パリの南の外れに、ビセートルという名前の巨大な収容施設がある。病院と呼ばれてはいたけれど、実態は貧民と老人と精神を病んだ人と、行き場のない障害者をまとめて放り込んでおく場所だった。十九世紀半ばには数千人が暮らしていたという。ここで一八六一年四月十七日の午前十一時、五十一歳の男がひとり死んだ。死因は右脚の壊疽と敗血症。
名前は誰も知らず、院内で彼を呼ぶときはいつも「タン」だった。その翌日、ポール・ブローカという三十七歳の外科医が、瓶にも入れず固定もしていない生の脳を手に持ったまま、パリ人類学会の会合の席に立ったのだ。彼はそれを掲げて言った。前頭葉の病変が言葉を失わせた原因だ、と。脳科学という学問は、だいたいここから始まったことになっている。
この記事は、その「ここ」で何が起きていたのかを、できるかぎり細かく追いかける話だ。
- 二十一年間、たった一語で生きた男がいた
- モレの製靴型職人――百五十年間ずっと名前がなかった
- 病棟の嫌われ者だった、という記録の生々しさ
- 罵り言葉だけが流暢に出る、という現象について
- 右腕が止まり、右脚が止まり、七年間ベッドから出られなくなった
- ブローカの六日間――懐中時計と、四回開いた手のひら
- そもそもなぜブローカはそこに立ち会えたのか――発端はメキシコの頭蓋骨だった
- 四月十七日午前十一時、そして二十四時間後の解剖台
- 切らない、という判断が百六十年後を作った
- 学会での二十分――ほとんど誰も聞いていなかった
- 二例目のルロンと、「我々は左半球で語る」まで
- 「アフェミー」か「アファジー」か――言葉をめぐる言葉の争い
- ダクス父子の亡霊――ブローカは本当に知らなかったのか
- 一九〇六年、パリで起きた反乱――「第三前頭回は何の役割も果たさない」
- 二〇〇七年、その脳がMRIに入った
- つまり「ブローカ野」は、ブローカが見た場所ではない
- 「切っても失語にならない」――現代の追い打ち
- それでブローカは間違っていたのか
- 骨相学とどう距離を取ったか、そして頭を測る男のもう一つの顔
- ウェルニッケが来て、モデルができて、そして壊れた
- 三つの証言
- なぜ、この一人の症例がこんなに人を惹きつけるのか
- 反証と、慎重に言っておくべきこと
二十一年間、たった一語で生きた男がいた
まず、ブローカが自分の論文に書いた出だしを引く。ラフに訳すとこうなる。「一八六一年四月十一日、ビセートルの総合診療棟外科部門に、五十一歳の男が運ばれてきた。名はルボルニュ。右下肢全体、足の甲から尻にかけて、びまん性の壊疽性フレグモンに冒されていた。
翌日、私は彼に病気の始まりについて質問したのだ。彼は左手のしぐさを添えて、タン、という単音節を二度続けて繰り返すだけだった」これが世界で一番有名な患者の、記録上の初対面である。ブローカはその後、聞き込みを始める。監視員に聞き、同じ病棟の患者仲間に聞き、面会に来た親族に聞いた。そうやって集めた情報が、彼の論文の前半を作っている。
分かったのはこういうことだ。この男は若いころからてんかんの発作を持っており、それでも職には就けていて、三十歳まで働いていた。三十歳のとき、しゃべれなくなった。理由は誰も知らない。ゆっくり進んだのか、ある朝いきなりだったのかも、記録がない。
しゃべれなくなって二、三か月してからビセートルに来た。到着した時点では体はぴんぴんしていて、頭も明晰だった。健康な人間と違うところは、ただ一つ、言葉が出ないことだけ。彼は施設の中を自由に歩き回っており、人の言うことは全部わかった。むしろ耳はよく聞こえるほうだった。
ただ、何を聞かれても返事は「タン、タン」。そのかわり、身振りがものすごく豊かで、たいていの用件はそれで通じたらしい。
モレの製靴型職人――百五十年間ずっと名前がなかった
名前がわかったのは、驚くことに二〇一三年だ。名前を掘り当てたのは、チェザリ・ドマンスキという人物だ。ポーランドのマリア・キュリー・スクウォドフスカ大学にいた心理学者で科学史家で、フランスのオンライン公文書を数週間掘り続けて死亡証明書に行き着いた。そこに書いてあった名前が、ルイ・ヴィクトール・ルボルニュ。生年月日は一八〇九年七月二十一日。
生地はモレ、いまのモレ・シュル・ロワンだ。モネをはじめ印象派の画家たちが好んで描いた、あの美しい川沿いの町である。ここからが面白い。それまで医学史の教科書は、彼を「読み書きのできない下層労働者」だとぼんやり書いてきた。梅毒で気が狂ったのだという説すら流通していたのだ。
ところが公文書はまったく違う話をしていた。父ピエール・クリストフ・ルボルニュは小学校の教師である。母はマルグリット・サヴァール。兄姉が三人、弟妹が二人。姉や甥が結婚証明書に自筆で署名しているから、この家は明らかに読み書きのできる家だった。
ドマンスキは論文にこう書いている。彼が無学の下層民だったという通説は、いいかげん誤りと認めるべきである、と。母は六人目の子を産むときに死んだ。ルイが十一歳のころだ。家族はその後パリに出ている。
彼の職業は「フォルミエ」。靴や帽子を作るときに使う木型を設計して削る職人だ。手先の精度がものを言う仕事で、要するに彼は熟練工で、一度も結婚しなかった。子どももいなかった。そしてドマンスキは、控えめな調子でひとつの推測を置いている。
モレには昔から製革所がいくつもあった。なめしに使う樹皮を挽く水車小屋をフランス語で「ムーラン・ア・タン」と呼ぶ。彼が死ぬまで繰り返し続けた「タン」という音は、子どものころの町の記憶のかけらだったのかもしれない、と。証明のしようがない話だ。それでも、この一行を読んだあとでは、あの単音節がちょっと違って聞こえてくる。
ちなみに、もっと後になってスペインの神経内科医サンティアゴ・ヒメネス・ロルダンが、パリの公立病院連合の文書庫を調べ直して、さらにややこしい事実を出してきた。ルボルニュは一八三三年二月二十一日にオテル・デューに入院している。理由は不明で、てんかん、髄膜炎、あるいは以前に鋳物工場で働いていたことによる重金属中毒などが候補に挙がっている。彼は仕事に戻れず、父親は入院費を払えなくなった。
パリ警視総監の口利きで、一八三四年十二月十日にビセートルへ移されている。ブローカが学会で言った「一八四〇年入院」とは六年ずれているのだ。この食い違いは、いまも完全には決着していない。
病棟の嫌われ者だった、という記録の生々しさ
ここが、この症例のいちばん人間くさい部分だと思う。ブローカはこう書いている。相手が自分の身振りを理解してくれないと、タンはすぐ怒った。そして怒ると、彼の語彙にもうひとつだけ単語が足され、ひどい罵り言葉が、たった一つ、いつも同じものが出てきた。フランス語で言う「サクレ・ノン・ド・デュー」、日本語なら「くそったれ」くらいのニュアンスの、神の名を使った悪態である。
続けてブローカはこう書く。タンは利己的で執念深く意地が悪いと思われていた。彼を嫌っていた仲間たちは、彼が盗みを働くとまで言っていた。ただしブローカはすぐに但し書きを付ける。これらの欠点は、脳の病変によるところが大きかった可能性がある。
とはいえ病的と呼ぶほど際立ってはいなかったし、彼をわざわざ精神病者の区画に移そうという話は一度も出なかった。むしろ彼は、自分の行為に完全に責任を負える人間として扱われていた。この一段落は、読み返すたびに胸に刺さる。二十年以上、たった一語しか出せない状態で、大勢の男たちが押し込まれた棟で暮らすということ。
