に伴うはずの運動反応も発声も、単純に出てこない。表情も乏しくなる。
ただし、ここで気をつけておきたいことがある。当時の二人はこれを「恐怖の欠如」と解釈したが、その解釈は後年かなり削られた。感情そのものが消えたのではなく、出来事に対する反応の全体が鈍った、という理解のほうが現在は優勢だ。この点については後ろでもう一度触れる。臨床の現場で重要なのは、解釈より観察のほうだ。二〇二一年のポルトガルの症例には、この患者の平静さを示す一行が挟まっている。
同じ病室の別の患者が激しく暴れたとき、彼はまったく反応しなかった、と。
平静化は、慢性期まで残りやすい症状の代表格でもある。口唇傾向、平静化、過変形視の三つは無期限に続くことがあり、他の症状は年単位でゆっくり薄れていく、というのが臨床の相場観だ。そして、成人でもっとも高頻度に見られるのは、この平静化と口唇傾向と食行動の変化の三つである。
「食べる、そして交わる――抑制が外れた二つの本能」
五つ目と六つ目は、食行動と性行動の変化だ。この二つが、家族の生活をもっとも直接に壊す。
食のほうは、単なる大食いではない。何を食べるかの選別が壊れる。手当たりしだいに口へ入れる口唇傾向と重なって、食べ物と食べ物でないものの境界そのものが機能しなくなる。のちの霊長類実験では、扁桃体を破壊されたサルが、本来ならまず口にしない肉を食べ、自分の糞を食べるようになることが繰り返し報告された。人間でも同じ構造が出る。
二〇一八年のトルコの症例では、女性は大量の体重増加を起こし、悪玉コレステロールと総コレステロールが上がってスタチンを飲むことになった。一九九五年にイギリスから報告された五十四歳の女性の症例はさらに深刻で、身長百五十二センチに対して体重百二十キロ、糖尿病を合併し、報告の一年後に心筋梗塞で亡くなっている。
この女性についての記述で忘れがたいのは、彼女は全般に無気力だったのに、食べ物を手に入れるのを邪魔されたときだけはその無気力が吹き飛んだ、という一文だ。
性行動のほうは、報告のされ方に注意が要る。猿では異性間・同性間・自体愛的な行動の増加として観察されたが、人間の臨床でこの症状がそのままの形で出ることは、実はそれほど多くない。一九九二年のデヴィンスキーの指摘によれば、人間で見られる性行動の変化は、性欲の亢進よりも、場にそぐわない性的な発言や、逆に性欲の低下として現れることのほうが多い。
それでも実際の症例では、女性職員に触れようとする、看護師の前で骨盤を突き出す動きを繰り返す、といった記載が並ぶ。二〇〇五年のインドの症例では、誰かが近づくたびにその動きが強まったと書かれている。本人に悪意はない。抑制の層が薄くなっているだけなのだが、それは周囲にとって何の慰めにもならないし、場合によっては法的な問題にすらなりうる。
医学書は淡々と、診断が知られていない場合には患者が刑事手続きに巻き込まれる危険がある、と書いている。
「そして、覚えていない――記憶という七番目の症状」
猿の記述には入っていなかったが、人間の症例で最初から目立ったのが記憶障害だった。これは病変の広がりの違いによる。人間で両側の側頭葉が壊れるとき、海馬が巻き込まれないことのほうが珍しいからだ。
記憶障害が加わると、この症候群は質的に別のものになる。過変形視で目に入ったものに手を伸ばし、口唇傾向でそれを口に入れる。ここまでは行動の問題だ。しかし、さっきそれをやったことを覚えていないとなると、同じ行動が無限に繰り返される。クリューヴァーとビューシーが猿について書いた「まるで一度も調べたことがないかのように」という表現は、記憶と行動が切り離されたループを正確に言い当てている。
一九七三年に、完全かつ選択的に大脳辺縁系だけが破壊された症例が報告されたとき、著者たちはこの状態を「辺縁系認知症」と名づけることを提案した。この患者は表面的には認知症に見えるが、失われているのは知能検査で測れるような認知機能ではない。日々の生存に関わるやりとりに情動的な質を与え、それによって意味を与え、記憶に刻みつける機能のほうだ、と彼らは書いている。この整理はいまでも切れ味がある。
壊れているのは、覚える力そのものというより、覚えるに値するかどうかを決める仕組みのほうなのだ。
「一九五五年、人間で同じことが起きた日」
人間で初めてこの症候群がそろって記載されたのは、一九五五年である。イタリアの神経学者フライル・テルツィアンと、ジュゼッペ・ダレ・オーレの二人が、ニューロロジー誌の第五巻三百七十三ページから三百八十ページに、「クリューヴァーとビューシーの症候群――両側側頭葉切除により人間で再現された」という論文を出した。タイトルの「再現された」という語が、この時代の空気を伝えている。
