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「恙なきや」は病を問う挨拶だった――その字を名にした虫に医者は半世紀迷い、戦後には別の顔の熱が現れた

雄物川の船頭が建てた地蔵が、大雄に立っている

秋田県横手市の大雄に、小さな地蔵が立っている。呼び名は「ケダニ地蔵」。明治37年に雄物川の川船の船頭が建てたと、横手市の公式な案内に書いてある。

この地蔵が弔っているのは、風土病で死んだ人たちだ。雄物川の中流一帯には「ケダニ」と呼ばれる病があって、旧大雄村でも春から夏に毎年数人がかかったという。医療が遅れていた昭和の初めまでは、死者も多く出たらしい。

いまこの病は「つつが虫病」と書く。ダニの幼虫に刺されて起きる感染症だ。同じ病が、土地ごとに別の名で呼ばれた。秋田では「ケダニ」。新潟では「赤虫」や「島虫」、そして「つつがの虫」だった。

秋田県立博物館の展示の案内によると、秋田には「ケダニ」の診療を専門にする医者がいた。病を鎮める行事や神社もあったという。論文によれば、旅の記録者の菅江真澄は、越後を歩いた1784年の紀行に恙の虫を書いている。秋田に腰を据えてからの地誌にも、ケダニの名が出てくる。

名前の字を見てみる。「恙」という字は、この病が医者に知られるより、はるか前から日本語の中にあった。

607年の国書は「恙なきや」と問いかけていた

『隋書』が載せた607年の国書の冒頭は、読み下すと「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」となる。『日本書紀』は、この文面を載せていない。「恙なきや」は、お変わりありませんか、という挨拶だ。

「恙」は病や災難を指す字だった。論文によれば、中国では『史記』や『爾雅』の時代、恙は憂いや災難を指す字で、病の意味も虫の意味もまだ持たなかった。字書の『字通』は、孔子が弟子を迎えるときに、その母は恙ないかと尋ねる話も引く。

病と咬む虫の意味が字に加わるのは、1007年から08年の『広韻』あたりからだ。唐代の『匡謬正俗』は、恙を人の心を食う虫と書く。日本の河原のダニより前に、字のほうが先に虫を指していた。

日本語の「つつが」も、病を指す言葉として根づいた。『日本国語大辞典』が最初の用例に挙げるのは、970年から999年ごろの『宇津保物語』だ。9世紀までさかのぼるとする記述もあって、年は少し食い違う。語源辞典は、障りにあう意味の動詞「恙む」の名詞形が「つつみ」で、「つつみなし」とも言ったと説く。

虫の名が辞書に出るのは、ずっとあとで、室町時代の辞書『節用集』の文明本が「恙虫」を載せる。1614年の『慶長見聞集』には「恙と云虫人を食ふ故に諸人土穴を掘隠居せり」という一節がある。

ここで年を並べてみる。国書が607年。辞書に恙虫が出る室町の中ごろは、それから800年以上あとだ。新潟の河原で「つつがの虫がいるから入るな」と告げた記録が1754年で、1100年以上のへだたりがある。

病原体の菌が見つかったのは、1930年前後になる。正直、この年表を見ると、「つつがなしは、つつが虫がいないという意味だ」という俗説は苦しい。挨拶のほうが、千年も先に生まれていた。

ある昆虫の読み物の筆者は、若いころに人から聞いたこの話を、半世紀ほど知人に受け売りしたと書いて詫びている。日本心臓財団の文庫に書く医師も、学生時代の講義でそう聞いた覚えがあると書く。教える側にも、信じやすい話だったわけだ。

筆者の見立てを一つ書く。この説が根づいたのは、並べると筋が通って聞こえるからだ。病の名にも挨拶にも恙の字があるので、二つを「虫がいない」という一言で結べば、話はきれいに収まる。

