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視聴率89.7パーセントの十日間と、その山に埋まっていた十二人――あさま山荘事件と連合赤軍「総括」の全記録

雪の斜面に、三角屋根の建物がぽつんと立っており、標高は千メートル少々。窓のガラスはほとんど割れ、白い壁には黒い穴があいている。周囲を埋めているのは、青いヘルメットと、装甲車と、湯気の立つ紙のカップだ。1972年2月28日の夕方、日本中のテレビがこの一点を映していた。関東地区の瞬間視聴率は89.7パーセント。

テレビを持っている家のほとんど全部が、同じ斜面を見ていた計算になる。そしてこの籠城戦が終わった直後、もっと嫌なものが山から掘り出される。犯人たちが逃げてきた元の場所――群馬の山中に、彼ら自身の仲間の遺体が12体埋まっていた。殺したのは警察でも国家でもない。同じ組織の、同じ思想を共有していた若者たちだ。

あさま山荘事件は、正確には「山岳ベース事件の後日談」でしかない。十日間の銃撃戦は派手だったが、本当に人を凍りつかせたのは、その裏側にあった二か月間のほうだった。この記事では、その両方を最初から最後まで追う。

二月十九日、逃げ場のほうが先に尽きた

話は籠城の四日前から始まる。1972年2月15日、群馬県警が榛名山中で焼け跡を見つけた。連合赤軍が使っていた山岳アジトの残骸だ。この時点で警察は、そこがただの過激派の訓練所ではないことをまだ知らない。2月17日、妙義湖の近くで、森恒夫と永田洋子が捕まった。

連合赤軍の中央委員会委員長と副委員長。組織のトップ二人が同時に落ちた。森は所持金が約343万円、永田は約46万円。銀行を襲って作った金だ。永田はナイフを抜いて警官隊に突っ込み、そのまま押さえ込まれている。

残されたのは山にいた五人。坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、そしてその弟だ。年齢は上から25歳、25歳、23歳、19歳、16歳。中学を出たばかりのような少年が混じっている。2月19日の朝、五人プラス数名は軽井沢の山中でビバークしていた。

食料が尽きかけていて、9時頃、植垣康博ら四人が買い出しのため軽井沢駅へ下りる。駅の列車内で職務質問。二人がその場で逮捕され、二人が逃げた。この時点で警察は「連合赤軍が軽井沢にいる」と確定する。昼過ぎ、五人は無人の「さつき山荘」に入り込んで休んだ。

15時10分頃、そこへ機動隊が到達して銃撃戦になる。十分後、彼らは斜面を走って隣接する河合楽器の保養所――浅間山荘に飛び込んだ。つまり、あさま山荘は計画された立てこもり先ではない。逃げていたら偶然そこに三階建ての要塞があった、それだけの話だ。坂東は建物を見て、中世の城のようだと思ったという。

斜面の上に建ち、周囲を見下ろせる。防御には理想的で、中には管理人の妻がひとりだけいた。当時31歳。夫も宿泊客も外出中で、彼女だけが残っていた。

銃を持った五人と、ひとりの女性

籠城初期の山荘の中の光景は、想像するほど劇的ではない。彼らは畳を剥がし、家具をひっくり返し、手当たりしだいに窓と扉をふさいだ。持っていたのは散弾銃とライフルと拳銃。前年2月に栃木の真岡銃砲店から奪った猟銃が中心だ。あの襲撃で革命左派は散弾銃9丁、ライフル1丁、空気銃1丁、そして実弾約2300発を手に入れていた。

一年後、その弾が長野の山の中で撃たれている。2月20日の朝、三人が今後の方針を話し合う。吉野は「強行突破すべきだ」と主張したが、他が反対して、徹底抗戦に決まった。8時40分と46分、上空のヘリコプターに向けて発砲。面白い――というと語弊があるが、注目すべきなのは、この日の午後に坂口が独断で人質の縛りを解いていることだ。

夕食は犯人と人質が一緒に食べており、彼女は籠城中、殴られても脅されてもいない。最終的に救出されたとき、体は冷え切っていたが無傷だった。このねじれが、この事件の変な質感を作っている。同じ組織が、山の中では仲間を柱に縛って凍死させ、山荘の中では見ず知らずの人質の縄をほどいて一緒に飯を食っていた。理屈は通らない。

だが両方が事実だ。2月21日、警察は説得を始める。14時過ぎ、大久保伊勢男警視が丸腰で山荘の玄関前まで歩き、果物の籠を置いて戻った。撃たれてもおかしくない距離だ。午後5時頃には坂口と吉野の母親が到着し、拡声器越しに息子の名前を呼んだ。

同じ日の19時、山荘の中のテレビが、ニクソン大統領の中国訪問を報じていた。米中が握手している。彼らが「世界革命の前段階」だと信じていた国際情勢の枠組みが、目の前で崩れていく。加藤倫教は後年、この瞬間について「自分たちが前提としていた政治情勢がなくなってしまった」と語っている。籠城三日目にして、彼らは戦う理由の半分を失った。

この日、五人はコードネームを決めている。坂口が「浅間」、坂東が「立山」、吉野が「富士山」、加藤兄が「赤城」、弟が「霧島」。山の名前だ。警察に無線を傍受される前提での符丁だが、どこか少年の遊びめいている。

電気が消え、水が撃ち込まれ、音が鳴りやまない

2月22日から、事態が血を流し始める。午前、吉野の母が説得している最中に、吉野が発砲し、弾は装甲車に跳ね返る。母親の声を「聞いておれず」撃った、と後に述べている。正午頃、ひとりの民間人男性が現場に現れた。「文化人」を名乗り、自分が説得すると言って前へ出た。

坂口に狙撃され、重傷を負い、3月1日に死亡する。この事件の最初の死者だ。14時40分頃には警察官二名が撃たれ、うち一名は口もきけないほどの重傷を負った。20時10分、警察が送電を止める。23時16分、投光器が撃ち抜かれる。

23日、14時過ぎに特型警備車三台で強行偵察。16時半頃、二階の風呂場めがけて催涙ガス弾を20発撃ち込んだ。中の五人はレモンを口にあてて耐え、24日の未明1時頃から、擬音作戦が始まる。チェーンソーの音、サイレン、デモ隊の喚声。眠らせないための音だ。

