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17階には、何もなかった――バーナード・マドフ、650億ドルの明細を刷り続けた男と、それを20年間見逃し続けた世界の記録

ニューヨークのミッドタウンに、口紅を立てたような形のビルがある。赤い花崗岩でできた34階建ての楕円形のタワーで、みんな「リップスティック・ビル」と呼んでいた。住所はサード・アベニュー885番地。1980年代半ばに完成したこのビルの、最初の入居者のひとりが、バーナード・ローレンス・マドフという男だった。

彼の会社、バーナード・エル・マドフ・インベストメント・セキュリティーズは、18階と19階を使っていた。19階は黒とグレーで統一されたトレーディングフロア。写真立ては銀か黒しか許されない。社員は退社前に机の上を必ず片づける。ミニマルで、清潔で、最新鋭。ここは本物だった。ここで行われていた株のマーケットメイク業務は、一時期ニューヨーク証券取引所の売買高の9パーセントに相当する量をさばいていた。

正真正銘、ウォール街の中核にいた会社だ。

そして、その2つ下。17階があった。

17階には、20人足らずの人間しかいなかった。カードキーがないと入れない。他のフロアの社員はほとんど足を踏み入れたことがない。机はぎゅうぎゅうに詰まっていて、コンピューターは骨董品みたいに古く、プリンターはレーザーですらない旧式の代物だった。上のフロアの厳しいルールは、ここには適用されない。社内では「ヘッジファンドのフロア」と呼ばれていた。

そこで行われていたのは、投資ではなかった。印刷だった。

存在しない取引を、存在しない値段で、存在しない相手と行ったことにして、それをもっともらしい紙に刷って、アメリカ郵便で顧客の家に送る。それを、何十年も。1回もやめずに。毎月きっちり。

これが、人類史上最大のねずみ講、いわゆるマドフ事件の中身だ。名目上の顧客資産は約650億ドル。実際に投資家が突っ込んで消えた元本は、後の集計で約175億ドル。被害者は136か国、最大で3万7000人とも言われる。そして崩壊のきっかけは、規制当局でも、監査法人でも、格付け機関でもなかった。父親の告白を聞いた息子2人が、弁護士に電話をかけたことだった。

正直に言う。この事件を調べていると、途中で何回も呆れて手が止まる。「いや、そこで気づけよ」というポイントが多すぎるのだ。しかも気づいていた人間はちゃんといた。10年間、書類を出し続けた男がいた。それでも止まらなかった。この記事は、その全部を書く。

ライフガードの貯金5000ドルから始まった男

バーナード・マドフは1938年4月29日、ニューヨークのブルックリンに生まれ、クイーンズのローレルトンで育った。アラバマ大学に1年通ってからホフストラ大学に移り、1960年に政治学の学位を取っている。ブルックリン法科大学院にも入ったが、1年でやめた。

会社を作ったのは、その1960年。元手は5000ドル。ライフガードのバイトと、芝生用のスプリンクラー設置の仕事で貯めた金だ。そこに義父のソール・アルパーンから借りた5万ドルが乗った。アルパーンは会計士で、自分の顧客や友人たちをそのまま若い娘婿に紹介した。高校時代の恋人だったルース・アルパーンと結婚したのが1959年11月。

つまりマドフのビジネスは、最初から「身内の紹介」で回る構造だったということになる。

最初に扱ったのはペニーストック、要するに超小型株だ。ニューヨーク証券取引所の会員ではないので、立会場では戦えない。そこでマドフは、当時としてはかなり早い段階からコンピューターに賭けた。気配値を電子的に配信する仕組みを作り、その技術がやがて全米証券業協会の自動気配システム、つまりナスダックにつながっていく。

ここが重要なところだ。マドフはただの詐欺師ではなかった。彼は、電子取引という時代の流れを本気で読んでいた人間だった。1990年から1993年まで、ナスダックの非常勤会長を務めている。全米証券業協会の理事も、ロンドンの国際証券決済機関の創設メンバーもやっている。証券業協会の売買委員会の委員長でもあった。弟のピーター・マドフも同じ業界団体で副会長まで務めた。

彼が業界に持ち込んだ「注文回送への対価支払い」という仕組み、いわゆるペイメント・フォー・オーダー・フローも、この人が最初の本格的な実践者だった。他社の顧客注文を自社に回してもらう代わりに、1株あたり1セントか2セントを払う。当時の売買スプレッドは12.5セントもあったから、量でさばけば十分に儲かる。「合法的なキックバック」と批判もされたが、マドフ本人はまったく意に介さなかった。彼はこう言っている。

彼女がスーパーでストッキングを買うとき、その陳列棚の代金はたいていメーカーが払っている、注文回送というのは注目を集めすぎただけで大した話じゃない、と。

つまり、詐欺が発覚するまでのバーナード・マドフというのは、市場のインフラをつくった側の人間だったのだ。規制当局に呼ばれれば意見を述べ、若手からは尊敬され、業界紙に出れば「先駆者」と書かれた。ここを理解しないと、この事件の本当の怖さがわからない。彼を信じた人たちは、怪しい男に金を預けたわけじゃない。市場そのものを信じたつもりでいたのだ。

「入れてもらえない」という最強の営業トーク

マドフの投資顧問業務には、普通の金融商品とは真逆の売り方があった。

売り込まない。むしろ断る。

新規の客が「預けたい」と言ってくると、マドフはたいてい渋った。今は枠がない、と。紹介がなければまず口座は開けない。そして一度断られた相手ほど、次に枠が空いたと言われたときの喜びは大きくなる。これは古典的な希少性の演出だが、彼の場合はそれが「本物っぽさ」の裏づけにもなった。本当に儲かっているファンドは、金に困っていないから客を選ぶ、というわけだ。

そして客層。フロリダ州パームビーチのパームビーチ・カントリー・クラブは、1950年代に、他の名門クラブから排除されたユダヤ系の人々が自分たちで作った会員制クラブだ。会員になるには相当額の慈善寄付が条件になる。会員はおよそ300人。そのうち最大3分の1がマドフに金を預けていたとされる。

冬の社交シーズンには町の人口の半分がユダヤ系になるパームビーチで、マドフは「彼に預けている」ということ自体が一種の会員証みたいに機能する世界を作り上げた。

証券取引委員会は、こういう犯罪を「アフィニティ・フラウド」、つまり同族・同好の輪の内側で回る詐欺と呼んでいる。ユダヤ系の男が、ユダヤ系のコミュニティに向けて、共通の背景と共通の人間関係を使って売る。紹介者がそれぞれ善意だから、疑いの目が入る隙間がない。ボストン大学ロースクールの元学部長ロナルド・キャスは、この事件をまさにその典型だと指摘した。

パームビーチでマドフを社交界に引き入れたのは、婦人服で財を成したカール・シャピロという実業家だった。48年前にマドフと知り合い、息子のように可愛がっていた人物だ。シャピロは自分の個人資産5億4500万ドル、家族の慈善財団から1億4500万ドルをマドフに預けていた。個人としては最大級の被害者になる。彼の娘婿ロバート・ジャッフィは、マドフに客を紹介する会社で働いていた。

マドフ逮捕をテレビで見たときの気持ちを、シャピロは「心臓にナイフを刺されたようだ」と語っている。

「スプリット・ストライク・コンバージョン」という呪文

では、マドフは何をやっていると説明していたのか。

2009年3月12日、有罪答弁の日に本人が法廷で読み上げた文章がある。そこで彼はこう述べた。顧客資金は、スタンダード・アンド・プアーズ100種指数に含まれる大型株のバスケットに投じる。指数の値動きにぴったり追随するような銘柄の組み合わせを選ぶ。相場を見てタイミングよく出入りし、市場から降りている期間は米国債などに置いておく。

そのうえで、株のバスケットに対応するオプション契約を売り買いして、値動きによる損失を限定する。この一連の手法を、彼は「スプリット・ストライク・コンバージョン戦略」と呼んだ。

言っていること自体は、金融の世界に実在する考え方だ。株を持ちながら、プットを買って下値を守り、コールを売ってその費用をまかなう。いわゆるカラー取引の一種で、うまくやれば値動きはかなりなだらかになる。だから「毎月ちょっとずつプラス」という成績表を出されたとき、直感的には「ああ、だからか」と納得してしまう人が多かった。

しかし本人がその同じ法廷で認めた通り、投資は1回も行われていない。1度も、だ。顧客の金はチェース・マンハッタン銀行、後のジェイピー・モルガン・チェースの口座に入れられ、誰かが解約を申し出れば、そこから、つまり他の顧客が入れた金から払われた。それだけの話だった。

