ドアが閉まる音で、人は板になる
想像してみてほしい。自宅の台所で、コーヒーを淹れている。背後で誰かが玄関のドアを閉める。バタン、というだけの音だ。近所の子どもが上げた笑い声でもいい。救急車のサイレンでもいい。次の瞬間、足の指が丸まる。ふくらはぎが石になる。それが太ももに這い上がり、腰に届き、腹筋が板のように固まって、背中が反り返る。膝が曲がらない。腕を前に出して受け身を取ることもできない。そのまま、倒れる。丸太が倒れるみたいに。
ここまでで、だいたい数秒から十数秒。
そして最悪なのはここからだ。意識は、ある。はっきりある。床に頭を打ちつけた音も聞こえているし、駆け寄ってくる家族の顔も見えている。何が起きているかも完全にわかっている。ただ、体だけが自分のものではない。しゃべろうとしても、顎の筋肉が固まっていて口が開かない。目を開けようとしても瞼が動かない。まわりの人間から見ると、意識を失って硬直しているようにしか見えない。でも、本人は全部聞いている。
全部わかっている。「みんなには、私はもういなくなったように見えていた」と、ある患者は書いている。
これがスティッフパーソン症候群という病気の――いちばん短い説明だ。
筋肉が硬直する病気、と書くと、なんとなく「こわばり」くらいの話に聞こえてしまう。違う。かかる力が桁違いなのだ。この病気の発作で、患者は自分の大腿骨を折る。脊椎の椎体を圧潰させる。腰椎が異常に前へ反り返って、横から見ると背中がくの字に折れたようになる。この反り返りには過剰前弯という名前がついていて、専門医が診断のときに真っ先に見るポイントのひとつになっている。
要するに、自分の筋肉が自分の骨格を壊すレベルで収縮する。
一九五八年にイギリスの医師が報告した女性の症例は、いまだにこの病気の暴力性を語るときに引き合いに出される。彼女は発作の最中に大腿骨頸部を骨折した。手術で九センチの金属ピンを打ち込んだ。翌日にはまた発作が起き、そのピンが曲がった。ピンを抜いて金属プレートとネジで固定し直した。今度はプレートとネジが折れた。三度目の手術をした。それでも変形は戻ってきた。筋肉が、外科用の鋼材を負かしたのだ。
しかもこの病気には、もうひとつ意地の悪い特徴がある。引き金が「驚き」だということ。物音、人に触れられること、予想外の出来事、強い感情。つまり、日常そのものが地雷原になる。街のクラクション、後ろから声をかけられること、横断歩道を渡り切れるかという不安、それ自体。だから患者の多くは外に出なくなる。出られなくなる、と言ったほうが正確かもしれない。
一九五六年、メイヨー・クリニックの十四人
この病気が医学の世界にはじめて姿を現したのは、一九五六年七月のことだ。アメリカのメイヨー・クリニックの神経内科医、フレデリック・ポール・モーシュとヘンリー・ウィリアム・ウォルトマンが、施設の紀要に一本の論文を出した。タイトルは「進行性で変動する筋硬直と筋痙攣」。そしてカッコの中に、彼らがつけた呼び名が入っていた。スティッフマン症候群。直訳すれば「硬い男症候群」だ。
この論文が扱ったのは十四例。うち一例を詳しく記述し、残り十三例を観察例としてまとめている。詳しく書かれた患者は四十九歳の男性で、首、肩、上背部が進行性に硬くなり、発作的に痛みを伴う筋痙攣が起き、歩くのが困難になっていた。この十四例は一夜にして集まったわけではない。一九二四年から一九五六年まで、実に三十二年かけて拾い集められた症例群だった。三十二年で十四人。
この数字自体が、この病気の希少さを最初から物語っている。
モーシュとウォルトマンは、体幹と四肢近位部の筋肉が主にやられること、痛みを伴う筋痙攣が重なること、驚愕反応が過剰になること、腰が異常に反り返ることを記述した。転倒と拘縮と呼吸障害で患者がひどく障害されていくことも書いた。原因については、中枢の運動路にかかっているはずのブレーキが外れているのではないか、と推測した。この推測は、七十年後の現在の理解と、驚くほど方向が合っている。
ただし当時は、そのブレーキの正体がわからなかった。
ウォルトマンという人はなかなかの人物で、一九一七年にアメリカで最初期の神経学の博士号を取り、メイヨー・クリニック初の常勤神経内科医になった。生涯で百四十九本の論文を書いている。彼の名前は他にもいくつかの医学用語に残っている。一九六四年、彼はメイヨー・クリニックで神経内科の歴史をまとめる仕事をしている最中に、心停止で亡くなった。
この病気は、いまでも彼と共著者の名を取ってモーシュ・ウォルトマン症候群と呼ばれることがある。
「男」から「人」へ――病名が変わるまで
病名が変わったのには、ちゃんと理由がある。
一九五八年、ロンドンのセントラル・ミドルセックス病院にいたリチャード・アッシャーという医師が、イギリス医学雑誌に「スティッフマン症候群の女性」という論文を書いた。タイトルからして、もう矛盾している。硬い男症候群の、女。アッシャー本人もそれを自覚していて、論文に注釈をつけている。「この逆説的なタイトルは避けられなかった。
この病気に名前をつけた人々はスティッフマン症候群と呼んだが、スティッフパーソン症候群のほうがよい名前かもしれない」。
これが、現在の病名の出発点だ。一九五八年に、たった一行の脚注として置かれた提案だった。
とはいえ、その提案がすぐに広まったわけではない。医学界がこの呼び名を本格的に使い出すのは、それから三十年以上経ってからだ。一九九一年、ブラムとヤンコビッチが、一九六七年から一九九一年までに報告された八十四例のうち約二十例が女性だったと報告した。実際にはその後の大規模研究で、男女比はもっと女性に偏っていることがわかっていく。女性が男性の約二倍。
日本の全国調査では、抗ガド抗体陽性例の七十六パーセントが女性だった。つまり、この病気は最初から「男の病気」ではなかったのだ。ただ、最初に見つけた十四人がたまたま男性中心だったというだけで、三十年以上、女の患者は自分の病気の名前に「男」の字を背負わされ続けた。
こういう改名の話をすると、言葉狩りだと言いたがる人が出てくる。でも、この場合はそう単純じゃない。病名がその病気の典型像を規定してしまう、という実害があるからだ。「硬い男」と呼ばれている病気を、五十代の女性患者を前にした医師が思い浮かべにくい。実際、この病気の診断がつくまでの平均年数が異様に長い理由のひとつは、まさにそこにある。
アッシャーの、十年遅れの診断
アッシャーの一九五八年の論文は、いま読んでも背筋が寒くなる。医学論文として書かれた、ひとつの敗北の記録だからだ。
患者は五十歳の主婦。一九四六年五月、脚と腹と背中の痛みを伴う痙攣で入院してきた。六年前から「腰の線維炎」と言われて他院で理学療法を受けていた。三年前から背中がどんどん硬くなり、家から出られなくなっていた。診察すると、腹と大腿とふくらはぎの筋肉が硬く、板のようだった。体全体がほとんど動かせない。
ときどき破傷風なみの激しい痙攣が襲ってきて、彼女は叫び、汗をかき、そばにいる人にしがみつき、一時的に脈が触れなくなった。
あらゆる検査をした。全部正常だった。アッシャーはかかりつけ医に手紙を書いている。「この症例について確定診断をつけることができません」。そして彼が下した「不確定な診断」は、脊椎関節症に伴う痙攣、ヒステリーの上乗せあり、というものだった。
その後の十年は、ほぼ地獄である。二年後、彼女はうつと「手に負えなさ」を理由に精神科病院に入院させられた。手に負えなさというのは、痙攣して叫ぶことだ。入院一か月後、痙攣の最中に大腿骨が折れるのを彼女は自分で感じた。前述の金属ピンとプレートの話はここから始まる。三度の手術。五年間の入院。それから高齢者用の別棟へ。足の変形は進み、内反尖足になった。片方の足首は、足の裏が上を向くほどねじれていた。
一九五五年の若手医師のカルテの記載が残っている。「状態悪化。ささいなことで、あるいは何もないのにヒステリー発作。過呼吸、白目をむく、ベッドやロッカーやそばの人に激しくしがみつく、随意的な筋硬直と後弓反張、なだめると悪化し、無視すると徐々に静まる」。カルテに書かれた「随意的な」の四文字が痛い。彼女はやりたくてやっていることになっていた。
精神科医も呼ばれた。彼はこう書いた。「彼女は完全に病識を欠いており、心理的に接近不能である。リハビリテーションは容易ならざる仕事だろう。彼女は病気によって何らかの情緒的欲求を満たしているように見える」。一九五六年八月、担当医が匙を投げる。「非常に困難で非協力的。ベッドにいたがる。
