奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

1970年、看護婦が見つけた緑色の尿――「うつる奇病」と呼ばれ、足と光を奪われた一万一千人の十五年

1970年5月、東京・お茶の水にある三楽病院の夜勤帯。当直の看護婦が採尿コップを蛍光灯にかざしたまま、しばらく手を止めていたという話が、この病気の記録には必ず出てくる。中身が緑だった。薄く濁った緑じゃなく、草の汁を絞って落としたような、粘りのある濃い緑。

翌朝も、その次の日も、同じ患者から同じ色の尿が出た。コップの持ち主は、その春から歩けなくなっていた中年の女性である。足の裏に薄い板が一枚貼りついているようだ、そう訴えて入院してきた人だった。緑色なのは尿だけじゃない。舌の上には苔のような膜がびっしりと乗り、便まで抹茶を溶いたような色に染まっていて、家族が見ても明らかに異様だった。

この色が、十五年ももつれ続けた謎を、わずか数か月でほどいてしまう。緑の正体はキノホルムという化学物質だった。腹をこわしたときに飲む、どこの家の薬箱にも入っていたありふれた整腸剤の成分。病院でも薬局でも水を配るみたいに出されていたその薬が、飲んだ人の体の中にたまり、緑色の化合物になって光っていたわけだ。

足の裏にガラスの破片を敷き詰めた床

この病気の始まりは、たいてい腹からきた。急な下痢が何日も止まらず、腸がねじれるような差し込みが繰り返し襲ってきて、食事どころじゃなくなる。町の医院にかかると、白い粉薬か黄色い錠剤が三週間分ほど出された。飲んでも腹はいっこうに落ち着かず、量を増やされることもあったらしい。

やがて足の指先がしびれてくる。正座を崩した直後のあのジンジンした感じが、何時間たっても引かない。しびれは足首まで上がり、ふくらはぎを越え、膝を越えていく。何週間かかけて腰から下が丸ごと他人の肉に置き換わっていく感覚を、患者たちは「上がってくる」という言葉で表現した。

やられたのは、触覚と温痛覚と位置感覚。表面の感覚も、関節や筋肉の位置を体に伝える深部感覚も、同じように鈍っていったと当時の診療記録に残されている。風呂の湯加減がわからないまま足を入れ、やけどをしてから初めて熱かったと気づく患者が、どこの病棟にもいたという。痛みの信号を伝える神経が壊れているのに、痛みだけは勝手に湧いてくるという矛盾が、この病気の中心にある。

へそのあたりまで来た人がいる。胸まで来た人もいる。上がりきったところで止まる人もいれば、そこから一気に力が抜けていく人もいた。感覚が鈍るだけならまだ耐えられた、と語る患者は多い。厄介だったのは、感覚を失ったはずの場所が、同時に狂ったように痛みだすという、理屈に合わない現象が起きること。

ガラスの破片を敷き詰めた床の上を裸足で歩かされている感じ。そう言った人がいる。足の裏にセロファンが一枚貼りついている、濡れた新聞紙を踏み続けている、針金で足首をきつく縛られている。どれも医学書に載っている表現じゃなく、診察室や病室で患者の口からこぼれた言葉を、医師や家族がそのまま書き留めたものだ。

痛みは夜に強くなった。掛け布団の重さが針のように刺さり、足を投げ出しても引っ込めても変わらない。明け方まで一睡もできないまま朝を迎える日が何か月も続いて、体重が十キロ以上落ちた患者も珍しくなかった。痛み止めはほとんど効かない。神経そのものが壊れているのだから、当然といえば当然の話だった。

昭和42年に二十二歳で発症した、ある男性の手記がある。腹の痛みがどんどん強くなって病院へ行ったところ、慢性虫垂炎のようですと言われ、そのまま開腹手術を受けている。腹を切っても痛みは消えなかった。退院後に出された整腸剤を飲み続けるうちに足がしびれ、やがて自力では歩けなくなっている。虫垂炎と誤診されて腹を切られた患者は、この病気ではまるで珍しくない。

つま先が上がらず、畳のへりでつまずく

しびれの次に来るのが脱力だ。およそ半数の患者に下肢の筋力低下があらわれ、歩いている途中で膝が勝手に折れ、何もない廊下で転ぶようになる。つま先が持ち上がらず、畳のへりや玄関の段差で何度もつまずいた。深部の反射が亢進し、足の裏をこするとバビンスキー徴候が出る例もあった。

足の位置がわからなくなるのも、この病気の怖いところだ。目を閉じると自分の脚がどこにあるのか見失ってしまう。暗い廊下では一歩も出せない。だから患者はみな下を向いて歩いた。視線を足元に固定したまま、床があることを目で確かめながら体重を移していく歩き方が身についていく。

杖になり、松葉杖になり、車椅子になった。そこから寝たきりまで行った人もいる。ある重症の患者は、支えがなければ上半身を起こしていることすらできず、足の指を一本も動かせない状態だったと記録されている。若いころは工場で一日中立ち仕事をしていた人が、わずか数年で布団から出られなくなるという落差。

そして目が来た。視力障害はスモン患者のおよそ二割から三割にあらわれている。最初は文字が霞み、物が二つに見え、視野の中心が白く抜けていく。進行の速い人だと数週間で見出しが読めなくなった。全盲まで至ったのは患者全体の五パーセントほどと報告されている。

視力障害の回復には個人差。キノホルムを止めたあとで視野が戻ってきた人がいる一方、二度と光を感じられないまま終わった人もいた。失明した患者の多くは、見えなくなるまでの数週間に自分の目で何が起きているのかを誰からも説明されていない。視力の落ちていく速度に医学の理解がまるで追いついていなかった時期の話だ。

歩けない上に見えない。その二つが同じ体に同時に起きた人が、現実に何百人も存在した。患者会の記録には、両手に松葉杖を突き、目が見えないので誰かに手を引かれて歩く人の姿が書き留めてある。目の見えないのが一番困ります、とその人は短く語ったという。

患者の詠んだ句がいくつか伝わっている。手も足も麻痺して動かず、目も見えず、生ける屍、入院の日は。昭和42年の作だ。もう一つは、もの言うも息することもむなしくて、と始まる。生ける屍という言葉を自分自身に向けて使う人が、当時の病棟には何人もいた。

足の冷えも止まらなかった。真夏でも足首から先が氷のように冷たく、体温計を当てても熱はない。靴下を二枚重ねても変わらなかった。腹の症状で飲み始めた薬のせいで腹の症状がひどくなるという、出口のない輪の中に患者は置かれていた。