「私はいかなる顧客にも特定の利回りを約束したことはない。しかし顧客の期待には、どんな代償を払ってでも応えなければならないと感じていた」。彼はそう言った。詐欺の始まりは1990年代初頭だと自分では述べている。当時アメリカは景気後退期で、機関投資家の期待に応えられなかったから、と。

ただし、この「1990年代初頭」という自己申告は、後の裁判でほぼ否定されることになる。彼の右腕だったフランク・ディパスカリは2013年の法廷で、偽の取引は1987年の株価暴落の後から始まっていたと証言している。連邦捜査局の見立てはもっと古い。義父の友人たちの金で大きな損を出し、それを認めたくなくて偽の取引でごまかしたのが最初だ、という説明だ。

1970年代に雇われた債券のプロ、デビッド・キューゲルが実際に行った転換社債の裁定取引のメモを、経理担当のアネット・ボンジョルノが受け取り、それを別の数量に置き換えて顧客の明細に載せる。キューゲル本人が自分の口座の明細を見て「これ、俺がやった取引と同じじゃないか」と気づいたという話まで残っている。裁定取引は数分で消えるチャンスだから、後から辻褄を合わせても誰にも検証できない。実に嫌な使い方だ。

17階の日常――バスケットと、締切と、古いプリンターの音

17階の実務を仕切っていたのは2人。フランク・ディパスカリと、アネット・ボンジョルノだ。2人はかつてクイーンズで隣同士に住んでいた。どちらも大学を出ていない。ディパスカリは1975年、18歳のときに使い走りとして雇われ、最終的には事実上の最高財務責任者になった。ボンジョルノは1968年、19歳で入社し、マドフの古株の顧客たちの口座を全部握るようになった。

彼らの下には、6人ほどの事務職の女性たちがいた。多くは働く母親で、年収はおそらく4万ドル程度。金融のバックグラウンドはない。彼女たちは指示された通りに、行われていない取引の伝票を作った。点と点をつなげるだけの知識も、つなげようという発想も、そこにはなかった。ボンジョルノは彼女たちが私用電話をかけるのを警戒して、机から電話機ごと撤去したこともある。

コンピューターの話をしよう。ここが本当に気味の悪いところだ。

会社には2台のアイビーエムのミッドレンジ機、アイエスシリーズの前身にあたるエーエス400があった。18階にあったのが「ハウス05」。こちらは本物の業務用で、実際の売買を処理するストレイタスというシステムから取引データを受け取り、証券決済機関のデポジトリー・トラスト・カンパニーとも直接つながっていた。要するに、外の世界と会話する機械だ。

17階にあったのが「ハウス17」。こちらは完全に閉じていた。外部の誰ともデータをやりとりしない。売買データは、ディパスカリたちが手で入力した。トラスティー側の法廷提出資料はこの機械をこう表現している。「他の事業部門が使ういかなるシステムからも切り離された閉鎖系であり、架空の顧客明細を大量生産するために設計されたものと矛盾しない」。

このハウス17のために特殊なプログラムを書いていたのが、ジェローム・オハラとジョージ・ペレスという2人のプログラマーだった。オハラは1990年、ペレスは1991年に入社している。彼らが書いたプログラムは、顧客明細、取引確認書、売買日誌、決済機関の残高報告書まで、必要な書類をひと通り生成できた。ファイル名の頭には「エスピーシーエル」、つまり「スペシャル」の略が付けられていた。

規制当局に提出する日次の売買日誌には、乱数で自然なばらつきを与えるアルゴリズムまで用意されていた。

彼らが古い機械を使い続けたことには理由がある、と当時の技術者たちは指摘している。もし社内の技術部門がこの独自システムを、現代的で開かれたコンピューターに置き換えていたら、その瞬間に「あるはずの取引データが存在しない」ことが誰の目にも明らかになっていたはずだ、と。古い技術をあえて保存しておくこと。それ自体が隠蔽だった。

そしてマドフは、電子取引の先駆者でありながら、顧客にオンラインでの口座閲覧をいっさい許さなかった。明細は紙で、郵送。ここまで来ると笑うしかない。ヘッジファンドのほとんどが電子メールで報告書を送っていた時代に、彼だけが郵便配達を待たせていた。理由は単純で、紙なら後から作れるからだ。「明細はいつも完璧で、きれいで、非の打ちどころがなくて、時間通りに届いた。何もかも時計みたいに正確だった」。

ある被害者はそう振り返っている。

ちなみにこの2人のプログラマーは、2006年に一度、良心の呵責に耐えかねている。ハウス17に入っていた225本の特殊プログラムのうち218本を消そうとしたのだ。ただし月次のバックアップテープは消さなかった。そして自分たちの社内口座から数十万ドルずつ現金化したうえで、マドフに直接申し出た。オハラが当時とった手書きのメモが残っている。「これ以上、嘘はつかない。次に言われたら『フランクに聞け』と言う」。

マドフの返答は、黙らせるためにいくらでも払え、だった。2人は約25パーセントの昇給と、それぞれ6万ドル超の一時金を受け取った。多く要求すると怪しまれるから、その程度にしておいた、と彼らは説明したという。

10年間ひとりで叫び続けた男

1999年の暮れ、ボストンのランパート・インベストメント・マネジメントという会社で、マーケティング担当の副社長だったフランク・ケイシーが、フランス貴族出身のファンドマネージャー、ティエリー・ド・ラ・ビルウシェから、マドフという運用者の話を聞いた。毎月安定して勝つらしい。ケイシーは同僚に頼んだ。ハリー、これをリバースエンジニアリングして再現できたら、うちも大儲けできるぞ、と。

頼まれたのが、ハリー・マルコポロスという分析屋だった。デリバティブの実務経験が長く、まさにスプリット・ストライク型の商品を運用したことのある人間だ。彼が数字を見て出した結論は、たった4時間で出た。

「フランク、これはねずみ講だ」。

ケイシーは「その言葉は強すぎるだろう」と返した。マルコポロスは答えた。見ろ、相場が下げても彼は無傷で1パーセント稼ぐ。相場が上げても1パーセントだ。

マルコポロス本人は後に、詐欺だと確信するのに5分、それを数字で裏づけるのに4時間かかった、と述べている。彼が指摘した点は明快だった。87か月分の成績を並べると、マイナスの月がたった3回しかない。同じ期間の市場は26回下げている。単独株の下落リスクを丸ごと抱えたまま、指数のプットだけで守っているという触れ込みなのに、10年以上にわたって市場との相関がほぼゼロ。

しかも月間最大の損失がマイナス0.55パーセント、つまり0.5パーセント強しかない。そんなことがあるか、と。

もうひとつ、彼は決定的な指摘をしている。マドフは運用報酬を取っていなかった。彼は「売買手数料だけをいただきます」と言い、成功報酬の20パーセントと管理報酬の1パーセントを、フェアフィールド・グリニッジのような紹介元にまるごと譲っていた。年率にして4パーセント分だ。世界最大級のヘッジファンドを運用している人間が、なぜ年4パーセントの収入をテーブルに置きっぱなしにするのか。

答えはひとつしかない、とマルコポロスは書いた。運用していないからだ。

彼は最初、2000年5月に証券取引委員会ボストン事務所のエドワード・マニオンという検査官に8ページの分析を持ち込んだ。マニオンは「これは深刻だ」と言った。しかし何も起きなかった。2001年3月に再提出。マドフの下落月がたった3回であることを示す資料をつけた。やはり何も起きなかった。

2005年10月25日、彼は3度目のバージョンを持って行く。11月4日に修正して再提出し、11月7日付で正式に提出されたその文書のタイトルが、これだ。

「世界最大のヘッジファンドは詐欺である」。

21ページ。赤信号がおよそ30個。冒頭で彼はこう書いている。この件は機微に触れるので、必要のある者以外に回さないでほしい。この案件が動けばウォール街とヨーロッパでいくつものキャリアが破壊される。だから私はこの報告書に署名も記名もしない。私は自分と家族の身の安全を心配している、と。

2009年2月4日、下院金融サービス小委員会の公聴会でマルコポロスは証言した。証券取引委員会のある部門長は自分に対して即座に嫌悪感を示し、差し出した数インチの厚さのマドフ関連ファイルを手に取ろうとすらしなかった、と。彼の見立てはこうだ。当局は、複雑で時間のかかる調査より、統計に載せやすい簡単な事件を優先していた。

8回も検査に入って、なぜ見抜けなかったのか

マドフ逮捕の5日後、2008年12月16日の夜、当時の証券取引委員会委員長クリストファー・コックスは、自らの組織の監察総監に電話をかけた。うちは何をやっていたのか調べてくれ、と。

