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ある日、彼女は別人になった――「悪魔憑き」の正体が自分の免疫だった日・抗NMDA受容体脳炎

2009年の冬、ニューヨークのアパートで、24歳の女性が壁を睨んでいた。南京虫がいる、と彼女は確信していた。腕には赤い斑点が二つ。害虫駆除業者を呼んだ。業者は部屋を隅々まで調べて、首を横に振った。

何もいませんよ。彼女は納得しなかった。いるのだ。自分の体を這っている。これが、後に世界中で読まれることになる闘病記の、事実上の第一行だ。

書いたのはスザンナ・キャハラン。ニューヨーク・ポスト紙の若手記者で、恋人がいて、仕事が面白くなってきたところだった。そして彼女は、その後の一か月をまるごと失う。失う、というのは比喩ではない。記憶が、ない。

暴れたことも、叫んだことも、両親の前で別人のように振る舞ったことも、集中治療室で口をもぐもぐと動かし続けたことも、彼女の頭のなかには一つも残っていない。後に本を書くとき、彼女は自分の一か月を、他人の伝記を取材するみたいにして再構築することになる。両親に聞き、恋人に聞き、弟に聞き、同僚に聞き、病院のカルテを全部読んだ。ジャーナリストのスキルで、自分自身を取材した。

病名は、抗NMDA受容体脳炎(こうエヌエムディーエーじゅようたいのうえん)。彼女が診断されたとき、世界でまだ217人目だった。そしてこの病気には、もう一つの顔がある。かつてこれは、悪魔憑きと呼ばれていたかもしれない、という顔だ。

風邪だと思っていた。そこから何かがずれていった

抗NMDA受容体脳炎の始まりは、拍子抜けするほど地味だ。発熱、頭痛、だるさ、吐き気、下痢。要するに風邪である。あるいは、疲れが出たのかな、という感じ。日本の神経内科医がまとめた総説によれば、この前駆症状から精神症状が出るまでの間隔は、平均しておよそ5日。

たった5日だ。風邪をひいたな、と思ってから一週間経たないうちに、その人は「おかしくなり始める」。最初のずれは、たいてい微妙すぎて誰も気づかない。物忘れが増える。集中できない。

眠れない。感情の振れ幅が異様に大きくなる。さっきまで機嫌よく喋っていたのに、次の瞬間にわけもなく泣き出す。キャハランは自分の初期を振り返って、「悪い日が続いているだけだと思っていた」と語っている。仕事でミスをする。

部屋が片付けられなくなる。同僚が怪訝な顔をする。ここで多くの人が思うことは、決まっている。ストレスだろう。飲みすぎだろう。

仕事のしすぎだろう。そういう言葉で説明がついてしまう。だから病院に行っても、行かなくても、結果はあまり変わらない。そして被害妄想が来る。キャハランの場合、それは恋人の私物を漁って浮気の証拠を探すという形をとった。

南京虫の妄想もこの時期だ。父親は、娘が自分に向かって、聞いたこともないような冷たい言葉を吐くのを聞いている。「別人になった」という言い方を、この病気の家族はほぼ例外なくする。表情が違う。声のトーンが違う。

使う語彙が違う。目の焦点が違う。外から見れば、それは急性の精神疾患そのものだ。統合失調症の初発。双極性障害の躁状態だ。

薬物。アルコール離脱。実際、キャハランはそのすべてを疑われた。神経内科の権威とされる医師は、彼女の不調をアルコールとストレスのせいだと断じたのだ。後年、彼女がカルテを取り寄せて確認したところ、自分は「ワインを毎日2杯」と伝えたはずなのに、カルテには「毎晩2本」と書かれていた。

医師が嘘を書いたとは思わない、と彼女は言う。ただ、若い女性に対する先入観が、無意識に働いたのかもしれない、と。

硬直する。もぐもぐする。息が止まる

精神症状の段階を過ぎると、この病気は正体を現す。痙攣が来る。全身が突っ張り、意識が飛ぶ。ここでようやく救急車が呼ばれ、多くの患者が病院にたどり着く。ただし、この時点でも診断はつかない。

頭部の画像検査は正常なことが多い。血液検査も、目立った異常が出ない。だから「異常なし」と言われる。異常なしと言われて、患者は目の前で壊れていく。次に来るのが、無反応期だ。

日本語の医学文献では緊張病様、あるいはカタトニア類似と書かれる状態で、患者は目を開けたまま、こちらを見ているのかいないのかわからない顔で、動かなくなる。呼びかけても返事をしない。手足を持ち上げると、そのままの姿勢で固まっていることがある。話しかけた言葉が、耳には入っているのに言葉に変換されない、とキャハランは後に説明している。音は聞こえる。

意味にならない。そして本人の口からは、意味の通らない言葉が出る。日本のある患者は、意識が戻ったあとに母親から、自分が入院中に天国と地獄について延々と語っていたと聞かされた。当時ハマっていた漫画の固有名詞も混じっていたらしい。恥ずかしい、と本人はブログに書いている。

しかし本人には、その記憶は一切ない。不随意運動期も特徴的だ。口をもぐもぐと動かす。舌を出し入れする。顔をしかめる。

手指がゆっくりとうねるように動く。これは口部ジスキネジアやアテトーゼ様運動と呼ばれ、報告例の86パーセントに記載があるとされる。誰かに操られているように見える、と家族は言う。実際、そういう見え方をする。本人の意志とは無関係に、顔の筋肉だけが勝手に動いているのだから。

さらに厄介なのが自律神経の暴走だ。血圧が乱高下する。脈が飛ぶ。汗が滝のように出る。唾液が止まらない。

体温がコントロールできない。腸が動かなくなる。そして中枢性の低換気――脳が呼吸のリズムを出せなくなる。報告例のおよそ66パーセントがこれを起こす。呼吸が保てなくなれば、人工呼吸器につながれる。

気管を切開する。集中治療室に入る。ここまで来て、家族はようやく理解する。これは心の病気ではない。体で起きている何かだ。

だが、その何かが何なのかを、当の病院がまだ言い当てられない。

時計を描かせた医者

キャハランの転機は、一枚の紙だった。主治医の一人が、恩師にあたる神経内科医スヘール・ナジャーに診察を頼んだ。ナジャーは彼女の前に座り、名前を尋ね、今が西暦何年かを尋ねた。それまで何人もの医師がやったのと同じ質問だ。それから彼は、紙を差し出して言った。