そのほうが看護師長にとってもずっと楽であり、患者自身が明らかによくなりたがっていない以上、この闘いに我々が敗れたことを認めるべき時期である」。
それから四か月後、アッシャーが読んだ雑誌の短い論説に、モーシュとウォルトマンの記述が引かれていた。彼はすぐに気づいた。十年前に自分が診た、あの女性だ。カルテの束を引っ張り出し、もう一度診察に行き、診断がついた。スティッフマン症候群。
診断がついたことで彼女が得たものは、何もなかった。アッシャーは論文にそう書いている。そして詩人マシュー・アーノルドの一節を引く。「私が死ぬのを見に、言葉と名声にあふれた医者を連れてこないでくれ。賢しらに首を振り、治せもしない病に、名前だけを与えるような」。
一九五七年一月、彼女は病院の症例検討会に運ばれてきた。アッシャーが体を露出させ、硬直を示すために手足をそっと動かした。それだけで全身に激烈な痙攣が起きた。彼女は大声で叫び、そばの人の腕に爪が食い込むほどしがみつき、目に見えるほどの汗をかいた。付き添いの看護師たちは、帰りの一マイルの救急車のためにモルヒネを使わせてほしいと懇願した。
会議室にいた医師たちは、自分たちが臨床供覧のために意図せず引き起こしてしまった苦痛に、罪悪感を覚えた、とアッシャーは書いている。
彼女は同年六月十八日に亡くなった。担当医の最後の記載を、アッシャーは「ふさわしい墓碑銘」と呼んだ。「六月十七日午後十時三十分、ヒステリー発作を開始。午前二時、静まる。午前三時、死亡確認」。ヒステリーという言葉に、ようやく引用符がついていた。死後だった。
この症例が七十年近く語り継がれているのは、そこにこの病気の本質的な残酷さが全部詰まっているからだ。体は物理的に壊れていく。原因はわからない。検査は全部正常。そして「気のせい」「性格の問題」「よくなりたがっていない」というラベルが貼られる。
百万人に一人か二人、という数字
セリーヌ・ディオンが二〇二二年に公表したとき、彼女は「百万人に一人くらいがかかる」と言った。これはほぼ正確な数字だ。
古典的なスティッフパーソン症候群の有病率は、人口百万人あたり一人から二人と推定されている。アメリカでは全国で五千人程度という試算がある。日本ではもっと具体的な数字がある。二〇二三年九月、徳島大学の松井尚子准教授と和泉唯信教授らのグループが、千葉大学の桑原聡教授、新潟大学、自治医科大学との共同で、日本初の全国疫学調査の結果を報告した。
脳神経内科、脳神経外科、精神科、内科、小児科を標榜する四千四百二十九施設にアンケートを送り、二千百五十六施設から回答を得た。回答率は四十八・七パーセント。
その結果、二〇一五年から二〇一七年の三年間の推定患者数は二百五十七人。罹患率は人口十万人あたり〇・二人だった。百万人に二人、という換算になる。抗ガド抗体陽性例は女性が七十六パーセントを占め、発症年齢の中央値は五十一歳。抗グリシン受容体抗体陽性例は発症年齢の中央値が五十七歳で、こちらは脳幹症状を伴う重い病型が多かった。
二百五十七人。日本全国で、三年間で。都道府県あたり平均すると五、六人だ。ということは、多くの神経内科医は生涯でこの患者に一人も出会わない。イギリスの患者カレン・ロングは自分の診断の場面をこう振り返っている。「ほとんどの神経内科医は一生に数人しか診たことがない。百万人に一人だから」。実際、その通りなのだ。
この希少さが、そのまま診断の遅さに直結する。発症から診断までの平均は七年、というのがこの分野で長く言われてきた数字だ。ジョンズ・ホプキンス大学のグループが一九九七年から二〇二一年までのデータを解析した研究では、診断までの期間の中央値は三十五・一か月。事前に誤診されていた患者に限ると四十五・七か月に伸びる。
そして、この研究の対象になった百九十九人のうち、百四十七人、つまり七十三・九パーセントが、正しい診断にたどり着く前に別の病名をつけられていた。
セリーヌ・ディオンの主治医であるコロラド大学アンシュッツ医学キャンパスのアマンダ・ピケは、自身の疫学研究で診断までに四年以上かかるのが典型だとし、他の研究を平均すると約七年だと述べている。四年から七年。その間、患者は転倒し、骨を折り、仕事を失い、家から出られなくなっていく。
「不安とストレスです」
誤診の内訳を見ると、なかなかにげんなりする。多発性硬化症、パーキンソン病、線維筋痛症、脊髄症、末梢神経障害、そして機能性神経障害。心因性、という言葉に置き換えられることも多い。
これは新しい話ではない。一九六〇年、トレソーワンという医師が二例を報告したときに、こう書いている。モーシュとウォルトマンの十四人のうち五人が、当初「機能性」と診断されていた。アッシャーの患者は十年間ヒステリー性痙攣とされていた。同時期の別の症例も同様だった、と。
そして六十年以上経った現在も、この構図は本質的に変わっていない。ジョンズ・ホプキンスの研究で、患者が誤診されるリスクを最も高めていた臨床像は、上肢のこわばりや痙攣だった。典型的な「腰と脚から始まる」パターンから外れると、とたんに信じてもらえなくなる。
なぜこんなに心因性と間違われるのか。理由は複数ある。ひとつは、脳と脊髄の画像検査が正常なこと。この病気では脳の磁気共鳴画像がきれいなままであることが多い。神経細胞が死んでいるわけではなく、機能がブロックされている状態だからだ。皮肉なことに、この「画像が正常」という事実は、治療で症状が戻りうるという希望の根拠でもある。だが診断の現場では、「画像が正常イコール何もない」という短絡を招く。
もうひとつは、症状が変動すること。日によって、時間帯によって、良かったり悪かったりする。演技だと思われやすい。
そして三つ目が、いちばんややこしい。この病気の患者には、本当に強い不安や恐怖が出るのだ。それも症状として。
恐怖は、症状である
二〇〇三年、ドイツのヘニングセンらが四十三人の連続症例を対象に、構造化された不安障害の診断面接を行った研究を発表している。結果は明快だった。四十三人中十九人、四十四・二パーセントが「課題特異的恐怖症」を発症していた。さらに三人が、回避行動を伴わない閾値下の恐怖を持っていた。合わせて半数だ。
課題特異的恐怖症というのは、この病気の運動症状のせいで対処が難しい特定の状況を、強く恐れて避けるようになることを指す。恐怖の対象として最も多かったのは、開けた場所を支えなしで歩くこと。次いで、道路を横断すること。そして、手すりのない階段を降りること。降りるのだけが怖くて、昇るのは平気、というのが妙にリアルだ。
考えてみれば当たり前でもある。横断歩道の真ん中で全身が固まったら死ぬ。だから怖い。ただ、ヘニングセンらは診断基準を厳しく設定していて、「状況を現実的に評価した範囲を明らかに超える恐怖」で「患者自身が不合理だと認識している」ものだけを恐怖症としてカウントした。それでも四十四パーセントだった。一般人口における特定の恐怖症の生涯有病率が十一・三パーセントであることを考えると、五倍近い。
この現象には別名もついている。マークスが一九八一年に記述した「空間恐怖」、あるいは擬似広場恐怖と呼ばれるものだ。イタリアのグループが二〇二〇年に報告した二例は、どちらも典型的だった。六十歳の女性は、右足の痛みとけいれん、歩くときの異常な足の姿勢を訴えて受診した。検査は全部正常。症状が変動し、不安があったため心因性が疑われ、そのまま追跡から漏れた。
二〇一四年から二〇一八年まで、彼女は心理療法と抗うつ薬と抗不安薬で治療された。夫が隣にいないと開けた場所を歩けなくなっていた。パーキンソン病を疑われてレボドパも試された。二〇一九年に再受診したとき、ようやく筋電図で右の屈筋と伸筋の持続的な運動単位活動が確認され、抗ガド抗体が高値で見つかった。五年である。
もうひとりの六十五歳の女性は、左足の「硬直」と痛みを伴う痙攣で歩行が凍りつき、転倒していた。機能性運動障害を疑われ、抗不安薬とリハビリを処方された。三年経っても変わらず、パーキンソン症候群を除外するための核医学検査もされた。整形外科で左足の屈筋腱の手術まで受けた。何も改善しなかった。二〇一八年に症状が悪化して両足に及び、開けた場所を歩く強い恐怖が出て、ようやく筋電図と抗体検査にたどり着いた。