監察総監エイチ・デビッド・コッツが2009年8月31日付でまとめた報告書、通称オーアイジー509は、読んでいて胃が痛くなる文書だ。

そこには、1992年6月から2008年12月までに、当局がマドフのヘッジファンド業務について実質的な通報を6件受け取っていたと書かれている。版の数え方によっては8件とも言える。うち3件は、同じマルコポロスの通報の第1版、第2版、第3版だ。最初の2つは丸ごと却下され、第3版でようやく調査が始まった。

しかもその2001年には、業界紙のマーヘッジと経済誌のバロンズが、それぞれマドフの異常に安定した成績を疑う記事を出している。5月7日付のバロンズの記事のタイトルは「聞くな、言うな。バーニー・マドフは秘密主義がすぎて、投資家にまで黙っていろと言う」だった。書いたのはエリン・アーベドランド。当局はこの記事の存在も知っていた。

当局は、2件の調査と3件の検査を行った。それに加えて1990年から2008年までのあいだに、通常検査や特別検査を含めれば9件の検査記録が残っている。それでも一度も、第三者を通じてマドフの取引を検証しなかった。ねずみ講としての検査も調査も、ただの一度もしていない。

2004年と2005年には、2つの検査が並行して走った。ワシントンの部門と、ニューヨークの北東部地域事務所が、お互いの存在を知らないまま、ほぼ同じ内容の検査をやっていたのだ。データベースに検査の記録を入れる決まりはあったが、検査した側は入力せず、もう一方は入力されているか確認もしなかった。しかもマドフは、自分が同時に2つの検査を受けていることを把握していた。

彼は業界の内情に精通していたから、検査官がどこに感心し、どこで話題を変えれば安心するかを知っていた。

1つ目の検査では、担当者が全米証券業協会に独立した売買データを請求する手紙を書いた。ところが送らなかった。手に入れたデータを読むのに時間がかかりすぎるから、というのが理由だった。監察総監が依頼した専門家は、あの手紙さえ出していれば、ねずみ講は明らかになっていたはずだと述べている。

2つ目の検査では、マドフが「ここで清算している」と説明した金融機関に対して、文書の請求を出した。しかし追い切らなかった。両方の検査は、疑問を山ほど残したまま終わった。

そして2006年5月19日、マドフは当局の聴取を受けている。当時この場にいた人間の証言によれば、彼は目に見えて緊張していて、苛立っていたという。彼はここで宣誓のうえ、顧客のために欧州市場で株を売買している、オプション契約も執行している、顧客資産は自社が保管している、と証言した。全部、嘘だった。本人が2009年の法廷でそう認めている。

検査は「詐欺の証拠は見つからなかった」という結論で閉じられた。当局が出した唯一の実質的な指摘は、フェアフィールド・グリニッジが開示を修正すべきであること、そしてマドフは投資顧問業者として登録すべきであること。この2つだった。彼は2006年に、言われた通り登録した。皮肉なことに、この登録が「当局の検査を受けている運用者」というお墨付きになって、その後さらに多くの金を呼び込むことになる。

フィーダーファンドという増幅装置

マドフ本人は営業をしなかった。代わりに、彼の戦略に丸ごと乗っかる「フィーダーファンド」という装置が世界中にできていった。

代表格がコネチカット州グリニッジのフェアフィールド・グリニッジ・グループだ。創業者のウォルター・ノエルとジェフリー・タッカーは1989年7月にまず150万ドル、翌1990年1月にさらに100万ドルをマドフに預けた。1990年11月には、資金の全額をマドフに預けるだけのファンド、フェアフィールド・セントリーを立ち上げる。当初の規模はわずか400万ドル。ここから話が加速する。

バロンズの記事が出た2001年の時点で、フェアフィールドがマドフに預けていた額は30億ドル規模になっていた。

その2001年、タッカーはリップスティック・ビルのマドフのオフィスを訪ねている。自分たちの資産が本当にあるのか確かめるためだ。マドフとディパスカリは彼に取引記録を見せ、清算を担当している第三者の名前を挙げた。タッカーはその第三者に裏を取らなかった。そして17階には降りなかった。

ほかにも紹介者はいた。ニューヨークの金融家ジェイ・エズラ・マーキンは、自分のアスコット・パートナーズという運用会社などを通じて、顧客の資金24億ドル超をマドフに流していた。彼はイェシーバー大学の投資委員会の委員長でもあった。カリフォルニアのスタンリー・チェイスも同様の役割を果たした。フロリダのコーマッド・セキュリティーズは、ピーター・マドフも一部を所有していた会社で、顧客の勧誘をしていた。

パリのアクセス・インターナショナル・アドバイザーズは、先ほど出てきたティエリー・ド・ラ・ビルウシェの会社だ。彼はルクセンブルクに設定したファンドを通じて、少なくとも14億ドル、一説には20億ドル近い顧客資金をマドフに集めていた。しかも自分の全財産を投じたうえ、1.5倍のレバレッジまでかけていたと言われる。ヨーロッパの資産家にとって、マドフは「絶対安全」の代名詞だった。

そしてジェイピー・モルガンだ。マドフの資金が流れ込んでいたメインの銀行口座は、この銀行にあった。2006年ごろから、ロンドンにあった同行の投資銀行部門のデリバティブ・デスクが、マドフ関連の仕組み商品を作りはじめる。リスクを打ち消すため、銀行の自己資金をフィーダーファンドに直接投じた。2007年夏には10億ドル超の商品を組成しようとして、13億ドル以上の自己資本投入の承認が求められる事態になる。

このとき最高リスク責任者は、同僚から「マドフの頭上にはよく知られた雲がかかっていて、彼の運用成績はねずみ講の一部ではないかと囁かれている」と告げられた。彼は増額を却下し、上限を2億5000万ドルに設定した。

2008年10月、ロンドンのデューデリジェンス担当が否定的な報告書を回覧する。マドフの取引実態も資産の保管も検証できない、監査人が1人しかいない事務所というのは奇妙な選択だ、我々はマドフの誠実さに依存しているように見えるがその根拠はほとんどない、と。10月29日、同行のロンドン支店はイギリスの重大組織犯罪対策庁に、マドフ証券を「主要被疑者」とする疑わしい取引の報告書を提出した。

運用成績は「おそらく、うますぎる」と書かれていた。11月19日にも2通目を出している。犯罪収益のマネーロンダリングに加担したと見なされてはたまらない、という趣旨だった。

そして同行は、2008年10月から12月11日までのあいだに、フィーダーファンドに入れていた約3億7000万ドルのうち、約2億8800万ドルを引き揚げた。

アメリカ国内では、1通も報告書を出さなかった。2014年1月、同行は銀行秘密法違反2件で刑事訴追され、17億ドルの没収を含む総額26億ドルを支払う訴追延期合意に応じている。銀行が資金洗浄防止義務の違反で支払った額としては当時史上最大だった。

2008年秋、潮が引いていく

2008年の秋、リーマン・ブラザーズが倒れ、世界中の投資家が現金を求めて走り出した。ねずみ講にとって、これは死刑宣告に等しい。新規の入金より解約が上回った瞬間、仕組みは自動的に崩れる。

数字が残っている。2008年11月3日時点で、投資顧問業務の銀行口座の残高は約4億8700万ドル。それに対して、応じられていない解約請求は約14億4700万ドル。12月4日には残高が約2億9500万ドルまで減り、解約請求は約14億5500万ドルに膨らんでいた。マドフはこの時期、ヘッジファンドの顧客から約70億ドルの返金を求められていると社内で漏らしている。

秘書のエレノア・スキラーリが見ていた光景は、こうだ。この年の秋から、マドフは以前からたまに出ていた顔の痙攣が頻繁に出るようになった。大口の顧客や紹介元と話しているときに、それが出る。窓の外をぼんやり眺めている時間が増えた。血圧を15分おきに測るようになった。そして、普段は自分が17階へ降りていくはずのマドフが、ディパスカリを自分の部屋に呼びつけて長々と話し込むようになった。

逮捕の数日前、スキラーリが朝の郵便物の束を彼の机に置いたとき、マドフはそれを彼女の机に投げ返して言った。「もう、これはいい」。

その裏で、彼は何をしていたか。ディパスカリの法廷証言によれば、ある日マドフは彼を部屋に呼び、ドアを閉めさせて、泣きながらこう言った。

「もう限界だ。金がない」。

ディパスカリが意味を飲み込めずにいると、マドフは声を荒らげた。

「もう一銭も残ってないんだ。わからないのか」。

ディパスカリはその瞬間の気持ちをこう語っている。全部が便所に流れていく、俺たちは全員逮捕される、と悟った、と。彼はマドフに、社員が200人以上いるんですよ、仕事を失うだけじゃなく全員無一文になるんですよ、と言った。マドフの返事は、こうだった。「一番したくないのは、社員全員の前で手錠をかけられてこのオフィスを出ることだ。自分のやり方でやりたい」。

