- 皿が置かれた瞬間に、その子の首が落ちる
- 一日に何度も、食事のたびに、それは来る
- なぜ食べ物なのか――誰も説明できていない一点
- 成長が止まり、言葉が消え、そして歩いて帰ってこなくなる
- ある父親が、自分の娘の足首を木に結ぶまで
- 九人のうち四人が、順番に落ちていった
- 一九九八年に、最初の三人を書き留めた男
- それを毎日見ている側の人間も、壊れていく
- マヘンゲ高地、一九三四年――最初にそれを見た人
- 流行はどう動いたか――南スーダンからキトゥグムへ
- 消えていった仮説を、ひとつずつ
- 川に住む虫だけが、どうしても消えなかった
- 二〇一七年、虫のタンパク質が人間の脳と似ていることが分かった
- そして、反論が来た
- 脳を開けたら、老人の病気が入っていた
- 治せないが、少しはましにできる――薬でやれたこと
- 「政府が食料に毒を入れた」――地域社会が採用した病因論
- チェン――埋められなかった者たちが、帰ってくる
- 戦争と病気が、同じ場所で同じ時期に起きたということ
- バスに子どもを乗せて議会に運んだ議員と、二件の訴訟
- 流行は終わった。だが、病気は終わっていない
- この病気の何が、これほど気味が悪いのか
- この病気が「終わった話」にならない理由
皿が置かれた瞬間に、その子の首が落ちる
北ウガンダ、キトゥグム県のトゥマング村。乾いた赤土の庭にマンゴーの大木が立っていて、その根元に子どもが何人か座っている。母親が家の中から盆を持って出てくる。キビの粥と、豆を煮たやつ。湯気が立っている。
で、ここからが問題なんだ。
盆が地面に置かれる。子どもがそれを見る。次の瞬間、その子の首が前に落ちる。顎が胸につく。すぐ戻る。
また落ちる。戻る。落ちる。一分間に五回から二〇回のペースで、それが数分続く。目は開いているのに、こっちを見ていない。
名前を呼んでも返事がない。手に持っていた匙は、とっくに地面に転がっている。
うなずいている、としか言いようがない。見えない誰かに向かって、はい、はい、はい、と延々うなずき続けているように見える。だから「うなずき症候群」と呼ばれた。英語ではノッディング・シンドローム。現地のアチョリ語では「ルチュルチュ」、あるいは「イェンゴ・ウィチ」。
首を振る病、という意味だ。
一九九〇年代の終わりから二〇一〇年代の初めにかけて、この病気は北ウガンダのアチョリ地域を襲った。ウガンダ保健省が把握した数だけで三〇〇〇人超。地元の議員連合と支援団体が二〇二二年に独自に数えたときには五三一九人になっていた。南スーダンとタンザニアを合わせた東アフリカ全体では五〇〇〇人から一万人という推計もある。そして二〇二六年の今も、原因は確定していない。
ウイルスでもない。細菌でもない。毒でもない。遺伝でもない。少なくとも、調べた範囲では全部外れた。
残ったのは、川に住むブユが運ぶ一匹の寄生虫との、奇妙で頑固な相関だけだ。しかもその虫は、子どもたちの脳からは一度も見つかっていない。
これは、原因不明の病気が共同体の中でどう解釈され、どう物語になり、どう政治になっていくかの記録でもある。正直に言うと、僕はこの取材を始めたとき、ただの珍しい熱帯病の話だと思っていた。全然そうじゃなかった。
一日に何度も、食事のたびに、それは来る
まず、医学的にこの発作が何なのかを押さえておこう。これが分かると、逆に気味悪さが増す。
二〇〇九年一二月、アメリカ疾病対策センター(CDC)の調査団がキトゥグム県の一三の教区に入った。そして二三人の子どもを詳しく調べている。中央値一二歳、範囲は七歳から一五歳。全員が、少なくとも毎日うなずいていた。そのうち一二人に脳波検査をかけたところ、一〇人で背景活動が乱れて遅くなっている。
一〇人に全般性の二・五から三・〇ヘルツの棘徐波複合が出た。
要するに、明確なてんかん性の異常だ。
さらに運のいいことに(というのも妙な言い方だが)、検査中に二人の子どもがうなずき発作を起こした。そのとき脳波は全般性の電気的減衰を示し、同時に記録していた傍脊柱筋の筋電図がすとんと落ちた。筋肉に行っていた信号が、一瞬だけ途切れる。これは脱力発作、医学用語で言う「アトニック・シージャー」の典型的な所見だ。
つまり、うなずきは癖でも習慣でも心因性の反応でもない。脳が一瞬だけ首の筋肉への指令をやめる。だから重い頭が、重力にしたがって前に落ちる。すぐ指令が戻るから、頭が上がる。またやめる。
落ちる。それだけの話だ。それだけの話なのに、傍から見ると子どもが何かに同意し続けているように見える。
発作の頻度は子によって違う。週に数回で済む子もいれば、一日に何度も来る子もいる。キトゥグム県ラボンゴ・アミダのある家では、母親のジョセフィン・アロヨが「一人につき最低でも一日四回」と話していた。パデル県のナンシー・ラムワカという一二歳の少女は、八年間にわたって一日五回まで発作を起こしていた。夜にも来る。
あるお父さんは、息子が夜間に六回「痙攣」し、そのたびに口から泡を吹き、失禁していたと調査団に語っている。
引き金は二つある。ひとつは冷たさ。冷たい風、寒い朝、冷たい水。もうひとつが、食べ物だ。
ウガンダのリチャード・イドロらが、ムラゴ国立病院で二二人の子どもを詳細に調べている。その研究では、二二人中一六人で発作が食べ物によって誘発されていた。冷気によるものが四人。何の引き金もなく起きるのが一三人(重複あり)。発症年齢の中央値は六歳、症状の持続期間の中央値は八年半。
二二家族のうち一六家族では、複数の子どもがやられていた。
そして、この「食べ物」というやつが、この病気で一番不気味なところなんだ。
なぜ食べ物なのか――誰も説明できていない一点
考えてみてほしい。食事というのは、生き物が生きるためにやる、最も基本的な行為だ。その行為そのものが、脳のスイッチを切る。
しかも、ただ食べ物が目の前にあるだけで起きる。口に入れる前に起きることがある。匂いだけでも起きる。一九九八年に北ウガンダで最初の症例を記録したとされるボランティア保健員のジョー・オトーは、後に取材にこう答えている。「子どもたちに食べ物が運ばれてくると、彼らは頭をうなずかせ始め、それから眠り込んだ」。
彼は自分の頭を前にがくんと落として見せながら、そう説明した。「見たことのない、おかしな病気だった」。
ここに、さらに一段深い謎がある。
二〇〇二年、当時の南スーダン・ムンドリ郡で世界保健機関(WHO)の調査団が観察した一三歳の少女の話だ。この子は栄養が足りておらず、年齢のわりに小さく、二次性徴も来ていなかった。彼女の主食は「ウガリ」、つまりトウモロコシやモロコシの粉を大量の水で練った半固形の粥だ。それを食べ始めると、数秒以内に確実にうなずき始めた。
一分間に一〇回から二〇回、それが二分から五分続き、ときには短い眠りのような状態がそれに続いたのである。
ところが調査団が、アメリカから持ち込んだ包装済みの食品を渡してみた。高タンパクのキャンディバーと干しぶどうである。彼女は何の変化も示さずにそれを食べた。うなずかなかった。
似た話はウガンダにもある。栄養失調の治療に使われるピーナッツベースのペースト状栄養食がある。それを与えたとき、うなずき症候群の子どもたちがうなずかなかった、という逸話的な報告が現地から上がっている。
これをどう解釈するかで、話は真っ二つに割れる。
ひとつの読み方は、毒物説だ。地元の食べ物そのものに何かが入っている。カビ毒か、青酸配糖体か、あるいはまだ名前のついていない何か。それが脳に届いて、発作を起こす。だから外国製の包装食品では起きない。
この線で長く粘っているのが、アメリカの神経毒性学者ピーター・スペンサーのグループだ。彼らは黒穂病に感染したトウモロコシに含まれる興奮性アミノ酸や、淡水のシアノバクテリアが作る毒素まで疑っている。長崎大学の研究グループも二〇二三年に、あるモデルを報告している。興奮性アミノ酸のひとつであるカイニン酸をラットに投与したもので、うなずき症候群の症状と脳の病変分布(大脳皮質、海馬、扁桃体)によく似ていた。
カイニン酸受容体に作用するトリコロミン酸が、黒穂病のトウモロコシに含まれている、という話だ。
もうひとつの読み方は、反射てんかん説だ。「食事誘発てんかん」という、きわめて稀なてんかんの型が実在する。世界中の報告例を合わせても三七八例しかない。食べるという行為には、心理的な要素、固有感覚、内臓感覚、運動、そして視覚・嗅覚・味覚・触覚の刺激が全部乗っている。その複合刺激が特定の皮質領域を発火させる。
この説に立てば、地元の食べ物で起きて外国の菓子で起きなかったのは、毒のせいではない。単に「見慣れたいつもの食事」という文脈そのものが引き金だったから、ということになる。見たことのないチョコバーは、その子の脳にとって「食事」というスクリプトを起動しなかった。
どちらが正しいのかは、まだ決着していない。ただ、どちらの説でも変わらないことがひとつある。この病気の子どもたちは、生きるために食べようとするたびに、意識を落とす。
南スーダンのモル人はこの病気を「アドラヴ・レニャロ」と呼んだ。訳すと「ウガリを食べる病」。地元の人たちは、医学が名前をつけるより二〇年早く、この病気の核心を名前にしていたことになる。
成長が止まり、言葉が消え、そして歩いて帰ってこなくなる
うなずきは、始まりにすぎない。
