一九五七年二月のフィラデルフィア。北東の外れにある雑木林で、段ボール箱がひとつ、ゴミの山の脇に転がっており、ふたは開いていた。中には、裸の男の子が入っており、その子には名前がなかったのだ。正確に言えば、名前はあったはずなのに、誰もそれを名乗り出ず、行方不明届は一枚も出ていなかった。
四十万枚のビラが全米にばらまかれても、指紋を照合しても、歯型を全米の歯科医に送りつけても、誰ひとりとして「うちの子です」と言いに来なかったのだ。だからこの子は「箱の中の少年」と呼ばれた。そして墓石には、こう刻まれることになる。アメリカの知られざる子、と。六十五年後の二〇二二年十二月八日、フィラデルフィア市警がついに彼の名前を発表した。
ジョゼフ・アウグストゥス・ザレリ。一九五三年一月十三日生まれ。死んだとき四歳。名前は戻ってきた。だが殺した人間は、いまだに分かっていない。
これは、アメリカでいちばん長く「怪談」として語られ続けた実在の殺人事件の話だ。長い。だが、途中で読むのをやめないでほしい。この子は六十五年間、誰にも思い出してもらえなかったのだから。
- 一九五七年二月、藪の中で「よくできた人形」を見た男
- 三日間、誰も通報しなかった――もう一人の発見者の沈黙
- 段ボールの中で膝を抱えていた、体重十三キロの男の子
- 検死台の上で明らかになった、あまりに雄弁な体
- 髪はなぜ、死んだあとに切られたのか
- 箱と毛布と帽子――物証は雄弁なのに、何も答えない
- 帽子屋の女将が覚えていた、金髪の若い男
- 四十万枚のビラを配った街が、それでも彼を思い出せなかった
- 「うちの子かもしれない」――押し寄せた誤認の波
- 三十六年間、この子に取り憑かれた男
- 里子ホーム説――家具競売で見つけたバシネットと毛布
- だが、遺伝子は違うと言った
- 病院の出生記録を九年めくり続けた指紋係
- 昼食で事件を解く男たち――ヴィドック協会
- 二〇〇二年、シンシナティからかかってきた電話
- 「エム」の話は、どこまで裏が取れて、どこで止まったのか
- 女の子として育てられていた説、その他の枝葉
- ポッターズ・フィールドの小さな石――「天の父よ、この名もなき少年を祝福したまえ」
- 一九九八年、雨上がりのアイビー・ヒル墓地
- 二〇一九年、二度目の掘り起こし――紙吹雪のような遺伝情報
- クリスマスプレゼントの検査キットが、六十五年を動かした
- 二〇二二年十二月八日、彼に名前が戻った日
- 名前が戻って、かえって深まった謎
- 名前が出た瞬間、ネットが始めてしまったこと
- 七十歳の誕生日に立った、新しい墓石
- なぜこの子は、半世紀以上「怪談」だったのか
一九五七年二月、藪の中で「よくできた人形」を見た男
話は、ひとりの大学生から始まる。フレデリック・ベノニス、二十六歳。ラサール大学の学生だった。二月二十三日、彼はフォックス・チェイス地区のスーザクエハナ通り沿い、ヴェリー通りに近い空き地の藪の中にいた。彼が語った話はこうだ。
ウサギを追いかけて藪に分け入った。そこに大きな段ボール箱が、枯れ枝に半分埋もれるようにして転がっていた。のぞき込んだ。人形が入っており、よくできた人形だな、と思った。彼はそのまま立ち去ったのだ。
――というのが、警察に最初にした説明だった。だが後年、彼が藪にいた本当の理由は別だったと言われている。すぐそばにグッド・シェパード・ホームという、カトリック系の女子収容施設があった。ベノニスは、そこを覗きに来ていたらしいのだ。ウサギの話は、その場しのぎのカバーストーリーだった可能性が高い。
彼は二十四時間以上、黙っていた。警察に行けば、施設に近づいていたことを蒸し返される。そう思って怖かったのだ。だが翌日、ラジオがある事件を報じた。ニュージャージー州ベルマーで、四歳の女の子メアリー・ジェーン・バーカーが消えた、と。
南ジャージー史上最大規模の捜索が始まり、最終的に千人以上が野山を歩き回ることになる騒ぎだった。ベノニスはそのニュースを聞いて、動けなくなった。あれは人形じゃなかったのかもしれない。彼は大学のカウンセラーに相談し、それから神父に打ち明けた。神父は言い、警察に電話しなさい。
二月二十六日火曜、午前十時十分。チャールズ・ガーガニ巡査部長が、その電話を受けた。ちなみに、メアリー・ジェーン・バーカーは三月三日に見つかっている。隣家の空き家の寝室のクローゼットの中だった。友達の家の子犬と一緒に入り込んで、扉が閉まって、出られなくなった。
彼女は三日間そこにいて、飢えと寒さで死んだ。彼女の失踪がなければ、ベノニスは電話をかけなかったかもしれない。四歳の女の子の死が、もう一人の四歳の子を藪から引き上げた。この事件は、最初からこういう救いのない偶然でできている。
三日間、誰も通報しなかった――もう一人の発見者の沈黙
ここでもう一人、忘れてはいけない人間がいる。ベノニスより前に、あの箱を見つけていた若者がいたのだ。ジョン・パウロズニックという高校生だったと伝えられている。彼は罠を仕掛けにあの藪に通っていた。ウサギ用とも、マスクラット用とも言われる。
彼は箱を見た。中身も見たのだ。そして、何もしなかった。何年もあとになって、彼は捜査員にこう説明している。あまりに驚いて、怖くて、両親にすら言い出せなかった、と。
警察に届ければ、無断で仕掛けている罠を没収されるかもしれない、という恐れもあったらしい。十代の少年が、藪の中で子どもの死体を見つけて、誰にも言えずに家に帰る。その夜、その子は何を考えて布団に入ったのだろう。この一件だけで短編小説が書ける。結果として、遺体は少なくとも数日間、雨に打たれ、氷点下近い夜気にさらされ、そのまま放置された。
捜査上、これは決定的に痛い。死亡推定時刻は「寒さで保存されていたため特定不能」という結論になった。現場の足跡も、車の轍も、雨で流れた。もし最初の発見者がその日のうちに通報していたら。この事件は六十五年ではなく、六十五日で解けていたかもしれない。
誰も責められない話ではあるのだが、この「三日間の沈黙」は、事件の底にずっと沈んでいる。
段ボールの中で膝を抱えていた、体重十三キロの男の子
二月二十六日、午前。現場に最初に着いたのは、エルマー・パーマー巡査だった。無線を聞いた彼は、正直なところ「人形の通報だろう」と思っていた。この手の勘違いは珍しくない。彼は藪をかき分け、箱の中をのぞき込んだ。
そして、人形ではないことを理解した。パーマーは晩年までこの場面を語り続けた。忘れられるようなものじゃない、あれはみんなを参らせた事件だった、と。彼はその後の人生で、機会があるたびにこの子の墓に足を運んでいる。二〇一一年一月十日に亡くなるまで、ずっとだ。
次に来たのがサム・ワインスタイン刑事。そして検死局長のジョゼフ・スペルマン医師。箱は横倒しになっていた。厚手の段ボールで、寸法はおおよそ縦横高さが九十センチ弱、五十センチ弱、四十センチ弱。側面には「壊れもの、取扱注意」の印字。