時計の絵を描いてください。彼女が描いた時計は、円の右半分に1から12までの数字が全部詰め込まれており、左側は空白だった。統合失調症の患者はこういう描き方をしない、とナジャーは言った。双極性障害でもこうはならない。これは脳の右側が炎症を起こして、左の視空間が処理できなくなっているのだ、と。

両親には、もっと単純な言葉で説明した。娘さんの脳は、燃えている。原著のタイトル『Brain on Fire』は、ここから来ている。邦題は『脳に棲む魔物』。KADOKAWAから澁谷正子の訳で出ている。

その後、確定のために脳生検が提案された。両親は当然ためらう。娘の頭を開けるのだ。ナジャーは、自分の娘なら間違いなく生検すると言い、両親は同意した。そして病名がついた。

映画版『彼女が目覚めるその日まで』では、この場面が最大の山場になっている。ほとんど硬直して動かないスザンナに、ナジャーが病名を告げて抱きしめる。キャハラン本人は、この人生最大の瞬間を覚えていない。だが映画を観たとき、彼女は「失った時間を映画によって取り戻せた」と語っている。生死の分かれ目を、他人の演技によって初めて体験した、という奇妙な体験だ。

治療が始まってからも、戻ってくるのはゆっくりだった。ステロイド、免疫グロブリンの大量投与、血漿交換。彼女は完全に回復し、7か月後には職場に復帰する。2009年10月4日、ニューヨーク・ポスト紙に「私の謎めいた狂気の一か月」という記事を書いた。それが本になり、100万部を超え、20以上の言語に訳された。

名前がついたのは、2007年だった

ここが、この話のいちばん背筋が寒くなる部分だ。キャハランが倒れたのは2009年。この病気に名前がついたのは、その2年前である。もし彼女が2004年に発症していたら、何が起きていたか。誰にもわからない。

おそらく精神科の閉鎖病棟に入り、抗精神病薬を飲まされ、それでも良くならなかっただろう。そのまま呼吸が止まったか、あるいは何年もかけて自然に回復して「原因不明の一過性精神病」として片付けられたか。どちらかだ。疾患概念の成立は、意外なほど日本と縁が深い。1964年、順天堂大学の飯塚礼二らが、急性瀰漫性リンパ球性髄膜脳炎という名前で剖検例を報告している。

1994年には楠原智彦らが非ヘルペス性急性辺縁系脳炎という枠組みを提示した。1997年、日本大学の西村敏樹・亀井聡らが、若い女性に集中して起きる原因不明の重い脳炎を「急性若年女性非ヘルペス性脳炎」として報告する。同じ1997年、岡村仁と野倉一也が、卵巣奇形腫の手術後に回復した急性辺縁系脳炎の症例を報告した。

2000年代前半には、静岡てんかん・神経医療センターの高橋幸利らがグルタミン酸受容体に対する抗体を検出している。つまり日本の医師たちは、この病気の輪郭を先に見ていた。若い女性が、風邪のあとにおかしくなり、痙攣し、呼吸が止まり、しかし何年か経つと戻ってくる。そういう患者が確かに存在することを知っており、ただ、なぜそうなるのかがわからなかった。

答えを出したのは、当時ペンシルベニア大学にいたジョセップ・ダルマウのグループだったのだ。2005年、ダルマウとロベルタ・ヴィタリアーニらは、卵巣奇形腫を持つ若い女性が精神症状と低換気を起こす症例を4例まとめて報告した。この時点では「卵巣奇形腫に伴う傍腫瘍性脳炎」という記述にとどまっている。彼らは患者の脳脊髄液が、ラットの海馬の神経細胞表面に結合することを見つけていた。

何かの抗体が、神経細胞の表面にある何かを狙っている。その何かの正体が、まだわからず、2007年、答えが出た。ダルマウらは12例をまとめ、標的がNMDA受容体――正確にはその受容体を構成する部品のうち、細胞の外に出ている立体的な部分――であることを突き止めて発表した。これが疾患概念の確定である。この論文の掲載誌は神経学の主要誌の一つで、以後この病気は「抗NMDA受容体脳炎」と呼ばれることになる。

そして日本の医師たちは、自分たちが十数年追いかけてきた「急性若年女性非ヘルペス性脳炎」が、これと同じものだったことを知る。名前が違っただけで、同じ病気を見ていたのだ。2008年には100例規模の解析が出た。そこでわかったのは、腫瘍を持たない患者が4割以上いるということだった。男性も、子どもも、高齢者もかかる。

卵巣奇形腫はきっかけの一つにすぎない。2013年には577例のコホート研究が出て、治療のタイミングと予後の関係が整理された。2016年には、フランセスク・グラウスとダルマウを中心とする国際チームが、抗体検査の結果を待たずに治療を始めるための診断基準を発表する。この基準の共著者には、北里大学の飯塚高浩の名前がある。十年足らずで、名前のない病気が、診断基準を持つ病気になった。

そもそもNMDA受容体は何をしているのか

なぜ、この受容体が攻撃されると人格が壊れるのか。ここを押さえておくと、話が一段面白くなる。脳の神経細胞は、主にグルタミン酸という物質でお互いに信号を送り合っている。それを受け取る側の装置がグルタミン酸受容体で、NMDA受容体はその一種だ。ただし、他の受容体とは決定的に違う性質を持っている。

普通の受容体は、鍵穴に鍵が刺されば開く。NMDA受容体は開かない。グルタミン酸が結合するだけでは足りない。相棒であるグリシンまたはD-セリンが同時に結合し、なおかつ受け手の細胞膜が十分に興奮していなければならない。静かな状態では、イオンの通り道にマグネシウムが栓のようにはまっていて、電流が流れないようになっているからだ。

つまりNMDA受容体は、「二つのことが同時に起きた」ということを検出する装置なのである。神経科学の世界では一致検出器と呼ばれる。この性質があるから、この受容体は記憶と学習の物理的な土台になっている。ある信号とある信号が同時に来たときだけ、シナプスの結びつきが強くなる。それが記憶の正体だと考えられている。

だから、この受容体を止めるとどうなるか。実は、その答えを人類はとっくに知っていた。ケタミンとフェンサイクリジンである。どちらもNMDA受容体を遮断する薬だ。ミシガン大学のエドワード・ドミノらは、これらをヒトに投与すると統合失調症に酷似した症状が出ることを報告している。