イドロらは北ウガンダの症例から、五つの段階を提案している。前駆期。うなずきと認知機能低下の出現期。他の発作型が加わる時期だ。合併症が多発する時期。
そして重度障害期。
最初の一年から三年のあいだに、うなずき以外の発作が出てくる。二二人中一八人で、欠神発作、複雑部分発作、ミオクロニー発作、全般強直間代発作が現れた。うなずきだけで済んだのは四人だけだった。全般強直間代発作、いわゆる大発作が主役になってくると、事態は一気に悪くなる。
体が育たなくなる。低身長。痩せ。手足の筋肉が落ちていく。骨年齢の遅れは中央値で二年、最大で六年。
同い年の子より頭ひとつ小さいまま、そこで時間が止まる。一五歳の少女が五歳くらいに見える、という記述が現地報道には何度も出てくる。キトゥグム総合病院に二か月入院していた一六歳のスコヴィア・ラコットは、五歳児のように見えたという。
認知機能も落ちていく。CDCの調査では、うなずきのある子が同年齢の対照群を下回った。短期記憶と注意、語の流暢性と知識量、運動の巧緻性のすべてで有意に低い点をとっている。二三人中七人は、明らかな重度の認知障害があった。イドロらが詳しい認知検査をかけた三人は、全員が「深刻な障害」の域だったのである。
言葉が消える子がいる。読み書きができていた子が、字を忘れる。学校に通えなくなる。通えても、先生が教室を出た瞬間に習ったことを全部忘れている、と親が言う。
そして、徘徊が始まる。
これがいちばん怖い。子どもがふらりと家を出る。どこへ行くつもりもない。ただ歩く。歩いて、帰ってこない。
ある介護者は調査でこう語っている。「あの子は、この地域で最初に病気になった子のひとりだった。息子が消えた。二週間後に、藪の中で死んでいるのが見つかったのである。臭いで分かった」。
別の母親は、ナンシー・ラムワカという娘のことを話す父親と同じ心配を口にする。娘が三日間、藪の中で行方不明になったことがある、と。
火に落ちる。沼で溺れる。道路で車にはねられる。これが、この病気の主な死因だ。病気そのものが直接殺すというより、病気が作った状態が殺す。
パデル県アンガグラ郡では、三年間で四〇人の子どもが死んだ。地元の郡議長によれば、平均して月に一人以上。親からの報告では、直接の死因のほとんどが火に落ちること、溺れること、そしてスピードを出した車にはねられることだった。
なぜ火と水なのか、という点にも仮説がある。この病気の子どもの一部には光過敏性がある。焚き火の炎のゆらぎ、水面に反射する陽光のちらつき。そういう明滅する光が、全般強直間代発作の引き金になる。つまり、火と水に近づくこと自体が発作を呼び、その発作が火と水の中に彼らを倒す。
キトゥグムのある母親は、こう言っていた。「井戸に水を汲みに行かせるわけにはいかない。水を覗き込むだけで発作が起きるから。それで何人も溺れて死んでいる」。
二〇二四年から二〇二五年にかけての北ウガンダの報道を読んでいると、この構図がまったく変わっていないことが分かる。パデル県アンガグラ郡では、二〇二四年以降だけで少なくとも五人が死んでいる。溺死、交通事故、火災という「防げたはずの事故」でだ。
ある父親が、自分の娘の足首を木に結ぶまで
パデル県。朝、マイケル・オドンカラは家から娘を連れ出し、庭のマンゴーの木のところへ連れて行く。そして娘の足首に縄をかけ、幹に結ぶ。
娘の名前はナンシー・ラムワカ。当時一二歳。八年前から、うなずきと激しい発作が続いている。もう喋らない。話しかけても通じない。
目を離すと、どこかへ歩いて行ってしまう。一度は藪の中で三日間行方が分からなくなった。
「自分の娘を木に縛るのは、身を切られるように辛い」とオドンカラはロイターの記者に語っている。「だが、あの子の命を守るためには、そうするしかない。縄を解いて、火の中で死んでほしくない。藪に迷い込んで消えてほしくない。すぐそこの沼で溺れてほしくない」。
記者が取材している最中にも、ナンシーは発作を起こした。叫び声を上げ、痙攣し、口から唾液が流れ、体全体が数分間震え、そして土の上でぐったりと動かなくなった。父親は少し離れた木の下から、それを黙って見ていたのである。何もできることがないからだ。
ナンシーの体は、転倒による青あざだらけだった。両手にはピンク色をした生々しい傷があった。少し前、両親がどちらも家を空けていたときに、火の中に倒れ込んでできたものだ。
「あの子は、自分が燃えていることが分からない」と父親は言った。「誰かが来て引きずり出すまで、自分が焼けていることに気づかない」。
同じことを、北ウガンダの何百という家がやっている。縄で木に縛る。家の中に閉じ込めて鍵をかける。パデル県のボニファス・オンゴム・オケネという男性には、うなずき症候群の子が二人いる。彼は家を出るとき、二人を庭の木の下に縄で結んでいく。
火に落ちないように。泳ぎたくなって水に入らないように。
パデル県のロバート・アリマという一七歳の少年の家を訪ねたアメリカの記者は、小屋の土間に横たわる彼を見ている。足首から鎖が伸び、屋根の梁に結ばれていた。兄のモリス・オヨが言うには、弟は一〇年間うなずいている。ひどくなってから、両親は畑仕事を続けるために弟を小屋に繋ぐようになった。治療センターに連れて行く金はない。
同行していた保健当局の職員は、記者にこう説明したという。これはネグレクトには当たらない、と。ネグレクトだと判断すれば子どもを家から引き離すこともあるが、これは違う。これが、ここの現実なんだ、と。
九人のうち四人が、順番に落ちていった
トゥマング村。地図にもろくに載っていないような集落だ。グレース・アベルという女性が、記者を家の裏の細い土の道へ案内する。土壁の小屋をいくつか過ぎたところに、大きなマンゴーの木がある。その下に、一七歳の息子パトリックが座っている。
肩が落ちている。目がガラス玉のようだ。
パトリックは、昔からこうだったわけではない。学校が好きで、本を読むのが好きな子だった。一〇年前、六歳のころから変わった。
「最初は、頭がうなずくことから始まったの」とアベルは言う。
うなずきの次に発作が来た。地面をのたうち回って叫ぶような発作だ。母親は、自分が何を見ているのか分からなかった。
そして一年後、彼女は妹のアミロ・アリスがよろけて歩いているのに気づいた。数日後、アリスもうなずいていることに気づいたのである。それから二年後、三人目。そして四人目。
九人の子どものうち、四人がやられた。
「心臓が凍った」と彼女は言う。「この病気は、どうやって人に取りつくの。研究者たちに、それを教えてほしい」。
トゥマング村では、およそ一〇〇人の子どもがこの病気と診断されている。村のほぼすべての家に、少なくとも一人いる。畑に出ている親たちは、集落ぐるみで当番を決め、病気の子どもたちをまとめて見張る仕組みを作った。そうでもしないと、誰も畑に行けない。
アベルはこう続けた。「畑に出ても、半分の気持ちしかそこにない。心は家の子どもたちのところにある。この病気で私たちが背負っているものは、言葉にできない。ときどき、耐えられなくなる」。
そしてこう言った。「正直に言えば、いっそ全員死んでくれれば楽になれるのに、と思ってしまうときがある」。
こういう言葉は、北ウガンダの調査記録にくり返し出てくる。介護者を対象にした聞き取り調査では、殺意にも自殺念慮にも触れる発言が繰り返し記録されている。ある女性は語る。「三人の病気の子がいる家の話です。ある日、食事をしていたら、三人が同時に発作を起こした。
母親は食べ物を手に持ったまま、食べられなかった。その日、彼女は言ったそうです。もし毒があったら、自分は飲んでいた、と」。
別の父親は、息子をこの病気で失ったあと、聞き取りをしていた研究者にこう言い切った。「死んだ子たちが、治った子たちだ」。
一九九八年に、最初の三人を書き留めた男
ジョー・オトー。二〇一八年の取材時で五九歳、ボランティアの保健員だ。北ウガンダでこの病気を最初に記録したのは自分だ、と彼は言う。
一九九八年のことだった。当時の北ウガンダは、神の抵抗軍(LRA)と政府軍の泥沼の戦争のただ中にある。トゥマング村は軍による掃討作戦の中心にあった。人々は続々と政府の作る収容キャンプに押し込まれていたのである。
「トゥマングに呼ばれたんだ。子どもが三人、おかしくなったという妙な報告があって」と彼は振り返る。彼は藁葺きの家がまばらに散らばる集落へ歩いて行った。
「子どもたちに食べ物が運ばれてくると、頭をうなずかせ始めて、それから眠り込むんだ」。彼は自分の頭を前に打ちつけるようにして、そのときの動きを再現してみせた。「見たこともない、おかしな病気だった」。
てんかんは、この土地の誰もが知っている病気だったのである。アチョリ語では「ジャケ」あるいは「トゥ・オデル」という名前がある。だがオトーたちは、これをてんかんとは呼ばなかった。呼べなかった。てんかんの治療に使われてきた根をすりつぶした伝統薬は、この新しいものにはまったく効かなかったのである。
オトーは台帳をつけ続けた。取材に応じたとき、彼はそれを開いて見せている。何ページにもわたって、何百という名前が並んでいた。
その台帳の中には、彼自身の息子の名前もある。オロマ・ロナルド。八歳で発症し、一〇年後、発作の最中に死んだ。二〇一四年のことだ。
「あの子もうなずき始めた」と、色あせた写真を手でなでながらオトーは言った。「それが何を意味するか、私には分かっていたから、辛かった」。