照明弾の誤射で一度中止になり、また再開する。5時と6時には人質の親族が呼びかけ、9時半には坂東の母が到着した。そして正午頃、放水が始まる。25日の深夜からは投石が加わった。野球のピッチングマシンで石を撃ち込んだ、という記録がある。

真冬の山の中で、水をかけられ、石を撃ち込まれ、音で眠らせてもらえない。26日、前夜からの濃霧に乗じて吉野が脱走を提案したが、断念した。この日の夕方、山岳ベース事件の犠牲者・寺岡恒一の両親が現場に到着する。18時40分から、拡声器で息子を殺した相手に呼びかけた。この構図がすでに異常だ。

殺された側の親が、殺した側の若者に「出てきなさい」と叫んでいる。同じ夜、山荘の中で吉野が坂東に「総括」を要求した。山で12人を殺した言葉が、追い詰められた五人の中でまた出てきている。組織の作法というのは、そう簡単には抜けない。27日午後、ラジオから事件関連の放送が消え、報道協定が結ばれたためだ。

中の五人は、外の状況がわからなくなった。

二月二十八日、鉄球が壁を殴った

現場の気温は零下15度まで下がり、積雪は30センチあったのだ。周囲を固める機動隊員に配られた弁当は、渡された瞬間に凍った。そこへ持ち込まれたのが、日清食品のカップヌードルだ。当時まだ珍しく、定価100円。これが現場では50円で警察官に売られたという。

凍らない、湯さえあれば食える、両手で持てば温かい。極寒の張り込みには完璧だった。そして、その光景がテレビで全国に流れた。機動隊員が発泡スチロールのカップから麺をすすっている。この映像のあと、カップヌードルは火がついたように売れ、生産が追いつかなくなる。

日本の非常食文化の原型が、この斜面で作られた。事件の犠牲者にとっては皮肉としか言いようがないが、それも含めてこの十日間の記録だ。指揮系統についても触れておく。警察庁長官の後藤田正晴が出した条件は明快で、人質を無事に救出すること。犯人は全員生け捕りにすること。

身代わり人質の交換には応じないこと。火器使用は警察庁の許可制とすること。「射殺すると殉教者になり今後も尾を引く」――これが全員生け捕りの理由だ。一人でも撃ち殺せば、彼らは英雄になり、次の世代が続く。だから殺すな、捕まえろ。

この判断が、警察側に二人の殉職者を出させることになる。現場で情報担当幕僚として動いたのが、当時警視正の佐々淳行だった。2月28日9時、投石が止み、投降勧告が流れた。この時、吉野は隣の芳賀山荘に無防備な機動隊員がいるのを見つけている。撃たず、9時55分、最後通告。

10時、突入開始。クレーン車に吊るされた1.7トンの鉄球――現場ではモンケンと呼ばれた――が、山荘の壁を殴り始めた。三階建ての建物が、外側から少しずつ砕かれていく。10時7分、中から最初の発砲。ここから七時間以上、山荘は撃ち合いの場になる。

11時27分頃、警視庁特科車両隊の中隊長・高見繁光警部が被弾。一時間後に死亡し、殉職により警視正に特進している。11時47分頃、第二機動隊の伝令の巡査が坂東の狙撃で左目に被弾。のちに失明だ。11時54分頃、第二機動隊四中隊長の警部が頭に被弾。

そして11時56分頃、第二機動隊隊長・内田尚孝警視が撃たれた。16時1分に死亡。警視長に特進。12時30分過ぎ、警察側は一旦作戦を止めた。中の五人はベッドルームに集まって飯を食っている。

12時45分頃、坂口が報道陣に向けて威嚇発砲し、信越放送の記者が被弾した。14時40分頃、坂口が鉄パイプ爆弾を投げた。第二機動隊四中隊の分隊長が右腕を砕かれる。15時半頃、放水が再開する。高圧の水が窓から入り、催涙ガスが充満した部屋を洗い流していく。

この時、坂口の目の前の窓が破壊され、彼は籠城して初めて浅間山を見た、と後年書いている。九日間閉じこもっていた建物の名前になっている山を、壊された壁の穴からようやく見た。15時58分頃、巡査二名が顔面に被弾。17時頃、機動隊がベッドルームに接近しバリケードを排除し始める。17時20分頃、第九機動隊の巡査が被弾。

17時55分頃、巡査部長が顔面に被弾。18時10分頃、第九機動隊の巡査が坂東の至近距離からの銃撃で右目を撃たれ、これも失明した。その直後、28人の機動隊員が突入し、第九機動隊の決死隊員だった仲田康喜は、盾を二枚重ねて前進したのだ。一枚目を弾が貫通したが、何かの破片に当たって止まり、彼は無事で、三階の一番奥、二段ベッドの下に人質の女性がいた。

そこで見つけて、外へ連れ出し、五人全員が生きたまま逮捕され、人質は無傷で救出された。監禁時間は219時間。約九日間。

八九・七パーセントという数字の中身

NHKの報道特別番組は、この日の9時40分から20時20分まで、十時間四十分にわたって中断なしで放送された。平均視聴率50.8パーセント。これは2023年時点でも報道特別番組の日本記録として残っている。そして18時26分、犯人逮捕の瞬間に近い時刻に、瞬間視聴率が89.7パーセントに達した。関東地区でテレビを持っている世帯の九割が、同じ映像を見ていた。

この数字が意味するのは単なる「話題性」ではない。日本人が集団で、同時に、生中継で、暴力の決着を見た最初の体験だった、ということだ。それまで事件は新聞の活字と、事後の映像で知るもので、この日は違う。壁が崩れ、人が撃たれ、それがリアルタイムで居間に流れ込んだ。現場には各社のカメラが並び、望遠レンズが山荘に向いていた。

報道陣も撃たれている。信越放送の記者が被弾したのは、単に流れ弾に当たったのではなく、彼らが撃たれうる距離まで前に出ていたからだ。この十時間四十分が、その後の日本のメディアの型を決めた。長時間の中継特番、現場からの実況、視聴率の狂騒。良くも悪くも、あさま山荘は日本のテレビ報道の分水嶺だった。