12月10日、フェアフィールド・グリニッジのジェフリー・タッカーはマドフ宛てに手紙を書いている。相次ぐ解約を詫びる内容で、こう記されていた。「弊社は貴社との関係に大きく依存しております。我々の使命は、貴社と取引を続け、信頼をいただき続けることです」。

もう砂は落ちきっていた。

2008年12月10日、クリスマスパーティーと、アパートでの告白

12月10日、会社は恒例のクリスマスパーティーを開いた。マドフは社員に、本来なら2か月先に払うはずのボーナスを前倒しで配った。

その数日前、彼は幹部社員に「今年はボーナスを12月に払いたい」と告げていた。翌日、幹部が彼の部屋に来て説明を求めた。マドフのオフィスがある階の記録は施錠されていて誰も触れない。何が起きているのか、と。マドフは「ここでは持ちこたえられそうにない」と言い、自宅に来てくれ、と告げた。

同じ日、息子2人も父を問い詰めていた。マーク・マドフとアンドリュー・マドフ。2人とも会社で働いていたが、担当していたのは19階と18階、つまり合法な売買部門のほうだ。父の様子がおかしいことに気づいていた。

「家に行って話そう」。マドフはそう言った。

ある運転手が、その日マドフが携帯電話でディパスカリにこう話しているのを聞いている。「アンディは緊張のあまり漏らしそうだったよ」。

イースト64丁目のペントハウスに家族が集まった。そこでマドフは、妻ルースと息子2人に、初めて言った。

「私はねずみ講をやっている。もう金がない」。

自分は「終わりだ」、「何も持っていない」、あれは「要するに、巨大なねずみ講だった」。彼は被害額をおよそ500億ドルと見積もった。残っているのは数億ドルしかない、とも。

息子たちは、その場で父と母との関係を断った。家を出て、弁護士に電話をかけた。弁護士は証券取引委員会に連絡し、そこから連邦捜査局のニューヨーク支局に話が回った。

その夜、捜査官のセオドア・カチオッピは自宅でテレビを見ていた。上司から電話が入った。ある男が、史上最大のねずみ講をやっているかもしれない、と。

12月11日午前8時30分、「無罪の説明はありません」

翌12月11日の朝、カチオッピを含む4人の捜査官が、マドフのマンハッタンの自宅を訪ねた。

捜査官はこう切り出した。

「無罪の説明があるかどうかを確かめに来ました」。

マドフの答えが、この事件を象徴する一文になった。

「無罪の説明はありません」。

彼はそのまま話し続けた。自分は機関投資家の金を運用して失った。ないはずの金で投資家に払っていた。もう破産している。支払い不能だ。これは「続けられない」と判断した。刑務所に行くことになると思う。あれは「ただの、ひとつの大きな嘘だった」。

約1時間の聴取のあと、捜査官は連邦検事補に電話をかけ、逮捕すべきだという判断で一致した。マドフは連行された。

そのとき、彼の自宅の机には、あるものが用意されていた。1億7300万ドル分の小切手だ。宛先は社員、友人、そして選ばれた顧客たち。誰にいくら渡すかのリストは、ディパスカリやジョアン・クルーピらが作り、マドフと弟のピーターがそれを見て決めていた。優先されたのはマドフ自身の友人と家族だった。総額3億ドル超の小切手が用意されたが、崩壊のほうが早くて投函されなかった。

ちなみにピーター・マドフは12月10日、会社の運転資金口座から自分のために約20万ドルを引き出している。

秘書のスキラーリは後に、この一連の流れはマドフが周到に演出したものだと考えるようになった、と語っている。捜査当局に見つけてほしいものを机に置き、息子たちに見つけてほしいものを見つけられる場所に置いた、と。

逮捕の翌日、19階の電話が鳴りやまなくなった。スキラーリは同僚たちに「とにかく伝言を取ろう」と言い、17階なら顧客のことがわかるだろうと思って、カードキーで扉を開けた。

そこには、誰もいなかった。

前日まで全員そろっていたフロアが、空になっていた。残っていたのはディパスカリひとりで、ジーンズにデッキシューズという格好で携帯電話を耳に押し当てていた。「フランク、電話が鳴りやまないの。何て言えばいいの」。彼は電話を耳から離しもせずに、彼女を見て、こう言った。

「誰もいないと言え」。

そして会話に戻った。

アネット・ボンジョルノは逮捕当日にオフィスを出たきり、二度と戻らなかった。ディパスカリは翌朝いったん来て、それから消えた。捜査官のひとりはスキラーリにこうこぼしたという。「下にいた連中のほとんどは自分は馬鹿だったと主張しているが、なかには知的障害があると信じ込ませようとしている者までいる」。

連邦捜査局が現場に入ったとき、マドフは「証拠になる箱が30から50個ある」と言っていた。実際に見つかったのは1500箱以上だった。さらに後日、災害対策用の倉庫が発見され、そこから約8000箱が出てきた。合計でおよそ1万箱。会計記録、売買記録、明細、取引確認書、給与記録、銀行記録、社員の私物。捜査官はこう言っている。「何でも入っていた。そして全部が偽物だった」。

さらに悪趣味な事実がある。押収された記録には、土曜日や日曜日に執行されたことになっている取引があった。連邦の祝日に執行されたことになっている取引もあった。市場は開いていない。実務としては、あまりに雑だ。誰も見ていなかったから雑でも通っただけだ。

650億ドルと175億ドル――数字の正体

この事件の被害額として最もよく出てくるのが「650億ドル」という数字だ。しかしこれは、正確には被害額ではない。

2008年12月11日の崩壊時点で、マドフが管理していた投資顧問口座は4000を超え、その明細上の合計残高がおよそ650億ドルだった。つまりこれは「顧客が持っていると信じ込まされていた金額」であって、「実在した金額」でも「投資家が入れた金額」でもない。650億ドルのうち、約450億ドルは1度も存在しなかった架空の利益だ。

では実際に消えた金はいくらか。破産手続きの管財人が1年がかりで請求内容を精査した結果、請求が認められた顧客の元本損失は約175億ドルだった。刑事事件の量刑手続きで検察が「保守的に見積もって」と述べた被害額は130億ドル。この幅は、集計の切り方の違いによる。

つまりこの事件の被害には、二重の残酷さがある。ひとつは、入れた金が消えたこと。もうひとつは、消えていない「利益」まで人生設計に組み込まされていたことだ。ある被害者は、管財人から元本の6割から7割は戻ってくる見込みだと言われた。ただしそれは元本だけの話で、明細に積み上がっていた利益は1ドルも戻ってこない。結果として彼の老後の収入は、当初想定していた額の3分の1以下になった。

しかも、存在しなかった利益に対して長年払い続けた連邦税と州税も、ほとんど返ってこない。

慈善の網が食い破られた日

マドフの顧客名簿には、驚くほど多くの慈善団体と財団が並んでいた。ここが、この事件がただの金融犯罪で終わらない理由だ。

イェシーバー大学。マドフは同大学の理事会の会計担当を務め、経営大学院サイ・シムズ・スクール・オブ・ビジネスの理事長でもあった。同大学の損失は1億1000万ドル。13億ドルの基金の中から消えた。ちなみにこの大学の投資委員会の委員長は、先ほど登場したマーキンだった。つまり、マドフが理事席に座り、マドフに金を流す人物が投資委員会を仕切っていた。

女性シオニスト団体のハダサ。損失は9000万ドル。この団体がマドフと関わったきっかけは1988年、フランスの寄付者が700万ドルを寄付したときに「この資金はマドフに預けたまま運用してほしい」と条件をつけたことだった。その後10年ほどのあいだに約3300万ドルを追加し、合計約4000万ドルを預けた。1997年以降は元本の追加をしていない。

損失が判明した2008年12月時点で、残る運用資産は約4億1200万ドル。事件の翌月、この団体は職員の4分の1にあたる80人の解雇を発表した。ただしこの団体は、20年間で1億3000万ドルを引き出してもいた。だから後に管財人との交渉で4500万ドルを返還する和解に応じている。

エリ・ウィーゼル人道財団。ホロコースト生存者でノーベル平和賞受賞者のエリ・ウィーゼルが運営していた財団だ。この財団は1520万ドルをマドフに預けており、それは「財団資産のほぼ全額」だった。エチオピア系ユダヤ人の子どもたちを教育するイスラエルの2つのセンターと、ダルフール難民の支援を行っていた組織である。

