頭のてっぺんの小さな渦
赤ん坊の頭のてっぺんには、小さな渦がある。産毛が一点から外へ向かって流れていて、指でなでると、髪の向きが渦の外へ散っていくのがよく分かる。寝かせた頭を上から見下ろすと、渦の真ん中だけ髪の向きが定まらず、ちょこんと立っているのが見えた。つむじと呼ばれる場所。
大半の人はこの渦を一つしか持たないが、ときどき二つ持つ人がいて、上から見ると渦が仲良く並び、頭の天辺に目玉が二つ付いたようにも見える。この数に、日本では昔から言い伝えがいくつも付いてきた。天才の話から薄毛の話まで、振れ幅がやたらと広い。
天才になる。頑固になる。ひねくれる。どれも二つのつむじに貼られた札で、褒める話と貶す話が、同じ頭の上に並んで貼ってある。ちなみに、王者の相だという話もあれば、寝ている子をまたぐと不幸が起きるという話まで、きちんと用意されている。
旋毛と書いて、つむじと読む
デジタル大辞泉は、つむじを「毛が渦巻き状に生えているところ」と説明している。頭頂にあるものをいう、と添えたうえで、毛渦、つじという別の呼び名も並べていた。毛渦は、美容師の間でも使われる言葉だという。
つじの項は、つむじの音が変わった形だと記し、いただき、てっぺんの意味も挙げている。頭の渦と頭の一番高い所が、ひとつの言葉の中に収まっていたわけだ。昔の人にとって、渦のある場所は、そのまま頭のてっぺんだった。てっぺんの別名。
漢字は旋毛で、音読みならせんもうと読む。旋の字にはぐるりと回る意味があり、回る毛と書けば、そのまま渦を巻く毛を指す。字面を眺めるだけで、渦の様子がすぐ浮かんでくる。名前の付け方が素直。
旋毛と書く言葉には、読み方が三つある。つむじ、せんもう、つじで、辞書はそれぞれを項目に立てている。つむじげと続けて読めば、つむじに生えた毛そのものを指す。同じ頭の渦が、読みの違いで呼び分けられてきた。
つむじ風という言葉もある。地面の上で渦を巻いて走る風が、頭の渦と同じ名前で呼ばれているのだから、どちらも、ぐるぐる回るものに付いた名前だった。渦を巻くものを一つの言葉で呼んだ、昔の人の目。ぐるぐるの仲間。
左巻きという悪口と、お釈迦さまの白い毛
つむじ曲がり、という言葉がある。素直じゃない人や、わざとひねくれて見せる人を指して使い、左巻きと言えば似た意味で、変わり者への呼び名になる。つむじを曲げる、も同じ仲間で、機嫌を損ねて意地を張る様子の言い方だ。
今でも日常で使われる言葉で、頑固でも、ただの意地っ張りでも、天邪鬼でも、一言で片付けられてしまう便利な悪口になる。その便利さの裏に、お釈迦さまの毛が隠れているとは、普通は思わない。
この言葉の出どころに、釈迦の白毫を挙げる解説がある。ウィキペディアの旋毛の項は、つむじ曲がりも左巻きも、右巻きだった釈迦の白毫に由来すると説明していた。頭の渦から、お釈迦さまの顔へ話が飛ぶ。飛び方が唐突だ。
白毫は、仏の眉間のやや上に生えているとされる、白く長い毛のこと。仏の見た目には三十二の特徴があると数えて三十二相と呼ぶが、白毫はその31番目にあたり、右巻きに丸まっていると言われる。伸ばすと1丈5尺、約4.5メートルあるという。
光を放つ毛でもあった。法華経には、白毫が光を放ち、東方一万八千の世界を照らし出す場面が出てくる。毛一本が世界を照らすのだから、すごい話だ。仏像では、その毛を丸い膨らみで表したり、水晶や真珠をはめ込んだりして見せる。
三十二相は、仏の体に備わる優れた特徴を三十二に数えたもの。細かな特徴を八十に数えた八十種好と合わせて、仏の姿の約束事になっている。眉間の白毫も、耳たぶの福耳も、その特徴表の中の一項目だ。仏の特徴表から、人間の顔や頭の吉凶へ話が下りてきた、と読むこともできる。
