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頭の中にもう一人いる――脳梁を切られた人たちが見せた「二つの意識」と、左脳がつく優しい嘘

これは作り話じゃない、というところから始めたい

頭の中にもう一人いる、って言われたらどう思う。だいたいの人は都市伝説か、あるいはちょっと危ない話だと思って身構えるはずだ。

でもこれから書くのは、ちゃんと病院で行われた手術と、ちゃんと大学の実験室で撮られた記録と、ノーベル賞まで取った研究の話なんだよな。オカルトの棚じゃなくて、医学の棚に置いてある。それなのに、内容だけ抜き出すとどんなホラーより不気味だ。

左右の脳をつなぐケーブルを切られた人が、右手で着たシャツのボタンを左手が勝手に外していく。本人は困った顔で「またやってる」と言う。自分の手なのに、自分じゃない。

この話がやっかいなのは、じゃあ自分は無事なのかと考え始めた瞬間に、足元が抜けることだ。腰を据えて付き合ってほしい。

脳梁というのは、二億本くらいの束である

まず舞台装置の説明から。

人間の脳はざっくり左右に割れている。左半球と右半球。その二つの真ん中で、両者をつないでいる太い神経線維の束が脳梁だ。日本語だと脳梁、英語だとコーパス・カロサム。ラテン語で「硬い体」みたいな意味らしい。

線維の本数は二億本前後と言われる。二億だ。だいたい日本の人口の倍近い数のケーブルが、あなたの耳と耳の間で常時通信している。左が見たものは右に伝わり、右が触ったものは左に伝わる。この通信があるから、あなたは自分をひとつの人間だと感じていられる。

逆に言うと、この束が切れたとき何が起こるかは、切ってみるまで誰にも分からなかった。そして二十世紀の医者たちは、てんかんの治療という真面目な理由で、本当に切ったのだ。

一九四〇年、ロチェスターの外科医が妙なことを思いついた

発端はニューヨーク州ロチェスターの脳外科医、ウィリアム・P・ヴァン・ワゲネンだ。

彼には脳梁に腫瘍ができた患者がいた。腫瘍が育つにつれて、なぜかその患者のてんかん発作が減っていったという。普通なら悪い知らせのはずなのに、症状は軽くなる。

ヴァン・ワゲネンはここで妙な仮説を立てた。てんかんの発作というのは電気の嵐みたいなもので、片方の半球で始まった嵐が脳梁という橋を渡って反対側に燃え広がる。だったら橋を落としてしまえば、嵐は片側だけで済むんじゃないか。

理屈としては乱暴だが筋は通っている。彼は神経内科医のレイモンド・Y・ヘレンと組み、実際に人間の脳梁を外科的に切断した。一九四〇年、論文は「アーカイブス・オブ・ニューロロジー・アンド・サイカイアトリー」誌に発表された。題名を訳すと「脳梁における交連路の外科的分断」。医学史の分岐点が、こんな事務的なタイトルで始まっている。

最初の十人は「何も起きなかった」ことになった

ヴァン・ワゲネンの最初のシリーズは十人ほど。のちに二十人以上に増えたとされる。結果は悪くなかった。七人で経過は良好、全員が多かれ少なかれ発作の減少を見せた。

ここまでは成功譚だ。問題はその先で、当時の検査では、術後の患者に目立った異常が見つからなかったんだよな。喋れる。歩ける。人と会話できる。だから当時の結論はこうなった。脳梁には、これといった特別な機能はないらしい。

今読むと信じられないが、これは当時としては誠実な観察だった。異常が見えなかったのは、異常がなかったからじゃない。異常を見つけるための実験の作法が、まだ発明されていなかったからだ。人はレンズを持っていない対象を見ることができない。

この二十年の空白が、後の発見をよけいに劇的にする。

二十年の沈黙、そしてロサンゼルスの手術室

再び脳梁が切られるのは、一九六〇年代のはじめだ。場所はロサンゼルス。

神経外科医のフィリップ・ヴォーゲルと、その同僚の神経科医ジョセフ・ボーゲンが、薬でどうにもならない重度のてんかん患者に対して、今度は徹底的な切断を計画した。ヴァン・ワゲネンの手術が部分的だったのに対し、ボーゲンとヴォーゲルは大脳の交連線維をまるごと落とす。脳梁全長に加えて前交連まで含む、完全交連切開術だ。中途半端に残すから発作が渡るのだ、という判断である。

実際、この徹底ぶりは臨床的には報われた。多くの患者で発作は劇的に減り、生活が戻ってきた。でも同時に、この徹底ぶりこそが、人類にとんでもないものを見せることになる。半分に割れた脳が、どうふるまうかを。