まいったのは足だけじゃなく、内臓。尿が出にくくなり、出したいときに出ず、出したくないときに漏れるという状態に苦しんだ人が多い。腸の動きも狂って、便秘と下痢が数日おきに入れ替わるものだから、外出の予定そのものが立てられなくなった。汗のかき方までおかしくなり、上半身だけびっしょり濡れて下半身は乾いたまま、という訴えも記録にある。

舌に生えた緑色の毛

そこへ、例の緑が乗ってくる。

舌の表面に、緑色をした毛のような苔がびっしりと生えた。医学の記録では緑色毛状舌と呼ばれている。歯ブラシでこすっても、うがいを繰り返しても取れない。朝の洗面所で鏡をのぞき、自分の舌を見て声を上げたという患者の話が、手記の中にいくつも書き残されている。

便も緑になった。抹茶を溶かしたような色だった、という手記がある。尿も同じ色に染まる。しかも、その緑が濃い患者ほど神経症状が重いという傾向まであって、現場の医師たちは前から薄々感じ取っていた。異様な徴候に見えたし、実際これが決定的な手がかりになる。

1970年2月7日、緑色毛状舌がこの病気に特有の所見だという報告が出た。3月7日には緑色便と重症度の関連が報告されている。5月に三楽病院で緑色の尿が見つかり、成分の分析が一気に進んだ。それでも6月に入るまで、誰もこの緑が何なのかを言い当てられずにいた。

謎が解けたのは1970年6月30日のことだ。緑色の物質の正体は、キノホルムが体内で三価の鉄とくっついてできたキレート化合物だと、分析によってようやく突き止められた。患者の舌も便も尿も、自分が飲んだ薬そのものの色に染まっていたわけである。体の中に薬が溜まっている証拠が、十五年間ずっと目の前にぶら下がっていた。

緑は、体内に入った証拠。腸から吸収されないはずの薬が、鉄とくっついた化合物になって尿から出てくること自体がおかしい。舌にも便にも尿にも同じ色が出るというのは、薬が腸を通り抜けただけじゃなく全身に回っていた証拠だった。三十年以上も前提を疑わずに使い続けてきた薬が、患者の口の中で自分の正体をさらしていたことになる。

山形から釧路へ、釧路から戸田へ

散発的な発生は1955年ごろから始まっていた。下痢が続いたあとに急に足の感覚がなくなる患者が、あちこちの病院に現れる。カルテに書けるのは原因不明の四文字だけ。当時の医師たちは、脊髄炎なのか、栄養障害なのか、あるいは土地に固有の風土病なのかと迷い続けていた。

1957年、山形市で集団発生が確認された。翌1958年6月、第63回近畿精神神経学会でこの病気が初めて学会に報告される。1958年には大牟田と津でも患者が出た。1963年になると釧路、室蘭、札幌、米沢、徳島と広がっていく。1964年には埼玉県の戸田と蕨で固まって発生した。

新聞は「戸田の奇病」と書いた。釧路で出れば「釧路病」と呼ばれる。地名がそのまま病名になっていくというのは、原因が何ひとつわかっていないことの裏返しでしかない。風土病扱いされた土地では、水が悪いとか土が悪いとかいう噂が先に走った。

戸田や蕨で患者が出たときには、地元で水道を疑う声が出た。荒川の水が悪いという噂が立ち、井戸を自分の手で埋めた家もある。釧路では魚を疑い、米沢では味噌を疑った。原因のわからない病気を前にしたとき、人は自分の生活圏の内側から犯人を探しはじめるものらしい。探した先にいたのは、たいてい隣の家の病人だった。

1964年、研究者たちが英語の頭文字を並べてSMONという名前を付ける。亜急性脊髄視神経症。日本語に直しても、脊髄と視神経がやられる病気だと言っているだけで、なぜそうなるのかは一文字も説明していない名前だった。それでも名前が付いたことで、全国の症例をようやく同じ枠で数えられるようになる。

探された犯人は、ウイルス、農薬、金属。1964年に研究班が置かれてからも、細菌説、ウイルス説、中毒説、栄養障害説が入り乱れて決着がつかない。1969年にスモン調査研究協議会が発足して、ようやく全国の症例を同じ物差しで数える体制ができあがった。それでも1970年の春まで、原因が薬かもしれないという発想そのものが、研究の主流にはならない。

患者数は昭和40年ごろから跳ね上がった。それまで年に百人程度だったものが、年間千人を超える。1967年から1968年がピークだった。最終的に、この十五年で推定一万一千人が罹ったと見積もられている。戦後の日本で、たった一つの原因によってこれだけの人数がまとめて神経をやられた例は、ほかに見当たらない。

1960年から61年にかけて、日本ではポリオが大流行していた。子どもの手足が麻痺していく病気だ。同じ時期に大人が足を麻痺させていくものだから、スモンは「大人のポリオ」と呼ばれるようになる。ポリオはウイルスでうつる。この呼び名が広まったこと自体が、伝染説を強力に後押しする効果を持ってしまった。

同じ家から二人、三人と出た

ここで研究者たちを苦しめたのが、発生のかたよりだった。患者は全国へ均等にばらまかれるのじゃなく、特定の町に固まって出る。しかも、同じ家の中から二人、三人と続けて発病する例がいくつもあった。家族内で発病する間隔は、平均して二か月半ほどと算出されている。

夏に多い。病院の同じ病棟から次々に患者が出た事例もある。1966年には長野県岡谷市で院内の集団発生が起きた。

疫学の教科書どおりに読めば、答えは一つしか浮かばない。伝染する。地域集積と家族内集積と季節性、この三つが揃ってしまえば、どんな医者が見てもその病気は感染症の顔をしている。

集積の象徴になったのが岡山県の井原地区だ。昭和45年末の時点で、井原市186名、芳井町60名、笠岡市9名、矢掛町3名という患者数が記録されている。死亡者は井原市で16名、芳井町で3名。人口十万人あたりの罹患率は、昭和43年に172という数字を叩き出した。

町の規模を考えれば、異常な密度だった。井原は「恐怖の町」と呼ばれるようになる。隣の家にも、向かいの家にも、歩けなくなった人がいる。そういう路地がいくつもできた。役場の衛生課が前の月の分を把握しきれないうちに、新しい患者が次の月にまた何人も出てきてしまう。

患者はほぼ全員が井原市民病院に集まった。調査対象になった確実なスモン患者78人のうち25人は、別の病気でこの病院に通うか入院している最中に発症している。全体の三分の一だ。そのうち20人は、消化器の病気で受診していた人たちだった。

腹が痛くて病院に行った人が、その病院で足を失った。今の言葉で整理すればそうなる。当時は誰もそう考えていない。病院に患者が集まるのは当たり前だと思われていたし、むしろ院内感染を疑う材料として読まれた。

