この話のいちばん怖いところを、先に言っておく
腸チフスのメアリーの話で誰もが食いつくのは「本人はピンピンしてるのに、周りだけがバタバタ倒れた」って一点だ。それはまあ、そうなんだよ。確かに気持ち悪い。
でも俺が本当にゾッとするのはそこじゃない。彼女が最後の最後まで、自分が病気を運んでいるという事実をどうしても飲み込めなかった、っていう部分なんだよな。
三十年近く、公衆衛生の専門家に囲まれて、検査結果を何百回も突きつけられて、それでも彼女は「私は健康だ」と言い続けた。嘘をついてたわけじゃないと思う。実際、彼女は健康だったんだから。熱もない、腹も痛くない、どこも悪くない。
その状態で「お前は殺人的な存在だ」と言われて、素直に頷ける人間がどれだけいるかって話だ。
これは無知な女の頑固さの物語じゃない。人間の実感と、科学が示す事実が、真正面からすれ違い続けた記録だ。だから百二十年経っても、この話は古びない。
1906年の夏、オイスターベイの避暑地で全員が倒れた
舞台はニューヨーク州ロングアイランド、オイスターベイ。当時のニューヨークの金持ちが夏を過ごす、海の見える上品な別荘地だ。
1906年の夏、銀行家チャールズ・ヘンリー・ウォーレンが家族と使用人を連れて、ここに借りた家で夏を過ごしていた。
八月の終わり、まず娘のひとりが高熱を出す。頭痛、腹の張り、そして薔薇疹と呼ばれる薄いピンクの発疹。腸チフスだ。
それから雪崩が始まった。もうひとりの娘、母親、庭師、女中と、次々に倒れていく。最終的に、その家にいた十一人のうち六人が腸チフスにかかった。
夏の別荘で、半分以上が寝込む。しかも腸チフスというのは当時のアメリカで年間一万三千人前後を殺していた病気だ。冗談じゃ済まない。
ウォーレン一家は逃げるように家を引き払い、あとには誰も住みたがらない呪われた家が残った。
家主が焦った理由は、人命よりも先に不動産だった
ここが妙に生々しいんだが、この一件で本気で青くなったのは病人本人でも医者でもなく、家を貸していた地主のジョージ・トンプソンだった。
オイスターベイの別荘というのは、要するに「清潔で健康的な避暑地」であることが売り物だ。そこで腸チフスの集団感染が出たとなれば、来年から誰も借りない。資産価値が消し飛ぶ。
だからトンプソンは、原因を突き止めて「うちの家は安全でした」と証明してくれる人間を、自腹で雇うことにした。
最初に呼ばれた調査人たちは何も見つけられなかった。井戸を調べ、便所を調べ、近所の貝の取れる入り江まで疑ったが、決定的なものは出てこない。
そこで彼が次に声をかけたのが、ニューヨークの衛生技師ジョージ・ソーパーだった。医者ではなく、下水と水道と伝染病の疫学を専門にする技術屋。この人選が、結果的に医学史を一段動かすことになる。
ソーパーが潰していった「よくある犯人」
ソーパーは真面目に、そして執拗にやった。腸チフスの原因として当時考えられていたものを、片っ端から潰していったんだ。
飲み水はどうか。井戸の位置と便所の位置の関係はどうか。汚水が地下でつながっている可能性は。牛乳はどこから来ていたか。近隣の川で採れた軟体貝を生で食べていないか。
実は最後の線は結構いい筋で、彼は最初「貝だな」と思っていた節がある。ところが調べていくと、貝を食べていない人間まで倒れている。水系の説明もつかない。同じ井戸を使っている隣の家では誰も病気になっていない。
要するに、環境ではなく「その家の中の何か」が原因だという結論に、消去法で追い込まれていったわけだ。
そしてこの時代、家の中で全員の口に入るものを一手に握っている人間がひとりいる。料理人だ。
「八月四日に料理人が替わっていた」という一行
調べを進めるうちに、ソーパーは雇用の記録の中に引っかかる一行を見つける。発症のほんの三週間ほど前に、この家の料理人が新しく入れ替わっていたのだ。そして流行が始まってしばらくすると、その料理人は姿を消していた。
名前はメアリー・マローン。四十歳前後のアイルランド系の女性で、腕のいい料理人として評判は悪くない。
ソーパーの頭の中で、点と線が一気につながった。彼は当時としてはかなり先端の知識を持っていた。健康なまま病原菌を排出し続ける人間、いわゆる健康保菌者という概念だ。
ただし理屈としては知られていても、腸チフスの健康保菌者が実名で特定された例はアメリカにまだひとつもなかった。ソーパーは、自分が世界で最初のケースを追いかけているかもしれないと気づく。
ここから彼の調査は、疫学ではなく人探しになる。
決定打は、桃を刻んだアイスクリームだった
ソーパーがのちに医学誌に書いた報告の中で、いちばん有名になったのがこの部分だ。
彼はウォーレン家の献立を洗い、メアリーの得意料理を突き止めた。生の桃を細かく切って混ぜ込んだ自家製アイスクリーム。夏の別荘のデザートとして完璧だ。そして疫学的には最悪だ。
腸チフス菌は加熱すれば死ぬ。だから彼女が作るスープもローストも、基本的には安全だった。ところがこのアイスクリームだけは違う。彼女の手で桃を刻み、彼女の手でクリームと混ぜ、そこから一度も火を通さずに冷たいまま食卓へ出る。
ソーパー自身の言葉を借りれば「腸チフス感染にとって、これ以上ないほど優れた培地」だった。
つまり彼女は、自分の腕がいちばん発揮される料理で、いちばん確実に菌を配っていたことになる。この皮肉の効き方が凶悪すぎて、この逸話だけが百年ひとり歩きしているくらいだ。
過去七年ぶんの雇用先を、一軒ずつ遡る
ここからのソーパーの粘りは、正直ちょっと異常だ。
