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手足が黒く焦げて落ち、村人は幻を見ながら踊り出した――「聖アントニウスの火」の正体は、パンに生えたカビだった

黒い角の生えた麦を、彼らは平気で粉にして焼いた

10世紀のフランスの村を想像してほしい。夏が終わり、ライ麦を刈り取る。穂のところどころに、黒紫色をした角みたいなものが混じっている。指でつまむと硬い。長さは1センチから4センチくらい。

形は雄鶏の蹴爪にそっくりだ。

村人はそれを、麦の一部だと思っていた。日に焼けすぎた粒だろう、とか、そういう品種なのだろう、とか。だから取り除かない。取り除く余裕もない。飢えている人間が、目の前の穀物を捨てられるわけがない。

黒い角ごと石臼に放り込んで、粉にして、水と塩と酵母をまぜて焼く。黒くて酸っぱいライ麦のパン。それが彼らの毎日の命綱だった。

数週間後、村が壊れ始める。

最初は疲労感と、なんとなくの吐き気だ。次に、足の指がちりちりする。虫が皮膚の下を這っているような感覚。そして、ある日を境に、足が燃え出す。焼けた炭を押しつけられているような激痛が、足首から脛へ、脛から膝へと上がってくる。

ところが、その燃えている足に手を触れると、氷のように冷たい。中で火事が起きているのに、外側は死体みたいに冷えている。

耐えられなくなった患者は、真冬でも寝床から這い出して外の雪の上に足を投げ出した。すると今度は凍えるほど寒いと言って、熱湯に足を突っ込む。どっちにしても痛みは引かない。やがて足の色が変わる。赤紫から、青黒へ。

そして炭と同じ黒になる。ここまで来ると、逆に痛みが消える。神経ごと死んだからだ。

黒くなった部分は縮んでいく。水分が抜けて、干からびて、ミイラみたいに硬くなる。腐って膿むわけじゃない。乾いて、締まって、小さくなる。そして最後は関節のところで、ぽろりと落ちる。

血はほとんど出ない。痛みもない。落ちた足を、患者が自分で拾い上げることさえあった。

ジョージ・バージャーが1931年にまとめた古典的な研究書『麦角と麦角中毒』には、こういう記録が引かれている。ある女性が施療院へ向かうためにロバに乗っていたところ、道端の低木に脚をぶつけた。それだけで、膝から下がもげ落ちた。ぶつけた、というより、触れた程度の衝撃だったという。

中世ヨーロッパの人々は、この病気をこう呼んだ。イグニス・サケル、聖なる火。マル・デ・ザルダン、燃える者たちの病。そしていちばん有名な名前が、聖アントニウスの火だ。

彼らは、体の中に見えない炎が入り込んだと考えた。神の罰か、悪魔の仕業か。どちらにせよ、目に見えない火が人間を内側から焼いている。それ以外に説明のしようがなかった。

正体は、パンに混じっていたカビだった。

犯人の名はクラビケプス・プルプレア、和名を麦角菌という

この黒い角の正体は、バッカクキン科バッカクキン属の子嚢菌、クラビケプス・プルプレアだ。日本語では麦角菌と呼ぶ。麦に生える角、という意味で、そのまんまである。ちなみに英語とフランス語のergotは古フランス語のargot、つまり雄鶏の蹴爪から来ている。形を見れば誰でもそう思う。

この菌の一生がまた、なかなか気味が悪い。

春、地面に落ちて越冬した菌核から、待ち針みたいな小さなキノコが生える。そこから子嚢胞子が飛び、風に乗ってライ麦の花に着地する。ライ麦は他家受粉、つまり花を開いて外から花粉をもらう植物だ。つまり、胞子にとって入口が最初から開いている。これが、ライ麦が他のどの穀物よりも麦角にやられやすい最大の理由だ。

小麦は自家受粉で花をほとんど開かないから、感染しにくい。

胞子は24時間以内に子房に侵入し、内側から麦の実を食い尽くす。そして麦の実があったはずの場所に、自分の菌糸の塊を作る。これが菌核、つまり麦角だ。

面白いのは中間段階で、菌は甘い粘液をだらだらと分泌する。ハニーデュー、蜜露と呼ばれる。糖分たっぷりで、ハエや蛾が寄ってくる。虫が蜜をなめて別の穂へ飛ぶと、そこにも菌が運ばれる。植物の受粉システムを、菌が丸ごと乗っ取っているわけだ。

よくできている。悪趣味なくらいに。

4週間から5週間で菌核が成熟する。収穫時には、一部が穀物と一緒に刈り取られ、一部は脱穀のときに地面に落ちてまた翌年の種になる。

大発生の条件もはっきりしている。冬が寒く、開花期が湿って涼しいと、感染の窓が長く開く。曇り空、霧雨、湿度80パーセント以上、気温20度から25度。こういう年に、ライ麦畑は真っ黒になる。しかも隣り合った畑の片方だけが壊滅して、もう片方は無傷、ということが平気で起きる。

低地や谷筋、沼の縁の畑が特にやられる。湿気が溜まるからだ。

そしてライ麦というのは、寒くて水はけの悪い、酸性の土でも育つ。小麦が育たない土地で育つ。だから北ヨーロッパの貧しい農民の主食になった。裏を返すと、麦角菌が最も好む環境と、ライ麦が主食になる環境は、ほぼ完全に重なっている。

地中海世界ではライ麦をほとんど作らなかった。ローマ人はライ麦を下等な穀物として蔑んでいて、ガレノスもプリニウスも、黒くて臭くて味が悪いと書き残している。だから古代ギリシアやローマには、麦角中毒の大流行の記録が事実上ない。米を主食にする東アジアにもない。日本でもイネに寄生する麦角菌は知られておらず、家畜を除けば中毒の記録はほとんど残っていない。

この病気は、キリスト教とともにライ麦が西ヨーロッパへ広がっていって初めて、人類の歴史に登場する。病気が土地と作物を選ぶ、という露骨な実例なんだよな。

燃える地獄と、のたうつ地獄――中毒には二つの型がある

麦角に含まれる毒は一種類じゃない。エルゴタミン、エルゴクリスチン、エルゴメトリン、エルゴクリプチンといったアルカロイドが20種類以上ある。それに加えてヒスタミン、チラミン、セロトニン、アセチルコリンまで入っている。ある研究者はこれを、薬理学の宝物庫と呼んだ。要するに、人体のスイッチを片っ端から押してまわる化学物質の詰め合わせだ。

これらの骨格はエルゴリンという構造で、ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンと形がよく似ている。だから体は騙される。血管の受容体にも、脳の受容体にも、子宮の受容体にも、麦角アルカロイドはするりと入り込んで、居座る。

結果として現れる症状は、大きく二つの型に分かれる。

ひとつが壊疽型。さっき書いた、手足が黒くなって落ちるやつだ。アルファ受容体が刺激されて血管が締め上げられ、末端への血流が止まる。心臓から遠く、血管が細い場所からやられる。だから足の指、手の指、そして足全体、手全体へと広がっていく。

乾性壊疽、つまり乾いて黒くなるタイプの壊死だから、腐敗臭より先にミイラ化が来る。ただし記録には「腐った肉の悪臭が耐えがたかった」とも書かれているので、湿性に転じる例もそれなりにあったらしい。

もうひとつが痙攣型。こっちは神経系にどっと来る。まず下痢と嘔吐、それから手足のちりちり感、めまい、耳鳴り、頭痛。そして激しい筋肉の収縮が始まる。指が内側に折れ曲がって開かなくなる。

背中が反り返る。てんかんの発作のような全身痙攣。ドイツではこの症状から、キーベルクランクハイト、つまり「むずむず病」という民間の呼び名が生まれた。

そして幻覚だ。

これが厄介だった。体をよじって苦しんでいる人間が、そこにいないものを見て、そこにない声を聞いて、意味の通らないことを叫ぶ。中世の人間がこれを見て「悪魔に取り憑かれている」と判断しなかったら、そのほうがどうかしている。

この二つの型は、なぜか地理的にきれいに分かれた。ライン川の西側、つまりフランス側では壊疽型が圧倒的に多い。東側のドイツや中欧では痙攣型が多い。両方が混じる混合型は、ちょうど境界線のあたりでしか起きていない。

なぜか。バージャーが有力な説を出している。ビタミンAだ。

ドイツの痙攣型流行地は、痩せた砂地のヒース地帯が多かった。牛を飼う余裕がなく、乳製品がほとんど手に入らない。対してフランスのソローニュ地方は、同じくらいライ麦を食べていたが、牛はしっかりいた。バターもミルクもあった。実験動物でビタミンAを欠乏させた犬に麦角を与えると、脊髄に病変が出て、人間の痙攣型麦角中毒とよく似た状態になる。

