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食べても食べても終わらない――タラールとシャルル・ドマリー、十八世紀フランスが本気で記録してしまった底なしの胃袋

この話をする前に、ひとつだけ断っておきたい

タラールの話は、ネットでは完全にネタ扱いになっている。「史上最もヤバい大食い」みたいなノリで消費されているし、正直俺も最初はそのノリで読んだ。

でも資料を追っていくうちに、これは笑い話じゃないなと思うようになった。

食べても食べても満たされないというのは、実際には地獄だ。彼は一度も満足していないし、一度も幸せそうに描かれていない。周囲からは見世物にされ、軍には道具にされ、病院では実験台に乗せられ、最後は証拠のない嫌疑をかけられて追い出された。

もうひとつ先に言っておくと、この記事に出てくる食べ方は、ひとつ残らず真似してはいけないやつばかりだ。当たり前だが。人間の消化器は石もコルクも生肉も想定していない。歴史の話として楽しむ分には最高に面白いけど、実践するジャンルじゃない。

リヨン近郊の、名前さえ残っていない男

主役の名前はタラールという。ところがこれ、本名ではないらしい。あだ名なのか、出身地の地名から来ているのか、それすらはっきりしない。

生まれは1772年ごろ、フランスのリヨン近郊。誕生日も、洗礼名も、両親の名前も残っていない。当時のフランスの農村に生まれた貧しい子供なんて、普通はそういうものだ。

彼が歴史に名を残したのは、彼が何者かだったからじゃなく、彼の胃が異常だったからだ。名前は消えて、胃の記録だけが残った。この時点でもう、なんか切ない。

彼の逸話を後世に伝えたのは、フランス革命軍の外科長だったピエール・フランソワ・ペルシーという医師だ。彼はのちに男爵にまでなる当時一流の軍医で、いい加減なホラ吹き屋ではない。そこがこの話の厄介なところで、「そんなバカなことあるか」と一蹴しようとすると、記録者の肩書きが邪魔をする。

十代で、自分の体重と同じ量の牛を一日で食べた

ペルシーの記録によると、タラールは子供の頃からすでに異常だった。十代になる頃には、牛一頭の四分の一を一日で平らげたという。重さにして、彼自身の体重と同じくらいだ。

数字だけ見るとギャグみたいだが、当時のフランスの貧農の家にとって、これは笑えない事態だ。家の食料をひとりで食い尽くす子供がいる。しかも食べさせても太らない。食べさせなければ家の中のものを漁る。

両親は最終的に、彼を家から出した。可哀想に思えるが、他の子供を飢えさせないための選択でもあっただろう。

十代の少年が、食うもののあてもなく放り出される。ここから彼の人生は、ちゃんと地面に足をつけないまま進んでいく。

盗賊と旅人の集団と一緒に、フランスを歩いた数年

家を出たタラールは、街道を流れ歩く雑多な集団に拾われた。盗んだり物乞いをしたりしながら移動する、当時どこにでもいた種類の人間たちだ。

彼はそこで、自分の体質が金になることに気づいたらしい。普通の人間には飲み込めないものを、平気で飲み込んでみせる。人は驚いて、銀貨を投げる。

やがて彼は、旅回りの大道芸人の前座として雇われるようになる。契約内容はシンプルだ。人を集めろ。できるだけ強烈なものを飲み込め。

彼のレパートリーにはコルク、小石、金属片、そして生きた小動物が並んだ。リンゴをひとカゴ分、次々と丸のみしていく芸もあったという。とりわけ彼が好んだのは蛇だったと記されている。

1788年、パリの舞台で胃が止まった

当然というか、1788年、パリで実演中に彼の腹が限界を迎える。飲み込んだものが詰まって、腹部が張り上がり、動けなくなった。ジローという名の外科医が彼を治療し、何とか内容物を出させることに成功した。

ところが回復したとたん、タラールは医師に向かってこう提案したという。あなたの懐中時計を鎖ごと飲んで見せてやろうか。

ジローは激怒して、「飲んだら腹を切って取り出す」と脅したと伝えられている。

このエピソードは彼の人物像をよく表している。彼には「やめとく」という回路がない。危険かどうかではなく、入るか入らないかだけで判断している。

体重四十五キロ、ゴムみたいに伸び縮みする皮

彼の外見の描写が、この話でいちばん強烈なのかもしれない。

十七歳の時点で体重は百ポンド前後、つまり四十五キロぐらい。あれだけ食べていて、ひょろひょろに痩せている。口は異常に大きく、あごを限界まで開くと上下の歯の間が十センチ近く開いたという。頬には卵を十二個押し込めたという記述さえある。

腹はこれまた異常で、中身が空のときは皮がだぶついて、自分の腰に巻きつけられたとされる。逆に食後は風船のように膨らんだ。皮膚はゴムのように伸び縮みし、頬には年齢に合わない深いしわが寄っていた。目は常に充血していて、食事のあとは大量の汗をかいた。

二十歩離れても耐えられなかった臭い

もうひとつ、記録者たちが強調しているのが臭いだ。

ペルシーの記述では、彼は「二十歩の距離でも耐えられない」ほど臭った。しかも食事の直後はそれが一段とひどくなる。目が充血し、体から湯気が立ち、悪臭が部屋中に充満する。慢性的な下痢もあった。