彼女は血漿交換療法で歩行と不安の両方が大きく改善した。
つまり、恐怖はこの病気の一部なのだ。恐怖があるから心因性だ、という推論は逆立ちしている。ヘニングセンらの研究では、恐怖症を持つ患者のほうが、驚愕反応の亢進が目立ち、そして「心因性運動障害」という初期誤診を受けやすかった。恐怖という症状が、まさにその症状を隠す蓋になっている。
二〇二六年に報告された症例も、この構図を鮮やかに示している。四十三歳の女性は、群衆や驚くような刺激で筋肉が固まる「フリーズ発作」を起こしていた。何度も転倒して頭を打った。彼女はその発作を恐れるようになり、人混みや閉所でパニック発作を起こし、家から出られなくなった。子どもの世話にも支障が出た。彼女に精神科的な既往はない。恐怖は、病気の後にやってきたのだ。
抑制が効かなくなる、ということ
では、体の中では何が起きているのか。
神経系というのは、アクセルだけでできているわけではない。ブレーキがある。というより、ブレーキのほうが重要なくらいだ。中枢神経系の抑制を担う主役は二つ。ガンマアミノ酪酸と、グリシン。どちらも神経伝達物質で、受け取り側の神経細胞に塩化物イオンを流し込み、その細胞を「発火しにくい状態」にする。ブレーキを踏む役だ。
たとえば肘を曲げるとき、上腕二頭筋が縮む。同時に、反対側の上腕三頭筋には「縮むな」という指令が行っている。これを相反抑制という。この仕組みがあるから、私たちの動きは滑らかになる。もしこの抑制が外れたら、曲げる筋肉と伸ばす筋肉が同時に全力で収縮する。関節は動かない。ただ固まる。それが、この病気で起きていることだ。
筋電図でそれが見える。安静にしていて、力を抜こうと努力しているのに、拮抗する筋肉の両方から持続的な運動単位の放電が記録される。持続性運動単位活動という。この所見が、この病気の診断における客観的な柱のひとつになっている。
では、なぜブレーキが効かなくなるのか。ここに自己免疫が登場する。
ガンマアミノ酪酸を作るには、グルタミン酸脱炭酸酵素という酵素が要る。これは興奮性の神経伝達物質であるグルタミン酸を、抑制性のガンマアミノ酪酸に変換する酵素だ。臨床の現場では略してガドと呼ばれている。分子量の違う二つの型があり、六五型はシナプス小胞にいて、急にガンマアミノ酪酸が必要になったときに働く。六七型は細胞質にいて、基礎的な量を作っている。
一九八八年、スティッフマン症候群とてんかんと一型糖尿病を併発した患者から、この酵素に対する自己抗体が見つかった。抗ガド抗体である。以来、この抗体はこの病気の最も重要な指標になった。日本の全国調査では、患者の五十五パーセントが抗ガド抗体陽性だった。欧米の報告では六十から八十パーセントとされる。
ここで大事なのは、抗体の量だ。この病気で見つかる抗ガド抗体の値は、桁が違う。一型糖尿病でも同じ抗体は出るが、値はずっと低い。診断の目安として、酵素免疫測定法で一万国際単位毎ミリリットルを超える、あるいは放射免疫測定法で二十ナノモル毎リットルを超える、といった「非常に高い」値が求められる。前述のイギリスの患者カレン・ロングは、自分の値をこう言っている。「ふつうの人は八とか九。私は八万を超えている」。
さらに、脳脊髄液の中でもこの抗体が作られている証拠がある。血液からしみ出してきただけではなく、中枢神経系の中でクローン化したビー細胞が現地生産している。神経疾患を伴う抗ガド抗体陽性例では、この髄腔内合成が八十五から百パーセントで検出される一方、神経症状のない人では検出されない。そして患者の脳脊髄液では、ガンマアミノ酪酸そのものの濃度が下がっている。
抗ガド抗体以外の抗体もある。抗グリシン受容体抗体は、日本の調査で九パーセント、欧米では十三から十五パーセントに見つかる。抗アンフィフィジン抗体は五パーセント程度で、乳がんや肺がんに伴う腫瘍随伴性の型を示唆する。ごくまれに抗ゲフィリン抗体、抗ジペプチジルペプチダーゼ様タンパク抗体なども報告されている。面白いのは、これらの標的がことごとく「抑制のシナプス」の部品だということだ。
ガンマアミノ酪酸を作る酵素、シナプス小胞のリサイクルを担うタンパク、受容体を束ねる足場タンパク、そして受容体そのもの。免疫システムが、ブレーキ装置を狙い撃ちにしている。
抗体は犯人か、それとも指紋か
ここからが、この病気の研究がいちばん揉めているところだ。
抗ガド抗体は、本当に病気を起こしているのか。それとも、単なる目印なのか。
犯人説に不利な事実がいくつもある。まず、標的の酵素は細胞の中にいる。抗体は普通、細胞の中には入れない。実験でも、抗ガド抗体は神経細胞に取り込まれないことが示されている。だとすると、抗体は敵に触れることすらできていない。次に、抗体の量と病気の重さが相関しない。値が八万でも歩ける人がいて、値が一万で寝たきりの人がいる。
三つ目に、免疫グロブリン大量静注療法やリツキシマブで症状が改善しても、抗体価は意味のあるほど下がらない。四つ目に、動物に抗ガド抗体を入れても、抑制機構がきちんと壊れるという証拠が出ていない。
一方で、犯人説を捨てきれない事実もある。試験管の中では、患者由来の抗体がこの酵素の働きを阻害し、ガンマアミノ酪酸の合成を減らす。ラットの小脳スライスでは、特定のエピトープに対する抗体が抑制性シナプスの機能を落とす。しかも、この病気の患者の抗体と一型糖尿病の患者の抗体は、認識する部位が違う。前者は直線的なエピトープを、後者は立体的なエピトープを認識する。この差は、無意味とは思えない。
現時点での有力な折衷案は、ティー細胞説だ。抗ガド抗体が直線的なエピトープを認識するということは、記憶ティー細胞がこの酵素の断片を認識している可能性が高い。実際、患者の脳脊髄液からこの酵素に特異的なティー細胞が分離されているし、剖検では小脳のガンマアミノ酪酸産生神経が減り、細胞傷害性ティー細胞が浸潤しているのが見つかっている。
つまり主犯はティー細胞で、抗体はその現場に残った指紋のようなもの、という見方だ。ただし近年は、ビー細胞の関与を示す証拠も積み上がっていて、単純にどちらか、とは言えなくなっている。
抗グリシン受容体抗体の場合は話が違う。こちらは受容体の細胞外の部分を認識する。つまり、抗体が直接触れる。実験では、この抗体が受容体を細胞内に引きずり込んだり、チャネルが開かないようにしたりすることが示されている。ゼブラフィッシュを使った実験でも、受容体の機能異常が確認されている。だから、この抗体については病原性がかなり確からしい、と考えられている。
同じ「スティッフパーソン症候群」という名前の下に、機序の異なる複数の病気が同居している。それが現在の理解だ。
そして、電気生理学の側からはさらに厄介な指摘が出ている。二〇二五年に発表された総説は、二つの問いが未解決のままだと述べている。ひとつ、中枢神経系のどこが一次的な異常の場所なのか。脊髄なのか、脳幹なのか、大脳皮質なのか。経頭蓋磁気刺激を使った研究では大脳皮質の抑制低下が示されているが、これが原因なのか結果なのかがわからない。
ふたつ、自己免疫という基盤と、この電気生理学的な異常が、どうつながっているのか。ガンマアミノ酪酸を増やす薬や免疫療法をやっても、大脳皮質の抑制指標が戻らないことがある。理屈が合わない。
正直に言えば、七十年経ってもまだよくわかっていないのだ。
病型は、ひとつではない
「スティッフパーソン症候群」という一語で括られているものの中身は、かなり幅がある。日本の診断基準でも、国際的な分類でも、いくつかの病型に分けられている。
古典型が最も多い。全体の七十から八十パーセントを占める。体幹、とくに腹筋と胸腰部の脊柱起立筋が硬くなり、腰椎が過剰に反り返る。歩き方が独特になる。凍りついたように遅く、方向転換や前かがみが難しい。転ぶときに受け身が取れないので、そのまま倒れる。ここに、痛みを伴う発作的な筋痙攣が乗る。日本の調査でも、抗ガド抗体陽性例では古典型が最も多かった。ちなみに、症状が最初から全身に来るとは限らない。
この病気の約三十パーセントは、手足の左右非対称な、あるいは片側だけの筋硬直や痙攣で始まる。それが数週間から数か月かけて全身に広がっていく。
限局型、いわゆるスティッフリム症候群は、症状が一つの肢、たいていは片脚に限られる。日本の調査では古典型に次いで多い病型だった。この型は抗ガド抗体が陰性のことが多く、そのぶん診断がさらに難しい。脊髄の灰白質の介在ニューロンが局所的に破壊される「介在ニューロン炎」が原因ではないかという説がある。長い伝導路には障害が及ばない。厄介なのは、この型が意外に予後が悪いことだ。