患者W.J.、元落下傘兵の十五年

最初の一人は、記録の中でW.J.と呼ばれている。当時四十代後半の男性で、第二次世界大戦の落下傘兵だった。

戦場で頭部を負傷し、それ以来十五年にわたって重い発作に苦しんできた。銃床で殴られたとも、着地の衝撃だともいわれる。とにかく彼の脳には傷があり、そこから電気の嵐が定期的に立ち上がっていた。薬は効かない。発作は生活を壊す。手術は最後の選択肢だった。

一九六一年の暮れから六二年にかけて、W.J.の脳梁は切断される。手術は成功した。発作は減り、彼は穏やかな日常を取り戻していく。

まわりの人が見る限り、W.J.は手術の前と後で同じ人だった。話し方も、冗談の趣味も、気の良さも変わらない。誰も、彼の中で何かが二つに分かれたなんて思わなかった。ある実験が行われるまでは。

そこへ、まだ大学院生だったガザニガが来る

カリフォルニア工科大学に、ロジャー・スペリーという心理生物学者がいた。もともとは動物の神経再生や、動物の脳梁切断の実験で名を上げていた人だ。

彼の研究室に、マイケル・S・ガザニガという若い大学院生が入る。スペリーはこの新入りに、ボーゲンとヴォーゲルの患者を手術の前と後でテストするという仕事を割り振った。学生からすれば、ものすごい仕事だ。人間の脳が真っ二つになる瞬間に立ち会える。

ガザニガは、動物実験で使われていた手法を人間に持ち込むための道具立てを考えた。片方の半球にだけ情報を届け、もう片方には届けない。そのうえで、口で答えさせたり、手で選ばせたりする。単純だが、この単純さがすべてだった。ヴァン・ワゲネンの時代に足りなかったレンズが、ここで用意されたわけだ。

実験室の情景を、なるべく細かく書いてみる

想像してほしい。薄暗い部屋。被験者は椅子に座り、目の前のスクリーンの真ん中に小さな十字が描かれている。指示はひとつ、その十字から目を動かさないこと。顎を台に固定されることもある。

なぜそこまでするかというと、目玉がちょっとでも動くと、見せたい映像が反対側の視野に入ってしまうからだ。

実験者はスクリーンの裏側で装置を操作する。カチッ、という音とともに、映像が一瞬だけ光る。露出時間はおよそ百五十ミリ秒から二百ミリ秒。眼球が動く暇のない短さだ。つまり、この一瞬に映ったものは、確実に片方の半球だけに届く。

あとは質問するだけ。今、何が見えましたか。

この地味なやり取りの積み重ねが、人間の意識の常識を壊した。派手な機械も、光る液体も、いっさい出てこない。

タキストスコープという地味な名前の装置

映像を一瞬だけ提示する装置をタキストスコープという。日本語では瞬間露出器と訳されることがある。名前の響きに反して、やっていることはシャッターを一瞬開けるだけだ。

それでもこの装置は、脳研究の歴史でとんでもない働きをした。なぜかというと、人間の視覚経路の配線が独特だからだ。

左目の情報が右脳に行く、みたいな単純な話じゃない。実際には、左右それぞれの目の網膜が、視野の左半分と右半分で担当を分けている。視野の左半分に映ったものは、両目とも右半球に送られる。視野の右半分は左半球に送られる。つまり、片目をつぶるとか眼帯をするとかでは半球を分けられない。視野で分けるしかない。だからこそ、視線を動かさせない工夫が命綱になる。

この配線の妙が、分離脳の実験を可能にした。

「何も見えませんでした」、そして左手が正解を指す

実際に何が起きたか。

視野の右半分に、たとえばフォークの絵を一瞬映す。情報は左半球に届く。左半球は言葉を司る側だ。患者は普通に答える。フォークです、と。

次に、視野の左半分に、スプーンの絵を一瞬映す。情報は右半球に届く。すると患者は言う。何も見えませんでした。

ここで実験者は、テーブルの下に隠した物体の中から、今見たものを左手で探してくださいと頼む。左手は右半球が動かす手だ。患者の左手は、迷いなくスプーンを掴む。掴んだまま、本人は不思議そうな顔で言う。何も見てないのに、なんでこれを持ってるんだろう。

この場面を初めて見たとき、実験室の空気はどうだったんだろうな。ひとつの体の中で、答えを知っている側と、知らないと言い張る側が同居している。

W.J.の最初の一回が、すべてをひっくり返した

ガザニガが後年振り返って書いているのだが、決定的な瞬間は本当に呆気なかったらしい。

W.J.が、切断されたばかりの右半球に見せられた刺激について、左半球からは何も語れなくなっていた。ただそれだけ。だが、それだけで十分だった。ヴァン・ワゲネンの時代に「機能なし」と結論された脳梁が、実は情報の運搬路そのものだったことが、この一回で示されたのだ。