伝えたいことが伝わらないたびに怒りが噴き上がって、その怒りが「性格が悪い」という評判に変換されていくということ。ブローカ自身が、それは病気のせいかもしれないと書き添えていることも含めて、記録として異様に正直だ。さらに後年の文書調査で、一八五二年十一月十三日に本人の希望で一時的に精神科病棟へ移されていたことが分かっている。理由は書かれていない。
同室の連中との関係が限界だったのかもしれないし、まったく別の事情かもしれない。想像するしかない。
罵り言葉だけが流暢に出る、という現象について
「タン」しか言えないのに罵倒語だけは口をついて出る。これは彼だけの奇癖ではない。失語の臨床では昔から知られている現象で、いまでも起きる。なぜかというと、ののしり言葉は、普通の単語とは違う回路を通っている可能性が高いからだ。感情に強く結びついた定型表現は、左前頭葉の言語システムを経由しない。
大脳辺縁系や右半球寄りの経路、あるいは基底核を含む自動化された運動プログラムとして丸ごと保存されている、という見方が有力になっている。単語を一つ選んで音に組み立てる作業は壊れているのに、感情が爆発したときに丸ごと飛び出す一塊のフレーズは残る。だから、意識的に言おうとすると出ない言葉が、腹を立てた瞬間には出る。面白いのは、これがルボルニュに限らないことだ。
ロシアの革命家レーニンは脳卒中のあと、「ヴォト、ヴォト」という決まり文句を繰り返したと伝えられている。詩人のボードレールも失語のあとに、「クレ・ノン」という短い悪態だけを口にしたという記録が残っている。人間の脳は、どうやら、ののしりだけは最後まで手放したがらないらしい。そしてブローカ自身が、興味深い注記を残している。
彼が二日にわたって同じ質問を繰り返したとき、三度目でタンが怒って例の悪態を口にした。ブローカはわざわざ、「私がその罵り言葉を彼の口から聞いたのは、その一度きりだった」と書いている。診察の場でそれを引き出してしまったことへの、かすかな居心地の悪さが行間に漂う。
右腕が止まり、右脚が止まり、七年間ベッドから出られなくなった
言葉を失ってから十年間、彼の体は健康だった。それから新しい症状が来る。右腕の筋肉がじわじわ弱っていき、最後には完全に麻痺し、それでも歩けたが、麻痺は少しずつ右脚に広がっていった。しばらく脚を引きずって歩いていたが、やがて立てなくなった。腕の麻痺が始まってから立てなくなるまで、およそ四年。
そこからさらに七年、彼はベッドの上にいた。ブローカはこの最後の七年について、こう書いている。彼はもう誰かに害を与えることができなくなったので、仲間たちは彼のことを気にかけなくなった。ときどき、彼をからかって遊ぶことがあるくらいで。そのたびに彼は激しく怒った。
そして、病気の奇妙さがかつて彼に与えていたささやかな有名さも、いつのまにか失われていた。読んでいて息が詰まる一文だ。「病気の奇妙さが与えていたささやかな有名さ」。一語しかしゃべれない男というのは、施設の中では最初は珍しがられる存在だった。それが二十年経つと、ただの寝たきりの老いた男になって、誰も見にこなくなる。
彼が世界史に登場するのは、その状態がさらに数年続いたあとだ。視力も落ちていった。特に左目が悪くなり、下着とシーツは週に一度しか替えられなかったのだ。だから、右脚に広がっていた壊疽性の炎症を看護人が見つけたときには、もう足先から尻まで到達していた。四月十一日、あるいは十二日、彼は外科病棟に運ばれる。
手術できる状態はとっくに過ぎていた。
ブローカの六日間――懐中時計と、四回開いた手のひら
ここからが有名な場面だ。外科病棟で待っていたのがポール・ブローカだった。三十七歳。ボルドー近郊のサント・フォワ・ラ・グランド生まれ。十八歳で解剖学上の新発見をしていたような早熟な男で、外科医であり病理学者であり、同時に人類学者だった。
二年前に自分でパリ人類学会を立ち上げていて、その書記を務めていたのだ。彼は死にかけている男を相手に、できるかぎりの検査をした。全身の感覚は保たれている。左の腕も脚も意志どおり動く。顔と舌の筋肉はどこも麻痺していない。
舌の動きは完全に自由。声そのものは正常。つまり、しゃべる装置は壊れていない。なのに言葉が出ない。知能の評価はもっと難しかった。
ブローカの書き方はこうだ。「知能の状態を正確に判定することはできなかった。タンが人の言うことをほとんど全部理解していたことは確実である。だが、左手の動きでしか自分の考えや欲求を表せない以上、この瀕死の男は、自分が他人を理解するほどには他人に理解してもらえなかった。数を答えるのが一番うまくいった。
指を開いたり閉じたりするのだ。私は何度も、何日病気だったかと尋ね、あるときは五日、あるときは六日と答えた。ビセートルには何年いるのかと尋ねると、彼は手を四回続けて開き、それから指を一本だけ立てた。二十一年ということになる。そして、この情報は完全に正確で、翌日、私は同じ質問を繰り返し、同じ答えを得た。
しかし三度目に同じことをやろうとしたとき、タンは私が彼に練習をさせていることを理解したのだ。彼は怒って、すでに述べたあの罵り言葉を口にした」続く。「私は二日続けて自分の懐中時計を彼に見せた。秒針が動いていなかったので、彼は三本の針を形か長さでしか区別できなかったのだ。それでも数秒間ながめたあと、彼は毎回正確に時刻を示すことができた。
したがって、この男が知性を持ち、考えることができ、過去のことをある程度記憶していたことは疑いようがない。もっと複雑な考えも理解できた。たとえば私は、麻痺がどういう順序で進んだのかと尋ね、彼はまず左手の人差し指で小さく水平に線を引くしぐさをした。分かった、という意味だ。それから順に、自分の舌、右腕、右脚を指し示した。
完全に正確だったのだ。ただし、言葉を失った原因を舌の麻痺だと考えていた点だけは違った。だが、それはごく自然なことだ」この一節が、この症例を単なる標本の話にさせていない理由だと思う。手を四回開いて、指を一本立てる。二十一年。
それが合っている。同じ質問を三度目にされたときに、練習させられていると気づいて腹を立てる。時計の針を数秒ながめて、時刻を当てる。中に人がいることが、これ以上ないほどはっきり書かれている。ただし、正直な記録らしく、外れた場面もある。
子どもがいるかと聞かれて彼はうなずいたが、実際には子どもはいなかった。ブローカはこれを敗血症の影響だろうと考えている。彼は「アフェミー」という言葉をここで作る。麻痺しているわけでもなく、知的に壊れているわけでもない人間で、しゃべる能力だけが消える。これは特別な名前で呼ぶ価値があるほど奇妙な症状だ、というのが彼の言い分だった。
そもそもなぜブローカはそこに立ち会えたのか――発端はメキシコの頭蓋骨だった
ここが、この物語のいちばん皮肉な部分だ。ブローカが四月にルボルニュを熱心に診た理由は、純粋な神経学的好奇心ではない。学会で進行中だった喧嘩の決着をつけたかったからだ。しかもその喧嘩の主題は、言語ではなく、人種と頭蓋骨だった。一八六〇年十二月、パリ人類学会の会合で、短頭についての議論が起きていたのだ。