チェイス・ファミリー財団。全資産をマドフに預けていて、事件を受けて閉鎖した。イスラエル、旧ソ連圏、東欧のユダヤ系の事業に年間1200万ドルほどを配っていた。ジェイイーエイチティー財団。正義、平等、人間の尊厳、寛容を掲げてつくられた財団で、6年ほどのあいだに7500万ドル以上を配ってきたが、2008年12月に活動停止を発表した。

カール・アンド・ルース・シャピロ財団も、資産の半分近くをマドフに預けていた。スティーブン・スピルバーグのワンダーキンダー財団も、投資家のひとりだった。

サンフランシスコのユダヤ・コミュニティ研究所のゲイリー・トビンは、当時こう言っている。「マドフはこの上なく慈善に近い人々の輪の中を動き回っていた。この波紋がどこまで広がるかは、しばらくわからない」。そして彼はこうも言った。スピルバーグのようなアメリカのヒーローと、ウィーゼルのようなホロコースト生存者を標的にしたのだから、これ以上いやらしいやり方は思いつかない、と。

証言そのいち――「彼は私を路上の轢死体のように捨てた」

2009年6月29日、マンハッタンの連邦地裁。判事デニー・チンは、宣告の前に被害者の話を聞くと告げた。数百通の書面が届いており、そのうち9人が法廷で話すことになった。

ミリアム・シーグマンは当時65歳だった。彼女は今フードスタンプで生活していると述べた。新しい老眼鏡を買う金がない。ゴミ箱を漁って食べ物を探すこともある。そして彼女は言った。

「彼は私を、路上の轢死体のように捨てた」。

さらにこう続けた。これをやった男は、被害者に対する深い侮蔑を抱いていた、と。彼女は人に助けを求めることに「恥と屈辱」を感じるようになった、とも述べている。

バート・ロスはニュージャージー州フォートリーの元市長だ。妻のジョーンとともに500万ドルを失った。法廷で彼はこう言った。生涯働き続けた父の遺産を失っただけではない。子や孫がより良い人生を送れるようにと父が働いて遺した金を失っただけではない。自分たちの退職金口座も、信託に入れていた資金も、全部失ったのだ、と。

彼は裁判所に宛てた書面で、700年前にダンテが『神曲』の中で詐欺を最も重い罪、究極の悪として位置づけたことに触れ、この裏切りには法律で許される最大限の刑を科すべきだと書いた。

トム・フィッツモーリスはこう言った。「彼は金持ちから盗んだ。貧乏人からも盗んだ。その中間の人間からも盗んだ。この男には価値観というものがなかった」。カーラ・ハーシュホーンは「生活は生き地獄になった。覚めない悪夢の中にいるようだ」と述べた。ニューヨーク市の刑務官を退職したドミニク・アンブロシーノは「どうしてこんなことを我々にできるのか。どうしてこれが現実なのか。

我々は何も悪いことをしていない」と言い、家を売ってこれからは社会保障だけで生きていくしかないと語った。

会計士のシェリル・ワインスタインは、この男が効果的だったのはごく普通に見えたからだ、と述べた。「しかしその表面の下にいるのは、本物の獣です。彼が再びこの社会にすんなり溶け込む機会を与えてはいけません」。

判事チンが特に心を動かされたと述べたのは、法廷で読まれなかったある書面だった。夫を亡くしたばかりの女性に対し、マドフは「あなたのお金は安全ですよ」と保証し、もっと預けるよう勧めていた。それは詐欺が露見するわずか数週間前のことだった。その金はもう存在しない。彼女は家を売った。

証言そのふたつ――10年で戻ってきたもの、戻らなかったもの

カリフォルニア州オークランドに住んでいたスティーブ・ハイモフは、バーニー・マドフという名前すら知らなかった。それでも彼の200万ドルの老後資金は消えた。親族の貯蓄も大半が消えた。当時62歳。彼はコンドミニアムを借り換え、支出を極端に切り詰めた。そして自ら死ぬことを考えた、と後に語っている。

マイケル・デビータは58歳で、退職を目前にしていた。自分の老後資金も、高齢の母エマの資金も消えた。彼は退職を撤回し、そこからさらに10年働いた。ようやく仕事をやめたのが2018年8月だ。彼は元本の6割から7割は取り戻せる見込みだったが、明細に積み上がっていた「利益」は永遠に戻らない。

彼はその後、被害者の権利を訴える側に回り、この事件についての本を書き、大学で講座を持ち、被害者団体で活動して州や連邦の当局に働きかけ続けた。彼はこう言っている。マドフの客は金持ちばかりだったと思われがちだが、実際には自分のように、老後の資金を託しただけの普通の人間のほうがずっと多かったのだ、と。

ジョージア州コロンバスに住むアイリーン・ケントの両親は、純資産の4分の3を失った。彼女の言葉が印象的だ。「信じられなかった。信じるという感覚が壊れた。だってこの人は、みんなが推薦していた人だったんですよ」。しかも彼女の家族は、この後さらに二重、三重の打撃を受ける。

管財人が採用した配当の考え方は「純投資法」と呼ばれるもので、入れた金と出した金の差額だけを見る。入れた額より引き出した額が多い人は「ネットの勝ち組」とされ、配当の対象外になるどころか、引き出した架空の利益を返せと訴えられた。学費や生活費として長年少しずつ引き出していただけの人も、この分類に入ってしまう。ケント家もそうだった。彼女はこう語っている。「最初の日に、全財産を失ったと知る。

次の日に、ああでも保険があると思って安心する。そして3日目に、保険はないどころか、引き出した分を返せと言われていることを知るんです」。

証券投資者保護公社という制度がある。1970年代に、破綻した証券会社の顧客を守るために業界の拠出金でつくられた非営利組織で、証券は50万ドルまで、現金は25万ドルまで保護する。マドフの会社もその加盟業者だった。しかし公社と管財人は、実際には証券が1株も買われていないマドフのような事案には、この保証は及ばないと主張した。裁判所はそれを支持した。

ケント家は最終的に、返す金がないことを裁判所に証明することで返還請求を免れた。彼女はその手続きを「屈辱的だった」と表現している。90代になった両親は介護施設にいて、いまも何が起きたのかを受け入れきれずにいる。

一方で、こういう例もある。ヒューストンに住む元証券外務員のジョイス・グリーンバーグは、1970年代から娘たちの学費用の口座をマドフに預けていた。2008年には数百万ドルになっていた。彼女は約6割を取り戻し、まだ増える見込みだ。彼女は管財人を高く評価している。そして被害者にひとつだけ教訓を挙げるとしたら、と聞かれてこう答えた。「記録をきちんと残しておくこと。

私は何十年分の入出金を1セント単位で提示できたから、鑑定人に全部検証してもらえた」。

証言そのみっつ――内側にいた人間たち

エレノア・スキラーリは25年間、マドフのオフィスのすぐ外に座っていた秘書だ。年収は10万ドル弱。捜査官がその額を聞いて椅子から落ちそうな顔をした、と彼女は書いている。おそらくその瞬間、彼女が共犯でないことは向こうに伝わった。高給を取っていた人間こそが疑われる対象だった。

彼女が語る17階の描写は、この事件で最も生々しい記録のひとつだ。19階と18階では、写真立ての色まで決められている。ところが2階下では、机は詰め込まれ、機械は古く、誰も何も言わない。顧客からは「バーニーには言わないでほしいんだけど」という前置きつきで、17階の対応が冷たいという苦情がしばしば入った。彼女がそれをマドフに伝えると、彼は手を振って言った。「あそこはよくやってるよ。

客のほとんどは面倒くさいやつらだ」。17階の人間を叱ったことは一度もなかった。彼らは、触れてはいけない存在だった。

ディパスカリは61フィートのクルーザーを乗組員つきで所有し、ニュージャージー州ブリッジウォーターに7エーカーの敷地を持っていた。ボンジョルノはロングアイランドに260万ドルの家、フロリダ州ボカラトンに125万ドルの別荘を持ち、メルセデス2台とベントレー1台を乗り回していた。大学を出ていない事務職の給料で、である。

ディパスカリ本人の言葉も残っている。2009年8月、有罪答弁の場で彼はこう述べた。「18歳で職もなかった子どもが、どうやって今日この法廷に立つことになったのか、自分でもわからない。ウォール街のことなんて何も知らなかった」。そしてこうも言った。顧客に送っていた明細は「全部が偽物だった」。それを「私は知っていた。バーニー・マドフも知っていた。他の人間も知っていた」。

