ないはずの命の気配
想像妊娠。医学用語では偽妊娠(Pseudocyesis)と呼ばれる。
文字どおり、妊娠していないのに体が妊娠していると信じ込んでしまう状態を指す言葉だ。
もっとも、単に妊娠したと思い込むという心理的な錯覚にはとどまらなかった。
腹部が実際に膨満する。月経が止まる。乳房が張って乳汁の分泌さえ起こる。悪心やつわりに似た症状が現れる。
もっと踏み込んだ証言もある。
本人が明確に「胎動を感じる」と訴えたケースまで報告されている。
出産予定日が近づけば、陣痛そっくりの周期的な腹痛が起こることもある。本人はもちろん、周囲の家族や、時には診察した医師までもが一時的に本当に妊娠していると信じてしまうほど、その症状は生々しい。
医学的には、ホルモン検査や妊娠検査薬、超音波検査によって胎児の存在が確認できないことで最終的に否定される。
それまでの間、患者の体は驚くほど精巧に「妊娠している体」を演じ続ける。
なぜ人間の体は、実在しない命に対してここまでの反応を示すことができるのか。この謎めいた現象は、古代ギリシャの医学書にまで記録が残るという。人類にとって、ずいぶん古くからの問いであり続けてきた。
女王メアリーの十一か月
歴史上もっとも有名な事例として繰り返し語られるのが、16世紀イングランドの女王メアリー1世のケースだ。
後に「ブラッディ・メアリー」の異名で知られることになる人物になる。
1554年7月、37歳のメアリーはスペインの皇太子フェリペと結婚した。その年の11月には、宮廷から懐妊が発表された。
当時のイングランドは、カトリックとプロテスタントの対立に揺れている。女王の世継ぎ誕生は、国家の命運を左右する一大事だ。
宮廷の記録によれば、メアリーの腹部は目に見えて膨らんだ。ドレスが合わなくなるほどだったという。
彼女自身も胎動を感じたと主張した。無事な出産を願う感謝のミサまで執り行われている。
ところが春を迎える頃から、侍医たちの間に深刻な懸念が広がり始めた。
メアリーの精神状態は不安定になる。食欲は落ち、床に体を丸めて泣き続けたという記録も残された。
1555年4月には、決定的な混乱が起きた。
男児出産という誤報が国中を駆け巡り、教会の鐘が鳴らされて祝賀の空気に包まれたのだ。しかし、これはすぐに誤りだと判明する。
11か月にも及ぶ妊娠期間の末、その年の8月までに、赤ちゃんなど存在しなかったことが明らかになった。
極度にやせ衰え、深く傷ついたメアリー。夫フェリペは同年9月、イングランドを去っていった。
二度目の絶望
信じがたいことに、メアリーはこの悲劇を一度で終わらせなかった。
1557年にフェリペが一時的にイングランドへ戻ってくると、メアリーは再び自分が妊娠したと確信するようになる。
年齢と体調から、多くの助言者たちはこれを更年期の症状ではないかと疑った。
ただ、周囲の侍女たちは動かなかった。女王を傷つけまいとして、その思い込みを否定せず寄り添い続けたのだ。
そんな中、ただ一人だけ違う態度を取った人物がいる。
産婆のフリデスワイド・ストレレイだ。彼女だけが「妊娠はしていない」と正直に女王へ告げたという。
メアリーは後に、この誠実さに感謝したという逸話も残る。
1558年10月、メアリーはついに自らの妊娠を否定せざるを得なくなった。その一か月後、彼女はこの世を去っている。
五百年後の診断
現代の医学史家たちは、メアリーの症例について複数の仮説を立ててきた。
強い出産への願望があった。度重なる精神的苦痛。不規則な月経周期。こうした状況は、偽妊娠の典型的な背景とよく一致した。
一方で、別の可能性を指摘した研究者もいた。
下垂体腫瘍によるホルモン異常が、眉毛の脱落や頭痛、体重増加、腹部膨満、精神的混乱を引き起こしたのではないか、という見方だ。
卵巣がんや子宮の腫瘍性疾患だった可能性も、完全には否定されていない。
真相は五百年近くを経た今も、歴史の霧の中にある。
心と体が共謀する
偽妊娠がなぜ起こるのか。その仕組みは心理学と内分泌学の両面から説明が試みられてきた。
医療機関の解説によれば、最も一般的な原因は「妊娠したいという強い願望」になる。
不妊治療の失敗。度重なる流産の経験。そこから生まれる深い喪失感や抑うつが、強力な引き金になった例は数多く報告されてきた。
ここからが、この現象の核心だ。
脳が強烈な心理的ストレスや願望にさらされると、視床下部から下垂体を経て、ホルモンの分泌パターンが実際に変化する。