翌年二月二十一日の会合で、比較解剖学の権威ルイ・ピエール・グラシオレが、メキシコ湾岸のトトナクの人々の一人、十九歳の男性の頭蓋骨を提示した。彼は頭蓋腔の型を取って脳の容積を推定し、額が低くて狭いから前頭葉前部の発達が乏しい、これは白人と違う点だ、と述べた。そして「トトナクの脳が白人の脳に比べて明らかに劣っていることを示せたと思う」と言い切っている。
いま読むと吐き気がするような発言で、実際、後世これは露骨な人種差別として糾弾されることになる。同じ非難はブローカ本人にも向けられる。グラシオレはそこから論を伸ばした。知性が一つのまとまりであるなら、脳も一つのまとまりのはずだ。言語は知性と切り離せない性質のものなのだから、言語もまた脳全体に散らばった機能でなければならない、と。
これが彼の全体論だった。これに噛みついたのがシモン・アレクサンドル・エルネスト・オーブルタンだ。彼は脳の中に言語を統率する中枢があり、そこから発音器官へ経路が伸びていると主張した。オーブルタンは義父の説を守っていた。義父の名はジャン・バティスト・ブイヨー。
当時のフランス国立医学アカデミー会長で、医学部長でもあった大物である。ブイヨーは一八二五年から、前頭葉の損傷は言葉の障害を起こす、と言い続けていた。しかもこの人は挑発的で、言葉を失った患者で前頭葉が無傷である症例を持ってきた者に五百フラン払う、という賭けを公言していたのだ。
弟子であり義理の息子でもあるオーブルタンも、失語があるのに前頭葉が無傷という症例をひとつでも示されたら自説を放棄すると宣言していた。ブローカはこの二人の側に心情的に傾いており、そこにルボルニュが運ばれてきた。ブローカは自分でこう書いている。ブイヨー氏の学説について、来るべき剖検ではその学説が真であるかのように進めようと思った。それが学説を検証する最良の方法だからだ、と。
そして彼はオーブルタンをわざわざ病棟に呼んで、患者を診せている。剖検の前に診断を確定させておくためだ。フェアなやり方ではあった。
四月十七日午前十一時、そして二十四時間後の解剖台
ルボルニュは一八六一年四月十七日の午前十一時に死んだ。外科病棟に移されてから五日か六日しか経っていない。その二十四時間後、ブローカが剖検を行った。彼の記述はこうだ。硬膜は肥厚して血管に富み、内側は厚い偽膜状の層に覆われていた。
軟膜は厚くて不透明で、前頭葉、特に左前頭葉に癒着しており、左半球の前頭葉は広い範囲で軟化していたのだ。眼窩部の脳回は萎縮しながらも形を保っていたが、他の前頭回の大部分は完全に破壊されていた。そして、あの有名な一文。破壊の結果、鶏卵を入れられるほどの大きな空洞ができており、そこは漿液で満たされていた。
軟化は上へは頭頂葉の上行回まで、下へは側頭蝶形骨葉の縁回まで広がり、深部では島皮質の領域と、線条体の脳室外核にまで達していた。右側の二肢の運動麻痺を説明するのは、この最後の部分の病変である。ただし、と彼は続ける。この標本を一目見れば思い出せるはずだ。軟化の主要な巣、そして最初の座は、左半球の前頭葉の中央部にある。
そこにこそ最も広く、最も進行し、最も古い病変がある、と。彼は病気に二つの時期があったと考えた。最初は前頭回、おそらく第三前頭回だけが冒されていた時期。次に、病変が少しずつ隣へ広がって、他の脳回や島皮質、線条体を巻き込んでいった時期。この二つは症状の経過とぴったり重なる。
最初の十年は言葉だけが消えて他は無事だった。次の十一年で右半身の麻痺が進んだ。二十一年かけて、脳のごく限られた部分を壊していった病変。だとすれば、その出発点こそが言葉の座である。これがブローカの論法だった。
なお、後の詳細な記載では嚢胞のサイズは二十五ミリ掛ける十八ミリとされ、内壁は入り組んでいた。ブローカは中大脳動脈が通っているかどうかを確かめていない。軟膜とくも膜をはがしたときに細動脈がちぎれてしまったからだ。この「確かめなかった」ことが、あとで大きな意味を持つ。
切らない、という判断が百六十年後を作った
ここが、この記事でいちばん強調したい部分だ。十九世紀の病理解剖では、標本は切るものだった。断面を見なければ深部の病変は分からないのだから、当然そうする。ところがブローカは切らなかった。彼はこう書き残している。
脳を保存したいと考えたので、切開はせず表面の観察のみを行った。私はこの保存脳をパリのデュピュイトラン博物館に置いた、と。しかも彼は明確に指示を出している。切ってはならない、顕微鏡で調べてもならない、と。保存液はアルコールだ。
当時それしかなかった。ホルマリン固定が普及するのはもっとあとの話である。硬い言い方をすれば、彼は自分の最重要証拠を、自分の手で検証不能にしたことになる。同時代の感覚では変な判断だったはずだ。でも彼はそうした。
理由は、たぶん彼が外科医であると同時に博物学者だったからだと思う。標本は自分のためだけのものではない、あとから来る誰かが見るものだ、という感覚。それに、彼はこの脳が論争の物証だと分かっていた。切り刻んだ脳では、疑う相手に見せられない。翌日の学会に彼が持って行ったのは、固定もしていない、切ってもいない、生の脳そのものだった。
手に持って掲げたのだ。今の倫理感覚だとぎょっとするが、当時はこれが「証拠を出す」ということだった。その脳はコルドリエ修道院の建物に置かれた。そこは外科医ギヨーム・デュピュイトランが二万フランを寄付して作られた病理解剖標本館で、のちにデュピュイトラン博物館と呼ばれるようになる。ところが一九四〇年、建物の壁が崩れた。
標本は行方不明になった。ルボルニュの脳が再発見されたのは一九六二年、医学校の地下室でのことだ。整理番号五十六番のラベルが付いており、危うく、この物語は消えるところだった。
学会での二十分――ほとんど誰も聞いていなかった
四月十八日、ブローカは人類学会で報告した。だが、これを「歴史的瞬間」と呼べるのは後知恵だ。二〇一一年に発表された研究が、一八六一年一月から六月までの人類学会の議事録を全部読み直している。結論はわりと身も蓋もない。ブローカの症例報告は、頭蓋計測と個人および人種集団の知能との関係をめぐる長い論争の、ちょっとした脇道でしかなかった。
その場でこの報告に注意を払った者はほとんどおらず、会場の関心は、脳の大きさと知能の関係にあったのだ。人種を序列化できるかどうかにあった。言葉を失った職人の脳は、その論争を補強する材料の一つとして持ち込まれ、そして議論はすぐ元の話題に戻っていったのだ。しかもブローカ自身にとっても、失語は生涯を通じた主戦場ではなかった。
彼はこのあと十年ほどで局在論の考えを発展させていくが、彼の仕事の中心はずっと人類学であり、頭蓋の計測だった。歴史がのちに彼の名を貼り付けた領域は、彼にとっては副業に近かったのだ。
二例目のルロンと、「我々は左半球で語る」まで
半年後の一八六一年十月、ブローカに二例目が来る。ラザール・ルロン。八十四歳。ビセートルに八年いて、明らかな認知症があった。一年前に脳卒中を起こして右半身麻痺と失語になっていた。
彼が言えたのは五語だけ。「はい」「いいえ」「三」――これは数字を言いたいときは何でもこれを使った――「いつも」、そして自分の名前を言い損ねた「ルロ」。大腿骨を折って、十二日後に死んだ。ルロンの脳を見たときのブローカの反応が良い。彼は「呆然に近い驚き」を覚えたと書いている。