そこに至るまで――二つの敗残兵が合流した

さて、なぜ二十代の若者が銃を持って山を逃げ回っていたのか。ここを飛ばすと事件は理解できない。連合赤軍は二つの組織が合体したものだ。片方が共産主義者同盟赤軍派、もう片方が日本共産党革命左派神奈川県委員会――通称、京浜安保共闘。赤軍派は1969年に結成された。

「前段階武装蜂起」を掲げ、その年の11月5日、山梨県の大菩薩峠にある山小屋「福ちゃん荘」で軍事訓練をしていたところを一網打尽にされた。逮捕者53人。彼らの計画は、刃物と鉄パイプ爆弾と火炎瓶で武装した八個部隊が五台の車に分乗し、首相官邸と警視庁を襲撃して人質を取り、獄中の活動家を奪還するというものだった。実行前に潰れた。議長の塩見孝也をはじめ主要幹部が捕まり、赤軍派は壊滅的な打撃を受ける。

翌1970年3月、田宮高麿らがよど号をハイジャックして北朝鮮へ渡り、重信房子らは中東へ出て日本赤軍を作った。国内に残された組織を引き継いだのが、森恒夫だ。森は1944年12月6日、大阪生まれ。大阪府立北野高校から大阪市立大学文学部中国語学科へ。高校時代の教員は「普通の真面目な子」と評し、同級生は「ひ弱な文学青年に近い」と言っている。

大学生協のバイト先で田宮高麿と出会い、運動に入った。1969年7月、明治大学での襲撃時に逃げ、東大阪の工場で旋盤工をしていた時期がある。当時のメンバーは、森が「積極的に指導権を握ろうとしたのではなく、やむなく引き受けた」と書いている。つまり森は、望んでトップになったわけではない。誰もいなくなった椅子に座らされた男だ。

そしてその椅子に座った瞬間から、彼は「自分は本物の革命家である」ことを証明し続けなければならなくなった。ここが、後の悲劇の芯にあり、もう一方の革命左派を率いていたのが永田洋子。1945年2月8日、東京生まれ。共立薬科大学薬学部を出て、慶應義塾大学病院の医局員になっている。薬剤師の資格を持ったインテリだ。

1970年9月、指導部の投票で最高指導者に選出された。革命左派は武器を持っていた。1971年2月17日午前2時半頃、栃木県の真岡銃砲店を六人が襲撃。電報配達を装って勝手口を開けさせ、一家四人を縛って猟銃と弾薬を奪った。指導したのは永田と坂口だ。

1982年6月の第一審判決は、二人を「最高首謀者」と認定し、この事件が「後に来る凶悪事件の契機をなした」と位置づけている。赤軍派には金があり、M作戦と呼ばれる一連の金融機関襲撃で資金を作っていた。革命左派には銃があり、1971年7月15日、二つは合流して連合赤軍になる。金と銃が揃った。足りなかったのは、そこにいる人間を扱う能力だった。

印旛沼、あるいは最初に越えた線

山岳ベースの惨劇は、突然始まったわけではなく、前段がある。1971年6月上旬、革命左派のメンバーひとりが下山を希望して脱走した。6月15日頃、別のひとりが脱走に失敗。7月15日、その人物が交番襲撃計画の下見中に逃げた。永田、坂口、寺岡恒一が協議する。

当初は「牢獄案」――監禁して閉じ込めておく案が支持された。だが7月19日、森恒夫がこう言う。スパイや離脱者は処刑すべきだ、と。7月21日、処刑が決まった。8月3日、女性メンバーが殺され、実行したのは寺岡恒一、吉野雅邦、ほか一名。

8月10日には男性メンバーが東京都小平市のアパートで殺され、吉野ともう一名が絞めた。二人の遺体は千葉県の印旛沼のほとりに埋められ、これが印旛沼事件だ。組織を抜けようとした仲間を殺す、という一線を、彼らはこの夏に越えている。山岳ベースの半年前だ。そして見逃せないのが、この二人の殺害が組織内で「評価された」という点だ。

吉野は永田に高く評価され、連合赤軍の中央委員に引き上げられた。人を殺したことが昇進の理由になる組織が、そこで完成した。1979年3月29日の吉野の第一審判決は、印旛沼事件の重さについて「後の山岳ベース事件の12名に対するものより遥かに重い」と認定している。裁判所は、最初の一線を越えたことこそが罪の核だと見た。

「共産主義化」という言葉が人を殺し始める

1971年12月2日、山梨県の新倉ベースで、赤軍派と革命左派の合同軍事訓練が始まった。森はここで、革命左派のメンバーが水筒を持ってこなかったことを批判する。些細な話だ。だがこの些細さこそが入口だった。森が打ち出したのが「革命戦士の共産主義化」という方針だ。

曰く、作風と規律の問題こそが共産主義化の問題であり、党建設の中心的課題である。つまり、日常の振る舞いを点検し、ブルジョア的な部分を消せ、と。言っておくと、「総括」という言葉自体は左翼運動の日常語だった。活動を振り返って評価し、反省する。企業でいうPDCAの点検・評価の段階に近い。

北朝鮮の「生活総和」の影響も指摘されている。要するに、それまでは会議の言葉だった。それが暴力に変わる過程は、驚くほど段階的だ。最初は、作業から外される。次に、食事を減らされる。

そして、「総括する態度ではない」と判断されると、殴られる。エスカレーションの構造として最悪だったのは、森が「殴ることは指導である」と言い切ったことだ。さらに彼はこう説明した。殴って気絶させれば、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、共産主義化された真の革命戦士になれる、と。理屈としては完全な出鱈目だ。

だが山の中で、逃げ場がなく、外部の情報がなく、指導者が絶対の権威を持っている環境では、この出鱈目が物理法則のように機能する。そして最大の問題は、森の「総括」に合格基準がなかったことだ。総括を要求された者の多くが、何を問題にされているのか、何をどう総括すればいいのかわからないまま殴られた。森が「合格」を出した総括は、ひとつもない。ゴールのない試験を、失格するまで受け続けさせられる。

だから暴力は無限に続いた。12月12日、永田は榛名ベースで「共産主義化」の重要性を説く。12月20日、森と坂東が榛名ベースに到着し、「新党」結成が決まる。12月26日、二人のメンバーへの暴力的総括が始まった。12月27日、新党結成が確認される。