手術前のW.J.は同じ課題を難なくこなしていた。手術後は割れた。実験デザインが正しく、仮説も正しかった。

ここから一九六〇年代後半にかけて、研究は一気に加速する。スペリーとガザニガは一九六七年の学術誌ブレインに主要な報告を出し、同じ年、ガザニガは一般向けのサイエンティフィック・アメリカン誌に「ヒトの分離脳」という記事を書いた。分離脳は学界の外に出た。

目だけじゃない、手で触っても同じことが起きる

分かれるのは視覚だけじゃない。触覚でも同じことが起きる。

目隠しをして、左手に鍵を握らせる。触った情報は右半球に行く。何を持っていますか、と聞くと、患者は分かりませんと答える。あるいは適当なことを言う。ところがその左手に、たくさんの物の中から今持っていたものを選ばせると、ちゃんと鍵を選ぶ。右手で同じことをすれば、当たり前のように鍵ですと答える。

左手だけが黙る。

この症状には触覚性失名辞という名前がついている。名前をつけると医学らしくなるが、やっていることの不気味さは変わらない。片方の手が知っていることを、口が知らない。あなたの体の中で、情報が届かない部屋がある。そういう状態が、確かに人間に起こりうる。

左手はしゃべれない、でも書ける人がいた

面白いのは、右半球がまったくの無口ではないことだ。

言葉を発することはできなくても、単語の意味はそこそこ理解している。だから左視野に「ナイフ」という単語を出すと、左手はナイフを選べる。さらに、患者によっては左手で答えを書ける。V.J.という左利きの患者では、話す能力と書く能力の担当半球がずれていて、書けるのに言えない、言えるのに書けないというややこしい解離が観察された。

教科書的な「左脳が言語」という図式は、実際にはもっと個人差でぐちゃぐちゃしている。ここは押さえておきたい。分離脳の研究が示したのは、脳がきれいに二分されているという単純な話じゃない。むしろ、機能の分かれ方が人によって違うという、面倒くさくて誠実な事実のほうだった。

有名すぎる、鶏の足と雪景色

この分野でいちばん有名な実験に行こう。患者P.S.。

彼の右視野、つまり左半球に、鶏の足の絵を見せる。同時に左視野、つまり右半球に、雪の積もった風景を見せる。それから、目の前に並んだたくさんの絵カードから、今見たものに関係するものを両手で選ばせる。

右手はニワトリの絵を選んだ。鶏の足を見た左半球としては当然の選択だ。左手はシャベルの絵を選んだ。雪景色を見た右半球としては、雪かき用のシャベルは完璧に妥当だ。

ここまでは、二つの半球がそれぞれ正しく仕事をしただけ。問題はこの次に起きる。実験者が、なぜそれを選んだのか説明してくださいと言った瞬間、この実験は意識の研究になった。

P.S.の答え、「鶏小屋を掃除するのにシャベルが要るだろ」

答えたのは、当然ながら喋れる側、左半球だ。

だが左半球は雪景色を見ていない。自分の左手がなぜシャベルを指しているのか、まったく心当たりがない。普通なら、分かりませんと言うところだ。

ところが彼はこう答えた。ああ、簡単なことだよ。鶏の足はニワトリのものだろ。それで、鶏小屋を掃除するにはシャベルが要るんだ。

淀みなく、堂々と、辻褄の合った説明が出てきた。嘘をついている自覚はない。困っている様子もない。左半球は、目の前の事実、つまり自分の左手がシャベルを指しているという事実を、自分の持っている情報だけで説明しきってしまった。

これは作話と呼ばれる現象で、記憶障害の患者などでも見られる。だが分離脳では、その発生の瞬間を、実験室の中で再現できたのだ。

「解釈者」という発見、そして命名

ガザニガとジョセフ・ルドゥーは、この左半球のふるまいに名前をつけた。インタープリター、日本語では解釈者と訳される。一九七八年の著書で提示された概念だ。

解釈者の仕事はひとつ。自分の身に起きている出来事に、因果のある物語を与えること。情報が足りていても足りていなくても関係なく、とにかく物語を作る。分からないという状態に耐えられないのが、この装置の性質なんだよな。

分離脳の患者では、右半球という「情報のもう半分」が遮断されているせいで、解釈者が空白を埋める作業が丸見えになる。逆に言えば、健常な脳では解釈者の仕事は情報とだいたい一致するので、誰にも気づかれない。ここが、この研究のいちばん怖いところだ。