ある報告では、平均三年半で車椅子生活になるとされている。前述のイタリアの二例が、まさにこの型だった。片足の妙な硬直から始まって、五年、七年と誤診の中をさまよう。
強直とミオクローヌスを伴う進行性脳脊髄炎、頭文字を取ってパームと呼ばれる型は、最も重い。一九七六年にホワイトリーらが、古典型とは違う二例として記述したのが最初だ。ここでは体幹や四肢の硬直に加えて、ミオクローヌスという筋肉の急なぴくつき、驚愕反応の異常な亢進、そして脳幹の症状が出る。眼球運動障害、顔面の感覚障害、嚥下障害、構音障害、開口障害。さらに自律神経の異常が加わる。
発症年齢は五十代から六十代が多い。この型では抗グリシン受容体抗体が見つかることが多い。日本の調査でも、抗グリシン受容体抗体陽性例ではこの型が最多だった。
パームの経過は速く、しばしば致死的になりうる。中国から報告された四例のうち三例は集中治療室に入り、二例は呼吸不全で気管挿管を要した。ドイツから報告された七十五歳男性の症例はもっと悲惨で、脚の痛みとミオクローヌスから始まり、重度の運動症状、驚愕反応の亢進、幻覚、自律神経障害へ進んだ。ステロイド、免疫グロブリン、血漿交換、免疫吸着、シクロホスファミド、ボルテゾミブ、あらゆる免疫治療が投入された。
二十週間以上にわたって吸入麻酔薬による持続鎮静が必要だった。発症十か月後に亡くなった。剖検では、グリシン受容体とこの酵素が多く発現している場所に沿って、神経細胞の脱落とグリア細胞の増生が見つかった。
ただし、パームには救いもある。抗グリシン受容体抗体陽性例は、重症であるにもかかわらず免疫治療への反応がよいことが繰り返し報告されている。日本の調査でも同じ傾向が確認された。発症から二か月以内に免疫治療を始めると予後が改善するという報告もある。つまり、最も重い型が、最も早く見つければ最も助かる可能性がある型でもある。
そして「その他」に分類される群がある。スティッフパーソン・プラスと呼ばれるもので、古典的な症状に加えて小脳失調やてんかん、脳幹症状を伴う。この群では、上肢の症状や小脳症状のせいで、かえって誤診されやすい。ジョンズ・ホプキンスの研究では、このプラス型で脳幹症状がある患者の誤診リスクは七倍、小脳症状がある患者では三倍以上だった。典型から外れれば外れるほど、たどり着けない。
さらに広い視野で見ると、この酵素に対する抗体は、硬直がまったく出ない病気でも見つかる。小脳失調、自己免疫性てんかん、辺縁系脳炎、眼球運動異常。これらをまとめて「ガド抗体スペクトラム障害」と呼ぶ考え方がある。ガドに関わる神経自己免疫を持つ患者の約七十パーセントで、これらのうち一つ以上が併存するという報告もある。不思議なのは、どの病型の患者の抗体も、同じ主要なエピトープを認識していることだ。
同じ抗体なのに、ある人は歩けなくなり、ある人はけいれん発作を起こし、ある人はふらつく。この不均一性は、いまだに説明がついていない。
二〇二二年十二月八日
そして、この病気を世界が知る日が来る。
二〇二二年十二月八日、セリーヌ・ディオンが自身の交流サイトに動画を投稿した。当時五十四歳。五百二十万人のフォロワーに向けて、彼女は何度も涙をこらえながら話した。
「ご存じの通り、私はいつもオープンな人間でしたが、これまで何も言う準備ができていませんでした。今は準備ができています。長いあいだ健康の問題と向き合ってきて、この困難に向き合うことも、自分が経験してきたことを話すことも、とても難しかった。最近、スティッフパーソン症候群という、とても稀な神経疾患だと診断されました。百万人に一人くらいがかかる病気です」
「この稀な病気についてはまだ学んでいる最中ですが、これが、私がずっと経験してきた痙攣の原因だとわかりました。残念ながら、この痙攣は私の日常生活のあらゆる面に影響していて、歩くのが困難になったり、これまでのように声帯を使って歌えなくなったりしています」
「今日こうしてお伝えするのは心が痛みますが、二月にヨーロッパツアーを再開することはできません」
彼女は二〇二一年十月に「重度で持続的な筋痙攣」を理由にラスベガス公演の開幕を延期していた。二〇二二年一月に北米ツアーを中止、四月にはヨーロッパ公演を延期していた。そのたびに理由は「健康上の問題」とだけ説明されていた。この動画で、ようやく名前がついた。
この時点で、大半の人はこの病名を聞いたことすらなかった。
セリーヌ・ディオン効果
何が起きたかは、データで追える。
まず、検索行動が跳ねた。トルコとイスラエルの研究者らが二〇二三年一月に発表した短報は、この現象を検索トレンドのデータで示している。発表の数時間後から、「スティッフパーソン症候群」と「セリーヌ・ディオン」という検索語が世界的に急上昇した。稀な病気であることは、関心の妨げにならなかった。むしろ、有名人がその病気を持っているという事実だけで、公衆は調べるのだ。
次に、患者団体や専門施設に人が押し寄せた。ジョンズ・ホプキンス大学のスティッフパーソン症候群センターを率いるスコット・ニューサムは、二〇二三年三月の取材にこう答えている。「認知は確実に上がった。セリーヌ・ディオンの症状を聞いて、あるいはメディアの記事を検索して、自分もこれかもしれないと考えて連絡してくる人が大勢いる」。そして彼はもうひとつ、重要なことを言っている。
「私の患者の多くが、彼女の告白によって『認められた』と感じているようだ」。何年も気のせいだと言われ続けてきた人たちにとって、世界的なスターが同じ病名を口にしたことの意味は、単なる認知度の話ではなかった。
三月十五日は、国際スティッフパーソン症候群啓発デーだ。二〇二三年はその九回目だったが、注目を集めたのは初めてだった。
そして、二〇二六年に発表された研究が、この現象に定量的な決着をつけた。キングス・カレッジ・ロンドンのキャサリン・リンチ・ケリー、マーク・エドワーズ、トーマス・ポラックらは、トライネットエックスという世界的な診療実データのネットワークを使って、この病気の新規診断数がどう動いたかを調べた。
結果は劇的だった。公表からの最初の六か月で、新規診断が三十二パーセント増加。七か月目から十二か月目には六十四パーセント増加。そして二〇二五年に入ってもなお、増加は続いていた。ドキュメンタリー公開の影響も上乗せされている。研究者らはこれを、乳がん遺伝子検査で知られる「アンジェリーナ・ジョリー効果」と並ぶ現象として位置づけた。一人の有名人の公表が、希少疾患の診断行動そのものを、目に見えて動かした。
ただし、この研究には気持ちのいい話だけでは終わらない部分がある。
同じ期間に、抗ガド六五抗体の検査記録がないまま「スティッフパーソン症候群」と診断された患者が、七か月目から十二か月目にかけて七十パーセントも増えていた。検査の実施数自体は、それほど増えていない。つまり、診断名だけが先に増えて、それを裏づける血清学的な確認が追いついていない。研究者のひとりはこう書いている。「認知が高まるのは歓迎すべきことだが、それに見合った診断の厳密さが伴っていないように見える。
血清学的な確認なしにラベルを貼ることについて、居心地の悪い問いが残る。注意と物語が、エビデンスより先に臨床実践を動かしうることの、鮮やかな実例でもある」
これは、有名人効果の光と影を、たぶんいちばん正確に言い当てている。
ペンシルベニアで三十年近くこの病気を研究してきたマリノス・ダラカスも、同じことを別の角度から言っている。ディオンの公表以来、自分もこの病気だと誤って確信してしまう患者が現れる一方で、これまで誤診されていた本物の患者も浮上してきている、と。増えているのは――正しい診断と、間違った診断の、両方なのだ。
一方で、研究の現場には確実に追い風が吹いた。患者団体であるスティッフパーソン症候群研究財団の創設者タラ・ジアは、二〇二四年にこう語っている。「彼女は認知の面で、私たちを五十年ぶん前に進めてくれた」。財団は国際的な患者レジストリと自然史研究の構築に動き出し、米国の希少疾患患者団体連合がデータをホストすることになった。
コロラド大学アンシュッツ医学キャンパスには、セリーヌ・ディオン財団の名を冠した寄付講座の職位が設けられている。