患者は十九歳の男性。両側の側頭葉にそれぞれ独立したてんかん焦点があり、まず左、次いで右の前部側頭葉が、鉤と海馬を含めて切除された。術後、彼は誰のことも認識できなくなった。最初の二週間はほとんど緊張病のような状態で、そのあとは一転して、あらゆる刺激に反応するようになった。食欲は際限がなくなった。情動的な行動は完全に失われ、無関心で、表情が動かなくなった。
言葉は話せたが、その内容は「彼自身の生理的な必要の範囲に収まる、きわめて初歩的な文」に限られていた。過去と現在の両方について、深刻な記憶障害があった。部分的な失読があり、自発的に文字を書くことはなくなった。性的な露出行動が見られたが、他者への性的な攻撃性はなかった。そして興味深いことに、猿でもっとも目立った口唇傾向は、この患者には現れていない。
この手術は、ごく少数の慢性の統合失調症患者とてんかん患者に対して行われた。そして、すぐに放棄された。一九七〇年にディートリッヒ・ブルーマーが書いているように、その破壊的な影響、とりわけ深刻な記憶障害が明らかになったからである。
同じころ、アメリカではウィリアム・スコヴィルが両側内側側頭葉の切除を行った患者たちの記憶障害を報告しはじめており、一九五七年のスコヴィルとブレンダ・ミルナーの論文は、記憶研究の歴史を書き換えることになる。ミルナーはこの論文のなかでテルツィアンらの症例に触れ、彼らの切除は鉤と海馬だけでなく側頭葉の外側皮質まで含んでいたから、あれほど全般的な荒廃が起きたのだ、と指摘している。切りすぎたのである。
「完全型が初めて報告されるまで、さらに二十年」
テルツィアンとダレ・オーレの症例は、猿で見られた症状のすべてを含んではいなかった。人間で六つの症状がすべてそろった「完全型」が初めて報告されるのは、一九七五年になる。マーロウ、マンコール、トーマスの三人が、コルテックス誌に「人間における完全なクリューヴァー・ビューシー症候群」を発表した。
患者は二十代前半の男性で、原因は単純ヘルペスによる髄膜脳炎だった。ここが重要なところで、手術で人為的に作られたのではなく、病気が両側の側頭葉を溶かしたことによって、実験室で作られたのと同じ症状の束が自然に出現したわけだ。この症例をもとに、著者たちは猿の症状と人間の症状の対応表を提案している。
精神盲は視覚失認として、怒りと恐怖の反応の消失は平静化と感情の平板化として、性行動の増加は性的指向の変化として現れる。この患者は男性看護師に対して、賞賛するような、露骨な性的表現を含む言葉をかけた。過変形視と口唇傾向と過食は、猿における口による探索行動と食行動の変化にそのまま対応する。
以後、この症候群は臨床の語彙に定着した。国際疾病分類では器質性人格障害の項に位置づけられている。ただし、完全型は人間ではきわめて稀である。理由は解剖学的なもので、人間の前部側頭葉の機能不全は、猿の側頭葉全摘に比べればどうしても軽くなるからだ。そこで実務上は、六つの症状のうち三つ以上がそろっていれば「部分型」として診断する、という運用が定着した。
この基準を提案したのは一九八三年のリリーらのレビューで、彼らは十二例を集めて分析している。原因の内訳はピック病が五例、脳炎が四例、外傷が二例、アルツハイマー病が一例。そして彼らは、性行動の亢進と感覚性失認がもっとも出にくい症状であり、平静化と口唇・食行動の変化がもっとも出やすい症状だと結論づけた。
「ヘルペスというもっとも多い引き金」
原因疾患を見ていこう。まず、単純ヘルペス脳炎。
単純ヘルペスウイルス一型は、脳に入ると側頭葉を選んで壊す性質がある。理由については嗅神経や三叉神経を経由する経路が議論されてきたが、結果として起きることははっきりしている。両側の内側側頭葉が炎症で壊死する。つまり、ビューシーがオーロラに対してメスで行ったのとほぼ同じことを、ウイルスがやってのけるわけだ。この病気は散発性脳炎の二割を占め、年間発症率は人口二十五万から五十万人に一人。
治療しなければ死亡率は七割、アシクロビルを使っても二十八パーセント台という報告があり、しかも生き残っても後遺症が重い。十九例を追った古い研究では、死亡率五割、生存者の三分の一に重い神経学的後遺症が残り、そのなかにクリューヴァー・ビューシー症候群とコルサコフ症候群が含まれていた。
アシクロビルは、患者が昏睡に陥る前に始めなければ効きが悪い。二〇二一年のポルトガルの症例報告は、この患者の予後が悪かったのは投薬開始が遅れ、側頭葉がすでにある程度破壊されたあとだったからではないか、と自己批判的に書いている。診断の遅れが、そのまま人格の消失に直結する病気なのだ。
そしてヘルペス脳炎は、小児のクリューヴァー・ビューシー症候群の最大の原因でもある。成人では頭部外傷と脳卒中が最多だが、子どもではヘルペスが群を抜く。二〇一七年に小児の症例をまとめたレビューによれば、文献上の五十一例のうち、口唇傾向が九割、性行動の変化が八割強、てんかんの合併が七割に見られた。子どもの場合は症状の出方が大人と違うことにも注意が要る。まだ学習していない行動は出てこないからだ。