病変は左半球の第三前頭回の後部に限局していた。一例目と、ほぼ同じ場所だったのだ。こうしてブローカは確信を深めていく。一八六一年から六五年にかけて、彼はこの二つの脳について四本、さらに一本の報告を出す。そして「我々は左半球で語る」という有名な定式にたどり着く。
左右の脳が同じ働きをしているという当時の常識を、彼は公然と破った。とはいえ、彼のやり方は今の目で見ると相当に粗い。ビセートルの患者十一人の脳を測ったうえで、言語の座を「シルヴィウス裂の前枝に接する。高さ三から四センチ、前後二十五から三十五ミリの四角形」と、ほとんど恣意的に決めている。あくまで表面を見ただけの話だ。
「アフェミー」か「アファジー」か――言葉をめぐる言葉の争い
余談だが、これが妙に面白いので入れておく。ブローカが作った「アフェミー」という用語は、結局定着しなかった。ギリシャ語で「不名誉」を意味する語と似ていて、患者に使うには失礼だ、というクレームが出たのだ。臨床医として当時絶大な権威だったアルマン・トルソーが、ギリシャ語学者の助言を得て「アファジー」という語を提案し、そちらが勝った。いまの日本語の「失語」である。
ブローカは反論した。一八六四年の医学新聞に載った公開書簡が残っていて、これがなかなか洒落ている。要約するとこうだ。あなたに助言した現代ギリシャ人は、正直な患者にそんな不名誉な語を使うのはけしからんと言ったそうですね。否定はしません。
言語の進化なり退化なりの過程で、語が意味を変えるのは初めてのことではない。アフェモスという語には「話題にされない人」という意味もあった。ご婦人にとってはむしろ褒め言葉でしょう。だが、男というのは話題にされたいものですから、偉人の記憶を大事にしてきた国でこの形容が不快だというのは、よく理解できます。ユーモアで返しつつ、まったく譲っていない。
結局ブローカは折れて、のちの論文ではトルソーの語を使うようになった。ちなみに現代では「アフェミー」という語が別の意味で復活していて、下部運動皮質の弁蓋部に限局した病変による発話失行を指すのに使われることがある。言葉というのは、しぶとい。
ダクス父子の亡霊――ブローカは本当に知らなかったのか
優先権をめぐる話は、この症例のいちばん後味の悪い部分だ。マルク・ダクスという医者がいた。一七七〇年生まれ。ニームとモンペリエの間にあるソミエールという小さな町の養老院で、ほぼ生涯を過ごした。ナポレオン戦争のとき、左頭頂部をサーベルで斬られた騎兵将校を診た経験が忘れられなかったという。
将校は「語の記憶」を失っているように見えた。戦後に養老院へ戻ったダクスは、失語と右半身麻痺を併せ持つ患者を次々に観察していく。一八三六年、六十七歳の彼は、モンペリエで開かれた南部会議で発表した。題は「思考の記号を忘れることと一致する脳の左半分の病変」。だが会議の主題は南フランスの産業と美術の振興であり、聴衆は完全に場違いだった。
彼が主催者に渡した原稿は、なぜか印刷されなかった。翌年、彼は死んだ。発表は忘れられた。息子のギュスターヴ・ダクスは同じ町の開業医になった。彼が父の未刊原稿に手を入れ、自分の症例を足して四十例以上にまとめ、権威あるパリの医学アカデミーへ送ったのが一八六三年三月二十三日。
パリからブローカの研究の報せが届いて、慌てて仕上げたらしい。判断を下したのはアカデミー会長のルイ・フランシスク・レリュで、原稿はたった四ページだった。決定までに二年半かかり、その返答は容赦なかったのだ。レリュはダクス父子を、骨相学というインチキ科学の信奉者だと決めつけた。彼らの仮説が正しいなら、対になっているすべての臓器に同じ原理を当てはめねばならない。
左の目や左の腎臓が右と違う機能を持つことになる、と嘲笑した。そして最後にこう書き、ダクス医師には申し訳ないが、決定は下された。これ以上議論する時間も意思も私にはない。ここで妙なことが起きる。一八六三年三月二十四日付の帝国医学アカデミー会報を見てほしい。
同じページに、ギュスターヴ・ダクスの原稿受理の告知と、ブローカが外科のポストに応募したという告知が並んで載っているのだ。ブローカがダクスの原稿の存在と内容を知らなかったと言い張るのは、かなり苦しい。ギュスターヴの論文がようやく活字になったのは一八六五年四月二十八日。その六週間後、六月十五日にブローカは自説の重要な続報を発表している。
彼は非難の気配を察していたらしく、一八六五年の論文にこう書いている。私が無知によって、あるいは意図的な省略によって罪を犯したと、これ以上あなた方に思わせておきたくない。彼はモンペリエの図書館員に問い合わせて、マルク・ダクスの発表を覚えている者がいないか確かめてまでいる。図書館員も、会議に出席していた二十人の医師も、誰も覚えていなかったという。ただし、これも完全な真実ではない。
一八六四年八月一日、シャルコーの弟子だったシャルル・ジャック・ブーシャールが生物学会で発表した。その途中で「聴衆はすでに、言語が左半球に局在するというダクスの説をご存じである」と口にしている。そして地元の医師レイモン・カゼルグが、一八六六年二月の雑誌に手紙を寄せた。マルク・ダクスは会議の出席者に原稿の写しを配っていたし、自分は亡き祖父の書類の中からその一部を見つけた、という証言である。
もっとも、その後の捜索でも原稿は出てきていない。近年の研究者は「ブローカはダクスの論文を知らなかったと言った点で、正直ではなかった」と、かなりはっきり書いている。決定的な証拠はない。だが、状況証拠はそこそこ並んでいる。ソミエールの広場はいま「ダクス医師たちの広場」と名付けられ、生家に世界神経学連合の記念プレートが掛かっている。
名誉は百年以上遅れて届いた。
一九〇六年、パリで起きた反乱――「第三前頭回は何の役割も果たさない」
ブローカ説は、そのまま神殿に祀られたわけではない。四十五年後に、真正面からの攻撃を受けている。一九〇六年、ピエール・マリーが「左第三前頭回は言語の機能において何ら特別な役割を果たさない」という題の論文を発表した。題からして喧嘩を売っている。彼はブローカの二例を含む症例を洗い直し、いわゆるブローカ野の病変だけでは失語は説明できないと論じた。
一九〇六年から〇八年にかけてパリの学界は真っ二つに割れ、いわゆる失語論争が起きた。面白いのは、マリーの弟子だったムーティエの態度だ。彼は師の徹底的な批判をまとめる仕事をしながら、こう書き添えている。ある事実とその解釈にいくつか穴を見つけたからといって、事実を集め解釈を組み立てることのできた人物を貶めたいわけではまったくない。ブローカ失語という呼び名は残るだろうし、それはまったく正しいことだ。
批判と敬意は両立する。この一節は、いまの科学の議論でも十分に通用する態度だと思う。
二〇〇七年、その脳がMRIに入った
そして決定打が来る。二〇〇七年、ニーナ・ドロンカーズらの研究チームが、デュピュイトラン博物館に保存されているルボルニュとルロンの脳を、一・五テスラのMRIで高解像度撮像した。アルコール保存された標本は生きた組織とコントラストが違うので、撮像シーケンスを工夫している。得られた三次元データを、神経解剖学者が独立に脳溝を同定しながら読み込んでいった。