ドキュメンタリーが映したもの
二〇二四年六月二十五日、『アイ・アム:セリーヌ・ディオン』が配信された。監督はアイリーン・テイラー。
この映画には、七十年間この病気が持っていた「見えなさ」を、たった数分で終わらせた場面がある。
新曲のレコーディングを終えた直後、彼女はスポーツ医学のセラピーを受けていた。足に痙攣が起きる。次に手。そして全身。カメラは回り続ける。台の上で横向きになった彼女は、体が固まったまま泣き、小刻みに震え、痛みにうめく。理学療法士が声をかけ、痛みがあるなら手を握ってくれと言う。呼吸が普通でないことに気づいて、鼻から吸入する薬を投与する。ベンゾジアゼピン系の薬だ。
周囲のスタッフが、もう一度発作が来たら救急に電話するかどうかを話し合っている。彼女は弱々しく「大丈夫」と言う。
四十分後、発作は終わった。彼女は起き上がる。そして理学療法士が彼女の好きな曲をかけると、歌い出す。
彼女の主治医であるアマンダ・ピケは、この場面について重要な補足をしている。あれは足の痙攣から始まって全身に広がったもので、「その不安、そのパニック、切れない痙攣が、あっという間に全身の痙攣を引き起こした」。そして、はっきりこう言っている。あれはてんかん発作ではない。「起きているのは痙攣で、患者は何が起きているかを認識しています。強い不安があり、強いパニックがあり、アドレナリンが出ている」。
意識はある。全部わかっている。この一点が、この病気を理解するうえで決定的に重要で、そして映像でしか伝わらない部分だった。
映画の中で、彼女はこう言っている。「こういうことが起きるたびに、すごく恥ずかしくなる。どう表現していいかわからないけど、自分をコントロールできないということが」
この場面をどう扱うかは、当然ながら議論になった。撮影から六か月後にラフカットを見せられたとき、彼女は監督にこう言ったという。「あのシーンを削らないで」。作品は彼女自身が共同製作者に名を連ねている。つまり、これは撮られてしまった映像ではなく、本人が公開を選んだ映像だ。
批評家の反応は割れた。ある評は「有名人についての映画で私が見た中で、最も脆さをさらした瞬間のひとつ」と書いた。別の評は「侵襲的に感じられる。カメラが回ったまま彼女の顔に寄っていて、あそこにいた誰も、監督も含めて、どう終わるかを知らなかった」と書き、そのうえで「これは一年間、髪をひっつめ、化粧をほとんどせず、ありのままを映せと言い張った人物なのだ」と付け加えた。
「メロドラマはやめてほしい」と苦言を呈した評もある。
私は、この議論には答えがないと思う。ただ、ひとつ確かなことがある。この場面が公開された後、この病気は「筋肉が硬くなる稀な病気」ではなくなった。「自分の体を自分で制御できなくなり、その全部を意識のあるまま経験する病気」になった。それは、七十年間の医学論文が果たせなかった仕事だ。
映画の中では、他にも重い事実が明かされている。彼女は十七年間、症状とともに生きていた。診断がつく十七年前から。ステージ上で声が出ないときは、マイクを客席に向けて観客に歌わせた。マイクを叩いて音のごまかしをした。咳をするふりをした。ファンには喉の炎症だと説明していた。そして薬。「バリウムを一日九十ミリグラム飲んでいた。それも薬のひとつにすぎない。
大げさに言うつもりはないけれど、死んでいたかもしれない」
作品の中で最も引用された比喩は、リンゴの木だ。人々が列に並んでいて、自分はリンゴを配る。磨いて、みんなが籠いっぱいに持って帰る。でも枝が枯れ始めていて、いびつになって、実がだんだん少なくなる。それでも列は同じだけ長い。渡すリンゴがないのに、待たせたくない。そう語る彼女に、あるファンがこう返したという。私たちはリンゴのために来ているんじゃない、木のために来ているんだ、と。
証言――当事者と家族の言葉
妊娠七か月の朝
彼女の症状の始まりは十一歳のときだった。一九九七年。ひどい腰痛が出たが、検査も治療もされなかった。長い距離を歩くのがずっと苦手で、十四歳のときには貧血で入院した。二〇一九年の冬、二人目の妊娠中に、まぶたに痙攣と硬直が出た。妊娠の奇妙な副作用だろう、で片付けられた。
そして二〇二〇年六月七日の日曜日。彼女は妊娠七か月だった。窓から光が入り、台所からは夫と娘が朝食を作る音と匂いがしていた。起きて一日を始める時間だ。
そこで、動けないことに気づいた。
パンデミックの真っ最中に、彼女は病院に運ばれた。全身の激烈な硬直と筋痙攣で、体は完全に止まっていた。あまりに硬く、医師と看護師は動かしたら手足が折れるのではないかと恐れた。まぶたも、口も、喉の筋肉も、硬くて開かなかった。周囲からは反応がないように見えた。だが彼女は完全に意識があった。「まわりの人には、私はもういなくなったように見えていた」
その後、二年間の寝たきりと検査と入院とリハビリを経て、二〇二二年春、彼女はスティッフパーソン症候群と診断された。それまでについていた病名は、妊娠合併症、重症筋無力症、けいれん、パーキンソン病だった。
彼女はいま、こう書いている。「多くの人は、この病気が妻として、幼い子どもの母として、私から奪ったものを見るでしょう。でも私は、この病気が私に厳しい現実と向き合わせてくれたと思っています。自分の期待のすべての死、と。私は人生に多くを期待し、当然と思っていました。それが、自分が状況をコントロールできるという錯覚だったと、いまはわかります」
宗教的な言葉づかいが多く含まれる文章で、そこは人によって受け取り方が違うだろう。ただ、二年間ベッドの上にいた人が最終的にたどり着いた言葉として、私はここを読み飛ばせなかった。
婦人科病棟で見つかった病名
イギリスのロムジーに住むカレン・ロングは、ソフトウェア技術者だった。四十五歳のときに診断がついた。それまでの何年かは、医師たちが何が悪いのか理解できずにいた時期だ。
始まりは、亡き夫のジェームズとマルタ島に旅行したときだった。突然歩けなくなり、夫を呼んだ。「最初にそれが起きたとき、神経が挟まったような感じで、それが緩まないんです。そういう病気なんです。どんどん、どんどん、きつくなっていく」
イギリスで彼女が言われたのは、こうだった。背中の磁気共鳴画像を何度も撮られ、不安とストレスだと言われ、それでよくなるはずだからと抗うつ薬を処方された。「背中がひきつって、歩くのも何かするのも難しくなっていた。それで不安とストレスだと言われた。でもよくならなかった」
診断は偶然だった。下半身に激烈な痙攣の発作が起きて入院したとき、彼女は婦人科病棟に入れられた。「痙攣が全部腰から下だったので、女性特有の問題に違いないと思われたんです。違いました」。回診に来た神経内科医が、何が起きているのかを尋ね、「うちに来てください」と言った。彼が出した抗ガド抗体の検査結果に、その医師は驚愕した。数値は八万を超えていた。筋電図で、脚と背中の筋肉に針を刺されて確認が取れた。
「あの筋肉について、私にはまったく制御権がなかった。それで診断がついたんです」
診断名を告げられたとき、彼女は泣いた。ただし、周囲が思ったのとは違う理由で。「不治の病だと言われて、ちょっと呆然として、それから泣き出しました。先生は『大丈夫、大丈夫、できることはあります』って。でも私は『いえ、ただ、ほっとしたんです』と」
彼女はいま四週間ごとに免疫グロブリン大量静注療法を受けている。四時間かかる。「免疫グロブリンを入れるほうが、病気そのものより危険なんです。脳卒中も、化学性髄膜炎も、アナフィラキシーショックも起こしうる」。翌日はインフルエンザのような症状と片頭痛が来る。「もう全部リストにしてあります。『はいはい、いつもの胸の痛みね』ってチェックを入れていく。三日経つと、たいてい効果が出てきて、動けるようになる。
痛みが減る」
転倒で膝の軟骨は全部なくなった。仕事は続けられなくなった。それでも彼女は、この病気が見出しに載ることを歓迎している。「みんなが病気について質問している。それはすばらしいことです。もし一人でも、自分がこれだと気づけたら、その人は正しい薬にたどり着けるんだから」
歯科医だった女性が、財団を作るまで
タラ・ジアはメリーランド州の歯科医だった。三度目の黒帯を持つ空手家でもあり、子どもたちと旅行し、犬と散歩し、自分の健康について考えたことなど一度もなかった。