彼は職業紹介所の記録を漁り、メアリーが1900年以降に働いた家を一軒ずつ辿っていった。そして出てきた結果が、彼を確信させた。判明した八世帯のうち、七世帯で腸チフスの発生があったのだ。
1900年、ママロネックの家。1901年12月、マンハッタンの家で洗濯女が入院。1902年、メイン州ダークハーバーのJ・コールマン・ドレイトン家では、家族四人と使用人五人が倒れた。しかもこのとき、彼女は倒れた人たちを甲斐甲斐しく看病して、雇い主から五十ドルの特別手当までもらっている。
1904年、サンズポイントのヘンリー・ギルシー家で使用人四人。1906年秋、タキシードパークのジョージ・ケスラー家で洗濯女がひとり。そしてオイスターベイ。
ソーパーが最初に数え上げた確認例は、二十六件だった。
看病する彼女、という場面がいちばん残酷だ
ダークハーバーの件を知ったとき、俺は一瞬言葉に詰まった。
想像してみてくれ。自分が作った料理で家中が倒れ、その原因が自分だとは夢にも思わず、良心から病人の枕元に立って、水を飲ませ、額を拭いてやる女がいる。雇い主は感謝して五十ドルを渡す。当時の使用人の給料からすれば、かなりの大金だ。彼女はそれを受け取って、次の家へ移る。
悪意ゼロで、これ以上ないほど効率的に感染を広げる装置が完成している。
彼女が病気を憎んでいなかったはずがない。むしろ病人に優しかったからこそ現場に留まり、接触が増えた。この話が単純な悪役譚になれないのは、こういう細部があるからなんだよな。
十三歳の少女が、ひとりで海を渡ってきた
少し時間を巻き戻す。
メアリー・マローンは1869年9月23日、アイルランド北部ティロン州クックスタウンで生まれた。飢饉の記憶がまだ生々しい時代の、貧しいカトリックの家だ。
1883年ごろ、十三か十四で単身アメリカへ渡っている。エチオピア号という汽船に乗ったという記録が残っている。ニューヨークには先に渡っていた叔母がいて、しばらくはそこに身を寄せたらしい。
当時のアイルランド系移民の女は、ほぼ全員が家事使用人からキャリアを始める。洗濯女、女中、そして運がよければ料理人。
この「運がよければ」が重要で、料理人というのは使用人の中では上位職なんだ。給料は洗濯女の倍近い。彼女は最終的にそこまで登った。文字も書けたし、雇い主の家族に手紙を書くくらいの教養もあった。
何もない場所から自力でそこまで来た女だった、というのは押さえておきたい。
台所という王国を手放すことが、何を意味したか
この前提を分かっていないと、後半の彼女の頑固さが理解できない。
当時のニューヨークで、身寄りの薄い四十歳近い移民女性が持てる資産は、腕ひとつだった。料理人としての評判、雇い主の推薦状、そして自分だけが仕切れる台所。それが彼女の全財産で、老後の保険で、社会的な居場所でもあった。
のちに保健局が「料理人を辞めろ、代わりに洗濯女をやれ」と言ったとき、それは彼女にとって「収入を半分にして、地位を投げ捨てて、四十近くから未経験の重労働をやり直せ」という要求だった。
しかも、その理由として提示されたのは「お前の体の中にいる、お前には見えない何か」だ。俺だって納得できる自信はない。
1907年3月、ソーパーは台所のドアを開けた
ソーパーは、パークアベニューの家で働いていた彼女をついに見つけ出す。そして、あろうことか予告なしに台所へ乗り込んだ。
彼はのちにこう書いている。「私のインタビューは短かった。台所で始まり、ほとんど即座に地下の扉のところで終わった。理性というものは、少なくとも私が知っている形では、まったく通用しなかった」。
彼が何を言ったかというと、要するに「あなたの便と尿と血液のサンプルをください、あなたは腸チフスを撒いている疑いがあります」だ。
初対面の男が、職場の台所に踏み込んできて、いきなりそれを言う。彼女の側から見れば、これはもう強盗と大差ない。しかも当時の使用人にとって「不潔だ」というレッテルは即クビを意味する。
彼女は反射的に反撃した。
カービングフォークを構えた女
ソーパーの記述はこうだ。「彼女はカービングフォークを掴み、私のほうへ向かってきた。私は長く狭い廊下を急いで下った」。
カービングフォークというのは肉を切り分けるときに押さえる大型の二叉のフォークで、先端は普通に凶器だ。彼はほうほうの体で外へ逃げた。
ここでやめておけばよかったんだが、ソーパーは諦めが悪い。次は彼女が寝泊まりしている三番街の下宿に、若い医師バート・レイモンド・フーブラーを連れて押しかけた。
結果は同じだった。「憤慨した断固たる拒絶が我々の訴えを迎えた。我々はまったく前進できなかった」と彼は書いている。階段の上から罵声を浴びせられて退散、というのが実際のところらしい。
二度目の失敗で、ソーパーは自力での説得を諦め、ニューヨーク市保健局を動かすことにした。
証言その一――ジョージ・ソーパーが見た「彼女」
ソーパー本人が残した彼女の描写を、少し丁寧に読んでおきたい。
彼はこう記録している。「四十歳ほどのアイルランド女性で、知的で、背が高く、体格がよく、独身で、口数が少ない」。そして「完全に健康そうに見え」「腸チフスにかかったことがあるとは知られていない」。
彼はさらに、彼女の歩き方について「女というより男のように歩いた」という趣旨のことも書き残している。ここには、当時の中産階級の男が労働者階級の移民女性を見るときの視線が、隠しようもなく滲んでいる。知的だ、と認めておきながら、同時に「女らしくない」と減点する。この二重の目線は、その後の彼女の扱いにずっと影を落とし続けた。