しかもこの説を裏づける、ほとんど対照実験みたいな記録が残っている。1767年、ハノーファーの医師ヘンスラーが、8人家族が全員痙攣型を発症したという通報を受けて往診した。村じゅうのライ麦畑に麦角が生えていたのに、発症したのはこの一家だけだった。理由を尋ねると、その家は牛が死んでしまって、ミルクもバターも一切口にしていなかったのである。

しかも倹約家の主婦が、収穫期に普通は食べるはずのベーコンまで出していなかった。

同じ毒を食べて、片方の家は倒れ、隣の家は無事。乳製品の有無ひとつで生死が分かれる。中世から近世の農村における格差というものが、これほど生々しく出ている記録もそうない。

857年、そして944年。年代記が書き残した「見えない火」

記録に残る最初のそれらしい記述は、857年のドイツだ。『クサンテン年代記』という写本に、こう書かれている。腫れ上がった水疱の大流行が人々を襲い、忌まわしい腐敗によって蝕まれ、死ぬ前に四肢が緩んで落ちた、と。

死ぬ前に手足が落ちる。この一行だけで、壊疽型麦角中毒だと診断がつく。他の病気でここまでのことは起きない。

この年代記は、861年にノルマン人がライン下流のクサンテンの教会を略奪した様子を詳しく書いていることからその名がついた。写本は世界に一冊しか残っておらず、発見されたのは1827年だ。1834年、フックスという研究者が、年代記に書かれた症状を一つひとつ照合して、これが麦角中毒の最古の記録だと特定した。

そこから18世紀まで、ヨーロッパでは少なくとも83回の流行が記録されている。もちろんこれは記録に残った分だけで、実際はもっと多い。

とりわけ有名なのが945年前後のパリと、994年のアキテーヌ・リムーザン地方だ。数字は資料によって揺れる。944年から945年にかけての流行で約2万人、994年の流行では2万から4万人が死んだとされる。当時のパリ周辺人口の半分に相当した、と書く研究者もいる。数字そのものは中世の記録らしく大雑把だが、桁が違うほど誇張されているわけでもないだろう。

994年の流行については、リモージュの修道士アデマール・ド・シャバンヌの記録がある。生年989年ごろ、没年1034年という人だ。彼はこう書き残している。

このころ、火の疫病がリムーザンを焼いた。数えきれないほどの男女の体が、見えない火に喰われた。大地のいたるところが嘆きの声で鳴り響いていたのである。そして彼は、事態の推移も記している。サン=マルシャル修道院長ジョフロワとリモージュ司教イルデュアンが、アキテーヌ公ギヨームに相談した。

そしてリムーザン全域に三日間の断食を命じる。

アキテーヌじゅうの司教が集まり、あらゆる場所から聖遺物が運び込まれた。994年11月12日、ガリアの守護聖人サン=マルシャルの遺体が墓から持ち上げられて、リモージュを見下ろすモンジョヴィの丘へ運ばれる。

そして人々は歓喜に満たされ、あらゆる病が消え去った、と年代記は書く。12月4日、聖人の遺体は墓に戻され、災厄は去っていた。

この出来事は「燃える者たちの奇跡」と呼ばれた。7年に一度、聖遺物を担いで練り歩くリムーザン地方のオステンシオンという祭りになって、いまも続いている。千年以上続いている。無形文化遺産にも登録された。

麦角中毒の流行が、現在進行形の祭りとして生き残っている。これがヨーロッパという場所のややこしさだ。

もう一つ、症状の描写として決定版と言っていいものがある。ベルギーのジャンブルー修道院の修道士シジュベールが1089年ごろに書いた一節だ。ラテン語の原文はこうなっている。多くの者が内臓を焼く聖なる火によって壊疽を起こし、その四肢は炭のように黒く変わり果てて腐り、あるいは惨めに死に、あるいは腐った手足がもげ落ちてなお、より惨めな生を生きながらえた。また多くの者は神経の収縮にねじ曲げられて苦しんだ。

壊疽型と痙攣型が、一つの文の中に両方きれいに書き込まれている。11世紀の修道士が、900年後に薬理学が解明することになる二つの症候群を、観察だけで書き分けている。

しかもシジュベールは、このとき翼のある竜が空を横切って炎を吐き、その飛んだ先すべてに病が広がった、とも書き添えている。ここで観察と幻視が地続きになる。ちなみに989年にはハレー彗星が通過していて、西暦1000年を前にした終末論的な気分がヨーロッパじゅうに漂っていた。空を横切る火の尾と、体の中を走る火。両者が結びつかないほうがおかしい。

同じころ、フランス各地で「燃える者たち」を受け入れる教会が生まれている。パリのノートルダムでは、聖なる火に苦しむ病人を横たえる場所が決められている。1248年の証書には、そこに毎晩六つの灯明を永続的に灯すと定められている。1130年ごろのパリでは、聖ジュヌヴィエーヴの聖遺物箱の前で多数の患者が癒されたとされる。その場所に建てられた礼拝堂は「アルダンの礼拝堂」、つまり燃える者たちの礼拝堂と呼ばれた。

アラスの町では、燭台を持った聖母が光の帯の中に現れたという。その蝋燭の蝋から作った薬で143人が治った、という「聖なる蝋燭の奇跡」が語り継がれている。

この病気には異様なほど名前が多い。マル・デ・ザルダン、イグニス・サケル、聖アントニウスの火、聖マルシャルの火、地獄の火、見えない火、聖母の火、ゲヘナの火、悪しき火、野火。土地ごと、聖人ごとに名前が変わる。それだけ各地で、独立に、繰り返し起きていたということだ。

修道院に担ぎ込まれると、なぜか治った

さて、ここからが本題かもしれない。

1070年ごろ、ジョスラン・ド・シャトーヌフという人物が、東方への巡礼から帰る道すがら、ある遺骨を持ち帰ったとされる。コンスタンティノープルから運ばれた聖アントニウス、つまりエジプトの隠者アントニオスの骨だ。遺骨はドーフィネ地方の、ラ=モット=サン=ディディエという小さな村の教会に安置された。1088年にはアルルのモンマジュール修道院からベネディクト会士が入って小修道院を構えた。

1089年ごろ、ヴァロワール家の若い貴族ゲランが、聖なる火に倒れる。父ガストンは息子を聖遺物の前に運び、治ったら生涯を病人に捧げると誓った。息子は回復した。

そこで親子は約束を果たす。1095年ごろ、彼らは施療所を作り、病人の世話をする在俗の兄弟団を組織した。これが聖アントニウス修道会、アントニン会の始まりだ。同じ1095年、教皇ウルバヌス2世がこれを認可している。ちなみに同じ年、同じ教皇が、クレルモンで第一回十字軍を呼びかけている。

西ヨーロッパが外へ向かって暴れ出す年に、内側の病人を引き受ける組織も生まれた、というわけだ。

この修道会は、爆発的に広がった。ギャップ、シャンベリー、ブザンソンに施療院を開き、やがてスペイン、イタリア、フランドル、ドイツへ。ドイツでは1214年にメミンゲンに拠点ができている。最盛期の15世紀には、ヨーロッパ全土におよそ370の施療院を持っていた。400近いとする数字もある。

所属する修道士は一万人に達したとも言われる。

彼らの目印は、黒い修道服に縫い付けられた青いタウ十字だった。ギリシア文字のタウ、つまりT字型の十字だ。聖アントニウスの十字とも呼ばれる。なぜT字なのかについては、足を失った患者が使う松葉杖の形だから、という説明が古くからある。もっともらしい話だ。

実際、街を歩いていて青いタウ十字を見たら、そこが手足を失った人間の行き場所だと、誰でもわかったはずだ。

そしてもう一つ、彼らには奇妙な特権があった。豚を放し飼いにする権利だ。

修道会は教会から、慈善事業の原資として豚を飼うことを認められていた。町の住民は自分の家の子豚のうち、いちばん小さい育ちの悪いやつを修道会に寄進する。修道会はその子豚の首に鈴を付けて、街路に放つ。鈴を鳴らしながら人の足元で餌をねだる豚。これが「タントニーの豚」と呼ばれて、中世の都市の日常風景になった。