新患の増え方もすさまじい。昭和42年は井原市民だけで30名前後、前年のおよそ三倍になった。昭和43年がピークで、昭和44年は6月までの半年だけで54名という新患が市の衛生課に把握されるところまで来ていた。ところが同じ年の7月以降、新患は7名まで急減する。何かが変わったのは明らかだった。

理由は後から判明する。井原市民病院へのキノホルム納入は昭和41年2月に始まり、昭和42年には年間17.8キロまで増えていた。エマホルムを1日1.5グラム、17日分といった処方の記録も残る。病院が使い方を絞った時期と、新患が消えた時期がぴたりと重なっていた。

原因は、処方箋の書き方。井原市民病院では、下痢や腹痛を訴える患者に対してキノホルム剤を長期間まとめて出す習慣があった。一日1.5グラムを十七日分という処方は、当時の薬局方が示した常用量の倍以上に当たる量になる。症状に応じて増やして差し支えない、という但し書きが、現場では上限なしの許可として読まれていた。

地域集積の正体は、風土でも井戸水でも虫でもない。その町の病院が、その薬を好んで大量に使っていた。ただそれだけの話だった。同じ薬箱を共有する家族が続けて倒れるのも、同じ理屈で説明がつく。答えが出てしまえば、これ以上単純な構図はなかった。

「伝染病とほぼわかる」と新聞が書いた

1966年、朝日新聞が紙面にこう打った。全国流行の奇病スモン病、伝染病とほぼわかる。

見出しが、その後の十年を決めてしまう。患者はその日から病人じゃなく、感染源として扱われるようになった。読者の頭に残るのは一行だけだ。あの病気はうつる。研究の途中経過だという但し書きは、茶の間に届くころには消えていた。

研究者に悪意があったわけじゃない。1966年には久留米大学から、患者からエコー21型ウイルスを検出したという報告まで出ていて、話はさらに固まった。当時の知見で感染症を疑うのは、まったく筋の通った判断だった。問題になったのは、まだ疑いの段階でしかない説が新聞の大きな見出しになり、患者の家の前を毎日毎日通り過ぎていったことのほうだ。

訂正記事は、社会面の片隅。伝染病とほぼわかる、という一面の見出しと比べたとき、その扱いはあまりにも小さいものでしかない。いったん人の頭に入り込んだ情報は、同じ大きさの訂正が同じ場所に出ないかぎり書き換わらないという現実がある。報道がこの十数年で患者の生活に与えた損害は、賠償の対象にも和解の対象にもならないまま、誰にも計算されずに今日まで来ている。

保健所の職員が防疫服で家にやって来た。便所に消毒薬を撒かれ、井戸に石灰を投げ込まれた家もある。しかも、それを近所の人が全員見ている前でやられた。

家の前に止まる、白い消毒車。伝染病の疑いがあると判断されれば、保健所は法令どおりに動く。家族全員の検便を求め、周囲の家にも注意を呼びかけた。

手順そのものは当時の法令に沿ったもので、担当した職員の側に落ち度があったわけでもなかった。ただ、その一連の作業を路地の人間が全員見ているという点までは、誰も計算に入れていない。翌日から回覧板が回ってこなくなり、魚屋の荷車が路地の手前で止まるようになる。

理髪店で断られた、銭湯で客が出ていった、旅館で部屋を替えられた。患者会の聞き書きには、この種の話が数えきれないほど並ぶ。どれも法律には触れない。触れないから記録にも残らず、被害として数えられることもなかった。当時の日本に、そうした差別を拾い上げる制度はまだ存在しない。

隔離病棟に入れられた患者もいた。井原では、患者が隔離病棟に移されたあと、仲の良かった友達が見舞いに来なくなったという証言が残っている。病室の窓から手を振っても、誰も手を振り返してくれない。壁の向こうに町があるのに、そこへは戻れない。

巻き添えになったのは家族全員。患者の夫や妻が勤め先で気まずくなり、子どもが学校で孤立し、親戚付き合いが切れていった家が各地にある。介護のために誰かが仕事を辞めれば、そこから一家の収入が半分になるという計算も付いて回った。病気が治らないうえに世間が敵へ回るという二重の圧力が、十年以上ものあいだ続いた。

この時期に何が起きたのかについては、のちに当のウイルス学者自身が短い文章として書き残している。スモンのウイルス説は患者の心に深い爪跡を残し、何人かの自殺者を生んだ。そういう趣旨の文章だった。患者団体が集めた記録では、この十五年のあいだに自ら命を絶った患者は五百人を超えるという数字が使われている。

数字の精度については、今も議論がある。届け出のない死も多く、正確な集計はもともと不可能だった。ただ、当事者たちがこの被害をそれくらいの規模のものとして受け止め、いまも語り継いできたのは確かだ。病気そのものより社会のほうが重かった、という言い方をする患者が何人もいる。

自ら命を絶った患者の話は、患者団体の資料に断片としてしか出てこない。詳しい経緯を書き残せば残された家族がもう一度傷つく、という判断が編集の段階で働いたからだ。書かれているのは、亡くなった日付と、その人が最後に参加した集まりの名前くらい。差別が人を追い詰めたという記録だけが、短い行になって残された。

風呂敷包みを持ってきた婚約者の母

差別の話は、統計より一軒の家の話のほうが伝わる。患者団体の手記や聞き書きに残る語りを、名前を伏せて再話しておく。

北関東のある町に、二十三歳の女性がいた。紡績工場で糸を扱う仕事をしていて、同じ工場で働く男性と婚約していた。式場も押さえてあり、着物の仕立ても終わっている。その年の春から下痢が止まらなくなり、工場の診療所でもらった白い粉薬を三週間ほど飲み続けたと書かれている。

足の指がしびれ始めたのは、ちょうどその薬が切れたころだった。夏には杖なしで歩けなくなり、秋には工場を辞めている。医者は病名を告げなかった。正確に言えば、告げられるだけの材料を誰も持っていない。

秋のある日、婚約者の母親が風呂敷包みを持って家にやって来た。中身は納めたはずの結納の品だ。母親はその包みを玄関の三和土に置くと、畳には一度も上がらないまま、背中を向けて帰っていった。うつる病気だと聞きました、という一言だけを残して。

女性は、式のために誂えた着物を生涯たんすから出さなかった。四十年以上たってから、患者会の集まりで初めてその話を人前でしている。話し終えるまでに一時間かかったという。婚約者本人がどう思っていたのかは、最後までわからずじまいだった。

彼女はそこを聞かなかった。聞いてしまえば、相手も断りきれずに一生を棒に振る。そう考えたのだと、同じ会にいた別の患者が書き残している。三和土に置かれた風呂敷の色まで覚えていた、というくだりが、その手記の最後に一行だけ添えてあった。