一九九八年に彼が記録した三人のうち、二人はすでに死んでいる。残る一人、アバロ・モニカという女性は生き延びた。取材陣がマンゴーの木とヒマワリの茂みの間の細道をバイクで一時間走って辿り着いたとき、彼女は二〇代前半になっている。藁葺きの家の前に座り、一歳の息子オテマを抱いていた。息子に病気の兆候はなかったのである。
最初の発作と、それに伴う強烈な幻覚について、彼女はこう語った。
「見えない手に掴まれたみたいだった」。そして、こう続けたのである。「夢を見た。シロアリの塚の中から男たちが出てきて、私の名前を何度も何度も呼ぶの。モニカ。
モニカ。でも私は、行くことを拒んだ」。
それを毎日見ている側の人間も、壊れていく
キトゥグム病院の精神科看護師、アドン・ジョセフィンは、二〇一二年にBBCの記者にこう話している。
「私たちも、この状況に押し潰されそうです。毎日、新しい患者を見る。発作を起こす子、倒れる子。人間として、痛みを感じます」。
彼女は続けてこう言った。「あの親たちの立場に自分を置いてみるんです。もしこれが自分の子どもだったら。もしこの問題が自分の家に来たら。私はどこにいることになるのか。
どこへ行けばいいのか」。
そして、この病院自体にも記憶がある。同じ記者が最後にキトゥグム病院を訪れたのは二〇〇四年だ。そのときそこは病院ではなく、夜のあいだ数千人の子どもを収容する避難所だった。LRAに誘拐されるのが怖くて、村で眠れない子どもたちのための場所だ。彼らは当時「ナイト・コミューター」と呼ばれた。
ピーク時にはグル、キトゥグム、パデルの三県で合わせて五万二〇〇〇人にのぼっている。
同じ病院に、一〇年経って、今度はうなずく子どもたちが運ばれてきた。多くの場合、夜のあいだそこで眠っていた子ども本人か、その弟や妹だったのである。
現場の医療者たちは、バイクで動く。オウェカ・ジョンソンという巡回看護師は、ゴーグルを下ろしてエンジンをかけ、赤い土埃を巻き上げながら藪の奥へ走っていく。背中のリュックには抗てんかん薬が入っている。細い道の先にある農家を回るには、バイクしかないからだ。
「この薬を持っていくんだ」と彼は土埃の中で叫んだ。「これがなければ、あの子たちは激しい発作ですぐ死んでしまう」。
彼が心配していたのは、資金だった。当時その活動を支えていたアメリカの慈善団体が資金集めに苦労していて、支援が止まりかけていた。
「この支援がなくなったら、子どもたちは死ぬ」と彼は言ったのである。
マヘンゲ高地、一九三四年――最初にそれを見た人
この病気の記録をいちばん古くまで辿ると、ウガンダではなくタンザニア南部の山の中に行き着く。
一九五九年、ノルウェー出身の若い精神科医ルイーズ・アール=イェレク(ルイーズ・イェレク=アール)が、ある外来診療所を開いた。当時のタンガニーカ、マヘンゲ山地のクウィロ伝道所である。登録看護師が一人いるだけの診療所で、電気も水道もない。医療機器は聴診器と打腱器と体温計と簡単な顕微鏡だけだった。
彼女が診た患者の中に、異様に多くのてんかん患者がいた。この地域に住むワポゴロ人のあいだでは、てんかんは「キファファ」と呼ばれ、悪霊が起こすもの、しかも人から人へ移るものだと信じられていたのである。だからキファファの患者は避けられ、火の中に倒れ込んでも、ごく近い親族しか助けに行かなかった。診療所には、大やけどを負った大人が何人もやってきた。
一九六五年、彼女はワポゴロ人のてんかんについての論文を発表する。その中に、こんな一節がある。一一〇人のてんかん患者のうち、八人は「大発作の二、三か月前から、頭がうなずくことで始まった」。この症状を説明するとき、語り手はいつも自分の頭を胸の上に落として見せた、と彼女は書いている。
スワヒリ語で「アメシンジア・キチュワ」。頭がうなずく、という意味の日常語だ。
彼女はさらに、七歳の男の子について書いている。「頭がたえず胸に落ちるので、ほとんどバランスを崩して、つまずいてしまう」。九歳の男の子は「毎朝ほぼ三〇分のあいだ、頭をうなずかせながら座っていなければならなかった。その後は走り回って、まったく普通に遊んでいた」。
そして、食べ物を出されるとうなずきが始まることがある、という記述もそこにある。一九六〇年代の段階で、もう記録されていたわけだ。
二〇一三年、アール=イェレクは神経毒性学者のピーター・スペンサーらと組んで、一九六〇年から一九七一年までの自分の診療記録一五〇人分を洗い直した。すると、うなずきを伴う症例が三三人分あった。男女ほぼ同数。発症年齢は二歳から二二歳、平均一〇歳ごろ。追跡できた範囲で一四人が一三歳から三九歳(平均およそ二〇歳)で死んでいた。
死因が記録されていた二六例のうち、七例はてんかん重積状態だった。
そして、最も古い症例は一九三四年に遡る。一〇歳の女の子だ。彼女は三九歳まで生きて死んだ。
この事実は重い。一九三四年という年代は、この地域に神経毒性のある人工化学物質、たとえば農薬のようなものが入ってくるより前だからだ。戦争の弾薬も、援助食料も、ワクチンも、この時点では存在しない。つまり「うなずき」という現象そのものは、北ウガンダの流行よりはるかに古く、しかも別の場所に、少なくとも八〇年前から存在していた。
二〇一二年八月、WHOはウガンダの首都カンパラで国際科学会議を開き、この病気に「ノッディング・シンドローム(うなずき症候群)」という正式な名前と、統一された症例定義を与えた。保健従事者が確認した、あるいは脳波で記録されたうなずきが二回以上。発症が三歳から一八歳のあいだ。
加えて、食べ物か寒さが引き金になること、他の発作型や神経学的異常や認知機能低下があること、地域や時期に集積していること、このうちどれか一つ。
この定義を一九六〇年代のマヘンゲの症例に当てはめてみると、きれいに当てはまる。会議の参加者たちは、南スーダン、ウガンダ、タンザニアの患者の臨床像が区別できないという点で全員一致した。
なお、ウガンダにはもうひとつ、「ナカランガ症候群」という古い謎の病名がある。もとは一九一一年の民族誌に出てくる、カンパラ東方のマビラ森林に住むバガンダ人の一氏族が祀る神の名前だった。それが一九三〇年代には、その森に多かった極端な低身長の人を指す言葉としても使われるようになる。
一九四〇年代末、レイパーとラドキンがマビラ森林で本格的な調査を行い、成長停止、痩せ、二次性徴の遅れ、知的障害、顔面の変形、脊柱の変形、そしててんかん発作を特徴とする一群を「ナカランガ症候群」として記載した。この地域でブユの駆除が行われた後、新しい患者は出なくなった。近年の総説は、ナカランガ症候群とうなずき症候群は近縁であり、おそらく同じものだと結論している。
流行はどう動いたか――南スーダンからキトゥグムへ
散発的な風土病だったものが、流行に変わったのは一九九〇年代だ。
南スーダン西エクアトリア州ムンドリ郡。ここでうなずき症候群は一九九一年に、それまでなかったものとして出現した。内戦による住民の大移動と重なっている。予防接種も駆虫キャンペーンも止まっていた時期だ。数年後にはルイの町に達し、二〇〇一年に調査が始まるまで増え続けた。
地元のモル人がそれを「ウガリを食べる病」と呼んだのは、この時期のことだ。
WHOと当時のスーダン保健当局は二〇〇一年、二〇〇二年、二〇一〇年と西エクアトリアで調査を行った。だが、原因は特定できなかった。二〇一〇年一一月、独立を目前にした南スーダン保健省はCDCに調査支援を要請する。ビザと治安の問題でCDCの調査官が現地に入れたのは二〇一一年五月だった。彼らは装甲車に乗って村々を回った。
そして北ウガンダ。
公式には、ウガンダ保健省がこれを国家的な公衆衛生問題として認識したのは二〇〇九年八月だ。だが記録を遡ると、キトゥグム県で最初の症例が確認されたのは一九九七年になる。地元の住民が「ルチュルチュ」という現象に気づき始めたのは一九九八年ごろ。ジョー・オトーが三人を書き留めたのもその年だ。
保健省自身の文書には、症状が本格的に始まったのはおそらく二〇〇三年、北ウガンダの人口の大半が国内避難民キャンプに移されていた時期だ、と書かれている。
保健省が最初に専門家チームを送ったのは二〇〇七年で、キトゥグム県のアルネ、パニケル、パジモという村を回った。チームはてんかんの亜型か、あるいは心的外傷後ストレス障害を疑い、さらなる調査を勧告した。二〇〇九年三月と八月の追加調査で、新しい疾患であることが確認され、「原因不明の進行性大脳・筋・骨格てんかん原性症候群」という長ったらしい仮の名前がつけられたのである。
数字を並べておく。二〇〇九年一二月の調査でキトゥグム県だけで二二四例が確認され、その九五%が五歳から一五歳だった(全体の範囲は二歳から二七歳)。有病率は子ども一〇〇〇人あたり一二例。教区単位で見ると、最悪のところでは一〇〇〇人あたり四六例に達した。四〇人に一人以上だ。
二〇一二年二月の時点で、ウガンダはキトゥグム、ラムウォ、パデルの三県から三〇〇〇例超を報告している。その後グル、アムル、オヤム、リラの各県にも患者が出た。致死率は六・七%と推計された。
二〇一三年三月に初めて行われた地域住民ベースの有病率調査では、子ども一〇〇〇人あたり六・八例という数字が出たのである。それまで「何千人、いや一万人」と語られてきたものに、初めて実測値がついた瞬間だった。