もうひとつ、ソーパーの記述で忘れがたい場面がある。逮捕後、拘留先の病院で彼が病歴を聞き出そうと訪ねたときのことだ。彼はこう書いている。「メアリーは一言も発することなく、威厳をもってトイレへ引き下がり、私を部屋にひとり残していった」。
この一文だけで、彼女の徹底した拒絶の質が分かる。叫ぶのでも泣くのでもなく、黙って便所に引っ込んで、相手を無効化する。彼女は最後まで、この男に自分の物語を語らせなかった。
「健康保菌者」という言葉が、まだ誰の腹にも落ちていなかった
ここで当時の科学の話をしておこう。
細菌が病気の原因であること自体は、この頃にはもう常識になっていた。腸チフス菌も1880年ごろに見つかっている。
問題は「回復した人、あるいは一度も発症していない人が、体内に菌を保ったまま何年も排出し続ける」という発想だ。これを世に問うたのは、結核菌とコレラ菌を見つけたあのロベルト・コッホで、1902年前後のことだった。
つまりソーパーがメアリーを追い回した時点で、この概念はまだ生まれて五年ほどの、専門家の間ですら生煮えのアイデアだったわけだ。医学教育を受けていない一般人が理解していないのは当たり前だし、正直、医者の中にも半信半疑の人間がいた。
その状況で、当のメアリー本人に「あなたが第一号です」と言うのは、無理筋にもほどがある。
1907年3月20日、警官と女医が踏み込んだ
そして決行の日が来る。
1907年3月20日、ニューヨーク市保健局の医師サラ・ジョセフィン・ベイカーが、警官数名を連れてパークアベニューの家に向かった。ベイカーというのは、のちにアメリカの乳児死亡率を劇的に下げることになる伝説的な公衆衛生医で、この時点でも相当に肝の据わった人だった。
彼女の回想によれば、メアリーはすでに気配を察していた。「メアリーは見張っていて、外を覗いていた。手には長い台所用フォークを、まるでレイピアのように構えていた」。
そして彼女は「戦い、罵りながら出てきた。そのどちらも、彼女は恐ろしいほど有効かつ猛烈にやってのけた」。
フォークを突き出された警官たちは一瞬たじろぎ、その隙に彼女は姿を消す。
五時間の追跡と、ドアに挟まったスカート
そこからが尋常じゃない。
メアリーは家の中と隣家の敷地に姿をくらまし、警官たちは五時間近く探し回った。裏庭、地下、隣家の柵の向こう。
最終的に彼女が見つかったのは、外階段下の物置のような狭い空間で、決め手になったのは扉に挟まったスカートの布の端だったという。踏み固められた雪の上に、ドアの隙間から出た小さな布切れが覗いていた。それを引っ張って扉を開けると、そこに彼女がいた。
抵抗は激しかった。数人がかりで押さえつけ、救急車に押し込むのがやっとだった。
証言その二――ベイカー医師が救急車の中でしたこと
ベイカー医師がのちに自伝で書いた場面は、この事件でいちばん有名な絵になっている。
救急車の中でもメアリーは暴れ続け、押さえが利かない。ベイカーは他に手がなく、文字通り彼女の胸の上に座り込んで、病院まで運んだ。彼女はこの時の感覚を「怒ったライオンと同じ檻に入れられているようだった」と表現している。
ここで注意深く読みたいのは、ベイカーがメアリーをただの怪物として書いていないことだ。彼女は同時に、この措置がメアリーにとってどれほど不当に感じられたかも理解していた。
ベイカーは公衆衛生の側の人間として、市民の健康を守る責任を優先した。優先したうえで、自分がやったことの後味の悪さを、隠さずに書き残した。この誠実さが、後年の歴史家たちがこの事件を再検討するときの重要な材料になっている。
ちなみにベイカーは、メアリーが逮捕後も一貫して「自分は腸チフスにかかったことがない」と主張し続けたことを記録している。そして、それは医学的には嘘ではなかった。健康保菌者の中には、そもそも自覚できるほどの発症をしていない人がかなりの割合でいるからだ。
彼女はおそらく、幼少期か渡米直後に、風邪程度にしか感じない軽い感染を一度経験しただけだったのだろう。本人の記憶に残らないほどの出来事が、その後の人生を全部決めてしまった。
ウィラード・パーカー病院で出た結果
連行された先はマンハッタンのウィラード・パーカー伝染病病院だった。ここで彼女の便が採取され、検査に回される。
結果は陽性。しかも一度や二度ではなく、週に三回のペースで採られた検体から、繰り返し腸チフス菌が検出された。菌量が多い時期と少ない時期の波はあったが、陰性が続くことはなかった。
医学的には、これで議論は終わりだ。彼女は間違いなく、大量の腸チフス菌を排出し続けている。
だが彼女の側から見れば、話はまったく終わっていない。自分は元気だし、熱もないし、誰も殺していない。それなのに、逮捕され、隔離され、便を毎週取られている。裁判もなく、罪状もなく。
ここから彼女の「私は誘拐された女だ」という一貫した主張が始まる。
ノース・ブラザー島という場所の話をさせてくれ
彼女が送られたのは、イーストリバーに浮かぶノース・ブラザー島だ。ブロンクスとライカーズ島の間にある、十三エーカーほどの小さな島。
1880年代からリバーサイド病院という隔離病院が置かれていて、天然痘、猩紅熱、結核、そして腸チフスの患者が収容されていた。
この島は別の悲劇でも知られている。1904年、遊覧船ジェネラル・スローカム号が火災を起こしてイーストリバーで千人以上が亡くなったとき、船が最後に乗り上げたのがこの島の岸だった。
つまり彼女が移送された時点で、この島はすでに「街が見たくないものを置いておく場所」として機能していたわけだ。マンハッタンの灯りは見える。でも渡れない。この距離感が、彼女の手紙の全部に滲んでいる。
一部屋の小屋と、一匹の犬