結果は、想像以上で、ルボルニュの左半球は、右半球より最大で五十パーセント小さくなっていたのだ。皮質では下前頭回――特にその中間三分の一――と、上側頭回前部、そして下頭頂領域の深部が冒されていた。深部はもっとひどい。島皮質は完全に破壊されていた。前障、被殻、淡蒼球、尾状核頭部、内包と外包も同様。
白質では上縦束が全長にわたって完全に消えており、内側脳梁下束もなくなっていた。論文の中に印象的な表現がある。右半球ではあれほど明瞭に見える白質の線維束が、左半球には完全に存在しない。ルロンのほうは対照的だった。認知症による皮質の萎縮はひどかったが、脳卒中の病変自体は限局していて、下前頭回後部の弁蓋部の後方部分だけだったのだ。
弁蓋部の前方と、三角部の全体は無傷で、島皮質は激しく萎縮していたが、病変が直接及んではいなかった。ただし上縦束と側頭葉白質には小さいがはっきりした病変があった。二つの脳に共通していたもの。それは、後方と前方をつなぐ白質、上縦束と弓状束の損傷だった。さらに二〇一〇年代半ばには、このMRIデータを使って断線の程度を数値化する試みが行われている。
自動病変同定の手法で病変領域を切り出し、健常者の線維束地図に重ねて、どの束が何パーセント切れていたかを推定するというやり方だ。ルボルニュの脳では、上縦束第三枝が七十六・六パーセント、前頭下縦束が七十一・六パーセント断たれていた。弓状束長分節が五十九・五パーセント、前頭眼窩極路が五十八・六パーセント、そして前頭斜束が五十五パーセントという計算になる。
前視床放線、皮質脊髄路、前頭橋路も半分前後が巻き込まれていた。同じころ、脳外科医のユーグ・デュフォーらは「ブローカの誤り」という題で、局在論から連結体の解剖学へという議論を展開している。ルボルニュの脳を出発点にして、脳を地図ではなくネットワークとして見直せ、という主張だ。
つまり「ブローカ野」は、ブローカが見た場所ではない
ここが二〇〇七年の論文のいちばん厄介な指摘だ。現代の「ブローカ野」は、たいてい下前頭回の弁蓋部と三角部、ブロードマンの四十四野と四十五野と定義される。ところがルボルニュで最もひどく壊れていたのは、下前頭回の中間三分の一だった。いまブローカ野と呼ばれる後方三分の一ではない。一方ルロンの病変は弁蓋部の後方だけで、いま言うブローカ野の全体はまったくカバーしていない。
論文の著者たちの言い方は控えめだが、内容は容赦がない。ブローカが見て、言語にとって決定的だと考えた領域は、いま「ブローカ野」と呼ばれている領域と厳密には同じではない。だから今後の病変研究や機能画像研究は、現在のブローカ野の定義がブローカ本来の意図とは違うことを承知しておくべきである、と。百五十年間、みんなが同じ名前で違う場所を指していたことになる。
「切っても失語にならない」――現代の追い打ち
その後の臨床データは、さらに厳しい。まず、ブローカ野だけの病変でも一時的に発話は乱れるが、重く持続する発話停止にはならない、という知見が積み上がっている。二〇一六年に発表された総説は、はっきりこう論じている。ブローカ野は脳の言語産出システムの一段階にすぎない。
ブローカ野に限局した病変というのは臨床的にきわめて稀で、いわゆるブローカ失語の患者の圧倒的多数は、ブローカ野をはるかに超える広い損傷を持っている。脳外科のデータも同じ方向を向いている。腫瘍手術でブローカ野を切除しても、長く続く失語にはならない例が多い。二〇二二年に発表された研究は、ブローカ野とブローカ失語の解離という言い方をしている。
そして二〇二四年、慢性期の左半球脳卒中患者の大規模データを使った病変症状マッピングの研究が出た。結論は身も蓋もなかったのだ。包括的な検査項目のどれ一つとして、ブローカ野――弁蓋部と三角部――に有意に依存していなかった。統計的な検出力もサンプルの病変被覆率も十分だったのに、である。かわりに発話の流暢さと運動性発話に有意に結び付いたのは、隣接する中心弁蓋部、中心前回、そして島皮質だった。
同じ研究は、ブローカ野を含む病変を持つ患者の症状が、失語なしから典型的ブローカ失語、全失語までばらばらだったことも報告している。ついでに言うと、ルボルニュとルロンの症状が「ブローカ失語」だったのかも怪しい。現代の定義するブローカ失語は、発話量が減り、語が出にくく、音韻性の錯語が出て、文法が崩れ、理解はほぼ保たれる状態だ。
中大脳動脈の上行枝の表在性梗塞で起きることが多く、たいていはわりと速く改善する。二人の症状はそれとは違う。決まり文句を繰り返すだけの、極端に重い状態。むしろ言語常同を伴う全失語の亜型と見るべきだ、という指摘がある。世界で最も有名なブローカ失語の患者が、実はブローカ失語ではなかったかもしれないのだ。
それでブローカは間違っていたのか
二〇二四年に神経学の専門誌に載った「ブローカは間違っていたのか」という論説が、この問いをうまく整理している。答えは、単純な誤りではない、というものだ。左前頭葉が発話に特別な関係を持つという核心は生き残っている。壊れているのは、その関係が「小さな四角形の皮質」で完結するという部分だ。
実際に持続的な発話障害と最も強く結び付くのは、弓状束近傍の白質損傷であり、島や中心前回のような周辺皮質であり、要するにネットワークの断線である。考えてみれば、ブローカ自身の観察はむしろネットワーク説と相性がいい。彼は病変が二十一年かけて広がっていったと書いた。島皮質と線条体まで届いていることも、表面から推定して書いている。彼が持っていなかったのは、深部を見る道具だけだ。
だから彼は表面に見えているものに賭けた。賭けの中身は少しずれていたが、賭けた方向は合っていた。そしてもう一つ。彼は自分の限界を知っていた。一八六一年の論文の中に、こんな一節がある。
もしすべての大脳の能力が、この一つのように境界のはっきりしたものだったとしよう。そのとき我々は、脳局在という論争的な問題を攻めるための確かな一点を、ついに手にすることになる。この点において科学はまだほとんど進歩しておらず、その基礎すら見つけていない。いま疑われているのは、局在という原理そのものなのだ。
これを書いた人が「ブローカ野はここです」と単純に言い切った人だと思われているのは、ちょっと気の毒だ。
骨相学とどう距離を取ったか、そして頭を測る男のもう一つの顔
ブローカを語るとき、骨相学の話は避けて通れない。フランツ・ヨーゼフ・ガルは十九世紀初め、脳は機能ごとの器官の集まりであり、その発達が頭蓋の凹凸に現れると唱えた。ガルは二十七の器官を挙げ、弟子のシュプルツハイムは三十五に増やし、言語は前頭葉の底面にあるとされた。この学説はヨーロッパ中で流行して、二十九もの学会ができたという。だがそれは同時に、頭蓋の外形が中身を反映するという致命的な誤りを含んでいた。
学界からも教会からも非難され、ガルはウィーンを追放される。反証の役を担ったのがピエール・フルーランで、鳥を使った粗い実験から、大脳皮質は分割できない一つの全体として働くと結論した。ブローカの立ち位置はここで微妙になる。彼は骨相学の方法論――頭を触れば中身が分かる――を明確に切り捨てた。かわりに、臨床所見と剖検所見を突き合わせるという方法を取った。
頭蓋の外側ではなく、死んだ脳そのものを見る。これが決定的な違いだった。彼はガルの結論の一部を救い、方法を捨てたのだ。ただし、ここで話は暗くなる。ブローカにはもう一つの顔があった。