順序は逆だった。字が先にあり、虫の側が、病を起こす虫として字を借りたのだ。ただ、その借り方が日本で最初に起きた場面は、筆者には確かめられなかった。

阿賀川の「疫病島」で、五人が死んだ

江戸の文政年間に、新潟町の地誌研究者の草間文績が『越後図説』をまとめた。小杉村の阿賀川の中に、疫病島と名づけた島がある。夏の土用から8月まで、萱を刈り、畑を作りに入った者が、毒虫に刺されて死んだと書く。

虫は白い毛のようで、長さは一寸八分ほど。爪で抜こうとすると半ばで切れて、先が体の中に残り、しばらくして寒けと大熱が来て、人は死ぬという。文化13年、1816年にも、五人が刺されて死んだ。

文績は「昔も今も相同じ」と添え、「是世上に恙の虫と云う類なるにや」と結んだ。一寸八分は5センチあまりある。実際の幼虫は0.2ミリほどだ。桁がちがう。筆者の見立てでは、見たままを写さず、聞いた話を写したのだろう。

新潟県の記録に初めて出るのは1754年だ。論文によると、新発田藩の普請役人が中之島の村で湿地を開くとき、庄屋に「つつがの虫がいるから入るな」と告げた。1792年に出た家臣の事績の書が、この出来事を伝える。

虫がいたのは、河原の中でも決まった場所だった。場所には、理由があった。堤防と川のあいだの堤外地で、大水のときだけ水をかぶる砂地は、水はけがよく、背の高いヨシが茂り、ハタネズミが住む。

堤防の外の田では、毎年米を作っても患者が出なかった。新潟平野を調べた論文は、堤防が築かれて堤外地ができた元禄のころ、人の出入りする有毒地が定まったと見る。大正に川の改修が進み、堤外地が縮むと、患者は急に減りはじめる。

土地の者は、危ない場所を知っていた。経験のある農民は、7月と8月には有毒地に入らず、入ったあとは体をくまなく調べた。虫を見つけるか、ちくりとした覚えがあれば、熱が出る前に医者へ行く。論文はこれを日本に特有の習慣だと書く。

刺された者を診る側も、早かった。論文は、川上が患者に付いたダニを取り除いていたことから、病院に入るのは刺されて3、4日以内が目安になったと見る。避ける季節と、体を調べる手順。土地の暮らしには、病との付き合い方が組み込まれていた。

山形では、この病を「新開病」と呼んだ。新しく開いた土地の病、という意味だ。最上川の河原には、江戸のころから「病河原」と呼ばれる場所があった。

論文は、1804年から1835年に東岸で疑わしい流行があり、川幅を広げる工事のあった1836年から1904年には病が消えたと整理する。1905年、新しく開いた土地に、腸チフスに似た熱病が現れた。1913年に県が秋田の田中敬助へ診断を頼み、つつが虫病だと確かめられる。それまでは、腸チフスの一種と見られていたらしい。

刺し口の虫を針で掘り出す虫医者は、昭和の初めまで各集落にいたと、ウィキペディアは書く。新潟の安田村には「つつが虫の八兵衛医者」と呼ばれた虫医者がいて、掘った跡に煙草のヤニを塗った。

「悪い空気のせいだ」と、ドイツ人の教授は結論した

長岡の病院の院長だった医者は、この病を新しい病気だと受けとめた。1877年12月に、調査を願い出る。県が研究費を出して、寺に臨時の施設が建つ。患者は無料で診てもらえる。

施設で働いたのは東京大学医学部の学生の川上清哉で、患者から取り出した赤い六本足の虫を、顕微鏡でのぞいた。研究室で八本足に育つさまも、その目で確かめた。刺し口の跡の特徴も、細かく記録している。

1878年、新潟の宣教医パームが、この病を「島虫病」と呼んで英国の雑誌に紹介した。刺し口から全身へ広がる経過が、梅毒に似ているとも書く。翌年は虫よけで防ぐ計画だったというから、虫を疑ってはいたのだ。

同じ年に、東京大学のドイツ人教授ベルツが長岡に3週間入り、翌年、川上との連名で「日本洪水熱」として報告した。ベルツの結論は、洪水で冠水した土地から立ちのぼる悪い空気だった。

