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アトランタで子どもが消え続けた二十二か月――橋の下の水音で終わったはずの事件が、四十年たってもまだ終わっていない理由

――空き缶を拾う女性が藪の中に見たもの

一九七九年七月末のアトランタは、うんざりするほど暑かったらしい。ジョージア州の夏は湿気が肌にまとわりつくやつで、道路のアスファルトは午後になると柔らかくなる。その日、市の南西部にあるニスキー・レイク・ロードという道の脇を、ひとりの女性が歩いていた。空き缶や空き瓶を拾って小銭に換えるためだ。この街の貧しい黒人地区では珍しい光景じゃなかった。彼女が藪のほうに目をやったとき、そこに人間の脚が見えた。

通報を受けた警察が現場に着いて、藪をかき分けて確認したところ、遺体はひとつじゃなかった。ふたつあった。十四歳のエドワード・ホープ・スミスと、十三歳のアルフレッド・エヴァンス。スミスは七月二十一日から行方が分からなくなっていて、エヴァンスは七月二十五日に家を飛び出したきり帰ってこなかった。ふたりとも黒人の少年で、ふたりとも市の南西部に住んでいて、ふたりとも家族が捜索願を出していた。

スミスの体からは二十二口径の銃創が見つかり、エヴァンスは絞殺だと判定された。死因が違う。凶器も違う。だから、この時点で警察は「同一犯」という線を強く押し出さなかった。

いま振り返ると、この最初の判断がすべての起点になっている。アトランタ市警は、二体同時に見つかった少年たちを、それぞれ別個の殺人事件として処理した。統計上は「未解決の殺人が二件増えた」でしかない。当時のアトランタでは年間およそ二百件前後の殺人が起きていたから、貧しい地区の少年ふたりの死は、書類の山に沈むには十分すぎるほど平凡だったってことだ。

だが、少年たちは消え続けた。九月四日、十四歳のミルトン・ハーヴェイが母親に頼まれて銀行に小切手を持っていく途中で消えた。自転車は数日後に見つかったが、彼自身は十一月まで出てこなかった。遺体は損傷が激しく、死因は特定できなかった。そして十月二十一日、九歳のユスフ・ベルが、近所の年配女性に頼まれてタバコ用の嗅ぎタバコを買いに出たまま帰ってこなかった。

――洗われていた九歳の服が、本当は何を語っていたか

ユスフ・ベルという子どもについては、少し丁寧に書いておきたい。彼は小学五年生で、近所の大人たちが口をそろえて「賢い子」と言うタイプだった。大人の小切手帳の残高計算を手伝ってやるような子だったという証言が残っている。体操選手になりたがっていた。母親のカミール・ベルは、ペンシルベニア州フィラデルフィアの生まれで、父親は技師、母親は理科の教師という家庭に育ち、全米メリット奨学生に選ばれた経歴の持ち主だ。

アトランタに移ってからは学生非暴力調整委員会の活動に関わり、四人の子を女手ひとつで育てながら、洗剤や化粧品を売って生活費の足しにしていた。

ユスフの遺体は、失踪からおよそ三週間後、アトランタ・フルトン郡スタジアムにほど近い、閉鎖されて板を打ちつけられた学校の建物のなかから見つかった。狭い床下空間に押し込まれていた。死因は絞殺と鈍器による外傷。そして遺族と捜査関係者を戦慄させたのは、遺体の状態だった。彼の服は、洗われていた。誰かが、殺したあとで、少年の衣服をわざわざ洗濯していたということになる。

これは単なる猟奇性の話じゃない。捜査の観点から言うと、決定的に重要な情報なんだよな。服が洗われているということは、犯人が微細な証拠、つまり髪の毛や繊維の付着を気にしていたか、あるいは少なくとも遺体を「片付ける」習慣を持っていたことを意味する。そして遺体を屋内から屋内へ運び、床下に隠すという手間をかけている。行きずりの衝動的な犯行では、まずこうはならない。

この段階で、警察には「計画性のある人物が繰り返している」と考えるだけの材料があった。あったのに、その線は主流にならなかった。

――「連続殺人ではありません」と繰り返された一年間

一九八〇年に入ると、失踪と発見のペースが上がっていく。三月四日、十二歳のアンジェル・レネアが消えた。彼女は六日後、他人の家の裏庭で、木に縛りつけられた状態で見つかっている。死因は索状物による絞殺。三月十一日には十一歳のジェフリー・マティスが、母親に頼まれて店へ使いに出たまま消えた。彼の遺体が見つかるのは、ほぼ一年後の一九八一年二月だ。

五月十八日に十四歳のエリック・ミドルブルックス、六月九日に十二歳のクリストファー・リチャードソン、六月二十二日に七歳のラトーニャ・ウィルソン、そして六月二十三日には十歳のアーロン・ワイチ。

ワイチのケースは、当時の警察の姿勢を象徴している。彼の遺体は失踪の翌日、高速道路の高架橋の下で見つかった。当初、これは事故死として処理された。橋から落ちて首の骨を折ったのだろう、と。だが後年、この判定は覆り、窒息死として扱われることになる。事故として片付けられた子どもが、実際には殺されていた。つまり、当時のリストに載っていた数字そのものが、現場の裁量ひとつで揺れていたということだ。

ラトーニャ・ウィルソンは七歳の女の子で、家族が眠っている深夜、自宅から連れ去られたと考えられている。窓が破られていた。この子については、捜索が数か月にわたって続いた。三百人を超えるボランティアが、州間高速二十号線の北側の雑木林を、横一列になって歩いた。

十月十八日、彼女の住んでいたヒルクレスト・ハイツ団地から見える距離の下生えのなかから、小さな骨格と、破れたシャツと、緑のプラスチック製ヘアクリップのついた髪の塊が見つかった。ユナイテッド・プレス・インターナショナルの当時の配信記事によれば、公安委員長のリー・ブラウンは、死因は判定できないと述べつつ、現場付近で曲がったバールが見つかったことに言及している。

捜索に加わっていた人々のなかには、頭蓋が砕けているように見えたと語った者もいた。

この頃、遺族たちが警察に対して抱いていた感情は、悲しみよりも苛立ちに近かった。カミール・ベルは後年、公安委員長のリー・ブラウンについて「みんなを不安にさせたくない、というのが彼の言い分だった」と振り返っている。八人の子どもがすでに死んでいるか行方不明になっている段階での話だ。彼女はこうも言っている。折り返しの電話すらこない、何も動いていない、と。

警察の側にも言い分はあった。年齢も性別も居住地も死因もばらばらな複数の事件を、証拠なしに「連続殺人」と発表すれば、パニックが起きる。市の観光と投資にも響く。捜査資源を一本化した結果、実は別々の事件だったとなれば、それはそれで失態だ。だが、遺族の側から見れば、これは要するに「うちの子は数に入っていない」という宣告に等しかった。しかも被害者はほぼ全員が黒人で、しかも貧しい家庭の子どもだった。

もし同じ二十二か月のあいだに、白人の中流家庭の子どもが二十人以上消えていたら、同じ対応だったのかどうか。この問いは、四十年以上たったいまも消えていない。

――母親たちがバインダーを開き、自分たちで数え始めた

だから、母親たちは自分でやることにした。

一九八〇年四月十五日、カミール・ベルを中心に、失踪した子どもや殺された子どもの親たちが集まって、子ども殺害阻止委員会という組織を立ち上げた。英語の頭文字をとって「ストップ」と呼ばれた。アトランタ・ジャーナル・コンスティチューションの年表では、この日が組織の結成日として記録されている。