1972年1月3日、中央委員会が組織された。委員長は森、副委員長は永田、書記長は坂口。中央委員は寺岡恒一、坂東國男、山田孝、吉野雅邦の四人だ。計七人。このうち寺岡と山田は、その後、自分たちが作った組織に殺される。

十二人が死ぬまで

死者の名前と日付を、順に置いていく。読み流さないでほしい。全員が二十代だ。最初は尾崎充男、22歳、革命左派。12月31日、立ったまま柱に縛られ、食事を与えられず衰弱死した。

翌1972年1月1日、進藤隆三郎、21歳、赤軍派。肋骨6本骨折、肝臓破裂だ。極寒の中に縛られたまま死に、同じ1月1日、小嶋和子、22歳、革命左派。キスをしたことを罪に問われて暴行を受け、排泄も許されず、床下に置かれて死んだ。1月4日、加藤能敬、22歳、革命左派。

逃げようとしていると疑われ、殴られ、柱に縛られたまま死んだ。この人物には二人の弟がいた。19歳の倫教と、16歳の弟。二人はこの後、あさま山荘に立てこもる五人になる。兄を殺した組織と一緒に、彼らは軽井沢まで逃げた。

1月7日、遠山美枝子、25歳、赤軍派。彼女の死は、この事件で最も語られてきたもののひとつだ。指輪をしていたこと、化粧をしていたこと、身だしなみが「ブルジョア的」であること。永田の嫉妬が絡んだと多くの証言が指摘している。彼女は自分で自分の顔を三十分殴らされ、逆エビ型に縛られて衰弱死した。

1月9日、行方正時、25歳、赤軍派。脱走を考えていると見なされ、薪で殴られて死んだ。1月17日、寺岡恒一、24歳、革命左派。中央委員だった男が、アイスピックで刺され、最後は絞められて死んだ。1月19日、山崎順、21歳、赤軍派。

肋骨6本を折られ、アイスピックで刺され、絞殺された。1月30日、山本順一、28歳。正座させられ、殴られ、逆エビに縛られ、外に放置されて凍死した。同じ1月30日、大槻節子、23歳、革命左派。自分がリンチの対象に決まったことを知った上で、衰弱と凍えの中で死んだ。

彼女は日記を残している。後年『優しさをください』という題で刊行された、連合赤軍の女性兵士の日記だ。2月4日、金子みちよ、24歳、革命左派。妊娠八か月で、無実の嫌疑をかけられ、縛られ、食事を絶たれて死んだ。胎児も死に、彼女は吉野雅邦の妻だった。

吉野は妻をかばえず、永田の指示で縛り直しに加わり、遺体の開腹にも同意を表明している。2月12日、山田孝、27歳、赤軍派。銭湯を使ったことを批判され、雪の上に座らされ、凍傷を悪化させて死んだ。これも中央委員だ。十二人。

二か月弱。29人いた組織の、四割以上が死んだ。

榛名から迦葉山、そして妙義へ

彼らはひとつの場所に留まっていない。新倉ベース、井川ベース、牛首ベースと転々とし、1971年11月24日以降は群馬の榛名ベースが中心になる。ここで八人が死に、1月29日頃、榛名を捨てて迦葉山のベースへ移る。ここで三人が死に、金子みちよが死んだのもここだ。2月4日、森と永田は資金調達のため東京へ戻る。

そのタイミングで、山本順一の妻を含む三人が脱走した。この脱走が事件発覚の直接の引き金になる。その後、残った者は妙義山中のベースへ移動。ここで山田孝が死に、2月15日、群馬県警が榛名の焼け跡を発見。同じ日、坂口ら五人が長野方面へ逃げ出す。

2月17日、東京から戻ってきた森と永田が、妙義湖付近で逮捕された。事件の全貌が明らかになるのは、逮捕後の取り調べからだ。3月に入って、警察は山中と印旛沼の遺体を掘り出していく。あさま山荘の中継に釘付けだった日本人は、その数日後、山から十二体の若い遺体が出てきたというニュースを聞くことになる。このタイミングが決定的で、籠城戦だけなら「過激派の暴走」で済んだ。

だが、その裏に仲間殺しがあったと知った瞬間、日本の左翼運動そのものが道義的に折れた。

生き残った者たちが、その後の人生でずっと書き続けたこと

この事件が特異なのは、当事者が異様に多くの言葉を残していることだ。手記、日記、歌集、証言。彼らは黙らなかった。

坂口弘が獄中で三十一文字に変えたもの

坂口弘は死刑が確定しており、東京拘置所。1993年に最高裁で確定し、その後の再審請求も退けられ、彼は短歌を詠む。歌集『常しへの道』、そして『暗黒世紀』。獄中から歌誌に投稿も続けてきて、歌の内容は、革命でもイデオロギーでもない。八十五歳の母が面会に来ること。

これが最後かもしれないと思うこと。自分の遺骨をどこに送ればいいのか、書類の欄に書けないこと。雨の暗い日に部屋の明かりが光って、甦りということを思うこと。批評家は、坂口の文章には「嘘くさいところがない」と評し、自己弁護がない。榛名山でのリンチ殺人について正直に書きながら、告白によって罪が軽くなるとは一切考えていない。

三巻に及ぶ手記『あさま山荘1972』も同じ調子だ。死刑囚が四十年以上かけて短歌を詠み続ける、という事実そのものが重い。彼は坂東國男が逮捕されて刑が確定するまで執行が保留されている、と言われてきた。つまり、逃げた仲間のせいで、彼の死は宙吊りのままだ。

加藤倫教が、兄を殴った手で農業を継いだ

加藤倫教は1952年、愛知県刈谷市生まれ。高校二年の時に沖縄返還のデモに出会い、兄・能敬の影響で毛沢東思想に傾いた。高校を出た直後に爆発物所持で逮捕されている。その兄が、1月4日、榛名の柱に縛られて死に、享年22歳。倫教は、統合そのものへの反対の気持ちを持ちながら、強要されて兄を数回殴っている。

「当時は誰も想像していなかった」と後に振り返った。この一文の重さを想像してほしい。自分が殴った兄が、その数日後に死ぬ。そして自分は、兄を殺した組織と一緒に山荘に籠もり、二百発以上撃つ。1983年2月に懲役13年が確定し、三重刑務所へ。