マドフとの関係については、こう表現した。「私は彼に忠実だった。ひどい、ひどいほどに忠実すぎたのだ」。

2013年の法廷で、彼は自分の仕事の中身をこう説明した。存在しない取引を処理させるために、部下にはいろいろな作り話をした。取引はヨーロッパでやっているんだ、とか。あるいは、こう言った。「バーニーはちょっと変わってるけど、あの人がこうしろって言うからこうするんだ」。彼の仕事は、顧客に、規制当局に、そして同僚に、毎日嘘をつくことだった。崩壊のときの自分の状態を、彼はひとことで言った。

「私は緊張病のようになっていた」。

そして先に触れた2人のプログラマー、オハラとペレスがいる。証券取引委員会ニューヨーク地域事務所の責任者ジョージ・カネロスは、はっきりこう言った。「オハラとペレスの助けなしに、マドフの詐欺は成立しなかった。彼らは特殊なコンピューター技術を使って、洗練され、信用でき、そして完全に偽物の取引記録を作り上げた。それが長年にわたってこの詐欺を支えた」。

2009年3月12日、そして6月29日

2009年3月12日、マドフは11の罪状すべてについて有罪を認めた。証券詐欺、投資顧問業者としての詐欺、郵便詐欺、電信詐欺、資金洗浄3件、虚偽陳述、偽証、証券取引委員会への虚偽の届出、従業員給付制度からの窃取。彼はその日から収監された。

6月29日の量刑審理は、朝10時に始まった。量刑ガイドライン上の上限は、11の罪状の法定刑を単純に足し合わせた150年。保護観察部門の勧告は50年。弁護人アイラ・ソーキンは12年を求めていた。71歳という年齢を考えれば、余命はあと13年ほどであり、12年でも実質的な終身刑に等しい、という理屈だった。

ソーキンは、被害者の陳述には「暴徒の復讐」のような感情が混じっており、それを認めれば裁判所の役割が無意味になる、とも書いた。彼は自分の依頼人に届いた殺害予告や差別的なメールにも言及した。

検察側のリサ・バローニ検事補はこう述べた。この被告人は、一世代を超える期間にわたって前例のない規模の詐欺を実行した。20年以上にわたり、容赦なく、後悔もなく盗み続けた。何十万枚もの偽の書類を毎年作った。顧客に取引をしたと告げるたびに、嘘だらけの取引確認書を送った。月末ごとに、嘘しか書かれていない明細を送った。

そして被告人は、顧客がその嘘をもとに、子どもの教育、退職、年老いた親の介護、家族の生活といった決定的に重要な判断をしていることを知っていた。知っていて、それでも盗んだ。

マドフは10分ほど、抑揚のない声で話した。「謝ることや、すまなかったと言うことでは足りない」。彼は自分の歴史的犯罪を「問題」「判断の誤り」「悲劇的な間違い」と言い換えた。妻が毎晩泣きながら眠りにつくことに触れた。そして5秒ほど、被害者席のほうを振り返って言った。

「あなたたちのほうを向きます。すみませんでした。それが助けにならないことはわかっています」。

判事チンの言葉は、この事件を語るときいまも引かれる。「客観的に見て、この詐欺は驚異的だった」。「信頼の裏切りは甚大だった」。「マドフ氏の犯罪は途方もなく邪悪であり、この種の無責任な制度の操作は、紙の上だけで起こる血の流れない金融犯罪ではなく、恐るべき人的犠牲をもたらすものだというメッセージが送られなければならない」。

「他のいかなるホワイトカラー犯罪も、その規模、期間、巨大さ、そして裏切りの程度において比較にならない」。

150年。法定上限。法廷の中で悲鳴と拍手が起きた。外の歩道でも、正午前に判決が伝わると拍手が起きた。

6月26日には既に、総額1707億9900万ドルの没収予備命令が出ていた。すべての不動産、投資、車、船が対象になった。ルース・マドフが自分のものだと主張していた8000万ドル分の資産も含まれる。彼女に残されたのは250万ドルだった。判決の日、ルースは弁護士を通じて声明を出した。

「私が沈黙してきたことが、夫バーニーの犯罪の被害者に対する無関心や同情の欠如と解釈されているようですが、真実はその正反対です」。「私は恥じ、面目なく思っています。他の誰とも同じように、私も裏切られ、混乱しています。この恐るべき詐欺を犯した男は、私が長年知ってきた男とは別人です」。

別バージョンそのいち――「単独犯」という主張はどこまで持つのか

マドフは逮捕直後から一貫して、これは自分ひとりでやったことだと主張した。捜査官に対しても、この件を知っていたのは自分だけであり、誰に対しても不利な証言はしない、と言い切っている。刑務所に入ってからも、その線は基本的に崩さなかった。

この主張は、法的にも事実としても、既に否定されている。

2014年3月24日、マンハッタン連邦地裁の陪審は、元社員5人に対して起訴された31の訴因すべてについて有罪の評決を出した。運用部門の運営責任者ダニエル・ボンベントレ、投資顧問業務の管理者アネット・ボンジョルノ、口座管理者ジョアン・クルーピ、そしてプログラマーのジェローム・オハラとジョージ・ペレス。5か月を超える審理の末、陪審は「有罪」と59回読み上げた。

当時のマンハッタン連邦検事プリート・バララは、はっきりこう述べた。「これらの有罪評決は、他の9人の有罪答弁とあわせて、我々が捜査の初期段階から確信していたことを裏づけるものだ。史上最大のこのねずみ講は、1人の人間の仕事ではありえなかった」。

同年12月、判事ローラ・テイラー・スウェインが量刑を言い渡した。ボンジョルノとクルーピが6年、オハラとペレスがそれぞれ2年6か月。没収額は桁が現実離れしている。ボンジョルノに1550億ドル超、クルーピに339億ドル、オハラとペレスにそれぞれ190億ドル超。判事はこう述べた。

ボンジョルノの仕事は「バーナード・マドフが行った言語に絶する詐欺の成功にとって不可欠であり」、その結果「罪のない投資家たちの夢の土台が削り取られ、あるいは破壊された」。オハラとペレスについては、その仕事が「詐欺が実行されたインフラの、本質的な背骨を維持した」と表現している。

弟のピーター・マドフは2012年に10年の実刑を受けた。彼はコンプライアンス責任者でありながら、2002年にマイクロソフト株の架空の売買を装って875万ドル、2005年にアップル株の架空の売買を装って810万ドルを受け取っていた。しかも、アップル株の「取引」が社内システムに入力され、明細が作られたのは、彼が「利益」を引き出した6か月も後のことだった。要するに、後から作った。

長期譲渡所得の低い税率を使うための偽装だった。

なお、妻ルース・マドフ、息子のマークとアンドリューは、いずれも刑事責任を問われていない。息子2人は父の犯罪を知らなかったと一貫して主張し、通報したのは彼ら自身だ。管財人は民事の側で、2人はもっと知っていたはずだという主張のもとに訴えを起こしていたが、これは刑事の有罪認定とはまったく別のものだ。ここは混同してはいけないところだと思う。

ではマドフはなぜ単独犯を主張し続けたのか。ひとつの説は単純に、家族を守るためだ。もうひとつは、自分の物語を自分でコントロールしたいという欲だ。ディパスカリに「自分のやり方でやりたい」と言った男である。捜査に協力せず、共犯の範囲を語らないという選択自体が、彼の最後の演出だったのかもしれない。

別バージョンそのふたつ――当局の失態は「無能」だったのか

当局がなぜ見抜けなかったのかについては、大きく分けて2つの説明がある。

ひとつは、組織としての機能不全だという説明。監察総監の報告書が描いているのは基本的にこちらだ。検査チームは経験が浅く、計画が不十分で、調査範囲が「フロントランニング」という別の疑いに狭く絞られていた。マドフが本当に取引をしているのかを検証するという、最も基本的な作業に誰も手をつけなかった。データベースは形だけあって使われていなかった。

上院の公聴会で監察総監は、被害者との面会について語りながらこう述べた。彼らは1億ドル失って1億ドル残っているような人たちではなかった。ある人はこう言った、自分たちにとって12月11日は9月11日と同じだった、と。

もうひとつは、もっと不穏な説明だ。マドフの地位が、無意識のうちに調査の手を鈍らせたのではないか、という見方である。監察総監の報告書は、この点についてもわざわざ独立した章を割いている。上級職員による不適切な影響があったかどうか、そしてマドフの業界内での地位が検査や調査の進め方に与えた影響について検証する、という章だ。

さらにもう1章、当時の検査部門の副責任者エリック・スワンソンと、マドフの姪でありコンプライアンス担当弁護士だったシャナ・マドフとの関係が、検査に影響したかどうかを検証する章もある。2人は後に結婚した。この件は当時さんざん報じられ、いまもネット上では陰謀論の材料にされ続けている。ただし報告書自体は、この関係が検査結果を左右したという結論には至っていない。