委員長がカミール・ベル、副委員長がジェフリー・マティスの母ウィリー・メイ・マティス、そして役員にはアンジェル・レネアの母ヴィーナス・テイラーの名前が並ぶ。全員が、自分の子どもを失った、あるいは行方が分からないままの母親たちだった。

彼女たちがやったことは、驚くほど地道で、驚くほど有効だった。まず、独自にリストを作った。誰が、いつ、どこで最後に目撃され、どこで見つかったか。警察が「関連なし」として別々のファイルに分けていた情報を、一枚の紙の上に並べ直した。並べてみれば、パターンは目に見える。ほとんどが黒人。ほとんどが男子。ほとんどが九歳から十四歳。ほとんどが市の南西部と西部の低所得地区。

ほとんどが、ひとりで使いに出たとか、小銭を稼ぎに出たとか、そういう瞬間に消えている。

次に彼女たちは、報道機関と警察の建物の前に座り込んだ。記者会見を開いた。市議会に陳情に行った。教会を回り、集会を開き、署名を集めた。この手つきは偶然じゃない。カミール・ベル自身が学生非暴力調整委員会の出身だったように、彼女たちが使ったのは、公民権運動でこの街が磨き上げてきた戦術そのものだった。意識を高め、共同体で自衛し、行政に食い下がり、黒人であれ白人であれエリートには容赦しない。

ニューサウスの首都と呼ばれた街で、その街の運動の遺産が、今度は市庁舎そのものに向けられたわけだ。

歴史学者のポール・レンフロは、この時期のアトランタを論じた研究で、街のスローガンをもじった辛辣な表現を使っている。憎むには忙しすぎる街ではなく、気にかけるには忙しすぎる街、と。行政と白人ビジネスエリートの連合が街のイメージ防衛を最優先し、貧しい黒人の子どもたちの死が二の次にされたという批判だ。

歴史学者のモーリス・ホブソンも同様に、黒人の上層と中間層が白人財界と手を組んで築いた「ブラック・メッカ」の物語が、結果として黒人労働者階級と貧困層を周縁に追いやったと指摘している。この街で初めての黒人市長メイナード・ジャクソンは、公民権運動の申し子として登場したのに、自分の支持基盤だったはずの貧しい人々から「あなたは我々を見捨てた」と言われる立場に追い込まれていった。

さらに苛立ちを増幅させたのは、消えた子どもたちへのレッテルだった。当初、警察や一部の報道は、被害者の少年たちを「金をせびって回っていた」「家出常習者」として扱う傾向があった。小遣い稼ぎに買い物袋を運んだり、空き缶を集めたり、洗車をしたりしていた子どもたちだ。貧しい家の子が小銭を稼ぐのは、その地区では当たり前の生活だった。

それが「素行の問題」に読み替えられ、暗に「そういう子だから危ない目に遭った」というニュアンスをまとう。遺族が最も激しく怒ったのは、実はこの部分だったりする。

――保育所が吹き飛んだ日、街の空気が決定的に変わった

一九八〇年七月十七日、アトランタ市警はついに特別捜査班を発足させた。最初の遺体が見つかってから、ほぼ一年が経っていた。同じ八月二十二日、十二歳のクリフォード・ジョーンズがショッピングセンターのゴミ容器の脇で見つかったとき、警察はようやく公式に「一連の事件には共通のパターンがある可能性が高い」と認め、関連事件として捜査する方針を発表する。

ジョーンズはオハイオ州クリーブランドから祖母のもとに遊びに来ていた子で、兄弟と一緒に空き缶を集めて小銭にしていた。最後に目撃されたのは、女性の買い物袋を運ぶのを手伝いに行くと言って離れた場面だった。

そして十月十三日、事態は誰も予想しなかった方向に爆発する。文字どおり爆発した。

市の北西部、ボウエン・ホームズという公営住宅地区にあったゲイト・シティ・デイ・ナーサリーで、午前十時二十分ごろ、ガス焚きのボイラーが爆発した。厨房と事務室と遊戯室をつなぐ連絡通路が吹き飛び、ブロックやコンクリートの塊が二百フィートから三百フィート先まで飛んだ。近隣アパートの窓ガラスが割れた。当時、建物のなかには八十人を超える子どもと、八人から九人の大人がいた。死んだのは五人。

五十二歳の保育士ひとりと、三歳の子どもが四人だった。

公式の説明は、老朽化したボイラーの事故ということだった。だが、住民はほとんど誰も信じなかった。理由がある。その前日、隣接する郡で白人至上主義者の集会が開かれていた。爆発と同じ日、通りを挟んだ向かいの小学校に爆破予告の電話が入っていた。そしてなにより、この街ではすでに一年以上にわたって黒人の子どもが消え続けていて、警察はそれを止められずにいた。

南部キリスト教指導者会議のジョゼフ・ラウリー牧師は「全国規模で黒人に対する組織的な攻撃が行われている。子どもが殺されるのはもうたくさんだ」と述べている。

この爆発は、ボウエン・ホームズの住民にとって「行政は我々を守らない」という確信を決定づけた。市長が現場に駆けつけたとき、群衆は怒声で迎えた。事故だという説明を、住民は「街を落ち着かせるための作り話」として受け取った。そして皮肉なことに、この爆発事故こそが、アトランタで起きていることを全米ニュースの一面に押し上げた。

それまでローカルな話題だった一連の失踪と殺人が、この日を境に国家的な事件になっていく。

爆発事故と一連の殺人事件との直接的な因果関係は、その後の調査でも立証されていない。だがこの記事で強調したいのは、事実関係よりも空気のほうだ。何が本当かではなく、何を信じてしまうか。行政が事故だと言えば言うほど、住民は「隠している」と考える。そしてその不信は、その後の捜査、逮捕、裁判、そして四十年後の現在に至るまで、この事件の受け止められ方を規定し続けることになる。

――夜九時の外出禁止令、五十万ドルの懸賞金、そしてシナトラがやってきた

一九八〇年から八一年にかけてのアトランタが、どれくらい異常な状態だったか。数字と出来事を並べていくと、その温度が伝わると思う。

十月二十日、市議会は満場一致で子どもの夜間外出禁止令を採択した。十五歳未満は午後十一時から午前九時まで路上に出てはいけない。有効期間は九十日。同時に市の懸賞金基金として二万ドルが設定され、それまでの分と合わせて懸賞総額は五万ドルになった。同じ日、制服警官と消防士が総出で市内の住宅を一軒ずつ訪ねる大規模な聞き込みが始まっている。

年が明けた一九八一年一月二十七日、メイナード・ジャクソン市長は市長令で外出禁止の開始時刻を午後九時に前倒しした。市議会ではさらに午後七時まで繰り上げ、違反した子どもの親に罰金を科す案まで検討されている。

つまり、この街では、子どもが日没後に外を歩くこと自体が違法になった。夕方の路地から子どもの声が消えた。学校を休ませる親が続出した。ワシントン・ポストの一九八一年三月の記事には、市議会議員アーサー・ラングフォードのこんな言葉が引用されている。五歳と六歳の女の子が人形で遊んでいて、片方がもう片方にこう言うのを見てしまったら、あなたはどうするのか。

「あなたの赤ちゃんを外に出しちゃだめ、子どもたちが殺されてるんだから」。

市民は自衛を始めた。テックウッドをはじめとする公営住宅地区では、住民が野球のバットを持って夜間パトロールを組む「バット・パトロール」が生まれた。武装した自警団を組織すると宣言した地区もあった。週末になると数百人規模のボランティアが雑木林や河川敷を横一列で歩く一斉捜索が繰り返された。ラトーニャ・ウィルソンの遺体を見つけたのも、この市民捜索隊だ。