この臭いの記述は、のちのスパイ任務の失敗にも回ってくるので覚えておいてほしい。人間が人間を避ける理由として、臭いというのは非常に強い。彼がなぜもっとうまく生きられなかったのかという問いの答えの半分は、この一行にあると思う。

革命軍に入ったが、四倍の配給でも足りなかった

フランス革命が起き、周辺諸国との戦争が始まると、タラールは革命軍に入った。食い扶持のためだったのか、徴兵だったのかははっきりしない。

いずれにせよ、軍隊の配給は彼にはまったく足りなかった。上官は見かねて四倍のレーションを与えた。それでも足りない。彼は他の兵士の残飯をもらい歩き、厨房のゴミを漁り、排水溝に顔を突っ込んだ。

やがて体力が尽きて倒れ、スールツ・スー・フォレの軍病院に収容される。ここで彼は、人生を完全に変える二人の医師に出会う。第九軽騎兵連隊のクールヴィル医師と、外科長のペルシーだ。

十五人分の食事を前にして、彼は黙って座った

医師たちは、彼を治療するというより、まず測定した。当時の医学の作法としては自然だが、内容はなかなかすごい。

ある実験では、建設作業の人夫十五人分として用意されていた食事を、丸ごと彼の前に置いた。大きなミートパイが二つ、脂身と塩の皿、そして十数リットルの牛乳。

彼は全部食べた。食べ終わったとき、腹は張り詰めていたが、本人は平然としていたという。

この手の記録を読むとき、俺はいつも少し冒険譚めいた気分になりかけて、すぐに止まる。これ、彼にとっては娯楽でも自慢でもない。とにかく飢えているという、ただそれだけの話なんだ。

猫の件は、なるべく短く書く

この話でもっとも有名な、そしてもっとも嫌なエピソードだ。

ペルシーらは、彼の前に生きた猫を放した。タラールはこれを捕らえ、歯で腹を裂いて血を飲み、骨を除いて食べ尽くした。しばらくして彼は毛と皮を吐き戻した。同じようにして蛇、トカゲ、子犬なども食べさせられている。ウナギを与えられたときは、頭を歯で潰してから、噛まずに一気に飲み下したという。

ペルシーはこう書いている。「犬や猫は、自分たちを待ち受けている運命を先回りして悟ったかのように、彼の姿を見るだけで恐怖に駆られて逃げた」。

現代の感覚では完全な動物虐待で、これを医学実験と呼ぶのは苦しい。でも当時の病院では、これが「観察」だった。

ボーアルネ将軍が思いついてしまったこと

この奇妙な患者の噂は、やがて司令部にも届いた。ある将軍が、とんでもないことを思いつく。

アレクサンドル・ド・ボーアルネ。のちにナポレオンの妻となるジョゼフィーヌの最初の夫として知られる人物だ。

彼の発想はこうだ。この男は何でも飲み込めて、そのまま出してしまう。ならば、機密文書を飲み込ませて敵陣を通らせれば、どんなに厳しい身体検査をされても文書は見つからないのではないか。

発想はある意味天才的だ。問題は、人間を郵便局の封筒扱いするという発想自体に、誰も疑問を持たなかったことのほうだ。

木箱を飲み込むテストは、完璧に成功してしまった

まずテストが行われた。紙で包んだ小さな木箱の中に文書を入れ、タラールに飲み込ませる。二日後、箱は無事に彼の体から回収され、中の文書も読める状態で残っていた。

将軍は喜んだ。これでいける。

だが、このテストが成功したことこそが、彼の悲劇の引き金になった。もしここで失敗していたら、彼はただの奇人のまま病院にいられたのに。

ちなみにこのとき、誰も「彼がドイツ語を話せるか」を確認していない。作戦の前提が、初めから崩れていた。

はじめから、手紙には何も書いてなかった

任務の内容は、ノイシュタット付近でプロイセン軍の捕虜になっているフランス軍大佐に、文書を届けることだった。

しかしここがひどい。彼が命がけで運んだその手紙には、重大な機密など何ひとつ書かれていなかった。中身は、この手紙が届いたかどうか知らせてほしいという確認と、ついでに敵の部隊の動きを教えてくれという依頼。

要するに、タラールという伝達方法が実戦で使えるかを試すためだけの、中身のないダミーだったのだ。彼はそれを知らされていない。

この一点を知ったとき、俺はこの話の印象が完全に変わった。

ランダウ郊外で、彼はあっさり捕まった

ドイツ語が一言も話せないフランス人が、臭いを放ちながら敵地をうろついている。結果は見えていた。

彼はランダウ郊外でプロイセン軍に拘束される。彼は打ち据えられ、ムチで叩かれた。それでも最初は口を割らなかったという。タラールの名誉のために書いておくと、彼は臆病者ではなかった。

だが二十四時間もすると、彼はすべてを話した。やがて体内から問題の箱が回収され、中を開いたプロイセン軍のツェーグリ将軍は激怒した。何の価値もない紙切れだったからだ。

絞首台の寸前で、将軍の気が変わった

ツェーグリ将軍は、この間抜けなスパイを処刑するよう命じた。ところが土壇場で、将軍は命令を撤回する。理由ははっきりしない。この男を殺しても意味がないと思ったのか、あまりに気の毒な姿だったのか。