生き延びて太った豚は修道会が回収し、その肉と脂が患者の食事と軟膏になる。

聖アントニウスの図像に、なぜかいつも足元に豚が描かれているのは、これが理由だ。長い髭、修道服、タウ十字の杖、鈴、そして豚。

フランスでは、彼らの施療院はオピトー・デ・デマンブレ、つまり「手足を失った者たちの病院」と呼ばれた。名前が身も蓋もない。

そしてここに、この記事でいちばん静かで、いちばん恐ろしい事実が来る。

施療院の入口には、患者たちが落ちた自分の手足を奉納する習慣があった。黒く干からびた腕や脚が、感謝の供物として、あるいは治癒を願う供物として、教会の入口に並んでいた。参拝者はその前を通って中へ入る。当時は、最後の審判のときに体を元通りにするために、切断された手足を保管しておくという考え方もあった。だから捨てない。

取っておく。

この光景が日常だった社会を、ちょっと想像してみてほしい。

さて、彼らの治療法である。患部に聖アントニウスの水と呼ばれる豚の脂ベースの軟膏を塗る。ナス科の薬草を練り込むこともあった。聖アントニウスのワイン、別名サン=ヴィナージュを飲ませる。修道院の近くで穫れたブドウのワインに薬草を漬け込み、さらに聖人の聖遺物を浸した液体だ。

血管拡張作用や麻酔作用のある植物が入っていたとされる。それから祈り。イーゼンハイムの施療院では、患者を祭壇画の前に連れていって、聖人の像の前でこの飲み物を与える儀式をやっていた。

そして最終手段が切断だ。俗人の外科医が施療院に常駐していて、壊死した手足を切り落とす。麻酔はマンドラゴラなどの薬草に頼った。これも量を間違えれば死ぬし、それ自体が幻覚を起こす。

こうして書き並べると、どう見ても効きそうにない。聖遺物を浸したワインで壊疽が治るわけがない。

ところが、実際に修道院に担ぎ込まれた患者は、症状がぴたりと止まったのだ。

理由は身も蓋もない。修道会は裕福だった。寄進と遺贈がどんどん集まる、ヨーロッパ有数の資産家集団だった。だから患者に出すパンが、ライ麦ではなく小麦だったのである。しかも、質のいい、きちんと選別された穀物のパンだった。

つまり毒の摂取が、施療院の門をくぐった瞬間に止まる。

麦角アルカロイドは体内に蓄積するが、供給が止まれば血管の収縮は解ける。壊死してしまった組織は戻らないが、進行は止まる。痛みは引く。幻覚は消える。痙攣は治まる。

患者から見れば、聖人の骨に触れたら火が消えた、としか思えない。

古い民間療法に「転地療養がよい」というものがあったのも、まったく同じ理屈だ。別の土地に行けば、汚染された畑の麦を食べずに済む。原因がわからないまま、経験だけが正解にたどり着いていた。

彼らは正しい治療をしていた。理由だけが、丸ごと間違っていたのである。

皮肉なのはその後だ。16世紀末から17世紀にかけて、麦角とライ麦と病気の関係が少しずつ判明していく。1596年、ヘッセン方伯領の流行を記録したドイツの医師ヴェンデリン・テリウスが、麦角を原因として初めて名指しした。1676年には、フランスのドゥニ・ドダールが報告している。パリの王立科学アカデミーへの書簡で、麦角の生えたライ麦とパン中毒の関係を書いた。

19世紀には菌学者ルイ・ルネ・テュラーヌが麦角菌の生活環を解明した。

原因がわかり、製粉の段階で菌核を除く技術が普及すると、患者がいなくなる。患者がいなくなると、聖アントニウス修道会の存在意義が消える。寄進が減る。組織が縮む。1616年に改革が試みられたが、持ち直せなかった。

1775年から1777年にかけてマルタ騎士団に統合され、フランス革命で完全に消滅する。

ドイツに残っていた最後の修道院は1803年の世俗化で解散している。

病気の正体を突き止めた科学が、その病気と戦うために生まれた組織を殺した。そういう話でもある。

グリューネヴァルトは、目の前の患者を描いていた

コルマールのウンターリンデン美術館に、イーゼンハイム祭壇画がある。

1512年から1516年ごろの作で、多翼祭壇画である。マティアス・グリューネヴァルト、本名マティス・ゴットハルト・ニートハルトが描いた9枚の板絵と、ニクラウス・フォン・ハーゲナウの彫刻からなる。発注したのは、イーゼンハイムの聖アントニウス修道院の院長ギー・ゲール。1490年から1516年まで院長を務めた人物だ。

コルマールから南へ25キロほどのイーゼンハイムには、1300年ごろからアントニン会の施療院があった。

この祭壇画は、その施療院の礼拝堂の主祭壇を飾るために作られた。

つまり、麦角中毒の患者が毎日それを見上げるために描かれた絵だ。

ふだんは閉じられていて、中央に磔刑のキリストが現れる。このキリストの体が、尋常じゃない。青緑がかった皮膚に、無数の膿疱と裂傷が浮き出ている。手の指は苦痛で不自然に反り返り、曲がっている。教科書的な聖なる受難ではなく、病人の体だ。

これは意図的な演出だとされる。患者がこの絵の前に来たとき、自分と同じ皮膚をした神を見る。自分の苦しみを神が共有している、と理解する。ある美術批評家はこれを「セラピー的リアリズム」と呼んだ。

翼を開いていくと、聖アントニウスの生涯の場面が現れる。そのうちの一枚、「悪魔に責め苛まれる聖アントニウス」の左下隅に、ぎょっとする人物が描かれている。

腹が異様に膨れ上がり、皮膚は緑がかって、全身に膿を持った潰瘍が吹き出ている。手足には水掻きのようなものがついている。この人物だけは、聖人を襲う怪物たちの乱闘から少し離れたところに横たわって、上を見上げている。

美術館の公式解説はこれを「麦角中毒によって引き起こされる病そのものを人格化したように見える」と書く。研究者の多くは、グリューネヴァルトが施療院の患者を実際に見て描いたと考えている。膨れた腹は飢餓によるもの、皮膚の潰瘍は病変そのものだ。

この絵の前に立った患者は、どう感じただろう。自分とそっくりの姿をした人物が、絵の中にいる。しかもその人物は、聖人の苦しみを見上げている。お前もこの物語の中にいる、と絵が言っている。

もう一つ、祭壇画の下段、プレデッラを開くと、埋葬前のキリストの脚が、ちょうど切断されたように見える構図になる。手足を失った患者たちが、自分と同じ体をした神を見る。偶然かどうか議論はあるが、偶然にしてはできすぎている。

そしてヒエロニムス・ボスだ。

リスボンの国立古美術館に「聖アントニウスの誘惑」三連祭壇画がある。1500年前後の作品で、意味の通らないものが大量に描き込まれている。その中に、切断されてミイラ化した人間の足が転がっている。

美術史家ローリンダ・S・ディクソンは1984年、美術専門誌『アート・ジャーナル』に論文を発表した。題は「ボスの聖アントニウス三連祭壇画――ある薬剤師の神格化」という。この絵をアントニン会の医療技術の寓意として読み解いたものだ。

転がっている足は、切断後に保管された患者の四肢。最後の審判で体を元通りにするために取っておかれたものだ。半分人間で半分植物の奇妙な生き物は、マンドラゴラの根の形をしている。マンドラゴラは聖アントニウスの火の激痛を抑える麻酔薬であり、根を引き抜く儀式には伝説がついてまわった。煙と炎を吐く卵形の建造物は、薬剤師が薬草を煎じるのに使ったレトルト、つまり蒸留器の形そのままだ。

魚やアザミといったモチーフは、熱の病に冷の性質をぶつける当時の錬金術的発想に対応する。

中央パネルの左奥では、町が燃えている。これは伝統的に、聖アントニウスが火から、そして聖アントニウスの火から人々を守ることを示す図像だ。

狂人のうわごとに見えていたものが、15世紀の医療技術のカタログだった、という読み方である。全部がこの通りかは議論の余地がある。だが、少なくとも、切断された足とマンドラゴラと蒸留器が同じ画面に並ぶことに必然性があった、というのは大きい。

さらに言えば、この絵はおそらくアントニン会の施療院修道院のために描かれた。研究者の一人は、パトロンの条件から逆算して、マーストリヒトの聖アントニウス修道院が発注元だと推定している。