参加者のなかには市議会議員や、国連大使を務めたアンドリュー・ヤングの妻ジーン・ヤングの姿もあった。緑のリボンが、犠牲になった子どもたちを悼む印として街じゅうに現れた。

金も、全米から流れ込んできた。一九八一年三月十日には、フランク・シナトラとサミー・デイヴィス・ジュニアが主催するチャリティー公演が開かれ、バート・レイノルズやロバータ・フラック、ディジー・ガレスピーが顔をそろえ、ジョージ・バスビー州知事夫妻も出席した。チケットは高いもので五百ドル。ニューヨーク・タイムズはこの公演の収益をおよそ二十五万ドルと報じている。

犯罪捜査そのものの費用を賄うために芸能人がコンサートを開くというのは、当時としては前代未聞のことだった。会場の警備は爆発物探知犬と連邦捜査局と州捜査局の要員とヘリコプターという物々しさで、地元紙には「サミーとフランクをみんなが見ているあいだ、誰が子どもたちを見張るのか」という脅迫まがいの手紙まで届いていた。シナトラは舞台上でこう言っている。

アトランタにとって幸せな日々ではない、我々をここに集めた非人間性に、世界中が悲しんでいる、と。

五月には、元世界ヘビー級王者のモハメド・アリが四十万ドルの懸賞金上乗せを表明し、基金の総額は五十万ドルに達した。ジャクソン市長はこれを「この悲劇の全期間を通じて最も意義深い関心の表明のひとつ」と評した。もっとも、現場の捜査員のなかには冷めた見方もあって、懸賞金が跳ね上がれば跳ね上がるほど、あらゆる変人からの電話が捜査本部に殺到するだけだと不満を漏らす者もいたと報じられている。

連邦政府も動いた。一九八一年三月、レーガン大統領は捜査費用として百五十万ドルの追加拠出を指示し、それ以前に社会福祉と保健サービス向けの九十七万九千ドルもすでに手当てされていた。大統領は会見で「四十人近い連邦捜査局の捜査官が現場で働いている」と述べ、翌日にはジョージ・ブッシュ副大統領が自分の名代としてアトランタに飛んだ。ジャクソン市長自身も市民に「議員に手紙を書いてくれ」と呼びかけていた。

捜査には月あたり二十五万ドル前後がかかっていて、そのほとんどが予算外の支出だったからだ。五月二十五日には、ワシントンのリンカーン記念堂前におよそ三千人が集まり、アトランタの子どもたちのための抗議集会が開かれた。壇上でカミール・ベルはこう語っている。この国じゅうで、いろいろなやり方で我々の子どもが殺されている、我々の未来が消されている、と。

――遺体が川に浮くようになった、その変化を捜査官はこう読んだ

連邦捜査局が正式に動き出したのは一九八〇年十一月だ。同年十一月六日、司法長官ベンジャミン・シビレッティが予備捜査の開始を指示し、十一月十七日に「アトキッド」というコードネームで捜査が立ち上がった。子ども向けの用語みたいな響きだが、要するにアトランタの子どもという意味の符牒だ。

前年から行動科学課のロイ・ヘイゾルウッドが助言に入っていて、一九八一年一月には、のちに「マインドハンター」の著者として知られることになるジョン・ダグラスが正式なプロファイル作成のために現地に入った。

ダグラスが出した結論は、当時のアトランタでは口にするのも危険なものだった。犯人はおそらく黒人男性である、と。街の空気は「白人至上主義者が黒人の子どもを狩っている」という疑いで張り詰めていて、そこへ連邦捜査局の白人捜査官が「犯人は黒人だ」と言い出したわけだから、反発は激烈だった。ダグラス自身、この見立てを地元に伝えたときの空気の悪さを回想している。

彼のプロファイルは、犯人が平均以上の知能を持ち、弁が立ち、権威を装って被害者に近づき、報道を熱心に追いかけ、自営業か職を転々としている人物だろう、というものだった。

そしてもうひとつ、彼が出した実務的な提案がある。一九八一年の春先から、遺体の発見のされ方が変わっていた。それまで雑木林や空き地や建物の中に置かれていた遺体が、川から上がるようになったのだ。四月に入るとその傾向がはっきりしてきた。この変化には理由がある。報道が過熱し、遺体から繊維が採取されているという情報が流れると、犯人はそれを見て学習する。水に沈めれば、体表の繊維は流れ落ちる。

つまり、遺体を川に捨てるという行動の変化そのものが、「犯人は捜査の進み具合を追いかけている」という強力な状況証拠になっていた。

だから、橋を張れ――そういう話になった。

四月二十七日から、チャタフーチー川にかかる十二本の橋と、サウス川にかかる二本の橋に監視班が配置された。班の構成は、警察学校を出たばかりの新人巡査を土手や橋の下に潜ませ、橋のたもとの道路上に連邦捜査局の捜査官とアトランタ市警の警官を組ませて待機させるというものだ。夜通し、川べりの草むらに人が伏せている。虫が刺す。湿気がひどい。ビーバーが水音を立てる。何日も何も起きない。

徒労感だけが溜まっていく張り込みだった。

――一九八一年五月二十二日午前二時五十二分、橋の下で水音がした

その夜、ジェームズ・ジャクソン・パークウェイ橋の下にいたのは、二十七歳の警官ボブ・キャンベルだった。彼はこの橋での張り込みを七夜こなしていた。午前二時五十二分ごろ、彼は水音を聞いた。法廷での彼の証言によれば、それは水に飛び込む動物が立てるどんな音よりも大きかった。彼は懐中電灯で水面を照らし、波紋を追った。波紋の中心は、橋のちょうど真下あたりだった。

「顔を上げて、下を見て、また上げて、もう一度下を見ようとしたとき、水音があがったちょうど真上のあたりで、車のライトが点いたんです」。キャンベルはそう証言している。車のヘッドライトが、それまで消えていた、という点が重要だ。つまり、その車は明かりを消したまま橋の上に停まっていた可能性が高い、というのが検察の主張になる。

キャンベルは無線で、橋の南側の土手にいた新人巡査フレディ・ジェイコブスを呼んだ。「フレディ、そっちの橋の上に誰かいるか。いま下でものすごい水音がしたんだ」。ジェイコブスが顔を上げると、橋の端に寄った位置に車があった。彼の証言によれば、車はふつう車線の中央を走るものなのに、その車は端に寄っていて、しかも「駐車状態から動き出したみたいに」ゆっくり進んでいた。

キャンベルもジェイコブスも、通常の速度で車が橋の継ぎ目を通過するときに鳴る金属音を聞いていない。のちの実験で、時速十マイル以下ならその音は聞こえないと確認されている。

車は橋を渡り切り、酒屋の駐車場に入り、そこで停まることなく向きを変えて、また橋のほうへ戻ってきた。無線を受けた連邦捜査局のグレッグ・ギリランド捜査官らが、橋からおよそ半マイルの地点でその車を停めた。霧の出ている明け方だった。白い一九七〇年型シボレーのステーションワゴン。運転していたのは二十三歳の黒人男性、ウェイン・バートラム・ウィリアムズだった。

車内の様子について、複数の捜査員が法廷で証言している。ジェイコブスは、開いたダッフルバッグのような衣類の袋がふたつ、成人用らしい大きな黒い靴、汚れた手袋、懐中電灯を見たと述べた。別の捜査官は、茶色の紙袋がふたつと長ズボンがあり、ウィリアムズはバスケットボールをするときの着替えだと説明したと証言している。連邦捜査局の捜査官のひとりは、車内にナイロンの紐があったとも証言した。

