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世田谷一家殺害事件

電話に誰も出なかった大みそか

大みそかの朝だった。2000年12月31日は日曜日で、世田谷区上祖師谷の一軒家には、午前10時を過ぎても電話がつながらなかった。不審に思った母親の母親が、合鍵で玄関を開ける。報道によれば、午前10時40分すぎだ。家の中には、家族4人が倒れていた。

亡くなったのは、44歳の父親、41歳の母親、8歳の長女、6歳の長男だ。父親は外資系企業の会社員で、母親は自宅で学習塾を開いていた。長女は小学2年生で、バレエ教室とピアノ教室に通っていた。長男は保育園の年長組。情報提供を呼びかける警視庁のちらしに、そう紹介されている。

父親は、1階の階段の下で見つかった。母親と長女は、2階へ上がる階段の踊り場で、血まみれで倒れていた。長男がいたのは、中2階の子ども部屋のベッドの上だ。首を絞められていた。家は1階、中2階、2階、屋根裏のロフトの四層で、階段が各層をつないでいる。

前日の夕方、一家は千歳烏山駅の近くの商店街で、そろって買い物をしていた。警視庁は、そのあと家で食事をして、テレビを見て、家族で過ごしたと考えている。共同通信の記者が書いた本の一節には、夕食は鍋で、年が明けたら箱根へ旅行する予定だったとある。家族団らんの、年の瀬の夜。ごくふつうの土曜の夜だった。

20世紀最後の日に見つかった事件だ。毎日新聞は、2001年1月1日付の朝刊一面で伝えた。母親が開いていた学習塾の授業料、約20万円が家から消えていたことから、警視庁は成城警察署に特別捜査本部を置き、強盗殺人事件として捜査を始めた。

立ち退きの進んだ住宅地に四軒だけ残っていた

現場があったのは、都立祖師谷公園の拡張予定地の一角だ。警視庁の資料によると、一家が越してきた1990年には、周りに約200世帯の住宅があったという。立ち退きが進み、事件のころに残っていたのは4世帯だけだ。世田谷区も、被害者宅を含めて4軒しか建っていなかったと説明している。

敷地の北は駒澤大学野球部のグラウンドで、西には仙川が流れる。東と南は公園だ。家の裏手には、通称「汽車ぽっぽ公園」という子どもの遊び場がある。日が沈むと、人通りはほとんどなくなる場所だった。

一家の明け渡しの期限は、事件の約3カ月後に迫っていた。都が土地を買い取り、一家は転居することになっていたからだ。引っ越しを目前にした家の周りは、夜になるとひっそりしていたらしい。明け渡しまで、あと3カ月。目撃証言が少ないのも、無理はなかった。

それでも、いくつかの目撃は残った。事件前日の午後、成城学園前駅の近くで、遺留品とよく似た服装の若い男が見られている。事件当夜の午後11時半すぎには、車で通りかかった主婦が、現場近くの路地を小走りで横切る男を見たという。

同じころ、隣の親族は、家のほうから「ドスン」という大きな音を聞いている。この時刻が、犯行のころとみられる。

冷蔵庫のアイスは四つ空だった

犯人は、殺害のあとも立ち去らなかった。冷蔵庫からカップ入りのアイスクリームを4個取り出し、スプーンを使わず、かぶりつくようにして食べている。麦茶を飲み、メロンやハムにも手をつけたと報じられた。

使われた包丁は2本ある。どちらも血が付いたまま台所に置かれ、1本は先端が曲がり、もう1本は刃先が折れていた。犯人が持ち込んだのは、刃渡り21センチの柳刃包丁だ。断っておく。傷の細部には触れず、報じられた範囲の経過だけを書く。

室内は物色されていた。引き出しが開けられ、仕事や学習塾の書類は、ハサミで切られて水を張った浴槽に投げ込まれていた。トイレも使われている。犯人は手に怪我をして、救急箱の絆創膏で手当てをしたと報じられた。2階の居間のソファには、頭を乗せたようなくぼみが残り、仮眠した疑いがあると、2010年12月の報道は伝えている。

奪われたのは、現金だけとみられる。金額は報道で食い違う。時事通信は十数万円、毎日新聞は授業料約20万円と書いた。1階の書斎の本棚には、現金約6万円の入った封筒があったが、手を付けられていなかった。