その巻き方が、右だった。右巻きが仏の印なら、左巻きは反対側に置かれることになり、左巻きという悪口も、この線で説明されている。毛一本の巻き方が、人柄への悪口にまで伸びたわけだ。ここが肝だ。
仏像の頭にずらりと並ぶ粒は螺髪と呼ばれ、ウィキペディアは、仏像の頭上に現れる右巻きの髪型だと定義している。仏の頭は右に巻く毛でできていたが、頭のてっぺんに渦を持つ人間が、仏の髪を思い出す場面があったかどうかは、分からない。粒の数は多い。
ただ、つむじ曲がりには別の説明もあり、頭の真ん中からずれた位置にあるつむじを、そう呼ぶのだという。どちらが先なのか、確かめられた資料の範囲では決められなかった。語源の話は、案外こういう所で止まる。
鳥居の形に並ぶ渦
つむじを複数持つ人を鳥居つむじと呼ぶ名前が、ウィキペディアの旋毛の項に出てくる。二つ並べば柱が二本になるので、鳥居を連想した人がいたのは、分かる気がする。命名の妙。
辞書や事典の扱いは、驚くほど地味だ。大半の人は一つで、つむじを持たない人や複数持つ人もいる、と書き、それで終わってしまう。その少数派に付いた言い伝えだけが、やたらと賑やかだった。落差は大きい。
人間以外の動物にも渦は見られる、とウィキペディアは記している。つむじは人だけの目印じゃなく、毛の生えた体には、毛の流れが渦になる場所が出来る。
言い伝えの数は多いが、型は四つほどしかない
ここまでに出てきた話を並べると、出世と天才を言う褒める型と、頑固やひねくれを言う貶す型に分かれる。そこへ、またぐと不幸が起きるという禁忌の型と、ハゲるという体の型が加わる。
沖縄のわんぱくは、褒めにも貶しにも寄れる中間の型で、数は多いのに、中身は少ない。どの型も、渦が二つあるという一点だけを材料にして、人柄や将来や災いへ話を伸ばしている。
伸ばす先が違うだけで、材料は同じだった。俗信と呼ばれる話の、典型的な作り。
王者の相か、天才の印か
つむじが二つある子は、王者の相を持ち、立身出世する。そう語る言い伝えがあって、ある解説は、同じ話を「天才になる」という形でも紹介していた。褒め言葉としては、これが一番派手だ。
王者の相と天才は、同じ話の言い換えに近い。つむじが二つあるのは特別な頭だ、という出発点が同じで、行き先が王様か天才かに分かれただけだ。出発点は一つ。
天才説の広まり方について、成功した人に二つ持ちがいたという話から広がった、と説明する解説もある。有名なスポーツ選手の名前を挙げるものまであったが、本人の頭を確かめた記録は見当たらない。名前は書かない。
立身出世は、身を立てて世に出ること。つむじの数で将来を占う発想は、顔の相を読む人相や、手のひらの筋を読む手相の仲間に入る。体の特徴に、運や人柄を読み取ろうとする型だ。
同じ人に、褒め言葉と悪口が並ぶ点も面白い。天才も、頑固も、ひねくれ者も、二つのつむじから出た話で、良い札と悪い札が、同じ頭に貼られている。占いの文句には、こういう両面の作りが珍しくない。
最近のスピリチュアル系の解説になると、話はもう一段上がる。二つのつむじは宇宙のエネルギーの入口が二つあることになり、直感や霊感が強い、と書く解説があった。つむじが痛いときやかゆいときに、運気を読み取る解説まである。
性格を決める話から、運気を読む話へ。つむじの言い伝えは、時代ごとに新しい言葉を着込んで生き延びる。辞書は、そんな着替えにはまったく付き合わない。
ひねくれ者、気が強い、頑固者
つむじが二つある人は頑固で気が強い、という言い伝えも、天才説と同じくらいよく見かける。ひねくれ者、わがまま、と悪い方向の言い回しも付いてくる。
頑固者だという説は、特に年配の人の間に浸透している、と書く解説がある。若い世代より、昔の人の口から出やすい話らしい。世代をまたいで渡された言い伝え。あり得る話だ。