中で、男の子は毛布にくるまれて、体を折り曲げるようにして入っており、裸で、着衣は一切なかった。ワインスタインが、その体を両手で抱え上げた。四十一年後、彼はその感触を語るときに言葉を詰まらせている。ゴミと一緒に捨てられていた、あの光景を見たときの、胃の底が冷える感じ。彼はその場で自分に約束した。
この事件からは絶対に降りない、と。彼は本当に降りなかった。一九五七年に現場に立った刑事は、一九九八年に六十代後半で捜査に復帰し、二〇〇四年五月十六日に亡くなるまで、この子を追い続けた。男の子の身長は約百三センチ、体重は約十三キロ。金髪がかった薄い茶色の髪だ。
青い目。全身が痩せこけて、あばらが浮いており、顔、脚、腹に、新旧の打撲痕が散らばっていた。唇は乾いてひび割れていた。
検死台の上で明らかになった、あまりに雄弁な体
スペルマンによる検死は、この事件の「読み物としての恐ろしさ」の中核だ。ここは丁寧に書く。まず年齢。骨格から推定して四歳から六歳。ところが体格は、二歳児と大差なかった。
これがどういうことか。人類の成長発育研究で当時全米屈指だったウィルトン・クローグマン博士が、エックス線写真を分析した。身長から見た発育年齢は三歳八か月相当、体重から見た発育年齢は二歳二か月相当という数字が出た。この乖離こそが、慢性的な栄養失調の指紋である。さらに長い脚の骨には「成長停止線」と呼ばれる横縞が残っていた。
これは、成長期の子どもが重い病気や飢餓にさらされると骨に刻まれる年輪のようなものだ。つまりこの子は、一度や二度ではなく、何度も、生命の維持が危うくなるところまで追い込まれていた。死因は頭部への強い打撃。硬膜下出血だ。胸腔には液体が溜まっており、全身に打撲、擦過傷。
骨折はず、体にはいくつもの手術痕があった。左足首には、輸血や輸液のために血管を切開する「カットダウン」と呼ばれる処置の跡。鼠径部にも痕だ。そして顎の下に、エル字型のはっきりした傷跡。胸にも痕があったという記録が残る。
全部で七か所という数え方をする資料もある。これは重要だ。この子はどこかの医療機関にかかっており、何度も。それも、そこそこ本格的な処置を受けている。カルテがどこかに存在したはずなのだ。
にもかかわらず、全米の病院、診療所、歯科医院に照会をかけても、該当者は出てこなかった。そして最も薄気味の悪い所見が二つあり、ひとつ。右手と両足の裏の皮膚が、ふやけて深くしわになっていた。長時間水に浸かっていた人間に出る、いわゆる洗濯女の手だ。死ぬ直前か、死んだ直後に、この子は水の中にいた。
ふたつ。紫外線を当てると、左目が鮮やかな青に蛍光を発した。眼の疾患の診断に使う色素を、比較的最近投与された可能性がある。つまり、死のそれほど前ではない時期に、この子は目の検査を受けていた。胃の中には、消化されかけた豆の料理――ベイクドビーンズ――が残っていた。
死ぬ二、三時間前に食事をしている。整理するとこうだ。慢性的に飢えさせられ、繰り返し殴られ、それでも医者にはかかっており、死ぬ数時間前には食事を与えられ、死ぬ前後に水に浸かり、そして頭を強く打って死んだ。この所見の組み合わせは、通り魔的な誘拐殺人とはまるで違う絵を描く。この子を殺したのは、この子と日常を共有していた誰かだ。
捜査員たちは初日からそう考えていた。
髪はなぜ、死んだあとに切られたのか
検死でもうひとつ、捜査員全員の背筋を凍らせた事実がある。この子の髪は、素人の手で、ごく最近、乱暴に切られていた。ハサミの入り方はでたらめで、地肌が見えるほど短く刈り込まれた部分もあったのだ。そして――ここが肝心なのだが――切られた髪の毛の切れ端が、体のあちこちにまだ付着していた。つまり、髪を切った直後に、体を洗う前か洗ったあとに、そのまま毛布にくるまれている。
丁寧に払い落とす余裕はなかった。爪も切ってあり、きれいに。手も体も洗われており、汚れはほとんどなかった。栄養失調でボロボロになるまで放置された子どもの体を、捨てる直前になって洗い、髪を切り、爪を整えた人間がいる。この落差が、この事件をただの児童虐待死と分けている。
なぜ髪を切るのか。答えはひとつしか思いつかない。特徴を消すためだ。髪型は、四歳児の外見でいちばん人目に残る要素だ。それを潰しておけば、新聞に写真が出ても近所の人間が結びつけにくくなる。
なぜ体を洗うのか。これは解釈が割れる。証拠を消すためという実務的な読みもあれば、捨てる前にせめてきれいにしてやりたかったのだという、むしろ情の読みもある。捜査員の中には、後者を取る者が少なくなかった。殺したのは、この子を憎んでいた人間というより、この子に耐えられなくなった人間ではないか、と。
どちらにせよ、犯人はパニックの中で、それでも「発覚を遅らせる」方向に手を動かしている。冷静さの残りかすがある。それが、この事件の犯人像をいっそう気味悪くしている。
箱と毛布と帽子――物証は雄弁なのに、何も答えない
さて、物証だ。この事件は物証がやたらと豊富で、そしてそのどれもが最後の一歩で行き止まる。まず箱。ジェイ・シー・ペニーの白いバシネット、つまり赤ん坊用の揺りかごが入っていた箱だった。定価は七ドル九十五セント。
輸送印から追跡した結果、アッパー・ダービーの店舗に一九五六年十一月二十七日に入荷したものと判明した。捜査員は快哉を叫んだ。ここまで絞れれば買った人間にたどり着ける、と。たどり着けず、その入荷分は十二箱。すべて、一九五六年十二月三日から一九五七年二月十六日のあいだに売れていた。
そして十二箱すべてが、現金払いで、売上台帳に買い手の名前は一文字も残っていなかった。しかも根本的な問題がある。犯人がバシネットを買ったとは限らない。誰かが捨てた空箱を、たまたま拾って使っただけかもしれない。この可能性が、箱という物証の価値を大きく削いだ。
次に毛布。安物の綿フランネルで、茶色、白、錆色、緑のひし形と四角を組み合わせた、いわゆるインディアン柄。元は三枚続きの布地で、そのうち二枚分が遺体と一緒にあった。フィラデルフィア繊維研究所が分析した。ノースカロライナ州スワナノアかカナダのケベック州グランビーのどちらかで織られたもので、製造年も数年間に限られる。
そこまで突き止めたのだ。ここでも捜査員は色めき立ち、そして数字に殴られ、同型の毛布は全米で百五十万枚以上売れていた。しかも、その毛布は最近洗濯されており、粗悪な糸で繕った跡もあった。誰かの家の生活の匂いがする。だが、どこの家かは分からない。
そして帽子。遺体から五メートルほど離れた場所に、青いコーデュロイのキャップが落ちていた。サイズは七と八分の一。アイビーリーグ風の型。中のラベルには、南フィラデルフィアの帽子店の名が入っており、この帽子だけは、生きた人間の記憶にたどり着いた。
帽子屋の女将が覚えていた、金髪の若い男
帽子店の女主人ハンナ・ロビンズは、刑事が持ち込んだキャップを一目見て、うちで作ったものだと言ったのだ。そしてもっと重要なことを覚えていた。その型は十二個しか作っていない。そのうちの一つを買った客が、変わった注文をつけたのだ。後ろに革のストラップとバックルを縫い付けてほしい、と。