地元の農民は、赤い虫に刺されると病気になると語り、川上が患者から取った虫を送っても、ベルツは取り合わない。退けた理由は数字にある。刺された人の大半は、何ごとも起きなかったからだ。

論文が引く調査では、有毒地に入った274人のうち、ダニに刺されたのは212人。発病したのは17人にとどまった。九割以上は、何ともなかった。

ここを落ち着いて見たい。ベルツの観察は正しかった。ところが結論を間違えた。国の感染症情報の資料では、菌を持つ有毒ダニは、ツツガムシの0.1から3パーセントにすぎない。農民も教授も、半分ずつ当たっていたわけだ。

虫の側にも落とし穴があった。ベルツのもとで同定されたダニは、かゆみを起こすことで知られる別のダニだったと、論文は書く。アカツツガムシと形が似ていると分かるのは、ずっとあとになる。

調査の舞台に立った川上は、のちに大学を中退した。1887年には、私立の恙虫研究所を新潟に建てる。1895年に41歳で病没した。新潟県が病の届け出を義務にしたのは1888年で、秋田は1894年、山形は1914年に続く。

県が使った1万854円と、見間違えられた原虫たち

北里柴三郎も、1892年から93年に新潟で調べた。患者の血をサルに打つと同じ病が出ることから、毒でなく、増える何かがいる、と北里は示した。血の中に原虫のような小体が見えると書いたが、ほかの研究者は確かめられない。

県は結果に満足した。研究費は、そこで打ち切られる。1894年から97年にかけて、有毒地に石炭酸をまき、農民にはガソリンを虫よけとして配った。病は止まらなかった。

新潟県の患者は、明治34年から37年に211人、154人、222人、279人。死者は38人、42人、55人、86人と積み上がる。新潟の医師たちは1,604人分の署名を集めて、県会に研究を求めた。

県会は明治37年に、7年間の調査を北越医学会に委ねた。内務省の伝染病研究所からは、北里の弟子の北島多一、宮島幹之助、浅川範彦が来る。東京大学の緒方正規も、教室の総力で加わった。

県が7年で支出したのは、計1万854円。ある医学史の本は、どのグループも画期的な成果を上げられなかったと書く。誰もが顕微鏡で何かを見て、原虫と名づけた。

林直助は1905年から毎夏、長岡に通って患者を診た。同じ人が二度、三度とかかる例が16人あり、14人は軽く済んだという。

林は1906年に「テイレリア・ツツガムシ」を、緒方が1910年に「グレガリナ・ツツガムシ」を発表する。のちに長與又郎は、緒方の見た小体が、自分の見た菌に似ていると述べた。緒方は菌を見ていて、分類を誤ったのかもしれない。

秋田の田中敬助は、1899年に媒介をつきとめたと書く事典がある。同じ年に田中は、病原をプロテウス菌だと唱えてもいる。先駆者でさえ、半分ずつしか当たらない。

浅川は、研究の最中の1907年1月に急逝した。つつが虫病に倒れたともいわれるが、確かな記録は筆者には見つけられなかった。論文は、幼虫だけが病を運ぶと確かめたのを1917年とする。

1917年の実験では、研究室で孵した幼虫28匹をサルに付けた。刺し口ができたのは2匹だけ。菌を持つ虫は、ほんの一握りしかいない。

旅館の二階で、全員が頭を丸めた

大正4年、1915年の4月。東京の病理学会で、新潟の教授がアカムシに刺された人と動物の組織を報告した。会場にいた長與又郎は、隣の三田村篤志郎に「我々も恙虫病の研究をやってみようではないか」とささやいたと、ある医学史の本は書く。

長與は山形県の谷地を研究の地に選ぶ。7月5日、長與、宮川米次、今村荒男の一行が、上野から夜行列車に乗った。三田村篤志郎は徴兵検査で遅れて、数日後に追いかける。長與は37歳で、ほかの三人は30歳以下だった。