門の外で突き返された履歴書

二つめは、北陸の町工場で旋盤を回していた男性の話だ。

彼が発病したのは四十歳のときだった。腹をこわして半年、足先の感覚が完全に消えている。工場は最初、休職の扱いにしてくれた。

ところが三か月後、組合の人間が家に来て畳に手をついた。ほかの工員が、あんたと同じ便所を使いたがらない。そう言われたという。

退職届を書いた。しびれた指でペンが滑り、自分の名前を二度書き直している。工場は見舞金を包んでくれたが、それを受け取ったあと、彼は二度と工場の前の道を通らなくなった。

半年ほどで少し歩けるようになり、別の工場へ履歴書を持っていった。門のところで守衛に止められる。事務所まで届けてくれるものと思って待っていたら、守衛は五分で戻ってきて、封筒をそのまま突き返した。理由は何も言われなかった。

町は狭い。あの家は奇病だ、という話はもう回りきっていた。住み込みの寮がある工場ほど、感染を恐れる理屈は強く働く。就職を断られた患者の記録は各地に残っていて、断り文句はたいてい「いまは人が足りている」だった。

その後、彼は自宅の土間で内職を始める。ラジオの部品を組む仕事だった。感覚のない指で小さなネジをつまむのに、ひとつ三十秒かかる。朝から晩までやって、稼ぎが百円に届かない日もあった。それでも彼は、家に金を入れないことのほうがよほど怖かったのだと後年語っている。

患者が勤め先を失う速度は、記録を読むかぎり異様に速い。休職の扱いが三か月、そこから退職勧奨までが半年というのが、当時の記録によく出てくる流れになっている。書類に記される理由は体調不良。本当の理由は、同僚が同じ湯呑みを使いたがらないことだったりする。労働組合が患者の側に立った例は、ほとんど見当たらない。

教室の机が、少しずつ列から外れていく

三つめは、患者本人じゃなく、その子どもの話になる。

母親が発病したのは、息子が小学四年生のときだった。母は入院し、病名のわからないまま病棟のいちばん奥の部屋へ移されている。学校ではすぐに噂が回った。あいつの母ちゃんの病気はうつるらしい。子どもは大人の会話を、驚くほど正確に覚えて持ってくる。

最初に変わったのは給食の班。そのあと掃除の組が変わり、席替えのたびに彼の机だけが少しずつ窓側へ寄せられ、列から離れていった。気づいたときには、机が列から半分ずれた位置に置かれていた。誰も口に出して排除したわけではない。ただ、机を元の位置に戻す理由を、担任も持っていなかった。

彼は体育を休むようになり、やがて学校へ行かなくなる。母が退院したのは一年半後だった。歩行器を押して玄関に入ってきた母を見ても、彼は泣かなかったという。泣く時期はとっくに過ぎていた、というのが本人の言葉だ。

別の家の記録も短く残っている。一人しかいない兄弟にも、嫁にも、再起不能の病気だと愛想をつかされた。一家はばらばらになり、妻は子ども二人を家に残して出ていき、離婚になった。手記にはそれだけが書いてある。文章はそこで終わり、あとは空白だった。

患者の子どもが受けた被害は、統計にほとんど残っていない。進学をあきらめた、縁談が流れた、名字を変えた。そういう話が患者会の集まりでぽつぽつ出てくるようになったのは、和解から二十年も三十年もたってからのことだ。

1970年2月、ウイルスが「見つかった」

差別がいちばん濃くなったのは、皮肉なことに原因究明の直前だった。

1970年2月、京都大学のウイルス研究所からウイルス原因説が専門誌に出る。患者の糞便から原因となるウイルスを検出した、という内容だった。新聞はこれを大きく扱っている。研究の世界では仮説の提示にすぎなかったものが、社会ではスモンはうつるという結論として流通した。

このあと各地の研究室で追試が試みられたものの、同じウイルスはどこの研究室からも出てこなかった。学説としては比較的早い段階で行き詰まっている。ところが、この説は法廷で長く生き延びた。裁判の被告になった製薬会社の一社が、因果関係を否定する材料としてウイルス説を使い続けたからだ。

追試に成功した研究室は、ゼロ。糞便から取り出したというウイルスは、別の患者からも健康な人からも同じようには出てこない。学問の世界なら、再現されない時点で仮説はいったん棚に戻されるだけの話で、それ以上は誰も相手にしない。ところが社会へ出ていった仮説は棚に戻らず、患者の家の前にそのまま居座り続けた。

後年、同じウイルス学の分野から厳しい批判が出ている。あの説は一製薬企業の法廷戦術に利用された、という言い方だった。説を立てた研究者を責めれば済む話ではない。ただ患者の側から見れば、自分を村八分に追い込んだ学説が、法廷でもう一度自分を刺しに来たことになる。

仮説が新聞の一面に載るときの怖さを、この事件ほど見せつけた例もない。研究者は仮説として出す。新聞は結論として書く。

読者は噂として広める。噂は制度を持たないから、いったん走り出すと誰にも止められない。訂正記事が出たところで、いちど離れていった近所の人は戻ってこなかった。

新潟から来た教授が、171人の薬袋を並べた

流れを変えたのは、新潟大学の椿忠雄という神経内科の医師だ。

椿は感染症の線を追わなかった。代わりに、患者が何を飲んでいたかを一人ずつ潰していく方法を取る。六つの病院、171名のスモン患者。その全員の内服薬を洗い出した。地味で、時間がかかり、派手さのかけらもない作業だった。

調べたのは、患者の薬袋の中身。何をいつ何グラム飲んだのか、その三点を患者全員分そろえて並べ直すだけの、単純きわまりない作業だ。あまりに単純な方法だったからこそ、ウイルスを追いかけていた大勢の研究者たちの誰にも思いつかれないまま残されていた。疫学という手法は原因物質を顕微鏡で直接のぞかなくても犯人を指し示せるのだと、この仕事は日本中に見せつけた。

結果は身も蓋もない。171例のうち166例がキノホルムを飲んでいる。割合にして97パーセント。ほかの薬はどれだけ多く見積もっても五割止まりで、キノホルムほど極端に偏って出てくる薬はひとつもない。

しかも、きれいな規則性がある。発病前の10日から40日のあいだに服用しており、総量で10グラムから50グラムを飲んだあたりで発病する例が多い。一日の量が多い人ほど、発病までの期間が短かった。体重1キロあたり61から90ミリグラムを飲んだ群は、平均19.9日で発病している。

11から20ミリグラムの群は平均80.0日だった。教科書に載せられるほど素直な用量反応関係が出ている。毒物の証明として、これ以上わかりやすい形はない。伝染病なら、こんな曲線は絶対に描かれない。