大人でいう平静化や恐怖の消失は、子どもでは無感情ではなく、いらだち、急な気分の変動、あるいは不自然なほどの上機嫌として現れることがある、と指摘されている。
「外傷、脳卒中、てんかん、そして認知症」
原因は他にもたくさんある。医学書の一覧を追うと、その雑多さに少し呆れる。
頭部外傷は、成人での最多の原因のひとつだ。二〇一九年に発表された系統的レビューは、一九六八年から二〇一七年までの外傷後症例二十四例を集めている。七割が男性で、受傷時の平均年齢は二十五歳、範囲は十三歳から六十七歳。ほとんどの症例で片側または両側の側頭葉が損傷されていた。もっとも多く報告された症状は場にそぐわない性的行動で、次いで食行動の変化、口唇傾向と続き、視覚失認がもっとも少なかった。
半数は完全に回復している。ただし三年と二十五年という長期の追跡ができた二例では、精神症状が長く残り、生活機能は低下したままだった。
外傷との関係で押さえておきたいのは、この症候群が「意識が戻る途中の一段階」として現れることがある、という点だ。長く意識を失っていた患者の回復段階を評価する尺度のひとつに、修正インスブルック寛解尺度というものがあり、そのなかにはっきりと「クリューヴァー・ビューシー相」が組み込まれている。
植物状態からゆっくり浮かび上がってくる過程で、あるいは逆に神経変性疾患でゆっくり沈んでいく過程で、脳はこの状態を通過することがあるらしい。通過するだけなら一時的な症候群になり、そこで止まってしまえば慢性の症候群になる。
脳卒中では、両側の側頭葉梗塞が典型だが、片側だけでも出うる。二〇二一年に報告されたサウジアラビアの六十八歳男性は、右の中大脳動脈領域の梗塞、つまり非優位半球側の一箇所の梗塞だけでこの症状群を呈した。てんかんでは、発作そのものではなく発作後の状態として出ることがある。二〇二二年に報告された六十四歳男性は、複雑部分発作のあとに一過性の症状を示し、抗てんかん薬の負荷投与で消えた。
二〇〇五年の研究では、難治性のてんかん患者のなかに、発作中または発作後に口唇傾向を示す例が確認されている。毛布を口に入れやすい大きさに折りたたんでから噛む、指輪を外してから口に入れる、といった準備動作を伴うことすらあるという。
認知症でも出る。ピック病を含む前頭側頭葉変性症は、行動障害型の診断基準そのものに「口唇傾向と食習慣の変化」という項目を持っている。食事嗜好の変化、過食や飲酒喫煙の増加、そして口唇的探求または異食症。日本の指定難病の解説にも、進行すると何でも口に入れてしまう口唇傾向が現れ、食べ物を口に詰め込んでうまく飲み込めず、誤嚥や窒息を招くことがある、と明記されている。
アルツハイマー病でも、多発梗塞性認知症でも報告例がある。一九八〇年代の日本の剖検例では、六十二歳から認知症が進行し、最後の五年間はこの症候群を呈した多発梗塞性認知症の患者について、責任病巣は両側側頭葉のびまん性の線維性グリオーシスであろうと考察されている。
そのほか、リステリア髄膜脳炎、結核性髄膜炎、トキソプラズマ症、シゲラ感染症、神経嚢虫症、抗エヌエムディーエー受容体脳炎、低血糖、急性ポルフィリン症、ハンチントン病、パーキンソン病、若年性神経セロイドリポフスチン症、全身性エリテマトーデス、非ホジキンリンパ腫、熱中症、メトトレキサートによる白質脳症、硬膜下水腫、覚醒剤の離脱、大麻の使用。共通しているのは結果だけである。
両側の内側側頭葉が壊れるか、うまく働かなくなること。そこに至る道は何本でもある。
「病室で起きたこと、その一――ペーパータオルを食べる二十一歳」
ここからは、実際の症例報告を読み物として追いかけたい。数字と用語の背後にある生活の質感は、そこにしかない。
二〇二一年にヨーロッパの症例報告誌に載ったポルトガルの症例。二十一歳の男性で、持病はなかった。彼が携帯電話を使っているとき、全身の強直間代発作が起きた。救急外来に運ばれてきたとき、母親は、四日前から高熱と頭痛と吐き気と嘔吐が続いていたと説明した。本人は何が起きたのかを理解していない。救急室でもう一度発作を起こした。ジアゼパム十ミリグラムで発作は止まり、レベチラセタム一グラムが投与された。
ひどく興奮していたが、局所的な神経脱落症状も髄膜刺激症状も熱もなかった。頭部の断層撮影は正常。血液検査では白血球が増えている。アルコールも薬物も陰性。
十二時間後、彼は発熱し、ぐったりし、簡単な指示にしか従えなくなり、話す言葉が意味をなさなくなった。断層撮影で小脳扁桃が下がっていたため腰椎穿刺は見送られ、代わりに磁気共鳴画像が撮られた。両側の側頭前頭皮質に高信号。髄膜脳炎の診断でアシクロビルとセフトリアキソンとデキサメタゾンが開始され、五日目に熱が下がり、発作も止まった。単純ヘルペス一型の抗体が陽性だった。