借りたのは旅館「対葉館」の2階の座敷で、東京大学の展示の解説では、8畳3間が実験室と寝室になった。裏の墓地にサルの小屋を建て、近所の病院を診療所にする。有毒地に入って感染すれば、致死率は50パーセントともいわれた。

全員が頭を丸めた。「黒髪と共に浮世の欲を断ち」という気分だったと、展示は『長與又郎伝』を引いて記す。それくらいの覚悟で入った仕事だ。2015年の解説記事は、対葉館がいまも旅館として営業していると注記する。

到着の翌日の日記が、のちの医学史の本に引かれている。「ベルツ以來多クノ人ガ、30有余年苦心研究シタガ、ソノ病原体ガ分ラナイ」。さらに「今迄ノ研究家ハ其生命ニ危険アルノ故ヲ以テ之ヲ敢テシナイ。自分ハ之ヲヤラウト決心シタ」と書く。

7月24日の日記には、第一次世界大戦の戦況が出てくる。ドイツ軍がワルソーに迫る報せを引いて、「ワルソー早キカ?病原体早キカ?」。まあ、自分を鼓舞する言葉としては、かなり切羽詰まっている。

一行は8月25日にいったん帰京した。発病初期のリンパ腺と、死者の脾臓の標本には、原虫のような小体が見えた。ただ、その正体は、まだ誰にも決められない。筆者の見立てでは、日記の決意どおり、探す場が書斎から有毒地へ移った意味が大きい。

1918年の小説『蛍草』はこの研究を題材にしていて、作者の久米正雄は、宮島幹之助から情報を得ていたという。作中の医者は、病毒を顕微鏡では見えないほど小さい「超顕微鏡的微生物」だろうと考える。人物名を除けば、病気の記述は総じて正確だと、ある解説は評している。

兎の睾丸と、三つの学名

秋田の開業医の寺邑政徳は、1925年から毎年夏に研究者を泊めて、患者の検体を分けた。1927年には、患者の血を兎の睾丸に注射してみる。

兎の睾丸で菌を代々移す方法は、石原喜久太郎と緒方規雄も、それぞれ用いた。石原は1930年までに、111代も菌を維持する。睾丸が腫れるので、感染の有無が見た目で分かる。サルより安くて済んだ。

1930年から31年にかけて、三つの研究室が、同じ菌に別の名をつけた。長與らはリケッチア・オリエンタリス、緒方はリケッチア・ツツガムシ、川村麟也はリケッチア・アカムシ。リケッチア・ツツガムシの名は、林直助が1922年にすでに使っていた。

長與らの1930年の報告は、1925年の学会の示説の続きだった。名づけの騒ぎは長引き、1974年にバージーズ・マニュアルの第8版がリケッチア・ツツガムシを正式名にする。属が独立して「オリエンチア・ツツガムシ」となったのは2001年だ。

学名が今の形に落ち着くまで、1930年から70年以上かかった。1878年の長岡の寺から数えれば、菌の姿をつかむまでに半世紀。ベルツの悪い空気から始まった遠回りは、思ったより長い。

1948年の秋、富士の裾野で米兵が倒れた

戦後、病の顔は変わった。1948年の秋、富士山麓の演習場で、駐留していた米軍の兵士に高熱の患者が出る。10数人が倒れ、血から菌が取り出された。アカツツガムシ以外のダニが運ぶ同じ病が、日本にもあるとはじめて確かめられた。

ウィキペディアは、富士山麓で1934年にも陸軍の兵士の発病が記録されていると書く。感染症学雑誌の報告では、1953年に同じ有毒地で米海兵隊に集団発生があり、1959年にも小流行があった。

国の資料は、媒介する虫を三つ挙げる。夏にいたのはアカツツガムシで、これが古典型だ。戦後に分かったのは、タテツツガムシとフトゲツツガムシが運ぶ新型だった。フトゲは積雪の下で休眠して、春にまた動き出す。