島での彼女の住居は、病院本館ではなく、敷地の隅に建てられた小さなコテージだった。他の患者と一緒にはできないという判断だったらしい。一部屋、簡素な家具、そして犬が一匹。
この犬の存在が、後年よく引用される彼女の言葉に出てくる。「なぜ私はハンセン病患者のように追放され、犬一匹だけを話し相手にした独房生活を強いられなければならないのか」。
この一文、読むたびに効く。彼女は自分の状況を、病人としてではなく、追放者として理解していた。そしてその理解は、たぶん半分は正しかった。
胆嚢を取りませんか、という提案を彼女が断った理由
医師たちは彼女に手術を提案した。腸チフス菌が長期に居座る場所として当時から疑われていたのが胆嚢で、そこを摘出すれば菌が消えるかもしれない、という理屈だ。
彼女は拒否した。
この拒否をもって「無知で頑固だった」と片付ける記述をよく見るんだが、それはさすがに現代の感覚で殴りすぎだと思う。
1907年の腹部外科というのは、抗生物質もなく、輸血も未熟で、麻酔も現代とは比べ物にならない。胆嚢摘出は普通に人が死ぬ手術だった。しかも彼女は健康だ。どこも痛くない人間が、死ぬかもしれない手術を、他人の理屈のために受けろと言われている。断る判断を、俺は責められない。
ちなみに現代の知見では、胆嚢を取っても保菌が続く例はあるので、手術していたら万事解決だったとも限らない。なお、ここに書いているのは歴史の話であって、医療上の判断の代わりになるものじゃない。実際に体調で悩んでいる人は、ちゃんと医者にかかってくれ。
自分でラボに検体を送ったら、陰性が返ってきた
これが彼女の確信をさらに固めた。
島に隔離されている間、彼女は知人を通じて、自分の便の検体を市の保健局とは別の民間検査所に送っていた。ファーガソン研究所という名前が記録に残っている。そして返ってきた結果は、陰性だった。しかも一度ではない。
ここには不正も陰謀もない。腸チフスの保菌者は菌の排出量が日によって大きく変動するので、単発の検査ではあっさり陰性が出る。市の保健局が週三回という高頻度で採取していたのは、まさにその変動を潰すためだ。
だが彼女の目には、こう見えた。ちゃんとした研究所は陰性と言う。市の役人だけが陽性と言う。だから市は嘘をついている。
この一点で、彼女の中では市当局の全面的な不信が完成してしまった。悲惨なのは、この推論が、彼女の持っている情報だけを使えばまったく理屈が通っていることなんだよな。
1909年6月20日、新聞が彼女に名前をつけた
二年間の隔離を経て、彼女の存在が世間に知られる日が来る。
1909年6月20日、ウィリアム・ランドルフ・ハーストの新聞ニューヨーク・アメリカンが、彼女の事件を大々的に報じた。見出しに躍ったのが「アメリカでもっとも無害で、しかももっとも危険な女」という表現だ。
そしてこの記事のあたりから、保健局の職員たちが内輪で使っていたあだ名が活字になって広まる。タイフォイド・メアリー。腸チフスのメアリー。
人の名前と病名がくっついた瞬間、彼女はもう個人ではなくなった。
フライパンに骸骨を割り入れる絵
この時期の紙面に載った挿絵が、いま見ても悪趣味で強烈だ。
エプロン姿の女が、フライパンの上で小さな人間の頭蓋骨を、卵を割るみたいにパカパカ落としている。それだけの絵だ。文章より速く、この絵は広まった。
ここには当時のアメリカのアイルランド系移民に対する感情がべったり乗っている。汚い、乱暴、不衛生、酒飲み、そして病気を持ち込む連中。台所を任せている移民の女が、実は家族を殺す毒物かもしれないという恐怖は、雇う側の中産階級にとって、あまりに刺さりやすい物語だった。
彼女個人の実像より、この一枚絵のほうが百倍速く社会に定着した。この構図、SNSの時代にまったく同じものを見た記憶がある人も多いんじゃないか。
弁護士がついて、人身保護令状が申し立てられた
報道は、彼女に味方も連れてきた。
ジョージ・フランシス・オニールという弁護士が彼女の代理人として立ち、人身保護令状を申し立てたのだ。費用はハーストの新聞社が出していたという説が根強い。まあ、部数のためだったにせよ、彼女に初めて法的な声が与えられたのは事実だ。
彼の主張はシンプルだった。この女性は罪を犯していない。起訴も裁判もされていない。それなのに二年間、島に閉じ込められている。これは適正手続なしの自由の剥奪ではないか。
理屈としては、かなり真っ当だ。
判事たちが持ち出した1905年の判例
1909年7月、判決が出た。
ミッチェル・アーランガーとレナード・ギーガリックという二人の判事は、彼女の釈放を認めなかった。根拠として引かれたのが、1905年の連邦最高裁のジェイコブソン対マサチューセッツ州判決だ。
これは天然痘の強制種痘をめぐる裁判で、公衆の健康を守るために州が個人の自由をある程度制限することは憲法上許される、という判断を示したものだった。
つまり彼女は、法的には「感染症対策の一環として合法的に拘束された人」ということになった。犯罪者ではないが、自由でもない。この宙ぶらりんの身分が、彼女の残りの人生をずっと縛ることになる。
この判例、コロナ禍で各国の隔離措置の合憲性が議論されたとき、アメリカでまた引っ張り出されて話題になった。百年前の腸チフスの女の裁判が、二十一世紀の議論に地続きで刺さってくるわけだ。
証言その三――彼女自身が書いた手紙
1909年、彼女が弁護士に宛てて書いた手紙が残っている。編集された形でしか読めないが、そこに書かれていることは強烈だ。