追加料金を払ってでもやってくれ、という頼み方だった。客は金髪の男で、年のころは二十代半ばから三十代前半。彼はいったん帽子を持ち帰り、数か月後にまた店に来て、その革ストラップの取り付けを済ませていった。それきり、姿を見ていない。ロビンズはさらに、刑事が持っていた男の子の死後写真を見て、こう言ったと記録されている。
あの男の人、この子に似ていた気がする、と。これは、事件全体を通していちばん「犯人に近い」証言かもしれない。金髪の若い男。子どもに似た顔立ち。特注の帽子。
そして完全に空振りし、ロビンズは客の名前を知らず、台帳もなかった。刑事たちは近隣の商店を百四十軒以上回り、少年の写真と帽子の写真を見せて歩き、誰も見覚えがないと言った。そもそも、その帽子が本当に事件と関係があるのかすら分からない。サイズ七と八分の一は大人の頭のサイズだ。四歳児の帽子ではない。
藪はゴミ捨て場として使われていた場所で、無関係の落とし物が転がっていても不思議はない。ほかにも子ども用のスカーフや、「ジー」の文字が刺繍された白いハンカチが見つかっているが、いずれも事件と結びつかなかった。
四十万枚のビラを配った街が、それでも彼を思い出せなかった
一九五七年二月二十六日、夕刊紙の一面はこうだった。フォックス・チェイスで箱入りの少年の遺体、被害者は四歳から六歳、殴打の跡。そこから先の捜査規模は、当時のフィラデルフィアで前例のないものになった。警察学校の訓練生二百七十人が現場一帯を横一列で潰していった。彼らが拾い出したのが、前述の帽子とスカーフとハンカチだ。
少年の顔写真――遺体を服を着せて椅子に座らせ、目を開けた状態に見えるよう処置して撮った。あの有名な死後写真――が刷られ、ばらまかれた。郵便局に貼られ、酒類販売局が管轄する州営酒販店にも貼られ、州の酒販店がこの種の手配写真を貼るのは史上初だったのだ。ガス会社は二十万枚のチラシをガス代の請求書に同封し、電力会社も同じことをした。最終的に配布枚数は四十万枚に達したとされる。
三十万枚という数字を挙げる資料もあるが、いずれにせよ、フィラデルフィアの全世帯にこの子の顔が届いた計算になる。四月までに手紙が五百通届き、身元に関する申し出が百三十件を超え、連邦捜査局も全米の警察に手配情報を流した。孤児院に照会し、歯科医に照会し、病院の記録係に照会したのだ。そして、数週間で捜査は行き止まりに突き当たった。これがこの事件のいちばん不気味なところだ。
虐待された四歳児がおり、誰かが育てていたはずだ。オムツを替え、飯を食わせ、医者に連れて行った人間がいる。近所の人間が窓から見ていてもおかしくない。保育所も、教会も、雑貨屋もある。なのに、街じゅうに顔をばらまいても、誰も彼を知らなかった。
この子は、フィラデルフィアという百万都市の中で、存在しないものとして四年間を生きていたのだ。
「うちの子かもしれない」――押し寄せた誤認の波
もちろん、名乗り出た人はいた。的外れな形で。ニュージャージー州カムデンの住民五人が、この子は屋根職人の息子テリー・スピースだと断言し、母親が遺体を見に来た。違ったのだ。テリーは八歳だった。
海兵隊二等兵のジョージ・ブルーモールは、行方の分からない弟だと信じ込んだ。その弟も八歳で、のちにカリフォルニアで無事に見つかった。いちばん有望に見えた線が、スティーブン・ダマン少年だったのだ。一九五五年十月三十一日、ロングアイランドのイースト・メドウで、母親がスーパーの前に子どもを二人置いて店に入った。生後二か月のパメラはベビーカーに残っており、三歳のスティーブンは消えていた。
スティーブンは金髪で青い目。年齢も合う。そして顎に、よく似た傷跡があり、ナッソー郡の警部が飛んできて遺体を見た。だがエックス線写真の比較で否定され、スティーブンには腕の骨折の既往があり、箱の中の少年にはそれがなかったのだ。一九九八年の掘り起こしで採取されたミトコンドリアの遺伝情報によって、この線は最終的に完全に消えた。
スティーブン・ダマンは、いまも行方不明のままだ。ほかにも、事件の一週間前に少年の髪を切ったという理髪師の証言があった。ストロベリー・マンション地区に住む子で、傷などなく元気だったという。これも繋がらなかった。一九六一年には、バージニア州で移動遊園地の一座に加わっていたケネス・ダドリーとアイリーンのダドリー夫妻が逮捕されている。
彼らは七歳の娘を栄養失調と虐待で死なせ、それ以前にも複数の子どもを飢えで死なせ、遺体をリン鉱山に、湖に、ゴミ捨て場に捨てていた。手口の類似は明らかだったのだ。だが調べた結果、箱の少年との接点はなかった。この時期の捜査記録を読んでいると、別の恐ろしさに突き当たる。当時のアメリカに、この種の「消えても誰も探さない子ども」がどれだけいたのか、という恐ろしさだ。
三十六年間、この子に取り憑かれた男
ここからは、人間の話をする。レミントン・ブリストウ。検死局の捜査官で、少年の遺体が運び込まれた日、その場にいた。彼はこの事件を、その後三十六年間、手放さず、自分の休暇を使い、自分の金を使い、情報提供に千ドルの懸賞をかけたのだ。一九九三年に死ぬまで、答えを見つけられず、ブリストウの見立ては、警察の公式見解とは少し違っていた。
彼はこれは殺人ではなく、事故だと考えていた。子どもが死んだあと、パニックになった保護者が遺棄したのだ、と。そして殺人事件として扱われているせいで、当事者が名乗り出られなくなっている、というのが彼の理屈だった。彼はまた、この子は普段は髪が長く、近所の人からは女の子だと思われていたのではないか、とも考えていた。捜査が完全に止まった苛立ちの中で、ブリストウはかなり思い切った手を打つ。
霊能者に頼ったのだ。ニュージャージー州パリセーズ・パークに住むフローレンス・スターンフェルドという女性で、いくつかの警察と仕事をした実績があった。彼女は金属に触れることで像を見るタイプだと自称していたのだ。ブリストウは、あの段ボール箱を留めていたステープルの針を彼女に握らせ、スターンフェルドは言った。木のポーチのある家が見える。
近くに丸太小屋があって、子どもたちが遊んでいる、と。ブリストウはフィラデルフィアに戻り、車で走り回った。そして、その描写に合う家を見つけた。遺体発見現場から、およそ二キロ半。彼は彼女をフィラデルフィアに呼んだ。
彼女はこの街に来るのは初めてだった。彼女はまず遺体発見場所へ歩き、それから振り返って、まっすぐその家へ向かって歩き出した。丸太小屋のある、あの家へ。この場面は、この事件が長年「怪談」として語られてきた最大の理由のひとつだ。オカルト的な脚色ではなく、当時の捜査官自身が記録に残している出来事である。
信じる信じないは読者の自由だが、少なくともブリストウはこれで完全に確信した。
里子ホーム説――家具競売で見つけたバシネットと毛布
その家は、事件当時、里子を預かるホームとして運営されていた。営んでいたのはアーサー・ニコレッティとキャサリン・ニコレッティの夫妻。そしてキャサリンの当時二十歳の娘、アンナ・マリー・ネイグルが同居していた。アンナ・マリーは知的な障害があったと記録されている。彼女は結婚しないまま四人の子を産んでいる。