タラールはひどい殴打を受けたあと、フランス軍の陣地近くで放り出された。

一命をとりとめて戻ってきた彼は、もう二度と兵士には戻りたくないと訴えた。彼はペルシーにすがり、どんな治療でも受けるからこの食欲を止めてくれと頼んだ。

彼自身も、この体を地獄だと思っていたということだ。

アヘン、酢、半熟卵――試された治療の数々

ペルシーは真剣に取り組んだ。いま読むと乱暴に見える方法ばかりだが、当時の選択肢はそもそも限られていた。

アヘンを使って食欲を抑えようとし、ワインビネガーの丸薬を飲ませ、タバコを試し、半熟の卵ばかりを食べさせる食事療法もやった。全部失敗した。一時的に動きが鈍くなっても、飢えは戻ってくる。

やがて彼は病院を抜け出して、肉屋の裏口で臓物をあさり、野良犬と腐りかけの肉を争うようになる。病院の中でも問題を起こした。当時の治療で行われていた瀉血の容器に口をつけようとしているところを見つかったという記録もある。なんとも言い難い。

消えた乳児と、証拠のない嫌疑

そして、この話でもっとも慎重に扱わなければいけない部分が来る。

ある日、病院から生後十四か月の乳児が行方不明になった。すぐにタラールに疑いの目が向いた。

ここははっきりさせておきたい。彼がやったという証拠は、何ひとつ見つかっていない。目撃者もいないし、遺体も見つかっていない。裁判も行われていない。あるのは「彼は小動物を食べるから、やりかねない」という、完全に状況依存の推測だけだ。乳児が消えた原因は、当時の軍病院という環境を考えればいくらでも想定できる。

ペルシーも、彼を弁護することはできなかったし、しなかった。病院の職員たちはタラールを追い出し、彼は二度とそこへ戻ってこなかった。

俺はこの件を、「怪物がついに本性を露わにした場面」としてではなく、「共同体が一番嫌な存在を切り離すときの口実を見つけた場面」として読んでいる。

四年の空白、そしてヴェルサイユで発見される

追い出されてから、タラールの消息は途絶える。パリの雑踏に消えた、と記されているだけだ。

四年ほどして、1798年、彼はヴェルサイユの病院で再び見つかった。ただし今度は、暴れる大食漢としてではなく、ベッドから起き上がれない病人としてだ。ひどく衰弱していて、慢性の下痢が止まらない。

呼ばれたペルシーは、彼を見てすぐに理解した。結核が全身に回っている。もう長くない。

かつて生きた猫を平らげた男が、痩せこけて寝台に沈んでいる。この落差の描写が、記録の中でいちばん静かで、いちばんきつい。

「二年前に金のフォークを飲んだ」という最後の訴え

死の床でタラールが繰り返したのは、意外なことだった。

二年ほど前に金のフォークを飲み込んでしまい、それが体の中に引っかかっている、あれのせいで自分は死ぬのだ、というのだ。

医師たちはそれを信じなかった。症状はどう見ても結核だったからだ。それでも彼は言い張った。

この一点に、彼の人生の全部が凝縮されている気がする。自分の体に何が起きているのかを、彼自身が最後まで説明できなかった。だから手近な、飲み込んだものに原因を求めた。彼にとって世界の因果関係はいつも「何を飲み込んだか」で説明されるものだったのだろう。

遺体を切ることを、外科医たちが嫌がった

タラールが息を引き取ると、遺体はすさまじい速さで腐敗し始めた。記録には「彼の身体はおぞましい腐敗の餌食となった」という趣旨の一文が残っている。

病院の外科医たちは解剖を渋った。臭気と腐敗があまりにひどく、危険だと考えたからだ。しかし結局、テシエという名の医師が引き受けた。

彼には二つの目的があった。ひとつは、この男の消化器がどうなっているのかを確かめること。もうひとつは、本人が言い張っていた金のフォークが本当にあるのかを見ることだ。

開いた腹の中にあったもの

解剖の所見は、いま読んでも生々しい。

食道が異常に太く拡張していた。あごを開かせると、外から食道を通してそのまま胃の中まで見通せるほどだったと記されている。胃はとてつもなく大きく、腹腔のほとんどを占領していて、内側は潰瘍だらけだった。肝臓と胆嚢も異常に肥大していた。体のあちこちが膿で満ちていた。

そして、金のフォークは見つからなかった。彼が最後まで信じていた死因は、存在しなかった。

この所見のうちどこまでが生まれつきで、どこからが十数年の無茶の結果なのかは、当時も今も分かっていない。

この記録は、どこまで信用していいのか

ここで冷静な話をしておく。

タラールの記録は、基本的にペルシーというひとりの医師の報告に依存している。同時代の医学誌に載って広まったが、独立した複数の証言者による検証ではない。一次資料の細部も、後の書き手が繰り返し語り直す過程でだいぶ盛られている可能性が高い。

たとえば「牛の四分の一を一日で」という数字も、「二十歩離れても臭う」という表現も、正確な計測ではなく印象の記述だ。

だから現代の研究者の多くは、核になる事実、つまり異常な食欲と異常な消化器を持つ男が実在して軍病院で観察された、という部分は認めつつ、細部の数字は割り引いて読むべきだという立場をとっている。ここは押さえたうえで、それでも面白いのがこの話の強みだ。