意識のレベルは改善した。そこから、別のものが現れた。同じ病室の患者が激しく暴れても、彼はまったく反応しなかった。女性の職員に触れようとした。職員に向かって排尿した。異様な量を食べるようになった。そして、食べ物ではないものを口に入れはじめた。ペーパータオル。それから、自分の便。リスペリドン、トピラマート、フルオキセチンが開始された。退院時の簡易認知機能検査は三十点満点で二十四点。
行動はいくらか改善したものの、過食は残った。三か月後の外来でも、性的な脱抑制と過食と気分の変動が続いていた。トピラマートを中止し、カルバマゼピンを八時間おきに二百ミリグラムずつ追加。それから半年たって、ようやく性行動と過食が「軽度から中等度」まで落ちてきた。発症から一年近く、この若者は自分の口を制御できないままだった。
「病室で起きたこと、その二――洗濯機に靴下を入れた二十六歳の、三年間」
二〇一八年にトルコの神経学雑誌に載った症例は、経過が長く追われている点で貴重だ。
二十六歳の女性。四日前に扁桃摘出術を受けたばかりだった。三日前から顔の左半分がしびれ、二日前から頭痛が加わった。そして、行動がおかしくなった。洗濯機に靴下を入れる。ごみをいじり回す。話す言葉が意味をなさない。においの幻覚がある。救急外来での体温は三十八度八分。意識はあるが、指示に部分的にしか従えず、場所も時間も人も見当がついていない。
磁気共鳴画像では、両側の側頭葉に高信号と脳溝の不明瞭化があり、右の後頭葉と前頭葉、両側の島皮質にまで及んでいた。髄液には一立方ミリメートルあたり五百七十個のリンパ球。アシクロビルとセフトリアキソンが始まり、二日目に全身性の強直間代発作を起こしてレベチラセタムが追加された。髄液の単純ヘルペス一型の遺伝子検査は陽性だった。
入院十六日目。彼女は食べはじめた。自分の食事だけでは足りず、他の患者の病室を回って食べ物を探した。アルミホイルを食べた。ペーパータオルを食べた。いらだち、興奮し、性的に脱抑制になった。ここでようやく、クリューヴァー・ビューシー症候群という診断がついた。カルバマゼピンが四百ミリグラムから八百ミリグラムへ、クエチアピンが三百ミリグラムから四百ミリグラムへ、二週間かけて増量された。
いらだちと性行動は治まった。だが口唇傾向は残った。精神科と相談してアミスルプリドとビペリデンが足された。この間に彼女の体重は大幅に増え、コレステロールが上がり、スタチンが処方されている。二十一日でアシクロビルは終了。
半年後の画像では、両側の側頭葉に嚢胞性の脳軟化と周囲のグリオーシスが残り、海馬傍回を巻き込んで両側の島皮質まで広がる形で脳実質が失われていた。同じ時期の神経心理検査では、記銘・学習・想起の過程に重度の障害、視空間認知の障害、前頭葉回路の障害を示す所見。三か月で発作は止まり、抗てんかん薬は終了できた。一年後の再検査でわずかな改善。三年後、神経学的診察は正常になり、持続的注意にわずかな改善が見られた。
行動の異常は速やかにきれいに戻ったのに、認知の問題の回復は限定的で、しかも異様に時間がかかった。この非対称性が、この病気の残酷さを表している。周囲から見て「困る行動」が消えたあとも、本人のなかでは何かが戻っていないのだ。
「病室で起きたこと、その三――事故から三週間後に草を噛みはじめた五歳」
二〇二三年に小児神経の雑誌に載った症例は、五歳の女の子だ。
三週間前、交通事故に遭った。搬送時のグラスゴー昏睡尺度は十点。いらだち、自発的に目は開き、意味をなさない声を出し、痛み刺激に手足を引っ込める。右の側頭部に頭皮の裂傷があり、縫合された。受傷後二十四時間以内の断層撮影は正常だったが、三日目の撮影で左側頭葉に低吸収域が現れ、脳幹周囲の脳槽が消えていた。
彼女は、それまでにできるようになっていたことをすべて失った。歩けない。話せない。意味のある身振りも返事もない。睡眠と覚醒のリズムだけは保たれている。その状態が三週間続いた。
そして三週目に、行動が現れた。彼女は物を口に入れはじめた。服を噛む。葉っぱを噛む。草を噛む。一日じゅう食べ続けるようになった。物が何かを認識できず、目に入るものを片っ端から食べようとした。表情はなく、感情の反応もなく、平静で、しかし食べるのを止められると短く攻撃的になった。診察では無表情、口唇傾向、そして軽い右片麻痺。磁気共鳴画像では軽度のびまん性萎縮と、左右非対称な側頭角の拡大が見られた。
カルバマゼピンが体重一キログラムあたり一日十ミリグラムで開始された。三日で口唇傾向と反応性が明らかに改善した。彼女は身振りで応じるようになった。過食と攻撃性はまだ残っていた。次の一か月で歩きはじめ、家族とやりとりするようになった。二か月後、口唇傾向も視覚失認も過食も消えていた。右の麻痺も回復に向かっていた。長期記憶に一部の障害が残ったものの、新しいことを学べるようになった。