消えていった仮説を、ひとつずつ
ここからが、この話の科学的な見どころだ。CDCは二〇〇九年以降、三六の仮説を潰したと述べている。潰れ方を順番に見ていこう。
栄養欠乏説。とくにビタミンB6(ピリドキシン)欠乏が本命視された時期がある。B6は神経伝達物質の合成に必要で、B6依存性てんかんという難治性の疾患が実在するからだ。そして実際、キトゥグム県の調査では患者の八四%にB6欠乏が見られた。ところが、対照群でも七五%が欠乏していた。
地域全体が欠乏していただけで、患者に特有の所見ではなかったのである。他の研究では、B6と関連なしという結果や、栄養失調の既往との関連なしという結果も出た。同じ理由で、セレンの低値も全員に見られた。葉酸、コバラミン、レチノール、亜鉛も外れたのである。
食べ物説。南スーダンでは「セレナ」という赤褐色のモロコシ品種が疑われた。ケニアで開発され、緊急食料として南スーダンに持ち込まれた品種だ。色が悪く苦いのでケニアの農民には不評だったが、患者の子どもはこれをよく食べていた。ところがウガンダの調査では、モロコシの摂取は患者と対照でまったく差がなかった。
同じく、川魚、ブッシュミート、キャッサバ、ボーリング井戸の水も差がなかったのである。
猿の肉。ヒヒの脳を食べることとの関連が初期のスーダンの調査で浮かんだ。だが、その後のウガンダの調査でも、南スーダンの追加調査でも確認されなかった。
麻疹。最初のスーダンの調査では、麻疹の既往が「少ない」ことと関連するという逆向きの結果が出て話題になった。ウガンダの調査では、麻疹既往との関連はまったく見られなかった。
キャッサバの青酸。キャッサバに含まれる青酸配糖体は、コンゴ民主共和国で「コンゾ」という痙性対麻痺を起こすことが知られている。年齢層の分布もうなずき症候群と似ている。だが尿中チオシアン酸の検査では、シアン中毒の証拠は出なかった。コンゾの神経症状はうなずきでも発作でもない。
内戦の弾薬と化学物質。これが住民のあいだで最も広く信じられている説で、二〇〇九年のウガンダの症例対照研究では、発症前の「弾薬への曝露」が年齢調整オッズ比一三・九という強い関連を示した。ところが翌年と翌々年に質問を精密化して追試したところ、これは「化学物質への曝露」ではなく「銃撃を伴う襲撃を受けた経験」との関連であることが判明した。
つまり、化学物質ではなく、戦闘の激しかった場所に住んでいたという地理的な事実を拾っていたのである。
すりつぶした根。同じ二〇〇九年の調査で、伝統薬としてすりつぶした根を飲んだことが年齢調整オッズ比五・四で関連した。ただし、発症前に飲んだのか、発症後に治療として飲まされたのかを回答者が区別できていなかった疑いが強い。追試では関連が消えた。
援助食料のカビ毒。これも強い候補だった。モロコシやトウモロコシは、震えを起こす神経毒性のカビ毒を作る菌に汚染されうる。ウガンダでは、カビの生えたトウモロコシを食べたことと発症の関連を報告した研究もある。しかし、うなずき症候群の子どもがいる家といない家で、キビ、モロコシ、トウモロコシ、落花生のアフラトキシン、オクラトキシン、デオキシニバレノールの総量を比べたところ、差はなかった。
患者五〇人と対照五〇人の尿中のアルファ・ゼアラレノール、T-2トキシン、アフラトキシンM1を測った研究でも、差は出なかった。
ワクチン。関連の証拠なし。新しい神経向性ウイルス。検出されず。プリオン病。
脳波に特徴的な周期性鋭波が一切出ないことから否定。トリパノソーマ症、嚢虫症、ロア糸状虫症、リンパ系フィラリア症、脳マラリアだ。全部陰性。水銀、銅、ホモシステインの毒性。陰性だ。
髄液も正常だった。一六人から採った髄液は全部、糖もタンパクも基準内。炎症がない。これはかなり効いてくる所見で、脳炎らしさがまったくないということを意味する。
こうして、ほぼ全部が消えた。残ったのは、ひとつだけだった。
川に住む虫だけが、どうしても消えなかった
残ったのは、回旋糸状虫(オンコセルカ・ヴォルヴルス)という線虫との相関だったのである。
この虫は、河川盲目症(オンコセルカ症)の病原体として知られている。世界で三七〇〇万人が感染しており、その九九%がアフリカに住む。媒介するのはブユ(シムリウム属)だ。ブユは、酸素を多く含む流れの速い川、つまり早瀬のあるところで繁殖する。だから川のそばに住む人ほど刺される。
成虫は皮下に結節を作り、そこから毎日何千という仔虫(ミクロフィラリア)を放出する。仔虫が皮膚に入れば激しいかゆみと皮膚炎を起こし、目に入れば失明する。
うなずき症候群の患者は、この虫に感染している率が異常に高い。
キトゥグム県の症例対照研究では、オンコセルカ血清反応陽性の年齢調整オッズ比が一四・四。南スーダンでは、皮膚生検で感染が確認されたのが患者群の七六・三%、対照群の四七・四%。うち西エクアトリアのマリディでは患者八八%対対照四四%と、さらに極端だった。二〇一六年から二〇一八年にかけて行われたドキシサイクリンの臨床試験では、参加した二四〇人のうち二三二人、実に九七%にオンコセルカ特異抗体があった。
そして地理。うなずき症候群が発生した場所は、例外なくオンコセルカ症の高度流行地だ。北ウガンダで患者が集中したのは、アスワ川とパゲル川という二本の急流の流域だった。国内避難民キャンプのいくつかは、ブユの繁殖地である早瀬のすぐそばに作られていた。
ここまでなら、話は簡単に見える。虫が脳をやっているのだろう、と。
問題は、虫が脳にいないことだ。
タンザニアと南スーダンから採られた六四検体の髄液を遺伝子増幅法にかけたが、オンコセルカのDNAは一つも出なかった。MRIにも、寄生虫がいる所見は出ない。髄液の細胞数もタンパクも正常。この虫は、そもそも神経に侵入する虫ではないと考えられている。
そしてもうひとつ、大きな穴がある。オンコセルカ症は西アフリカにも中央アフリカにも、さらに中南米にも広く分布している。なのに、うなずき症候群が出るのは東アフリカのごく狭い地域だけだ。同じ虫がいるのに、なぜブラジルやベネズエラの流行地で首の落ちる子どもが出ないのか。なぜ三歳以降の子どもにしか出ないのか。
CDCの研究者たちは、この点をはっきり「当惑させられる」と書いている。未知の補助因子があるのか、あるいはこの地域にだけ抗原性の違う変異株がいるのか。当時は、どちらを支持するデータもなかった。
補助因子の候補として、興味深い説がひとつある。牛だ。
戦争の前、キトゥグムとパデルには牛の群れがいた。それが北東部のカラモジョン人に奪われ、残りは戦争初期に地域を徘徊していた反政府勢力に食われた。牛がいなくなったのである。
ブユの一部の種は普段は牛を刺し、牛のオンコセルカ(オンコセルカ・ドゥケイ、オンコセルカ・オケンギ)を運んでいる。これらは人間には病気を起こさない。だが人間がそのブユに刺されると、牛のオンコセルカに対する抗体ができる。この抗体は、回旋糸状虫に対してある程度の交差防御をもたらす可能性がある。つまり、牛がいることが人間を守っていたかもしれない。
牛が消えたことで、その「おまけの免疫」が消えた。
この説は、南スーダンで牧畜民のディンカ人の家族がうなずき症候群をほとんど免れていた、という観察とも整合する。ディンカ人は牛と暮らし、子どもに二歳から三歳まで母乳を与え、生後九か月から一二か月で牛乳を足す。その隣で農耕をしていたモル人の子どもが、次々に倒れた。
二〇一七年、虫のタンパク質が人間の脳と似ていることが分かった
虫が脳にいないなら、虫が作らせた「何か」が脳に入っているのではないか。免疫が誤爆しているのではないか。この発想自体は前からあった。だが、自己抗体を探しても探しても、何も見つからなかった。
アメリカ国立衛生研究所(NIH)の神経免疫学者アヴィンドラ・ナスとトーリー・ジョンソンは、改良型のプロテインチップを使うことにしたのである。数千種類のタンパク質に対する抗体を一度に調べられる道具だ。
結果は劇的だった。
うなずき症候群の患者の血液は、四つのタンパク質に強く反応した。中でも一つのタンパク質に対しては、患者血清の反応が非感染の村の対照群の三万三〇〇〇倍という桁違いの数字を叩き出したのである。
そのタンパク質の名前が、レイオモジン-1(ロイオモジン-1)だった。
レイオモジン-1は、細胞の形を保つ働きをするアクチン結合タンパク質で、それまで平滑筋細胞や甲状腺の細胞にあることは知られていた。だが、神経系にあるとは考えられていなかったのだ。ジョンソンらはまず、これが培養したヒトの成熟ニューロンと発達中のニューロンに発現していることを示したのである。次にマウスの脳で、それが海馬のCA3領域、小脳のプルキンエ細胞、大脳皮質のニューロンに局在することを示した。
どれも、うなずき症候群で障害されていそうな場所だ。
抗体の検出率はこうなった。うなずき症候群の患者五五人中二九人が陽性。村の対照群五五人中一七人が陽性。抗体の量は患者のほうがはるかに多かった。そして見逃せないことに、患者一八人の髄液のうち八人分から、この抗体が検出された。
北米のてんかん患者八人の髄液を比較対照にしたところ、そちらは全員陰性だったのである。つまりこの抗体は、血液脳関門を越えている。