現代医学は、彼に何と名前をつけようとしたか

いくつもの仮説が出ている。

いちばんよく挙がるのが甲状腺機能亢進症、いわゆるバセドウ病だ。代謝が異常に亢進すると、食欲が増して、たくさん食べても痩せて、暑がりで、汗をかき、心拍が速くなる。タラールの記述とかなり重なる。

次に挙がるのが視床下部の異常だ。視床下部には満腹を感じる働きに関わる部位があり、ここが壊れると、食べても食べても満腹感が来なくなることが動物実験で知られている。ヤン・ボンデソンという医学史家は、扁桃体の損傷という説も提示している。

他にプラダー・ウィリー症候群を挙げる人もいるが、この病気は普通は肥満になるので、痩せこけていたタラールとは合わない。寄生虫説も昔から根強いが、寄生虫だけであの量は説明しづらい。

なお、これはあくまで歴史の推測であって診断ではない。食欲や体重の変化で困っている人は、こういう記事ではなく医療機関で相談してほしい。

そもそも「異物を飲む」ことと「大量に食べる」ことは別の話だ

意外と混同されがちなのだが、タラールの症状はたぶん二層構造になっている。

ひとつは、常軌を逸した飢餓感。もうひとつは、コルクや石を飲み込む能力と、それに抵抗がない性質だ。

前者は代謝や脳の問題として説明を試みられるが、後者はむしろ訓練と気質の問題だと考えられている。のちに詳しく触れるが、同種の見世物芸人の解剖所見でも、「特別な体の構造があったわけではなく、嫌悪感を克服した結果だ」という結論が出ている。

タラールの太い食道も、生まれつきの素質に、十数年の酷使が加わってできあがったものかもしれない。この二層を分けて考えると、話が少しだけ整理される。

ここからもうひとり、同じ時代に別の底なしがいた

ここまでがタラールだ。ところがこの時代のヨーロッパには、もうひとり、まったく同じ症状の男がいた。しかもこちらは、記録の質という点ではタラールよりずっと堅い。

名前はシャルル・ドマリー。イギリス側の公文書に、複数の医師と役人の立ち会いのもとで測定された記録が残っている。つまり、こちらは「ひとりの医師の報告」ではない。

この二人が同じ十年ほどのあいだに、フランス軍という同じ場所で観測されているという事実が、この話全体の信憑性を微妙に押し上げている。

ポーランド生まれ、兄弟九人が全員よく食べる家

ドマリーは1778年ごろ、ポーランドの生まれとされる。当時の分割の関係でプロイセン臣民という扱いだったらしい。

記録によれば彼は九人兄弟のひとりで、兄弟は全員が異常な大食漢だったという。父親も相当な食い手で、生煮えの肉を好んだと記されている。家族性の何かがあった可能性を示唆する情報として、これはなかなか興味深い。

彼自身の食欲が跳ね上がったのは十三歳の頃からだった。ちなみにこの家族は、幼少期に天然痘の流行を全員生き延びている。

飢えに耐えかねて、敵陣へ歩いていった少年兵

十三歳でプロイセン軍に入った彼は、対仏戦争のティオンヴィル包囲戦に加わった。ところが包囲戦というのは補給が細る。周りの兵士でも足りない配給が、ドマリーにとっては拷問だった。

彼は脱走して、フランス軍の陣地へ向かった。理由は思想でも忠誠でもなく、飯だ。

フランス側の指揮官は面白がって彼に食べ物を与え、そのまま自軍に迎え入れた。この、飯のために国を替えた少年という導入が、身も蓋もなくて逆に生々しい。フランス軍は彼に二倍の配給を与えたが、当然それでも足りなかった。

一年で百七十四匹の猫、そして毎日の草

パリ近郊に駐屯していた時期の記録が容赦ない。

彼は一年のあいだに百七十四匹の猫を食べたとされる。皮と骨だけを残して、あとは全部だ。他に食べるものがないときは、一日に四から五ポンド、つまり二キロ前後の草を食べた。

好物は生肉で、とりわけ生の牛の肝臓を好んだ。パンと野菜は嫌いだったが、どうしようもないときは生のジャガイモやカブを大量に食べた。

この時点で、彼が「量が食べられる人」ではなく「食べられるものの定義が違う人」だということが分かる。

オッシュ号の甲板で起きたこと

1798年、ドマリーはオッシュという軍艦に乗っていた。アイルランド沖での戦闘中、砲撃で一人の水兵の脚が吹き飛ばされた。

そのとき、ドマリーはその脚を掴んで食べようとした。他の乗員が慌てて取り上げ、海に投げ捨てたと記録されている。

この一件は、彼が凶暴だったという文脈ではなく、彼の飢餓感が理性を吹き飛ばすレベルだったという文脈で記されている。ちなみにこのオッシュ号は同年十月、ジョン・ボーレイス・ウォレン卿の率いるイギリス艦隊に拿捕された。ドマリーは捕虜になる。

リヴァプール近郊の捕虜収容所で、看守が青ざめる

1799年二月、彼はリヴァプール近郊の捕虜収容所に送られた。

当時のフランス人捕虜の標準配給は、一日にパン二十六オンス、野菜半ポンド、それにバター二オンスかチーズ六オンス。決して贅沢ではないが、餓死する量でもない。

ところがドマリーはそれをあっという間に平らげ、なお飢えていた。看守は二倍にした。足りない。最終的に彼は、十人分の配給を毎日与えられることになった。それでも足りなかった。