ただ、その紐は押収されなかった。証拠として正式に鑑定にかけられることもなかった。この取りこぼしは、のちに繰り返し議論の的になる。

ウィリアムズはその場で職務質問を受けた。彼の説明はこうだった。シェリル・ジョンソンという女性歌手からオーディションの問い合わせがあり、その面談の時間を朝に設定したので、渋滞のなかで住所を探すのを避けるために、深夜のうちに場所を下見しに行くところだった。捜査員に告げた面談時刻は、証言のたびに午前六時だったり午前八時だったりして揺れた。教えられたという電話番号も住所も、実在しなかった。

ウィリアムズは、彼女が番号を間違えて伝えたのだと主張した。検察は、そんな女性は最初から存在しないと主張した。

この時点で拘束するだけの相当な理由がなかったため、警察はウィリアムズを解放した。そして五月二十四日、橋の下流で、二十七歳のナサニエル・ケイターの遺体が浮かんだ。彼は、公式のリストにおける最後の犠牲者になった。その一か月ほど前には、二十一歳のジミー・レイ・ペインの遺体が、同じ川から上がっていた。

ここから捜査は一気に加速する。六月三日、ウィリアムズの自宅とステーションワゴンに家宅捜索令状が執行された。六月二十一日、彼はケイター殺害容疑で逮捕され、七月十七日にケイターとペイン、成人男性二名の殺害で起訴された。

なお、ここで日付について一点だけ注記しておきたい。橋での職務質問の日付を四月二十二日と記す資料があり、地元紙の年表もそう書いている版がある。だが連邦捜査局の内部記録や、法廷証言に基づく当時の通信社報道、そして遺体発見日との整合を考えれば、五月二十二日とするのが妥当だ。四十年以上論じられてきた事件なのに、こういう基礎的な日付ですら資料によって揺れる。

それ自体が、この事件の情報環境の混乱ぶりを物語っている。

――一九七一年にしか作られなかったカーペットという武器

この事件の捜査を実際に動かしたのは、目撃者でも自白でもなく、繊維だった。当時としてはかなり新しい発想で、それが法廷でここまで前面に出た事例はほとんどなかった。

事の起こりは、被害者たちの遺体や衣服から、正体不明の黄緑色の繊維と、紫がかった繊維が繰り返し検出されていたことだ。ジョージア州捜査局のラリー・ピーターソンと、連邦捜査局のハロルド・ディードマンが、この微細な糸くずを執拗に追いかけた。一九八一年二月十七日、パトリック・バルタザールの遺体に付着していた繊維状の物質によって、彼の死と他の五件の子どもの殺害を結びつけられる、と当局が発表している。

これが繊維鑑定が公に事件の輪郭を描き出した最初の場面だ。

問題の黄緑色の繊維は、断面の形が異様だった。普通のナイロン繊維は円形や三葉形の断面をしているが、この繊維の断面は独特で、しかも一般的な製品ではまず見かけない形状をしていた。捜査側は繊維業界を虱潰しに当たっていく。裁判で証言台に立ったデュポン社の技術者ハーバート・プラットは、三十年この業界にいるが、連邦捜査局に見せられたような繊維は見たことがないと述べた。

ウェルマン社のヘンリー・ポストンは、その独特な断面形状が、他社の特許を回避するための工夫の結果生まれたものだと説明した。ウェストポイント・ペパレル社のジーン・バゲットは、そのカーペットの見本と販売データを提示した。

ここから出てきた結論が、この裁判の核心になる。問題の繊維は、ウェルマン社が一九六七年から一九七四年にかけて生産したナイロン原糸で、それをジョージア州ダルトンのウェストポイント・ペパレル社が「ラクセア」というカーペットに加工し、「イングリッシュ・オリーブ」という色で出荷していた。しかも、その色でその仕様の製品が製造されたのは、一九七一年という一年だけだった。

同社の販売記録によれば、一九七一年前半にジョージア州を含む十州の地域で売れた量は、およそ九千平方ヤードにすぎない。

そして、ウェイン・ウィリアムズの自宅の寝室には、まさにその年に作られたその色のカーペットが敷かれていた。

検察は、この一点だけで押し切ったわけじゃない。押収品から特定された繊維の供給源は、寝室のカーペットだけでなく、居間のカーペット、紫と緑のベッドカバー、浴室の敷物、衣類、そしてステーションワゴンの車内カーペットまで、十八から十九の品目に及んだ。連邦捜査局の分析では、被害者から見つかった二十八種類の繊維が、ウィリアムズの生活環境に由来する繊維と顕微鏡的に類似していた。

さらに、白地に黒い先端を持つ犬の毛が九人の被害者から検出され、ウィリアムズが飼っていたジャーマンシェパードの「シーバ」の毛と一致するとされた。捜査当局は、寝室のカーペット繊維が偶然に一致する確率を七千七百九十二分の一と算出し、複合的な一致全体では一億五千万分の一という数字まで法廷に示した。

弁護側の反論は、いま読み返しても筋が通っている部分がある。第一に、専門家は「類似している」としか言えないのであって、「同一である」と断言した者はひとりもいない。第二に、微細証拠は双方向に働くはずだ、という指摘。もしウィリアムズの環境から被害者へこれほど大量の繊維が移動したのなら、逆に被害者側からウィリアムズの家や車へ移った痕跡も相応に見つかるはずなのに、それが提示されていない。

この「双方向性」の議論は、現代の法科学の文脈で読むとかなり鋭い。

じっさい、繊維鑑定という手法そのものの位置づけは、いまでは当時ほど盤石ではない。

犬の毛についても、二〇〇七年に実施されたミトコンドリア・ディーエヌエー検査で、遺体から採取された毛がウィリアムズの犬と同じ配列を持つと判明したが、検査を担当したカリフォルニア大学デイヴィス校の研究室のエリザベス・ウィクタム博士は、その配列はおよそ百匹に一匹の犬に見られるもので、結果は「かなり有意」ではあるが、その犬が毛の出所であると決定づけるものではない、と明言している。

ミトコンドリア・ディーエヌエーは母系しか追えないからだ。同年、連邦捜査局は被害者から採取された人毛二本についても検査を行い、その配列は人口のおよそ九十九・五パーセント、黒人に限れば九十八パーセントを排除できるものだったうえで、ウィリアムズの配列とは矛盾しなかったと報告している。矛盾しない、というのは、一致を証明したという意味ではない。

ジョージア州最高裁のジョージ・スミス判事が、のちに繊維証拠の扱いについて否定的な見解を示したことも記録に残っている。証拠の強度をめぐるこの綱引きは、判決から四十年たったいまも決着していない。

――起訴されたのは成人二名だけだった、という動かない事実

ここが、この事件を語るうえで絶対に曖昧にしてはいけない一点だ。

一九八一年十二月二十八日から陪審員の選定が始まり、一九八二年一月六日、フルトン郡でクラレンス・クーパー判事のもと、ウェイン・ウィリアムズの裁判が始まった。陪審は女性九名と男性三名の十二人で、うち八名が黒人、四名が白人だった。そして起訴状に書かれていた罪状は、二十七歳のナサニエル・ケイターと二十一歳のジミー・レイ・ペイン、成人男性二名に対する殺人だけだった。