1987年1月に仮釈放され、出所後の彼は転向した。刑務所で三、四年かけて考えて、こう結論した。革命とは、国民の多くが望む社会に変革すること。でも自分は政府を倒すために武装闘争ができれば満足で、自分勝手だった、と。実家の農業を継ぎ、藤前干潟の保全や海上の森の保護といった環境保護活動に入った。

そして、かつて打倒しようとしていた自由民主党に入党し、農業団体の会長になった。2022年のインタビューではこう言っている。政府に反対することイコール過激派、と見る風潮を世の中に生んでしまった。自分たちは罪深いなと思う、と。左翼運動に最大のダメージを与えたのは国家権力ではなく自分たちだった、という認識だ。

手記『連合赤軍少年A』は2003年12月に刊行された。事件当時未成年で「少年A」と報じられたことによる題名だ。

吉野雅邦の三百二十七ページ

吉野雅邦は無期懲役で千葉刑務所にいる。所内では「あさまさん」と呼ばれていたという。1998年頃は計算の仕事を、2012年頃は介助作業と陶芸指導の補助をしていた。2021年10月に体調を崩し、矯正医療センターへ移された。彼は獄中で327ページの手記を手書きで残しており、題は「省察・連合赤軍私史」。

その冒頭は、革命でも組織論でもなく、こう始まる。彼女――金子みちよは、組織に入る二年ほど前に出会った女性で、最初から自分の存在のすべてをかけて愛し続けると誓った相手だった、と。そして手記には、湖畔を歩きながら砂に彼女の名前を書いたことが出てくる。ユースホステルで告白したこと、彼女が考えさせてほしいと答えたこと、後日ボウリングを習いたいと電話をくれたこと。

1967年11月に初めてキスをしたこと、翌年6月に西伊豆へ旅行したこと。そういう、ただの若い恋人たちの記録が延々と書かれている。正直、読んでいて言葉が出ない。その相手が、妊娠八か月で縛られ、飢えさせられて死んだ。彼はそれを止められず、中央委員でありながら止めなかった。

判決は、印旛沼事件の責任を重く見る一方、あさま山荘については従犯の面を認め、検察の死刑求刑に対して無期懲役を言い渡したのだ。1983年2月2日、東京高裁が控訴を棄却して確定した。元検事の弁護士・古畑恒雄は、事件から50年の節目に吉野と面会している。出所できたら被害者遺族を訪ね歩きたい、償いの気持ちを持って勤めたい。そう吉野が語っていることを伝えている。

植垣康博が四十年カウンターに立ち続けた理由

植垣康博は1949年生まれ。弘前大学理学部に入り、民青に加盟したものの、反代々木派の学生への暴力に嫌気がさして1969年4月に脱退。その後、赤軍派に入る。M作戦の金融機関襲撃に加わり、連合赤軍統一後は兵士のリーダー格になった。彼は山岳ベースで総括要求を受け、そして生きて帰った。

言葉以上の総括要求――つまり暴力を受けて生還した唯一のメンバーだ。恋人を山で失っており、なぜ自分は生き延びたのか。彼の説明は身も蓋もない。手先が器用で大工仕事ができたから、だ。ベースの小屋を建てられる人間は殺すには惜しかった。

思想でも忠誠心でもなく、実用性で生死が分かれた。この一言が、あの組織の「総括」の実態を何よりよく表している。1972年2月19日、軽井沢駅で職務質問を受け、爆弾とナイフが見つかって逮捕。懲役20年が1993年に確定。1998年10月6日に出所し、その後、静岡市でスナック「バロン」を開いた。

四十年近く、彼は自分の店のカウンターで、訪ねてくる客に連合赤軍のことを語り続けた。『兵士たちの連合赤軍』を1984年に、『連合赤軍27年目の証言』を2001年に書いている。彼の分析はこうだ。あの集団には、それを支える強固な論理構造があった。だから狂人の暴走ではない。

理屈は最後まで通っており、通っていたからこそ、誰も止められなかった。植垣は2022年に重篤な状態でバロンを閉店し、2025年1月23日に亡くなり、生き証人が、またひとりいなくなった。

遠山幸子のもとに届いた、五十年封じられていた手紙

被害者側の言葉も残っている。2024年9月、遠山美枝子の母・遠山幸子が保管していた手紙が、約五十年ぶりに公開された。加害者側から遺族に宛てられた書簡だ。その中に、1973年5月28日付の永田洋子の手紙がある。永田はこう書いており、本当にごめんなさい。

遠山さんを、他の十三名と同じように殺した、と。そして、遠山美枝子が粛清に疑問を示し、同志への暴力の命令に従わなかった人物だったことを認めた上で、こう記した。遠山さんが正しかったのです、と。さらに手紙には、美枝子が死ぬ前に発した言葉が引かれている。苦しいから腕を切って、と言っていたこと。

お母さん、見てて、美枝子頑張るから、と呼びかけていたこと。母を呼んだその言葉が、なぜ攻撃の対象になったのかを、永田は問い直している。遠山幸子は、裁判を傍聴し、手紙を書き、関係者に会い続けた。娘に何が起きたのかを最後まで知ろうとした。編集者は、幸子が届いた手紙を自筆で冊子に書き写していたことについて、娘への思いを整理し供養するための行為だったと解釈している。

幸子は2024年時点で100歳。もう詳しい証言はできない状態だという。

森恒夫の元日、永田洋子の三十九年

指導者二人の末路も書いておく。森恒夫は逮捕後、獄中で自己批判書を書いた。自分の行った行為は日本革命史上かつてない残虐な非プロレタリア的行為だった、と。1972年10月からはクリスチャンの若い女性と文通していた。子供への思いを綴る一方で、革命のためにはそれがふさわしいとして妻子と別れ永田と結婚する、という考えも持っていたらしい。

ここまで来ても、思考の癖は抜けていない。1973年元日の午後2時頃、東京拘置所の独房で、のぞき窓の鉄格子にタオルを巻き、首を吊った状態で発見された。午後3時15分に死亡確認。満28歳。塩見孝也と坂東國男に宛てた遺書を残しており、坂東宛の末尾はこうだ。

この一年間の自己をふりかえるととめどもなく自己嫌悪と絶望がふきだしてきます。方向はわかりまし、今ぼくに必要なのは真の勇気のみです。十二人を殺す理屈を組み立てた男が、最後に「勇気」という言葉を使っている。その勇気の使い道が自分を吊ることで、裁判は開かれず、彼が法廷で何を語るかは永遠にわからなくなった。永田洋子は生き続け、1983年、東京地裁で死刑判決。