彼は収容所の猫を食べ、独房に迷い込んだ鼠を少なくとも二十匹食べ、他の囚人が飲みたがらない薬を飲み、そして蝋燭を食べた。

蝋燭は、芯ごと三口で

看守たちの証言で妙に印象に残るのが、蝋燭の食べ方だ。

彼は獣脂の蝋燭を歯で挟んでしごくようにして脂を削ぎ落とし、芯まで含めて三口で飲み下したという。誰かの表現を借りれば、その勢いは「飢えた狼の貪欲さ」そのもので、「肉を引きちぎり、犬のような貪り方で飲み込んだ」。

捕虜収容所というのは基本的に退屈な場所だ。そこにこういう男がいれば、見物人が集まる。彼の存在は、やがて収容所の管理を担当していた役所にまで報告が上がった。

証言その一――1799年、十四時間の公式測定

そして、この話でいちばん貴重な記録が生まれる。

傷病兵管理を担当する委員会の依頼で、J・ジョンストンという医師が中心となり、コクランという委員の立ち会いのもとで、ドマリーの食事量を一日かけて正式に測定したのだ。記録は時刻つきで残っている。

午前四時、生の牛の乳房を四ポンド。午前九時半、生の牛肉五ポンド、獣脂の蝋燭十二本でちょうど一ポンド、そしてポーター一本。午後一時、さらに牛肉五ポンド、蝋燭一ポンド、ポーター三本。合計すると生肉と蝋燭でおよそ十六ポンド、七キロ強。ポーターは四本。

ここまでで注目すべきは中身より反応のほうだ。この十四時間のあいだ、彼は一度も排便も排尿も嘔吐もしなかった。脈は乱れず、皮膚の温度も変わらなかった。

午後六時十五分に測定が終わると、彼は上機嫌で、踊り、煙草を吸い、さらにポーターを飲んだ。

立ち会った医師たちがどんな顔をしていたか、想像すると笑ってしまうし、同時に少しぞっとする。彼らは自分たちの医学の枠組みが役に立たない現象を、目の前で十四時間見せられたわけだ。

証言その二――医師が書き留めた、ドマリーの体そのもの

同じ報告の中に、彼の身体所見が細かく残っている。これがまた面白い。

身長は六フィート三インチ、およそ百九十センチ。体格は普通で、痩せても太ってもいない。長い茶色の髪、灰色の目、なめらかな皮膚。医師は彼の顔つきを「感じのよい容貌」と書いている。怪物としてではなく、ごく普通の若者として記述しているのだ。

脈拍は平均で一分間に八十四、体温も正常。文字は読めなかったが、知能は普通で、精神的な異常も見られなかった。

ここで医師がひとつだけ「妙だ」と書き留めているのが筋肉で、形はまともなのに、体格から予想されるより明らかに弱かった。つまりあれだけ食べているのに、力はない。舌はきれいで、目は生き生きしていた。病人らしいところが、どこにもない。

この所見は効いている。当時の医学の常識では、あれだけ異常なものを食べていれば体は壊れているはずだった。ところが壊れていない。むしろ健康だった。分からないものは分からないと書いた、この報告の誠実さのおかげで、二百年以上あとの俺たちが議論できている。

証言その三――午前一時に目を覚ます男

もうひとつ、ドマリーの生活の記述が妙に胸に残る。

彼は夜八時頃になると激しく汗をかき始める。そのまま一、二時間起きていて、それから眠りにつく。ところが午前一時前後になると必ず目を覚ます。理由は飢えだ。その日どれだけ食べていようが関係なく、猛烈な飢餓感で起きてしまう。

彼は手近にあるものを何でも食べ、何もなければ煙草を吸ってごまかす。午前二時頃にまた眠り、五時から六時のあいだにもう一度、大量の汗をかきながら目を覚ます。起き上がると汗は止まる。

この一日の循環を読むと、大食いの逸話としてではなく、ひとつの病気の症状として彼の生活が見えてくる。毎晩必ず飢えで叩き起こされる人生というのは、どんな気分なのだろう。彼が煙草でごまかしていたという細部が、俺には妙に人間くさく思える。

ちなみに彼は、脚も丈夫だった。一日で十四フランス里、およそ四十キロを行軍して、何ともなかったという記録もある。体は動く。ただ、いつも飢えている。それだけだ。

その後の彼が、どうなったのかは誰も知らない

これがまた、なんともいえない終わり方をする。

収容所での記録を最後に、シャルル・ドマリーの消息は完全に途絶える。ポーランドに帰ったのか、リヴァプールに残ったのか、戦争のどこかで死んだのか、何も分かっていない。

タラールが解剖されて記録に残ったのとは正反対だ。ドマリーは、生きている状態でもっとも精密に測定され、そのあと歴史から消えた。

半世紀ほどのち、1852年になって、あのチャールズ・ディケンズが読み物の中で彼のことを取り上げている。舞台に立たせたら、実のない言葉を噛んでいるだけの悲劇役者よりずっと客が入るだろう、という趣旨の、いかにもディケンズらしい皮肉つきで。

二人を並べると、見えてくるものがある

タラールとドマリーを並べてみると、共通点と相違点がきれいに出る。

共通点は、異常な飢餓感、生肉と異物への嗜好、大量の発汗、そして痩せ型であること。

相違点は、体格と健康状態だ。タラールは百九十センチのドマリーと違って小柄で、慢性の下痢と悪臭に苦しみ、結核で死んだ。ドマリーは大柄で、医師の所見では健康そのものだった。