次に、この抗体が神経を殺すかどうか。健康なニューロンを患者の血清とレイオモジン-1抗体で処理すると、ニューロンは生き残れなかった。抗体を取り除くと、生存率が上がった。
そして本丸。なぜオンコセルカなのか。
オス・メス両方の成虫から抗原を作り、患者血清と対照血清で免疫ブロットにかけ、患者血清だけが強く反応するバンドを切り出して質量分析にかけた。出てきたタンパク質のひとつが、オンコセルカのトロポミオシンだった。
ヒトのレイオモジン-1とオンコセルカのトロポミオシンは、全体としては配列同一性二五・五%、類似性三七%と、そこまで似ているわけではない。だが部分で見ると事情が違う。トロポミオシンのアミノ末端側に保存されている「DAIKK」という配列(二番から一四番)は、ヒトのレイオモジン-1の一〇七番から一一七番と、同一性五七・一%、類似性七一・四%。
もうひとつの保存配列である二三〇番から二四〇番は、レイオモジン-1の三六二番から三七二番と、同一性六六・七%、類似性八三・三%で一致した。
さらに、レイオモジン-1はトロポモジュリン遺伝子ファミリーの一員なので、オンコセルカのトロポモジュリンとの立体構造モデルを重ねてみると、重なる領域があった。二番目にヒットしたヒトのタンパク質であるDJ-1についても、オンコセルカの相同タンパク質と強い相同性があったのである。
決定的な実験はこうだ。患者四人から精製したレイオモジン-1抗体を、オンコセルカの全虫体の抽出液にかけた。抗体は、複数のタンパク質にがっちり結合した。逆向きにもやったのである。患者血清をあらかじめオンコセルカ抽出液と混ぜてからレイオモジン-1への反応を見ると、反応が落ちた。
ウシ血清アルブミンと混ぜた対照では落ちなかった。
分子擬態、というやつだ。虫を殺すために作った抗体が、たまたま形の似ていた自分の脳のタンパク質を攻撃し始める。
この論文は二〇一七年二月一五日、サイエンス・トランスレーショナル・メディシン誌に掲載された。プレスリリースの見出しは「寄生虫タンパク質への反応がうなずき症候群を起こしている可能性」だった。イベルメクチンのような駆虫戦略で予防できるかもしれない、とも書かれたのである。
そして、反論が来た
分子擬態を証明するには、四つの条件を満たす必要がある、とされている。病原体と疾患の疫学的関連。患者組織の抗原に対する免疫反応の存在。その免疫反応が病原体とも交差反応すること。そして動物モデルで病気を再現できること。
ジョンソンらの論文は、自分たちが満たしたのは二番目と三番目である。一番目はそれ以前の疫学研究がすでに満たしていると書いている。四番目は、満たしていない。
そこを突かれた。
オーストリア・インスブルック医科大学の神経学者エーリッヒ・シュムッツハルトは、サイエンス誌の取材に対してこう指摘した。レイオモジン-1抗体は、てんかんの原因ではなく結果かもしれない。このタンパク質はニューロンの内側にあって、外側にはない。発作はニューロンを殺す。死につつあるニューロンがこのタンパク質を血流にこぼし、それに対して抗体ができた、という順番でもまったく説明がつく。
この「因果の向きが逆かもしれない」という批判は、その後も繰り返された。ドイツのクリストフ・カイザーとフランスのセバスチャン・ピオンは総説の中で、髄液で抗体が見つかったのは調べた一六人か一八人のうち八人だけなのに、全員が中枢神経症状を出している、という点を挙げた。抗体がなくても病気になっているなら、抗体は病気の本体ではなく、オンコセルカ感染の副産物(エピフェノメノン)である可能性が残る。
そして、数字自体も揺らいだ。同じ集団を対象に行われたその後の研究では、レイオモジン-1抗体は対照群の三分の一にも検出された。さらに別の研究では、患者と対照で検出率に差がないという結果まで出た。二〇二四年に発表された長期経過の研究は、「レイオモジン-1が病態形成に関与しているのかどうかは、まだ解明されていない」と結論している。
二〇二四年に発表されたドキシサイクリンの臨床試験の登録時データを見ると、実態はもっと複雑だ。二四〇人のうち、神経タンパク質に対する自己抗体を何か一つ以上持っていたのは一五七人(六五%)。最も多かったのは血漿中のヒトDJ-1(八五人、三五%)で、レイオモジン-1は七七人(三二%)と二番手だった。髄液ではDJ-1が二七人、レイオモジン-1が一四人。
免疫組織化学で髄液に自己抗体が見つかったのは四六人(一九%)で、その内訳はレイオモジン-1が二六人、GABA-B受容体が二人、CASPR2が一人、そして標的不明が二八人だった。
標的不明が二八人。つまり、まだ名前の分からない何かを攻撃している抗体が、患者の一割以上にある。
脳を開けたら、老人の病気が入っていた
二〇一八年、話はもう一度ひっくり返る。
トロント大学の法医病理学者マイケル・ポラネンとウガンダの研究者たちは、北ウガンダで死亡したうなずき症候群の子ども五人の脳を調べた。死亡時の年齢は一三歳から一八歳。遺族の同意を得て剖検が行われた。この五人は、二〇〇五年から二〇一〇年のあいだ、つまりLRAが猛威を振るっていた時期に国内避難民キャンプで暮らしていて発症し、後に死亡した子どもたちだった。
脳を切って、異常リン酸化タウに対する抗体で染色したのである。
出てきたのは、神経原線維変化だった。もつれた繊維の塊。前神経原線維変化。神経網の中の糸状の構造と点状の沈着だ。大脳皮質、皮質下の核、そして脳幹に広がっていた。
分布には偏りがあって、前頭葉と側頭葉が優先的にやられ、脳回の頂上の浅い層に集中していた。中脳被蓋核、黒質、青斑核には球状の神経原線維変化があったのである。海馬は、きれいに無傷だった。
神経原線維変化というのは、アルツハイマー病の教科書に必ず出てくるあれだ。進行性核上性麻痺、大脳皮質基底核変性症、ピック病といった、いわゆるタウオパチーの主役でもある。要するに、老年期の神経変性疾患の像だ。
それが、一三歳の子どもの脳に入っていた。
「うなずき症候群はタウオパチーである」とポラネンは結論した。「新しく認識された神経変性疾患かもしれない」。
そしてもうひとつ、見つからなかったものが効いてくる。寄生虫やウイルスが引き起こすはずの脳の炎症が、まったくなかったのだ。
二〇二二年、ポラネンらは症例を一六人に増やして追試した。死亡時年齢一四歳から二五歳、罹病期間六年から一五年。一六人全員にタウ病理があった。一一人に小脳の変性、七人に白質の変性。神経網に糸状およびドット状のタウが沈着し、大脳新皮質では多巣性の「表層ラミナ型」という独特のパターンを示した。
グリア細胞にはタウが溜まっていない。これは既知のタウオパチーのどれとも違うパターンだ。海馬は、やはり無傷だった。海馬硬化もなかった。
彼らははっきり書いている。「うなずき症候群は一貫してタウ病理と結びついた臨床病理学的実体である。ただし我々の観察は、疾患の原因も、タウ病理が生じる理由も明らかにしていない」。
当然、ここにも反論がついた。
レイオモジン-1を発見したナス自身が、この論文は詳細に乏しく重要な対照を欠いていると批判した。同じ集団で他の型のてんかんで死んだ子どもの脳病理が記載されていない、という指摘だ。ベルギー・アントワープ大学のロバート・コールバンダースはもっと踏み込んで、自分の手元に、同じ時期に同じキャンプで発症した。だが、より良いケアを受けて発作が少なく、より長く生きた子ども七人の未公表の剖検所見がある、と述べた。
その七人には、タウオパチーがない。「私の結論は、タウ沈着は発作の結果であって、原因ではない、ということだ」。
一方で、アルツハイマー病研究者たちはこの発見に色めき立った。ロンドン大学のジョン・ハーディはこう言っている。うなずき症候群の所見は、タウの沈着が加齢に依存した問題ではないことを意味する。子どもの脳にタウを溜めさせた「何か」が別にあるはずだ。そしてこの病気は東アフリカの狭い地域で、特定の時期にだけ起きた。
だからその引き金は、比較的見つけやすいかもしれない。
治せないが、少しはましにできる――薬でやれたこと
原因が分からなくても、発作は薬で抑えられる。ここだけは、はっきりした成果が出ている分野だ。
一九六〇年代のマヘンゲで、アール=イェレクはフェノバルビタール(ルミナール)をごく少量配り始めた。それまでキファファは治らないものと信じられていた土地で、半数以上の患者が発作から解放された。タンザニアではその後も、カルバマゼピンやフェノバルビトンによる持続的な改善が報告されている。
ウガンダでは、バルプロ酸ナトリウムが標準になった。二〇一四年にイドロらが治療センターの大規模な観察研究を行ったところ、うなずき症候群の子どもは抗けいれん薬によく反応し、日常生活の機能をかなり取り戻すことが示されたのである。同じキトゥグムのマヘンゲ型の患者を長期追跡した二〇二四年の研究では、四人が発作から完全に解放され、一部の患者では特徴的なうなずきが止まった(他の型の発作は残った)。
つまりこれは、少なくとも一部の人にとっては「管理できる状態」になりうる。
治療センターが開いたのは二〇一二年三月だった。キトゥグム、パデル、ラムウォの三県に、スクリーニングと治療のセンターが設置された。初日には二〇〇人以上の子どもが押し寄せたのである。キトゥグムのセンターは開設から一一日で一九一人を受け入れ、うち一一五人が症例定義に合致してすぐ治療が始まった。パデルは五九七人を受け入れて四一四人、ラムウォは七人を受け入れて五人だった。