三人は死産だった。残る一人は一九五五年、三歳のときに遊園地の乗り物での感電事故で亡くなっている。ホームは常時六人前後の子どもを預かり、多いときは二十五人まで受け入れていた。一九六一年、ニコレッティ夫妻は里親業をやめ、家を売りに出し、家財の競売が行われることになったのだ。ブリストウは、その下見に行った。
そこで彼は、あのバシネットによく似たものを見たのだ。そして、あのインディアン柄の毛布に酷似した布を見た。しかもそれは、子どもたちが寝ていた簡易ベッドに合わせて切り分けられていたのだ。遺体を包んでいた毛布も、元は三枚続きの布地を切ったものだった。ブリストウの説はこうだ。
少年はアンナ・マリーが産んだ、戸籍に載らない子どもだった。ホームの敷地内で――たとえば近くの池で――事故に遭って死んだ。手足のふやけはそれで説明がつく。慌てた大人たちが、身元が割れないよう髪を切り、体を洗い、家にあった箱と毛布で包んで、二キロ半離れた藪に捨てた。彼は残りの人生をかけて、警察にこの家を本格的に洗わせようとし、警察は初期に一度調べ、関連なしと結論していたのだ。
一九八四年に再度ニコレッティに事情を聞いたが、決め手は出なかった。ブリストウが電話で嘘発見器にかかってくれと頼むと、ニコレッティは断ったのだ。この拒否が、ブリストウの確信をさらに固くした。
だが、遺伝子は違うと言った
この説には、決定的な反証がある。一九九八年、警察とヴィドック協会は、この里子ホームの線を正面から潰しにかかった。ホームで暮らしていた子どもたちの所在は、当時の記録から全員が確認され、行方の分からなくなった子はいなかった。そして遺伝子鑑定だ。ニコレッティ側の生物学的な血縁は否定され、アンナ・マリーが箱の少年の母親である可能性は、科学的に消えた。
二〇二二年に判明した実の母親は、まったく別の女性で、ブリストウの三十六年は、正解には届いていなかった。ただし――ここは公平に書いておく――ブリストウが集めた周辺情報のすべてが無駄だったわけではない。彼が徹底的に潰した仮説があったからこそ、後の捜査員は同じ穴を掘らずに済んだ。
そして何より、彼が三十六年間この事件を「生きている事件」として保ち続けなかったら、資料も証拠も、とっくに倉庫の奥で朽ちていた可能性が高い。一九九八年の掘り起こしも、二〇一九年の再掘り起こしも、彼のような人間が火を絶やさなかったから実現した。嘘発見器を断ったニコレッティについても、断ったこと自体は罪ではない。当時、事件と無関係の一般市民が、何十年も執拗に疑われ続けたという側面もある。
この事件が「善意の執念」と「無実の人への圧力」が同居する構造を持っていることは、覚えておいたほうがいい。あとで、もっと大きな形で同じ問題が噴き出すことになる。
病院の出生記録を九年めくり続けた指紋係
もう一人、この事件に人生を持っていかれた男がいる。ウィリアム・ケリー。一九五七年に少年の指紋を採った、フィラデルフィア市警の鑑識識別課の責任者だ。彼は指紋を採ったとき、すぐ身元が割れると信じていた。割れず、そこで彼は、常識外れのことを始める。
当時、多くの病院は新生児の足型を取っていた。だったら、生まれたときの足型と、この子の足の裏を照合すればいい。彼は仕事の合間と休日を使って、病院の記録室に通い詰めた。棚から台帳を引き出し、一ページずつめくり、赤ん坊の足型を見比べる。それを来る日も来る日も、九年間続けたと言われている。
家に帰ると、妻のルースが毎晩聞いた。今日はどうだった、と。ケリーはたいてい、何も言わずに首を振った。彼はブリストウと組んで動くこともあり、二人の結論は似ていた。この子は、親か保護者に殴られて死んだ。
おそらく風呂に入れている最中、何かで機嫌を損ねた大人が手を出し、それが致命傷になった。ケリーはこの子を、いつしか自分の中で「ジョナサン」と呼ぶようになった。名前がないと祈れないからだ。近くのグッド・シェパード・ホームの修道女に、この子のために祈ってくれと頼んだこともある。修道女は答え、毎日祈っていますよ、と。
そして少し間を置いて、こう続けた。たぶん神様が、まだ駄目だとおっしゃっているのでしょう。ケリーは自分の捜査手法について、こんなことを言っている。ときには、できる限り近くまで踏み込んで、細部だけを見つめるほうが楽なんだ。全体像がまるで見えなくなるくらい小さなものに集中していれば、と。
四十六年間、この事件は彼の警察人生でただ一つ、片付かなかった仕事であり続けた。
昼食で事件を解く男たち――ヴィドック協会
一九九〇年、フィラデルフィアで三人の男が昼飯を食べていた。元連邦捜査局特別捜査官のウィリアム・フライシャー。法科学彫刻家のフランク・ベンダーだ。刑務所の心理士リチャード・ウォルター。話題はいつのまにか、迷宮入りした殺人事件のことになった。
そこから生まれたのがヴィドック協会だ。名前は十九世紀フランスの、犯罪者から警察官に転じた伝説的人物ウジェーヌ・フランソワ・ヴィドックから取っている。彼の享年にちなんで、正会員の定数は八十二人と定められた。最初の会合は旧フィラデルフィア海軍工廠で開かれ、いまは毎月、市内のクラブで昼食をとりながら行われる。会員は元捜査官、法医学者、犯罪心理学者、法歯学者、法科学彫刻家。
彼らは報酬を受け取らない。扱うのは未解決の殺人だけ。要請は捜査機関か遺族から受ける。要するに、退役した名人たちが昼飯を食いながら、他人の解けない事件を解く集団である。フライシャーは、箱の少年の事件と個人的な因縁があった。
彼は一九五七年当時、十三歳だった。あの死後写真を見て育った世代なのだ。一九九八年、フィラデルフィア市警は正式にヴィドック協会に協力を要請した。この事件は、協会が最も長く抱え込んだ案件になる。集まった顔ぶれがすごい。
連続殺人犯という言葉を作った元連邦捜査局のロバート・レスラー。逃亡犯の顔を粘土で復元して逮捕に結びつけた実績を持つフランク・ベンダーだ。そして、一九五七年に現場にいたサム・ワインスタイン本人と、九年間足型をめくったウィリアム・ケリー本人。検死局の元捜査官ジョー・マギレンだ。市警のトム・オーガスティン警部補。
一九五七年の現場と、一九九八年の会議室が、同じテーブルについた。
二〇〇二年、シンシナティからかかってきた電話
二〇〇二年二月、オーガスティン警部補のもとに一本の電話が入り、オハイオ州シンシナティの精神科医からだった。自分の患者が、どうしても警察に話したいことがあると言っている、と。オーガスティン、マギレン、ケリーの三人は車でシンシナティへ向かった。事件発見からちょうど四十三年目の時期で、彼女は「エム」とだけ呼ばれた。のちに一部の報道で「マーサ」あるいは「メアリー」という仮名でも呼ばれる。
精神疾患の治療歴があり、三時間にわたって、彼女は語った。彼女の母親は――図書館司書だったとも学校教員だったとも伝えられる――一九五四年の夏、ある家族から男の子を金で買ってきたのだ。ケンジントン地区の人身売買の一味からだったと彼女は言った。金額は三千ドルだったという証言も残っている。その子は、地下室に閉じ込められて育てられ、ろくに口をきかず、彼女はその子を「ジョナサン」と呼んでいた。