1994年にはイェール大学のジョン・クリスタルらが、健常者にケタミンを投与する実験を行った。統合失調症の陽性症状も陰性症状も認知機能障害も、全部そろって出ることを示している。幻覚が出る。妄想が出る。自分が自分の体から離れていくような解離が起きる。

抗NMDA受容体脳炎の患者の脳で起きているのは、ざっくり言えば、ケタミンを打ちっぱなしにされているような状態だ。しかも薬ではなく、自分の免疫が作った抗体によって。抗体は受容体に結合し、受容体同士を橋渡しするようにくっつける。すると細胞は「これは要らないものだ」と判断して、受容体を細胞の中に引きずり込んでしまう。専門的には内在化という。

細胞の表面から受容体の数が減る。信号が通らなくなる。記憶が作れなくなる。運動の制御が乱れる。呼吸のリズムが出せなくなる。

ここが決定的に重要なのだが、この過程で神経細胞そのものは死んでいない。壊れているのではなく、機能が止められているだけなのだ。だから抗体が減れば、受容体は表面に戻ってくる。人も戻ってくる。何年かかっても戻ってくることがある。

この病気の患者が、数年の昏睡状態から普通に喋れるようになるという、およそ信じがたい回復を見せる理由がここにある。

引き金は腫瘍のこともあるし、ヘルペスのこともあるし、わからないこともある

なぜ自分の免疫が、自分の脳を狙うのか。もっとも有名な引き金が卵巣奇形腫だ。この腫瘍には神経組織が含まれることがあり、そこにNMDA受容体を作る細胞が混じっている。免疫系は腫瘍の中の神経組織を「外から来た異物」として認識し、抗体を作る。ところがその抗体は、腫瘍の中の受容体と本物の脳の受容体を区別できない。

結果として、脳が攻撃される。だから腫瘍を取れば抗体の供給源が断たれ、劇的に良くなることがある。奇形腫そのものの話は別稿に譲るが、この病気に関して言えば、奇形腫は主役ではなく、あくまで引き金の一つである。なぜなら、腫瘍が見つからない患者のほうがむしろ多いからだ。2008年の100例解析では、腫瘍が確認できたのは59パーセント。

日本の研究班の資料では約4割とされている。子どもでは腫瘍合併率がさらに低い。男性例では精巣の胚細胞腫瘍や小細胞肺癌が見つかることがあるが、これも一部だ。もう一つ、はっきりした引き金として知られているのが単純ヘルペス脳炎である。ヘルペス脳炎を発症して、抗ウイルス薬で一度良くなった患者が、数週間後にまた悪くなる。

かつては「ヘルペス脳炎の再発」と呼ばれていたこの現象の相当部分が、実はウイルスが引き金になって起きた抗NMDA受容体脳炎だった。ウイルスに壊された神経細胞から中身が漏れ出し、免疫がそれを見て抗体を作ってしまう、という筋書きが考えられている。小さい子どもでは、この二段構えのあとに手足のくねるような不随意運動が前面に出ることがある。そして、いくら探しても引き金がわからない患者がいる。かなりの数、いる。

患者会の会長を務める片岡美佐江の長女も、卵巣奇形腫は見つからなかった。抗体ができた理由がわからないまま発症し、意識が戻ったのは4年後、退院までにさらに9か月かかった。原因がわからないということは、再発を防ぐ確実な手立てもわからないということだ。回復した後も、再発の可能性を抱えて生きることになる。

悪魔憑きだったのかもしれない、という議論

ここからが、この病気がオカルトの領域に足を踏み入れる部分だ。症状を並べてみればいい。人格が別人のように変わる。汚い言葉、卑猥な言葉を吐く。宗教的なものを嫌がる。

誰も理解できない言葉を口走る。体が硬直して固まる。数人がかりでも押さえられないほど暴れる。顔が歪む。口が勝手に動く。

目つきが変わる。そして――治療という概念のなかった時代には――何をしても医者には治せない。これを中世の記録が書いたら、なんと呼ぶだろうか。実際、後方視的にこの病気を疑う医学論文はいくつも出ている。もっとも精緻なのが、ハンガリーの研究者テーニ・ダルマらが2020年に発表した「1830年の傍腫瘍性抗NMDA受容体脳炎か」という報告だ。

彼らが再検討したのは、1841年にフィレンツェで開かれた学会でオドアルド・リノリという外科医が発表した症例だ。その報告はハンガリー語・ドイツ語・イタリア語の医学誌に掲載されている。その症例はこうだ。1830年、それまで健康だった18歳の女性が痙攣発作を起こす。その後、6日間にわたって、カタレプシー様の姿勢のまま動かず、反応せず、生きている唯一のしるしが極端に浅い呼吸だけ、という状態に陥った。

この発作とカタレプシーは、その後1年半にわたって繰り返し戻ってきて、その間、腹部に巨大な腫瘍がどんどん育っていったのだ。ある日、彼女は突然コーヒー色の液体を大量に吐いた。二週間後、悪臭のする膿と血を吐き、そこに100個を超える骨の破片が混じっていた。平たいもの、細長いもの、球状のもの。同時に、膿と血の混じった膜のようなものが肛門と膣からも排出された。

この出来事の後、発作もカタレプシーも消えた。彼女は健康に戻り、1年半後に結婚し、3人の子を産んだ。リノリが発表した時点で発症から11年、彼女は元気だった。論文の著者たちの解釈はこうだ。あの腹部の腫瘍は卵巣奇形腫であり、それが自然に破裂して体外に排出され、抗体の供給源が消えたから、症状が消えた。

当時「カタレプシー」と記述された状態は、40年以上あとになって定義されるカタトニア(緊張病)であり、浅い呼吸は中枢性低換気だった。この読み替えが正しいなら、これは1830年の抗NMDA受容体脳炎であり、傍腫瘍性症候群の記述としてはトルソー症候群より35年早いことになる。もっと古い記録にも同じ議論がある。

1671年、ニューイングランドの少女エリザベス・ナップの記録には、舌が口蓋に半円形に引き込まれて数時間動かせなくなった。6人の男でも押さえられない発作が起きた、といった描写がある。当時これは悪魔憑きとして扱われた。そしてもちろん、『エクソシスト』だ。ウィリアム・ピーター・ブラッティの小説は、1949年にメリーランド州の14歳の少年に対して行われた実際の悪魔祓いを下敷きにしている。