タテは秋に孵って、冬まで動く。夏の河原の病が、春と晩秋の病に変わったのは、虫の暮らしの暦が違うからだ。

新型の病は、前からあった。伊豆七島の「七島熱」、房総の「二十日熱」、香川の「うまやど熱」。原因が分からないまま、土地の風土病として扱われていた熱が、同じ種類の病だったのだ。

届け出の制度は1950年に始まり、最初の年はほとんどが古典型で、患者は年に100人ほどだった。それが急に減って、1965年から75年のあいだは年に10人ほどに落ちる。古典型は、数字の上では消えかけていた。

1980年ごろから新型が急に増えて、1984年は957人、1990年は941人になる。ウィキペディアによると、宮城や青森では長いあいだ患者はいないとされていて、昭和50年代に入って確認された。

1998年の集計では、感染した場所の半分が山地で、河川敷は3.3パーセントだった。農作業が32パーセント、森林作業が14パーセント、山菜やヤマイモ採りが11パーセント。川の病は、山の病に変わっていた。

1999年4月に感染症法が施行され、つつが虫病は全数を届け出る4類感染症になる。2016年の届け出は505人。2000年以来の多さだった。

薬の話も要る。新潟県の安田町を扱った人類学の論文は、昭和24年に抗生物質が入ってから、4割から5割だった致死率がゼロになったと書く。ところが国の集計には、いまも死者が出る。2007年から2016年に4185人が届けられ、20人が亡くなった。そのうち15人は、フトゲが運ぶ東北の患者だった。

「記録上ゼロになった」と書く読み物もあるが、数字は食い違う。ウィキペディアは、死亡例のほとんどが、病名がつかないまま播種性血管内凝固症候群になった患者だと書く。ちなみに、薬が効かない病ではない。見つけてもらえなかったときに、死が来る。

十五年ぶりの夏に、雄物川の河川敷で

秋田県では、夏の古典型の患者が1993年を最後に出なくなった。国の資料は、アカツツガムシはもう消えたと考えていた。2008年8月、15年ぶりの患者が現れる。

大仙市の十代の女性が、8月13日に雄物川の河川敷で、父親と魚釣りをした。背中の真ん中に、鋭い痛みが走る。父親も腰に同じ痛みを覚えたが、発病しなかった。熱が出るのは、9日後だ。

38.5度の熱で、女性は4つの医療機関を回り、出されたのは、この病には効かない抗菌薬と解熱剤だった。入院したのは8月25日。背中に2センチの痂皮があり、ミノサイクリンの点滴で熱が下がる。

秋田県は毎年3月に「つつが虫病のしおり」を作り、医師会を通じて医療機関に配ってきた。それでも治療が始まったのは、発病から4日目だった。研究者は、春と秋の患者ばかりになって、夏の病への意識が薄れていたのだろうと見る。

血液の抗体は、古典型の型に最も高い値を示し、翌年の調査が、釣り場の周りでアカツツガムシを見つける。497匹のツツガムシのうち、115匹がアカツツガムシだった。ハタネズミ2匹からは、古典型の菌が分離された。

研究者は、護岸工事や農地の減少、暮らしの変化、啓発が重なって、患者が出なかったのだろうと見る。それでも虫は、河原で生き続けていた。近くの河川敷では、全国から人が集まる花火大会が開かれ、1976年以降に19人の感染が届けられている。

その後も、2010年9月と2014年8月に1人ずつ、古典型の患者が出た。感染したのはどちらも、雄物川の中流から南の河川敷で釣りをした人だ。2008年の患者を含む3人に聞き取りをすると、この病を知らなかった、あるいは知っていたが注意していなかった、と答えた。

地元の自治体は、会場の除草と殺虫剤の散布に加え、2010年からは公式のパンフレットに注意書きを載せている。春と初夏の患者ばかりになって、夏の病を忘れた土地に、また夏の病が戻ってくる。

2026年7月、新潟県五泉市の善願で、約50人の住民が集落を練り歩いた。山伏の祈祷のあと、「虫、虫、送れ」と声をあげ、「毒虫退散祈願」と書いた五色の旗を川に流す。200年以上続くとされる虫送りだと、新潟日報は伝えている。

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