判決文が女性特有の性質を理由に挙げたことは、後に強い批判を浴びている。1993年2月19日に最高裁で死刑確定。2001年に再審請求、2006年11月28日に棄却。その半年ほど前に脳腫瘍で倒れ、手術後は寝たきりになった。夜中に頭痛で目が覚め、苦しむばかりで眠れない日々。

脳腫瘍の症状と更年期の症状が重なり、極度の苦痛の中にいたという。2008年には危篤が伝えられ、晩年は会話もできなくなった。2011年2月5日午後10時6分、東京拘置所で脳萎縮と誤嚥性肺炎により死亡。65歳。彼女は1982年に『十六の墓標』を書いている。

事件を分析し、同志殺害の原因を党派主義や一党独裁に求めた。左翼運動内の暴力を支えるのは「無私の精神」と「共犯関係」だ、という指摘がある。無私であればあるほど、他人にも無私を要求する。そして全員が手を汚せば、誰も告発できなくなる。この二点は、連合赤軍に限らずあらゆる閉鎖集団に当てはまる。

坂東國男だけが、今もどこかにいる。1975年8月、クアラルンプール事件で日本赤軍が人質を取り、超法規的措置で釈放されて国外へ出た。1977年9月28日のダッカ日航機ハイジャック事件にも関与したとされる。中東を拠点にし、中国、ネパール、ルーマニア、オーストリアで入国の形跡が確認されている。現在も国際手配中で、生死も不明だ。

彼の父は、1972年2月28日の夕方、息子が逮捕されたというテレビ報道を見て、その日のうちに首を吊って死んだ。

この事件が学生運動に何をしたか

1960年代末の日本には、大学のバリケードがあり、街頭にヘルメットの列があり、それを応援する世論も一定量あった。連合赤軍の過激な行動にすら、共感を示す声があり、それが、1972年3月に終わった。決定打は籠城戦ではなく、山から出てきた十二体だ。仲間を殺す運動に、若者は入らない。以後、新左翼運動に加わろうとする者は激減し、運動全体が衰退していく。

加藤倫教が言った「政府に反対することイコール過激派と見る風潮を世の中に生んでしまった」という自己評価は、たぶん正確だ。日本の社会運動が長く「政治的なもの」への忌避感を抱え続けた原因のひとつが、この二か月間にある。半世紀以上経っても、その空気は完全には抜けていない。

映画になり、漫画になり、論争になった

受容史も面白い――というより、受容史そのものが日本社会の自己認識の変遷を映している。2002年5月11日、映画『突入せよ!あさま山荘事件』が公開された。監督・脚本は原田眞人、主演は役所広司。原作は佐々淳行の『連合赤軍「あさま山荘」事件』だ。当初の題名は『救出』だったが、配給元の東映の岡田茂会長の指示で今の題に変わった。

興行後、制作陣は「『救出せよ』にすべきだった」と結論している。興行収入は10億円を超え、佐々本人がエキストラで出演している。この映画は完全に警察側の視点だ。指揮系統の混乱、警視庁と長野県警の摩擦、極寒の現場の苦労が描かれる。連合赤軍側の人間はほとんど顔が見えない。

それに不満を持ったのが若松孝二だった。2007年、彼は『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』を撮る。制作費はカンパと私財で、監督は自宅を抵当に入れ、宮城県の別荘をロケセットにして最後は解体した。森恒夫を地曵豪、永田洋子を並木愛枝、坂口弘をARATA、遠山美枝子を坂井真紀が演じた。若松の動機は明快だ。

あの時代とは何だったのか、検証したかった。いまの若い人たちにわかるような映画を作りたかったのだ。ベルリン国際映画祭でNETPAC賞とCICAE賞、東京国際映画祭では日本映画・ある視点部門作品賞を獲った。キネマ旬報ベスト・テン日本映画第3位、毎日映画コンクールの監督賞と撮影賞も受けている。ただしこの映画には強い異論がついた。

終盤、登場人物が「勇気がなかった」と叫ぶ有名な場面がある。加藤倫教は、これは創作であり「実録」という題名と矛盾すると批判した。当事者にとって、あの状況を「勇気の有無」に還元されることは受け入れがたい。逃げられなかったのは勇気の問題ではなく、構造の問題だからだ。漫画では山本直樹の『レッド』がある。

2006年から『イブニング』で連載が始まり、第一部は全8巻になった。続編の『レッド最後の60日そしてあさま山荘へ』が全4巻、『レッド最終章あさま山荘の10日間』が全1巻だ。十二年をかけており、2010年に文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞。『レッド』の恐ろしさは手法にある。登場人物に、死んでいく順番に1から15までの番号が振られるのだ。

まだ笑って議論している若者の顔の横に、小さく数字がついている。読者は最初から、この人物が何番目に死ぬかを知らされたまま読む。日常の描写がすべて処刑の前夜になる。山本がこれを描いた動機はオウム真理教事件だった。世界をよくしたいと思った人たちが、とんでもない事件を起こす。

その構造が同じだと見た。彼は「逃げる人を丁寧に描きました」と言っている。組織から抜けることがどれほど難しいか、それを描くために。批評の側では、森を特別な怪物として扱わない見方が主流になってきた。ノンフィクション作家の佐賀旭は取材の結果「森恒夫が特別な人だとは思えなかった」と述べている。

ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」を援用し、普通の人による悲劇として読み直す視点だ。山本直樹の言い方はもっと直接的だ。森は頭でっかちで、言葉のほうが人の命よりも重くなってしまった。そして、組織はやっぱり一様になると滅びるのではないか、と。異質さを排除し続けた結果、排除するものがなくなって、内側を食い始めた。

これは政治団体に限った話ではない。

なぜこれが、今も怖いのか

幽霊も呪いも出てこない。にもかかわらず、この事件は日本の実話怪談的な語りの中で今も特別な位置にある。理由はいくつかあり、ひとつ目。加害者が全員、普通の若者だったこと。薬剤師の資格を持つ女性、京大や横国や大阪市大の学生、農家の三兄弟。