この少年は、後にロナルド・エドウィン・ハンケラーであることが2021年に報じられた。医学解説の文脈では、この症例が抗NMDA受容体脳炎の典型例だったのではないか、という指摘が繰り返しなされている。日本の医学誌『BRAIN and NERVE』にも、この病気を『エクソシスト』と絡めて論じた記事がある。毎日新聞は連載の見出しにはっきりと「悪魔払い」という言葉を使った。そして、アンネリーゼ・ミシェル。

1952年にバイエルンに生まれ、1976年に23歳で亡くなったドイツ人女性である。16歳のときに痙攣発作を起こし、側頭葉てんかんと診断された。20歳を過ぎるころには、十字架をはじめとする宗教的なものに耐えられなくなり、声が聞こえるようになったのだ。悪魔の顔が見えると訴え、抗てんかん薬も抗精神病薬も効かなかった。5年間の薬物治療で改善しないまま、本人と家族は悪魔憑きだと確信するようになる。

1975年、司教の許可を得て悪魔祓いが始まり、およそ10か月で67回の儀式が行われた。彼女は食事を摂らなくなり、1976年7月1日、栄養失調と脱水で死亡し、体重は30キロだったのだ。両親と2人の司祭は過失致死で有罪となった。彼女の生涯は映画化され、その名は憑依の代名詞になっている。彼女は抗NMDA受容体脳炎だったのか。

正直に書くが、これは確定していないし、おそらく永遠に確定しない。そして専門家の多くは、むしろ否定的だ。理由は明快で、経過が合わないのである。抗NMDA受容体脳炎は数日から数週間で急激に進行する病気だ。前駆症状から精神症状まで平均5日。

そこから緊張病や呼吸不全まで、たいていは数週間。ところがアンネリーゼ・ミシェルの経過は8年に及ぶ。16歳の発作から死まで、ゆっくりと、断続的に悪化している。これは抗NMDA受容体脳炎の典型像とはかなり違う。そもそも後方視的診断には、原理的な限界がある。

当時の記録は当時の医学用語で書かれている。カルテはない。脳脊髄液はない。抗体を測る技術は存在しなかった。残っているのは、目撃者の言葉と、その時代の解釈の枠組みを通したメモだけだ。

1830年の症例が説得力を持つのは、腫瘍の存在と排出という物証めいた記述があるからで、それがない記録は、症状が似ているという以上のことを言えない。さらに言えば、「昔の憑依はすべて自己免疫脳炎だった」という物語は、それ自体が単純化しすぎている。てんかん、統合失調症、解離性障害、集団心因反応、宗教的な演技、単なる嘘、そして家族と共同体の力学。

憑依とされた出来事の背後には、いくつもの異なる現象が雑多に混ざっている。ロナルド・ハンケラーの件についても、懐疑論者のジョー・ニッケルやマーク・オプサスニックが指摘している。当時記録された現象のほとんどは、思春期の少年に十分可能な範囲だった、と。儀式に立ち会ったウォルター・ハロラン神父自身、後年こう述べている。

少年の声が変わったとは思わなかったし、ラテン語を話せたわけではなく司祭の言葉を真似ていただけだろう、と。だから、この記事の立場ははっきりさせておく。過去の憑依記録のなかに抗NMDA受容体脳炎だった例が混じっていた可能性は、高い。1830年の症例のように、そう読むほうが自然な記録も実在する。だが特定の人物について「あれは脳炎だった」と断言することはできない。

とりわけアンネリーゼ・ミシェルのように、遺族が存命で、関係者が刑事責任を問われた事例については、断定は慎むべきだ。誰かの死を、後知恵の診断名で回収して気持ちよくなるのは、故人にも遺族にも失礼だと思う。言えるのは、こうだ。「悪魔憑き」という言葉が指し示していた現象の一部には、確実に、治療可能な脳の病気が含まれていた。そして人類は、その一部を、2007年になるまで見分けられなかった。

語られた記録から――四つの証言

この病気の輪郭は、統計よりも証言のほうが正確に伝える。公表されている記録から、いくつか紹介したい。一つめは、キャハラン自身の言葉だ。闘病中の記憶はほとんどないと彼女は言う。ただ、断片はある。

幻聴や幻覚を見たときの「恐れ」と「怒り」という感情だけが、内容抜きで残っているのだという。病院での記憶は、ネガティブな感情以外に何もない。本を書くために両親や恋人や同僚に取材して回ったとき、彼女は奇妙なことに気づいた。自分の記憶と周囲の記憶が大きく食い違う。さらに、家族から見た自分と、病院側から見た自分もまるで違う。

その落差を客観的な事実で埋めていく作業が、この本の骨格になった。本の最後の三分の一、つまり回復期の部分だけは自分の記憶と感情で書いており、そこを書くのが精神的にいちばんきつかった、と彼女は語っている。彼女は医療そのものへの批判も口にする。病院は精神科、神経内科、外科と縦割りになっていて、その間に深い溝がある。自分の経験から、発症から全快までを診療科の垣根を越えて支えるしくみが必要だと痛感した、と。

そして、一人の医師の診断を鵜呑みにしないこと。彼女が繰り返し言うのは、この二点だ。二つめは、岡山の中原麻衣・尚志の記録である。2006年の暮れ、挙式を翌春に控えていた麻衣は当時24歳で、突然この病気に襲われた。幻覚を訴え、暴れ、まもなく意識がなくなり、人工呼吸器につながれ、全身がむくみ、顔つきが変わったのだ。

婚約者の尚志は毎朝病室に通い、いつか彼女が治ったときのためにと、携帯電話で闘病の様子を撮り続けた。2007年5月、岡山大学病院の集中治療室で、救急科の氏家良人と産科婦人科の平松祐司が向き合っていた。やるべき治療はすべてやった、あとは卵巣腫瘍を切除するしかない――そういう会話が交わされている。将来の妊娠に備えて、卵巣は温存する形の手術が選ばれた。2008年になっても麻衣の状態は変わらなかった。

彼女の両親は、絶望のなかで尚志にこう告げている。もう君はいいと思うんだ。もう麻衣のことは忘れてもらっていい、君は家族じゃないんだから。尚志はその言葉に傷つきながら、離れなかった。式場の予約もキャンセルしなかった。