抗てんかん薬に加えて、首相府の手配で栄養補助食品と食料が配られ、自分で食べる、体を洗う、歯を磨くといった日常動作を取り戻すためのリハビリが行われたのである。WHOとCDCの支援で九九人の保健従事者が訓練された。村から子どもを運ぶために、保健省が車を四台買って各センターに配置した。
そしてもうひとつ、原因に直接切り込む試みが行われたのである。ドキシサイクリンだ。
理屈はこうだ。オンコセルカの成虫は皮下の結節の中で一五年も生きる。イベルメクチンは仔虫をよく殺すが成虫は殺せない。ところがオンコセルカの体内にはウォルバキアという共生細菌が住んでいて、抗生物質でこれを叩くと成虫が不妊化して早死にする。もし病気の正体がオンコセルカ(あるいはウォルバキア)に対する抗体の誤爆なら、ドキシサイクリンで大元を減らせば良くなるかもしれない。
二〇一六年九月から二〇一八年八月にかけて、キトゥグム総合病院を拠点に、八歳から一八歳の患者二四〇人を対象とした第二相の二重盲検ランダム化プラセボ対照試験が行われた。ドキシサイクリン一〇〇ミリグラムを毎日六週間、あるいはプラセボ。全員に標準治療としてバルプロ酸ナトリウムが与えられた。評価は二四か月後。
結果は、半分失敗で、半分は大きかった。
主要評価項目である「神経タンパク質に対する自己抗体を持つ人の割合」は、まったく動かなかった。二四か月後に抗体を持っていたのは二二五人中一六一人(七二%)で、登録時の六五%より、むしろ増えていたのである。両群に差はなかった。個々の抗体の量も変わらなかった。発作のコントロールも、重症度も、生活の質のスコアも、両群で差がなかったのである。
症状は、まったく元に戻らなかった。
一方で、オンコセルカ特異抗原Ov16に対する抗体の濃度は、ドキシサイクリン群で四割以上下がった。虫にはちゃんと効いていたのである。
そして、こういう数字が出た。二四か月のあいだに、発作の急性増悪やてんかん重積で入院したのは、ドキシサイクリン群が一二〇人中八人(七%)、プラセボ群が一二〇人中二〇人(一七%)。リスク比〇・四三だ。死亡は、全体で一四人(六%)。一人が交通事故による頭部外傷で、それ以外は全員が発作に関連した死、つまりてんかん重積、重度の熱傷、溺水、てんかんにおける突然死だった。
その発作関連死は、ドキシサイクリン群四人、プラセボ群九人。リスク比〇・四六。
研究者たちの解釈はこうだ。ドキシサイクリンは病気そのものを止めなかったが、呼吸器感染症やマラリアといった発熱を伴う感染症を減らした。そういう感染症は発作の群発やてんかん重積を引き起こし、そこで子どもが死ぬ。だから予防的な抗生物質が、間接的に命を救っていた。
論文の結論部分には、こう書かれている。地域主導型のイベルメクチン集団投与と、昆虫学的手法によるブユの個体数制御はすでに順調に進んでいる。それとともにウガンダのうなずき症候群の流行は終わった、と。
実際、その通りだった。アスワ川とパゲル川に殺幼虫剤が投入され、年二回のイベルメクチン集団投与が始まった。二〇一二年に流行は止まり、一年以内に新規症例はほぼゼロになったのである。二〇一三年を通じて、影響を受けた全県から一例の新規報告も上がらなかった。
ただし、「流行が終わった」ということと、「病気が終わった」ということは、まったく違う話だ。
「政府が食料に毒を入れた」――地域社会が採用した病因論
ここからが、この記事で本当に書きたかった部分だ。
科学が「原因不明」と言い続けているあいだ、北ウガンダの人々が黙って待っていたわけではない。彼らは彼らで、原因を決めた。
二〇一二年にキトゥグムとパデルで行われた質的調査によれば、住民のあいだで最も多く語られた説はこの二つだった。
ひとつ。戦争で使われた兵器が、大気や水や植物に化学物質を残した。それが妊婦や子どもに作用した。ほぼ全員がこれを口にしたのである。
ふたつ。国内避難民キャンプで配られた援助食料が、期限切れだったか、あるいは意図的に毒を入れられていた。
二番目の説には、具体的な根拠がいくつも添えられていた。配られたトウモロコシ粉は苦かった、変な匂いがしたのである。麻袋には賞味期限が印刷されていなかった。供給元を出た後で誰かが手を加えていないと、どうして言えるのか。
そして、豆の袋の中から小さな薬包が出てきた。キャンプでも、後のうなずき症候群向けの食料配給でも出てきた。住民が問いただすと、それは害虫駆除剤だと説明されたのである。ある住民は調査者にこう言った。「やつらは言うんですよ、あの粉は食品の保存用だって」。
そして笑った。
この笑いを、迷信だとか無知だとか片づけるのは簡単だが、それは間違っている。ここには、積み重なった歴史がある。
二〇〇〇年、北ウガンダでエボラ出血熱が流行したとき、アチョリの人々は最初の症例を政府が意図的に持ち込んだものだと解釈した。アチョリ人兵士の遺体が、感染したまま北部の家族のもとへ送り返された。アチョリの葬送の習慣では、遺族が遺体を洗って埋葬の準備をする。政府はそれを知っていたはずだ、という理屈だ。大統領がアチョリ人の死者に対して遺憾の意を示さなかったことが、その疑いを裏づけたと受け止められた。
HIVの流行も同様に語られた。他地域出身の政府軍兵士による性暴力によって、意図的に広められたのだ、と。
そして、うなずき症候群が来た。しかも、LRAとの戦争とぴったり同じ時期に、ぴったり同じ場所で。
ある父親は、聞き取り調査の場で研究者にこう言った。
「あんたたち研究者は、これはてんかんだと言う。だが、てんかんなら我々は知っている。昔からあった。だが村に一人か二人だった。これは違う。
これは戦争と一緒に来た。これは村ごと全部やられる。てんかんじゃない、戦争のせいだ。なぜ、最も残虐なことが起きた村ほど、この病気の子どもが多いんだ」。
この問いに、科学は答えを持っていない。少なくとも、彼が納得する形では持っていない。
そして、彼の指摘には一定の合理性すらある。オンコセルカ症は戦争が始まるずっと前からその土地にあった。ブユも昔からいた。ある祖母はこう言っている。「ブユのせいだと人は言うけど、違う。
キャンプで食べたもののせいだと言う人もいる。でも私は、それが原因だとは思わない」。ある母親はこう言った。「ブユのせいだと言うけど、ブユはずっと前からいたでしょう。これを持ってきたのは戦争よ」。
疫学者にとって、これは「相関が古すぎて説明にならない」という反論として、そのまま学術的に成立する指摘でもある。
チェン――埋められなかった者たちが、帰ってくる
そして、もうひとつの説明がある。こちらのほうが、この地域では深い。
アチョリの人々のあいだには「チェン」(あるいは「ラチェン」)という概念がある。暴力的な死に方をした者、あるいはきちんと埋葬されなかった者の霊。それは成仏せずその場に留まり、生きている人間の体に入り込んで祟る。
北ウガンダの戦争では、おびただしい数の人間が残虐な方法で殺された。そして二〇〇万人がキャンプに移されて何年も帰れなかった。彼らが村に戻ったとき、彼らは自分たちの土地のあちこちで人骨に出くわしたのである。誰のものか分からない骨のそばで暮らし始めた。
「あの川では、たくさんの人が殺されて、埋められもせずに落とされました。その水を、人はいまも飲んでいるんです」。イスラム教の宗教指導者は、調査者にそう語っている。
トゥマング村のサンタ・オロクという女性は、娘のうなずき症候群についてアメリカの記者にこう説明した。「戦争でここで死んだ人たちの霊が、生きている人を傷つけに、あるいは取り憑きに戻ってきているんです」。
キトゥグムのベティ・オラナは、娘が、一〇歳までまったく普通だった娘が、夜に叫ぶ、と言った。「夜、月が出ているときに、あの子はおかしくなります。ほとんど眠れません。急に叫び出すので、私たちは縛らなければならない。あの子はこう言うんです。
『幽霊が見える。あそこにいる。この目で見えてるの。お願い、守って』」。
そして彼女はこう続けた。「最初はうなずきから始まりました。長いこと、てんかんの薬を飲んでいます。お医者さんはてんかんだと言うけれど、私はそうは思わない。この子も、この村の他の子たちも、死んだ人の霊に取り憑かれているんだと思います」。
長老たちは別の角度から説明する。戦争で伝統儀礼が途絶えた。先祖の霊(ジョギ)を祀っていた場所が戦争で荒らされ、もう清くない。多くの家では「アビラ」、つまり先祖の祠そのものがなくなった。ちゃんとした葬送の手順を踏まない。
放っておかれた先祖の霊は怒り、戦争や病気を起こす。「いま、人は正しい手順を踏んでいない」と、伝統知識で知られる老女は語った。「ほとんどの人が、もうアビラを持っていない。霊を鎮めなければならないのに。だからこうなったんです」。
中には、アチョリ人が過去に犯した罪への報いだと考える人もいる。LRAの時代のことだけではない。一九八〇年代の内戦でアチョリ人兵士が他地域で行った略奪や殺害まで含めた、長い時間のスケールの話だ。
治療も行われた。地域の首長たちは、悪霊を鎮めるための伝統儀礼を主催した。個々の家族は「アジュワカ」という霊媒のもとを訪れたのである。アジュワカは、憑かれた人間と復讐する霊のあいだの対話を仲介し、霊をなだめて体から追い出す。キトゥグム県では複数の家族が金を出し合って合同の治療儀礼を開き、羊が屠られ、チェンに語りかけられた。