あなたの中にもいる、辻褄合わせ係

つまり、あなたが今日ひとつだけ何かを選んだとして、その理由としてすらすら出てくる説明が、本当にその選択の原因だったかは誰にも保証できない。

あの店に入ったのは前から気になっていたから。あの人に冷たくしたのは向こうが失礼だったから。全部、後付けかもしれない。行動が先にあって、説明が後から追いつく。

分離脳の実験は、この順序が実際に起こりうることを、極端な形で見せてしまった。健常者を対象にした選択盲の実験など、後続の心理学研究でも似た傾向は繰り返し観察されている。

もちろん、だから理由なんて全部でたらめだと言うのは行き過ぎだ。ただ、自分の説明を絶対視するのはやめたほうがいい、くらいのことは言える。それだけでも、けっこう気分は落ち着かない。

シャツのボタンを外していく左手

ここからは、実験室の外の話だ。

術後しばらくの間、患者の一部で、左手が本人の意図と関係なく動くことがあった。有名なのはボタンの話で、右手が一つずつ留めていったシャツのボタンを、左手が後ろから追いかけるように外していく。本人はそれを見て、やめろ、と言う。言いながら、右手でもう一度留める。すると左手がまた外す。

喜劇的な絵面だが、当人にとっては笑い事じゃない。

もっと生活に食い込む例もある。左手が引き出しからタバコを取り出す。あるいは、いま右手が選んだ服を左手が戻す。冷蔵庫を開けて何かを取り出しては、本人が知らないうちに食べている。行為そのものは日常的なのに、主語が抜けている。それがひたすらに気味悪い。

妻に伸びた手を、もう一方の手が止めた話

分離脳と手の暴走の話の中で、いちばん語られるのがこの手の逸話だ。ある患者が、口論の最中に左手が妻に向かって振り上げられ、それを本人が右手で必死に押さえつけた、というもの。この種の話は初期の報告や後年の一般向け解説を通じて広まった。

ただ、ここは正直に書いておきたい。同じ逸話が語られるたびに細部が変わっていて、相手が妻だったり子どもだったり、掴んだのは肩だったり首だったりする。原典を厳密に追うと、どの患者の、いつの、誰の記録なのかがぼやけていく話でもある。

研究者の中には、この種の劇的なエピソードが誇張されて伝わってきたことに慎重な人も多い。物語としての強さと、記録としての確かさは別だ。それでも、術後に手の争いが実際に観察されたこと自体は、複数の臨床報告に残っている。

エイリアンハンドは分離脳と同じものじゃない

ここは誤解が多いので分けて書く。

手が勝手に動く現象は、一般にエイリアンハンド、日本語では他人の手徴候とか異手症と呼ばれる。分離脳の患者に一時的に現れることがあるのは事実だ。

でも、エイリアンハンドの原因は分離脳だけじゃない。むしろ現実には、脳梗塞や脳出血、前頭葉内側部の損傷、脳の変性疾患で起きるケースのほうが多い。逆に、分離脳の患者の大多数では、手の争いは術後の一時期に現れて、数週間から数か月で落ち着いていく。脳が新しい配線状況に適応するのだ。

だから、脳梁を切ったら一生左手が暴れる、というイメージは正確じゃない。ネットで拡散している分離脳の怖い話は、この二つを混ぜてしまっていることが多い。

一九〇八年、ゴルトシュタインの患者が自分の首を絞めた

エイリアンハンドの記録は、分離脳より半世紀以上古い。

よく引かれるのが、神経学者クルト・ゴルトシュタインが一九〇八年に報告した五十七歳の女性の症例だ。彼女の左手は、彼女の意図と無関係に動いた。物を掴む。服を引っ張る。そして時には、彼女自身の首に指を回して、締めつけたという。

彼女はその手を、自分のものではないと感じていた。悪い力が入り込んでいる、と表現したとも伝わる。

この時代の記録が生々しいのは、書き手が病態のメカニズムをまだ持っていないからだ。分からないものを分からないまま書いている。後年、この種の症例は脳梁前部の損傷と関係づけられ、一九七〇年代にフランスの研究者ブリオンとジェドナックが、他人の手という意味の呼び名を与えた。名前がつくと、現象は病気になる。

「バスの中で、後ろから手が近づいてくると思った」

証言として印象深いものをもうひとつ。六十五歳の男性のケースだ。

彼はこう語っている。バスで移動していたとき、右の後ろのほうから手が近づいてきて、自分を捕まえようとしているのに気づいた。彼は最初、誰かに襲われていると思ったという。振り返って、確かめて、それが自分の手だと分かるまでにしばらくかかった。

想像するとぞっとする。満員のバス。誰かの手が肩に伸びてくる感触。振り返る。誰もいない。手の主は自分だ。この人が体験したのは、幽霊よりずっと救いのない話だ。幽霊なら逃げられる。