受傷から六か月後、彼女は学校に通いはじめ、成績もよく、カルバマゼピンは中止された。
子どもの脳は戻ることがある。少なくとも、大人よりは戻ることがある。ただしこのレビューの著者たちは冷静で、こうした改善が薬のおかげなのか、それとも症状がもともと一過性のものだったのかは判定できない、と書き添えている。
「病室で起きたこと、その四――言葉の意味が消えたあとに来たもの」
日本からの報告も紹介したい。富山のリハビリテーション病院から報告された、意味性認知症の男性の経過である。
発症は六十一歳のとき、実の母親を亡くしたあとだった。意欲が落ちた。抗うつ薬は効かなかった。物や人の名前が出てこなくなり、言葉の意味の理解が落ちていった。六十三歳で受診したときの簡易認知機能検査は二十二点。言語性の知能指数が大きく下がっていた。運動の障害はない。自発的にしゃべる言葉は流暢なのに、鳥や動物について尋ねると、富山の言葉で「鳥ちゃ何け」「動物ちゃ何か分からん」と返ってくる。復唱はできる。
ただし意味はわからない。仮名は読めるが漢字は読めない。計算はできる。日常の道具は使えるのに、その名前が言えない。自動車の運転は、道に迷うことなくできていた。画像では左優位に両側の側頭葉前部が萎縮していた。
言葉は少しずつ減り、意思の疎通が難しくなっていった。六十六歳でパーキンソニズムと偽性球麻痺が出て、誤嚥性肺炎を繰り返すようになる。六十七歳で気管切開。痰が多く、三か月後に気道と食道を分離する手術を受けた。この手術によって、口から食べることが再びできるようになった。そして、そこで現れたのが、この症候群だった。視覚的な認知の障害があり、見えるものに何でも噛みつこうとし、口に持っていこうとした。
七十一歳で悪性中皮腫を併発して亡くなるまで、全経過は十年だった。
この症例が示しているのは、クリューヴァー・ビューシー症候群が、ある日突然やってくるものだけではないということだ。前頭側頭葉変性症のように、両側の側頭葉前部が年単位で少しずつ痩せていく病気では、症候群も少しずつやってくる。まず名前が消え、次に意味が消え、最後に、見たものを口で確かめる行動だけが残る。順番に剥がれていくのである。
日本の診療ガイドラインは、この病気の介護負担がアルツハイマー型認知症より重いことを繰り返し指摘し、食べ物を口に詰め込む行動やテーブルマナーの崩れ、介護への抵抗、落ち着きのなさが、介護者の負担と直接結びついていることを示した研究を引いている。
「家族が最初に壊されるもの」
医学書には、この症候群は生命を脅かす病気ではない、と書いてある。そのすぐあとに、しかし患者と介護者の生活の質を著しく損なう、と続く。この二文の落差に、この病気の実態が全部詰まっている。
家族がまず直面するのは、家じゅうを「口に入らないようにする」作業だ。小さいもの、鋭いもの、飲み込めるものを片づける。棚に鍵をつける。洗剤や薬を隔離する。ごみ箱を蓋つきにする。そして、それでも足りないので、目を離せなくなる。二十四時間の見守りが必要になる家庭は珍しくない。窒息と誤飲と感染は、常に手の届く距離にある。
次に来るのが、食事の管理だ。放っておけば食べ続ける相手に対して、量を制限しなければならない。だが本人には、なぜ止められるのかがわからない。そして先に紹介したイギリスの症例が示したとおり、他のことには無気力でも、食べ物を邪魔されたときだけは抵抗が跳ね上がる。ここで家庭内の衝突が起きる。一九八七年には、この症候群と家庭内暴力の関係を扱った論文が南部医学誌に発表されている。
三つ目が、性的な脱抑制への対応だ。これは家族が誰にも相談しづらい種類の問題で、しかも家の外で起きると社会的・法的なリスクに直結する。医学書は、看護師を含むスタッフはこの行動を承知しておく必要がある、と実務的に書いている。そして患者の親族に対しては、治療が必ずしも成功しないこと、身体的な抑制が必要になる状況が生じうることを、あらかじめ説明し、心の準備をさせるべきだ、と勧告している。
ここまで踏み込んで書かれる疾患は多くない。
四つ目は、感情の一方通行に耐えることだ。相手はもう怖がらないし、怒らないし、たいていの場合、こちらの感情に反応もしない。介護者は、返ってこない関係を長期にわたって続けることになる。前頭側頭葉変性症の介護についての日本の研究では、常同行動を逆手にとって日課を習慣化させる、なじみの関係を丁寧に作ってから支援に入る、といった具体的な工夫が有効だと報告されている。
とはいえ、これは働く手が複数あって初めて成り立つ話でもある。家族が仕事を辞めて介護に入り、収入が減り、安全対策の費用がかさむ、という経路は、あまりに典型的だ。