頭蓋計測学の総帥としての顔だ。彼は脳の大きさが知能に対応すると信じていた。一八六一年、まさにルボルニュを報告した同じ年、彼は学会で高らかにこう書いている。一般に脳は、高齢者より成熟した成人で大きく、女性より男性で大きく、凡庸な才能の男より傑出した男で大きく、劣った人種より優れた人種で大きい。他の条件が同じなら、知能の発達と脳の容積の間には顕著な関係がある。
一八六六年の百科事典の項目では、もっと露骨だ。前に突き出た顔、多かれ少なかれ黒い肌、縮れた髪、そして知的社会的な劣等性がしばしば結び付いている。白い肌と直毛と平らな顔立ちは、人類の階梯の最上位集団の通常の装備である。そういう趣旨のことを書いている。読むに堪えない。
もっと具体的に彼のやり方を見ると、ひどさがはっきりする。一八六二年、彼は前腕骨と上腕骨の比を「劣等性の指標」として使おうとした。ある集団で〇・七九四、別の集団で〇・七三九。ここまでは彼の期待どおりだ。ところがイヌイットの骨格が〇・七〇三、オーストラリア先住民が〇・七〇九と出た。
彼が上位に置きたかった集団が、その間に入ってしまう。彼はどうしたか。指標のほうを捨てた。前腕の伸長を劣等性の特徴と言い続けるのは難しい、なぜならこの計算だと順位が期待どおりに並ばないから、と書いている。脳容積についても同じことをやっている。
順位表を作ると、イヌイット、サーミ、マレー、タタールなどが最も文明化されたヨーロッパ人を上回ってしまう。彼はそこで、脳容積は問題の一要素にすぎないと言い出し、それでも小さい脳が劣等性の指標であることは変わらないと続けた。上の端では否定して、下の端では肯定する。スティーヴン・ジェイ・グールドはこれを、数字を捏造したのではなく、都合のいい数字を選び、都合の悪い数字は解釈で迂回したのだと整理した。
結論が先にあって、事実はその挿絵として使われた。女性についても同じだ。彼は男性二百九十二例の脳の平均を千三百二十五グラム、女性百四十例の平均を千百四十四グラムと算出し、その差を知能差の根拠にした。体格差の影響を測ろうともせず、女性のほうが平均してやや知能が低いことは分かっているのだから、と書いている。前提と結論が完全に循環している。
ここで大事なのは、この負の側面を「別人の話」として切り離さないことだ。彼が言語の座を前頭葉に見つけたことと、前頭葉が優越集団で発達していると信じていたことは、当人の中で地続きだった。二十一世紀の神経科学は前者を修正しながら受け継ぎ、後者を全面的に否定した。そして、この二つが同じ頭の中に同居していたという事実そのものが、科学を扱う人間にとっての一番重い教訓だと思う。ある研究者はこう書いている。
ブローカの仕事に暗い面があったことは、本人にも同時代人にも見えていなかった。それが暗く見えるのは、いまの我々にとってだけだ。我々自身の暗がりも、同じように我々には見えていない。
ウェルニッケが来て、モデルができて、そして壊れた
一八七四年、二十六歳のカール・ウェルニッケが「失語症状複合」を発表する。彼が記述したのは、ブローカの症例とは正反対のタイプだった。よくしゃべるのに内容が乱れ、人の話が理解できず、黙読もできない。病変は左側頭葉。ウェルニッケの偉かったところは、二つの領域をつなぐ線維を想定したことだ。
産出の中枢と理解の中枢があって、その間を結ぶ経路がある。だから、つなぎの部分だけが切れたらどうなるか、という予測が立つ。理解はできて発話もできるのに、復唱だけができない。伝導失語である。予測が先にあって、あとから患者が見つかった。
ルートヴィヒ・リヒトハイムがこれを拡張して七類型に整理し、ウェルニッケ自身もそれを採用した。二十世紀にはノーマン・ゲシュヴィントが現代的に再定式化して、いわゆるウェルニッケ・ゲシュヴィントモデルになる。教科書に載っている、丸と矢印で描かれたあの図だ。そして、そのモデルもいま崩れつつある。ウェルニッケの図式が百五十年を迎えた二〇二四年に、彼の心理反射弓は結局どうなったのかを問い直す論考が出ている。
現代の見方では、言語は前頭と側頭にまたがる左半球優位の一つのネットワークとして働き、しかもその境界は個人差が大きい。ブローカ野という区画が言語処理の自然な単位ではない、という主張すら有力に出されている。丸と矢印は、便利な教育用の道具として残るだろう。だが実物の脳の中に、そんな丸はない。
三つの証言
ここまで人の言葉をたくさん引いてきたが、あらためて三つ、まとめて置いておきたい。一つ目。ブローカ自身の筆による、剖検所見のあとの一節である。「解剖学的所見は、患者が死んだ時点でも病変がなお広がりつつあったことを示している。したがって病変は進行性であった。
だがそれは非常にゆっくり進んだ。大脳のごく限られた部分を破壊するのに二十一年かかっているのだから。ゆえに、病変が最初に始まった器官の境界を越えなかった長い期間があったと考えてよい。そして我々が見たとおり、病の最初の巣は前頭葉にあり、きわめて高い確率で第三前頭回にあった」。冷静な観察の文章に見えるが、よく読むと、二十一年という時間の重さがそのまま論証の骨格になっている。
一人の人間が言葉なしで過ごした年月が、そのまま病変の進行速度の証拠として使われている。科学の文章として美しく、同時にすこし残酷だ。二つ目。一九六三年、ルボルニュの死から百年を機に、神経学者フランシス・シラーが医学史の雑誌に短い追悼文を書いた。書き出しがいい。
「百年あまり前の一八六一年四月十七日、パリで五十一歳の患者が死んだ。彼の名声は、自分の病歴を語ることも、自分の名前を言うことすらできなかったという事実に由来する」。そして文章の途中で、シラーはこう書く。彼を担当した外科医は、彼の命を救わなかった。だが彼の脳を救った。
素晴らしい臨床観察をいくつか行ったうえで――我々ならそれを神経学的と呼ぶような観察を、まさにその外科医が作り上げるのに手を貸した伝統のもとで。文章の最後は、こう締められる。安らかに眠れ、と言いたいところだが、そうはいかなかった。まずまず正直だったルボルニュよ、そして輝かしいブローカよ、あなた方にはそれが許されなかったのだ。そのとおりで、脳はいまも議論の中心にいる。
三つ目。ルボルニュの名前を掘り当てたドマンスキの言葉。彼はこう語っている。「二十一年間、他人と意思を通わせられないまま人生のほぼ半分を病院で過ごした男の話が、私に強い印象を残した。私は、その男についてもっと知りたかった」。
そして論文の結びにこう書いたのだ。ひとつだけ確かなことがある。「ムッシュー・ルボルニュ」の病と死因の記憶は、彼の人生の物語よりもはるかに長く生き延びた。その人生は、患者がまだ生きていたときですら取るに足らないものとされていたのだ。ルイ・ヴィクトール・ルボルニュが自分の身元を取り戻すときが来た。
取材に応えたときは、もっと短く言っている。患者は物ではない。どんな人にも敬意を払われる資格がある。そして四つ目として、いまを生きている人の言葉も置いておきたい。脳卒中後に失語となった英国の元料理人が、支援団体のインタビューでこう語っている。
「頭の中の言葉を、ずっと探し回っているんだ。普通の人にとっては、言葉を見つけるのは自動的なことだろう。でも、ぐるぐる回っても見つからなくて言えないでいると、かわりに別の言葉が出てくる」。彼はこうも言う。「そこに罵り言葉が混ざることがある。