まず彼女は「私は生涯一度も腸チフスにかかったことがなく、常に健康だった」と繰り返す。そして自分の置かれた状況をこう表現した。「私は事実上、あらゆる人間にとっての見世物だった」。
医学雑誌に自分の症例が図解入りで載ったことにも激しく怒っていて、そのとき彼女が放った皮肉が絶品なんだ。彼女は、当時のニューヨーク市の細菌学の権威だったウィリアム・H・パーク博士の名前を持ち出して、「あの先生や奥さんが、腸チフスのウィリアム・パークと呼ばれたらどんな気分だろうね」という趣旨のことを書いている。
これは無教養な女の悪態じゃない。名前を病名にされることの暴力性を、被害者の側から正確に言い当てた一撃だ。
さらに彼女は、島での扱いについても具体的に不満を書き連ねた。検査という名目で毎週何度も便を取られること、医者が入れ替わり立ち替わり自分を見物しに来ること、誰も自分の言い分を記録しないこと。
この手紙を読むと、彼女が単に事実を否認していたのではなく、「事実の扱われ方」に抗議していたのだと分かる。ここを混同すると、この事件は永久に理解できない。
1910年2月19日、条件付きで彼女は島を出た
潮目を変えたのは、新しく保健局長になったアーネスト・J・レダールという人物だった。彼は前任者よりも柔軟で、いつまでも一人の女性を島に置いておくことに疑問を持っていた。
1910年2月19日、彼女は釈放される。条件は二つ。定期的に保健局へ出頭して検査を受けること。そして、二度と職業として料理人をしないこと。
レダールは記者に対してこう述べている。「彼女は、自分が取るべき予防措置を学ぶのに十分なだけ長く閉じ込められていたから釈放されたのだ」。
この言葉、後から読むとかなり甘い見通しだったことが分かる。彼女は納得して出てきたわけじゃない。ただ出してもらっただけだ。
出所後の彼女に、社会は何ひとつ用意していなかった
そして、ここが公衆衛生の側の最大の失点だと俺は思っている。
保健局は彼女に「料理をするな」と命じたが、その代わりの生活の道を、実質的に何も用意しなかった。彼女は洗濯女の職を紹介されたが、収入は激減した。しかも顔と名前が新聞に出てしまっている。どこへ行っても噂はついて回る。
四十歳を超えた独身の移民女性が、社会的信用を失った状態で、慣れない低賃金労働で生きていけと言われている。
歴史家のジュディス・ウォルツァー・レヴィットは、この点を厳しく指摘している。彼女が料理人に戻ったのは、彼女ひとりの背信ではなく、彼女を追い詰めた制度の失敗でもあった、と。
実際、他の保菌者に対しては、後年になるほど職業紹介や生活補助が用意されるようになる。メアリーは、その仕組みができる前の時代に生きてしまった。
メアリー・ブラウンという名前
数年のあいだ、記録から彼女の姿は消える。洗濯女として働いていた時期もあれば、消息が追えない期間もある。
そして1914年10月、マンハッタンのスローン産院の厨房に、新しい料理人が雇われた。名前はメアリー・ブラウン。マローンではなくブラウン。彼女は名前を変えて、台所に戻っていた。
この選択を責めるのは簡単だ。実際、結果としては最悪だった。
ただ、彼女の側の理屈も分かる。彼女は自分が病気を撒いているという説を、一度も信じていない。信じていない禁止令に従って人生を潰すか、腕を活かして稼ぐか。彼女は後者を選んだ。
しかも産院という、免疫の弱い妊婦と新生児と看護師が集まる場所を選んでしまった。
1915年1月、スローン産院で二十五人が倒れた
1915年の一月から二月にかけて、スローン産院で腸チフスが発生する。最終的に二十五人が発症し、うち二人が亡くなった。
病院の中で伝染病が広がるというのは、当時でも一大事だ。すぐに調査が始まる。
そして厨房の職員たちのあいだでは、この頃すでに、皮肉なあだ名が囁かれていたという。あの新しい料理人のせいじゃないか、あれこそ腸チフスのメアリーだ、と。
冗談で言っていたことが、そのまま当たっていた。
筆跡で見破ったソーパー
呼ばれたのは、またしてもジョージ・ソーパーだった。因縁が深すぎる。
彼は病院の雇用記録を確認し、メアリー・ブラウンの署名を見た瞬間、確信したと言われている。八年前、彼が追いかけた女の筆跡と同じだったからだ。手書きの癖というのは、名前を変えても変わらない。
この「筆跡で正体がバレた」というディテールは、話としてあまりに出来すぎているので誇張を疑う声もあるが、ソーパー自身の記述に基づく以上、少なくとも彼はそう認識していた。
いずれにせよ、彼女はもう逃げられなかった。
1915年3月、二度目の船。今度は帰れなかった
1915年3月、彼女は再び拘束され、ノース・ブラザー島へ戻された。今度は釈放の見込みが最初からなかった。
一度目のときは「知らなかったのだから仕方ない」という同情の余地があった。しかし二度目は違う。彼女は説明を受け、条件を承知したうえで、名前を変えて禁止された職に戻り、実際に死者を出した。
世論は一気に冷たくなり、彼女を弁護する声はほとんど消えた。
ここで彼女の人生の第二部が終わり、二十三年に及ぶ最終幕が始まる。
島での二十三年、彼女は検査技師になった
二度目の隔離生活は、意外にも一度目より穏やかだった。
彼女は同じコテージに住み、島の中では比較的自由に動けた。ケーキを焼き、ビーズ細工のアクセサリーを作り、看護師たちと世間話をした。
そして1920年代半ばには、リバーサイド病院の検査室で働くようになる。試験管を洗い、標本の準備をし、記録をつける。腸チフス菌の保菌者が、細菌検査室のスタッフとして働いていたわけだ。
この配置は当時としても議論があったはずだが、記録上は問題は起きていない。