明るい話もある。交通事故による重度脳損傷のあとにこの症候群を呈した十九人を追った研究では、四人は自立を取り戻せなかったが、六人は家庭生活に復帰し、九人は就労にまでたどり着いている。外傷後の症例レビューでも、半数は完全に回復していた。回復しうる原因――感染、てんかん、外傷――による症候群であれば、早く見つけて適切に対処したときの予後は悪くない。
逆に言えば、診断がつかないまま「性格が変わった」「わがままになった」と処理されてしまうことが、いちばん怖い。
「治せる薬はない、それでも打つ手はある」
この症候群そのものを治す薬はない。標的は原因疾患であり、症状であって、症候群ではない。
薬物療法の主役はカルバマゼピンだ。もともと抗てんかん薬だが、この症候群では性行動の脱抑制をはじめとする行動異常全般に効くことが繰り返し報告されてきた。外傷後症例の系統的レビューでは、薬物治療が記載された十二例のうち十例でカルバマゼピンが使われ、一日四百ミリグラムから千ミリグラムの範囲で、七割で改善が見られている。この薬は過量になると意識障害まで起こすので、血中濃度を測りながら使うのが望ましい。
そのほか、気分安定薬、選択的セロトニン再取り込み阻害薬、抗精神病薬、抗コリン薬。性行動に対してはリュープロレリンが使われることもある。小児では、症例によってメチルフェニデートやオランザピンが効いたという報告がある。ただし、これらはすべて症例報告の積み重ねであって、比較試験ではない。専門家が「明確な推奨を出すことはできない」と正直に書いているのは、そういう事情だ。
薬より効くこともあるのが、環境の設計である。危険物を物理的に排除する。安全錠をつける。物を減らして視覚的な刺激そのものを減らす。過変形視が「目に入ったものに反応せずにいられない」症状である以上、目に入るものを減らすというのは、意外に理にかなった対処なのだ。作業療法士が入り、食事の管理を組み込み、口腔ケアを日課に入れる。歯と歯茎はこの病気でかなり傷むので、ここは軽視できない。
予後は原因によって大きく違う。口唇傾向と平静化と過変形視は無期限に続きうるが、他の症状は数年かけて薄れることがある。てんかんの発作後に現れたものは数時間から数日で消える。ヘルペス脳炎後のものは、行動が半年から一年で落ち着いても、認知の障害が何年も残る。そして進行性の神経変性疾患に伴うものは、当然ながら戻らない。医学書は最後に、こう書いている。
転帰はしばしば不良であり、異常行動を抑えるための薬が必要になり、身体拘束が必要になることも多く、多くの患者は精神科の施設に入り、そこで生涯を終える、と。
「ロボトミーの時代に、この発見はどう使われたか」
さて、話を一九三〇年代に戻したい。オーロラがおとなしくなった時期が、なぜ最悪だったのかという話だ。
一九三五年七月二十九日から八月二日にかけて、ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジで第二回国際神経学会議が開かれた。前頭葉についての特別セッションが組まれ、イェール大学の生理学者ジョン・フルトンと心理学者カーライル・ジェイコブセンが、二頭のチンパンジーについての報告をした。ベッキーとルーシーという名の、研究室の人気者たちだ。
ルーシーは手術前は課題をよくこなしたが、両側の前頭葉を取ったあとはミスを連発し、餌が遅れるたびに癇癪を起こすようになった。ベッキーは逆だった。もともと課題がうまくいかないと床に身を投げ出し、排泄までしてしまう「実験神経症」を起こす個体だったのに、手術後は落ち着いて課題に取り組むようになった。ミスはたくさんしたのだが、そのミスに動じなくなったのだ。
会場にいたポルトガルの神経学者エガス・モニスが、この報告に強い印象を受けた、というのが伝統的な物語である。実際には、モニスはそれ以前から前頭葉への介入を考えていたらしく、この「ひらめき伝説」は後世の脚色を含むという指摘が近年は強い。
それでも事実として、会議の三か月後の一九三五年十一月十二日、リスボンのサンタ・マルタ病院で、モニスは若い脳外科医アルメイダ・リマの手を借りて、最初の前頭葉白質切截術を行った。頭蓋に開けた穴からアルコールを注入して白質を壊す方法から始め、やがてロイコトームという道具に切り替えている。翌一九三六年、最初の二十例の結果が発表された。七例が「治癒」、七例が「改善」、六例が「不変」。
今の目で見れば話にならない評価だが、当時これは有望な数字だった。モニスは一九四九年にノーベル生理学・医学賞を受けている。アメリカではウォルター・フリーマンがこれを引き継ぎ、眼窩の骨を貫いて器具を差し込む経眼窩法を編み出した。一九七一年に英国医学雑誌の論説が挙げた推計では、世界でおよそ十万件の手術が行われている。