子どもを含む一家全員が殺されるほどの揉め事は、捜査でも浮かんでいない。金目当てなのか、恨みなのか。動機は、いまも分かっていない。

午前十時までいた、という前提が外れた

犯人は、パソコンにも触れていた。1階のパソコンには、31日の午前1時18分と午前10時ごろの2回、インターネットに接続した記録がある。1回目は空のフォルダを作って劇団のサイトを見た跡で、2回目は父親の会社のサイトなどにつながっていた。

捜査本部は当初、この記録から、犯人が午後11時半ごろから翌朝10時すぎまで居座ったとみていた。10時間を超えて、遺体のある家にとどまった男。この見立ては、長く定説だった。

2014年ごろ、警視庁は記録を調べ直した。2回目の接続は、ほかのページへ移らないまま約4分で切れている。発見されたとき、マウスは机から落ちていた。同じ型のパソコンで試すと、落ちた衝撃で自動的につながる場合があった。第一発見者が部屋に入った際、誤ってマウスに触れた可能性が高いと、日本経済新聞は伝えている。

捜査本部は、午前1時18分の接続以降に犯人が逃げたとみるようになった。毎日新聞は2014年12月12日付で、「犯人、未明に逃走か」と報じている。

ここからは筆者の見立てだ。居座った時間は半日から数時間に縮んだが、4人を殺した家で過ごしたことに変わりはなく、異常さも薄まっていない。けれど「朝まで家にいた男」という像は、機械の誤作動かもしれない記録に支えられていたわけだ。その像の上に、精神の異常や快楽を動機とみる考察が積み重なってきた。そう考えると、少し落ち着かなくなる。

浴室の窓は三メートル四十センチの高さにあった

犯人はどこから入ったのか。警視庁は2024年12月、犯人が公園の鉄製フェンスをよじ登り、中2階の浴室の窓から出入りした可能性が高いと公表した。窓枠に手をかけて入ったとみられている。1階の電話機の電源コードは、コンセントから抜けていた。

窓は、小さい。読売新聞によると、縦50センチ、横40センチで、地面からの高さは約3.4メートルだ。報道によって寸法には少し幅がある。捜査員は、フェンスや給湯器を足場にして上ったとみている。

事件の朝、窓は開いていた。網戸は外され、フェンスに立てかけてあった。近所の人が「換気のために普段から開いていた」と話したことも、読売新聞が2025年末に伝えている。それを知っていた人物なら、入るのはそれだけ楽になる。

足跡も、中2階を指す。各部屋から確認された靴跡は、20歩分以上。一部に被害者の血が付いていた。警視庁が2001年に、血のない8歩分を鑑定に出すと、植物由来の胞子や微細な鉱物の付着物は、中2階の寝室付近でいちばん多かった。

玄関説も、消えていない。毎日新聞の解説によると、捜査員の間でも、1階の玄関説と中2階の浴室説に分かれたままだ。玄関説の根拠は、父親の下半身の傷が、下から刺されたような状態だったことにある。元捜査幹部は、招き入れられて階段を上がろうとした父親を、下から襲ったと見るのが自然だと語った。

事件の数日後、隣の親族は「30日午後10時ごろ、チャイムが鳴った」と話した。数カ月後に尋ね直されると、勘違いだったと答えている。インターホンから指紋は出ていない。物証は、見つかっていない。

浴室説にも傷がある。ある捜査員が窓から入れるかどうかを確かめたのは、鑑識が浴室を調べる前だった。擦り痕や繊維痕が消えたかもしれないと、当時の元幹部は悔しがっている。

筆者の見立てを書く。窓の寸法を、もう一度見てほしい。縦50センチ、横40センチ、高さは3メートルを超える。フェンスを越え、給湯器に足をかけ、この穴を抜けられる体は限られる。

警視庁は、ヒップバッグのベルトの長さから、犯人の腰回りを70センチから75センチと推定している。細身という犯人像と窓の寸法は、少なくとも食い違わない。

ただ、窓が開いたままだと知っていたかどうかは、顔見知りかどうかを左右する。窓は、見知らぬ人にも顔見知りにも通れる出入り口だった。侵入経路がどちらでも、犯人像はまだ決まらない。

ヒップバッグの底から砂が出た

現場には、犯人のものとみられる品が山ほど残された。灰色の胴に紫の袖のトレーナー。黒いジャンパーに、灰色の帽子。緑のチェック柄のマフラーと、ボア付きの手袋もあった。深緑のヒップバッグも残されていた。