つまり、ボスの絵もグリューネヴァルトの絵も、美術館の壁ではなく、手足の落ちた人間が横たわる病室の隣に掛かっていた。

1692年、セイラム。魔女裁判は麦角のせいだったのか

ここからは、この話でいちばん有名で、いちばん揉めている部分だ。

1976年4月2日、『サイエンス』誌に一本の論文が載る。「麦角中毒――セイラムに解き放たれたサタン?」。著者は当時まだ博士課程の学生だったリンダ・R・カポレール。心理学の研究者だ。

彼女の主張はこうだった。1692年にマサチューセッツ植民地セイラム村で起きた魔女裁判の引き金は、痙攣型麦角中毒だったのではないか。

論理の組み立ては、思ったより緻密だ。

第一に、麦角がそこにあり得たか。大西洋岸には野生のライムギが自生していて、麦角の宿主になる。入植者は家畜の飼料として使えないと不平を書き残し、この草を食べた牛が原因不明の病気になったと報告している。つまりピューリタンが来る前から、新大陸に麦角は存在した。ライ麦は旧世界の穀物のなかでもニューイングランドで最も確実に育つ作物で、1640年代には定着していた。

春に蒔いて8月に収穫し、穀倉に積んで、寒くなってから脱穀する。

第二に、気候。ボストンの判事サミュエル・シューオールの日記が残っている。1690年の冬は極寒だった。11月30日「ひどく寒い」、12月1日「極寒」、12月16日「たいへん寒い」、12月17日「寒くてチャールズタウン川に氷が張った」。そして1691年は春に雨と暖かさが来て、夏は蒸し暑く雷雨が続いたのである。

7月20日と8月6日に大雷雨の記載がある。8月28日には猛暑で、従兄弟を夜のうちに埋葬しなければならなかったと書いている。年輪の記録からも、1688年以降のニューイングランドは初夏が平年より涼しかったことがわかる。涼しい初夏は感染の窓を広げ、蒸し暑い晩夏は菌核をよく育てる。

第三に、タイミング。脱穀はおそらく感謝祭の少し前。ピューリタンが守る唯一の祝日だ。そして少女たちの症状が出始めたのが1691年12月。翌1692年は干ばつで、麦角が育つ条件がなかった。

そして1692年の秋、魔女騒動は唐突に終息し、以後セイラムで誰かが苦しんだという記録はない。新しい穀物に切り替わった時期と、ぴたり重なる。

第四に、地理。これがカポレールの論文でいちばんインパクトのある部分だ。牧師サミュエル・パリスは給与の一部を穀物で受け取っていて、その供給元は村の西側だった。パリスの娘ベティ、9歳と、姪のアビゲイル・ウィリアムズ、11歳が最初に発症している。そして告発者の多くが村の西側に住むか、西側の農民から穀物を得ていた。

逆に、被告となった「魔女」の85パーセントが村の東側に住み、彼らの無実を訴えた人々の82パーセントも東側だった。成人の告発者の93パーセントは東側ではなく告発側の分布に従っていたのである。

村の西側は低地で湿地が多い。低湿地は麦角がよく出る。

第五に、症状。告発者たちは発作と筋肉の痙攣を起こし、皮膚を虫が這う感覚を訴え、そして本人にとっては圧倒的にリアルな幻覚を見た。その幻覚が法廷で「幽体証拠」として採用された。魔女が暖炉の中にいるのを見た、証人席から魔女が消えて法廷の梁の上に現れた、といった証言だ。痙攣型麦角中毒の症状リストと、気味が悪いほど一致する。

カポレール自身は、論文の結論をかなり抑制的に書いている。セイラムの一人のサタンは、痙攣型麦角中毒だったのかもしれない、と。幻覚が起きたことと、その幻覚の中身がなぜ魔女の形をとったのかは別問題だ。後者を決めたのは当時の宗教的世界観だ、という立場である。

反論、反論への反論、そして泥仕合

論文が出て数日で、歴史家スティーヴン・ニッセンバウムが公然と異議を唱えた。『呪われたセイラム』の共著者だ。「それならなぜ、他の年に、他の家で、他の村で同じことが起きないのか、私には考えにくい」。

決定的な反撃は同じ年の12月24日号に載った。心理学者ニコラス・P・スパノスとジャック・ゴットリーブによる「麦角中毒とセイラム村の魔女裁判」。歴史資料と医学資料の両方を総ざらいして、カポレール説を否定した。

彼らの論点は主に三つある。

ひとつ、痙攣型麦角中毒はビタミンA欠乏の集団で起きるとバージャーが論じている。だが、ニューイングランドの入植者は乳製品も魚も食べていた。

ふたつ、麦角中毒の流行なら壊疽の症例がまったく出ないのはおかしい。壊疽型の症状が記録に一例もない以上、麦角が関与した可能性は低い。

みっつ、症状が出たのが特定の少女たちに限られるのは不自然だ。同じ家で同じパンを食べていたなら、家族全員が発症するはずだ。それに、告発者の年齢が麦角中毒に典型的な年齢層とずれている。

そしてスパノスは、もっと根本的な批判を突きつけている。セイラムで起きたことは、17世紀ピューリタンの世界観と宗教的前提の中で演じられた社会政治的なドラマとして見なければ理解できない。麦角仮説は事実にも合わないし、事実の解明の役にも立たない、と。

ここで話が終わらないのがこの分野だ。

1982年、歴史家メアリー・キルボーン・マトシアンがカポレール擁護に回る。気候条件は麦角の生育に完全に適していたし、症状も一致する。彼女は1989年に『過去の毒――カビ、疫病、そして歴史』という本を出して、話をさらに大きくした。麦角をはじめとするカビ毒が、ヨーロッパと北米の人口動態そのものを左右してきた、という主張だ。

麦角アルカロイドには流産作用も出産抑制作用もあり、免疫抑制作用もあるから、ペスト後の人口回復の遅れも説明できる。18世紀の人口爆発は、主食がライ麦からジャガイモや小麦へ移行したためだ。さらに、フランス革命前夜の「大恐怖」も、18世紀北米の宗教リバイバルも、麦角が一枚噛んでいるのではないか、と。

翌1983年、スパノスが再反論。マトシアンの議論は麦角仮説と無関係で、事実として誤りで、しかもきわめて誤解を招く提示のされ方をしている、と。

マトシアンの本は、書評でかなり叩かれた。医学史の研究者は、この本を「あらゆる意味で薄い」と切り捨てた。そのうえで、「かもしれない」「おそらく」「たぶん」というページごとに恐ろしい頻度で現れる語を槍玉に挙げている。ロイ・ポーターは、有望な仮説を死ぬまで鞭打った古典的事例だと評した。

麦角中毒の流行を示す主な指標が、それが引き起こしたとされる集団ヒステリーそのものになっている場面がある、という指摘は的確だ。

それは循環論法だ。

一方で、カポレール側に有利な材料もその後出ている。2016年の『JAMAダーマトロジー』誌に載った論文は、裁判記録に残る「悪魔の印」の記述を分析した。被告と告発者の体を調べて見つかった皮膚の異常の描写である。それが壊疽型麦角中毒の初期像と似ている、と論じた。この研究の筆頭著者は、壊疽型麦角中毒は最終的に非常に暗く木のように硬い状態になる。

だが、そこに至るまでに複数の段階を踏むと説明している。

スパノスの「壊疽が一例もない」という前提が揺らぐ余地はある。

現在の学界の評価をざっくり言うと、こうなる。歴史学の主流では、麦角仮説はほぼ相手にされていない。セイラムは、境界紛争、経済的対立、宗教的緊張、先住民との戦争の恐怖、そして少女たちを取り巻く社会力学の複合として説明されるのが普通だ。一方、医学史や毒性学の側では、少なくとも最初の数例の身体症状については麦角が関与した可能性を捨てきれない、という温度感で語られることが多い。

そして正直なところ、決着はつかない。1692年のセイラム村の穀倉を調べに行くことは、もう誰にもできないからだ。

カポレール自身が出した折衷案が、いまのところいちばん腑に落ちる。麦角がいくつかの症状を実際に起こし、そこにピューリタンの狂熱と政治的対立が乗って、数件の身体症状が魔女狩りの大流行になった。毒が引き金を引き、社会が銃を撃った。そういう形だ。

1938年、バーゼル。同じ菌から、20世紀で最も有名な化合物が出てきた

話を化学に移す。

スイス、バーゼル。サンド社の製薬化学研究部門。アルベルト・ホフマンという若い化学者が、麦角アルカロイドの研究をしていた。上司は研究部長のアルトゥール・シュトル。シュトルは1918年に、麦角から純粋なエルゴタミンを単離することに成功した人物だ。