プロラクチンなど、妊娠に関連するホルモンの分泌が高まる。その結果として、乳房の張りや乳汁分泌、月経停止という身体症状が引き起こされる。
つまり偽妊娠は、決して気のせいの類ではなかった。
心理的な状態が自律神経とホルモン系を介して、現実の身体反応として表に出たものだ。
膨らむ腹の正体
腹部の膨満についても、説明はつく。
脂肪が蓄積する。ガスが貯留する。腸管の緊張状態も変化する。こうした要素が複合的に作用しているとみられてきた。
当人にとっては、お腹が大きくなっているという感覚が疑いようのない現実として体感される。
ややこしいのは、ここからだ。
子宮筋腫や卵巣囊腫、更年期に伴うホルモンの乱れ。実在の身体疾患が、偽妊娠とそっくりな症状を引き起こすこともあった。
だから診断にあたっては、心理的要因と器質的疾患の両方を慎重に見極めなければならない。
出産予定日に告げられる
現代でも偽妊娠の報告例は世界各地から寄せられ続けてきた。
妊娠を望みながら結果が出ない女性が、何か月もの間つわりに似た症状や腹部膨満を経験する。周囲に妊娠を報告し、出産準備まで整える。
いよいよ出産予定日を迎え、病院に駆け込む。
そこで医師の超音波検査によって、初めて告げられるのだ。赤ちゃんはいません。
この瞬間の衝撃は計り知れない。
体験者の証言では、頭では理解できても体の感覚がどうしても妊娠を手放せなかったと語られることが多い。しばらくの間は、自分の腹部がしぼんでいく感覚そのものが受け入れられなかったという。
中には、妊娠していないと医学的に告げられた後もなお、しばらく胎動のような感覚が続いたと訴えた例まで報告された。
身体感覚の修正には時間がかかる。
だから治療の基本は、心理的なケアと医学的な説明の両方を、時間をかけて丁寧に行うことに置かれる。精神科医やカウンセラーによる感情面での支援が、とりわけ大きな意味を持った。
犬にも起きる
偽妊娠に似た現象は、人間だけの専売特許ではなかった。
避妊手術を受けていない雌の犬では、発情期の後にホルモンバランスの変化が起こる。
実際には妊娠していないにもかかわらず、乳腺が張って乳汁が出る。巣作りのような行動を見せる。ぬいぐるみを我が子のように守ろうとする。
こうした偽妊娠がしばしば観察されるのだ。
獣医学の分野では、比較的よく知られた生理現象として扱われてきた。黄体ホルモンの分泌が妊娠時と同じパターンで推移することによって引き起こされる、という説明になる。
人間の偽妊娠が強い心理的要因と結びつくのに対し、犬の偽妊娠はホルモンの生理的な変動に起因する側面が大きい。
それでも、両者を並べて考えると見えてくるものがある。
哺乳類の体が、いかに「妊娠」というプロセスに敏感で、時に暴走しやすいシステムを抱えているかという点だ。
男性にも症状が出る
偽妊娠と並んでしばしば語られるのが、クーヴァード症候群だ。
パートナーの妊娠中に、男性側にもつわりや腹部膨満、体重増加という妊娠様の症状が現れる。いわゆる共感妊娠だ。
こちらは女性が実際に妊娠している点で、偽妊娠とは異なる。
ただ、根底にある仕組みには共通する部分があると指摘されてきた。強い感情的な同調や不安、責任感。そうした心理的要因が身体症状を引き起こすという構造になる。
人間の心と体がいかに密接に結びつき、時に理屈を超えた形で連動してしまうか。その事例として、研究者の間ではしばしば偽妊娠と並べて論じられている。
繊細なシステム
想像妊娠という現象を丹念にたどっていくと、見えてくるものがある。
人間の脳と体が、いかに緊密に、そして時に危ういほど強力に結びついているかという点だ。
五百年近く前のメアリー1世の悲劇。それは権力と血統という国家的な重圧の中で、一人の女性の心と体がどれほど追い詰められた末に、実在しない命を感じ続けてしまったかを示している。
現代でも、妊娠を強く願う女性たちの体は同じように反応する。
医学の進歩によって偽妊娠の存在自体は広く知られるようになった。それでも、その渦中にいる本人の苦しみは変わらない。出産予定日を迎えて初めて突きつけられる現実の重さも、当時とほとんど同じなのかもしれないよね。
犬に見られる偽妊娠。クーヴァード症候群。そうした周辺的な現象と比較することで、私たちは改めて思い知らされる。
身体は、理性だけで制御しきれる機械ではなかった。願望や喪失、愛情。そうした感情によって容易に揺り動かされる、繊細なシステムなのだ。