似た報告に、五十歳の女性が脳出血の後で、自分の左腕が大きく歪んで怪物のように見え、その腕が自分を傷つけたがっていると感じた、というものもある。手が敵になる。

テレビのリモコンを奪い合う自分

もっと日常的で、だからこそ辛い証言も残っている。

ある患者は、片方の手でテレビのリモコンを取ると、もう片方の手がすぐさまそれを奪い取ってしまうと訴えた。別の患者では、片方の手が留めたばかりのボタンを、もう片方の手がすぐに外していく。タバコをくわえようとすると、反対の手が唇からそれを抜き取ってしまう女性の例もある。

近年では、てんかん手術を受けたアメリカの女性が、自分の左手に頬を叩かれたり、ブラウスのボタンを外されたりすると訴え、その様子が海外のメディアで紹介されて広く知られた。彼女の場合、薬の調整で症状がかなり抑えられたと報じられている。

手が敵に回るというのは、映画の中の話じゃなく、投薬でなんとかする臨床上の問題なのだ。

交叉手がかり、つまり脳のカンニング

研究が進むと、話はさらにややこしくなった。切られたはずの二つの半球が、いつのまにか情報をやり取りできるようになるのだ。ただし神経を通じてじゃない。体を通じてやる。

たとえば右半球が正しい答えを知っているとする。右半球は左手を動かせる。左手が答えの方向に少し動く。その動きを目が見る。目からの情報は左半球にも入る。左半球はそれをヒントに正解を言う。

これが交叉手がかりと呼ばれるものだ。眼球の動き、表情の変化、首のわずかな傾き、呼吸のリズムまでが手がかりになる。二人の人間が隣の席でカンニングするみたいなことを、一つの体の中でやっている。

この存在が確認されたことで、分離脳の実験結果はどれも慎重に読まなければならなくなった。

一九八一年、ノーベル賞は半分だけスペリーに

研究は評価された。一九八一年のノーベル生理学・医学賞は、賞金の半分がロジャー・W・スペリーに贈られた。授賞理由は、大脳半球の機能的特殊化に関する発見。残り半分は、視覚系の情報処理を解明したデービッド・H・ヒューベルとトルステン・N・ウィーセルの二人に共同で贈られている。

つまりこの年の賞は、脳が世界をどう分けて処理しているかというテーマで括られていたわけだ。

スペリーは、それぞれの半球が独自の知覚、思考、記憶、意志、感情を持つ意識のシステムだと考えていた。彼が一九七〇年代に書いた言い回しはかなり踏み込んでいて、各半球はそれ自体で意識をもつ系である、という趣旨のことを述べている。この一文が、後の四十年の論争の火種になる。

患者たちは、日常では驚くほど普通だった

ここで冷や水を一杯。

実験室であれだけ劇的なことが起きるのに、患者たちの日常生活はおおむね普通だったんだよな。手術から数か月もすれば、車の運転をし、仕事に戻り、家族と会話をする。誰も彼らを見て、この人の中には二人いる、とは思わない。むしろ発作が減った分、生活の質は上がっている。

この落差が分離脳研究の最大の謎だ。中身は割れているのに、外から見ると一人。本人の実感も一人。分裂の証拠は、視線を固定させて百五十ミリ秒だけ映像を出す、という不自然きわまりない条件でしか現れない。

じゃあその分裂は、いったいどの程度「本当」なんだ。ここに切り込んだのが、二十一世紀の研究者たちだった。

二〇一七年、アムステルダムからの静かな反論

二〇一七年、アムステルダム大学のヤイル・ピントらのグループが、学術誌ブレインに論文を出した。題を訳すと「分離脳、分かたれた知覚、しかし分かたれない意識」。

対象になったのは、完全な脳梁離断を受けた二人の患者で、論文中ではDDCとDDVと呼ばれている。片方は前交連の大部分も切除されていた。二人とも重度てんかんの治療として手術を受け、検査が行われたのは手術から十年から二十三年後だ。

研究チームは、視野のあちこちに刺激を出し、口で答えさせたり、左右どちらかの手で答えさせたりする五つの実験を組んだ。そして、教科書が予測する結果、つまり左視野の刺激には左手だけが反応するというパターンが、一貫して現れなかったのだ。

「知覚は割れる、でも意識は割れない」

ピントらの主張はこうだ。刺激がどの視野に出ようが、どの手で、あるいは口で答えようが、患者は刺激の有無と場所をかなり正確に報告できた。

しかも見逃せないのは、確信度を一緒に聞いたことだ。当てずっぽうでも当たることはあるが、確信度が高い試行でも正答率が保たれていたなら、それは意識に上っている情報だということになる。