問題は、その数にある。トレーナーは全国で130着しか売られておらず、都内は八王子、聖蹟桜ヶ丘、荻窪、青戸の4店で10着だけだ。購入者が分かったのは、全国で12枚にとどまる。ジャンパーは全国で8万2000着、帽子は3465個が売れ、ヒップバッグは2850個が作られた。

包丁は、福井県の業者が2000年6月に1500本作った品で、関東の46店舗で売られた。ハンカチは無印良品の黒で、6万6500枚が作られている。警視庁は店や数量を公開し続けたが、買った人から犯人を絞ることはできていない。

靴だけは、事情が違った。足跡から、韓国で作られたスニーカーの27.5センチと特定されている。韓国での表記は280で、靴の立体画像は2018年8月に捜査本部のサイトで公開された。同じサイズは、日本の正規の販売ルートでは売られていない。警視庁は韓国にも捜査員を送ったが、有力な情報は得られなかった。

砂の話もある。ジャンパーからは、神奈川県の三浦半島の海岸の砂が見つかった。ヒップバッグの中の砂は、米国カリフォルニア州のモハーベ砂漠の砂によく似ていた。毎日新聞は、犯人と米国の関わりは分からないと書く。

ハンカチは2枚あった。1枚は中央に約3センチの切れ込みを入れ、そこへ包丁の柄を差し込んで袋状に包んでいた。警視庁は、滑り止めとみている。もう1枚は三角形に折られ、覆面に使った可能性がある。2019年、柄の巻き方がフィリピン北部での刃物の使い方に似ていると分かり、捜査本部は都内のフィリピン人ら100人以上から話を聞いた。

蛍光染料の話も、少し不気味だ。ヒップバッグとトレーナーには、粉末の蛍光染料のローダミンが付いていた。同じ染料は、被害者宅の車庫の棚の引き出しの底にも残っていた。犯人が事件当時に車庫へ入った形跡はなく、捜査本部は、以前に家を訪れた人物の可能性も見ている。

ヒップバッグからは、犯人のものと認められる頭髪も2本出た。長さは約2.5センチと約1.5ミリで、黒か黒褐色だ。テレビ朝日は、バリカンのようなもので短く刈っていた可能性を伝えている。

2018年5月、警視庁は新しい犯人像を公開した。マフラーは長さ約130センチで、10代半ばの首回りに合う。ヒップバッグは1995年から99年1月にかけて売られた品で、蛍光ペンなどを入れた跡もある。これらから、犯人は事件当時15歳から20代の細身の男と推定された。

母方は南欧系、年齢は三十代かもしれない

現場には、犯人の血も残されていた。血液型はエー型で、一家の誰とも違う。性別は男。利き手は右とみられる。

捜査本部は2005年8月、血液をある大学に持ち込み、結果がまとまったのは2006年4月だった。父系は、日本や中国、韓国を含む東アジアに多い型だった。母系は、日本人の型とは違い、アドリア海周辺の南欧系の民族に近いという。

念のため断っておくと、これは祖先の系統を示す統計で、国籍の証明にはならない。遠い祖先に南欧系がいても、本人は日本で育った日本人かもしれない。当時の捜査幹部は、純粋な日本人の犯行も捨てず、幅広く調べる方針を示したと報じられた。警視庁は、現場の血から採った遺伝子型を、捜査線に浮かんだ人物など計130万件を超えるデータと照合してきた。一致する型は、見つかっていない。

2025年7月、新しい推定年齢が報じられた。フジテレビ系のニュースは、血液の遺伝子に起きる化学的な変化、いわゆるメチル化を調べた結果を伝えた。犯行時の年齢は30代で、誤差は前後2、3年にとどまるという。同じ報道は、最新のデータに照らすと、父方の祖先は日本より中国や韓国の可能性が高く、母方はアドリア海周辺に加えて、コーカサス地方の可能性もあると書いている。

それまでの犯人像は、2018年5月に示された「15歳から20代」だった。30代なら犯人は現在50代から60代になるが、警視庁の捜査員は、30代でも違和感はないと話した。服やバッグが若者風でも、ふだんから身につけていたのか、自分で買ったのかは分からないからだ。

ここも筆者の見立てを書く。2018年の推定は物から、2025年の推定は体から出ている。マフラーやバッグは、借りられるし、古着でも手に入る。血液は、そうはいかない。年齢については、体から出た数字のほうが重いと思う。

ただ、警視庁が配っているちらしには、いまも犯人は「比較的若い」とあり、服装などから判断したと添えてある。メチル化の結果は報道で明かされた段階にとどまり、公式の犯人像が書き換わったかどうかは、確かめられなかった。