母親はその子を虐待し、彼女自身も虐待を受けていた。そして、あの夜。ジョナサンは夕食のベイクドビーンズを食べたあと、風呂場で嘔吐し、母親は激高した。彼女は子どもを掴み、浴室の床に叩きつけたのだ。それで死に、母親は、遺体の髪を切った。
爪を切った。身元が分からなくなるように。それから毛布に包み、車のトランクに積んだ。雨がぱらつく二月の朝、二人はフィラデルフィアの北東の外れまで車を走らせた。スーザクエハナ通り。
母親が遺体を藪へ運ぼうとしていたとき、一台の車が停まり、男が窓から声をかけてきた。何か困っていますか、と。二人は身をよじって、その男からナンバープレートが見えないように立ち位置を変えた。男はそのまま去った。
「エム」の話は、どこまで裏が取れて、どこで止まったのか
ここで捜査員たちが震え上がった理由を説明しないといけない。彼女は、公表されていない事実を知っていたのだ。胃の中のベイクドビーンズ。これは新聞に細かくは出ていない。風呂場での死。
これは手足のふやけを説明する。死後に切られた髪と爪。これも報道されてはいたが、彼女の語りは動機の説明と一体になっていた。そして何より、あの通りすがりの男の話だ。一九五七年の捜査記録に、こういう情報提供が残っている。
二月二十四日、スーザクエハナ通りの発見現場付近で、中年女性と若い人物が車のトランクから何かを降ろしているのを見たという男性の証言。しかもその男性は、二人が意図的にナンバープレートを隠すように立ち位置を変えたと供述していた。四十五年後にシンシナティの精神科病院からかかってきた電話が、埃をかぶった目撃供述と噛み合った。オーガスティンたちが色を失ったのも無理はない。
ヴィドック協会のウィリアム・フライシャーは、この時期、彼女が嘘をついている確率は八千分の一だ、という趣旨の評価を口にしている。だが、裏付けは取れなかった。まず、彼女には精神疾患の治療歴がある。これは彼女の証言を自動的に無効にするものではまったくないが、法廷で戦える証拠としては極めて厳しい。次に、家だ。
捜査員は彼女が語った家を特定した。そして最終的に地下室に立ち入る許可を得たのだ。何も出てこなかった。そして近隣住民だ。当時その家に出入りしていた元隣人が複数、はっきり否定した。
あの家の地下に男の子が閉じ込められていたことなどない。自分たちは自由に家の中を出入りしていた、と。別の近隣住民は、そんな話は馬鹿げていると言い捨てた。決定的だったのは、彼女の身元がメディアに漏れたことだ。それ以降、彼女は捜査への協力を拒んだ。
そして二〇二二年、決定的な事実が出た。少年の実の母親は、フィラデルフィアで暮らしていた別の女性であり、少年には出生証明書がちゃんと存在したのだ。「人身売買組織から三千ドルで買った」という筋書きが成立する余地は、かなり狭くなった。念のため強調しておく。この「エム」の証言は、現在に至るまで裏付けの取れていない未確定情報だ。
彼女が語った母親も、その家族も、犯人と断定された事実は一切ない。この記事は、それを事実として扱わない。
女の子として育てられていた説、その他の枝葉
主要仮説をもう少し拾っておく。フランク・ベンダーが唱えたのが、いわゆる「女の子として育てられていた」説だ。彼は法科学彫刻家として、この子の生前の顔を復元する作業をしていた。その過程で、彼は髪の切り方の不自然さと、眉が整えられている痕跡に着目した。素人が慌てて切った髪型は、長い髪を短くしようとした結果ではないか。
眉を整えるのは、当時の四歳の男児には普通ではない。つまり、この子は日常的には女児の格好をさせられていた。だから近所の人が新聞の男の子の写真を見ても、あの家の「女の子」と結びつけられなかった。行方不明届が出ないのも、そもそも近所が男の子の存在を認識していないからだ。面白い説だ。
ブリストウが唱えていた「近所は女の子だと思っていた」説とも重なる。だが、これを裏付ける物証はゼロだ。復元像の作成者による推論の域を出ない。そして髪を短く切る動機は、身元隠しという単純な説明でも十分足りる。二〇一三年から二〇一四年にかけて、作家のルー・ロマーノとジム・ホフマンが、テネシー州メンフィスに住むある家族との関連を指摘した。
彼らはフィラデルフィア市警とヴィドック協会に情報を持ち込んだ。二〇一七年十二月、遺伝子の比較が行われた。一致しなかった。二〇一六年三月には、全米行方不明・被搾取児童センターが、最新の法科学的顔面復元像を公開している。生前の少年の顔として、以前より柔らかい表情の画像が全米のデータベースに登録され、それでも身元は割れなかった。
つまるところ、一九五七年から二〇二一年までのすべての仮説は、程度の差こそあれ、全部外れていたのだ。この事件を解いたのは推理ではなかった。
ポッターズ・フィールドの小さな石――「天の父よ、この名もなき少年を祝福したまえ」
一九五七年七月二十四日。あるいは記録によっては翌年一月。少年は埋葬され、葬儀の費用は、担当した刑事たちが自腹を出し合った。市民からの寄付もあり、フィラデルフィア葬儀業者協会も費用を負担し、地元の石材店が、小さな墓石を無償で提供したのだ。棺を担いだのは、市警の刑事三人と検死局の職員だった。
遺族はいない。埋葬されたのはフィラデルフィア州立病院の敷地に隣接する無縁墓地、いわゆるポッターズ・フィールドだ。身元不明者と、埋葬費を払えない貧困者が入る場所である。墓石には、こう刻まれた。天の父よ、この名もなき少年を祝福したまえ。
一九五七年二月二十五日。それから数十年、この小さな石には、見ず知らずの人間が置いていった花とおもちゃが絶えなかった。誰の子でもない子どもが、街全体の子どもみたいになっていった。この事件が「アメリカの知られざる子」という呼び名を得たのは、そういう空気の中でのことだ。
一九九八年、雨上がりのアイビー・ヒル墓地
一九九八年秋、遺体が掘り起こされた。目的は遺伝情報の採取だ。細胞核の遺伝情報は取れなかったが、歯からミトコンドリアの遺伝情報が取れた。これは母系をたどる比較に使える。この時点で、スティーブン・ダマンとの同一性は完全に否定された。
掘り起こしの現場にいた当時の若手捜査員の一人が、のちにペンシルベニア州ロウアー・メイクフィールドの警察署長になるケン・コルッツィだ。彼はこう振り返っている。当然ながら、重苦しい雰囲気だった。ポッターズ・フィールドで、寒い日だった、と。同じ年の十月三日、事件が全米放送の犯罪追跡番組で取り上げられ、百五十件を超える新しい情報が寄せられた。
この放送を見て記憶を呼び起こされた一人が、ジョージ・ノウルズという男性だったのだ。彼は十一歳のとき、自転車の登録でニュージャージーの警察署に行き、そこで少年の手配ポスターを見ていた。彼は一九九九年、この事件の資料を集約するウェブサイトを立ち上げる。そこには数百件の情報提供が集まり、閲覧者は数百万人に達した。そのどれもが、事件を前に進めなかった。