だから結論はこうなる。脳梁を切ると視覚の知覚は左右で分かれる。しかし、一つの脳の中に独立した二人の意識主体が生まれるわけではない。分かれるのは入力であって、経験する主体ではない。テレビのアンテナが二本に割れても、見ている人は一人だ、というようなイメージだな。

この論文は、意識研究の主流理論に対する挑戦として受け止められた。

ガザニガ陣営の再反論、そして議論は続く

当然、反論が来た。ガザニガらは翌年、同じブレイン誌に応答を出している。

彼らの言い分の中心は、交叉手がかりと注意の働きだ。ピントらが見た「統一された報告」は、切られた半球同士が体や眼球運動を通じて手がかりを渡し合った結果として十分に説明できる。実際、眼球の微細な動きを完全に封じるのは難しく、患者は長年かけてこの種の情報伝達に習熟している。さらに、脳梁以外の皮質下経路を通じて、ある程度の情報が渡っている可能性もある。

どちらの陣営も、相手のデータを否定しているわけじゃない。解釈が違うのだ。二〇二〇年代に入っても議論は決着していない。対象になる患者がほとんど残っていないという、身も蓋もない事情もある。手術自体が激減したからだ。

「自由意志は幻か」という、気の重い問い

この研究がオカルト雑談を超えて重いのは、自由意志の話に直結するからだ。

あなたが何かを決める。理由を説明する。その説明が後付けの物語だとしたら、決めていたのは誰なんだ。

ここで極論に走るのは簡単で、実際ネットには、分離脳が自由意志の不在を証明した、みたいな言い切りがいくらでも転がっている。でもガザニガ本人は、その手の結論には乗っていない。彼はむしろ、脳が決定論的に動いていることと、人が責任ある行為者であることは矛盾しないという立場を、著書の中で丁寧に展開している。責任というのは、脳の中にある物質じゃなくて、社会の中で人と人の間に生じるものだから、という論だ。

納得するかどうかは別にして、この整理は覚えておくと便利だ。実験の結果と、そこから引き出される哲学は、別々に検討していい。

「右脳人間・左脳人間」という壮大な取り違え

そして分離脳研究がもたらした最大の副作用が、これだ。

左脳は論理的で分析的、右脳は創造的で直感的。だからあなたは右脳型、私は左脳型。この分類は、書店にも学校にも研修会にも大量に流れ込んだ。

元をたどれば、確かに分離脳の患者で、言語は主に左、空間認知は主に右という傾向が見つかったことに端を発している。だが、機能に得意な側があることと、人間の性格が二種類に分かれることの間には、大渓谷ほどの隔たりがある。

脳梁が無事な人間では、両半球は絶えず情報を交換していて、何かをするときにどちらか片方だけが働くなんてことはまず起こらない。研究者たちは何十年もこの誤解を訂正し続けているが、キャッチーな話は死なないんだよな。

二〇一三年、ユタ大学が一〇一一人の脳を調べた

この神話に正面から数字をぶつけた研究がある。

二〇一三年、ユタ大学のジャレッド・ニールセンとジェフ・アンダーソンらが、七歳から二十九歳までの一〇一一人分の安静時の脳画像を解析した。脳を七千を超える領域に分けて、それぞれの結びつきの強さを調べたわけだ。

結果、言語に関わるネットワークが左に、注意に関わるネットワークが右に偏るといった、機能ごとの偏りは確かにあった。だが、ある人の脳全体が右寄りに働いているとか左寄りに働いているとかいう、個人単位の傾向は見つからなかった。

つまり右脳人間も左脳人間も、データ上は存在しない。この結果は二〇一三年にプロス・ワン誌で発表され、大きく報道された。それでも書店の棚からは、この分類の本が消えていない。

フィクションが愛した「もう一つの人格」

分離脳とエイリアンハンドは、創作にとってあまりに美味しい素材だった。

もっとも有名なのは、一九六四年のキューブリック作品で、主人公の右手が本人の意志に反して敬礼をしてしまう場面だろう。あれは厳密には分離脳の描写じゃないが、自分の手が別の意志を持つというイメージを世界中に焼き付けた。以降、ホラーやコメディで、暴れる手の描写は定番になった。日本の漫画やゲームでも、脳梁を切られた人物や、体の左右で別の人格が争う設定は繰り返し使われている。

物語にとって都合がいいのは、この題材が身体の内側の他者という、逃げようのない恐怖を作れることだ。侵入者は外から来ない。最初から中にいる。ドアに鍵をかけても意味がない。