麻衣が話せるようになったのは2012年、記憶が戻り始めたのはさらにあとだ。二人は2015年3月17日に挙式し、同じ年に第一子が生まれた。夫婦の共著『8年越しの花嫁 キミの目が覚めたなら』はベストセラーになり、2017年に映画化された。奇しくもキャハランの映画版と、日本での公開日が同じ12月16日である。三つめは、大学入学式の数日前に倒れた女性の記録だ。

ネット上に吹雪という名前で自分の経過を公開している。彼女の記録は、この病気の「主観」がどう欠落するかを、これ以上ないほど鮮明に示している。最初は38度ほどの熱が出た。風邪だと思った。頭痛がひどくなり、病院で頭の画像を撮ったが異常なし。

薬局で薬を待っている間、頭痛に耐えられなくなってソファで目を閉じた。そこで記憶が切れる。次にある記憶は、喉のあたりの強烈な痛みで目を開けたところ。その間、約3か月が経っており、痛みの正体は痰の吸引だった。意識がなかった間、彼女は奇行を繰り返し、激しい痙攣が止まらず、拘束具を器用に脱ぎ、呼吸ができなくなって気管を切開されていたのだ。

病名がついたのは入院から約1か月後で、たまたま教授回診で病室を訪れた北里大学の教授が、同じ病気の患者を診た経験を持っていたからだった。卵巣に原因がある可能性を指摘され、右の卵巣を摘出。抗体を取り除く処置をして、2週間ほど高熱が続いたあと、意識が戻った。意識が戻ったとき、全身は死後硬直のように硬く、自力ではほとんど動かせず、自分で呼吸もできなかった。

生まれたばかりの赤ん坊以下だった、と彼女は書いている。嚥下の訓練、指先を動かす訓練、歩行の訓練、滑舌の訓練。それでも不思議とネガティブなことは考えなかったという。ただ一度だけ涙が出たのは、精神科の医師が病室に来て、独特のテンポで話しかけてきたときだった。自分では受け入れているはずの事実だったのに、涙腺が緩むのを止められなかった。

彼女は目覚めてから約4か月で退院し、翌年の4月に大学へ入学し、留年せずに4年で卒業している。四つめは、患者会と、その周辺の記録だ。2017年6月25日、東京で抗NMDA受容体脳炎の患者会が発足した。北海道から沖縄まで、患者と家族約110人が集まった。会の名前は「ぶるうばあど」。

会長になったのは片岡美佐江で、彼女の長女は子どもの頃に再生不良性貧血を骨髄移植で乗り越えたあと、この脳炎を発症した。副会長には、娘の闘病中の動画を報道機関に提供した母親が就いた。動画を出す、という決断がどれほどのものか、想像してほしい。もっとも見せたくない状態の我が子を、この病気を知ってもらうために公開したのである。また、2014年に発症した女性の記録も報じられている。

5か月間意識不明だった彼女が、2014年10月27日、病室のホワイトボードに黒いペンで一文字ずつ書いた。「こ、ど、も、が、し、ん、ぱ、い」。ミミズがのたくったような文字だったという。それが、発症以来はじめて彼女が自分の気持ちを伝えた瞬間だった。

映画と、ネットと、「統合失調症は自己免疫かもしれない」という危うい話

映画版『彼女が目覚めるその日まで』の日本での評判は、はっきり言えば真っ二つだ。好意的な評は、クロエ・グレース・モレッツの演技に集中している。役作りのために本人と2時間ビデオ通話をして、ノート12ページ分のメモを取ったという。癖や話し方まで再現していると、キャハランの友人たちが言ったらしい。キャハラン本人も、周囲の人はみな「この映画は病気をリアルに伝えている」と言っている、と語っている。

一方で、上映時間89分という短さや、脳生検から診断への飛躍の速さを物足りなく感じた人もいる。そして何より多かった感想は、これはホラーだ、というものだった。ある個人ブログは「2017年度最高のホラー」と書いた。同じ年に公開されたホラー大作より怖かった、とも。ヒロインが原因不明のまま壊れていくのを、家族と一緒に見守るしかない映画なのだから、当然と言えば当然だ。

医者の誤診って怖いね、という素朴な感想も繰り返し出てくる。日本のネット上の反応で目立ったのは、同日公開の『8年越しの花嫁』との偶然の一致だった。同じ日に、同じ病気を扱った映画が、日米から二本公開される。この確率の低さが、かえって病名の認知度を押し上げた。そしてもう一つ、この病気の発見が広げてしまった議論がある。

「統合失調症の一部は、実は自己免疫疾患なのではないか」というものだ。理屈としては筋が通っている。NMDA受容体の働きが落ちると統合失調症そっくりの症状が出ることは、ケタミンとフェンサイクリジンで実証済みだ。統合失調症のグルタミン酸伝達低下仮説は、それを土台にしている。そこへ、実際にNMDA受容体を攻撃して統合失調症そっくりの症状を出す病気が見つかったのだ。

だから両者を結びつけたくなる気持ちはよくわかる。しかし、ここには大きな落とし穴がある。2020年、英国のトーマス・ポラックらは「自己免疫性精神病」という概念を提唱する論文を発表した。神経症状がほとんどなく純粋に精神症状だけを呈するのに、神経細胞に対する抗体が陽性で、免疫療法に反応する患者群がいる。それは確かにいる。

だが同時に、彼らは強い警告を発している。血清中のNMDA受容体抗体は、健常者を含むさまざまな集団の1から5パーセントで検出されるのだ。つまり、血清の抗体が陽性というだけでは、何も意味しない可能性がある。抗体があるからその人の精神症状が抗体のせいだ、とは言えない。だからポラックらは、急性精神病の患者全員に抗体スクリーニングをすることに明確に反対している。

検査すべきなのは、赤旗と呼ぶべき臨床的な警告サインがあるときだけだ。感染症のような前駆症状、異様に急速な進行、抗精神病薬への悪い反応、痙攣、自律神経障害、腫瘍の合併、低ナトリウム血症。そういう手がかりがあるときに、慎重に検査する。しかも、髄液で調べないと話にならない。血清が陰性でも髄液が陽性の患者が15パーセント前後いることが報告されている。

逆に、血清だけ陽性で髄液が陰性の場合、その意味は今のところわからない。抗体を測るには、受容体の立体構造を保ったまま細胞の表面に出す特殊な方法が必要で、従来のやり方では検出できない。要するに、この検査は「とりあえず出しておく」類のものではない。抗NMDA受容体脳炎の発見は、精神症状の一部に生物学的な説明がつくことを証明した。それは巨大な前進だ。