そして一九九八年十一月十一日。掘り起こされた遺骨は、新しい墓地に改葬された。ヴィドック協会が費用を負担し、フィラデルフィア北西部シーダーブルック地区のアイビー・ヒル墓地に、区画と墓石が寄贈されたのだ。その日は朝から激しい雨だった。ところが式の直前、雲が割れて青空が出たのだ。
午前十一時ちょうど、儀式が始まった。バグパイプ奏者が一人、ドヴォルザークの「新世界より」から「家路」を吹いた。集まったのはおよそ百人。棺を担いだのは市警の警察官とヴィドック協会の会員たちだ。遺族はいない。
四十一年前に少年を箱から抱き上げたサム・ワインスタインは、椅子に腰かけて涙を拭っていた。新しい墓石には、こう刻まれた。アメリカの知られざる子、と。
二〇一九年、二度目の掘り起こし――紙吹雪のような遺伝情報
時代が変わった。二〇一八年、カリフォルニアの連続殺人犯が、市販の遺伝子系図データベースを使った捜査手法で逮捕された。法科学的遺伝系図学、いわゆる遺伝子系図捜査が現実の武器になった瞬間だ。原理はこう説明できる。犯罪捜査用の遺伝子データベースは前科者の情報しか持っていない。
だが市販の血縁探しサービスには、一般市民が趣味で登録した膨大な遺伝情報がある。そこから、被害者や犯人の「三親等、四親等の親戚」を拾い出す。あとは古典的な系図学だ。国勢調査、出生記録、結婚記録、新聞の死亡欄。複数の遠い親戚から家系図を逆算していき、交わる一点を探す。
二〇一八年秋、一九九八年に採った検体を使って、この手法に必要なデータの生成が試みられた。失敗し、遺伝情報の劣化がひどすぎたのだ。そこで二〇一九年四月、二度目の掘り起こしが行われ、左の大腿骨の一部、切歯一本、臼歯一本が採取された。この検体は三つの研究機関に送られたのだ。まずカリフォルニアのアイデンティファインダーズ・インターナショナルが全体を統括した。
大腿骨からの抽出は、オランダのハーグにある国際行方不明者委員会が三回試みたのだ。それでも解読は劣化に阻まれた。ここで、委員会の専門家の助言により、検体はドイツのライプツィヒにあるマックス・プランク研究所へ渡った。ここは、数万年前のネアンデルタール人の骨から遺伝情報を読み出している、古代遺伝情報解析の世界的な本丸だ。一九五七年の子どもの骨など、彼らの基準では「ほとんど新品」である。
そして、読めた。アイデンティファインダーズの遺伝系図学者コリーン・フィッツパトリックは、このときの検体の状態をこう表現している。紙吹雪みたいだった、と。あるいは、基本的に使い物にならない状態だった、と。断片をつなぎ合わせる作業を、彼女は大きな数独パズルに喩えている。
矛盾しないように、辻褄が合うように、断片同士を編み込んでいく。二〇二一年、復元されたデータが公開系の遺伝子データベース二か所に登録された。系図学者たちが答えにたどり着くまで、数週間しかかからなかった。
クリスマスプレゼントの検査キットが、六十五年を動かした
ここが、この事件でいちばん現代的で、いちばん間抜けで、いちばん胸に来る部分だ。ジャスティン・トーマスという男性がいる。二〇一七年、彼はクリスマスプレゼントとして、当時の恋人のために市販の血縁調査用検査キットを買った。そして二人は別れ、キットが手元に余ったのだ。もったいないので、彼は自分で使い、唾液を送り、結果を受け取り、そのまま忘れ、数年後、彼の電話が鳴った。
相手はミスティ・ギリスと名乗った。アイデンティファインダーズ・インターナショナルの法科学遺伝系図学者で、未解決事件の連絡担当だという。あなたの遺伝情報が、フィラデルフィアのある未解決事件と一致しています、と。彼の母親が、追加で検体を提供した。彼女は、箱の少年のいとこにあたる人物だった。
ギリスは自分たちの作業をこう説明している。私たちは、それぞれの検体がどこで互いに縁組みしているかを見ていって、家系図を組み上げるんです、と。系図学者たちは、二〇二一年十月の時点で少年の身元にたどり着いていたとされる。公表まで一年以上かかったのは、警察が裏付けを固めていたからだ。警察は裁判所命令を取った。
ペンシルベニア州に対し、特定の女性が一九四四年から一九五六年のあいだに産んだすべての子どもの出生記録、死亡記録、養子縁組記録を出せ、という命令だ。そして、一枚の出生証明書が出てきて、そこには少年の名前と、父親の名前が記載されていた。父方の親族の遺伝子検査で、その父親の記載も裏付けられたのだ。
二〇二二年十二月八日、彼に名前が戻った日
二〇二二年十一月三十日、フィラデルフィア市警が予告を出した。十二月八日、最も古い未解決殺人事件について重大な発表を行う、と。当日の記者会見場は満員で、地元紙も全国ネットも、六十五年待った答えを聞きに来ていた。当時の警視総監ダニエル・アウトローが名前を読み上げた。ジョゼフ・アウグストゥス・ザレリ。
一九五三年一月十三日生まれ。アウトローはこう言った。彼のごく短い人生の中で、この子が、誰ひとりとして経験すべきでない恐怖を味わったことは明らかです、と。そして、この身元判明を可能にした科学と技術は、今後もう誰ひとり、これほど長く自分の名前と人生の物語を待たされずに済むという希望を与えてくれる、とも語った。殺人課の責任者ジェイソン・スミス警部は、もっと現実的だったのだ。
彼は、ジョゼフが西フィラデルフィアの六十一番通りとマーケット通りの交差点付近で暮らしていたと述べた。行方不明届は一枚も出ていない。社会保障番号も発行されていない。そして、両親の名前は公表しないと言った。理由は、父方にも母方にも生存している兄弟姉妹がいるからだ。
彼らへの配慮だと。犯人については、こう言った。誰が責任を負うべきか、我々には疑いを持っている対象があります。しかしこれは現在進行形の刑事捜査であり、その疑いを共有するのは無責任です、と。彼はまた、こうも言っている。
この記者会見から出てきてほしいのは、市民からの情報提供の雪崩なんです。あの子は四歳を超えて生きていた。だとすれば、この子を見た誰かが必ずいるはずだ。名乗り出ていない親族もいるかもしれない、と。そして、彼はこう締めくくった。
逮捕には至らないかもしれない。犯人の特定もできないかもしれない。それでも、我々はやれるだけのことをやります。情報提供には二万ドルの懸賞金がかけられた。
名前が戻って、かえって深まった謎
二〇二三年一月十九日、地元紙が実の両親の身元を報じた。母親はメアリー・エリザベス・エイベル。愛称ベッツィー。一九三一年ごろの生まれで、ジョゼフが生まれたとき二十一歳だった。一九四九年に市内の職業技術高校を卒業し、センターシティの映画館で切符売りをしていた。
スケートとダンスとフランク・シナトラが好きだったという。親族の一人は彼女をこう回想している。本当に美人だった、と。父親はアウグストゥス・ジョン・ザレリ。愛称ガス。
イタリア系移民の家系に生まれた、コンクリートと石を扱う職人だった。一九五〇年時点で、西フィラデルフィアのキャロウヒル通り六三〇〇番台に住んでおり、エイベルより五歳年上だったのだ。二人は結婚していなかった。交際関係と呼べるものがあったのかどうかすら、はっきりしない。どうやって出会ったのかも分かっていない。