ネットで一人歩きしている話を、いくつか整理する

拡散している話を潰しておこう。

まず、分離脳の患者は二重人格になる、というやつ。これは違う。人格が二つに割れた例は報告されていない。

次に、左手が常に凶暴で人を襲う、という話。手の争いは一時的で、しかも凶暴というより、目的の食い違いという形で現れることが多い。

三つ目、分離脳の実験で右脳が言葉を話し始めた、という話。これは部分的に本当で、術後長い年月を経て、右半球がある程度の発話を獲得した患者は実在する。ただし全員じゃない。

四つ目、脳梁を切ると別人になる、という話。むしろ逆で、性格の変化はほとんど報告されていない。

最後に、分離脳の研究は捏造だった、という陰謀論めいた主張。これも違う。解釈をめぐる論争と、データの捏造はまったく別のものだ。

今、脳梁離断術はどうなっているのか

手術自体は今も存在する。ただし、かつてのように大脳の交連をまるごと落とすことは少なくなり、脳梁の前方三分の二だけを切るような部分的な切断が主流になった。

対象も限られていて、転倒発作を繰り返す重度のてんかんなど、他に手段がない場合が中心だ。抗てんかん薬の進歩、焦点を特定する画像技術の進歩、迷走神経刺激などの代替治療が広がったことで、そもそも脳梁を切るという選択に至る患者が減った。

研究者にとっては皮肉な話で、医学が進歩するほど分離脳の研究対象はいなくなる。二〇二〇年代に残っている患者はごくわずかで、その多くは高齢だ。人類が半分に割れた脳を直接観察できる時間は、たぶんもう長くない。

なぜこの話は、幽霊より怖いのか

怪談の恐怖は、たいてい外から来る。知らない誰かが窓の外にいる、後ろに立っている。逃げれば助かるかもしれないという希望が、恐怖の裏側に貼りついている。

分離脳の話にはそれがない。中にいるからだ。しかも、その中の誰かは悪意を持っていない。ただ別の情報を持っていて、別の判断をしているだけ。

もっと言えば、あなたが自分だと思っている側こそが、事情を知らされていない側かもしれない。実験室で「何も見えませんでした」と言った患者は、嘘をついていない。彼の左半球は本当に見ていなかった。同じ意味で、あなたが自分の行動について語る説明も、本当のことを言っているつもりのまま、事実とずれている可能性がある。誠実な語り手が間違っている、という状況ほど始末に負えないものはない。

それでも、彼らは一人の人間として生きた

忘れちゃいけないのは、この研究の被験者になった人たちが、まず何よりも患者だったということだ。

彼らは科学の材料になるために手術を受けたんじゃない。発作で人生が壊れかけていたから、最後の手段として脳を切った。そして多くの人は、発作から解放されて、家族のもとに戻った。実験室で百五十ミリ秒の映像を見せられ続けたのは、その日常の合間の、ほんの一部でしかない。

W.J.も、P.S.も、DDCも、記録の中では記号だが、生活があった人たちだ。彼らの協力がなければ、人間の意識について今わかっていることの多くは、いまだに空想の域を出なかっただろう。頭の中にもう一人いるかもしれない、という背筋の寒い問いを人類が抱えられるようになったのは、この人たちのおかげでもある。

八十年で、振り子は三回振れた

ここからは、ここまでの話をもう一段掘り下げて、並べ直していく。

まず時系列を頭の中で整理しておきたい。一九四〇年、ヴァン・ワゲネンとヘレンが人間の脳梁を初めて外科的に切った。一九六一年から六二年、ボーゲンとヴォーゲルが完全交連切開術を再開し、W.J.が最初の一人になった。同じ六二年からスペリーとガザニガによる系統的なテストが始まり、六七年に主要な報告と一般向け記事が出る。七八年、ガザニガとルドゥーが左半球の解釈者という概念を提示する。

八一年、スペリーにノーベル賞。二〇一三年、ユタ大学が右脳型左脳型の神話を統計で否定する。二〇一七年、ピントらが意識は分かれていないと主張し、翌年にガザニガ陣営が交叉手がかりを軸に反論する。

この八十年余りの線を引いてみると、面白い構造が見えてくる。最初の二十年は「脳梁に機能はない」と言われ、次の五十年は「脳梁を切ると意識が割れる」と言われ、直近の十年は「いや割れてはいない」と言われている。振り子が三回振れているわけだ。

この振り子の動きは、科学の失敗じゃなくて、むしろ健全さの証拠だと思っている。ヴァン・ワゲネンの時代に異常が見つからなかったのは、観察の道具がなかったからだ。スペリーとガザニガは道具を作った。視線固定とタキストスコープという、恐ろしく単純な仕掛けだ。その道具で見えた分裂は本物だった。