上院の公聴会では、こんなやりとりがあった。「彼は当局を完全に手玉に取ったのですね」。「はい、その通りです」。「マドフは当局が抱えていた構造的・文化的な弱点を知っていたのですか。彼のほうが当局より情報を持っていたのですか」。監察総監はこう答えた。彼は自分が同時に2つの検査を受けていることを把握していたし、業界での知識を使って検査官に感銘を与えることができた。

要するに、彼はどのボタンを押せばいいかを知っていた。ねずみ講にたどり着く道筋から検査官をどう逸らすかを知っていた、と。

そしてもうひとつ、被害者側が繰り返し訴えてきた論点がある。当局が何度も検査に入ったという事実そのものが、投資家にとっては安心材料になっていた、という問題だ。監察総監の報告書は、投資家がマドフに投資を決めるにあたって「当局が検査や調査を行っている」という事実にどの程度依拠していたかについても、独立した節を設けて検証している。つまり規制当局は、詐欺を止められなかっただけではない。

存在することで、詐欺を保証してしまった側面がある。これは、いくら考えても後味が悪い。

破綻が呼び込んだ死

この事件には、金勘定では清算できない部分がある。

2008年12月22日から23日にかけて、ティエリー・ド・ラ・ビルウシェがマンハッタンの自分のオフィスで死亡しているのが見つかった。65歳。ニューヨーク市警のレイモンド・ケリー本部長は「自死という前提で捜査している」と述べた。遺書はなかった。彼は自分と顧客の資金あわせて少なくとも14億ドルを失っていた。彼の兄ベルトランは、家族の資産も含めて「完全に破滅した」と語っている。

関係者のひとりはフランスの経済紙にこう述べたという。「彼にとって、ヨーロッパの投資家から起こされる訴訟の嵐の中で顧客の資金を取り戻す方法など存在しなかった。これは彼からの別れの挨拶だ。真実は、誰もがマドフに投資したがっていたということだ。誰もが彼を最高格付け、つまり絶対の安全だと考えていた」。

そして2010年12月11日。マドフ逮捕からちょうど2年後のその日、長男のマーク・マドフがマンハッタンのソーホーにある自宅で亡くなっているのが見つかった。46歳だった。ニューヨーク市の検死当局は翌日、自死と断定した。当時、隣の部屋では2歳の息子が眠っていた。妻のステファニーはフロリダに旅行中だった。

弁護士マーティン・フルーメンボームの声明はこうだ。「マーク・マドフは今日、自ら命を絶ちました。これはひどい、そして起きる必要のなかった悲劇です。マークは父親の怪物のような犯罪の、罪のない被害者でした。彼は2年間にわたる、根拠のない非難と当てこすりによる絶え間ない圧力に屈したのです」。

マークは刑事責任を問われたことは一度もない。父を通報した側の人間だ。それでも彼には、管財人による民事訴訟が次々に降りかかっていた。事件の被害者のひとりの妻は、この死を「究極の罰」だと言った。バーナード・マドフに対する、という意味だ。

弟のアンドリューは、その4年後の2014年9月3日に亡くなった。48歳。死因はマントル細胞リンパ腫で、2013年初めから治療を受けていた。ニューヨークのメモリアル・スローン・ケタリングがんセンターで、家族に囲まれて息を引き取った。彼もまた刑事責任を問われたことはなく、父の犯罪を知らなかったと言い続けていた。

ルース・マドフは訴追されていない。2011年のテレビ番組で、彼女は2008年のクリスマスイブに自ら死のうとしたことを告白している。同じ番組で「この件の悪役は檻の中にいる」と語り、夫がいなくて寂しいとは思わないと述べた。2012年にフロリダからコネチカット州オールドグリニッジに移り、アンドリューの死後は同じ町の寝室ひとつの小さなアパートで暮らした。

2020年9月以降は、マークの最初の結婚相手だった元義理の娘スーザン・エルキンと同居している。

フランク・ディパスカリは、量刑を待つ身のまま2015年5月7日に肺がんで死亡した。58歳。判決は9月に予定されていた。10の罪状で有罪を認め、最大125年の刑に直面していたが、大規模な協力の見返りに大幅な減刑を期待していた。彼はついに刑を受けないまま死んだ。

ジェフリー・ピカワーは、マドフから最も多くを引き出した投資家だった。2009年10月、自宅のプールで死亡しているのが見つかった。彼が数十年で引き出した「利益」の純額は72億615万7717ドル。元本は6億2000万ドル弱だったから、要するにその差額はすべて他人の金だった。

執念の回収――アービング・ピカードという男

この事件で唯一、後味が悪くない部分がある。回収だ。

証券投資者保護法に基づく管財人として2008年12月に任命されたのが、法律事務所ベイカー・アンド・ホステトラーのアービング・エイチ・ピカードだった。首席弁護士はデビッド・シーハン。当初、専門家も被害者も、戻ってくるのは1ドルにつき数セントだろうと考えていた。管財人の側でさえ、そう見ていたと後に認めている。

結果は、まったく違った。

2009年1月末の時点で、既に8億6500万ドルを回収していた。2010年末には73億ドル。2018年には133億ドル。そして2025年3月末時点で147億5300万ドル。2026年7月時点で、回収または回収の合意に至った額は約154億8000万ドルに達している。

最大の一撃が、2010年12月17日に発表されたピカワー遺産との和解だ。総額72億615万7717ドル。ピカワーの未亡人バーバラ・ピカワーが、夫の遺産を代表して合意した。うち50億ドルが管財人に、22億ドルが連邦政府に渡る。アメリカの司法史上、単一の没収としては最大だった。

ピカード管財人は当初「知っていたか、知っているべきだった」として訴えていたが、追加の記録を精査した結果、訴えを維持する根拠はないと判断し、和解に切り替えた、と説明している。バーバラ・ピカワーは「夫ジェフリーがマドフの詐欺に加担していなかったことを、私は絶対に確信しています」と述べている。

フェアフィールド・グリニッジ・グループとその関係者43人に対する請求額は35億ドル。マーキンからは5億5700万ドル。カール・シャピロと家族からは6億2500万ドル。ジェイピー・モルガンからは、司法省への17億ドルとは別に、管財人側との和解もあった。

ピカード側の配当は2011年10月に始まった。2026年2月27日に始まった17回目の中間配当が最新で、およそ2億5360万ドルが配られた。累計の配当額は約147億9900万ドル。認められた請求額に対する支払い割合は72.848パーセントに達している。約1523口座は完全に満額の支払いを受けており、これは請求が認められた口座の66パーセント以上にあたる。

おおよそ174万ドルまでの請求は、全額支払い済みということになる。

ここで見落とされがちな話がある。管財人とその弁護士の報酬、会計費用、事務費用は、回収した金からは1セントも出ていない。証券投資者保護公社が、証券業界からの拠出金でできた基金から全額を負担している。だから回収額の100パーセントが顧客に回る。これは、この種の破綻処理としてはかなり異例だ。

さらに、司法省側にも別の枠組みがあった。元証券取引委員会委員長リチャード・ブリーデンが特別管理人を務めた「マドフ被害者基金」だ。こちらの最大の特徴は、フィーダーファンドを経由した「間接投資家」も対象にしたことにある。破産手続きでは請求を却下されてしまう1万人以上の人たちだ。この基金は2024年12月30日に10回目、最後の配当を発表し、40930人の被害者に総額43億ドルを配ったと公表した。

個人38860人に加え、学校、慈善団体、年金基金が含まれる。証明された損失に対する平均回収率は93.71パーセントに達した。

管財人と司法省の両方を合わせると、被害者に戻った金は約190億ドルになる。ねずみ講の被害回収としては、歴史上まったく例のない水準だ。

もっとも、ピカード自身が語ったこの回収の理由が、また皮肉だ。「この詐欺があまりに長く続いたので、多くの場合、人々の手元にまだ金が残っていたのです。ねずみ講が短期間で終わると、金は使われてしまっていて、追いかける先がない」。つまり、20年以上ばれなかったからこそ、金が回収できたということになる。

そして彼は、慈善団体との交渉についてこう述べている。彼らが慈善団体であることは意識せざるをえなかった。返済のために募金活動をしてくれとは言えない。だから、払える範囲で和解した、と。90代の男性と交渉していたとき、支払いを手伝う予定だった娘ががんと診断された。彼らは和解そのものを取り下げた。「これは企業を相手にする通常の破産事件ではない。我々は、現実の問題を抱えた人間を相手にしているのです」。