髪が思い通りに寝てくれない扱いにくさと、気性の頑固さを重ねた、と見る解説もある。二つのつむじの周りは、髪の流れが一本調子にならない。手入れに苦労した人が、そう呼んだのかもしれない。
ある解説は、天才説も頑固説も、科学的な根拠はなく憶測の域を出ない、と言い切る。血液型で性格を決める話と同じで、イメージだけが独り歩きしている、という見立てで、手厳しい。
つむじの数と性格を結ぶ研究を探したが、今回確かめた範囲では、それらしいものは見つからない。正直なところ、言い伝えは数が多く、裏付けは薄い。そういう組み合わせの話。
寝ている子をまたぐと不幸がある
つむじが二つある子が寝ているのをまたぐと不幸がある、という言い伝えを記す解説もある。同じ解説は、これを丙午の迷信のようなものと位置付けていた。気味の悪い話だ。
寝ている人の体をまたぐな、というしつけの言葉は、つむじと関係なく広く知られている。つむじの話は、その行儀の言葉に重なる形で語られていたわけだ。人の頭や体をまたぐ行為そのものが、昔から嫌われていた。
丙午は、十干の丙も十二支の午も陽の火にあたり、火の性質が重なる年だと説明される。江戸時代には、丙午の年は火事が多い、という話が先にあった。それが、歌舞伎の題材になった八百屋お七を丙午の生まれとする話と結び付いた。
根にあるのは、陰陽五行の考え方だ。木、火、土、金、水の五つで世の中を分け、丙も午も火に数える。火が二重に重なる年だから、火事が多くなる、と読んだわけだ。火が重なる年。
丙午の女は気性が激しく、夫の命を縮める、そんな俗信に変わったという。変化には、浄瑠璃作者の紀海音の影響が大きかったと説明されている。火事の話が、いつのまにか女の気性の話にすり替わっていた。
1906年の丙午では、出生数が前の年より約4パーセント減り、出生届を前後の年にずらす家もあった。1920年代には、縁談が壊れたり婚期が遅れたりした女性の自殺が新聞で相次いだ。迷信を否定する映画『丙午の女』まで作られている。
1966年の出生数は136万974人で、前の年の182万人から25パーセント減った。翌年の1967年は194万人へ戻っている。この年は、第一子が占める割合が50.9パーセントに達し、統計の上で過去最多だった。
落差は、いまの目で見ても大きい。前の年から約46万人が減り、翌年には前の年を上回る数へ戻っている。その一年だけが、ぽっかりと凹んだ統計。
山形市はひのえうま追放運動を進め、群馬県の粕川村は迷信追放の村を宣言した。迷信を打ち消す側の、必死の抵抗。厚生省は、この年の1月から3月にかけて、異常に多いとされた人工中絶の調査まで行っている。
調査の結果は、8月22日付の朝日新聞夕刊で報じられた。数字だけでなく、子どもを産む産まないの決断にまで、迷信は入り込んでいる。つむじの言い伝えとは、重さが違う。
夏目漱石は、小説の『虞美人草』で、悪女の藤尾を「藤尾は丙午である」と書いた。丙午の名前が、そのまま悪女を呼ぶ札になった時代だ。つむじが二つという札と、貼られ方はよく似ている。
2023年には、大阪教育大学がアンケートを取っている。回答した142人の半数弱が、丙午生まれの女性は気性が荒いと決めつけられた経験を持っていた。丙午を避けるべきだという考えに賛成したのは、1パーセントにすぎない。
二つの話に共通するのは、生まれつきの特徴で、その子の運命や周りの災いを決めてしまう形だ。本人が何をしても動かせない。だから、理屈より先に、恐れだけが広がった。
つむじの言い伝えが、出生数や縁談を動かした、という記録は、今回確かめた範囲では見当たらない。寝ている子をまたぐな、という形で、家の中の行儀に入り込んでいたくらいだろう。丙午に比べれば、静かな迷信。
沖縄のターチマチャー
沖縄の方言では、つむじをマーチューと呼ぶ。ティーチは一つ、ターチは二つで、つむじが二つある人のことを、ターチマチャーという。数え方がそのまま名前になっている。短い言葉だ。