外国人、軍隊、スケートボード

外国人犯行説は、早い時期から語られた。韓国製の靴、米国の砂、南欧系の母系、フィリピン北部に似たハンカチの巻き方。材料は、海外を指すように見えた。

2015年12月には、ノンフィクション作家が『世田谷一家殺人事件15年目の新事実』を出している。出版社の紹介文は、著者が真犯人に会ったと言い切っている。ここまでが、外から確かめられる範囲だ。警視庁が、この本の説を公式に認めた事実は見当たらない。

捜査1課の理事官だった元幹部は、2020年に毎日新聞の取材を受け、「外国人を含む捜査をやり尽くせなかったから犯人が捕まらない」と話している。国籍を断定する話とは違う。捜査が足りなかったという反省だ。

軍隊経験者説の出どころは、足跡にある。2005年末の産経新聞は、犯人が階段などで背中を壁につけ、軍隊で習うような横歩きをした跡が、足跡から分かったと報じた。ハンカチの巻き方がフィリピン北部の軍人の刃物の使い方に似ていたことも、この説に重なった。ただ、捜査本部が犯人を軍の関係者と発表したことはない。

スケートボード説は、2006年8月に出た。産経新聞と夕刊フジは、捜査本部がスケートボードをする人物に焦点を当てたと報じた。ヒップバッグの微物がグリップテープの粉末とみられること、砂がカリフォルニア州と三浦半島のものとみられること、ハンカチの香水がスケーターに知られた銘柄だったこと。

そこに、被害者宅の近くの広場で、夜に滑る若者を被害者が注意していたという話が重なる。警視庁のちらしにも、事件当夜に公園でスケボーをしていた人への呼びかけが残っている。まあ、どれも材料は本物だ。けれど、材料が揃っていることと、犯人像が決まることは別の話になる。砂や香水は、人から借りても、古着で買っても、手に入る。

ネットでは、2ちゃんねるに考察のスレッドが立ち続けた。そのテンプレートには、これまでに出た説が数十もずらりと並ぶ。外国人の関与を疑う説、宗教団体の見せしめ説、近所の子どもの犯行説、アニメ好きの仲間割れ説。エイリアン説まで混じっていて、まじめな推理と冗談が同じ列にいる。

2025年8月には、別のスレッドが立った。最初の書き込みは「俺たちの考察で夏休みが終わるまでに事件を解決しよう」。翌日には、考察はもううんざりだと書く人も現れ、未解決事件は誰も正解を持っていないと書く人もいた。どれも警察が認めた動機ではない。語られている、という確認にとどまる。

指紋五千万件と、川の向こうの地蔵

2001年4月9日の朝。仙川の対岸に、地蔵が置かれていた。白御影石でできた地蔵は高さ約60センチ、重さ約20キロで、被害者宅の方を向き、拝むように置かれていた。警視庁は事件から百日目の日付だと説明するが、毎日新聞は、百日目の前日に置かれたとみられると書く。善意で置かれたのか、犯人側が置いたのか、警視庁は分かっていないという。

地蔵の台座には、「六」に似た文字が彫られていたと報じられた。2025年には日本石材産業協会のサイトなどで情報提供が呼びかけられ、12月25日までに45件が寄せられた。「ある石材店のサイトの地蔵の文字に似ている」という情報もあったという。

捜査の主役は、指紋だった。犯人の両手の親指は渦状紋で、豚の鼻に似ているため、捜査員は「ぶたっぱな」と呼んだ。現場には、被害者の血が付いた犯人の指紋が、至る所に残っていた。指紋がある、これは捕まるだろう。当時の捜査幹部には、そんな楽観があったと、共同通信の記者は書いている。

その楽観が、落とし穴になった。被害者の周辺を聞いて回る班は、すぐに打ち切られ、捜査は目撃者捜しと指紋の採取に傾いた。周辺の住民から指紋を集めるローラー作戦には、機動隊員まで加わっている。照合した指紋は約5000万件で、東京都の人口の3.5倍にあたる。それでも、一致は出なかった。

家に残されていた名刺の相手を当たった報告書には、「指紋一致せず」とだけ書かれたものが多かったという。いつ、なぜ会ったのかという基本の聞き込みが、薄くなっていた。2006年には、指紋の採取を担当した警部補が、自分や家族の指紋を付けて報告書を偽造していたことも明るみに出た。警部補は書類送検され、停職3カ月の懲戒処分を受けて、依願退職している。