クリューヴァーとビューシーの仕事は、この流れの真横にあった。ある伝記的資料は、彼らの実験が二十世紀半ばの精神外科運動の触媒になったと明言し、一九三〇年代後半のクリューヴァーの講演のあと、モニスが立ち上がったという場面を伝えている。前頭葉の話と側頭葉の話は本来別物なのだが、両者を貫いていたのは同じ論理だ。脳のある部分を壊すと、動物はおとなしくなる。おとなしさは治療である。
この短絡が、当時の精神医療の空白――有効な薬が何ひとつなかった時代――にすっぽりはまってしまった。
側頭葉のほうの流れは、もう少し限定的に、しかしより直接的に続いた。テルツィアンらの両側側頭葉切除は、まさにクリューヴァー・ビューシーを人間で「再現」しようとして行われ、そして記憶が壊れることが分かって放棄された。だが「扁桃体を壊せば攻撃性が下がる」という発想のほうは生き延びた。一九六三年、日本の楢林博太郎らがアーカイブズ・オブ・ニューロロジー誌に、定位的扁桃体破壊術の臨床成績を報告している。
当初は側頭葉てんかんに伴う興奮性や暴力性を対象にしていたのが、やがててんかんの臨床症状がない行動障害の患者、さらには知的な問題を伴う行動障害の患者にまで適応が広げられていった。一九六六年にはアメリカでハイムバーガーが二十五例を報告し、一九七〇年にはインドで当時最大の症例集積が発表された。日本ではこのほか、佐野圭司らが視床下部後部を標的にした手術を攻撃的な患者に行っている。
日本におけるこの分野の終わり方は、他国と少し違う。一九六〇年代から七〇年代にかけて、精神外科は医学的・科学的な評価というより政治的な文脈のなかで激しく批判され、一九七五年に日本精神神経学会が精神疾患に対する外科治療を否定する決議を出した。以後、日本ではこの領域が事実上封印されている。扁桃体を壊してヒトをおとなしくする、という発想がどこへ向かうのか、その終着点を一度見てしまったからだ。
「扁桃体研究は、そのあとどこへ行ったか」
クリューヴァーとビューシーは責任病巣を特定しなかった。だから、そこから先は他人の仕事になった。
一九五六年、ローレンス・ワイスクランツが、側頭葉全部ではなく扁桃体複合体だけを破壊した猿の行動変化を報告する。病変が絞られた。一九六一年には、ジョン・ダウナーがネイチャー誌に、忘れがたい実験を載せた。彼は猿の片側の扁桃体だけを取り、同時に視交叉と左右の半球をつなぐ交連を切断した。こうすると、残った扁桃体には同じ側の目からの視覚情報しか届かない。
結果、この猿の振る舞いは「どちらの目で見ているか」によって変わった。扁桃体が残っている側の目を覆うと、猿は人間の前で平静になった。逆の目を覆うと、いつもの警戒的で攻撃的な猿に戻った。同じ人間が、片目で見ると怖くて、もう片方の目で見ると怖くないのである。ただし体のどちら側を触られても、猿は完全な攻撃反応を示した。触覚の情報は両側の扁桃体に届いていたからだ。
この実験は、扁桃体が感覚の入力に情動的な意味を貼りつける装置であることを、これ以上ないほど鮮やかに示した。
その後の五十年は、ひたすら病変を細かく、正確にしていく歴史だ。一九六一年には側頭葉の新皮質だけを取った実験、一九六九年からは側頭葉を「切り離す」ことによって症候群を作る一連の実験、一九八一年には扁桃体の部分破壊と全破壊を比較した研究。全破壊された猿は情動の低下、肉食、糞食、過剰な探索という古典的な症状を示したが、部分破壊の猿は肉も糞も食べなかった。そして一九九九年、決定的な比較が行われる。
従来の吸引による破壊と、神経細胞だけを殺して通過線維を残す神経毒による破壊を、同じ条件で比べたのだ。神経毒による病変でも恐怖と攻撃性の低下、手と口による過剰な探索は出た。だが、その程度は吸引法より軽かった。つまり、クリューヴァーとビューシーの猿が見せたあの劇的な症状の一部は、扁桃体そのものというより、扁桃体を通り抜けていた線維を巻き添えにしたことによる、いわば「切りすぎ」の産物だった可能性が高い。
二〇〇一年には、選択的な扁桃体破壊を受けた猿が、初めて出会う蛇や見知らぬオスに対する急性の恐怖反応は鈍るのに、人間の侵入者に対するすくみ反応や、その個体の生涯を通じた不安傾向のほうは変わらない、という報告が出た。扁桃体は「恐怖の中枢」というより、新奇さと曖昧さと潜在的な脅威を処理する装置だ、という理解へ移っていく。
近年の霊長類研究者は、扁桃体を失った動物に起きるのは恐怖の選択的な欠落ではなく、情動を喚起する出来事全般への反応性の低下だ、と整理している。つまりクリューヴァーとビューシーの「恐怖の欠如」という最初の解釈は、八十年かけて、より広く、より曖昧な何かに置き換えられたわけだ。
クリューヴァー自身は、この論争の外にいた。彼は後年、神経解剖学に転じ、いまも使われている染色法を開発している。シカゴ大学のカルヴァー・ホールにある自分の実験室に、秘書も置かず、来客も断り、六十三歳で定年退職したあとも死の前年まで通い続けた。訪問を許された人間は、鍵のかかった扉の内側に最低でも半日はとどまらされたという。