料理人だったせいだと思う。そうなったとき、ものすごく恥ずかしい」。そして、「失語症になると、みんな大声で話しかけてくる。いつもそうだ」「知っておいてほしいのは、失語のある人は頭が悪いわけじゃないってこと。その声の奥には、苦しんでいる一人の人間がいる」。
百六十年の隔たりを越えて、この最後の証言はルボルニュのカルテと不気味なほど重なる。伝わらないと怒りが来る。怒ると罵り言葉が出る。周りは彼を「性格が悪い」と評する。中には人がいる。
なぜ、この一人の症例がこんなに人を惹きつけるのか
理由はいくつもあると思うが、整理するとこうなる。第一に、話の構造が完璧すぎる。二十一年間たった一語しか言えなかった男が死に、その翌日に医者が脳を開き、そこにぽっかり穴が空いていて、次の日の学会でその脳を手に掲げる。ここまで因果が一直線に並んだ科学史のエピソードは、そうそうない。物語として出来すぎているから、教科書は百五十年間これを語り続けてきた。
第二に、この症例が「心はどこにあるのか」という問いに答えを出したからだ。人類がずっと持て余してきたその問いに、物理的な答えを突きつけた最初の例だった。それまで魂や精神は、どこにあるとも言えない何かだった。ブローカが掲げたのは、言葉を失った男の、空洞のある脳という物体だ。抽象的な問いに物質が答えた瞬間として、これは強烈だった。
第三に、被写体が生々しい。ルボルニュは象徴ではない。指を四回開いて二十一と答える人であり、三度目の質問に腹を立てる人であり、時計を数秒見て時刻を当てる人だ。そして病棟では嫌われていて、盗み癖を疑われていて、からかわれると激怒する人だ。この情報量の多さが、症例を標本以上のものにしている。
第四に、名前がなかったという事実そのものが物語だ。世界中の医学生が「タン」という患者を知っているのに、百五十年間その人の名前は誰も知らなかった。そして二〇一三年、ポーランドの研究者が公文書の中から名前を引き上げた。行方不明だった人が見つかるという構造は、それだけで人を動かす。第五に、これはたぶん一番大きいのだが、決着がついていないからだ。
彼の脳は瓶の中に残った。だから技術が進むたびに、何度でも問い直せる。一九八四年にCTが撮られ、二〇〇七年にMRIが撮られ、二〇一〇年代には断線シミュレーションがかけられた。そのたびに答えが変わる。生きている問いというのは、こういうものだ。
第六に、後ろめたさがある。この症例が有名なのは、一人の人間が二十一年間しゃべれなかったおかげだ。しかもその二十一年は、記録上ほとんど幸福とは言いがたい。私たちは彼の不幸から得た知識の上に立っている。その居心地の悪さが、この話を消費しきれないものにしている。
反証と、慎重に言っておくべきこと
盛り上がったところで、逆側からの点検も置いておく。まず、ブローカ以前に誰もいなかったという物語は明確に嘘だ。ブイヨーは一八二五年から前頭葉と発話の関係を主張していたし、オーブルタンは自分の症例を持っていた。ブローカが所属していた学会では、彼の報告のわずか前に、ウジェーヌ・ダリーがブーシャールという時計職人の失語例を報告している。学会の書記だったブローカがそれを知らなかったとは考えにくい。
にもかかわらず、彼の論文にその言及はない。同時に、ブイヨー側の証拠も脆かったことは指摘しておくべきだ。彼が根拠にした六十三例の臨床病理データを近年見直した研究によれば、本当に両側性の病変だったのは七例だけだった。当時の言い方で「早すぎる科学的不正の一例」とまで書かれている。ブローカもブイヨーも、証拠の扱いは現代の基準からはほど遠い。
次に、ルボルニュの脳は一度も組織学的に調べられていない。原因も確定していない。てんかんの既往からくる古い病変説、血管性の梗塞説、梅毒性の髄膜血管病変説、そして鋳物工場での重金属曝露説まで並んでいる。どれも決め手がない。世界一有名な脳の病名が、いまだに空欄なのだ。
さらに、二十一年という年数も揺れている。ブローカは本人の指のサインと聞き取りから二十一年と書いた。公文書は一八三四年十二月十日入院を示している。どちらが正しいのか、あるいはどこかで転院や記録の断絶があるのか、はっきりしない。「彼は正確に二十一年と答えた。
そしてその情報は完全に正確だった」というブローカの感動的な一節が、もしかしたら合っていないかもしれない。最後に、これは強調しておきたい。この記事に出てくるどの知見も、いま失語のある人やその家族が読んで、自分の状態を判断する材料にはならない。失語の回復は個人差が非常に大きく、脳の中で何が起きているかは画像だけでは決まらない。ここに書いたのは百六十年の学説史であって、目の前の誰かについての話ではない。
ここからは、記事の本編で押し出しきれなかった論点を、まとめて厚く書いておく。まず、この症例の本当の主役は誰かという話から始めたい。教科書はブローカを主役に据える。だが冷静に事実を並べると、この物語で最も決定的な行為をしたのは、実は「切らなかった」という一つの判断だ。あの時代の常識に従って脳を切っていたら、断面から得られる情報は当時の学界にとって圧倒的に有用だっただろう。
ブローカの主張はもっと説得力を持ったかもしれない。だが標本は消える。そして一九八四年のCTも、二〇〇七年のMRIも、二〇一〇年代の断線推定も、二度と実行できなくなる。私たちがいま「ブローカ野の定義はブローカが見たものと違う」と言えるのは、彼が自分の証拠を検証不能なまま丸ごと後世に預けたからだ。これは自分の説を守るために証拠を凍結した、とも読める。
逆説的だが、その凍結が最終的に彼の説の修正を可能にした。この点は、いまの研究倫理にも通じると思う。データを公開する、標本を残す、生データを捨てない。それは自分の結論を強化するためではなく、自分の結論が間違っていたときに誰かが直せるようにするための行為だ。ブローカがそこまで意識的だったかは分からない。
それでも結果として彼がやったのは、まさにそれだった。次に、局在論とネットワーク論という対立の立て方そのものを疑っておきたい。よくある物語はこうだ。かつては脳の場所に機能が貼り付いていると考えられていたが、いまではネットワークだと分かった。だが、これは単純化しすぎている。
現代の言語ネットワーク研究が示しているのは、こういうことだ。言語に選択的に反応する領域の集まりが実在し、それが左半球の前頭と側頭に強く偏っている。しかも個人ごとに、位置がかなりずれる。つまり局在はある。ただしその単位が、脳の解剖学的な区画名――四十四野とか三角部とか――と一致していない。
「場所はある。でも名前が場所を正しく切っていない」というのが正確な言い方だと思う。だから、二〇二四年の大規模研究がブローカ野と何の検査成績も結び付かなかったことは、局在論の敗北ではない。区画の切り方の失敗である。それどころか同じ研究は、中心弁蓋部と中心前回と島皮質が発話の流暢さに結び付くことを示している。
局在は残っているのだ。位置が数センチずれて、名前が付け替えられただけだ。三つ目。白質の話をもっとしておきたい。ルボルニュの脳で完全に消えていた上縦束は、後方の側頭頭頂領域と前方の前頭領域を結ぶ大きなケーブルだ。