改善はなかった。
イスラム教とキリスト教の側も動いたのである。聖別した水と祈りで、ジン(イスラムの霊的存在)や悪魔を追い出そうとした。地元のイマームは、アチョリの概念と自分の信仰を混ぜてこう説明している。「ジンはここにたくさん来る。殺しがあったからだ。
やつらは血が飛び散った場所を好む。死んだ者たちの影、つまりチェンが、いまジンと一緒にこの地域をうろついている。やつらは一緒にいるんだ」。
夢に薬を教えられた、という老女もいる。「夢の中で、絵を見せられたんです。夜が明けて起きたら、その薬が家の前にありました」。彼女は今、その植物の根を患者の家族に売っている。家族はそれを子どもの体に塗り、食べ物に混ぜる。
ここで、ひとつだけ、どうしても書いておかなければならないことがある。
うなずき症候群の子どもたちの一部には、幻覚がある。精神科チームが観察した記録には、こうある。子どもたちの何人かは「銃やパンガ(山刀)を持った兵士が自分を襲ってくるのが見える」と言い、悲鳴を上げて怯えた。だが、他の誰にもその襲撃者は見えなかった。
ある一四歳の少年は、二〇〇三年、自分が暮らしていた避難民キャンプが反政府勢力に襲撃され、友人たちが誘拐されたり殺されたりした後に発症したのだ。彼は、その友人たちのことを思い出したときと、食べ物を見たときにうなずいた、と父親は説明したのである。
科学的には、これは側頭葉を巻き込む発作の知覚症状と、極度の心的外傷が合わさったものとして説明できる。精神科チームは、うなずき症候群の子どもたち全員が、キャンプ生活のあいだ重度の心的外傷後ストレス障害の状態にあったと記録している。
だが、その村で暮らしている人間の目にはこう見える。埋葬されなかった者たちが、子どもの中に入って、子どもの口で叫んでいる。
チェンという言葉が、そこまで完璧に現実を記述してしまっていること。これが、この病気の本当に不気味なところだと僕は思う。
戦争と病気が、同じ場所で同じ時期に起きたということ
なぜ住民は、この病気を戦争と切り離して考えられなかったのか。年表を並べれば分かる。
一九八六年、ヨウェリ・ムセベニの国民抵抗軍がカンパラを制圧し、北部出身者が主体だった旧国軍が北へ敗走した。そこから北ウガンダの戦争が始まる。アリス・ラクウェナの聖霊運動から派生したジョゼフ・コニーの神の抵抗軍(LRA)は、二〇年以上にわたってアチョリ地域を荒らした。皮肉なことに、その最大の被害者はアチョリの民間人自身だった。
LRAの戦闘員の多くは、誘拐された子どもだったのである。国連児童基金の推計では、紛争開始以降に誘拐された子どもはおよそ二万五〇〇〇人から三万人。うち七五〇〇人が少女で、そのうち一〇〇〇人が捕らわれのあいだに子どもを産んだ。
一九九六年から、ウガンダ政府は住民を「保護キャンプ」に集め始めた。二〇〇二年一〇月、軍は「放棄された村」に残る民間人は全員キャンプへ移れという命令を出した。避難民の数は二〇〇二年初めの五〇万人から、その年の終わりには八〇万人近くに跳ね上がったのである。ピーク時には一七〇万人から二〇〇万人。グル、キトゥグム、パデルの三県では、人口の九割が避難民になった。
キャンプの中の状況は、統計で見ると凄惨だ。二〇〇五年七月にウガンダ保健省とWHOが行った調査によれば、アチョリ地域全体の粗死亡率は一日一万人あたり一・五四人、五歳未満死亡率は三・一八人。どちらも人道緊急事態の閾値(それぞれ一・〇と二・〇)を超えている。キトゥグムとパデルでは、非危機時の四倍だった。二〇〇五年一月から七月までの半年で、アチョリ地域全体の超過死亡は二万五六九四人と推計された。
週におよそ一〇〇〇人が、本来なら死ななくてよかった死に方をしていた計算になる。当時これは、ダルフールの死亡率の二倍以上だと言われた。
そして子どもたちは、夜になると歩いた。村やキャンプにいると誘拐されるので、夜のあいだだけ町の中心部や病院や教会の敷地に移動して眠る。「ナイト・コミューター」と呼ばれた彼らは、二〇〇四年六月の時点で三県合わせて五万二〇〇〇人。グル近郊のある受け入れ施設は四〇〇人収容の予定で作られたが、初日に六八〇人が入り、後には毎晩一五〇〇人が寝ていた。
その大半が七歳から一二歳、つまりLRAが最も好んで狙う年齢層だった。
二〇〇六年にジュバで和平交渉が始まり、LRAは国外へ抜けたのである。二〇〇九年、住民の大半がキャンプを出て故郷に帰り始めた。
この年表に、うなずき症候群の年表を重ねてみる。一九九七年、キトゥグムの避難民キャンプで最初の症例。一九九八年、ジョー・オトーがトゥマングで三人を記録。二〇〇三年前後、保健省の後の分析によれば流行の本格的な開始だ。二〇〇六年から二〇一二年、発症率が史上最高に。
二〇一二年、ブユ駆除とイベルメクチン集団投与の開始とともに流行が停止。
同じ人間が、同じ場所で、同じ一〇年のあいだに、両方を経験した。
キャンプでの生活が病気を作った、という因果の筋道も、生物学的にはちゃんと引ける。キャンプのいくつかはブユの繁殖する早瀬のすぐ近くに作られた。そこに人間が高密度で詰め込まれた。戦争のあいだ、キトゥグムとパデルではイベルメクチンの集団投与が行われていなかったのである。栄養失調と他の感染症で免疫が落ちた子どもたちが、極めて強い寄生虫負荷を浴びた。
牛は奪われていた。ワクチンも駆虫も止まっていたのである。二〇〇九年の症例対照研究では、てんかん患者の七一%、対照群の五四%の皮膚生検から仔虫が見つかっている。
社会人類学者のパウル・ブクルキが、キトゥグムでの聞き取りを終えたあとに口にした一文が、この構図を一番よく表している。
「二〇年の戦争でひとつの世代が失われた。そして、いま、もうひとつの世代がうなずき症候群で失われつつある」。
バスに子どもを乗せて議会に運んだ議員と、二件の訴訟
ウガンダの中央政府の反応は、控えめに言っても遅かった。
一九九七年に最初の症例が出て、二〇〇七年に最初の調査チームが入り、二〇〇九年に国家的問題として認識され、本格的な国家対応計画が動き出したのは二〇一二年三月。一五年かかっている。
北部選出の議員たちが、この遅れを公然と攻撃した。アチョリ議員連盟が動き、議会に特別委員会が置かれた。政府はようやく七〇億ウガンダ・シリングの計画を発表したのだ。だが、保健省が要求した三八億シリング(当時のレートでおよそ一五〇万ドル)の補正予算は「要求が遅い」という理由で計上されず、財務省は既存予算からやりくりしろと指示したのである。
キトゥグム選出のベアトリス・アニワル議員は、二〇一二年四月、バスを一台借り上げた。そして、うなずき症候群の子ども二〇人を乗せて、首都カンパラまで運んだ。
これは政治的パフォーマンスだと批判された。病気の子どもを政治利用している、と。だが効果はあった。ムセベニ大統領はムラゴ国立病院を訪れ、彼女と子どもたちに会った。
同じ年の七月、議会の特別委員会がグル、キトゥグム、ラムウォ、パデルの各県を実地に回ったのである。戻ってきた委員長のメダード・ビテキェレゾは、保健省が研究費として計上された四億シリングの使途を説明できていないと述べ、「保健省は議会に嘘をついた」と言った。現地を回ったが、そのカネで行われたはずの研究の痕跡がなかった、というのが彼の主張だった。
同じ委員会の視察では、治療センターとして使われている保健施設の財政状態も暴かれたのである。アタンガ保健センターの責任者は、文房具と清掃と緊急対応を全部合わせて月に二五万シリングしか来ないと証言している。
そして二件の訴訟が起こされた。地元の慈善団体ヘルスウォッチ・ウガンダが一件、二人の国会議員が一件。政府の過失を問い、被害を受けた子どもの権利侵害を訴えるものだった。ヘルスウォッチの代表は「政府に謝罪させ、失われた命に補償させたい」と述べた。ウガンダの司法長官ピーター・ニョンビは、これらの訴訟を最後まで争うと応じたのである。
「原告は無知から訴えている。政府がWHOと協力して何をしてきたか、私は知っている。多額の資金と食料が、この病気との闘いに投じられてきた」。
住民の側から見れば、話はもっと単純だった。二〇一二年の聞き取り調査で、参加者たちが繰り返し口にした苦情はこうだ。CDCの調査結果は二〇一〇年にウガンダ政府に渡されたのに、住民には公開されていない。研究者は来て、サンプルを取って、帰っていく。そして結果を教えてくれない。
ある家長は、二〇一七年になってもこう言っていた。八年前に病気が出たとき、政府の役人が来て、検体を取り、カンパラの研究所に子どもを何人か連れて行った。それ以来、誰からも何の連絡もない。八年経って、薬もなければ心のケアもない。
「一番きついのは、これに終わりが見えないことだ」と、彼は言った。
食料配給にまつわる皮肉な話もある。政府は治療とあわせて患者家庭に無償で食料を配ったが、その結果、うなずき症候群だと申告する人が急増した。グルの政府病院にいた精神科看護師はこう説明している。「うなずき症候群は極度に政治化されました。だから地域社会は、うなずき症候群の子どもがいるほうが得だと考える。
政府もNGOも食料や衣類や金を出しますから。保健省の関心は、本物のうなずきを正しく見分けることに向かいました」。そして、この計画は財政的に持たなくなり、政府は突然、食料の配給をやめた。段階的に減らす手順もなかったのである。残されたのは、「政府は我々のことなどどうでもいいのだ」という感情だった。