同じ症状に見えても、原因が同じとは限らない。むしろ「食べても満たされない」という一点だけを共有する、別々の状態だった可能性のほうが高い。ここを一緒くたにして「十八世紀フランスの二大怪人」とだけ言ってしまうと、いちばん面白いところを落としてしまう。

見世物としての「何でも飲む男」という職業

この時代のヨーロッパには、異物を飲み込む芸で食っていた芸人が一定数いた。彼らはポリファージュなどと呼ばれ、劇場や市の立つ広場で人を集めた。

有名なのがジャック・ド・ファレーズという人物で、本名はジャック・シモン、1754年生まれ。1816年の六月にパリのコント座で舞台に立ったのが始まりで、そこから数年にわたって人気を集めた。

彼が飲み込んだものは、殻つきの卵、木の実、パイプ、茎ごとの花、懐中時計、トランプ、そして生きたネズミやスズメ、ウナギ、ザリガニ。さらに剣を飲む芸もやっていて、三十センチ台半ばの磨いた刃を食道に入れたという。当時ヨーロッパで評判だったインドの芸人たちの記録を超える長さだ、と自慢げに書かれている。

その解剖が示した、拍子抜けするような結論

ジャック・ド・ファレーズは1825年に亡くなり、医学アカデミーの依頼でボーデという医師が解剖した。

所見は、咽頭も食道も幽門も普通より広がっていて、胃は大きく引き伸ばされていた。中からは半分消化された食べ物と、トランプが三枚出てきたという。ここまではタラールの所見とよく似ている。

ところがボーデの結論は違った。彼はこの能力を、生まれつきの解剖学的異常ではなく、後天的に身につけた習慣によるものだと判断したのだ。つまり、嫌悪感と反射をひたすら克服し続けた結果、体のほうが順応してしまった、と。

この結論は当時ヨーロッパ中に広まった。異物を飲む能力そのものは、素質より訓練の産物である可能性が高い。この視点は、タラールを読み直すときの重要な補助線になる。

二十世紀にも、同じ枠に入る人がいた

時代を飛ばすと、二十世紀のフランスにミシェル・ロティトという人物が出てくる。ムッシュ・マンジュトゥ、つまり「何でも食べる氏」と呼ばれた芸人で、1950年生まれ。

自転車、買い物カート、シャンデリア、テレビ、そして小型飛行機一機を、長い年月をかけて少しずつ食べたことで知られる。世界記録として認定もされている。彼は2007年に亡くなった。

この人の場合は本物の芸で、細かく砕いて水と油と一緒に少量ずつ飲み込むという方法だったとされる。当たり前だが、これは誰も真似してはいけない類の話だ。

ロティトの存在が示しているのは、タラールの逸話が完全な作り話だと切り捨てられない理由でもある。人間の体は、ときどきこちらの想像を超える。

ここで、日本の妖怪の話をさせてほしい

大食いの怪物という主題は、洋の東西を問わず民間伝承に頻出する。日本でまず思い浮かぶのが餓鬼だ。

仏教の六道のひとつ、餓鬼道に落ちた者たちで、腹だけがふくれて手足は骨と皮、喉は針の穴のように細く、食べ物を口に入れようとすると炎に変わって飲み込めない。永遠に飢え続ける存在だ。

ここで注目したいのは、餓鬼の苦しみが「食べられないこと」ではなく「食べても満たされないこと」として設計されている点だ。タラールの記録を読んだあとにこの造形を見ると、背筋がひやりとする。伝承の作り手たちは、人間にとっていちばん救いのない地獄が何かを、正確に分かっていた。

二口女と、食わず女房の不気味な対称性

日本の妖怪でもうひとつ挙げたいのが二口女だ。後頭部にもうひとつの口があり、髪が動いてそこへ食べ物を運ぶ。前の口ではほとんど食べないのに、食料だけが異様に減っていく。

似た構造を持つのが、各地に伝わる「食わず女房」の昔話だ。飯を食わない女房を喜んで迎えた男が、あるとき屋根裏から覗くと、女房は頭のてっぺんの口に握り飯を放り込んでいる。

この二つに共通するのは、大食いそのものより「隠された食欲」への恐怖だ。表向きは慎ましいのに、見えないところで異常な量を食べている存在。飢饉と口減らしの記憶が生々しい社会で、これがどれほど切実な恐怖だったかは想像がつく。

西洋側にも同じ骨格の物語がある

ギリシャ神話には、エリュシクトンという王の話がある。女神の聖なる木立を伐り倒した罰として、決して満たされない飢えを与えられる。彼は家財を売り、娘を売り、それでも足りず、最後には自分自身を食べ始めた、と伝えられる。

北米の先住民の伝承に登場するウェンディゴも、飢えと結びついた存在として語られてきた。ヨーロッパの民話に出てくる人食い鬼も、多くは「腹が減っている」ことが行動原理だ。

つまり世界中の伝承が、無限の食欲というモチーフを、罰であり呪いであり地獄であるものとして扱ってきた。ここに実在のタラールが放り込まれたとき、彼が伝説側に吸い込まれていくのは、ほとんど必然だったと言っていい。