ホフマンは麦角アルカロイドの共通骨格であるリゼルグ酸を出発点に、系統的に誘導体を作っていた。目的は循環器や呼吸器に効く薬を見つけることだった。その一連の化合物の25番目が、リゼルグ酸ジエチルアミド、略してLSD-25。1938年のことだ。

動物実験では、たいした所見が出なかった。子宮を収縮させる作用はあったが、他の候補より弱い。実験動物がやや落ち着きをなくす、という記載はあったが、それだけだった。普通ならここで廃棄される。実験化合物は薬理学的に面白くないと判定されたら、研究計画から容赦なく外されるのがこの業界の掟だ。

ところがホフマンは、この物質を忘れられなかった。

彼自身の言葉を借りるなら、こういうことだ。「奇妙な予感、この物質は最初の調査で判明したのとは別の性質を持っているのではないかという感覚」があった。それが5年後の1943年春、彼にもう一度LSD-25を作らせる。実験物質が一度捨てられてから復活することは、まずない。本人も「これはきわめて異例なことだった」と書いている。

1943年4月16日の午後、彼はこの物質の精製作業の途中で、妙な感覚に襲われて仕事を中断した。当時シュトル教授に提出した報告書には、こう書いてある。めまいと落ち着かなさを覚え、家に帰って横になったところ、目を閉じると信じられないほど鮮やかな像が、万華鏡のような色彩の遊びとともに、絶え間なく押し寄せてきた。2時間ほどでそれは消えた。

ホフマンは自分を疑ったのである。麦角物質の毒性を知っているから、常に几帳面な実験手順を守ってきたはずだ。おそらく結晶化の作業中に、指先に溶液が少し触れて、皮膚から吸収されたのだろう。もしLSD-25がこの体験の原因なら、これはとんでもない効力を持つ物質だということになる。

確かめる方法はひとつしかない。彼はそう考えた。

4月19日、自転車の日

1943年4月19日16時20分。ホフマンは実験ノートにこう記した。酒石酸ジエチルアミド水溶液0.5立方センチを経口摂取、すなわち0.25ミリグラム。水約10立方センチで希釈。無味だ。

彼は、当時知られていた麦角アルカロイドの活性から逆算して、何らかの効果が出ると期待できる最小量を選んだつもりだった。極度に慎重を期したつもりだった。実際には、後に判明する常用量の数倍にあたる量だったのである。

17時00分。ノートにはこうある。めまいの始まり、不安感、視覚の歪み、麻痺の症状、笑いたい衝動。

そこで記述は途切れる。最後の数語は、大変な努力をしてようやく書けたものだったと彼は回想している。

このとき彼は確信した。先週の金曜日の奇妙な体験の原因はLSDだ。知覚の変容が同じ種類で、ただ桁違いに強い。

彼は事情を知っている助手に、家まで送ってくれと頼んだ。すでに言葉を明瞭に発するのが困難だった。戦時中の自動車使用制限のため、車は使えない。二人は自転車で走り出した。

帰り道で、状態が危険な様相を帯びてくる。視界のすべてが、湾曲した鏡に映したように波打って歪む。しかも彼は、自分がその場から一歩も動けていないという感覚に襲われていた。あとで助手は、二人はものすごい速さで走っていたと証言している。

なんとか無事に家に着いたホフマンは、やっとのことで頼んだ。かかりつけの医者を呼んでくれ、それから隣の家からミルクをもらってきてくれ、と。錯乱した状態のなかでも短い明晰な思考の瞬間があり、彼は非特異的な解毒剤としてミルクを選んだのだという。

ここからの記述が凄まじい。

めまいと失神しそうな感覚が強くなり、体を起こしていられずソファに横になった。部屋のすべてが回転していた。見慣れた家具が、グロテスクで脅迫的な形に変わり、内側からの落ち着きのなさに突き動かされているかのように、絶え間なく動き続けていたのである。隣の奥さんがミルクを持ってきてくれた。その晩、彼は2リットル以上飲んだ。

だが彼にはもう彼女が誰だかわからなかった。彼女はR夫人ではなく、色のついた仮面をかぶった、悪意に満ちた狡猾な魔女だった。

外の世界の悪魔的な変容よりもさらに悪かったのは、彼自身の内側で起きていたことだ。意志の力をどれだけ振り絞っても、外界の崩壊と自我の解体を止められない。悪魔が自分に侵入し、体と心と魂を乗っ取った。彼は跳ね起きて叫び、そいつから逃れようとして、また力尽きてソファに沈んだ。自分が実験しようとした物質が、自分を打ち負かした。

それは彼の意志を嘲笑って勝ち誇る悪魔だった。

そして彼は、発狂するという恐ろしい恐怖に捕らえられる。自分は死ぬのではないか。これが移行というものなのか。ときどき自分が肉体の外にいるように感じられ、外部の観察者として、自分の状況の悲劇性を明晰に眺めた。妻は三人の子どもを連れてルツェルンの実家へ行っていて、別れの挨拶さえしていなかった。

自分が軽率に、無責任に実験したのではなく、最大限の注意を払ったうえでこうなったのだと、家族は理解してくれるだろうか。

そして、苦い皮肉に満ちた考えが浮かぶ。もし自分がこの世を早く去らねばならないとすれば、それは自分自身がこの世に送り出したリゼルグ酸ジエチルアミドのせいなのだ。

医者が到着したころには、最悪の時間帯は過ぎていた。助手から自己実験の話を聞いた医者は、瀕死の危機を訴えるホフマンを見て、困惑して首を振った。異常所見は極度に散大した瞳孔だけ。脈拍も血圧も呼吸も正常。処方すべき薬もなかった。

彼はホフマンをベッドに運び、そばに付き添った。

やがて恐怖が和らぐと、閉じた瞼の裏に残る前例のない色彩と形の戯れを、彼は楽しめるようになったのである。万華鏡のような幻想的な像が押し寄せ、色を変え、円と螺旋を描いて開いては閉じ、色の噴水となって爆発し、絶え間ない流動のなかで組み替えられ、混じり合った。とりわけ目を引いたのは、ドアノブの音や車が通り過ぎる音といったあらゆる聴覚的な知覚が、視覚的な知覚に変換されたことだ。

どの音も、それ自身の一貫した形と色を持った、鮮やかに変化する像を生んだ。

夜遅く、電話で知らされた妻がルツェルンから戻ってきた。彼はもう、何が起きたかを説明できるまでに回復していた。疲れ果てて、眠ったのである。

この4月19日が、のちに「自転車の日」と呼ばれることになる。中世ヨーロッパの村人を幻覚と痙攣に叩き込んだのと同じ菌から取り出された骨格が、20世紀の文化を丸ごと一つ作り替えることになった。

ちなみに、麦角に含まれるアルカロイドの一つイソエルギン、つまりリゼルグ酸アミドは、アステカの儀式用植物であるアサガオの種にも含まれている。麦角由来の物質と、新大陸の宗教儀礼が、化学構造のレベルでつながっていた。これも偶然にしてはよくできている。

1951年8月、ポン=サンテスプリ。「呪われたパン」

そして、この記事のもうひとつの山場に来る。

南フランス、ガール県。ローヌ川に架かる立派な中世の橋で知られる人口4500人ほどの町、ポン=サンテスプリ。1951年の夏は異様に雨が多く、その年のライ麦は不作が見込まれていた。

8月16日。郵便配達員のレオン・アルミュニエが配達中に、突然の吐き気と激しい幻覚に襲われて倒れた。

同じ日、町の医師たちの診療所が患者で埋まった。吐き気、嘔吐、悪寒、そして体を突き抜ける熱の波。最初は食中毒、それも肉の中毒だろうと思われた。ところが電話が鳴りやまない。月曜日までに、村の70軒の家がそれぞれ小さな病院と化していた。

家族が総出で寝込んでいる。

そして症状が変質し始める。幻覚と痙攣が加わった。

8月24日から25日にかけての夜、そして25日から26日にかけての夜。住民はそれを「黙示録の夜」と呼んだ。町医者の一人が名付けた言葉だ。

ある男は自分を飛行機だと思い込み、2階の窓から飛び降りて死んである。11歳の少年が母親の首を絞めようとした。回復しかけていた男が二人、狭い街路を「敵が追ってくる」と叫びながら駆け抜けた。幻覚に襲われた23人が緊急入院し、何人かが窓から身を投げたのである。町の病院は4件の自殺未遂を報告している。