1970年8月6日、椿は厚生省に警告を出した。9月7日、中央薬事審議会に諮問が行われる。翌9月8日、キノホルム剤の販売が停止された。最初の報告から一か月と少し。十五年動かなかった行政が、このときだけは異様な速さで動いている。

そして、患者の発生が止まった。

1970年の年間発生数はおよそ350人。1971年以降は数えるほどになり、やがてゼロになった。

棚から、いっせいに消えた薬。1970年9月8日の販売停止を受けて、全国の薬局と病院からキノホルム製剤が引き上げられていった。市販薬だけで170種類もあった薬なので、それぞれの家の薬箱に残ったぶんまでは手が回らなかった。それでも新しい患者の発生は、その年の秋を境に坂道を転げ落ちるみたいに減り、翌年にはほぼ見られなくなる。

十五年にわたって毎年何百人、何千人と生まれ続けた病気が、薬を棚から下ろしただけで消えてしまう。因果関係の証明として、これ以上の実験はできない。1972年3月、スモン調査研究協議会が正式に結論を公表した。スモンの原因はキノホルムである。

椿の調査が優れていたのは、患者の側からではなく薬の側から集団を切ったところにある。同じ病院にかかっていても、キノホルムを飲んでいない人は発病していない。飲んだ量が多い人ほど早く倒れる。この二つが同時に成り立つ病気は、感染症ではありえない。疫学の力がもっともきれいに出た仕事だった。

1899年、スイスで作られた傷薬

では、なぜ十五年も気づかれなかったのか。

キノホルムが生まれたのは1899年のスイスだった。作られた当初は、皮膚につける殺菌消毒薬でしかない。傷口に振りかける粉だ。飲むものとしては誰も考えていなかった。

1920年代に入って、ある考え方が広まる。この薬は腸から体内に吸収されない。だから腸の中だけで殺菌して、そのまま便と一緒に出ていく。吸収されないなら毒性も出ようがない。その理屈で、外用薬が内服薬に転用された。

1933年にアメーバ赤痢への効果が報告され、1934年には乳化剤を配合した経口用の製剤が市販される。腸の中だけで働いて体には入らない薬、という触れ込みは、誰にも検証されないまま三十年以上生き延びる。

この前提が、あとからそっくりひっくり返る。実際には腸からしっかり吸収され、血流に乗って神経にまで届いていた。吸収されないという一行の思い込みが、そのまま十五年ぶんの被害を作ったことになる。

毒が効くのは、いちばん長い神経。キノホルムは神経細胞の中にあるミトコンドリアを壊して、エネルギーを作る働きそのものを止めてしまう。細胞の端まで栄養を送れなくなるので、体の中でもっとも長い足の神経が先にやられる理屈になる。症状が足の指先から始まって腰のほうへ上がっていく理由は、この一点だけできれいに説明がつく。

警告はちゃんと出ていた。1935年、アルゼンチンでスモンらしき症例の報告が出ている。同じ年、スイスはキノホルムを劇薬に指定した。ヨーロッパの側には、キノホルムの神経毒性を疑う目が戦前の段階からすでに存在していたことになる。

日本はその四年後、1939年に劇薬の指定を取り消している。理由は安全性の再検討じゃない。必要だったから外した、というのが正直なところだ。この一手が、戦後の大量流通への扉を開けてしまった。

外した理由は、戦争。軍隊にとって赤痢やアメーバ赤痢は部隊を丸ごと止めてしまう敵で、腸の薬は弾薬と同じくらい重く扱われていた。劇薬のままでは前線へ大量に送り出しにくいという事情があり、指定はあっさり外れている。戦後の増産は、この解除された状態からそのまま滑り出した。二十年後に一万人分の被害として返ってくるとは、当時の誰も考えていない。

国民皆保険が、薬を水のように流した

戦後、1953年から日本チバガイギー、武田薬品工業、田辺製薬の三社がキノホルム製剤を大量に製造し、販売を始める。1954年の日本薬局方は常用量を一日0.6グラムと定めた。ところが、症状に応じて増やして差し支えない、という但し書きが付いている。この一行がのちに効いてくる。

1961年、国民皆保険制度が始まった。誰でも保険証一枚で医者にかかれる時代が来る。同時に、処方される薬の量が一気に跳ね上がった。薬価差益という言葉が、業界の外でも普通に使われていた時代だ。

薬を出すほど、増える収入。当時の診療報酬の仕組みは、医療機関が薬を多く出せば出すほど手元に利益が残るようにできていた。腹が痛いと言えば整腸剤が出て、念のためという理由だけで、処方の日数が二週間にも三週間にも延びていく。患者の側にも、たくさん薬を出してくれる医者ほどいい医者だという感覚が、はっきりと存在していた。

医者に行けば、必ず何かの薬を持たされて帰る。手ぶらで帰されると患者のほうが不満を言った。旅行に行くなら持っていきなさい、夏場は予防のつもりで飲みなさいと、医者のほうから勧めることもあったらしい。1962年のエンテロ・ヴィオフォルムの生産販売量は、戦前と比べて220倍を超えている。

薬箱の定位置にあった黄色い錠剤。夏場の食あたりに備えて常備する家が多く、旅行の前には念のために鞄へ入れる薬でもあった。子どもが腹をこわせば親が当たり前のように飲ませたし、大人は二日酔いの朝に気付け薬のような感覚で飲むこともあったらしい。長く使われてきた薬は安全に決まっているという思い込みが、業界にも役所にも家庭にも行き渡っていた。

市販薬だけでも、キノホルムを含む製剤は170種類あった。エンテロ・ヴィオフォルム、エマホルム、キノホルム錠。名前が違っても中身は同じもので、患者は別の薬だと思いながら同じ毒を重ねていた。誰も疑わない薬は、誰も調べない。

いちばん重くなったのは、腹の症状で飲み始めた人たちだった。キノホルムが腹の症状を悪化させる。悪くなったからもっと飲む。飲むから神経がやられる。この輪に入った患者は、総量が数十グラムに達するまで薬を飲み続けることになった。

服用した人のうちスモンを発症したのは1から4パーセントと見積もられている。裏を返せば、九割以上の人は何ごともなく飲み終えていた。だから薬が原因だとは思いつかない。同じ家族が同じ薬箱から飲めば家族内発生の形になり、同じ病院が好んで処方すればそれが地域集積の形になる。伝染に見えた現象は、これで全部説明がつく。

副作用を届け出る先が、どこにもなかった

当時の薬事行政の骨組みを見ておく必要がある。

承認の話から始めよう。医薬品の承認基準は法律ではっきりと決まっておらず、実務のほうは通知と行政指導だけで動いていた。申請に必要な資料の中身も、その時々の運用で変わる。何をどこまで出せば通るのかが、条文を読んでもわからない状態だった。