皮肉と言えば皮肉だが、俺はここに少しだけ救いを感じる。彼女は最後に、自分を閉じ込めたはずの科学の側に、労働者として居場所を得た。少なくとも「見世物」ではなくなった。
ミシガンの農夫からの求婚
新聞で彼女のことを知ったミシガンの農夫、ルーベン・グレイという男が、彼女に結婚を申し込んだという記録がある。
理由が笑えるような笑えないような話で、農場なら人と接しないから誰にもうつさないだろう、それに料理の腕がいい人が欲しい、というものだった。
要するに、危険性を無効化できる隔離環境と、料理人としての価値。この時代、彼女を「人」として見た数少ない申し出のはずなのに、そこでもやっぱり彼女は料理をする機械として扱われている。
この求婚は実らなかった。彼女には島の外に行く自由がなかったからだ。
1932年12月4日、朝食が届かなかった
1932年12月4日、彼女がいつまでも起きてこないのを不審に思った職員がコテージを覗くと、彼女は床に倒れていた。脳卒中だった。
命は取り留めたが、右半身が麻痺し、以後は寝たきりになる。彼女は島の病院の病室に移され、そこで最後の六年を過ごした。
文字も書けなくなり、話すことも難しくなった。二十五年ぶんの怒りと抗議を書き続けた手が、動かなくなったわけだ。
1938年11月11日、九人だけの葬式
1938年11月11日、メアリー・マローンは肺炎で亡くなった。六十九歳だった。
11月13日、ブロンクスの聖ルカ教会で葬儀が行われ、セント・レイモンズ墓地に埋葬された。参列者は九人だったと伝えられている。誰だったのかは正確には分かっていない。島で親しくしていた職員か、遠縁の人々か。
アメリカ中がその名前を知っている女の葬式に、九人しか来なかった。この数字を初めて読んだとき、俺はしばらく画面を閉じられなかった。
解剖はされたのか、されなかったのか
ここは意外と論争がある。
よく語られるのは「解剖の結果、彼女の胆嚢の中に生きた腸チフス菌がびっしり詰まっていた」という話だ。これはドラマチックで、教科書的な締めくくりとしても完璧すぎる。
だが歴史家の中には、この記述の一次資料が薄いことを指摘して、後世に付け足された伝説ではないかと疑う人もいる。解剖自体が限定的なものだったという説、そもそも遺族の意向で行われなかったという説もある。火葬されたという記述と埋葬されたという記述が混在しているのも、この混乱の一因だ。
俺の見立てとしては、胆嚢に菌がいたこと自体は医学的にごく自然で、実際そうだった可能性は高い。ただ「びっしり詰まっていた」という劇的な描写は、話が語り継がれる過程で磨かれた部分がありそうだ、というくらいに思っている。
トニー・ラベラという男の話をしないと不公平だ
ここからが、この事件の本当に苦い部分だ。
メアリー・マローンに帰せられた腸チフスの症例は、数え方によるが概ね五十件前後、確認された死者は三人とされる。
一方で、彼女の同時代にトニー・ラベラという別の健康保菌者がいた。彼が引き起こしたとされる症例は百二十二件、死者は五人。メアリーの倍以上だ。
では彼はどうなったか。二週間ほど隔離されて、釈放された。それだけだ。
彼はイタリア系の男性で、家族がいて、地域社会に根を張っていた。この差を説明できる医学的な理由は、ひとつもない。
アルフォンス・コティルスの場合
もうひとり。アルフォンス・コティルスは、ブルックリンでレストランとベーカリーを経営していた保菌者だ。
彼は食品を扱うなという命令を受けていたにもかかわらず、それを破って厨房に立っているところを見つかった。要するにメアリーとまったく同じことをやったわけだ。
彼はどうなったか。逮捕はされず、家族がいることと事業があることを考慮されて、執行猶予的な扱いで済んだ。
事業主で、男性で、白人で、地元に根を張っている人物は、こうなる。島に二十三年閉じ込められる者と、注意されて終わる者。この対比を知ってしまうと、もうこの話を「感染症対策の成功譚」としては読めなくなる。
四百人以上の保菌者、島に収容されたのは一人
彼女が亡くなるまでの間に、ニューヨーク市保健局は四百人を超える腸チフスの健康保菌者を把握していた。全米では数千人規模と推定されていた。
ほとんど全員が、名前を公表されることも、島に送られることもなく、定期的な検査と職業指導を受けながら普通に暮らしていた。生涯隔離されたのは、メアリー・マローンただ一人だ。
歴史家のレヴィットは、なぜ彼女だけがこの扱いを受けたのかを丁寧に検討して、いくつかの要因を挙げている。移民であること、女性であること、独身で守ってくれる家族がいなかったこと、貧しかったこと、そして何より、彼女が最初に見つかった一人であり、最後まで当局に抵抗し続けたこと。
彼女は権威に頭を下げなかった。それが、彼女の刑期を決めた。
彼女は本当に「認めなかった」のか
よく「メアリーは死ぬまで自分の保菌を認めなかった」と要約される。これは半分正しくて、半分は雑だと思う。
彼女が否定し続けたのは、正確には「自分が病気であること」だ。当時の一般的な理解では、病気を持っている人間とは、症状がある人間のことだった。彼女には症状がない。だから「私は病気ではない」という彼女の主張は、彼女の使っている言葉の定義においては、完全に正しい。
彼女に足りなかったのは誠実さではなく、症状のない感染という新しい概念を受け取るための語彙だった。そしてその語彙を、誰も彼女に丁寧に授けなかった。ソーパーは最初の五分で敵になり、保健局は説得ではなく拘束を選んだ。
二度目の隔離のあと、彼女は自分の状態について語ることをほぼやめている。それは納得したからではなく、語っても無駄だと学んだからだろう。