住民の証言が残っている。

町長アルベール・エブラールはユナイテッド・プレスの取材にこう語った。私は健康な男女が突然恐怖に取り憑かれ、シーツを引き裂き、幻覚から逃げようと毛布の下に隠れるのを見た。何年も前から知っているシャルル・ポミエは、ドアにバリケードを築いて銃を構えたのである。自分を追ってくる怪物を撃つ準備ができていると言っていた。32歳のジャック・ポンシュは自宅2階の窓から身を投げた。

火から逃げるのだと叫んでいたのである。ガブリエル・ヴェラディエールはローヌ川に飛び込もうとした。友人に取り押さえられるまで、彼は何度も何度もこう叫び続けた。俺は死んでいる、俺の頭は銅でできている、腹の中に蛇がいて、俺を焼いている。

5歳の女の子は泣き叫んだ。ママ、ママ、虎が来る、私を食べようとしてる、ママ、私は死ぬの、天井から血が垂れてる。

ある女性は、どれだけ証拠を示されても、自分の子どもたちが屠殺されてソーセージにされたと信じ込んでいた。

人間だけではない。猫が苦しげに鳴き続けた。犬が石を噛み、木の樹皮を歯が抜け落ちるまで剥ぎ取った。パンを食べた家畜も死んだ。

患者を診察した医師たちは、症状がまず激しい消化器症状から始まることに気づいた。そして徐脈、低体温、悪寒、瞳孔散大、四肢の冷え、末梢の脈の減弱。破傷風に似た筋の攣縮を起こす者もいた。そして一部の患者では、手足が腫れ上がって焼けるように熱くなり、壊疽に進んだ。

1951年のフランスで、中世の絵から抜け出したような症状が出た。

疫学的な追跡は早かった。医師のヴューとガバイが8月19日までに、犯人はパンだと突き止める。聞き取りをした患者は全員、ロック・ブリアンのパン屋のパンを買っていた。隣村のある一家は9人のうち4人が発症した。だが、発症したのは全員ブリアンのパンを食べた者で、別のパン屋のパンを食べた者は誰も倒れていない。

別の一家では7人のうち5人がブリアンのパンを分け合い、残る2人はビスコットを好んで食べていた。

倒れたのは、その5人だけだった。

8月20日の朝、保健当局、県庁、共和国検事、警察に通報が行く。ロック・ブリアンは尋問された。町の8軒のパン屋すべてに一時閉鎖命令が出た。憲兵が家々を回り、問題のパンの破片を集めてマルセイユの分析機関へ送ったのである。

ブリアンのパンの原料は4つしかない。小麦粉、酵母、水、塩。水は町の水道で、町じゅうが同じものを使っている。塩と酵母は地域の他のパン屋と同じ業者からのもので、検査しても毒性は出なかった。残るのは粉だけだ。

警察は粉の経路を逆にたどった。ブリアンの店から、国の統制下にある小麦粉集配所を経て、350キロ以上離れたポワチエ近郊の製粉所へ。ブリアンは2回目の仕込みの途中で粉が足りなくなり、地元の他のパン屋二人、ジョーサンとフラヴェから粉を借りていたことも判明した。ジョーサンのところへ粉を取りに行ったとき、ジョーサン本人は病気で寝ていて、助手から粉を受け取ったという。

そして警察の鑑識から結果が返ってくる。我々は麦角、すなわち穀物の寄生体の毒性学的および生物学的特性を持つ植物アルカロイドを同定した。

同じ9月、医師ガバイらは『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』に、この中毒の集団発生は麦角菌によるものだと報告した。フランス警察は、麦角混じりのライ麦を挽いた製粉業者と、その穀物を売った男を過失致死で起訴している。

被害の数字は資料によってばらつく。町の医師の記録では、8月21日の時点で130人が中毒、6人が入院、うち3人が子ども。最終的な被害者数は200人から320人、精神科病院に収容されたのが50人、そのうち30人ほどが数か月にわたって入院を続けた。死者は5人から7人。そのうち一人は、健康そのものだったはずの25歳の男性だった。

麦角説、水銀説、そしてCIA説

さて、ここからが厄介だ。ポン=サンテスプリ事件には、現在も三つの説が併走している。

第一に、麦角説。事件直後に警察の鑑識と医師団が出した結論で、いまも学術的な文献の多数派はこれを採る。臨床的にも、消化器症状に始まり、末梢循環障害、痙攣、幻覚、そして一部の壊疽という経過は、混合型の麦角中毒として説明がつく。1951年当時、麦角に対する殺菌剤処理はまだ普及していなかった。

問題もある。フランスの司法は最終的にこの説を採らなかった。臨床症状は混合型麦角中毒のものだったが、診断を証明することはできなかった、というのが公式の評価だ。そして歴史家スティーヴン・カプランは、1軒のパン屋の1袋の粉だけが汚染されるという事態は麦角では起きにくい、と指摘する。麦角の汚染はもっと広い範囲に及ぶはずだ、と。

第二に、水銀説。予審判事は1954年7月に事件を閉じ、原因は穀物の保存用殺菌剤「パノゲン」に含まれるメチル水銀ジシアンジアミドの摂取だとした。パノゲンはスウェーデンの会社が製造していた種子消毒剤で、安全対策として赤い着色剤が入っていた。播種用の種にしか使わせないための措置だ。

疑われたきっかけは、業者に返却された空の小麦粉袋の外側に、蛍光を発する染みがあったことだった。その後の実験で、着色剤そのものは袋を透過しないが、有効成分は透過し得ることがわかった。パノゲンを積んだ貨車が、後に小麦粉を運んだ可能性が民事裁判で検討されている。

ただ、この説にも穴がある。急性水銀中毒に特徴的な腎障害が、患者に見られなかった。さらにパノゲンで汚染された粉でパンを焼くと、濃度に応じて生地が膨らまなくなる。1965年に提出された薬学の学位論文がこの説を崩し、以後は支持を失っている。ちなみにパノゲンは、種子処理した植物に水銀が蓄積することが判明して1966年にスウェーデンで禁止され、1970年の改正で輸出も禁止されて市場から消えた。

そのほか、カプランは2008年の著書で、小麦粉を違法に漂白するために使われた三塩化窒素の可能性を挙げている。

そして第三に、CIA説である。

2009年、アメリカのジャーナリスト、ハンク・P・アルバレリ・ジュニアが『恐るべき過ち』という本を出した。フォート・デトリックの科学者フランク・オルソンの死と、1950年代のCIAによるマインドコントロール実験を扱った本だ。

そのなかで彼は、CIAの特殊作戦部が生物兵器計画MKNAOMIの一環として、「プロジェクトSPAN」という野外実験を行い、ポン=サンテスプリの住民にLSDを試したという仮説を提示した。

根拠として彼が挙げるのは、アメリカ国立公文書館に眠っていたCIA文書と、1975年のロックフェラー委員会に提出された資料だ。とくに衝撃的なのが、こう書かれた一片である。件名、ポン=サンテスプリおよびF・オルソン関連ファイル。SOスパン、フランス作戦ファイル、オルソンを含む。諜報ファイル。

ベリンに手渡しのこと、これらが埋められるよう取り計らえと伝えろ。

F・オルソンとは、事件当時CIAのLSD研究を率いていたフランク・オルソンのことだ。彼は1953年、ニューヨークのホテルの窓から転落死している。

アルバレリはさらに、情報公開法で入手した別の文書を挙げる。あるCIA工作員が、スイスのサンド社の関係者と交わした会話の報告だ。当時、世界でLSDを製造していたのはサンド社だけで、そのバーゼルの拠点はポン=サンテスプリからそう遠くない。報告によれば、何杯か飲んだあと、そのサンド社の人物は唐突にこう言った。ポン=サンテスプリの「秘密」は、パンではまったくなかったということだ。

麦角ではなかった。

さらにアルバレリは、フォート・デトリックの元研究者たちの証言として、この町がLSDの空中散布を受けたと述べている。それが「完全な失敗」に終わったあと、第二段階として地元の食品の汚染が行われた、という筋書きだ。ピーター・ジャニーの『メアリーのモザイク』は、農薬散布機のような飛行機が使われたと書き、事件当日の朝に無標識の低空飛行機が目撃されたという話も持ち出している。

これをどう評価するか。

まず、CIAが1950年代に自国民を含む多数の人間に無同意でLSDを投与していたのは、歴史的事実だ。MKウルトラは実在したし、フランク・オルソンの死は実在する。だから前提として「CIAならやりかねない」という蓋然性はある。ここが、この陰謀説が根強く生き延びている理由だ。