ある研究者は丸一日そこにいたが、昼食を出そうという発想すら相手になかった、と回想している。退職の時期に水道管が破裂し、彼の書類のほとんどが失われた。残ったものは大学の図書館の特別収蔵部にある。
「なぜ怖がらないことが、本人にとって命取りなのか」
ここで、この症候群の中心にある逆説を整理しておきたい。恐怖が消えるのは、いいことのように聞こえる。実際には、これは生存装置の切断である。
恐怖という感情の実務的な機能は、行動を止めることだ。近づかない、触らない、口に入れない、飲み込まない。この「しない」の集合が、生き物を生かしている。恐怖が消えるということは、その「しない」が全部外れるということで、しかも同時に過変形視と口唇傾向が働いている場合、「見えたものに手を伸ばして口に入れる」という一方向の流れだけが残る。ブレーキが壊れた状態でアクセルが踏み込まれるのに近い。
だから、この症候群の死因は症候群そのものではなく、症候群がもたらす行動である。窒息。誤飲。体重の増加と、それに伴う糖尿病と心疾患。イギリスの五十四歳女性は、まさにこの経路で死んでいる。加えて、記憶障害が乗ると、失敗から学ぶという最後の防波堤も消える。一度危ないことをして痛い目に遭っても、その経験が次の行動に反映されない。
そして、恐怖の欠如は社会的な生存も削る。人間の社会生活の相当部分は、恥ずかしさや気まずさという、恐怖の親戚のような感情によって形を保っている。それが抜けると、性的な脱抑制も、他人の食事を取ることも、場にそぐわない発言も、本人のなかでは何のブレーキも生じないまま実行される。周囲は当然、その行動を「人格」として読む。ここに、この病気のいちばん理不尽な部分がある。
病変が生んだ行動が、その人の意志や品性として解釈されてしまうのだ。診断名がつくかつかないかで、同じ行動が「症状」にも「非行」にもなる。
「そして、なぜ周囲には不気味なのか」
最後に、この症候群がなぜ怪談じみた印象を残すのか、という話をしたい。
不気味さの正体は、たぶん「本人はそこにいるのに、評価する層だけが抜けている」という構造にある。オーロラは目が見えていた。歩けたし、手も動いた。学習し直すこともできた。テルツィアンとダレ・オーレの患者は言葉を話せた。ただ、その言葉は自分の生理的な必要の範囲に収まる初歩的な文だった。トルコの二十六歳の女性は、三年後には神経学的診察が正常になった。
何かが欠けているのに、欠けている場所を指させないのである。壊れているのは能力ではなく、能力に方向を与えていたものだからだ。
そしてもうひとつ、口唇傾向の見え方の問題がある。人間は誰しも、生まれて最初の数年間は口で世界を確かめる。何でも口に入れる乳児の行動は、誰も不気味だとは思わない。同じ行動を大人がやると、そこに強烈な違和感が生じるのは、私たちが行動を年齢と結びつけて読んでいるからだ。五十年かけて積み上げた層が剥がれ落ち、いちばん下の層がむき出しになっている、と見えてしまう。
実際には退行ではないのだが、見た目には退行そのものに見える。
三つ目に、家族が語る「別人になった」という感覚がある。これはたんなる比喩ではない。私たちが誰かを「その人」だと認識するときに使っている手がかりは、顔や声だけではなく、何を怖がり、何に怒り、何を恥じ、何を我慢するか、という反応のパターンの束だ。この症候群は、その束をまとめて外す。顔も声も体もそのままで、反応のパターンだけが総取り替えされる。だから家族は「知らない人が同じ体に入っている」と感じる。
神経学的にはひとつの症候群だが、家庭のなかでは入れ替わりの怪談として体験されるわけだ。
最後に、いちばん居心地の悪い部分を書いておく。この症候群が示しているのは、私たちの人格のうち、かなりの割合が「やらないこと」でできている、という事実だ。触らない。口に入れない。凝視しない。手を出さない。近づかない。これらの抑制の総体が、その人の落ち着きであり、品格であり、他人から見た「あの人らしさ」を作っている。
そしてその抑制は、両側の側頭葉の内側という、握りこぶしよりずっと小さな領域に依存している。ウイルスでも、事故でも、一本の血管の詰まりでも、そこは壊れる。オーロラの場合はメスだった。
一九三六年十二月八日の朝、クリューヴァーが受話器に向かって叫んだ「君、僕の猿に何をしたんだ」という一言は、この症候群について語られたどの論文よりも正確だったのかもしれない。何をしたのか。獰猛さを取り除いたのではなく、獰猛さを含めた反応の体系そのものを取り除いたのだ。そして残ったのは、目に映るものすべてに手を伸ばし続ける、静かで、疲れを知らない体だった。
クリューヴァーは、そのおとなしくなった猿たちを、最後まで殺したがらなかった。