「腸チフスのメアリー」という言葉が、現代でどう使われているか
英語では今も「タイフォイド・メアリー」という表現が生きている。意味は二つに分岐した。
ひとつは医学・疫学の文脈で、無症状のまま病原体を広範囲に伝播させる人、つまり無症状キャリアの代名詞。もうひとつは完全な比喩で、「悪いものを持ち込む厄介者」「その人が来ると組織が壊れる存在」といった罵倒語だ。
後者はかなり侮蔑的で、近年は使用を避ける動きもある。実在の女性の名前を、本人の意思と無関係に、汚染の記号として百年以上使い続けているわけだから、まあ当然の話ではある。
彼女自身が手紙の中で「あなたの名前が病名になったらどう思う」と書いていたのを思い出すと、なおさら効く。
コロナ禍で、彼女の名前が一斉に掘り起こされた
2020年、世界中がある単語を学んだ。無症状感染。そして「スーパースプレッダー」。
この二つが日常語になった瞬間、メアリー・マローンの名前は爆発的に再流通した。医学系のブログも、法学の論文も、一般紙のコラムも、こぞって彼女を引用した。
論点はだいたい三つに整理できる。第一に、症状がない人が本当に他人にうつすのかという疑問は歴史的に何度も繰り返されてきたという点。第二に、公衆衛生のための強制措置がどこまで個人の自由を制限できるのかという法的な問題で、ここでは例のジェイコブソン判決がまた引かれた。第三に、感染源として名指しされた個人がどう扱われるかという、スティグマの問題だ。
この三つ目が、いちばん現在進行形だった。感染者が特定され、勤務先や行動履歴が晒され、当人が街にいられなくなる。あの光景を見た人なら、フライパンに頭蓋骨を落とす挿絵が百年前の話じゃないことが分かるはずだ。
ネット上の反応は、だいたい三つに割れる
英語圏の掲示板やSNSでのこの話の扱われ方を眺めていると、綺麗に三派に分かれる。
第一は「かわいそう派」で、無知な移民女性が科学の生贄にされた悲劇として読む。
第二は「いや擁護しすぎ派」で、彼女は二度目は明確に警告を受けたうえで産院の厨房に立ち、実際に人が死んでいる、そこを美談で塗るなと主張する。
第三は「両方だろ派」で、彼女は被害者であり同時に加害の結果を出した存在であり、そして最大の問題は同じことをした他の保菌者が放免された不公平のほうだ、と整理する。
個人的には三番目が一番腑に落ちる。だいたいこの手の議論は、彼女個人を裁こうとすると必ず行き詰まるんだよな。裁くべきは、たぶん彼女じゃない。
医学の話を、少しだけ真面目に
腸チフスは腸チフス菌という細菌による全身感染症で、汚染された飲食物から口に入って感染する。回復した人のうち、一定の割合が長期の保菌者になる。当時の推計では回復者の約四パーセント、現代の一般的な数字では二から五パーセント程度とされる。
菌が居座る場所として代表的なのが胆嚢で、特に胆石がある人では、菌が石の表面にバイオフィルムを作って居着くことが分かっている。バイオフィルムというのは細菌が自分でぬめりの膜を張って身を守る状態で、これができると抗菌薬も免疫も効きにくくなる。
メアリーは中年女性で、当時の食生活からしても胆石を持っていた可能性は高い。つまり彼女の体内では、胆石の表面に菌のコロニーが定着し、胆汁とともに腸へ供給され続けるという構造ができあがっていた。本人にはまったく自覚がないまま、である。
なお、これはあくまで歴史と一般的な医学の話で、診断や治療の代わりにはならない。心当たりがあるなら医療機関へどうぞ。
手洗いという、あまりに退屈な結論
この話には、身も蓋もない教訓がひとつある。
もし彼女が調理前に石鹸で丁寧に手を洗っていたら、被害の大半は起きなかった。腸チフス菌は便から手を経て食べ物に入る。加熱すれば死ぬ。彼女が問題を起こしたのは、生の桃を混ぜたアイスクリームのような、火を通さない料理だった。
つまり必要だったのは隔離でも手術でもなく、石鹸と水と、その意味の説明だった。
ところが1900年代初頭の使用人の台所に、それが行き渡っていなかった。走る水道もない家、共用の手拭い、そして「なぜ洗うのか」という理屈の不在。彼女を怪物にしたのは彼女の体ではなく、時代のインフラの隙間だったとも言える。
なぜこの話は、今も怖いのか
幽霊も呪いも出てこないのに、この話が怪談として機能する理由ははっきりしている。
第一に、加害者に悪意がない。悪意がないどころか、彼女は病人を看病していた。第二に、被害が「食べる」という、人間がいちばん無防備になる行為を通じて起きる。第三に、当人が自分の危険性を知覚できない。鏡を見ても分からない。痛みもない。第四に、これが誰にでも起こりうることだ。あなたが今この瞬間、何かの保菌者でないと証明できる人はいない。
この四つが揃うと、話は一気に自分の側へ寄ってくる。怪物が向こうから来るのではなく、自分が知らないうちに怪物かもしれないという構図。ホラーの型としては最強に近い。
それでも、この話が語り継がれた本当の理由
ただ、怖いだけの話なら百年は保たない。この物語が生き延びているのは、たぶん、答えが出ないからだ。
社会は個人をどこまで拘束していいのか。科学的に正しい措置が、当人にとって不当な暴力になるとき、どちらを優先するのか。同じ危険を持つ人々の中から、なぜ特定の一人だけが晒し者になるのか。
この三つの問いは、二十一世紀になっても一ミリも解決していない。だから感染症の波が来るたびに、私たちは彼女の名前を思い出す。
彼女は答えではなく、問いのかたちで残った。それが、九人しか見送らなかった女が、いまだにあらゆる言語で語られている理由なんだと思う。