しかしそれは、「精神疾患は本当はすべて身体疾患である」という主張の証拠にはならない。抗体が見つかったのは、あくまで抗体が見つかった人だけの話である。この距離感を見失うと、話は一気に胡散臭くなる。

日本でこの病気にかかると、実際どうなるのか

現実的な話をしておく。抗NMDA受容体抗体の測定は、日本では今のところ保険が利かない。研究的な位置づけの検査で、測定できる施設も限られている。たとえば東京都立神経病院は、東京都医学総合研究所に測定を依頼していることを公表している。つまり、どこの病院に運ばれるかで、診断までの時間が変わりうる。

これは地域格差の問題であり、この病気の患者会が公的支援の拡大を訴えている理由の一つでもある。だからこそ、2016年の国際的な診断基準は「抗体の結果を待たずに治療を始めるための基準」として作られた。6つの主要症状は、精神行動異常や認知機能障害、言語障害、痙攣、そして運動異常や異常な姿勢。さらに意識レベルの低下、自律神経障害または中枢性低換気が加わる。

そのうち4つが3か月以内に急速に出そろい、脳波か髄液に異常があり、他の病気が除外できる。それなら抗体を待たずに「おそらくこの病気」として動いていい。腫瘍が見つかっていれば主要症状は3つでいい。抗体が確認できれば確定になる。脳波では、エクストリーム・デルタ・ブラシと呼ばれる独特のパターンが手がかりになることがある。

2012年にペンシルベニア大学のグループが報告したもので、遅い大きな波の上に速い波が重なる形をしている。未熟児の脳波に似ていることから、この名前がついた。23人の患者のうち7人、つまり3割ほどに見られ、このパターンがある患者は入院期間が長くなる傾向があった。特異度は高いが、頻度はそれほど高くない。あればラッキー、なければ否定できない、というタイプの所見だ。

治療の第一段階は、腫瘍があれば切除、そしてステロイドパルス療法、免疫グロブリンの大量静注、血漿交換である。ここで反応するのは、およそ半数と言われる。4週間経っても改善しなければ第二段階に進む。リツキシマブやシクロホスファミドといった、より強力に免疫を抑える薬だ。日本では、この第二段階の薬がこの病気に対して原則として使えないという制度上の壁がある。

防衛医科大学校病院は学内の倫理委員会の審査を経て、5人の患者にこの薬を使ったと報じられている。うち4人は短期間で社会復帰し、一人は亡くなった。予後については、2009年時点の日本の総説で、完全あるいはほぼ完全な回復が75パーセント、高度の後遺症が15パーセント、死亡が7パーセントとされている。回復には数週間から数年かかる。日本の研究班の資料には、記憶の面での後遺症が約6割に残る、という記述もある。

治る病気だ、というのは正しい。だが、無傷で帰ってこられる病気だ、というのは正しくない。患者数はどうか。ここには面白い食い違いがある。患者会は「国内で年間およそ1500人」という数字を掲げている。

映画公開時の取材記事でも「日本でも年間1000人ほど」と紹介された。一方、2022年度に行われた全国疫学調査の一次調査では、推計患者数が603人、うち新規が年間212人と見積もられている。人口10万人あたりの推計有病率は0.48人。この差は、診断されていない患者がどれだけいると考えるかの差でもある。海外では発症率を100万人あたり年1.5人程度とする推計がある。

そしてカリフォルニアの脳炎プロジェクトが2012年に出した数字は、この病気の位置づけを一変させた。30歳以下の脳炎患者のなかで、抗NMDA受容体脳炎はきわめて多く見つかった。単純ヘルペスウイルス1型やウエストナイルウイルス、水痘帯状疱疹ウイルスのそれぞれの4倍以上である。若い人の脳炎の原因として、これは「珍しい病気」ではなく、むしろ筆頭候補だった。

しかも自律神経の不安定さは、ウイルス性の患者には一人も見られず、この病気の患者にだけ見られた。制度の話も書いておく。抗NMDA受容体脳炎を含む「自己免疫介在性脳炎・脳症」は、2018年度から18歳未満を対象とする小児慢性特定疾病に指定された。しかし、大人まで含めた指定難病への追加は、2019年1月の検討委員会でも見送られている。

見送りの理由としてかつて挙げられたのは、「他の施策体系が樹立している病気」――つまり腫瘍が原因ならがん対策の枠で支援できるはずだ、という判断だった。だが実際には、腫瘍が見つからない患者が過半を占める。子どものときは助成が受けられて、治らないまま大人になると助成が切れる。患者会が声を上げ続けているのは、こういう具体的な穴に対してである。念のために書き添えておくが、この記事は診断や治療の指針ではない。

急に人が変わったように見える人が身近にいて、しかもそれが数日から数週間という単位で進んでいるとする。そのときは精神科と神経内科の両方が動ける病院で診てもらう、という選択肢があることだけ、頭の片隅に置いてもらえればいい。判断するのは医師の仕事だ。

それでも、この話が人を離さないのはなぜか

ここまで書いてきて、自分でも思う。なぜ自分はこの病気の話をこんなに面白いと感じてしまうのか。答えの一つは、たぶん、この病気が「自我とは何か」という問いに、いちばん残酷な形で答えを出してしまうからだ。私たちは普段、自分の人格を自分のものだと思っている。趣味も、口調も、怒りのツボも、誰を愛しているかも、自分が積み上げてきたものだと思っている。

ところがこの病気は、それを数日で剥ぎ取る。優しかった人が汚い言葉を吐き、恋人を疑い、家族に暴力を振るう。そして本人にはその記憶がない。つまり、人格というのは、脳のシナプスにある特定の受容体が、正常な密度で表面に並んでいるという、ただそれだけの条件の上に載っている。その受容体が抗体でひっぺがされると、人格も一緒に剥がれる。

抗体が減れば、人格は戻ってくる。戻ってきた本人は、剥がれていた期間の自分を「自分がやったこと」として引き受けられない。当たり前だ。やっていたのは、受容体が足りない脳なのだから。これは怖い。

だが同時に、途方もない希望でもある。悪魔憑きの物語がずっと人を惹きつけてきたのは、「自分が自分でなくなる」という恐怖の形式だったからだ。外から何かが入ってきて、私の口を使って喋る。私の手を使って人を傷つける。私はそれを見ているのに止められない。