なぜ人は、大食いの怪物を怖がるのか

理由はたぶん三つある。

ひとつは、食欲が人間のもっとも根源的な欲求だからだ。制御できない食欲というのは、理性が敗北した状態の分かりやすい象徴になる。

ふたつめは、食べるという行為が本来は共同体の中心にあることだ。一緒に食べることは仲間である証で、ひとりで異常に食べる者は共同体の資源を食い潰す裏切り者になる。飢饉のときにこの恐怖が跳ね上がるのは当然だ。

みっつめは、境界の問題。食べていいものと食べてはいけないものの線引きは、文化そのものだ。その線を平気で踏み越える存在は、文化の外側にいる。石を食べる、生きた猫を食べる、人の脚に手を伸ばす。線を越えるたびに、彼は人間の側から遠ざかっていく。

ネットは、彼をどう発見したか

タラールが現代のネット文化に浮上した経緯は、意外とはっきり追える。

大きなきっかけになったのは、2018年四月二日に投稿された英語圏の解説系動画で、これが五百万回以上再生された。そこから2019年の初めにかけて、掲示板の歴史ネタ板でタラールのミームが作られ始める。同年一月一日には彼を丸い吸い込みキャラになぞらえた投稿が、五月一日には例の乳児の件を扱ったネタが立った。

そして決定打になったのが2019年八月十四日、ブログ型SNSに上がった一枚の反応画像だ。これが九万件を超える反響を集め、そこから一気に大量の二次創作が生まれた。

この盛り上がりは大手のニュースメディアにまで取り上げられ、タラールは十八世紀の症例から完全にネットキャラクターへ変換された。

そのミームの中身は、けっこうきわどい

正直に書くと、ネット上のタラールネタの多くは、あの乳児の件を笑いに変えたものだ。乳児側の視点を想像するネタ、彼をゲームやアニメのキャラと重ねるネタ、彼の食欲を無限のスタミナとして扱うネタ。

ブラックジョークとしての完成度は高いが、事実関係としては、繰り返すが彼が乳児をどうにかしたという証拠は何ひとつない。

ミームは細部を削ぎ落とす。削ぎ落とされた結果として残ったのが、いちばん強烈で、いちばん根拠の薄い部分だった、というのはこの手の現象では毎回起きることだ。彼の名前はいま、二百年前の実在の記録よりも、この加工されたイメージのほうで流通している。

考察界隈が真剣に議論している論点

一方で、まじめな考察も積み上がっている。よく議論されるのは四つだ。

第一に、記録の量的信頼性。同時代の計量単位、たとえばポンドやガロンの換算に誤りがある可能性は指摘されている。

第二に、生存可能性。あれだけの量の生肉や獣脂を摂取して健康でいられるのかという問題で、ドマリーの所見が「健康だった」と述べているのは逆に不自然だという意見がある。

第三に、症状の重複。同時代に似た症例が複数現れているのは、当時の戦争と飢餓という環境要因の影響ではないかという説だ。

第四に、記録者の動機。ペルシーは軍医としての権威を持っていたが、同時に珍しい症例を発表する意欲も持っていた。

この四つはどれも決着していない。決着していないから、いまも語られている。

反証側の言い分も、きちんと聞いておきたい

懐疑的な立場の人たちの主張はもっともだ。

まず、タラールの記録には計測器を使った定量的なデータがほとんどない。「四ガロンの牛乳」のような数字はあるが、誰がどう量ったのかが書かれていない。

次に、スパイ任務の顛末は明らかに物語として出来すぎている。捕まって、鞭打たれて、処刑寸前で助かる。軍記物の定型そのものだ。

さらに、乳児の件は伝聞の域を出ない。

これらを差し引くと、確実に言えるのは「異常な食欲を持つ患者が軍病院に存在し、解剖で異常な消化器が確認された」という骨格だけになる。ただ、その骨格ですら十分に異様だ。だからこの話は生き延びている。

二人の物語が、いまも読まれる理由

腹が減るというのは、誰でも知っている感覚だ。だからこの話は、専門知識がなくても入ってこられる。そして、その誰でも知っている感覚が終わらないという一点だけをひねると、途端に地獄になる。恐怖の作り方として、ほとんど反則に近い。

しかもタラールもドマリーも、悪人として描かれていない。二人とも困っていて、二人とも助けを求めていて、二人とも誰にも治してもらえなかった。

怪物譚のかたちをしているのに、中身は医療に見放された人間の記録だ。この二重性が、二百年経っても消えない引っかかりを残している。

これは、近代医学が自分の限界にぶつかった記録だ

ここまで二人の記録を追ってきたので、最後に少し引いた位置から、この話が何の物語なのかを整理し直しておきたい。

まず言いたいのは、タラールとシャルル・ドマリーの記録は「大食い自慢の元祖」として消費されがちだが、実際には近代医学が自分の限界に正面からぶつかった記録だという点だ。

十八世紀末というのは、医学がようやく観察と記録を武器にし始めた時代だった。ペルシーもジョンストンも、目の前の現象を測って、書いて、公表するという当時としては最新の作法に従った。

ところがその作法をどれだけ丁寧にやっても、彼らはこの二人に何の説明も与えられなかったし、何の治療もできなかった。ペルシーはアヘンからワインビネガーから半熟卵まで、思いつく限りを試して全部失敗している。ジョンストンに至っては、治療を試みることすらせず、ただ十四時間を計測しただけだ。