子どもたちの殺害については、ウィリアムズは一度も起訴されていない。したがって、有罪判決も出ていない。

これは細かい法律論じゃなく、この事件全体の骨格に関わる話だ。世間は「アトランタ児童連続殺人事件の犯人が捕まった」と記憶している。だが法的な事実として、彼が有罪を宣告されたのは成人二名の殺害についてであって、二十人を超える子どもたちの死については、司法の場で誰の責任も確定していない。ゼロだ。

では、なぜ裁判で子どもたちの事件が語られたのか。ジョージア州には「類似行為」の証拠法則というものがあって、起訴されていない別の事件であっても、犯行の手口や状況に十分な共通性があれば、被告人の同一性や動機を立証するための証拠として提出できる。検察はこの法理を使って、十件前後の子どもの死亡事案を「パターン証拠」として法廷に持ち込んだ。繊維の対応関係が示されたのも、この枠組みのなかでだ。

ジョン・ダグラスの回想によれば、この作業で十二人の被害者から採取された繊維がウィリアムズの紫と緑のベッドカバーに結びつけられ、その大半が寝室のカーペットに、約半数が居間のカーペットと一九七〇年型シボレーに、そして一件を除くすべてが飼い犬シーバの毛に結びつけられた。

つまり、陪審は「子どもたちの事件」を、被告人が成人二名を殺したかどうかを判断する材料として聞かされた。だが評決の対象になったのは、あくまで成人二名だ。この構造が、事件のその後をずっと歪ませることになる。子どもの遺族から見れば、自分の子の死は「別件の証拠」として法廷に持ち出されただけで、その子自身の名前で誰も裁かれていない。

なお、捜査当局は非公式には、二十件を超える事件をウィリアムズによるものと見なしてきた。数え方によって二十二件とも二十四件とも言われる。当時の捜査関係者は、子どもたちの遺族に裁判という負担をさらに背負わせないための判断だったと説明している。だが、それを説明として受け入れるかどうかは、遺族によって割れた。

――法廷の空気を変えた三十秒、そして十一時間の評議

裁判そのものは、二か月にわたって全米の注目を集めた。検察の柱は三本だった。ウィリアムズの生活環境と遺体を結びつける微細証拠、彼を被害者と一緒にいるところで見たと述べる目撃者たち、そして橋の上での説明のつかない行動。

弁護側は、繊維は「類似」以上のことを何も証明していないと攻め、橋の張り込みにいた新人巡査たちについては、眠っていたか、酒を飲んでいたか、ビーバーや幽霊に怯えていたかで、自分たちが何も見ていなかった失態を隠すために話を作ったのだと主張した。

実際、フレディ・ジェイコブスは反対尋問で、橋の全面が見える位置にいたのに、無線を受けるまで車には気づかなかったこと、橋の上で車が停まっているところは見ていないこと、橋から何かが投げ込まれるところも見ていないことを認めている。弁護側が陪審を実際に橋へ連れて行くよう申し立てたのも、この争点の重さを示している。

そして裁判の途中、被告人本人が証言台に立った。

弁護人のアル・バインダーは、深く響く声で陪審に問いかけた。彼を見てください、連続殺人犯に見えますか。ウェイン、立って。手を見せて。こんなに柔らかい手をした男に、人を絞め殺す力があると思いますか。ウィリアムズは丸一日半にわたって証言台に座り、落ち着いて、論理的に、自分は焦った捜査当局が必要とした身代わりなのだと語った。この日の彼は、陪審にとって非常に説得的だったと複数の関係者が回想している。

反対尋問に立ったのは、フルトン郡地方検事補のジャック・マラードだった。白髪に灰色のスーツ、南ジョージア訛りの低く緩やかな話し方をする男だ。彼はまず、被告人の生い立ちから学校のことまで、事件と関係がなさそうな細部を延々と辿り続けた。ジョン・ダグラスの助言だった。過剰に自己統制された人格を崩すには、緊張を長時間持続させるしかない、と。

数時間が過ぎたところで、マラードは距離を詰めた。ウィリアムズの腕に手を置いた。そして低い声で言った。どんな感じだったんですか、ウェイン。被害者の喉に指を回したとき、どんな感じでしたか。パニックになりましたか。パニックになりましたか。

ウィリアムズは、弱々しい声で「いいえ」と答えた。

そして、自分が何を答えたのかに気づいて、激昂した。彼は傍聴席にいたダグラスを指さして叫んだ。あんたたちは俺を連邦捜査局のプロファイルに当てはめようと必死になっている、その手伝いをするつもりはない、と。弁護側は猛然と異議を唱えた。ウィリアムズは連邦捜査局を「ゴロツキ」と呼び、検察団を「愚か者」と罵った。陪審員たちは口を開けたまま、それを見ていた。

のちに陪審員自身が、あれが裁判の転換点だったと語っている。それまで穏やかで理知的だった被告人の、別の顔が見えた瞬間だった、と。

もっとも、この場面をどう評価するかは、いまでも人によって大きく分かれる。心理的に追い詰められた被告人が激昂するのは、有罪の人間に限った反応ではない。誘導的な質問に対して反射的に「いいえ」と答えたことを自白と受け取るのは、法的にも論理的にも無理がある。だが陪審の心証は、法理ではなく印象で動く。そこがこの裁判のいちばん危うい部分だったのは間違いない。

一九八二年二月二十七日、陪審は十一時間から十二時間の評議のすえ、二件の殺人について有罪の評決を出した。判決は連続する二つの終身刑。弁護人メアリー・ウェルカムは最終弁論で、指ぬきをひとつ掲げて陪審に問うたという。指ぬき一杯ぶんの証拠で、人ひとりの人生を決めるつもりですか、と。

――四十年語り続けてきた人たちの、それぞれの言い分

この事件の厄介さは、当事者の証言が真っ二つに割れていることにある。しかもどちらの側も、嘘をついているようには見えない。順番に聞いていこう。

まずカミール・ベルだ。ユスフ・ベルの母親で、子ども殺害阻止委員会を立ち上げた人物。彼女は当初から警察の対応を「動いていない」と断じ、公安委員長のリー・ブラウンが「人々を不安にさせたくない」という理由で連続性の認定を渋っていたと批判し続けた。八人の子が死ぬか消えるかしているのに、折り返しの電話ひとつよこさない、という言い方をしている。

そして彼女は、ウェイン・ウィリアムズの逮捕と有罪判決をもって事件が終わったとは、最後まで考えなかった。ニュージョージア百科事典の記述によれば、彼女はウィリアムズを「アトランタの殺人事件の三十番目の犠牲者」と呼んだことがある。共同体の混乱を鎮めるために選ばれた身代わりだ、という意味だ。彼女はこう語っていた。

私が働き続けているのは、いつか墓地に行って、ユスフの墓の前で「ねえ、あなたを殺したのが誰か分かったよ」と言える日のためだ、と。四十年、彼女はその日を待った。

次にキャサリン・リーチ。十三歳で殺されたカーティス・ウォーカーの母親だ。彼女は二〇一九年の再鑑定発表の際、報道各社の取材にはっきりと答えている。ウィリアムズは身代わりだと思う、彼らはこの街を落ち着かせるために何かをしなければならなかったのだ、と。彼女はクー・クラックス・クランの関与を疑っている。そして彼女は同時に、市がこの事件そのものを忘れているという怒りも口にしていた。

アトランタの行方不明で殺された子どもたちは、この街で忘れられてしまったように思える、というのが彼女の言葉だ。ちなみに、二〇一九年に市が動くきっかけのひとつは、リーチが当時の市長キーシャ・ランス・ボトムズに、殺された子どもたちの記念碑を建ててほしいと直訴したことだったと報じられている。追悼の話から、証拠再鑑定の話へと転がっていったわけだ。