頼りにされたのは、前例と通知。似たような薬が前に通っているなら今回も通る、という運用が現場の常識になっていた。戦前から使われてきた薬に至っては、有効性も安全性も近代的な審査を一度も受けないまま、何十年も棚に並び続けていた。キノホルムもその一つで、1899年生まれの薬が1970年まで無審査で走り続けたことになる。

副作用の扱いはもっとひどい。医薬品の副作用情報を集めて医療現場へ提供するための規定が、法律のどこにも整備されていなかった。医師が現場で異常に気づいても、届け出る先がない。義務もない。だから異常の記録は各地の病院のカルテの中で孤立したまま、ほかの症例と突き合わされることもなく眠っていた。

再評価の制度も存在しない。昔から使われている薬の安全性を、その時代の知見でもう一度検証し直す仕組みが、まったく用意されていない。一度承認を通った薬は、通ったまま何十年でも棚に残り続ける。キノホルムのように戦前から使われてきた薬は、そもそも近代的な審査を受けていない。

1964年には研究班が組織されていた。それでも成果は出ない。原因の特定まで十五年以上かかった裏側には、承認と副作用と再評価という三つの穴が揃って開いていた。制度が見つけられないものを、個々の医師の勘に頼って探していたようなものだ。

製薬企業と国の距離は、とにかく近い。役所の側には、長く売られてきた薬をいまさら疑い直すための人員も予算も用意されていなかった。企業から出てくる資料を、役所がそのまま読むしかない構造になる。

距離が近すぎた両者。審議会の委員が企業から研究費を受け取っているという関係が、当時はごく普通に存在した。危ないかもしれないと言い出す側には、研究費も人脈も失うという実際の代償が待っている。安全性への疑いを口にするコストが構造的にここまで高く設定されていれば、結局のところ誰も最初の一言を言い出さない。裁判の過程では、企業が海外の毒性情報を把握しながら添付文書に反映していなかった点が問題になる。

キノホルムによる被害は、なぜか日本に極端に集中した。海外にも症例の報告はあるものの、桁が二つ違う。一日あたりの使用量が多かったこと、長期に出す処方が当たり前だったこと、市販薬として自由に買えたこと。この三つが同時に重なった国は、ほかにない。スウェーデンの医師たちが早くから神経毒性の危険を指摘していたことも、のちに知られるようになる。

通路に十日間、座り込んだ

患者たちが動き始めたのは、原因がわかるよりも前だった。

1967年6月、山形県米沢市で最初の患者組織ができる。1969年11月には全国スモンの会が発足した。1974年3月31日には、スモンの会全国連絡協議会が正式に結成された。略してス全協と呼ばれた組織だ。

割れた理由は、訴訟の進め方。1969年に全国スモンの会ができたあと、方針の違いから患者団体はいったん割れている。和解を急ぐのか判決まで争うのかという対立は、その後の薬害訴訟でも必ずと言っていいほど起きた。ス全協の結成は、いったん割れてしまった患者団体をもう一度つなぎ直すための、ずいぶん骨の折れる作業でもあった。

設立趣意書に掲げたのは五つの原則。自主、民主、公開、扶け合い、奉仕の五つだ。全国統一要求の達成、潜在患者の掘り起こし、分散した訴訟の統一的な推進。薬事と医療行政の改革も、ここから活動の柱になった。機関誌を出し、弁護団や研究者、医療関係者との連携も広げている。

交渉は激しかった。製薬会社の社屋では、トイレもエアコンもない通路に十日以上にわたって座り込みを続けたという記録が残る。十二月の師走の寒さのなか、手足のしびれと冷感に苛まれながら、患者たちはそこを動かなかった。

厚生省の前には千人規模の座り込みを十一回。歩けない人が、歩けない体のまま霞が関に集まってくる。座り込みの合間に要求書を読み上げ、交渉が始まればまた廊下で何時間も待たされた。

厚生省前を埋めた、車椅子と松葉杖。千人規模の座り込みを十一回繰り返すというのは、健康な人間にとっても相当にきつい行動になる。しびれと冷えを抱えた体で冬のアスファルトに座るという選択が、どれほどのものか想像しにくい。全国から届いた「ノーモア・スモン」という文面の電報は、座り込みの現場でそのつど読み上げられ、手から手へ回されていったらしい。

1972年9月16日、厚生省はスモンを含む八つの病気について研究班を置いた。ここから難病対策要綱が生まれる。原因不明で治療法が確立せず、経済的にも精神的にも負担の重い病気を国が引き受ける、という枠組みだ。日本の難病行政は、スモンをきっかけにして形になったと言っていい。

投薬証明書という壁

訴訟は1971年5月、東京地裁への提訴で始まった。1972年12月からは全国11の地域へ広がり、1981年1月の時点では32もの地方裁判所に及んでいた。原告となった患者はおよそ六千名。当時、戦後最大の薬害集団訴訟と呼ばれた。

原告になるには、二つのことを自分で証明しなければならなかった。ひとつは、自分がスモンであること。もうひとつは、キノホルムを飲んだことだ。

後者が重かった。十年以上も前に、どこの医院で、何という薬を、何グラム出されたのか。それを示す投薬証明書を、患者自身が歩いて集めて回る必要がある。カルテを捨ててしまった医院があり、廃業した医院があり、証明書を書けば自分も訴えられると考えて断る医師もいた。

歩けない患者が、その医院を一軒ずつ訪ねた。断られては次を探す。家族が代わりに回る家もあった。被害者のほうが自分の原告適格を立証しなければならないという構図そのものが、すでに理不尽だった。

必要だったのは、十年前の一枚の紙。カルテの保存義務は当時も五年しかなく、十年前の記録が手元に残っている医院のほうがむしろ少なかった。焼けた、捨てた、覚えていない。そう言われて引き返すしかない日が、しびれた足の患者に何度も何度も続いている。門前払いにされた話は、各地の支部誌に残る。

スモンかどうかの判定にも壁がある。東京地裁では被告側の要望によって研究者による鑑定団が組まれ、鑑定方式で患者認定が行われた。医学の議論が法廷に持ち込まれ、一人ひとりの身体が争点になる。自分の足のしびれを他人に測られる日々が、何年も続いた。

症度の区分も、訴訟の中で行われた鑑定によって決まった。I、II、IIIの三段階があり、IIIの中がさらに重症、超重症、超々重症へと分かれる。この分類が、四十年以上たった今も毎月の給付額を決めている。鑑定を受けた日の身体の状態が、その後の人生の全部を規定してしまう仕組みでもあった。