誰も凶悪犯として育っていない。彼らは真面目だったからこそ、真面目に人を殺した。不真面目な人間なら、途中で面倒くさくなってやめており、ふたつ目。暴力が段階的だったこと。ある日突然「殺そう」と決まったのではない。

作業から外す、飯を減らす、殴る、縛る。一段ずつしか上がっていない。だから誰も、自分が今どこにいるかわからず、これが本当に怖いところだ。人は崖から落ちるのではなく、階段を降りる。三つ目。

ゴールがなかったこと。総括に合格基準がない以上、要求は永遠に終わらない。終わらない要求の下では、死ぬまで続けるしかない。ルールの設計ミスが、そのまま死者の数になり、四つ目。逃げられなかったこと。

真冬の山中、装備も金もなく、外は指名手配。物理的に逃げ場がない上に、抜けようとした者は印旛沼で殺されている前例がある。閉鎖と前例が揃うと、集団は暴走する。五つ目。そして、この構造がまったく特殊ではないこと。

ブラック企業でも、部活でも、宗教団体でも、SNSの内輪でも、条件が揃えば同じ形が現れる。逃げにくい、正しさの基準を一人が握っている、みんなが少しずつ手を汚している。この三つだ。だからこの事件は古びない。半世紀前の、山の中の、極端な話として片付けられない。

誰でも入りうる部屋の間取りが、そこに描かれているからだ。ここからは、上の再話では収まりきらなかった論点を、腰を据えて掘る。事件の何が本当に問題だったのか、後世の解釈はどこで割れているのか、そして反証されるべき通説は何か。

「永田洋子の嫉妬が原因」という説をどこまで信じるか

この事件を語るとき、最も繰り返されてきたのが「女の嫉妬が十二人を殺した」という筋書きだ。遠山美枝子の指輪、大槻節子への感情、金子みちよの妊娠。永田が女性メンバーに向けた敵意が引き金だった、という説明である。実際、根拠がないわけではない。永田自身が手記で、自分の中にあった不信感、猜疑心、嫉妬心、敵愾心を認めている。

1983年の第一審判決は山岳ベース事件を永田主導と判示し、しかもその理由に女性特有の性質を挙げた。裁判所が公式にそう書いたのだから、通説として定着するのも無理はない。だが、この説明にはいくつも穴がある。まず、死んだ十二人のうち、女性は四人だ。残る八人は男性で、その中には中央委員だった寺岡恒一と山田孝が含まれる。

嫉妬説では、組織のナンバー4やナンバー6が殺された理由を説明できない。次に、暴力の理論を作ったのは森だ。殴ることは指導である、気絶させれば別人格に生まれ変わる、この二つのフレーズは森のものである。永田がその理論に迎合し、実行を加速させたのは事実だが、装置を設計したのは森のほうだ。さらに、時系列を見れば、最初の暴力的総括の対象になったのは男性メンバーだった。

12月26日に始まった総括要求も、12月31日の最初の死者も、そこから嫉妬の物語は始まっていない。そして決定的に不公平なのは、判決文が「女性特有の性質」に言及したことだ。同じ論理を森に適用して「男性特有の」と書いた判決は存在しない。永田は女性であることによって、より重く裁かれた側面がある。これは事件そのものとは別の、司法の問題だ。

嫉妬説が生き延びてきた理由ははっきりしており、そのほうが安心できるからだ。十二人が死んだ原因が「一人の女の異常な感情」なら、自分たちには関係のない話になる。だが原因が「ゴールのない評価制度」と「逃げられない閉鎖環境」なら、それは自分の職場にも学校にもある。だから人は嫉妬説を選ぶ。怖くないほうを選ぶ。

そこがまさに、この事件が今も語り継がれるべき理由だ。

森恒夫はなぜ止まらなかったのか、という問い

森を怪物として描くと話は簡単になる。だが証言を積むほど、森は凡庸に見えてくる。高校の教員は普通の真面目な子だと評し、同級生はひ弱な文学青年に近いと言った。旋盤工として工場で働いていた時期もある。赤軍派の指導者になったのも、望んでではなく、上が全員逮捕されたり国外に出たりして誰もいなくなったからだ。

当時のメンバーは、やむなく引き受けたと書いている。ここに、この事件の核心のひとつがある。森は「本物」であることを証明し続けなければならない位置に、実力以上の速さで押し上げられた。よど号の田宮は北朝鮮におり、重信房子は中東におり、塩見は獄中にいる。彼らはみな、目に見える形で「やった」人間だ。

森には、それに匹敵する実績がなかった。だから彼は理論を作り、国外での実践に対抗できるのは、国内での純度だ。共産主義化という言葉は、実績のない指導者が権威を確保するための装置として、あまりにも都合がよかった。合格基準を作らなければ、彼だけが判定者でいられる。判定者でいる限り、彼は誰よりも上にいられる。

そして一度そこに乗ってしまうと、降りられない。降りるということは、自分が要求してきた総括が間違いだったと認めることであり、それはすでに死んだ人間を無駄死にさせることになる。死者が増えるほど、後戻りのコストが上がる。彼が最後まで止まらなかったのは、狂っていたからではなく、止まると自分が崩れるからだ。その証拠に、逮捕されて組織から切り離された途端、彼は崩れた。

自己批判書を書き、自分の行為を日本革命史上かつてない残虐な非プロレタリア的行為だと認め、一年もたずに首を吊ったのだ。理論の圧力から解放された瞬間に、彼を支えていたものが全部なくなった。坂東宛の遺書にある「今ぼくに必要なのは真の勇気のみです」という一文は、だから二重に痛い。彼が最後まで求めていたのは、革命でも共産主義化でもなく、自分が本物であることの証明だった。

それだけを、二十八年間探していたように見える。

警察側の判断を、五十年後にどう評価するか

後藤田正晴の「全員生け捕り」という命令は、しばしば名判断として語られる。だが冷静に見れば、これは極めて重いトレードオフを含んだ決定だ。射殺を許可していれば、狙撃で早期に決着した可能性はある。高見繁光警部も内田尚孝警視も死ななかったかもしれない。二人の失明した巡査も、目を失わなかったかもしれない。

警察は二十七人の死傷者を出している。この代償は、生け捕り方針の直接のコストだ。それでも後藤田は撃たせなかった。理由は「射殺すると殉教者になり今後も尾を引く」。つまり、これは治安判断であると同時に、政治的な判断だった。