だがその後、同じ道具で長期の患者を測り直すと、分裂の輪郭がぼやける。理由は複数考えられる。脳が適応して交叉手がかりを習得した可能性。皮質下経路が思ったより仕事をしている可能性。そして、そもそも実験条件が極端すぎて、日常の意識とは違うものを測っていた可能性。どれが正解かは、正直まだ分からない。分からないと書けるのが、この分野の誠実なところだ。

解釈者はバグじゃない、知性そのものの仕事だ

次に、解釈者という概念の射程について、もう少し丁寧に考えたい。

P.S.の「鶏小屋を掃除するのにシャベルが要る」という一言は、しばしば人間の自己欺瞞の象徴として引用される。でも、この場面をよく見ると、左半球は嘘をつくために作話したんじゃない。むしろ、目の前の矛盾した事実を、手持ちの情報で最大限もっともらしく統合しようとした。

これは知性のバグじゃなくて、知性そのものの仕事だ。断片的な情報から一貫した世界像を組み上げること。それができるから人間は明日の計画を立てられるし、他人の行動を予測できるし、物語を作って共有できる。

解釈者は欠陥じゃない。ただ、その働きが情報の欠落を検知できないという設計上の弱点を持っている。空白があっても、空白として保存されない。何かで埋まる。この一点だけが、ときどき致命的になる。

そして、この弱点は分離脳の患者だけの話じゃない。健常な脳でも、情報が届いていない領域は日常的にある。無意識の動機、身体の状態、記憶の変質、他人の意図の誤読。そのすべてについて、あなたの解釈者は淀みない説明を用意してくれる。しかも本人には、その説明が推測なのか事実なのか区別がつかない。

この構造を知ったうえで、じゃあどうすればいいのか。悲観して自分の判断を全部疑うのは、たぶん現実的じゃない。もっと地味な処方箋として、自分の説明を一度だけ疑ってみる習慣、記録を残す習慣、他人に確認する習慣あたりが効く。要するに、解釈者に外部の情報を追加してやればいい。人が日記をつけたり、他人に相談したりするのは、案外この装置の欠点への対処法として理にかなっている。

人は概念を伝えず、場面を伝える

次に、恐怖の構造の話をもう少し。

分離脳の逸話が拡散するとき、必ず選ばれるのは手が暴れるエピソードだ。ボタン、タバコ、リモコン、首。なぜかというと、これらが全部「自分の身体が自分の言うことを聞かない」という、誰でも一瞬で想像できる恐怖だからだ。

実験室で観察された視覚の解離は、理屈としてはもっと深い問題を突いているのに、話としては地味だから広まらない。ここに情報の伝わり方の癖が出ている。人は概念を伝えず、場面を伝える。だから分離脳は、意識の科学としてではなく、暴れる左手の怪談として世間に定着した。そのおかげで有名になり、そのせいで誤解された。有名になる話は、たいていこの取引をしている。

もうひとつ書いておきたいのは、エイリアンハンドと分離脳の区別だ。ここを混ぜたまま語ると、話は一気にオカルト方向に転がる。実際の臨床では、他人の手徴候の原因として頻度が高いのは脳血管障害や変性疾患であって、脳梁離断術はむしろ少数派だ。しかも、術後に手の争いが出た患者でも、多くは数週間から数か月で落ち着く。脳は、切られた配線の中で新しい折り合いをつける。

ここは、恐怖を煽らないためにも、逆に言えば恐怖の対象を正しく置くためにも、はっきりさせておいたほうがいい。怖いのは、手が暴れることじゃない。手が暴れているとき、本人がその理由をすらすら説明できてしまうことのほうだ。

なぜ、いまこの話が読まれ直しているのか

最後に、この話がなぜ二十一世紀の今、また読まれているのかを考えたい。

ひとつには、人工知能をめぐる議論が、意識とは何か、統一された自己とは何かという問いを再び前線に押し出したからだと思う。複数のモジュールが並列に動き、出力を統合して一つの声で語るシステム。その説明が本当に内部の処理を反映しているのかどうか。この問題設定は、分離脳の実験室で六十年前に起きていたことと、驚くほど形が似ている。

人間の脳もまた、無数のモジュールが並列に動き、左半球の解釈者が一つの声で語っている装置なのかもしれない。だとすると、頭の中にもう一人いるという最初の問いは、じつは控えめすぎたことになる。もしかしたら、もっとたくさんいるのかもしれない。ただ、いつも同じ一人が代表してマイクを握っているだけで。

そう考えたところで日常は変わらないし、明日も自分は自分として起きる。それでも、その「自分」という感覚が、脳のどこかにある編集室で毎秒作られている合成品なのだとしたら、いま自分がこう考えているという感じすら、編集済みの映像を見ているようなものだ。この気持ちの悪さこそが、分離脳が八十年かけて人類に置いていった、いちばん大きな置き土産だと思っている。

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