金沢地裁、1978年3月1日

最初の判決は金沢で出た。1978年3月1日、原告勝訴。全国で初の勝訴判決だった。

同じ年の8月3日、東京地裁が因果関係を認める判決を出す。11月14日には福岡地裁が、国の法的責任を明確に認める全面勝訴の判決を言い渡した。判決は金沢、東京、福岡、広島、京都、静岡と続いていく。どの法廷でも、原告側の主張の骨格は崩れなかった。

判決が組み立てた論理は、おおむね次のような形になる。

製薬企業は、医薬品を製造して売る以上、その時点で得られる最高水準の知見を使って安全性を確かめる義務を負う。外国で毒性の報告が出ていたのに調べなかった。調べていれば危険は予見できたし、予見できていれば結果は避けられた。だから過失がある、という筋だ。

国の責任はもう一段むずかしい。判決は、薬事法が国民の生命と健康を守るための法律だと読み込んだ。承認の権限と規制の権限を持っている以上、危険を知りうる立場にありながら放置したなら責任を免れない。権限を持ちながら使わなかったことが違法になる、という構成である。

この考え方は、のちの薬害訴訟すべての土台になった。福岡地裁の判決文は、原告の主張を「薬害根絶」という言葉で受け止めている。安全だと信じて飲んだ薬が毒だった、その悲しみから出てきた叫びだ、と書いた。判決文が被害者の道義性に言及するのは、当時としてもかなり踏み込んだ書きぶりだった。

問われたのは、使わなかった権限。国が何かをしたから被害が出たのじゃなく、できたはずのことをしなかったから被害が出た、という責任の立て方になる。作為ではなく不作為を裁くという枠組みは、当時の行政法ではまだ新しいものだった。この規制権限の不行使という枠組みが、のちの薬害訴訟や公害訴訟の土台として使われていく。

田辺製薬は最後までウイルス説に立って因果関係を争い、敗訴に追い込まれている。日本チバガイギーと武田薬品工業は、それより早く和解へ動いた。1977年10月29日に東京地裁で初の和解が成立し、1978年1月21日には岡山地裁で二例目が成立している。

午前四時の確認書

全面解決の日付は1979年9月15日だ。

前夜から続いた交渉が明け方までもつれ、調印を迎えたのは午前四時だった。当時の厚生大臣、橋本龍太郎が陳謝する。全国から集まった患者およそ二百人を前に、大臣は頭を下げた。製薬三社の社長は、その場に姿を見せていない。

確認書が定めたのは金の話だけじゃない。今後の恒久対策について国と協議を続けること、被害者の救済を継続すること。文書は、終わりを宣言するのじゃなく、続きを約束する形で書かれている。

約束されたのは、金と、その先。確認書が書いたのは賠償の額だけじゃなく、被害者の生活をこの先どう支えるかという中身だった。手当も介護費用も医療費の公費負担も毎年の検診も、すべてこの確認書から枝分かれして生まれている。国と企業に、その後何十年も続く事務と支出を引き受けさせた点が、この一枚のいちばん重いところだ。

和解は最終的に6,491名との間で成立している。提訴した原告は全国27の地裁で4,819人。和解の枠が訴訟外へ広がった結果、人数が逆転した。一時金は420万円から4,700万円まで、症度によって大きな幅がある。これに弁護士費用が加わった。

金額の桁を並べてみればわかるとおり、重症者の人生は金では埋まらない。二十代で歩けなくなり、目が見えなくなり、結婚も仕事も奪われた人に、四千七百万円で足りるはずがない。それでも、当時の日本で企業の責任と国家の責任が法廷で並んで認められた例はほかになかった。

緑色の手帳と、毎月の手当

この薬害の特徴は、和解で終わらせなかったところにある。

健康管理手当が作られた。製薬企業が全額を負担し、和解の成立した患者へ毎月支払われる仕組みだ。2026年時点の額は月48,700円で、症度I、II、IIIの患者が対象になる。

介護費用も段階が分かれた。症度IIIの重症者には月48,880円という限度額。超重症者は月106,100円、超々重症者は月176,500円まで出る。

支払い業務は1979年12月から続いている。製薬企業の委託を受けた機関が、いまも毎月振り込みを行う。症度の区分はスモン訴訟における鑑定によって決まったもので、そこから動かない。四十年以上前の鑑定結果が、そのまま現在の給付を規定していることになる。

はり、きゅう、マッサージについては、月七回までの補助が出る。神経の痛みに現代医学の打つ手が乏しい以上、これは治療というより実質的な生活支援でもあった。温泉やプールの利用を助成する自治体もある。

医療費の全額公費負担が始まったのは昭和48年度からだった。特定疾患治療研究事業の対象になり、窓口の自己負担が消える。訴訟が決着するより六年も前に、この部分だけが先に動いている。全国で座り込みを繰り返した成果であり、判決を待たずに行政が譲った数少ない例でもあった。

検診も毎年続いている。1977年度から2018年度までの検診データベースには、延べ32,711人、実人数3,857人が登録された。患者はスモン手帳を持ち、介護保険の申請時にはその提示が勧められる。スモン特有の症状を知らない調査員が要介護度を低く見積もってしまう事故を防ぐためだ。

一度きりの賠償じゃなく、生きているあいだずっと続く仕組み。訴訟の成果としては、賠償金よりもこちらのほうがはるかに大きい。恒久対策という言葉が日本の薬害救済に定着したのは、スモンからだった。

ス全協が集めた資料は、法政大学の環境アーカイブズに預けられている。総数で87箱、403ファイル、1万259点。座り込みのビラ、投薬証明書の控え、手書きの機関誌、大臣あての要望書。報道関係者や被害者の家族が、いまも閲覧に訪れる。被害の記録を自分たちの手で残しきった患者団体は、当時ほかになかった。

1979年、救済の仕組みが生まれた

同じ1979年、薬事法が改正される。

承認の基準が法律で明確になった。承認申請に必要な資料の中身も条文に書き込まれる。新薬は原則として六年後に再審査を受けることになり、既存の薬を見直す再評価制度も法制化された。キノホルムのような古い薬が素通りする穴が、ここでようやく塞がれた。

臨床試験についての規定も、ここで整備されている。治験依頼の基準、GCP、治験の届出制度。製造と品質管理についてのGMPも法律に入る。副作用情報を収集して報告する義務が課され、緊急時には厚生大臣が緊急命令を出せるようになった。使用期限の表示、添付文書への禁忌と副作用の記載も義務づけられている。

十五年かけてスモンが暴いた穴が、一つずつ埋められていった格好になる。スモン以前の日本には、薬の安全性を継続的に監視するという発想自体がほとんどなかった。

1979年10月、医薬品副作用被害救済基金が設立された。翌1980年から医薬品副作用被害救済制度が動き出す。適正に使った医薬品で重い健康被害が出た場合、裁判を起こさなくても給付が受けられる仕組みだ。原資は製薬企業から集めた拠出金になっている。