エイベルは一九五二年の春に妊娠し、一九五三年一月十三日にジョゼフを産んだ。その後の二人の人生は、まったく別々に進んだ。エイベルは、勤め先の映画館の支配人だったジョン・プランケットと結婚する。一九五六年十二月に娘が生まれ、その後も子どもをもうけた。一家はエリー通りの階段アパートで暮らし、のちにナイスタウンのラフナー通りへ移ったのだ。
プランケットはタクシー運転手をしており、エイベルは缶詰工場や倉庫で働いた。彼女は一九九一年、肺がんで亡くなっている。石綿への曝露が原因だった可能性が指摘されている。ザレリは一九五八年、つまりジョゼフの死の翌年に結婚し、キャロウヒル通りを離れた。一族の建設業と不動産業はチェスター郡で栄え、子どもたちの多くがそこに定着し、彼は二〇一四年、八十七歳で亡くなった。
追悼の言葉には、強さと人格の人だった、とある。さて、ここからが本題だ。エイベルは一九五〇年にも一人、女の子を産んで、カトリック系の団体を通じて養子に出していたとみられている。ではジョゼフはどうだったのか。分からないのだ。
彼女がジョゼフを自分で育てたのか。誰かに預けたのか。養子に出したのか。父親のザレリは、そもそもジョゼフが生まれたことを知っていたのか。親族の証言は、慎重に読む必要がある。
エイベルの側の親族は、彼女がこの子の死に関わったという見方を強く否定している。彼女の心の中に、そんな残酷さや悪意が渦巻いていたことはない、という趣旨の言葉が伝えられている。四歳になるまでの四年間、ジョゼフ・アウグストゥス・ザレリを毎日食べさせ、着替えさせ、そして飢えさせ、殴っていたのは誰なのか。名前が判明したことで、この問いはむしろ鋭くなり、彼には出生証明書があった。存在しない子どもではなかった。
にもかかわらず、その四年間だけが、いまも完全な空白なのだ。
名前が出た瞬間、ネットが始めてしまったこと
ここは、この記事でいちばん書きにくいパートだ。二〇二二年十二月八日、「ザレリ」という姓が公表された。イタリア系の、そう多くはない姓だ。西フィラデルフィアとデラウェア郡に一族がいる。そこから先に何が起きたかは、想像がつくと思う。
数千人が事件専門の交流サイトのグループに流れ込んだ。管理者は一時的に投稿を止めざるを得なくなった。放っておけば、実在の家族への攻撃が始まると分かっていたからだ。墓地の情報を共有するサイトでは、ザレリ姓の故人の追悼ページに、勝手にジョゼフの名前が書き足された。系図の記録が、素人の推測に合わせて改変されたのだ。
運営側は注意書きを出す羽目になった。この少年と特定のザレリ家を結びつける証拠は存在しません、と。匿名掲示板や事件考察系の掲示板には、家系図と写真と住所が並んだ。素人の系図学者たちが、公表されていない両親の身元を当てにいった。そして、いちばん深刻だったのはこれだ。
二十六年勤めて退職したばかりの元フィラデルフィア市警の警部が、自分のブログに記事を書いた。彼はジョゼフの両親と思われる人物の名前を挙げ、さらに故人となっているザレリ家の人々が事件に関与した可能性を、証拠なしに書いたのだ。元警察幹部の肩書きがついた投稿は、交流サイトで爆発的に拡散した。訂正が入ったのは、そのあとだ。グループの管理者はこう書いた。
いい大人なんだから、個人情報を晒したり、自分の筋書きに合わせて先祖の記録を書き換えたりするのは違うだろう。と改めて言わなきゃいけないのは悲しいことです、と。遺伝系図学者のミスティ・ギリスは、こう述べている。その多くは、残念ながら家族を傷つけるものです。突然こんな状況に放り込まれた彼らには、同情します、と。
別の系図学者は、これを事件マニアの馬鹿騒ぎだと切り捨てた。ヴィドック協会も声明を出した。憶測は危険であり、何ひとつ悪いことをしていない人々を傷つけうる、と。一方で、名前を公表した側にも言い分はある。当時の検死局長コンスタンス・ディアンジェロはこう語っている。
一九五七年に西フィラデルフィアに住んでいた人が、彼の写真を見て、彼の名前を聞いて、何かを思い出すかもしれない。だから出す意味があるのです、と。これは、現代の未解決事件報道が常に抱えるジレンマそのものだ。公表しなければ情報は集まらない。公表すれば、生きている無関係な人間が的にされる。
はっきり書いておく。ジョゼフ・アウグストゥス・ザレリを殺した人物は、二〇二六年八月現在も特定・公表されていない。実在の遺族を含め、誰かを犯人として名指しできる材料は、公に存在しない。この記事は、それを一切しない。
七十歳の誕生日に立った、新しい墓石
二〇二三年一月十三日。生きていれば、ジョゼフ・アウグストゥス・ザレリの七十歳の誕生日だった。アイビー・ヒル墓地に、数十人が集まった。現役と退職した捜査員たち。ヴィドック協会の面々。
この事件を長年気にかけてきた市民たち。そして、新たに身元が判明したザレリ側の親族と見られる人々。新しい墓石には、彼の名前が刻まれていた。ジョゼフ・アウグストゥス・ザレリ。従来の「アメリカの知られざる子」という文言の隣に、六十六年ぶりに名前が並んだ。
風船が結ばれ、花が置かれ、誰かが「ハッピーバースデー」と声を上げた。ヴィドック協会のビル・フライシャーは、一九九八年の改葬の日を思い出しながら、こう言ったのだ。あのときも神様が微笑んで、雲が割れて、太陽が出て、素晴らしい日になった。今日と同じようにね、と。参列した六十九歳の女性は、こう語った。
この子が経験したことは地獄でしょう。それでも、名前がついたことが、ただ嬉しいんです、と。ザレリ家の親族の一人は、こう述べている。私たちの家族は、この件で完全に不意打ちを食らいました。彼を敬う方法は、彼の物語のすべてを突き止めることだと思っています、と。
そして地元の男性が、集まった人々に向かってこう言った。もう彼らを叩くのはやめよう。ジョゼフから息を奪った過程に、あの人たちが加担していたみたいな扱いをするのはやめよう、と。墓の前で、遺族への私刑をやめてくれと呼びかけなければならない。それが、この事件が二〇二三年に到達した地点だった。
なぜこの子は、半世紀以上「怪談」だったのか
最後に、この記事の出発点に戻る。なぜ「箱の中の少年」は、単なる未解決事件ではなく、アメリカの怪談として語り継がれてきたのか。理由はいくつもある。ひとつは、絵として完成しすぎていることだ。冬の藪。
倒れた段ボール箱。中に横たわる裸の子ども。この構図は、絵にした瞬間に忘れられなくなる。しかも段ボールの表面には「壊れもの、取扱注意」と印刷されていた。誰も脚色していないのに、これ以上ないほど残酷な皮肉がすでに完成している。
ふたつめは、あの死後写真だ。目を開けて、服を着て、椅子に座らされた少年の写真は、あまりに生きているように見えて、そして決定的に生きていない。この写真は四十万枚刷られて全米にばらまかれた。つまり一九五〇年代のアメリカ人の相当数が、この顔を自宅の請求書の封筒から取り出したのだ。世代の集合的記憶に焼き付くには十分だった。