同じ出来事が、立つ位置で正反対に見える
ここまで時系列で追ってきたので、最後に少し引いた位置から、この事件の骨組みを整理し直しておきたい。
まず押さえたいのは、メアリー・マローンの物語が「科学の勝利」として語られるときと「人権の敗北」として語られるときで、まったく別の話に見えるという構造的な事実だ。
科学の側から見れば、これは輝かしい成功例になる。ジョージ・ソーパーは、水も牛乳も貝も潰したうえで、人間そのものが感染源になりうるという仮説を立て、七年ぶんの雇用記録を辿ってそれを実証した。疫学調査の方法論として、これは今でも教科書に載るレベルの仕事だ。彼が確立した「感染連鎖を人単位で追跡する」という発想は、その後の接触者追跡の原型になった。
二十世紀の感染症対策が積み上げたものの、かなりの部分がここから始まっている。
ところが同じ出来事を、拘束された側から見ると、様相は反転する。裁判もなく、罪状もなく、一人の女性が二十六年間を島で終えた。同じ危険性を持つ数百人が自由に暮らしていた横で、である。
この二つの評価は、どちらかが間違っているのではない。両方が同時に成立してしまっている。そこがこの事件の厄介さで、同時に、いつまでも消費され続ける理由でもある。
「自分の感覚より検査結果を信じろ」という新しい要求
次に、彼女の「否認」をもう一段掘っておきたい。
彼女が否定していたのは保菌の事実というより「病気であること」の定義だったと書いた。これをさらに進めると、彼女が直面していたのは、近代医学が人間に対して初めて突きつけた新しい要求だったことが分かる。
それまで、人が自分を病人だと認識する根拠は、痛み、熱、だるさ、つまり主観的な体感だった。ところが細菌学の時代が来ると、体感がゼロでも「あなたは感染している」と宣告されるようになる。
この転換は、医学史的には巨大な断層で、メアリー・マローンはその断層の縁に立たされた最初の一般人のひとりだった。
現代の私たちは、健康診断の数値や検査の陽性判定に自分の身体観を明け渡すことに慣れている。慣れているというより、そういう教育を受けて育っている。だが1907年の彼女には、その訓練がなかった。
彼女の抵抗は、無知というより、まだ言語化されていない不信だったのだと思う。自分の身体について、自分よりも他人の紙切れのほうが正しいと言われることへの、根源的な違和感。
実のところ、この違和感は今も消えていない。感染症の流行のたびに、検査の信頼性をめぐる不毛な争いが起きるのを、私たちは何度も見てきた。彼女の反応は、百年後もまったく古びていない人間の反応だ。
なぜ「彼女だけ」が選ばれたのか
トニー・ラベラとアルフォンス・コティルスの例を出したが、実際の差は個別の裁量というより、当局がどんな相手なら押し切れると判断したか、という力学の問題だ。
家族がいて、事業があって、地域に評判があり、弁護士を雇える人物には、当局は慎重になる。逆に、独身で、身寄りが薄く、移民で、労働者階級で、しかも初対面で衛生技師にフォークを向けるような気性の相手には、強く出られる。
ここに人種や階級の偏見が加わり、さらに「最初に見つかった一人」という象徴性が乗った。
象徴になってしまった個人は、その後どんなに事情が変わっても、象徴の役割から降りられない。1910年に釈放されても、彼女はもう「腸チフスのメアリー」だった。名前を変えて別人として働くという選択は、倫理的には最悪の一手だったが、社会的には、彼女に残された唯一の逃げ道でもあった。
ここを見ないで彼女の背信だけを責めるのは、俺には片手落ちに思える。
私たちは、この事例を知っていて同じことをやった
現代への接続を、もう一度だけ丁寧にやっておく。
2020年以降の数年間で、私たちは無症状感染という概念を、頭ではなく生活で理解した。自分が誰かにうつしているかもしれないという不安。検査で陰性が出ても消えない疑い。感染が判明した人が特定され、職場や地域から実質的に追放されていく光景。行動歴が晒され、家族まで巻き添えになる事例。
あれは全部、規模と速度が違うだけで、1907年のニューヨークで起きたことと同じ構造だった。
違いがあるとすれば、私たちは彼女の事例を知っていたのに、同じことを繰り返したという点くらいだ。歴史から学ぶというのは、こんなにも難しい。
逆に言えば、この物語を繰り返し語ることには、まだ意味がある。次に同じ状況が来たとき、誰かを島に置き去りにしないために。
いま、あの島は鳥のものになっている
最後に、彼女個人の話に戻って終わりたい。
ノース・ブラザー島は現在、無人の鳥獣保護区になっている。建物は残っているが、蔦に覆われ、床は抜け、一般人は立ち入れない。彼女が暮らしたコテージがどれだったのかも、もうはっきりしないらしい。
彼女が最後の六年を過ごした病室も、彼女がケーキを焼いた台所も、彼女が試験管を洗った検査室も、いまは木と鳥のものだ。
マンハッタンの灯りは、たぶん今も同じ角度で見える。彼女がその灯りを何度見たかは分からない。分かっているのは、彼女がそこへ渡ることを、生涯許されなかったということだけだ。
腸チフスのメアリーという言葉を、私たちはこれからも使うだろう。でも、その言葉を口にするたびに、その裏側にひとりの料理人がいたことは、覚えておいていいと思う。
桃を刻むのが上手くて、字が書けて、病人に優しくて、権威に頭を下げなかった女だ。彼女は自分の身体の中で起きていたことを、最後まで理解できなかった。理解できなかったことを、俺は彼女の落ち度だとは思わない。