法廷で因果関係を立証しきれない人を、制度の側で拾い上げる。この発想を作らせたのは、スモンとサリドマイドの被害者たちだった。2004年4月からは、生物由来製品による感染被害の救済制度も別枠で設けられている。現在この業務を担うのは医薬品医療機器総合機構、いわゆるPMDAだ。

サリドマイドの次、薬害エイズの前

日本の薬害史を並べると、スモンはちょうど真ん中に立っている。

先にサリドマイドがあった。1960年前後、睡眠薬や胃腸薬として売られた成分が、妊婦を経由して胎児の四肢に重い障害を残す。西ドイツで警告が出たあとも日本では販売が続き、回収が始まるまで九か月以上かかった。海外の警告に反応できない体質は、このときすでに露呈している。

スモンはその直後に来た。規模はサリドマイドを大きく上回り、国の責任と企業の責任を法廷で並べて問う形を初めて作っている。以後の薬害訴訟は、ほぼこの型をなぞることになった。

1980年代には薬害エイズが起きる。非加熱の血液製剤を通じてHIVに感染した血友病患者が千人を超えた。加熱製剤の承認が遅れたこと、危険な在庫が回収されなかったことが問われている。1990年代から表に出た薬害肝炎は、血液製剤によるC型肝炎の集団感染だった。

薬害ヤコブ病もある。脳外科の手術で使われた乾燥硬膜を通じてクロイツフェルト・ヤコブ病を発症した事件で、国と企業を相手に訴訟が起きた。どれも構図がよく似ている。海外で危険が報告される。

国内では使われ続ける。被害者が声を上げる。十年前後かけて訴訟になり、和解に至る。

薬害肝炎では、国と製薬企業の責任を認める判決が続いたあと、2008年に被害者救済の特別措置法が作られた。薬害ヤコブ病の和解は2002年。薬害エイズの和解は1996年。スモンの1979年から並べていくと、二十年以上にわたって同じことが形を変えて繰り返されている。

薬害エイズへの反省から、1999年8月24日、厚生省の庁舎正面に石碑が建てられた。誓いの碑と呼ばれている。刻まれた文字はこうだ。

命の尊さを心に刻み、と碑文は始まる。サリドマイド、スモン、HIV感染のような医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう。医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことを、ここに誓う。

碑が建った翌年、2000年から毎年8月24日が薬害根絶デーになった。碑の前に被害者と支援者が集まり、厚生労働省に要望書を出す。スモンの患者も車椅子で来る。碑に刻まれた三つの被害のうち、生き残っている当事者がいちばん高齢なのがスモンだ。

中学三年の教室で配られる冊子

学校教育にも入った。

厚生労働省が作った中学生向けの副教材がある。題は「薬害を学ぼう」。全国の中学三年生に配られ、公民の授業で使われている。教材の原型は、ある中学校の社会科教員が作ったワークシートだった。

制作の過程でいちばん議論になったのは、薬害という言葉の中身をどう説明するかだった。副作用と薬害は同じではない。避けようのなかった不運と、避けられたのに避けなかった被害は違う。そこを十四歳、十五歳にどう伝えるか。研究者と被害者と役所が、何年もかけて詰めている。

教材にはスモンが載っている。整腸剤を飲んだ人が歩けなくなり、目が見えなくなり、うつると言われて近所から切り離されたこと。それが遠い昔の話ではないこと。授業のワークシートには、薬を作る側、許可する側、使う側のそれぞれに何ができたかを考えさせる欄がある。

被害者が語り部として教室に来ることもある。松葉杖や車椅子で入ってきた人が、自分の足の裏の感覚を中学生に説明する。触ってもわからないんだ、と言って実際に触らせることもあるらしい。語り部の多くは、もう八十を超えている。

語り部として学校へ呼ばれた患者が、いちばん困るのは質問の時間だという。中学生はまっすぐに聞いてくる。どうして薬を飲んだんですか。

なぜ気づかなかったんですか。悪意のない問いほど答えに詰まる。信じて飲んだ、としか言いようがないからだ。

検診の日、靴下を脱ぐ

患者は今も生きている。

推定一万一千人のうち、2019年の時点で生存しているのはおよそ1,100人だった。平成30年4月1日現在の患者数は1,221名で、内訳は男性334名、女性887名。女性が男性の二倍以上を占めている。平均年齢は82.0歳だった。

令和に入って数字はさらに減った。令和7年の時点でおよそ700人。岡山県の患者は令和8年3月末で79名になっている。かつて「恐怖の町」と呼ばれた井原を抱える県の数字が、これだ。検診対象者の七割以上が75歳を超えたのは、もう十年近く前のことになる。

後遺症は消えない。キノホルムを止めれば症状は少しずつ戻るとはいえ、感覚、歩行、視覚のどこかに必ず爪痕が残った。五十年たっても、足の裏のしびれは発症したときと同じ場所にある。痛みの質も変わらないと患者たちは言う。

そこへ加齢が重なってくる。白内障、脊椎の病気、高血圧、圧迫骨折。転びやすい脚で八十代を生きるのは、それだけでかなり危ない。近年は認知症の併発も増えてきた。介護が必要になったとき、スモンの症状を正しく評価してもらえるかどうかが、そのまま生活の質に直結する。

患者が高齢になるにつれて、付き添う家族のほうも高齢になった。七十代の子が九十代の親を介護する家がある。検診会場まで片道二時間かけて来る人もいる。来られなくなった人の数は、統計の上では単に減った患者数として処理される。亡くなったのか、来られないだけなのかは、そこからは読めない。

十九歳以下で発症した患者が99人いる。十代で足の自由を失い、そこから六十年を送った人たちだ。学校を出られなかった人がいる。就職できなかった人がいる。二十歳の誕生日を病室で迎え、そのまま人生の大半を病室の側で過ごした人もいる。

毎年続く、ひとつの儀式。検診では神経学的な診察のほかに、視力や視野、歩行の状態、併発している病気まで細かく記録される。集まったデータは研究班のデータベースに蓄積され、後遺症の長期経過を追うための資料になった。五十年以上ひとつの薬害を追いかけ続けている検診は、世界的に見てもほとんど例がないらしい。

検診は毎年ある。会場で靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、医師が足の裏に筆の先を当てていく。どこまで感じますか。膝、すね、くるぶし、足の甲。五十年前とまったく同じ質問を、五十年ぶんの皺が寄った足に向かって繰り返す。

答えも、たいてい五十年前と変わらない。くるぶしから先は、まだ他人のままだ。

タイトルとURLをコピーしました