2021年4月14日、ノースカロライナ州バトナー

マドフはノースカロライナ州バトナーの連邦医療センターに収監された。ローリーの北西およそ45マイル。連邦刑務局の記録上、彼の予定釈放日は2139年11月11日だった。

2019年9月24日、10年ほど服役した81歳のマドフは、刑務局に恩情釈放を申請した。ステージ5の腎臓病と診断され、施設内のホスピスにいる、というのが理由だった。12月5日、刑務局は却下した。彼が基準を満たしていること、余命18か月未満の終末期であることは認めたうえで、犯罪の性質と状況に照らせば、いま釈放することは犯罪の重大性を軽んじることになる、と結論している。

彼は裁判所に申し立てた。2020年6月、担当したのは11年前と同じデニー・チンだった。チンは検察の主張を受け入れて、申立てを退けた。刑務所でのインタビューでマドフが自分の犯罪を過小に語っていたことは、彼が「一度も完全に責任を受け入れていない」ことを示している、と。決定文にはこうも書かれている。

「私はまた、マドフ氏が真に反省したことは一度もなく、彼が申し訳ないと思っていたのは、彼にとっての人生が終わってしまったことについてだけだと考えている」。

2021年4月14日午前3時29分ごろ、バーナード・マドフはバトナーの医療センターで死亡した。82歳。死因は末期腎不全と判定された。

その前年、彼は取材にこう答えていた。「私は末期の病気です。私の病気に治療法はありません。もう務めました。もう11年務めましたし、率直に言って、私は十分に苦しみました」。

150年の刑のうち、彼が服役したのは11年と10か月ほどだった。

なぜみんな信じたのか、なぜ誰も止められなかったのか

ここまで書いてきて、いちばん考え込むのがこの問いだ。マルコポロスが4時間で見抜いたものを、なぜ世界中の金融のプロたちが20年見抜けなかったのか。

まず、成績表がちょうどよかった。マドフが見せていた年率は15パーセント前後。仮にこれが年率40パーセントだったら、誰でも即座に疑っただろう。15パーセントは、優秀だがありえなくはない数字だ。魅力的すぎず、しかも「毎月きちんとプラス」。人間が最も抗いにくいのは大儲けの話ではなく、退屈なほど安定した儲けの話だ。異常なのは水準ではなく、なめらかさだった。

そこに気づくには数字を統計的に見る必要があり、多くの人はそれをしなかった。

次に、社会的証明が完璧だった。彼はナスダックの元会長で、業界団体の要職を歴任し、電子取引の先駆者と呼ばれていた。彼の会社は本物のマーケットメイク業務で本当に儲けていた。彼を紹介してくるのは、自分が尊敬している人間だった。慈善団体の理事会で隣に座っている人だった。同じクラブの会員だった。20年前から預けていて何の問題もなかった親戚だった。

この積み重なりの中では、「疑う」という行為が、人間関係そのものへの裏切りになってしまう。

第三に、彼は情報を遮断した。戦略の詳細は「独自のものだから」と語らない。バロンズの取材にも「専有の戦略です。詳しくは話せません」で押し通した。投資家には他人に話すなと求めた。オンラインでの口座閲覧を許さず、紙の明細だけを郵送した。監査は3人しかいない小さな会計事務所に任せていた。そのうち1人はフロリダに住む高齢の引退者で、事務所の実働はほぼ1人だった。

世界最大級のヘッジファンドの監査を、1人の会計士がやっていたのだ。この異常さは、ジェイピー・モルガンのロンドンのデューデリジェンス担当も指摘している。それでも、多くの人はそこで立ち止まらなかった。

第四に、疑いのコストが高すぎた。マルコポロスが書いた通りだ。誰も、王様は裸だと言ってキャリアを賭けたくない。彼が話を聞いたウォール街のデリバティブ部門の責任者たちは、全員が「バーニー・マドフは詐欺だ」と言った。全員が、である。それでも誰も表に出なかった。フィーダーファンドの経営者たちには、もっと直接的な理由があった。彼らはマドフから運用報酬をまるごと譲り受けていた。

疑うことは、自分の収入源を疑うことだった。ジェイピー・モルガンのロンドンのチームは疑い、自分たちの金は引き揚げた。しかしアメリカの当局には知らせなかった。

第五に、規制の仕組みが縦割りだった。マドフは長年、ブローカーディーラーとしては登録していたが、投資顧問業者としては登録していなかった。だから投資顧問業者向けの検査の網には最初からかからない。ようやく2006年に登録したが、その頃にはもう遅かった。しかも当局は同じ会社を同時に2つの部署が調べておきながら、互いに気づかなかった。

そして最後に、これが一番身も蓋もない話なのだけれど、ねずみ講は「うまくいっているように見えている限り、うまくいく」。解約を求めた人には、いつでも即座に払っていた。だから誰も困らない。困った人が出てこない限り、疑いは表面化しない。2008年の秋に世界中が現金を求めて走り出すまで、この構造は破れなかった。

逆に言えば、リーマン・ショックがなければ、マドフはあと数年、あるいは死ぬまで捕まらなかった可能性が高い。事実、秘書のスキラーリはこう書いている。相場が2008年の秋に崩れず、大口が大量の解約を求めなければ、バーニーは死ぬ日まで完全に支配し続けていただろう、と。

止まらなかったのは、誰かひとりが特別に愚かだったからではない。止める役割を持っていた人間が全員、少しずつ「自分の担当ではない」と判断したからだ。検査官は範囲外だと考え、フィーダーファンドは運用者の仕事だと考え、銀行は顧客のことだと考え、監査人は数字を見るだけだと考え、慈善団体の理事は投資委員会に任せていた。全員の判断が、それぞれの立場では合理的だった。

合理的な判断の積み重ねが、20年間、誰も裸の王様を指ささない状態を維持した。それがこの事件の、いちばん怖いところだと思う。

「毎月きちんとプラス」という明細が届いたときに、思い出してほしいこと

この事件の物的証拠でいちばん不気味なものは何かと聞かれたら、私は迷わず、あの紙だと答える。

17階の閉じた機械が吐き出していた、完璧な明細。きれいで、時間通りに届いて、時計みたいに正確で、そして中身が全部嘘だった紙。何十年も、何万通も、アメリカの郵便配達員が善良な顔をしてポストに入れ続けた紙。それを見て、ある人は退職を決め、ある人は子どもの大学を決め、ある人は財団の助成計画を決めた。人生の設計図が、存在しない数字の上に建っていた。

この事件の教訓を一言でまとめようとすると、どうしても間の抜けた標語になってしまう。うますぎる話には気をつけろ、とか。分散しろ、とか。そんなことは全員が知っていた。マドフの顧客には、金融のプロが山ほどいたのだ。

だから、もう少し具体的な言い方をしたい。

安定していることは、安全であることではない。むしろ、金融の世界では、不自然に安定していること自体が最大の異常値になりうる。市場が26回下がった同じ期間に3回しか下がらないというのは、優秀さではなくて、市場から切り離されているという意味だ。マルコポロスが4時間で見抜いたのは、複雑な数式ではない。滑らかすぎる線は、現実の線ではない、というただそれだけの話だった。

そして、資産の存在を確かめる方法が「相手が送ってくる紙」しかないとき、その紙にはゼロ以外の意味がない。マドフの顧客が受け取っていたのは、資産の証明ではなく、資産があることにするという宣言だった。第三者が保管していることを、その第三者に直接確かめる。それだけのことを、フェアフィールド・グリニッジのジェフリー・タッカーはやらなかった。

彼はマドフのオフィスまで行っておきながら、清算の相手先に電話をかけず、2階下に降りもしなかった。あと数十メートル歩いていれば、彼は空っぽの機械を見ていたかもしれない。

バーナード・マドフは2021年に獄中で死んだ。彼は最後まで、自分の犯罪を「間違い」と呼んでいた。彼が奪ったものの一部は、驚くべき執念によって取り戻された。しかし、フードスタンプで暮らすことになった65歳の女性の10年は戻らないし、10年余分に働いた男性の10年も戻らないし、2010年12月11日にひとりの息子が失った人生も戻らない。

17階は、いまは別の会社が使っている。あのフロアで動いていた古いコンピューターは、たぶんもうどこかで解体された。けれど、あそこで起きていたことの構造は、いまも世界中でそっくり同じ形で繰り返されている。名前を変えて、通貨を変えて、もっと速いスピードで。

だから覚えておきたい。詐欺は、怪しい見た目でやってこない。詐欺は、あなたが最も信頼している人の紹介で、印字のきれいな明細を持って、毎月きちんと約束を守りながらやってくる。20年間、1度も約束を破らないまま。

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