この無力さの記録が、そのまま残されているところに、俺はむしろ好感を持つ。分からないものを分からないまま書き残す判断が、二百年後にこの議論を可能にしている。逆に言えば、当時の医学が下手に説明をでっち上げていたら、この二人の話は今ごろ誰にも顧みられていなかっただろう。

彼は一度も「患者」として扱われなかった

次に、この物語の倫理的な核について書いておきたい。

タラールの生涯を通して見ると、彼は一度も「患者」として扱われていない。少年期には家の負担として追い出され、青年期には見世物として消費され、軍では伝令用の道具として使われ、病院では観察対象として生きた猫を与えられ、最後は証拠のない嫌疑で追放された。

彼を人として遇した記述が、ほとんど見当たらないのだ。唯一それに近いのがペルシーで、彼はタラールの訴えを聞き、治療を試み、最期を看取り、記録を残した。だがそのペルシーですら、乳児の件で彼を庇うことはできなかった。

ここは何度でも強調しておきたい。タラールが乳児に何かをしたという証拠は、当時も現在も存在しない。あるのは、周囲がそう疑ったという事実だけだ。

そして、その疑いだけで彼は共同体から完全に切り離された。異物を飲む男という強烈な属性が、彼の周りに常に「こいつなら何でもやりかねない」という空気を作り、その空気が証拠の代わりに機能した。

これは十八世紀のフランスに限った話ではない。強烈なレッテルを貼られた人間が、証拠の要らない疑いを引き受けさせられるという構図は、いつの時代のどの社会にも普通にある。ネット上のタラールのミームが、よりによってその乳児の件を素材にして拡散しているという事実は、この構図が今も生きていることの、たぶん一番いい証拠だ。

ドマリーの記録の本当の価値は「健康だった」という所見にある

三つ目に、シャルル・ドマリーの記録の価値をもう一段掘っておく。

この人の記録が貴重なのは、単に測定が精密だからではない。むしろ「彼が健康だった」という所見が残っていることが決定的なのだ。

もし記録が、異常な食欲を持つ男が苦しみながら衰弱していく話で終わっていたら、俺たちはそれを病気の物語として素直に受け取っただろう。

ところがドマリーは、あれだけ食べて、それでいて脈も体温も普通で、顔つきも感じがよく、精神的にも安定していて、四十キロ歩いてもへこたれない。ただ筋力だけが体格に対して弱く、そして毎晩午前一時に飢えで叩き起こされる。

この、ほぼ全部が正常なのに一点だけが壊れているという所見の形が、現代の内分泌や神経の異常を考えるうえで示唆的だ。全身が壊れているのではなく、満腹を感じる回路だけが繋がっていない。この形の異常は、動物実験では実際に作り出せることが知られている。

ドマリーの記録は、そういう仮説を立てるための材料として、二百年以上たった今も参照される価値を保っている。もっとも、繰り返しになるが、これは歴史的な症例の読み解きであって、現代の誰かを診断する道具ではない。この記事の医学的な記述は全部、その但し書きの下にあると思って読んでほしい。

伝承は因果をくれる。実話はくれない

四つ目に、伝承との接続をもう少し丁寧にやっておきたい。

餓鬼、二口女、食わず女房、エリュシクトン、人食い鬼。これらの物語が世界中で独立に生まれたのは、飢餓が人類共通の経験だったからだ。

ただ面白いのは、伝承の中の大食いの怪物が、たいてい「罰として」その体になっているという点だ。エリュシクトンは神域を侵した罰。餓鬼は生前の貪欲の報い。食わず女房も、正体を隠していた者として退治される。

つまり伝承は、無限の食欲に必ず因果を与える。悪いことをしたからそうなった、と説明する。

ところが実在のタラールとドマリーには、その因果がない。二人とも何も悪いことをしていない。生まれてきたら、そういう体だった。それだけだ。

この、因果のなさこそが、実話が伝承より怖い理由だと俺は思っている。伝承は「だから自分は大丈夫」という逃げ道を用意してくれる。実話はそれをくれない。ネット上でタラールが妙に人気を集めたのも、この居心地の悪さが笑いに変換しやすかったからかもしれない。笑わないと処理できない話というのは、確かにある。

記録の中で、二人はまだ腹を空かせたまま止まっている

最後に、この二人について何を持ち帰るべきかを書いて終わりたい。

俺が思うに、この話の教訓は「珍しい体を持って生まれた人間を、社会がどう扱ってきたか」に尽きる。

十八世紀のヨーロッパは、彼らを見世物にし、道具にし、標本にした。医学は誠実に記録したが、救うことはできなかった。そして彼らが死ぬか消えるかしたあと、残った記録は娯楽として何度も再利用され、二十一世紀にはネットのネタ画像になった。この扱いの流れ全体が、実はこの話の本体なんじゃないかという気さえする。

タラールの本名は分かっていない。生年月日も分からない。彼が何を考えていたかを書き残した文章はひとつもない。分かっているのは、彼が飢えていたことと、誰にも止められなかったことと、金のフォークが体の中にあると信じたまま死んだことだけだ。

ドマリーに至っては、その後どうなったかすら誰も知らない。

二人とも、記録の中で腹を空かせたまま止まっている。俺たちにできるのは、その記録を面白がるついでに、ここに実在の人間が二人いたことを忘れないでおくことくらいだと思う。それくらいはしてもいいだろう。二百年以上、こんなに何度も語られているのだから。

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