三人目はラリー・プラット。ルービー・ゲターの親族にあたる人物で、彼もまた二〇一九年の取材に対して、公式の説明を受け入れないと明言している。彼の言葉はごく短い。これをやった人間は、いまも歩き回っている。それだけだ。だが、これほど簡潔に遺族の四十年を要約した言葉もそうそうない。

四人目に、まったく別の立場からの声を置いておきたい。九歳で殺されたアンソニー・カーターの従兄弟にあたるニコラス・バーストンは、二〇二二年十二月、遺族が集まって市に検査結果の開示を求めた記者会見の場で、こう述べている。我々はずっと押し回されてきた、人々が好き勝手なことをでっち上げて家族を辱めるために利用されてきた、私はウェイン・ウィリアムズは無実だと思うし、ずっと彼を釈放しろと言い続けてきた、と。

自分の身内を殺された遺族が、有罪判決を受けた男の釈放を求めている。この構図こそが、アトランタの四十年を象徴している。

そして、有罪を信じる側の声も同じ重みで置いておく必要がある。当時、行方不明・殺害児童対策の捜査班を率いていた元アトランタ市警副本部長ウィリー・テイラーは、多くの事件で我々が発見したのは骨だけだった、と語ったうえで、ウィリアムズが橋で停められたあの夜こそが、事件現場から回収されていた法科学的証拠と照合できる「実在する人物」を初めて手にした瞬間だった、と述べている。

検察官として法廷に立ったジャック・マラードも、四十年を経てなお自分の判断を撤回していない。捜査に関わった元幹部のなかには、ウィリアムズは有罪だと公に明言している人物が複数いる。彼らにとって、繊維の一致の積み重ねは偶然で説明できるものではなかった。

――封印されたもうひとつの捜査、クー・クラックス・クランという影

遺族の不信を支えている最大の材料が、一九八六年に音楽誌スピンが掲載した長大な調査記事だ。この記事の存在を抜きにして、この事件の後半生は語れない。

同誌の編集部は、地域の自警パトロール組織ガーディアン・エンジェルスの構成員から、検察の描いた構図はまるごと間違っているという情報提供を受けた。記者のボブ・キーティングとバリー・マイケル・クーパーが数か月アトランタに張り付いて掘り起こしたのは、公開されていた特別捜査班とはまったく別に、ジョージア州捜査局が並行して進めていた秘密の捜査だった。

記事によれば、話の起点は一九八一年二月だ。市警の情報部門に十八年間にわたって情報を提供してきた信頼度の高い協力者が、担当者に電話をかけてきた。彼は、チャールズ・セオドア・サンダースというクー・クラックス・クラン系組織の構成員から、爆発物の知識を買われて勧誘を受けたことがあると語った。そのとき相手は、黒人の子どもを殺すことでアトランタの黒人社会に蜂起を起こさせようとしている、と話したのだという。

協力者は最初、それを誇大妄想気味の与太話として受け流していた。だが一九八〇年の夏、サンダースの車に、近所で遊んでいた少年がゴーカートをぶつけた。サンダースは激怒し、後日その少年を見かけたときに、殺してやる、という趣旨の激しい言葉を吐いたとされる。その少年の名は、ルービー・ゲター。一九八一年一月三日に姿を消し、一か月後、雑木林のなかで遺体で見つかった十四歳だった。

ここから先が、この記事の核心になる。協力者は身体に発信機と録音機を着けてサンダースに再接触した。捜査の焦点は急速にクランの一家に絞られていく。二月二十七日早朝、ジョージア州捜査局の建物で、州捜査局長フィル・ピーターズ、市警特別捜査部門のハーマン・グライナー少佐らが出席する非公開の会議が開かれた。彼らが直面していたのは、この情報が漏れれば人種間の全面衝突が起きかねない、という判断だった。

当時のアトランタでは、黒人地区で武装の呼びかけが始まっていて、一方でクラン側もゲリラ戦の訓練キャンプを設けているという報告が上がっていた。両者が街中で衝突すれば、何が起きるか分からない。

会議の出席者たちは、黒人も白人も含めて、この線の捜査を公開の特別捜査班には渡さないと決めた。理由は、特別捜査班からは情報が漏れるから。かくして、ひとつの街で二つの捜査が、互いの存在を知らないまま並走することになった。表の捜査は霊能者まで動員して混乱をきわめ、裏の捜査は少人数で静かにクランを追っていた。そして裏の捜査は、一九八一年のうちに封印された。

ウィリアムズ側の弁護団は、この情報が公判前に開示されなかったことを再審請求の柱に据えた。人権派弁護士のウィリアム・クンスラーとロン・キュビーが動き、ハーバード大学ロースクールのアラン・ダーショウィッツが助力した。二〇〇五年には、当時封印された記録の一部が公開され、ワシントン・ポストをはじめとする主要紙が改めてこの経緯を報じている。

ルービー・ゲターの遺体から犬の毛が検出されていたこと、そしてサンダースがシベリアン・ハスキーを飼っていたことが公判で示されなかった、という指摘も繰り返し取り上げられた。

ただし、公平を期すために書いておく。この線でも、誰も起訴されていない。有罪判決も出ていない。情報提供者の証言は伝聞を多く含み、録音の内容も断片的で、殺害を裏づける物証は提示されていない。クランの構成員が黒人の子どもについて憎悪に満ちた発言をしたことと、その子を実際に殺したこととのあいだには、法的にも事実認定上も、まだ大きな距離がある。

クラン関与説は、ウェイン・ウィリアムズ単独犯説と同じくらい、証明されていない仮説なんだよな。

つまりアトランタが四十年抱えてきたのは、有罪判決の出ていない仮説と、やはり有罪判決の出ていない別の仮説が、互いを打ち消し合ったまま並んでいる状態だ。どちらか一方が正しいと断ずるだけの材料は、どちらの側にも足りていない。

――リストに載らなかった死者たち、という別の問題

事件の解釈をさらに難しくしているのが、「公式リスト」そのものの作られ方だ。

当局が数えた被害者は、最終的におよそ二十九人から三十人とされる。だが、遺族や地域の活動家が数えていた死者は、その倍近くあった。

作家のトニ・ケイド・バンバーラは、当時アトランタで書き続けた記録のなかで、公式の集計が「人種と地理と繊維」という基準で緩やかに束ねられた二十九件であるのに対し、地域社会が数えていたのは、人種と階級と地理、そして五つの手口のパターンで結びついた、はるかに大きな塊だったと書いている。少女、若い女性、成人男性を含めれば、その数は公式の集計を大きく上回る、と。

なぜ差が出るのか。理由のひとつは、当局が「パターンに合う」ケースだけをリストに載せたからだ。ある基準を先に立てて、それに合う死だけを数えれば、集計は当然きれいなパターンを描く。だが、その基準から外れた死は、統計上どこにも存在しないことになる。九歳から十四歳の黒人男子という枠に入らなかった被害者、たとえば殺された少女や若い女性たちは、事件の物語からこぼれ落ちた。

そしてもうひとつ。ウェイン・ウィリアムズが逮捕されたあとも、同じ地域で若者の遺体が上がり続けたという主張がある。子ども殺害阻止委員会は、逮捕後にも複数の子どもが殺され、静かに埋葬されたと訴えていた。この点について当局が公式に認めたことはない。だが、逮捕とともにあの特定の手口の殺害が止まったという説明と、街の実感とのあいだには、確かに温度差があった。