国家が若者を撃ち殺した映像を全国生中継で流せば、その映像が次の世代を作る。だから撃つな、と。結果として、この判断は当たった。連合赤軍の五人は英雄にならず、山から遺体が出てきた瞬間に、彼らは英雄になる資格を失った。だが後藤田がそれを予見していたわけではない。

山岳ベースの全貌は、まだ誰も知らなかった。もうひとつ、あまり語られない論点があり、テレビ中継の是非だ。十時間四十分の生中継は、報道の勝利として語られてきた。だが同時に、これは警察の作戦を犯人側に筒抜けにする行為でもあり、山荘の中にはテレビがあった。彼らは自分たちを映す画面を見ていた可能性がある。

送電を止めたのは2月22日だが、それまでは見られる状態だった。実際、彼らはテレビでニクソン訪中を知っている。27日午後にラジオから事件関連の放送が消えたのは、報道協定が結ばれたからだ。つまり、途中で報道側も「これはまずい」と気づいた。だがそれは籠城八日目のことであり、現代の人質事件報道には厳格なルールがある。

そのルールの原型は、あさま山荘での失敗から作られた。この事件は、報道の到達点であると同時に、報道倫理の原点でもある。

手記が異様に多いという事実そのものについて

連合赤軍事件を他の事件と分けているのは、当事者の言語量だ。坂口弘は三巻の手記と複数の歌集を出し、獄中から歌誌に投稿を続け、永田洋子は『十六の墓標』を書いた。植垣康博は二冊書き、四十年カウンターで語り続け、加藤倫教は『連合赤軍少年A』を書いたのだ。吉野雅邦は327ページを手で書き、大槻節子の日記は死後に刊行された。遺族の側も、遠山幸子が五十年分の手紙を保管し続けたのだ。

これは偶然ではなく、彼らは言葉によって人を殺した集団だった。総括という言葉、共産主義化という言葉、敗北死という言葉。言葉が先にあり、暴力は後から言葉に追いついた。だからこそ、生き残った者は言葉でしか清算できないと考えたのだと思う。ただし、手記が多いことは、真相がわかりやすいことを意味しない。

むしろ逆だ。証言は互いに食い違う。誰が最初に殴ったのか、誰が止めようとしたのか、誰の発案だったのか。当事者の記憶は、それぞれの罪の重さの認識に沿って形を変えている。しかも、最も多く知っていたはずの森は、一度も法廷に立たずに死んだ。

彼の側からの完全な説明は永久に存在しない。永田は最後の数年、脳腫瘍で会話ができなくなり、坂東は国外にいる。だからこの事件は、五十年以上経っても「未解決」だと言われる。犯人が捕まっていないという意味ではない。何が起きたのかについて、当事者の間ですら合意がないという意味だ。

十六という数字と、遺族という立場

永田の手記の題は『十六の墓標』だ。山岳ベースの十二人ではなく、十六。印旛沼の二人、そして交番襲撃などで死んだ仲間を含めた数だとされる。数え方が資料によって十二だったり十四だったり十六だったりするのは、どこまでを「この事件」と呼ぶかが定まっていないからだ。だが遺族にとって、数字は問題ではなく、自分の子供が一人死んだ、それだけだ。

遠山幸子の五十年を考えてみてほしい。娘は、指輪をしていたという理由で、自分で自分の顔を殴らされて死んだ。死ぬ前に「お母さん、見てて、美枝子頑張るから」と言い、その言葉が、さらなる攻撃の理由にされた。母親はその後、裁判を傍聴し続け、加害者に手紙を書き、届いた返事を自分の手で冊子に書き写した。書き写すという行為は、読むよりずっと時間がかかる。

一文字ずつ、娘を殺した人間の謝罪をなぞっている。編集者はそれを供養だったと解釈しているが、それだけではないだろう。理解しようとしていたのだと思う。なぜ娘が死ななければならなかったのかを。そして永田の返事は、「遠山さんが正しかったのです」だった。

これほど遅く、これほど無力な正しさの承認があるだろうか。美枝子は粛清に疑問を示し、暴力の命令に従わず、組織の中で唯一まともだった。だからこそ殺され、その事実が確認されるのに、五十年かかった。寺岡恒一の両親が、2月26日の夕方にあさま山荘の前に立っていたことも、もう一度思い出しておきたい。息子を殺した組織の生き残りに向かって、拡声器で呼びかけている。

憎むことも、諦めることも、どちらもできない場所に、彼らは立たされていた。この事件を「怖い話」として消費するとき、この人たちがまだ生きていることを忘れるべきではない。

それでも、なぜ僕らはこれを読み返すのか

最後に、身も蓋もないことを書く。あさま山荘事件が繰り返し映像化され、漫画化され、五十年周期で特集が組まれるのは、これが「他人事にできない話」だからだ。猟奇殺人は他人事にできる。無差別テロも他人事にできる。だが、真面目な若者が集まって、正しさを追求した結果、正しさが人を殺した、という話は他人事にできない。

誰でも真面目な集団に所属したことがあるからだ。山本直樹が『レッド』を描いた動機がオウム真理教事件だったのは、そういうことだ。世界をよくしたいと思った人が、とんでもない事件を起こす。この構造は世代を超えて再生産される。オウムのあと、SNSの相互監視のあと、次はどこで出るかわからない。

判定者が一人しかいない。合格基準が公開されていない。抜けようとした人間に罰があり、全員が少しずつ加担している。この四つが揃った集団は、規模も思想も関係なく、同じ坂を降り始める。連合赤軍がやったのは、その坂を最後まで降り切って見せることだった。

二か月弱で、十二人分。だから、この記事の最後に置くべき言葉は、教訓めいたものではないと思う。加藤倫教が二十年かけて刑務所でたどり着いた結論を、そのまま置いておく。革命とは国民の多くが望む社会に変革すること。でも自分は政府を倒すために武装闘争ができれば満足で、自分勝手だった。

目的と手段が入れ替わったことに気づくのに、彼は二十年かかり、山にいた二か月間、誰もそれに気づけなかったのだ。雪の斜面に立っていたあの三角屋根は、1972年のうちに壊された。跡地には今、慰霊碑があり、浅間山はそこから見える。坂口弘が九日目に、割られた窓の穴からようやく見たのと同じ山だ。

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