二〇一四年、元夫のデイブが亡くなった。子どもたちは十一歳と十三歳だった。彼女は仕事をしながら弁護士と交渉し、複数の不動産を管理し、そして何より子どもたちを心配していた。父親を失ったばかりの子どもたちが、大丈夫なのかどうか。「ストレスのレベルは振り切れていました。生きていなければならない、という圧力を感じていました」
夫の死から三か月後に肺炎になり、そこから坂を転げ落ちた。息切れ、倦怠感、首と背中の耐えがたい痛み。救急外来に何度も駆け込んだが、返ってくるのは「命に関わるものはありません。かかりつけ医に相談してください」だった。彼女は複数の専門医を回った。内分泌、精神科、リウマチ、循環器。そしてかかりつけ医が、顔を近づけてこう言った。「なぜあなたは医者から医者へ渡り歩いているんですか。これはストレスです」
「もしあなたが私と同じように感じていたら、同じことをしているはずです。ストレスなのはわかっています。でも私は病気でもあるんです。助けが必要なんです」。彼女はそう返した。そして、また医者を替えた。
二〇一七年三月のある夜、子どもたちと外食に出たとき、限界が来た。顔面蒼白で、食べられず、体重は四十八キロを切っていた。「私の体は危機状態でした」
友人が自分の自律神経の病気の話をしたことがきっかけで神経内科を紹介され、いくつもの血液検査を経て、ある月曜の夜に電話が来た。「検査は一つを除いて全部正常でした。抗ガド抗体です。つまり、あなたはスティッフパーソン症候群です」
彼女はすぐにインターネットを検索した。頭が真っ白になった。スティッフパーソン症候群とは何か。治るのか。完全寛解した患者はいるのか。誰に診てもらえばいいのか。「完全寛解に達した患者がいるという記述は、どこにも見つかりませんでした」
彼女はメイヨー・クリニックへ行き、痛みのリハビリテーションプログラムを受けた。目的は「治す」ことではなく、痛みを抱えたまま、その周りの人生の箱を広げて豊かにすることだった、と彼女は言う。そして二〇一九年、スティッフパーソン症候群研究財団を設立した。
彼女がなぜ財団を作ったのかは、彼女自身の言葉が明快だ。「研究費はなかなか来ません。この病気が稀だとされているからです。アメリカでは百万人に一人という推定です。でも実際の数はもっと多いはずです。この病気は多発性硬化症や心身症や他の自己免疫疾患に似ているから。平均して、患者がこの病気だと判明するまでに七年もかかる。しかも、すでに完全に障害を負ってからのことが多い」
現在、この財団はスティッフパーソン症候群スペクトラム障害の国際レジストリを運営している。ジア自身と、ジョンズ・ホプキンスのスコット・ニューサム、コロラド大学のアマンダ・ピケの三人が主任研究者を務め、診断が確定した患者だけでなく、疑い例、そして亡くなった患者も登録できるようになっている。この病気の自然経過を、はじめてまとまった形で記録しようという試みだ。
そして、届かなかった人たち
もう一人、名前のわからない証言を引いておきたい。ドキュメンタリーの批評記事に、読者コメントとして書き込まれたものだ。
「私はスティッフパーソン症候群を三十四年間持っています。最近ついに、歩こうとするのをやめました。毎日、窒息しかけます。痛みのない瞬間はありません。治療を受けていても、みじめな死に方です。彼女の痛みは内側から外側まで全部わかります。彼女の恐怖もわかるし、どれだけ回復力があってもこの病気を抱えて生きていくには足りないこともわかります。悪くなる一方です。彼女が気の毒です」
賛美の書き込みが並ぶ中に、これが混ざっている。復活の物語として消費されることへの、静かな異議申し立てのようでもある。この病気の記事を書くとき、この声を落とすべきではないと思った。
治療は、どこまで来ているか
治療の話をするときに、まず押さえておくべきことがある。この病気に、根治療法はない。そして少なくともこの原稿を書いている時点では、この病気そのものに対して正式に承認された薬は存在しない。使われている薬は、すべて他の目的で承認されたものの適応外使用だ。
治療は大きく二段構えになっている。ひとつは、症状を抑える薬。もうひとつは、免疫のほうに手を入れる治療だ。
症状を抑える側の主役は、ガンマアミノ酪酸の働きを強める薬だ。ジアゼパムなどのベンゾジアゼピン系、バクロフェン、チザニジン、ガバペンチン。理屈は単純で、ブレーキが効かないなら、ブレーキ側を薬で押してやる。一九六三年にハワードという医師がジアゼパムの有効性を報告して以来、この系統は六十年以上この病気の基礎治療であり続けている。
メイヨー・クリニックの症例集積では、古典型の患者のジアゼパムの用量の中央値は一日四十ミリグラムだった。これはかなりの量だ。セリーヌ・ディオンが語った一日九十ミリグラムという数字が、どれほど極端な水準かも、この数字と並べればわかる。
ただし、この系統の薬には代償がある。長期に飲めば認知機能への影響が問題になりうる。実際、二百人以上の患者を対象にしたスクリーニングでは、約三分の一が認知面の訴えを持っていた。言語性の学習と記憶、言語流暢性、注意、処理速度。ただしこれが病気そのものによるのか、薬によるのか、うつによるのかを切り分けるのは難しい。高用量のベンゾジアゼピン系薬は、呼吸機能を悪化させることもある。
免疫のほうに手を入れる治療で、最も確かな証拠があるのは免疫グロブリン大量静注療法だ。二〇〇一年、ダラカスらが抗ガド抗体陽性の患者を対象に、二重盲検プラセボ対照試験を行った。結果は明確だった。三回の月一回の点滴で、硬直のスコアが有意に下がり、過敏性のスコアも大きく下がった。プラセボに切り替えると四週間から六週間で症状が戻ってきた。逆に、先にプラセボを受けていた群がこの治療に切り替わると改善した。
歩行補助具なしで歩けるようになった患者がいた。この研究では、症状のある患者の最大七十五パーセントに効果があったとされる。
ただし、長期成績はもっと複雑だ。三十六人を追跡した研究では、およそ三分の二の患者が中央値四十か月にわたって臨床的に意味のある反応を維持した。だが、ほぼ三分の一では、同じくらいの期間のあいだに効果が薄れていった。そして重要な指摘がある。最初の三か月で反応しなかった患者は、続けても反応しない。ダラカスは、漫然と続けることの危険性を繰り返し警告している。
効いているのか、効いていると思い込んでいるだけなのかを見分けるために、あえて間隔を延ばしたり量を減らしたりして確かめる「依存性テスト」を推奨している。慢性的に投与し続けることで生じる条件づけの効果と、本当の臨床的利益とを区別するのは、思っているよりずっと難しい。
血漿交換療法もある。ランダム化試験はないが、症例の五十九から七十五パーセントで一時的な改善が報告されている。半数以上が症状を抑える薬を減らせている。
そして、リツキシマブ。ビー細胞を減らす抗体医薬だ。二〇一七年、ダラカスらは二十四人を対象にした、この病気で最大規模のプラセボ対照試験を行った。結果は、統計学的には陰性だった。プラセボ群の改善が強すぎたのだ。ただし、この結果の解釈をめぐっては、いまも論争がある。試験の中で七人は客観的に全項目で改善し、そのうち重症だった四人は劇的に改善した。
二本の杖で歩いていた患者が、六か月後には介助なしで歩けるようになり、スキーに行けるまでになった。ダラカスは、軽症例を組み入れたせいで評価尺度が変化を拾えなかったのだろうと後に振り返っている。だから、免疫グロブリンで足りなかった患者にとって、この薬はいまも現実的な選択肢とされている。
そして、二〇二五年に大きなニュースが来た。
十二月十五日、カイバーナ・セラピューティクスという企業が、この病気に対するキメラ抗原受容体ティー細胞療法、いわゆるカーティー細胞療法の第二相試験の結果を発表した。ビー細胞の表面にあるシー・ディー十九という分子を狙う細胞療法だ。免疫調節療法に十分反応しなかった患者二十六人が、一回の投与を受けた。
十六週後の主要評価項目である二十五フィート歩行時間は、中央値で四十六パーセント改善した。八十一パーセントの患者が、臨床的に意味があるとされる二十パーセント以上の改善を達成した。修正ランキンスケール、硬直分布指数、歩行指数、過敏性スケールという副次評価項目も、すべて有意に改善した。治療前に歩行補助具を必要としていた十二人のうち、三分の二にあたる八人が、十六週後には介助なしで歩けるようになった。