そして誰も私を助けられない。抗NMDA受容体脳炎の物語は、その形式をそっくり引き継いだうえで、結末だけを差し替えた。入ってきたのは悪魔ではなく、自分の免疫が作った抗体で、追い出すのは祈祷ではなく、腫瘍の摘出と免疫療法だった。そして多くの場合、人は帰ってくる。スザンナ・キャハランは帰ってきて本を書き、中原麻衣は8年かけて帰ってきて、約束した日に結婚式を挙げた。

大学の入学式を逃した女性は、翌年の入学式に間に合ったのだ。5か月間声を失っていた女性は、ホワイトボードに「こどもがしんぱい」と書いた。悪魔憑きの記録には、この続きがない。祓えたか、死んだか、どちらかだ。私たちが2007年以降に手にしたのは、その続きを書く方法である。

それが、この地味な名前の病気が、どんな怪談よりも面白い理由だと思う。ここからは、本編で書ききれなかった論点を、もう少し腰を据えて掘る。

「珍しい病気」という言葉が、どれだけ人を殺してきたか

この病気について調べていて、いちばん引っかかった言葉がある。カナダの患者団体の医師が使ったという表現で、抗NMDA受容体脳炎は「珍しい病気」ではなく「珍しい診断」だ、というものだ。この二つは、まったく違う。珍しい病気なら、見逃しても仕方がない。100万人に1人なら、一生に一度も出会わない医師のほうが多い。

だが「珍しい診断」というのは、患者は相応の数がいるのに、診断される数が少ないという状態を指す。差分はどこへ行くのか。精神科の病名がついて、そのまま長期入院になる。ストレスと言われて帰される。原因不明の重症脳炎として集中治療室で亡くなる。

カリフォルニアの脳炎プロジェクトの数字は、この差分の存在を示す最初の強い証拠だった。30歳以下という条件をつけると、この病気は個別のウイルス性脳炎より多い。しかも患者の65パーセントは18歳以下だった。つまり、若い人の脳炎の原因としては、決して珍しくない。にもかかわらず珍しいと思われているのは、抗体を測る発想が現場になかったからだ。

日本の数字にも同じ影がある。全国疫学調査の推計は年間新規212人。患者会が掲げるのは年間1500人。この乖離は、どちらかが間違っているというより、「診断された数」と「実際にいるはずの数」の差だと読むのが自然だと思う。もちろん患者会の数字にも根拠の弱さはあるし、疫学調査の数字は回収率47パーセントの一次調査からの推計だ。

どちらも決定的ではない。だが、この病気の患者数が「診断体制の関数」であることだけは間違いない。抗体検査が保険外で、測定施設が限られているかぎり、日本の患者数は「測れる分だけ」しか出てこない。

誤診の構造は、個人の不注意ではない

キャハランを誤診した神経内科医の話に、私はいちばん考えさせられた。彼女は当初、その医師に強い怒りを抱いていた。カルテの改竄めいた記載(ワイン2杯が2本になっていた)を見つけたときは、なおさらだったろう。だが彼女は最終的に、この医師をアメリカの医療が抱える構造問題の象徴として捉え直す。病院が採算を取るには一人の医師が一日30人以上を診なければならない。

すると患者一人に割ける時間は5分になる。5分で、若い女性の「なんとなくおかしい」を、統合失調症の初発と自己免疫脳炎に切り分けろというのは、無理だ。そしてもう一つ、彼女が指摘するのが縦割りである。この病気は、精神科の入口から入ってきて、神経内科の中身を持ち、集中治療の出口を必要とし、場合によっては婦人科の手術を要する。

111人の成人患者を対象とした後ろ向き研究では、59パーセントが最初に精神症状で気づかれ、41パーセントが最初に精神科施設に入院していた。つまり四割は、神経内科医の目に触れないところから始まる。精神科病棟で、患者が硬直して喋らなくなったとする。それを緊張病と呼んで、その線で治療を続けることは、精神医学的には筋が通っている。実際、緊張病はれっきとした精神科の状態像だ。

だから、そこで「髄液を採ろう」と誰かが言い出さないかぎり、話は動かない。ポラックらの論文が指摘しているのも、まさにそこだ。髄液検査は、精神科の患者に対して行われることが極めて稀である。日本の吹雪という女性の症例で診断がついたのは、たまたま教授回診で来た別大学の教授が、同じ病気を診た経験を持っていたからだった。これは幸運の話として語られている。

だが幸運が必要だという事実自体が、システムの穴を示している。

なぜ「抗体が見つかる病気」の発見が、精神医学を揺さぶったのか

抗NMDA受容体脳炎の衝撃は、単に新しい病気が一つ増えたということではない。精神疾患の生物学的な説明は、これまでずっと間接的だった。この脳部位の活動が低い、この神経伝達物質が多い少ない、この遺伝子多型と相関がある。どれも状態を記述してはいるが、因果を示すには弱い。

ところがこの病気では、原因が一個の分子として同定され、それを取り除くと症状が消え、患者の抗体を培養神経細胞にかけると受容体が減り、抗体を洗い流すと元に戻る。因果の鎖が、端から端まで見えている。だから、これを一般化したくなる誘惑が生まれるのは自然なことだった。統合失調症の一部も、うつ病の一部も、実は抗体で説明できるのではないか。

この誘惑への最良の解毒剤が、健常者の1から5パーセントで血清抗体が陽性になるという事実だと思う。抗体があるのに何ともない人が、それなりの割合で存在する。ということは、抗体の存在そのものは病気の証明にならない。何が違うのかというと、おそらく抗体が血液脳関門を越えて脳に届いているかどうかだろう。髄液のなかで抗体が作られているかどうか、抗体の量と種類、そしてまだ誰も特定できていない何かの問題でもある。

だからポラックらの診断基準は、拍子抜けするほど保守的だ。急性発症の精神病に赤旗が一つ以上あれば「可能性あり」。それに加えて髄液の細胞数増多や、内側側頭葉に限局した画像異常や、脳波異常があれば「おそらく」。髄液から抗体が出て、はじめて「確定」。血清だけ陽性の症例に対する免疫療法は、臨床試験の結果を待つべきだとされている。

この慎重さは、退屈に見えるかもしれない。だが、この慎重さこそが、この分野を疑似科学から守っている壁だと思う。「あなたの心の病は、実は脳の炎症です」という物語は、あまりにも魅力的すぎる。魅力的すぎる物語には、必ず商売が寄ってくる。