ターチマチャーの子は、ウーマクー、つまりわんぱくになる。そう昔から言われてきたと、方言を紹介するサイトも、大学の学生が書いた文章も記している。本土の天才や頑固とは、少し色合いが違う。
方言の資料は、子どものつむじの数がよく気にされる、と書く。同じ資料は、マーチューという言葉自体が、沖縄でもほとんど使われないとも断っていた。言葉が薄れた後も、つむじを気にする習慣が続いたのかもしれない。
気にした末に何をしたのか、資料は書いていない。数を数えるだけで済んだ話なら、言い伝えとしては穏やかな部類だ。わんぱくになるだろうと覚悟する、くらいのものだったのかもしれない。
別の解説は、ターチマチャーの男の子は大物になる、とまで書く。わんぱくは、悪口にも褒め言葉にもなる。元気がいいとも、手がかかるとも取れる。
本土の頑固、気が強いと、沖縄のわんぱくは、同じ方向を向いた話だった。言い方が違うだけで、褒めるか貶すかは、聞く人の受け取り方に任されている。
ハゲるという言い伝え
つむじが二つあるとハゲる、という言い伝えもある。天才説や頑固説に比べると、ずっと生々しい。体の話だからだ。
ハゲるという札だけは褒め言葉に化けず、天才も頑固も、受け取り方で良し悪しが変わる余地がある。薄毛は、どう読んでも悪い札として貼られてきた。言葉の解釈では逃げにくい、体の話。
これには、体の構造から出た説明が付いている。二つのつむじの距離が近いと、地肌が見えやすい。ハゲたのではなく、ハゲて見えるだけ、という説明だ。医学的な根拠はない、とはっきり書く解説もあった。理屈は通る。
つむじは、髪が渦を巻いて外へ流れ出る場所だ。渦の中心の近くは髪の向きが分かれやすく、そこが二つ寄れば、地肌の覗く範囲も広がる。
髪が薄くなる仕組みには、ここでは踏み込まない。つむじの数が将来の薄毛を決めた、と示す確かな研究も、手元の資料には出てこなかった。見えやすさの話と、減っていく話は、別の話だ。
渦は、お腹の中でできる
つむじの出来方を、ある解説はこう書く。胎児の頃、頭頂とお尻を結ぶ軸を中心に、皮膚が形づくられる。体が成長すると皮膚が引っ張られ、軸のまわりで回転した。その名残が渦だ、という説明だ。お腹の中の話だ。
胎児の頃の皮膚の形成を、妊娠5か月から7か月ごろと書く解説がある。ほかの解説は月数を挙げず、成長で皮膚が引っ張られた名残、とだけ書く。細部は、解説ごとに揺れる。
髪の毛は、毛穴から垂直には生えず、頭皮に対して斜めに生えている。斜めの毛が軸のまわりで回れば、全体が渦を巻く。理屈としては分かりやすい。
ここまでは、いくつかの解説が揃って書く所だった。ただ、これを実証した論文の名前までは、確かめられなかった。つむじの出来方が、完全に決着した話かどうかは分からない。
渦の数は何パーセントか
つむじが二つ以上ある人の割合は、解説によって違い、7パーセント前後と書くものがある。日本人の約1割と書くものも、1割から2割と書くものもある。倍以上の開きだ。
3つ以上は、さらに少ない。1.5パーセントと書く解説もあれば、3パーセントと書く解説もあった。どの数字も、出どころがはっきり示されていない。あやふやな数字。
ウィキペディアの旋毛の項は、つむじを持たない人もいる、と書く。渦が一つもない頭がある、という話だ。一つ、二つ、三つ以上、そしてゼロ。数え方は、案外広い。
日本人全体を調べた確かな統計は、今回の範囲では見つからなかった。だから、7パーセントも2割も、目安にしかならない。100人に数人から十数人いる、くらいの感覚で足りる。
今回読み比べたのは、辞書、ウィキペディア、髪や皮膚を扱う会社やクリニックの記事、大学の学生の文章、方言を集めたサイトなどだった。数字や由来を元の調査まで辿れたものは、ほとんどない。出どころがはっきりした確かな部分は、辞書の記述だけだった。