だが、事件の臨床像とは噛み合わない。カプランはこう指摘する。臨床的に整合しない。LSDは数時間で効くのに、住民に症状が出たのは36時間以上たってからだった。さらにLSDは、住民が訴えたような消化器症状や自律神経症状を起こさない。

しかもLSDはパン焼き窯の高温に耐えられない。これに対してアルバレリは、焼いた後に加えられた可能性があると反論している。ただしアルバレリ自身が主張する「空中散布」が本当なら、穀物経由のゆっくりした中毒という構図は成り立たなくなる。彼の仮説の二つの部分が、互いに食い合っている。

2024年に出た研究者フランシス・フルーラ=ルサールの著書は、麦角も殺菌剤も汚染水も漂白剤も否定したうえで、アルバレリの線を追いつつ、こう述べている。最も予想外なのは、LSDや他の麦角アルカロイドの作用とまったく一致しない点、すなわち最も重症だった35人が精神科病院に入院を要し、数か月にわたって再発と後遺症を残したことだ。LSDでは、しかも1回の摂取では、そんなことは起きない。

彼は症状を、向精神薬とバルビツール酸系薬剤の同時摂取によって起きる中毒性精神病に近いものと見て、健康への予期せぬ影響を恐れて土壇場でバルビツール酸系を混ぜたのではないか、という推測を立てている。

つまり、CIA説を強く採る論者ですら、LSD単独では説明できないと認めている。

現時点でのまともな結論はこうだ。麦角説が最も単純で最も証拠に支えられているが、完全ではない。水銀説は司法が採用したが科学的に崩れた。CIA説は状況証拠と一枚の不穏な文書に支えられているが、症状の時間経過と性質が合わない。そして、1951年の分析技術で保存された検体は、もう再検証できない。

町の人間にとっては、どれであっても同じことだ。パンを食べて、町が地獄になった。

中世の病気は、20世紀にも普通に起きていた

聖アントニウスの火を過去の話だと思っていると、足をすくわれる。

1926年から1927年にかけて、ソ連のウラル地方で大規模な流行が起きた。感染者はおよそ1万1000人から1万2000人と伝えられる。当時カザン大学の臨床に麦角中毒らしき患者が運ばれてきたことをきっかけに、医師マクスードフが非公式の情報を集め、現地へ乗り込んで調査している。ロシアでは19世紀の流行における死亡率が、報告された患者の40パーセント強に達したという推計もある。

ライ麦が主食であり続けた国では、麦角は長く生きていた。

1975年、インド。こちらは麦角菌の種類が違う。クラビケプス・フシフォルミスという別種が、バジュラ、つまりトウジンビエに寄生した。この菌が作るのはクラビン系のアルカロイドで、ライ麦の麦角とは成分が違う。78人が発症し、消化器症状に続いて痙攣と中枢神経症状が出た。

インドではそれ以前、1956年から1957年にも同様の流行が起きている。

そして1977年から1978年、エチオピア。北部ウォロ地方のウェドラ=デランタとラスタの一帯で、壊疽型の流行が起きた。報告された症例は93人、そのうち47人が死亡している。致死率50パーセントだ。

原因の追跡結果が興味深い。大麦そのものには麦角がほとんど見つからなかった。汚染されていたのは、大麦に混じっていた野生のエンバク、現地でギンチェと呼ばれる雑草のほうだった。その麦角汚染率は10パーセントから55パーセント。飢饉と干ばつで、農民は選別する余裕を失い、雑草ごと挽いて食べた。

同じことが2001年にも起きている。エチオピアのアルシ地方で原因不明の壊疽が多発し、調査チームが入った。聞き取りをした世帯は、2000年から2001年の収穫の大麦に妙な匂いがある。野生のエンバク、現地名シナールが異常に多く混じっていたと証言した。ただし、麦角の付いたシナールを自分で見分けられた住民は一人もいなかったのである。

この調査で確認された患者は5歳から30歳の18人、うち3人が死亡。

犠牲者の中心は子どもだった。そして家族全員が発症するわけではなかった。壊疽型に対する個人差が、ここでも極端に大きかったということだ。

穀物サンプルから検出されたエルゴタミンは、多いもので100グラムあたり2.66ミリグラム。そのサンプルを与えたマウスの55パーセントが死に、妊娠マウスは3日で流産した。

条件が揃えば、いまでもこの病気は起きる。必要なのは、貧困と、選別されない穀物と、湿った開花期だけだ。

1973年から1974年のエチオピアでは、麦角に冒された穀物と飢餓のどちらを選ぶか、という究極の二択が農村に突きつけられた。食べれば血流が止まって手足が腐る。食べなければ餓死する。10世紀のフランスの農民が置かれていたのと、まったく同じ位置に人間が立たされる。

現代の法規制は、この歴史の圧縮版みたいなものだ。欧州連合は人の食用の軟質小麦と硬質小麦について、菌核の混入を重量比0.05パーセント以下に制限している。飼料は0.1パーセント。日本の農産物規格規程では麦類の麦角粒の混入率上限は0.0パーセント、つまり事実上ゼロで、農林水産省は2018年度から麦類の麦角アルカロイド含有実態の全国調査を進めている。

欧州食品安全機関は2012年、麦角アルカロイドの耐容一日摂取量を体重1キログラムあたり0.6マイクログラム、急性参照用量を1マイクログラムと定めた。

体重60キロの人間なら、一日36マイクログラムまで。小さじ一杯の何万分の一という世界だ。その数字を守るために、いま世界中の製粉所が回っている。

同じ毒が、薬局の棚に並んでいる

そしてここが、この話のいちばん捻れたところだ。

村を焼いた毒は、そのまま薬になった。

最も古い用途は出産だ。1582年、フランクフルトの市医アダム・ロニツェルが『薬草誌』で、麦角を少量使うと分娩時の強い子宮収縮が得られると記述している。ドイツの助産婦たちはそれ以前から経験的に使っていた。もっと遡れば、1474年のニュルンベルクの写本に、月桂樹とソロモンの封印と「ライ麦の母」つまり麦角を混ぜた粉を温かいワインで飲む、という腹部や子宮の不調に対する処方が載っている。

1807年、ニューヨーク州の医師ジョン・スターンズが、同僚宛ての書簡で「プルウィス・パルトゥリエンス」、すなわち分娩促進の粉を紹介した。効果は絶大だった。他のどんな既知の薬よりも速く強い、と評されたのである。分娩にかかる時間が3時間を超えなくなったという。

ところが、効きすぎた。

麦角に含まれるアルカロイドの量は、菌核の乾燥重量の0.01パーセントから1パーセントまで、100倍の幅で変動する。安全な量など決めようがない。子宮が収縮しすぎて破裂する事故が相次ぎ、死産が激増した。ニューヨーク医学会が調査に乗り出し、1824年には産後出血の抑制以外に使うべきではないと勧告が出る。1822年、ニューヨークのホザックは、多数の死産が子宮破裂と母体死亡によるものだと指摘した。

そして「プルウィス・アド・パルトゥム」、分娩の粉という呼び名は、「プルウィス・アド・モルテム」、死の粉と呼び替えられるようになった。

19世紀末には分娩促進薬としては事実上放棄されたのである。

転機は成分の単離だ。1918年、サンド社のアルトゥール・シュトルが純粋なエルゴタミンを取り出す。製品名はギネルゲン。婦人科と産科で使う気で付けられた名前だった。ところが1925年、チューリヒのマイヤーが別の用途で成功する。

片頭痛だ。

当時、片頭痛の発作中に患者の顔が青白くなることから、交感神経の過緊張が原因だと考えられていた。サンド社のロートリンがエルゴタミンのアドレナリン遮断作用に着目し、マイヤーが臨床で試し、1928年にはドイツのトラウトマンがプラセボ対照で確認した。1938年、グレアムとウルフは、エルゴタミンの静脈注射で側頭動脈の拍動が縮小するのと並行して頭痛が消えることを示したのである。

ここから半世紀にわたって片頭痛研究を支配することになる血管説が生まれる。1943年には、ホフマンがLSDを飲んだのと同じ年に、ジヒドロエルゴタミンが導入された。

子宮のほうにも決着がついた。1932年、モアとデイルが産後の子宮に麦角の水溶性抽出物を経口投与したところ、4分という驚くほど短時間で、エルゴタミンともエルゴトキシンとも明らかに違う収縮パターンが現れたのである。収縮が頻回で、規則的で、振幅が大きい。これは別のもっと強力な物質が入っている、と彼らは結論した。1935年、同じグループがその水溶性アルカロイドの単離に成功する。