個別の事件レベルでも、単独犯説を揺さぶる材料はある。一九八〇年八月に殺された十二歳のクリフォード・ジョーンズのケースでは、複数の目撃者が、まったく別の人物の関与を主張していたと報じられている。ショッピングセンターの一角にいた男が少年に暴行を加えて殺害するのを見た、という趣旨の証言だ。この証言群は結局、公判で決定的な扱いを受けなかった。

だが、もしジョーンズの死に別の犯人がいたのだとすれば、彼の遺体からも繊維が検出されていた以上、繊維証拠を土台にした構図全体が揺らぐことになる。

当時から、警察の内部でも見方は一枚岩ではなかった。一九八一年三月の時点で、ワシントン・ポストは「子ども殺しの犯人、あるいは警察がいま考えているように複数の犯人たち」という書き方をしている。連邦捜査局のウィリアム・ウェブスター長官も、一九八一年四月十三日、アトランタ警察は当時二十三件とされていた事件のうち四件について犯人を特定していると考えているが、起訴に足る証拠がない、と述べていた。

四件、と言っているのだ。つまり当局自身が、少なくともある時期までは、複数の犯人による複数の事件の集合体として、この連続事件を捉えていた。

複数犯説を採ると、事件はまるごと別の姿になる。ひとりの怪物が街を歩き回っていたのではなく、貧しい黒人の子どもが狙われても誰も真剣に探さない、という環境そのものが複数の加害者を生んだ、という読み方だ。ある意味では、こちらのほうがはるかに恐ろしい。

――二〇〇五年、捜査班にいた男が署長になって箱を開けた

事件が「終わっていない」ことを制度が認めた瞬間が、これまでに二度ある。

一度目は二〇〇五年だ。ディカーブ郡警察の署長に就任したルイ・グラハムは、一九八〇年代の特別捜査班に自身が加わっていた人物だった。彼は二十二年間、ウィリアムズの有罪に疑いを抱き続けてきたと公言している。就任からおよそ半年後の五月、彼は郡内で発生した五件の殺人事件を再捜査すると発表した。

対象になったのは、パトリック・バルタザール、カーティス・ウォーカー、ジョゼフ・ベル、ウィリアム・バレット、そしてアーロン・ダーネル・ワイチの五人だ。

グラハムの言葉は率直だった。私は彼がやったと信じたことが一度もない。だから、この事件に一切関わったことのない捜査員だけで新しい班を作る、新しい目と新しい発想が必要だ、と。班を率いたのは在職十二年のデイヴ・フォンセカ巡査部長。きっかけのひとつは、その年の三月、地元ラジオのパーソナリティであるフランク・スキーが、収監中のウィリアムズを刑務所で取材した番組だったと報じられている。

ただ、この再捜査は決定的な結論には至らなかった。翌年、グラハムは署長の職を退き、事件は再び閉じられる。捜査資源、政治的な逆風、そして四半世紀を経た証拠の劣化。制度が事件を開き直そうとするたびに、同じ壁にぶつかる。

二度目が、二〇一九年三月二十一日だ。アトランタ市長キーシャ・ランス・ボトムズと警察本部長エリカ・シールズが記者会見を開き、市警、フルトン郡地方検事局、ジョージア州捜査局が共同で、保管されている証拠を集約し、当時は存在しなかった技術で再鑑定できるものがないか検討すると発表した。ボトムズはこう述べている。何も残っていないかもしれない。

でも歴史は我々の行動によって我々を判断するのだから、少なくとも「やってみた」と言えるようにしたい、と。彼女は同じ会見で、涙をこらえながら、この子たちは子どもらしくしていただけだ、写真の顔を見ると自分の子どもと同じ年齢で、胸が苦しくなる、とも語っている。

この再検証では、対象期間を一九七〇年から一九八五年まで広げ、公式リストから漏れていた被害者がいないかも洗い直す方針が示された。市警本部の証拠保管庫では、年ごとに仕切られた箱が並び直され、壁には死因の分類を書いた紙が貼られたという。二〇二一年七月、ボトムズは二件についてディーエヌエーが特定・採取され、追加分析にかけられると発表した。

同年六月二十一日には、当初の証拠のおよそ四割にあたる分が民間の検査機関に送られている。送り先は、劣化した古い試料の解析を専門とするユタ州の研究所だった。

そして、そこで止まっている――いまも。

二〇二二年十二月十三日、遺族の一部が記者会見を開き、市に結果の開示を求めた。遺族側の代弁者を務めたジミー・ハワードはこう述べた。前市長は任期の終わりに、これは進めていると言った。だが検査結果はただの一度も遺族に示されていない。アトランタ市は約束を果たしてほしい、と。

同席したウィリアムズの新しい弁護人ジャニス・マンも、市にも市警にも地方検事局にも問い合わせたが、公式の報告はまだ出ていないと言われた、と述べている。市警の回答は「捜査は現在も継続中」の一文だった。二〇二五年の時点でも、結果は公表されていない。

その一方で、街は記憶のための場所を作った。二〇二三年六月二十七日、アトランタ市庁舎で「エターナル・フレイム」と名づけられた記念碑が除幕された。全長五十五フィートの壁に、犠牲になった一人ひとりの名前が刻まれ、それぞれの名前の下に、花や品物を供えるための棚が設けられている。素材は耐候性鋼で、時間とともに錆色の被膜をまとって落ち着いていく。制作したのはアーティストのゴードン・ヒューザー。

除幕式には現職のアンドレ・ディケンズ市長と、前市長のボトムズが並んだ。

記念碑は建った。だが検査結果は出ていない。この非対称が、いまのアトランタの立ち位置をよく表している。

――憎むには忙しすぎた街が、気にかけるにも忙しすぎたという話

ここで、事件の背景にある街の構造について、少し腰を据えて書いておきたい。この部分を飛ばすと、なぜ捜査が一年も遅れたのか、なぜ遺族が行政を信じないのか、まったく理解できないからだ。

アトランタは長らく「憎むには忙しすぎる街」を自称してきた。南部の他の都市が公民権運動をめぐって流血の衝突を繰り返していた時期に、この街は白人財界と黒人指導層が交渉と取引で事を収める、という独自のやり方を築いた。一九四〇年代から五〇年代にかけて進められた都市ブランディング戦略の成果でもあった。そして一九七三年、メイナード・ジャクソンがこの街初の黒人市長として当選する。

彼はモアハウス大学を十八歳で出た五代続くジョージアの名家の出身で、黒人有権者と白人リベラル層の連合に担がれて市庁舎に入った。南部の首都に黒人市長が誕生したこと自体が、公民権運動の到達点として全米に報じられた。

だが、その「黒人のメッカ」という物語には裏面があった。恩恵を受けたのは主に黒人の上層と中間層で、街の貧困層の暮らしはほとんど変わらなかった。ジャクソンの二期目にあたる一九七七年から八一年は、まさにその矛盾が噴き出した時期だ。一九七七年には清掃労働者のストライキがあり、市長はこれを強硬に処理して、自分を押し上げた層の一部から見放された。都市の空洞化も進んでいた。

豊かな白人は郊外に流出し、地方から貧しい人々が流入し、学校は荒れ、犯罪は増えた。

その状況で、街の南西部と西部の低所得地区から、子どもが消え始めた。

行政の対応を理解する鍵は、この街が同時に何を狙っていたかにある。市の黒人政治指導層と白人ビジネスエリートは、その頃すでに一九八八年の民主党全国大会や、のちの夏季オリンピック招致を視野に入れ始めていた。都市の商品価値が最優先の局面で、「黒人の子どもが連続して殺されている街」というラベルは、致命的な打撃になりうる。だから市の指導部は、この悲劇は人種を超えた問題だ、という言い方を選んだ。