流行は終わった。だが、病気は終わっていない
二〇二六年の時点で、ウガンダのうなずき症候群は「終わった話」ということになっている。保健大臣のジェーン・ルース・アチェンは、新規症例はないと述べている。統計上、それは概ね正しい。
だが、発症した本人たちは、まだ生きている。そして年をとっている。
二〇一七年、資金難でオデクとトゥマングにあった二つの専門ケアセンターが閉鎖された。トゥマングのセンターは、アメリカの脳神経外科医スーザン・ガズダが立ち上げたプロジェクトの支援で、二〇一六年に一億五〇〇〇万シリングかけて建てられたばかりだった。センターが閉じた後、ネグレクト、栄養失調、溺死、焼死による死亡が増えた、と現地の関係者は述べている。
二〇二二年一二月、カトリックの司祭アンソニー・ニェコが、キトゥグム市内に「大司教ジョン・バプティスト・オダマ・ケアセンター」を私的に立ち上げた。彼が地域を回って見たものが、その動機だった。「地域活動で病気の子どもたちに出会ったのである。彼らは、自分の安全のためにロープで縛られ、食べさせてもらえず、極度に不潔な環境で、栄養失調で、自分の糞を食べていた」。
センターは七人の患者を受け入れた。効果はあったのである。運ばれてきたとき歩けず、話せず、食べられなかった少女が、一三か月ほどで歩き、話し、皿を洗えるようになった、という記録が残っている。管理者は「頑健な治療、ケア、栄養支援、心理社会的支援があれば、危機的状態から安定状態まで回復して家に帰れる」と述べていた。
だが、退院した患者のうち一人は、家に帰って四か月後に亡くなった。「家庭で受けられるケアの水準が、センターのそれに追いつかなかった」と職員は説明している。
そしてセンター自体が、二〇二四年六月に閉鎖された。ニェコ神父が別の教区に転任した後、ボランティアが続かなかった。閉鎖以降、七人の患者のうち二人が亡くなっている。神父は再開のために資金を探し回ったが、アプローチした団体はどこも、自分たちも援助資金を失ったところだと答えた。
数字は、どこを見るかで大きく食い違う。政府の記録では二一四三例。アチョリ議員連盟と地元財団が二〇二二年に行った調査では五三一九例。二〇二五年九月、パデル県の保健担当官は県内だけで一三五九人の患者がおり、うち五六二人が重症だと報告した。保健省の別の資料では、アチョリ地域でおよそ六〇〇〇人、確認された死亡が少なくとも三〇〇人となっている。
パデル県の担当者は率直にこう言っている。「我々はいまだに古いデータに頼っていて、それは信頼できない」。
現場の状況は、二〇一二年とあまり変わらない。オデクとトゥマングの治療センターは閉鎖されたまま。期限切れの薬に頼っている施設がある。ドキシサイクリンは二〇二一年以降ずっと手に入らない。学校に通っている患者はいない。
地域によっては隔離されている。パデル県アンガグラ郡のある村の指導者によれば、患者を指して「動く棺桶」「犬」「幽霊」と呼び、「役立たずの失われた世代」と分類する住民がいる。
女性患者への性暴力は、深刻な問題として繰り返し報告されている。キトゥグム県ラボンゴ・アミダ西郡では、二〇二四年から二〇二五年三月にかけての一年で、一五歳から二四歳のうなずき症候群の女性一七九人が性的暴行を受けたと地元指導者が集計した。多くがすでに母親になっており、加害者が誰か分からない例が大半だという。ラボンゴ・アクワン郡だけで、少なくとも八五人の患者女性が累計一四八人の子どもを産んでいる。
その一方で、グル大学の最近の調査は、新規症例はないものの、すでに発症している人が子どもを産み続けている。その子どもたちは健康である、と報告している。一九九八年にジョー・オトーが記録した三人のうち唯一の生存者アバロ・モニカも、健康な息子を育てている。これは、たぶんこの話の中で数少ない、はっきりと良い知らせだ。
アンガグラ郡の県議会議員ディクソン・オジョクは、取材にこう答えた。回復した患者は一人も見ていない。数が減っているのは、死んでいるからだ、と。
そして彼はこう付け加えた。「全国に広がったときだけ、もっと動くんでしょうね」。
この病気の何が、これほど気味が悪いのか
締めに入る前に、この話のどこが本当に怖いのかを、もう一度整理しておきたい。
第一に、引き金が生きる行為そのものだということ。食べ物を見る。あたたかい部屋から外へ出て、冷たい風に当たる。朝、目を覚ます。どれも人間が生きていれば毎日やることで、避けようがない。
避けられる引き金なら避けられるが、これは避けられない。食べなければ死ぬ。そして食べようとすれば、脳が落ちる。
第二に、子どもしかやられないこと。しかも、五歳から一五歳という、はっきり区切られた帯の中だけ。それより下も上も、基本的にかからない。そして一度かかると、そこで体の成長が止まる。一〇歳で発症した子は、三〇歳になっても一〇歳の体格のままそこにいることがある。
時間が、その子の中でだけ止まる。
第三に、死に方だ。この病気は、直接には人を殺さない。火に落ちる。水に落ちる。車に轢かれる。
藪に歩いていって帰ってこない。そのすべてが、事故として記録される。親から見れば、病気が子どもを殺したのではなく、目を離した自分が殺したように見える。だから親は縄を持ってくる。木に縛る。
自分の手で縛る。
第四に、地域全体が同時にやられたこと。一家に一人ではなく、一家に四人。一村に一〇〇人。てんかんという既知の病気なら村に一人か二人だと知っている人たちの目の前で、村ごと持っていかれた。だから彼らは、これをてんかんだとは呼ばなかった。
呼べるわけがない。
第五に、科学がこれを説明できなかったこと。しかも、説明できないまま二〇年以上が過ぎた。ウイルスを探した。細菌を探したのである。毒を探した。
カビ毒を探した。重金属を探したのである。ビタミンを測った。遺伝子を見た。三六の仮説を潰したのである。
残ったのは、川に住む虫との、原因とは言い切れない相関だけ。そして脳を開けたら、アルツハイマー病の親戚のような沈着物が入っていた。その沈着物がなぜできたのかも、分からない。
原因が分からない空白は、必ず何かで埋まる。これは、人間の集団が例外なくやることだ。北ウガンダの人々が埋めたのは、毒と、爆弾と、死者の霊だった。そしてその三つは、どれも彼らが実際に経験したことでできている。誰も見たことのない怪物を持ち出したわけではない。
自分たちの二〇年をそのまま病因論に変換しただけだ。
だから、この話を「迷信深いアフリカの村の話」として読むことは絶対にできない。彼らの説明モデルは、彼らが持っているデータに対して、極めて合理的に作られている。ブユは昔からいた。戦争は新しかった。病気も新しかったのだ。
ゆえに戦争が原因である。この推論は、疫学者が「時間的関連」と呼ぶものとまったく同じ構造をしている。
そして僕たちは、笑えない。データが足りないときに、手持ちの恐怖で穴を埋めるという振る舞いを、僕たちも毎日やっているからだ。
この病気が「終わった話」にならない理由
ウガンダのうなずき症候群の流行は、たしかに止まった。殺幼虫剤とイベルメクチンが効いたのだとすれば、それは公衆衛生上の大きな成功である。同時に「オンコセルカ原因説」に最も強い状況証拠を与えたことにもなる。
だが、この病気は三つの意味で終わっていない。
ひとつめ。生き延びた人たちが、いまも生きている。彼らはもう子どもではなく、二〇代、三〇代になっている。ケアセンターは閉じ、薬は切れ、記録すら更新されていない。統計上「新規症例ゼロ」の地域に、数千人の患者が残されている。
ふたつめ。原因が確定していない。オンコセルカとの相関は動かない。だが、なぜ他のオンコセルカ流行地では起きないのか。なぜ三歳以降なのか。
なぜ食べ物なのか。なぜ子どもの脳にタウが溜まるのか。自己抗体は原因なのか結果なのか。これらの問いに、二〇二六年の時点で誰も答えられていない。答えが出ていない以上、条件が揃えばまた別の場所で起きうる、という可能性は否定できない。
南スーダンでは、イベルメクチンの配布も川の殺幼虫処理もほとんど行われていない。
みっつめ。そしてこれが一番大きいのだが、この病気は「戦争のあとに何が来るか」という問いの、きわめて具体的な答えのひとつだからだ。人を集めて囲い込み、畑から引き離し、牛を奪い、予防接種と駆虫を止め、栄養を落とし、川のそばで数年放置する。その組み合わせの先に何が生まれるのかを、北ウガンダは実演してしまった。世界には、いまも同じ条件が揃いつつある場所がいくつもある。
ジョー・オトーの台帳のことを、僕はときどき思い出す。何ページにもわたって、何百という名前が並んでいる帳面。彼はそこに、自分の息子の名前も書いた。オロマ・ロナルド。八歳で発症、一〇年後に発作の最中に死亡。
「あの子もうなずき始めた」と彼は言った。「それが何を意味するか、私には分かっていたから、辛かった」。
意味が分かるというのは、この場合、原因が分かるということではない。行き着く先が分かる、というだけの話だ。原因の分からない病気について人間が持てる知識は、たいていその程度のものでしかない。そして、その程度の知識だけを手に、彼は二〇年以上、名前を書き続けている。