エルゴメトリン。北米ではエルゴノビンと呼ばれる。

これが、いまも産後大量出血の治療に使われている。オキシトシンが第一選択になった今でも、メチルエルゴメトリンは第二選択の強力な子宮収縮薬として現役だ。とくに設備の乏しい地域では、これが唯一使える止血薬という場面がある。産後出血は、発展途上国の妊産婦死亡のほぼ半分を占める。

さらに枝が伸びる。1965年、エルゴクリプチンの臭素置換体としてブロモクリプチンが合成された。これがプロラクチンの分泌を抑え、ドーパミン受容体に作用することがわかり、高プロラクチン血症の治療薬になり、パーキンソン病の治療薬にもなった。ジヒドロエルゴトキシンは高血圧や高齢者の脳機能障害に、ニセルゴリンは血管拡張薬として使われたのである。

麦角アルカロイドの骨格であるエルゴリンが、ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンと形が似ている。だから麦角の毒は、人体のありとあらゆるスイッチに手が届く。裏返せば、そこから選り分ければ、片頭痛にも、出産にも、パーキンソン病にも効く薬が取れる。

麦角中毒の流行で、授乳中の母親や牛の乳が止まるという現象が古くから知られていた。その副作用が、そのまま乳汁分泌抑制薬という用途になった。呪いのリストが、そのまま効能書きになっている。

ただし、薬になった後も毒であることは変わらない。20世紀後半以降に報告される麦角中毒のほとんどは、片頭痛薬の過量服用や相互作用による症例だ。エルゴタミン系はCYP3A4で代謝されるため、特定の抗真菌薬や一部のマクロライド系抗菌薬、プロテアーゼ阻害薬と一緒に飲むと血中濃度が跳ね上がり、急性の麦角中毒を起こす。腸間膜、腎、頸、網膜、冠状の各動脈で虚血が起きた症例が報告されている。

中世の村人を襲ったのと同じ血管収縮が、処方箋の組み合わせひとつで現代の病室に再現される。

なぜ人は、これを「魔女」と「悪魔憑き」と呼んだのか

ここまで見てきた症状を、11世紀の人間の目で並べ直してみよう。

体の中で火が燃えている。触ると冷たい。手足が炭のように黒くなる。痛みもなく落ちる。人が虫の這う感覚を訴え、のたうち、指を折り曲げたまま開けなくなる。

そして、そこにいないものを見て、そこにない声を聞き、意味の通らないことを叫ぶ。

これを見て「食べ物に混じった微生物の代謝産物によって血管のアドレナリン受容体が刺激され、末梢の血流が途絶している」と考えろ、というのは無理だ。顕微鏡もない。菌類の概念もない。アルカロイドという言葉が生まれるのは19世紀だ。

そのうえ、この病気には説明を悪魔側に引き寄せる特徴が揃っている。

第一に、選ばれ方が理不尽だ。同じ村の、同じ畑の、同じパンを食べて、隣の家は無事でこの家だけが倒れる。同じ家の中でも、倒れる者と倒れない者がいる。個人の感受性の差、体格の差、摂取量の差、そしてビタミンAをはじめとする栄養状態の差。近代的な視点ならこう説明できるが、当時の目には「選ばれた」としか見えない。

誰かの呪いか、神の裁きか。

第二に、幻覚の中身が文化に規定される。ホフマンが見たのは色のついた仮面をかぶった魔女だった。20世紀のスイスの化学者ですら、自分を襲うものを「悪魔」と呼んだ。中世の農民が、地獄の炎と角の生えた悪魔と聖母の幻を見たのは、まったく当然だ。人はその病気で譫妄するのではなく、その文化で譫妄する。

1000年前後のヨーロッパは終末論的な緊張に満ちていて、ハレー彗星が空を横切り、千年紀が迫っていた。シジュベールの年代記に炎を吐く翼竜が飛ぶのも、その延長線上にある。

第三に、症状そのものが、宗教的な語彙にあまりにも都合よくはまってしまう。内側から焼かれる。肉が落ちる。それでいて死なない。地獄の描写と一対一で対応する。

だから彼らはこれを「地獄の火」と呼び、患者を「すでに地上で最後の罰を受けている者」と見なした。病人は呪われた者であり、同時に選ばれた者だった。イーゼンハイムの修道院では、体の一部を失った患者の何人かを「生きた聖遺物」として扶養していたという研究もある。

第四に、痙攣型の患者を集団で見たとき、人はそこに「踊り」を見る。不随意の激しい筋収縮と、幻覚と、集団的な伝播。15世紀から16世紀にかけて、ドイツ、イタリア、フランドルで人々が踊りだす現象が記録され、聖ヨハネの舞踏、聖ヴィトゥスの舞踏、タランティズムなどと呼ばれた。1518年のストラスブールの事例が特に有名だ。これらに麦角を当てはめる説は古くからあるが、無理があるとする指摘も多い。

踊る病が起きた共同体には、ライ麦を食べていた地域と食べていなかった地域の両方が含まれる。それに、麦角の痙攣は意識を失う本物のてんかん発作ではなく、ねじれるようなジストニアや振戦だ。何日も歩き回って踊り続けられる状態ではない。ここは慎重に線を引いておきたい。

第五に、いちばん効いてくる点。この病気は、人を「加害者」に見せてしまう。

痙攣型の患者が発作を起こして幻を叫び、周囲の人間がそれを見る。患者は被害者だ。ところが当時の解釈では、彼または彼女は「取り憑かれている」ことになり、取り憑かせた誰かが探される。幻覚の中身が具体的な隣人の姿をとれば、その隣人が告発される。セイラムで起きたのは、まさにこれだ。

幻覚が「幽体証拠」という名前で法廷に持ち込まれた。

中毒が告発を生み、告発が社会の亀裂に沿って走り、亀裂が処刑に至る。ロレーヌ地方では中世から17世紀まで、麦角中毒の流行と魔女迫害が繰り返し重なった。ザクセンの聖職者たちは18世紀に入ってもなお、痙攣型麦角中毒が病気の症状なのか悪魔憑きなのかを議論していた。

1762年、イングランドの小さな村で一家が壊疽型麦角中毒に倒れたとき、王立協会が診断を下しているのに、一家の主人は「あまりに突然の災厄だから」という理由で魔女のせいだと主張したのである。

科学的な診断が下ってなお、当事者は超自然的な説明を選ぶ。これは400年前の話ではなくて、人間の話だ。

なぜこの話は、いまも人の背筋を冷やすのか

聖アントニウスの火という物語の怖さは、手足が落ちることそのものじゃない、と思う。

怖いのは、誰も何も間違えていないのに全員が破滅する、その構造だ。

農民は真面目に働いて麦を刈った。パン屋は普通にパンを焼いた。家族はいつもの食卓についたのである。誰も毒を盛っていない。誰も悪意を持っていない。

それなのに、村が壊れる。そして原因を探した人々は、犯人を隣人の中に見つけてしまう。火をつけたのは畑に生えた菌で、その菌には意志もなければ悪意もない。

もうひとつ。この話には、わかりやすい教訓が用意されていない。

科学が勝った話、として片付けようとすると、途中で足を取られる。修道士たちは間違った理屈で正しい治療をしていた。近代科学は正しい理屈にたどり着いて、その治療を行っていた組織を消滅させた。そして同じ菌から取り出された化合物が、20世紀の対抗文化を作り、CIAの実験計画に使われ、同時に産後出血で死ぬはずだった無数の母親を救っている。

毒と薬が同じ分子の裏表で、癒しと迫害が同じ出来事の裏表だ。

最後にもうひとつだけ言っておきたい。

麦角中毒が「昔話」になったのは、人間が賢くなったからじゃない。製粉の技術が上がって、主食が小麦とジャガイモに移って、穀物の選別が制度化されて、規格と検査が整備されたからだ。つまり、ものすごく地味なインフラのおかげだ。

そのインフラが薄いところでは、いまも起きる。1977年のウォロで93人が倒れて47人が死んだ。2001年のアルシで子どもたちの手足が黒くなった。彼らは飢えていて、雑草の混じった大麦を挽くしかなかった。

黒い角の生えた麦を、彼らも見分けられなかったのである。1000年前のフランスの農民と、まったく同じように。

聖アントニウスの火は、消えた病気じゃない。消せる条件が揃っている場所でだけ、消えている病気だ。

台所にある白い小麦粉の袋は、その条件が揃っていることの、かなり地味で、かなり奇跡的な証明書なんだよな。

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