初動の混乱は、小さなところにも出た。事件の直後、犯人が持ち去ったとみられていたものがある。2000年正月の年賀状だけが、家から見つからなかったのだ。ところが2010年12月になって、聞き込みのために捜査員が持ち出したまま、返却されていなかったと報じられた。謎の一つが、捜査側の管理の話だったわけだ。

防犯カメラも、当時は少なかった。映像を回収できたのは、現場周辺のコンビニやスーパーなど十数カ所。画質は粗かった。元捜査幹部は「人が通ったことが分かる程度」だったと振り返る。毎日新聞の解説は、この事件を治安悪化の象徴として挙げ、事件のあと、都市部を中心に防犯カメラの設置が進んだとも書く。

制度も動いた。当時の規定では、この事件の時効は15年で、2015年の年末に期限が来るはずだった。各地の未解決事件の遺族が集まった遺族の会「宙の会」は2009年にでき、初代会長は、亡くなった父親の父親だ。2010年4月27日、改正刑事訴訟法が成立し、その日のうちに施行された。殺人など死刑に当たる罪の公訴時効は廃止され、時効が未完成の事件にも適用される。

警視庁は、延べ約30万人の捜査員を投入してきた。国と民間の懸賞金は、合わせて最大2000万円で、期間は2026年12月15日までと警視庁のページにある。

2021年には、ひとつ区切りがついた話もある。事件の前日に吉祥寺のスーパーで、同じ型の包丁を買った男だ。警視庁は2004年にイラストを公開していたが、防犯カメラ映像の鮮明化で、ようやく特定した。犯行時間帯のアリバイが確認され、遺伝子型も犯人と一致しなかった。

フェンスの内側に残された家

事件の家は、いまも祖師谷公園の一角に立っている。フェンスに囲まれた2階建て。敷地は東京都の土地で、建物は遺族が持つ。フェンスのそばには、25年がたっても、花や飲み物が供えられている。

警視庁は証拠を守るため、解体の延期を遺族に求めた。要請は2019年末に解かれ、外壁の亀裂などを理由に、取り壊しも打診された。遺族の意向で、家はいまも残る。

2020年に警察官の現場常駐が終わってから、家には侵入や落書きが相次いだ。その秋、フェンスに落書きをした高校3年生が書類送検された。少年は事件の現場だと知らなかったという。

2023年には、少年らがフェンスを乗り越えて肝試しに入った。調べに対し、心霊スポットだと思い、事件のことは知らなかったと話したという。2025年12月には、1階の窓ガラスが割られ、何者かが入った形跡が見つかった。2026年5月には、外国籍の男2人が侵入して逮捕され、2人も、そこが事件の現場とは知らなかったと供述している。

ここは筆者の見立てを書く。事件が語られ続ける理由は、読む側の関心にある。家が残る理由は、遺族の決断。考察のスレッドは立ち続け、家は肝試しの的になり、残すための負担を背負うのは、建物を持つ遺族だ。語って得をするのは、読む側と、まあ、こうして書く側だ。

母親の姉は、2025年末の東京新聞の取材に、家を残し続けていることへの胸の内を語った。「助けられなかった」という自責が残る家は、つらくて見たくない。かといって、忘れないでと軽々しくは言えない。風化を防ぎ、解決につながるかもしれないという思いが、解体を止めている。本人はそれを「中ぶらりんな状態」と表している。

母親の姉は、事件から6年間、起きたことを誰にも明かせなかった。姪の残した絵を支えに、4人の遺志を伝えたいと考えるようになった。講演や出版で事件に触れると、「事件を踏み台にしている」と言われたという。

2006年には、子どもたちが大切にしていたクマのぬいぐるみ「ミシュカ」を主人公にした絵本を出した。毎年12月には、その名を冠した追悼会「ミシュカの森」を開いている。2025年は、12月13日に開かれた。

父親の母親は、2025年末で94歳になる。2012年に夫を亡くしたあとも、情報提供を求める活動を続けてきた。2024年の大みそかの日記は、「なんとしても解決の手がかりだけでも見つかるまで頑張りたいと思っています」と結ばれている。

自宅の電話が鳴るたびに受話器を取るのは、警視庁から犯人逮捕の連絡が入ったのではないかと思うからだ。一日の終わりには、冷蔵庫に貼ったカレンダーの日付欄に、連絡がなかったしるしの斜線を引く。その数は、事件から20年で7000回を超えた。

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