可逆性という、この病気だけが持つ異様な性質

医学の常識では、脳がやられたら元には戻らない。脳梗塞も、外傷も、変性疾患も、失われた神経細胞は帰ってこない。リハビリで代償するしかない。抗NMDA受容体脳炎は、この常識の例外にあたる。神経細胞は死んでいないからだ。

抗体は受容体を細胞内に引きずり込むが、細胞そのものを殺さない。シナプスの構造も、大きくは壊れない。だから抗体が減れば受容体は表面に戻り、機能も戻る。この性質が、臨床の景色を変えている。何年も昏睡状態にある患者を前にして、普通なら「回復の見込みは低い」と告げる場面で、この病気だけは「まだ待てる」と言える。

中原麻衣が話せるようになったのは発症から5年以上あと、記憶が戻り始めたのはさらにあとだ。片岡美佐江の長女が意識を取り戻したのは4年後である。もしこれが低酸素脳症だったら、その待機は無意味だった。同時に、この可逆性は残酷でもある。待てば戻るかもしれない、というのは、待ち続けなければならない、ということでもあるからだ。

中原尚志が浴びせられた「もう君はいいと思うんだ」「君は家族じゃないんだから」という言葉の重さは、そこにある。婚約者の両親は、彼を追い払おうとしたのではない。彼の人生を、終わりの見えない待機から解放しようとしたのだ。そして、記憶の後遺症が約6割に残るという数字も、この可逆性の限界を示している。人は戻ってくるが、戻ってきた場所には、失われた時間が空白として残っている。

キャハランはその空白を取材で埋めた。中原麻衣は、婚約者が送り続けた何百通ものメールと動画で埋めた。埋める材料を持っていない人は、どうすればいいのだろう。

後方視的診断という、魅力的で危険な遊び

最後に、歴史の読み替えについてもう一度だけ書いておきたい。過去の記録に現代の病名を当てはめる行為には、抗いがたい快感がある。謎が解ける。理不尽だったものに理屈がつく。1830年の症例の再検討が説得力を持つのは、単に症状が似ているからではない。

腫瘍が現れ、症状が続き、腫瘍が体外に排出され、症状が消えた――この時間的な対応関係が、因果を強く示唆するからだ。しかもこの症例は、ハンガリー語、ドイツ語、イタリア語の三つの医学誌に記載され、当時の一流の外科医が発表し、ピサ大学の外科学教授が討論に加わっている。記録の信頼性が高い。逆に言えば、こういう条件がそろわない記録に同じことをやると、それは診断ではなく空想になる。

中世の悪魔祓いの記録には、腫瘍の有無も、発熱の経過も、髄液の所見も書かれていない。書かれているのは、聖職者が見たと信じたことだけだ。そこに「抗NMDA受容体脳炎だった」と書き込むのは、悪魔憑きという解釈を医学的な解釈で上書きしているだけで、証拠の量は一ミリも増えていない。アンネリーゼ・ミシェルの件について、私が慎重でありたいのはそのためだ。

彼女の経過は8年に及び、この病気の典型的な速度とは合わない。当時の診断は側頭葉てんかんと精神疾患であり、抗てんかん薬も抗精神病薬も効かなかった。効かなかったから薬をやめて祈祷に頼り、栄養失調で亡くなった。この経過に別の説明を与えたい気持ちはわかるが、証拠はない。そして彼女の両親と司祭は実際に有罪判決を受け、遺族はいまも生きている。

診断名を後付けすることは、誰かの罪を軽くしたり重くしたりする道具になりうる。そこまで考えて言葉を選ぶべきだと思う。『エクソシスト』のモデルとされた少年についても同じだ。彼の名前が公表されたのは死後の2021年である。医学解説の文脈では「この病気の典型例だった」という言い方が繰り返されている。

だが、当時彼を診た医師たちは「異常なし」と結論している。抗体を測る技術は40年後にならないと生まれない。だから、あれが何だったのかは永久にわからない。儀式に立ち会った神父自身が、決定的なことは言えない、自分にはその資格がない。と述べていることのほうが、後世の断定よりもよほど誠実に思える。

この病気を書くときに、いちばん気をつけたこと

抗NMDA受容体脳炎の話は、面白い。書いていて何度もそう思った。だからこそ、書きながらずっと自分に言い聞かせていたことがある。これは実在する人たちの人生であって、怪談の素材ではない。汚い言葉を吐いた人も、家族に手を上げた人も、拘束具を脱ぎ続けた人も、口をもぐもぐと動かし続けた人も、その瞬間にその人だったわけではない。

受容体が足りない脳が、そう振る舞っただけだ。それを「まるで悪魔憑きのようだった」と描写するとき、描写している側は、その人が回復したあとで自分の記録を読む可能性を、常に念頭に置くべきだと思う。吹雪という女性が「今でも読み返すのは辛いし恥ずかしい」と書きながら、それでもブログを残しているのは、誰かの役に立つかもしれないからだ。娘の闘病中の動画を報道機関に渡した母親も同じだろう。

彼女たちは、自分のいちばん見せたくない時間を、この病気を知ってもらうために差し出した。その使い方には、責任が伴う。そして最後に、この病気の物語が持つ本当の意味について。かつて「悪魔憑き」と呼ばれた現象の一部が、治療可能な自己免疫疾患だったという話は、宗教が間違っていて科学が正しかったという単純な図式では終わらない。もっと不安になる示唆を含んでいる。

それは、いま私たちが「原因不明」と呼んでいるものについての話だ。「性格の問題」と呼んでいるもの、「気の持ちよう」と呼んでいるものも同じだ。そのなかにも、まだ名前のついていない何かが混じっているかもしれない。2006年に倒れた中原麻衣は、名前のない病気にかかった。2007年に名前がついた。

その差は、たった数か月である。いま名前のない状態で苦しんでいる人が、あと数年でその名前を手にする可能性は、決して低くない。2007年より前、この病気の患者たちは確かに存在していた。ただ、呼び名がなかった。呼び名がないものは、医学の対象にならない。

医学の対象にならないものは、宗教か、道徳か、本人の弱さの問題として処理される。名前をつけるという行為が、どれだけ人を救うか。この病気の歴史は、その一点を、これ以上ないほど鮮明に教えてくれる。

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