その一部である弓状束は、復唱の回路として古くから知られている。前頭斜束のほうはもっと新顔で、二〇一〇年代に入って記述された束である。補足運動野と下前頭回弁蓋部をつないでいる。この束を手術中に電気刺激すると、発話そのものは止まらないのに、文法的な句の切れ目で単語と単語の間が異常に伸びる、という報告がある。単語の中の発音時間は変わらない。
つまり、発音の実行ではなく文の設計の段階が乱れている。この束が壊れた患者は、意味も文法も音韻も正しいのに、途切れがちで流れない発話になる。しかも、自分で文を組み立てるときだけそうなり、他人の文を復唱するときには出ない。これはルボルニュの症状を考えるうえで示唆的だ。彼の前頭斜束は半分以上が断たれていたと推定されている。
上縦束はほぼ全損。彼が失っていたのは「音を出す能力」でも「言葉を知っている状態」でもない。頭の中にある構造を、順番の付いた音の連なりに変換していく作業そのものだったのかもしれない。「タン」という単音節だけが残ったのは、変換を必要としない最小の出力だったから、という読み方ができる。感情が爆発したときの罵り言葉が残っていたのも、あれが変換を経由しない既製品の塊だったからだ。
この解釈が正しいかどうかは分からない。標本は組織学的に調べられていないし、生きている本人にはもう何も聞けない。それでも、彼の脳から出てくる問いが、いまの手術室で電極を当てながら考えられている問いと地続きであることは確かだ。百六十年前に死んだ職人の脳が、いまも仮説を生成し続けている。四つ目。
名前と身元の問題を、もう一段深く考えておきたい。ドマンスキが名前を発見したことは、単なる歴史的な穴埋めではない。医学の記述からは、患者の生活史がしばしば抜け落ちる。抜け落ちるどころか、抜け落ちること自体が正しい作法とされてきた面がある。個人を消して症例にする。
プライバシーの保護という理由もあるし、一般化のために特殊性を削るという方法論もある。だが、ルボルニュの場合、削られたのはプライバシーではなく存在だった。彼は「タン」という音になった。そして興味深いのは、消えていた身元が戻ってきたとき、通説のほうが壊れたことだ。無学な下層民という前提は、教師の息子で読み書きのできる家に育った熟練職人という事実に置き換わった。
梅毒で狂ったという説は、少年期からのてんかんという記録に置き換わった。身元を消したことで、代わりに偏見が入り込んでいたのだ。誰なのか分からない人には、人は勝手な物語を貼る。これは十九世紀だけの話ではない。五つ目。
学会の場面をもう一度考えたい。一八六一年四月十八日、ブローカが生の脳を手に持って現れたとき、会場が議論していたのは頭蓋の計測と人種の序列だった。彼の報告は脇道だった。ここには二重の皮肉がある。一つは、脳科学の出発点とされる報告が、人種差別的な科学の会合で、その論争のついでに行われたということ。
もう一つは、その会合の主要議題との対比だ。脳の大きさで人間を序列化する試みは、完全な誤りとして歴史から消えた。それに対して、脇道の報告のほうが百六十年生き延びている。同じ部屋で、同じ人物が、同じ日に持ち込んだ二つの主張の運命が、これほど分かれた例も珍しい。だから、この話を「偉大な発見の瞬間」としてだけ語るのは間違っている。
同時に、「差別主義者の業績だから汚れている」として切り捨てるのも違うと思う。正確に言うべきなのは、あの部屋では正しい観察と有害な偏見が同じ人間の中で共存していて、当人には区別がついていなかった、ということだ。区別をつけたのは後世である。そして後世が自分自身については区別をつけられていない可能性は、常にある。六つ目。
この症例が現代の失語症支援に対して持つ意味を考えたい。ブローカの記録が残した最大の遺産は、たぶん解剖学ではない。「言葉が出ない人の中に、考えている人がいる」ということを、疑いようのない形で記録したことだ。指を四回開いて二十一を示す。時計を数秒見て時刻を当てる。
麻痺が進んだ順序を、舌、右腕、右脚と正確に指し示す。これは当時、ぜんぜん自明のことではなかった。しゃべれない人は知的に壊れている、という扱いは普通だった。実際ルボルニュはビセートルの精神科部門に籍を置いていた時期がある。彼を精神病者の区画に移そうという話は出なかった。
とブローカがわざわざ書いているのは、逆に言えばそういう扱いが普通にありえたということだ。そして、この誤解はいまも生き残っている。本編で引いた現代の当事者の言葉――失語症になるとみんな大声で話しかけてくる。失語のある人は頭が悪いわけじゃない――は、まさにその継続を示している。ブローカが百六十年前に書き留めたことが、いまも周知徹底されていない。
診察室の記録が、そのまま啓発のテキストとして通用してしまう。七つ目。ネット上や考察界隈でのこの症例の扱われ方についても触れておく。この話は都市伝説的な広がり方をしていない。オカルト的な尾ひれもほとんど付いていない。
フィニアス・ゲージのように「人格が変わった」という劇的な語りに変形されることもなかった。理由はたぶん、話が地味だからだ。鉄の棒が頭を貫くようなビジュアルがない。二十一年間ベッドの上でたった一語を繰り返した男の話は、絵にならない。そのかわり、この症例は学界の中で異常に長く争われ続けている。
一九〇六年のピエール・マリーの反乱、一九八四年のCT、二〇〇七年のMRI、二〇一〇年代の断線推定、二〇二〇年代の大規模病変マッピング。派手な陰謀論に育たなかったかわりに、専門家がずっと殴り合っている。これはある意味で健全な形の不死だ。答えが出たら終わる話ではなく、道具が新しくなるたびに再燃する話になった。八つ目、そして最後に。
二つの脳がいまどこにあるかについて書いておく。ルボルニュの脳は整理番号五十六番、ルロンの脳は六十番として、パリのデュピュイトラン博物館の収蔵品に含まれている。あの博物館は一八三五年にコルドリエ修道院の食堂に設けられ、最盛期には六千点を超える標本を抱えていた。一九三七年に一度閉鎖され、一九六七年に復活し、そして二〇一六年、コレクションはコルドリエのキャンパスからジュシューのキャンパスへ移された。
いまは大学の科学コレクションとして管理されていて、一般公開は限定的だ。学生と研究者が中心で、特別な機会にしか外部の目に触れない。つまり、あの脳はもう見世物ではなくなった。二〇一六年の移転は事務的な決定だっただろう。だが、結果として、瓶の中の彼はガラスケースの前を流れていく観光客の視線から解放されている。
名前を取り戻したのが二〇一三年、展示から退いたのが二〇一六年。偶然の順序だが、悪くない順序だと思う。彼の脳がこれから先も研究に使われることは間違いない。次の技術が来れば、また撮られるだろう。それは彼の意思とは無関係に始まった話で、同意も取られていない。
この点をきれいごとで済ませることはできない。私たちが持っている知識の一部は、二十一年間しゃべれなかった一人の職人が、自分の知らないところで提供したものだ。せめて、名前で呼ぶことくらいはできる。ルイ・ヴィクトール・ルボルニュ。一八〇九年七月二十一日、モレ生まれ。
教師の息子。靴と帽子の木型を作る職人。てんかんを持ち、三十歳で言葉を失い、そこから残りの人生を病院で過ごした。時計の時刻を数秒で読み、指を四回開いて年数を答え、伝わらないと本気で怒った男。一八六一年四月十七日、午前十一時没だ。
享年五十一。彼の一語が、まだ喋り続けている。