そして、全員が免疫療法から離脱した状態を維持していた。
具体例として公表された症例がある。五十二歳の男性。診断から八年半。抗ガド六五抗体陽性。八年以上にわたって免疫グロブリンとジアゼパムとバクロフェンとボツリヌス毒素を使ってきた。背中の頭痛、硬直、痙攣で移動能力が落ちていた。治療前の二十五フィート歩行時間は十八・三秒。十六週後は五・〇秒。健康な成人の値が四秒から五秒だから、ほぼ正常域に戻ったことになる。七十三パーセントの改善だ。
安全性については、注意も必要だ。二十六人中二十四人にサイトカイン放出症候群が起きている。ただしすべて軽症から中等症で、重症例はなかった。神経毒性は三人に軽度で見られた。好中球減少は六十二パーセントに起きたが管理可能だったとされる。企業は二〇二六年前半に承認申請を行う予定だとしている。もし承認されれば、この病気にとって初めての承認薬になり、同時に自己免疫疾患に対する初のカーティー細胞療法になる。
一回の投与で、免疫システムをリセットする。うまくいけば、これは七十年の歴史の転換点になりうる。ただし、単群試験であること、二十六人という規模であること、十六週という観察期間であること、そしてこの病気ではプラセボ効果が強く出ることが過去に証明されていることを、忘れないでおきたい。
それでも止められないとき
そして、これだけ選択肢が並んでも、進行を止められない場合がある。
パームの重症例では、あらゆる免疫治療を投入しても死に至ることがある。集中治療室で二十週間の持続鎮静を要し、それでも亡くなった七十五歳の症例のことは、さきほど書いた。呼吸器の合併症も現実的な脅威だ。ある研究では、三分の一以上の患者が痙攣に伴う呼吸器症状を持っていた。そのうち二人は最終的に呼吸器合併症で亡くなり、どちらもパームだった。
日本の全国調査は、この点でかなり率直な数字を出している。治療前の修正ランキンスケールの中央値は四、治療後は二だった。改善はしている。だが、五十五例中二十例、つまり三十六パーセントの患者は、免疫グロブリン大量静注療法や長期のステロイド治療を行ってもスケールが三以上のままだった。三というのは、日常生活に他人の助けが要る水準だ。
アメリカからは、九十四パーセントの患者が歩行に支障をきたしているという報告もある。
日本の調査では、治療後も改善が得られにくい原因として、一型糖尿病の合併と、免疫治療が十分に行われていないことが挙げられている。後者が重要だ。つまり、効くはずの治療にたどり着けていない人がいる。診断が遅れ、神経細胞のブロックが長引き、二次的な変形や拘縮が固定してしまってからでは、免疫を叩いても戻らない。ダラカスが繰り返し「最初から正しい治療を」と書いているのは、そのためだ。
制度の壁――希少疾患を数えるという仕事
ここで、日本の話をもう少しする。
日本には難病医療費助成制度がある。二〇一四年五月に「難病の患者に対する医療等に関する法律」が公布され、二〇一五年一月一日から新しい制度が始まった。制度開始時、指定難病は百十疾病だった。同年七月に百九十六疾病が追加され、以後、二〇一七年に二十四疾病、二〇一八年に六疾病、二〇一九年に二疾病、二〇二一年に六疾病、二〇二四年に三疾病、そして二〇二五年四月に七疾病が加わって、三百四十八疾病になった。
指定難病になるには、いくつもの条件をクリアしないといけない。原因が不明または病態が未解明であること。特定の外的要因で発症するわけではないこと。感染症ではないこと。患者数が一定以下であること。効果的な治療方法が確立していないこと。長期の療養を必要とすること。そして何より、客観的な診断基準が確立していること。
この最後の条件が、スティッフパーソン症候群にとってはずっと壁だった。診断基準がなければ、患者数もわからない。患者数がわからなければ、要件を満たすかどうかも判定できない。
だから、日本の研究班はまず診断基準を作った。神経免疫の研究班が診断基準と重症度分類を作り、二〇一八年に全国調査を実施し、患者数を推定し、日本神経学会の承認を得た。松井尚子らの論文はその成果だ。二〇二三年十月、徳島大学は「今後の指定難病への登録、検査体制の整備、治療法の開発を進める上で重要な報告」だと発表した。
日本経済新聞も同月にこれを報じ、研究グループが年度内に国へ難病指定を申請する予定であること、そして「現在は指定難病でないため、治療は健康保険の適用外になっている」ことを伝えている。
その後、厚生労働省の指定難病検討の資料にスティッフパーソン症候群の個票が並ぶことになる。個票には、日本の調査での抗体陽性率、病型分類、予後のデータが淡々と書き込まれている。診断のカテゴリーはデフィニット、プロバブル、ポシブルの三段階で、医療費助成の対象はプロバブル以上とする。病型は国際的な動向を踏まえて、古典型、限局型、パーム、その他とする。重症度分類は修正ランキンスケール三以上を対象とする。
この個票の中に、興味深いやりとりの記録が残っている。かつて「免疫療法での治療効果があるから、治療法が確立していないという要件を満たしていない」と判定されたことがあったらしい。研究班はこれに反論している。全体の九パーセントしか占めない抗グリシン受容体抗体陽性患者が予後良好であることが、全体の印象を引っ張ってしまった可能性がある、と。
だから患者全体での治療前後のスケールの推移を提示し、海外の予後についても追記した、と。
三十六パーセントの患者が治療しても要介助のままである、という数字が、制度の側では「治療法が確立しているかどうか」の議論の材料になる。数字が人の生活に直結する場面というのは、こういうところに現れる。
検査体制も、この病気特有の問題を抱えている。抗ガド抗体は一型糖尿病の診断目的なら測定できるが、スティッフパーソン症候群としては保険適用外だ。しかも近年の測定法では抗体を定量するのが難しいという技術的な問題まで指摘されている。抗グリシン受容体抗体に至っては、細胞を使った測定法を国内で確立したのが新潟大学の田中惠子だけ、という状況だった。検体を送れば測ってもらえる。
逆に言えば、その一人がいなければ、日本ではこの検査ができなかったということでもある。
希少疾患というのは、こういうことなのだ。診断基準を作るために誰かが手を挙げ、全国四千を超える施設にアンケートを送り、返ってきた二千枚を集計し、論文を書き、学会の承認を取り、役所に申請する。その全部を、患者数二百五十七人のために、少人数の研究者がやる。
医学界の中で起きていること
この病気をめぐって、いま専門家のあいだで最も激しく議論されているのは、機序でも治療でもない。診断そのものだ。
メイヨー・クリニックの自己免疫神経学クリニックが、二〇一六年七月から二〇二一年六月までに「スティッフパーソン症候群の疑い」で紹介されてきた患者を後ろ向きに調べた研究がある。百七十三例のうち、実際にこの病気と診断されたのは四十八例、二十八パーセントだけだった。残りの百二十五例、七十二パーセントは別の病気だった。誤診が、正診の三倍多かったのだ。
では、この病気でなかった百二十五人は何だったのか。最も多かったのは、線維筋痛症や慢性疼痛症候群、そして機能性神経障害だった。この二つで八十一例、六十五パーセントを占める。
この研究は、両者を分ける特徴も明らかにしている。本物のこの病気の患者は、驚愕反応の亢進を訴える割合が高く、説明のつかない転倒が多く、他の自己免疫疾患を併存していることが多かった。診察では、筋緊張の亢進、反射の亢進、そして腰椎の過剰前弯が有意に多かった。過剰前弯の差は劇的で、この病気の患者では六十七パーセントに見られたのに対し、そうでない患者では九パーセントだった。
逆に、機能性の徴候はこの病気の患者には少なかった。六パーセント対三十三パーセント。そして電気生理学的検査の異常は、七十四パーセント対十七パーセントと、圧倒的な差がついた。
さらに重い指摘がある。この病気でなかった患者のうち七十八人が免疫療法を受けていた。そのうち何らかの自己免疫性神経疾患だったのは、わずか四人だった。つまり七十四人が、必要のない免疫療法にさらされていた。免疫グロブリン大量静注療法も、リツキシマブも、無害な薬ではない。カレン・ロングが言っていた通りだ。
ここで、二つの主張がぶつかる。
一方には、この病気は過小診断されている、という主張がある。七年かかる。七十四パーセントが誤診を経験する。心因性だと言われ続ける。だからもっと疑ってかかるべきだ。もっと検査すべきだ。