ジャクソンも、公安委員長のリー・ブラウンも、事件の人種的な側面を強調することを避け続けた。

その結果、何が起きたか。貧しい黒人の親たちは、「自分たちを代表しているはずの黒人市長が、自分たちの子どもの死を街のイメージのために薄めている」と受け取った。これは白人対黒人の対立ではない。黒人共同体の内部の、階級の断層だ。ニュージョージア百科事典が強調するのも、まさにこの「同一人種内部の階級分断」だし、歴史研究が繰り返し指摘してきたのもこの点だ。

テックウッドの住民がバットを持って夜警に出たのは、警察が来ないからだった。母親たちが自分でリストを作ったのは、市庁舎が数えてくれなかったからだ。

さらに深いところには、南部の記憶がある。黒人の子どもが標的にされる、という事態は、この地域では抽象的な恐怖ではない。一九六三年にはバーミングハムの教会が爆破され、四人の少女が死んだ。それより前には、公権力が黒人の身体を実験材料にしたタスキーギ梅毒研究があった。

だから、アトランタの母親たちが「白人至上主義者が組織的にやっているのではないか」「政府機関が何かに使っているのではないか」と疑ったのは、被害妄想ではなく、経験の蓄積から出てきた推論だった。ボウエン・ホームズの爆発を誰も事故だと信じなかったのも、同じ回路だ。

そして、貧しい黒人の子どもが失踪したときの初動の遅さ。これは制度的な差別が、悪意ではなく手続きの形をとって現れた典型例なんだよな。誰かが「この子は探さなくていい」と決めたわけじゃない。ただ、家出として処理する運用があり、統計に埋もれる仕組みがあり、優先順位を決める予算配分があった。その積み重ねが、二十二か月という時間を生んだ。

――語り直されるたびに、事件は少しずつ形を変えてきた

この事件は、アメリカで繰り返し語り直されてきた題材でもある。そして、語り直されるたびに、世論の重心が動いてきた。

一九八五年には二部構成のテレビ映画が制作され、放送前から地元と激しく揉めた。作品が捜査当局の描き方において意図的に判断を保留し、被告人を「必要とされた身代わり」に見えるように描いたからだ。市当局は抗議し、制作側は冒頭に注意書きを入れることになった。二〇一八年には、この事件を主題にした音声番組が配信開始と同時に大量の聴取を集め、事件を知らなかった世代にまで話を届けた。

二〇一九年には配信ドラマの第二シーズンが、連邦捜査局の行動科学課の視点からこの事件を丸ごと一シーズンかけて描き、同じ年に別の制作陣が、遺族と地域の視点に軸足を置いた長編ドキュメンタリー・シリーズを世に出している。

面白いのは、作り手の立ち位置によって「この事件は何の物語か」が完全に変わってしまうところだ。捜査機関を主語にすれば、これはプロファイリングと法科学が近代化した成功譚になる。遺族を主語にすれば、行政に見捨てられた人々が自力で声を上げた運動の物語になる。街を主語にすれば、進歩的都市の自画像が壊れた話になる。同じ事実を並べ替えるだけで、まったく別の作品が三つできる。

この事件が四十年たっても消費され続けるのは、たぶんそのせいだ。

考察者の側の主要な論点も整理しておこう。単独犯説を支える最大の根拠は、繊維の一致が単発ではなく多数の被害者にわたって積み重なっている点と、逮捕後にあの特定の型の殺害が止まったとされる点だ。これに対する反証は、繊維鑑定が「同一」ではなく「類似」しか語れないこと、微細証拠の移動が双方向で検証されていないこと、そして「止まった」という前提自体を遺族側が否定していることになる。

クラン関与説を支える根拠は、封印された並行捜査の存在と、開示されなかった情報の中身だ。これに対する反証は、証言の多くが伝聞であり、物証が提示されておらず、四十年たっても誰も起訴されていないこと。複数犯説を支える根拠は、当局自身が一時期そう見ていたことと、個別事件に別の被疑者が浮上していた例があること。反証は、それでは繊維の一致の集積を説明しにくいこと。

どの説も、決定打を持っていない――ひとつも。持っていないのに、四十年間、互いを否定し合ってきた。

ウェイン・ウィリアムズ本人は、一貫して無実を主張し続けている。一九九〇年代後半と二〇〇〇年に人身保護令状を申し立てて退けられ、二〇〇四年に出した再審請求も、二〇〇六年十月十七日に連邦裁判官によって却下された。二〇一九年十一月には仮釈放が認められず、次の審査は二〇二七年十一月とされている。彼はテルフェア州刑務所に収監されたまま、六十代後半になった。

彼の弁護団は、この有罪判決を重大な誤審だと呼び続けている。

繰り返しになるが、確認しておく。彼が有罪と認定されたのは、成人男性二名の殺害についてのみだ。子どもたちの殺害について、彼は起訴されていないし、有罪判決も受けていない。だから、この記事は彼を「アトランタで子どもたちを殺した犯人」と呼ばない。呼べる根拠が、司法の記録のどこにも存在しないからだ。同時に、二件の有罪判決は法的に確定していて、それを覆す判断も出ていない。

この二つを同時に成立させておくのが、事実に対して誠実であるということだと思う。

――それでもリストの子どもたちの名前は、誰の名前でも裁かれていない

最後に、この事件がなぜ「終わっていない」と言われ続けるのか、その理由を整理しておきたい。

第一に、法的な意味で本当に終わっていないからだ。二十件を超える殺人事件について、起訴も判決もない。捜査は形式上いまも「継続中」だ。人が殺されて、犯人が確定していない事件を、我々はふつう未解決と呼ぶ。それがたまたま有名な有罪判決と隣り合っているというだけで、未解決であることに変わりはない。

第二に、遺族のなかで合意が成立していないからだ。ある遺族は有罪判決を受け入れ、ある遺族は身代わりだと考え、ある遺族は釈放を求めている。同じ悲劇の当事者が、四十年たっても同じ結論にたどり着けない。これは、彼らの誰かが間違っているという話ではなく、彼らに提示された情報が、そもそも合意を形成できるだけの質を持っていなかったという話だ。

第三に、証拠が公開されていないからだ。二〇一九年に開かれた箱と、二〇二一年に民間の研究所へ送られた試料と、そこから出たはずの何かは、いまも遺族の手元に届いていない。結果が「何も出なかった」であっても、それはそれで結論として伝えられるべきだった。沈黙は、疑いを腐らせるだけだから。

第四に、この事件を生んだ条件が、まだどこかに残っているからだ。貧しい子どもが消えたときに初動が遅れる仕組み。統計に載る死と載らない死を分ける基準。都市のイメージと人命が天秤にかけられる政治。一九七九年のアトランタで起きたことは、制度が特定の子どもたちを「探さなくてもいい対象」として扱ったときに何が起きるかの、極端な実例だった。

あの二十二か月のあいだ、誰かが夜中の道端で、九歳や十歳や十四歳の子どもに声をかけていた。その子たちは、嗅ぎタバコを買いに行く途中だったり、空き缶を集めていたり、映画を観に行くところだったり、母親に頼まれて小切手を持って歩いていたりした。ごくふつうの用事の途中で、彼らは消えた。

エターナル・フレイムの壁には、その一人ひとりの名前が刻まれている。名前の下には、花を置くための棚がある。壁は錆びていく。棚には毎年、誰かが何かを置いていく。だが、その名前のどれひとつとして、司法の記録のうえでは、まだ誰の罪にもなっていない。それが、この街が四十数年抱え続けている、いちばん重い事実なんだよな。

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