渦の向きは、右巻きと左巻きの二通りだとウィキペディアは書く。右巻きが優性で、遺伝で決まると説明する解説もある。時計回りの人は頭の回転が速く、反時計回りの人は人助けが得意、と性格を分けて語る占いもあった。
頭のてっぺんは自分の目では直接見えないので、渦の数も向きも、人に教えてもらうか、鏡を二枚使って知ることになる。気付かないまま一生を終える人もいる。
つむじの数に最初に気付くのは、たいてい本人ではない。赤ん坊なら親で、大人なら髪を洗う人や切る人だ。言い伝えが他人の口から語られやすいのは、そのせいかもしれない。
遺伝か、偶然か
つむじの数や向きは遺伝の影響が大きいと考えられている、という言い方は、複数の解説で共通していた。両親のどちらかが二つなら、子も二つになる可能性は十分ある、と書くものもある。
国立成育医療研究センターのデータベースに、つむじの数や向きは遺伝で決まる確率が高いと考えられる、と記載があると紹介する解説もあった。ただ、元のデータベースの文面までは確かめられていない。伝聞のままの紹介。
ところが、別の解説は、双子でもつむじの向きが違う場合があると書く。同じ遺伝子を持つ二人で食い違うなら、遺伝だけでは決まらない。理由は詳しく分かっていない、と結んでいた。謎は残る。
つむじが二つの人から、二つの子が生まれる確率は、決して高くない。そう書く解説もある。遺伝すると言い切れる材料は、まだ足りないらしい。確率は低い。
原因がはっきりしないまま、言い伝えだけが先に歩いてきた。理由が後から追い掛けている形だ。
つむじを押された子どもたち
つむじには、遊びの話もある。筑波大学の学生が書いた文章に、子どもの頃の遊びが出てきて、友達同士で、つむじを押し合うのだ。
押す側は「下痢になれ」と唱え、ときには「身長ちぢめ」と唱えることもあった。つむじを押されるとそうなる、というのが、子どもの間の決まりだったという。いかにも子どもの遊びだ。
もちろん、医学的な根拠は無い。つむじを押しても、お腹は壊れないし、背も縮まない。それでも遊びは成り立った。
頭のてっぺんは、普段あまり触られない場所だ。そこを押すという行為が、遊びの形になった。つむじは、子どもにとって狙い目の急所だった。
耳たぶとほくろに貼られた札
体の特徴に、運や人柄の札を貼る話は、つむじだけじゃない。耳たぶが大きく肉の厚い耳を、福耳と呼ぶ。福相の印とされ、金運や福運に恵まれると言われてきた。福を呼ぶ形。
福耳は、釈迦の三十二相八十種好の一つにも数えられ、白毫と同じ、仏の身体の特徴の仲間にあたる。理想の形は、耳たぶが真下に垂れず、上に米粒が乗るくらい口の方を向いているもの、と書かれている。仏様の耳だ。
古い文献にも顔を出し、鎌倉時代の『沙石集』や、江戸時代の歌舞伎の演目『時今也桔梗旗揚』に、福耳への言及があるという。耳は、人の目に付きやすい場所だ。
ほくろは、メラニン色素を含む細胞のメラノサイトが、皮膚の一部に周りより高い密度で集まってできた母斑の一種。仕組みは皮膚の話で、運勢とは関係がない。それでも、目の下のほくろを泣きぼくろと呼び、涙の多い人生と読む言い伝えは、長く生き残ってきた。仕組みは単純。
毛渦と呼ぶ人たち
毛渦という言葉は美容師の間で使われ、髪の流れは渦の位置から出るという。だから、髪を切るときも、渦の場所が気になる。
髪を短く刈ると渦の形は隠れにくく、向きの違う毛が、そのまま地肌の線に出る。長く伸ばした髪は、渦を覆って隠してしまう。刈れば見える。
二つ並んだ渦を、鳥居と呼ぶ人がいる。ターチマチャーと呼ぶ人もいるし、王者の相と呼ぶ人も、天才の印と呼ぶ人もいる。呼び名の数だけ、頭のてっぺんを見上げた人がいたことになる。