もう一方には、この病気は過剰診断されている、という主張がある。抗体の値が低いのに診断がつく。検査もせずに診断がつく。機能性神経障害の患者が自己免疫の患者にされて、リスクのある薬を使われている。
そして厄介なことに――両方とも正しい。
ダラカスは、この矛盾を最も率直に書いている人物のひとりだ。自身の大規模な症例集積の中で、多くの患者が転換性障害や機能性障害と診断されていたこと、転倒が回避行動や精神的な先取りのせいにされていたこと、脊髄症やジストニアやパーキンソン症候群とされていたこと、痛みを伴う痙攣で麻薬性鎮痛薬を使われていた患者がいたことを列挙する。そのうえで、こう付け加える。
「しかしながら、指摘しておくべきなのは、一次性の精神疾患や機能性障害を、抗ガド抗体陰性のこの病気だと過剰診断することもまた問題であり続けている、ということだ」
現在の焦点は、国際的な合意診断基準を作れるかどうかに移っている。まだない。二〇二三年にメイヨーのグループが基準案を提案し、二〇二五年にはジョンズ・ホプキンスのグループが症例対照研究から診断的価値の高い特徴を抽出した。後者によれば、古典型では高力価の抗ガド六五抗体の特異度が九十八パーセント、脳脊髄液での陽性が百パーセント、特徴的な筋電図所見が九十パーセント超、過剰前弯が八十七パーセント。
プラス型では小脳徴候の特異度が九十八・五パーセント、脳幹徴候が百パーセントだった。
一方で、抗ガド抗体の解釈そのものに慎重論もある。二〇二〇年の総説は、どういう場合に神経症候がこの抗体と病因的に結びついていると言えるのか、その基準がそもそも存在しないと指摘した。だから「この抗体があればその症候群は免疫介在性だ」という前提が独り歩きし、誤診と不要な治療を生んでいる、と。
この総説は、この病気については脳脊髄液での抗体陽性で病因的な結びつきを認めてよいが、小脳失調やてんかんなど他の症候群では髄腔内での抗体産生の証明を求めるべきだ、と提案している。
そして、忘れてはならない実務的な落とし穴がある。免疫グロブリン製剤そのものの中に、抗ガド抗体が含まれているのだ。天然の抗体レパートリーの一部として。つまり、この治療を受けている患者は、点滴後少なくとも一か月は、血液中に抗ガド抗体が検出される。治療のせいで、検査が偽陽性になる。これを知らずに検査すれば、診断は簡単に狂う。
七十年前と現在で、状況は本質的にどれだけ変わったのか。アッシャーの患者は、検査が全部正常だったから「ヒステリー」にされた。いまは検査が陽性だったから「自己免疫」にされる人がいる。人間は、手元にある検査結果に物語を合わせてしまう生き物なのかもしれない。
なぜ、この病気は想像力を刺激するのか
二〇一八年、アメリカのある地方テレビ局が、タラ・ジアを取材した記事にこんな見出しをつけた。「恐怖で固まる。感情的なトラウマがメリーランド州女性の『人間彫像』病を引き起こしたのかもしれない」
人間彫像――ヒューマン・スタチュー。
この呼び方は医学用語ではない。学術論文には出てこない。だが、この病気を報じるメディアには、繰り返し似た比喩が現れる。石になる。彫像になる。ブリキの人形になる。板になる。凍りつく。
なぜだろう、と考えていて、いくつか思い当たった。
ひとつは、この病気が身体と意識を引き剥がすからだ。私たちが恐れる病気の多くは、意識のほうを奪う。認知症も、脳卒中の一部も、そうだ。あるいは、体を奪ってもゆっくり奪う。だがこの病気は、体だけを、それも数秒で、完全に奪う。意識は残される。閉じ込められる。しかも、完全に麻痺しているわけではなく、逆に、筋肉が全力で働きすぎている。動けないのではなく――動きすぎて動けない。
これは、私たちが持っている「自分の体は自分のものだ」という前提を、正面から否定する。指を動かすとき、私たちは動かせると疑っていない。その疑わなさの上に、日常のすべてが乗っている。この病気は、その土台が薄い板だったことを見せてしまう。
もうひとつは、引き金が「音」だということだ。物語の中で人が石になるとき、たいてい何かを見たり聞いたりしたことが原因になる。メドゥーサの目を見た者は石になる。振り返って見てはならないものを見た者は塩の柱になる。この病気では、ドアの音で石になる。神話が用意した装置と、構造がそっくりなのだ。しかも、こちらは実在する。
三つ目は、名前そのものが比喩だからだ。多くの病名は、発見者の名前か、臓器の名前か、原因物質の名前でできている。この病気の名前は、患者の見た目の描写でできている。硬い、人。医学が、記述する言葉を見つけられなかったのだ。一九五八年にプライスとアロットという医師がこう書いている。「硬直という言葉では、この筋収縮の程度を表すのにとても足りない」。
彼らは、原因がわからない以上、病因を含意しない、見たままの言葉を使うほうがいいと考えた。この病気は、七十年間、その「見たまま」の名前で呼ばれ続けている。
そして四つ目。この病気には、物語を求めたくなる要素が揃いすぎている。世界的な歌姫が、声を失う。まさに歌う人が、歌えなくなる。批評家のひとりは「ベートーベンの聴力喪失と同じくらい残酷だ」と書いた。ドキュメンタリーは、彼女が発作から起き上がって歌い出す場面で締めくくられる。物語として、あまりに完璧なのだ。
だからこそ、注意が要る、と私は思う。
「人間彫像」という言葉は、人を人でなくする言葉でもある。彫像は見るものだ。見世物にもなる。一九五七年、アッシャーの患者は病院の症例検討会に運ばれ、医師たちの前で服を脱がされ、手足を動かされて激烈な痙攣を起こした。あれは学術的な行為だった。でも、あれを見世物と呼ばない理由はどこにあるだろう。アッシャー自身が、その場にいた医師たちが罪悪感を覚えたと記録している。
二〇二四年、ドキュメンタリーが公開されたとき、この問いはまったく同じ形で戻ってきた。カメラは回り続けた。ある批評家は「侵襲的に感じる」と書いた。ただし、決定的な違いがひとつある。今回は、映される側が「削らないで」と言った。
その差は、実は小さくない。誰が見せると決めたのか。誰の言葉で語られているのか。この病気の歴史は、患者の言葉が信じられなかった歴史でもある。気のせいだ、ヒステリーだ、よくなりたがっていない。七十年かけて、ようやく、患者本人が自分の体の映像の使い道を決める場面まで来たのだ。
とはいえ、その一場面をもって「認知が進んだ」と手放しで喜ぶには、あの研究の数字が引っかかる。診断が六十四パーセント増えて、それを裏づける検査は増えていない。物語がエビデンスを追い越して走っている。関心が集まることは、必ずしも理解が深まることとイコールではない。
名前があるということ
最後に、アッシャーのあの引用に戻りたい。
治せもしない病に、名前だけを与える医者。マシュー・アーノルドの詩は、名前だけの診断を皮肉っている。アッシャー自身も、診断がついたことは患者に何の利益ももたらさなかった、と書いた。事実、そうだった。彼女はその半年後に亡くなった。
でも、そこから七十年経った現在、この皮肉は少し違って響く。
名前がなければ、全国調査はできない。全国調査がなければ、患者数はわからない。患者数がわからなければ、制度に載らない。制度に載らなければ、検査に保険は効かない。検査に保険が効かなければ、診断はつかない。診断がつかなければ、治験の対象患者を集められない。治験ができなければ、二十六人に細胞療法を試すことはできない。名前は、その全部の出発点にある。
そして、名前にはもうひとつの役割がある――たぶん、こちらのほうが大きい。ジョンズ・ホプキンスのニューサムが言った、あの言葉だ。患者たちが「認められた」と感じている、という。
何年も、何十年も、あなたはストレスですと言われ続けた人が、テレビの中で世界的な歌手が同じ病名を口にするのを見る。カレン・ロングが診断名を聞いて泣いたのは、絶望からではなかった。ほっとしたから、だった。
病気は治らない。名前がついても治らない。それでも、名前がついた瞬間に、その人は嘘つきではなくなる。
百万人に一人か二人。日本で二百五十七人。この記事を読んでいる人が、この病気の人に人生で一度でも会う確率は、たぶん、ほとんどない。それでも、こういう病気がある。ドアが閉まる音で、人は板になることがある。そして、その人はずっと、全部わかっている。