みっつめは、名前がなかったことだ。名無しの死者というのは、あらゆる文化で怪談の中心にいる。成仏できない、埋まりきらない存在。しかも彼は無縁墓地に埋められ、身元不明者の区画で数十年を過ごした。名を求めてさまよう子どもの霊、という物語の型に、そのままはまってしまった。
よっつめは、霊能者の登場だ。捜査員が霊能者にステープルの針を握らせ、彼女が語った「木のポーチと丸太小屋」を頼りに家を探し当てた。そして彼女は、その家までまっすぐ歩いていった。この挿話は、事実として記録に残っているがゆえに、超常的な脚色より遥かにたちが悪い。この一件があるせいで、この事件は最初から半分オカルトの側に足を突っ込んでいた。
いつつめは、地縁の記憶だ。フィラデルフィア北東部では、この事件は「うちの近所の話」として語り継がれてきた。両親から子へ、子から孫へ。夜の藪を指差して、あそこで見つかったんだよ、と言う。それはもう、都市伝説の伝播そのものだ。
そして最後に、いちばん本質的な理由。この事件が怖いのは、幽霊が出るからではない。誰も彼を探さなかったからだ。百万都市の真ん中で、四年間、一人の子どもが飢えさせられ殴られ続けて、死んで、それでも誰も探さなかった。ビラを四十万枚まいても、誰も名乗り出なかった。
これは超常現象より、はるかに恐ろしい。共同体が一人の子どもを丸ごと見落とせるという事実は、どんな怪談よりも人を眠れなくする。二〇二二年十二月八日、彼はジョゼフ・アウグストゥス・ザレリという名前を取り戻した。それでも、彼を殺した人間はまだ闇の中にいる。彼の四年間は、いまも空白のままだ。
怪談は、まだ終わっていない。ここからは、記事本編を書き終えたあとに残った引っかかりを、腰を据えて潰していく。事件の再話ではなく、再話したうえで見えてきたものの話だ。
二〇二二年の身元判明は、実は事件を「難しく」した
普通に考えれば、被害者の名前が分かることは捜査の大前進だ。名前が分かれば、住所が分かる。住所が分かれば、近隣住民が分かる。近隣住民が分かれば、聞き込みができる。ところが、この事件では話がそう単純にならなかった。
理由は簡単だ。時間が経ちすぎている。一九五七年に西フィラデルフィアの六十一番通り界隈で、四歳の子どもの存在に気づける立場にいた人間を考えてみてほしい。隣人、大家、雑貨屋の店主、教会の世話役。いま生きていれば、九十代から百歳を超えている。
当時二十歳の若者が二〇二六年に八十九歳。当時三十代なら、まず存命ではない。ジェイソン・スミス警部が記者会見で「情報提供の雪崩」を求めたのは、比喩ではなく切実な計算だった。あの発表は、証言者がまだ地上にいるタイムリミットの、ほぼ最後のタイミングだったのだ。そして事件そのものの証拠も、六十五年分だけ劣化している。
物証は保管されているが、当時の科学で採取できなかったものは、いまさら現場から採り直せない。藪はとっくに住宅地になっている。捜査ファイルの中で、聞き込みを受けた人間のほとんどが故人だ。つまり、名前が判明した二〇二二年の時点で、この事件は「解ける可能性が最も高い時期」をとうに過ぎていた。皮肉な話だが、身元が割れたことで、逆に「解けないまま名前だけが判明した事件」という、より苦い形が確定したとも言える。
出生証明書が存在した、という事実の重さ
ここは、あまり大きく報じられていないが、実は事件の構造を根本から書き換える発見だ。一九五七年から二〇二一年まで、捜査員たちが暗黙に立てていた前提がある。この子には出生記録がない、というものだ。だからこそ、ウィリアム・ケリーは九年間、病院の足型台帳をめくり続けても見つけられなかった。だからこそ、レミントン・ブリストウは「戸籍に載らない、隠された私生児」という筋書きに惹かれたのだ。
だからこそ、「エム」の語った「人身売買組織から買った子ども」という話が、そこそこの説得力を持って響いた。だが実際には、ジョゼフ・アウグストゥス・ザレリの出生証明書は、州の記録の中にちゃんと存在していたのだ。裁判所命令一枚で出てきて、名前も、生年月日も、父親の記載もあった。つまり彼は、書類上は普通に生まれた子どもだったのだ。闇から湧いて出た存在ではなかった。
これが何を意味するか。捜査員たちが六十五年かけて掘っていた穴は、そもそも掘る場所が違っていたということだ。彼らは「記録に残らない子ども」を探していた。実際にいたのは「記録に残ったのに、誰にも見られなかった子ども」だった。そしてこの差は、犯人像にも跳ね返る。
記録に残らないよう出生時から隠されていた子と、記録に残っているのに四年間だけ社会の視界から消えていた子とでは、その子を抱え込んでいた大人の事情がまるで違う。
なぜ、四年間の空白ができたのか
ここからは推論になる。だが、当時のアメリカの制度を踏まえると、いくつか筋の通る説明が立つ。一九五三年のフィラデルフィアで、二十一歳の未婚女性が子どもを産んだ。相手とは結婚していない。カトリック文化圏の色が濃い街で、これは当時、社会的に極めて重い立場だった。
そういう状況で子どもを手放す道は、当時いくつもあった。カトリック系の慈善団体を通じた正式な養子縁組。これは彼女が一九五〇年に一度、経験している可能性が高い。だがそれ以外に、書類を一切通さない私的な預け先というものが、当時は当たり前に存在した。親戚に預ける。
近所の女性に金を払って預ける。新聞の三行広告で「子どもを預かります」と出している家に預ける。当時、児童福祉の監督体制は今とは比較にならないほど薄かった。書類上は生まれたことになっている子どもが、書類の外側の世界で誰かに養われる。そういう抜け道が、制度の隙間にいくらでも開いていた。
もしジョゼフがそうした私的な預け先で育っていたのなら、四年間の空白は説明がつく。実の母親は「他人に任せた」と認識していて、行方不明届を出す立場にない。預かった側は、そもそも公的な帳簿にその子を持っていないから、いなくなっても届け出ようがない。実の父親は、存在すら知らなかったかもしれない。この筋書きなら、行方不明届が一枚も出なかったという最大の謎が解ける。
誰も届け出なかったのではない。届け出る資格と動機を同時に持つ人間が、この世に一人もいなかったのだ。これはあくまで、制度史から立てた仮説であって、確認された事実ではない。だが、七か所の手術痕と、眼科の検査色素の痕跡と、この筋書きは矛盾しない。誰かが彼を医者に連れて行っていた。
少なくとも一時期は、ちゃんと世話をされていたのだ。飢えさせられ、殴られるようになったのは、その後だ。
物証が語る、犯人像の輪郭
犯人が誰かは分からない。だが、物証が「どんな人間ではないか」を絞ることはできる。まず、通りすがりの異常者ではない。慢性的な栄養失調は、長期間の同居を意味する。骨の成長停止線は、数年単位の話だ。
次に、単独で衝動的に殺してそのまま逃げた人間でもない。遺体は洗われ、髪を切られ、爪を切られ、毛布に包まれ、箱に入れられ、市内をかなり移動して捨てられている。この一連の作業には時間と、車と、そして「身元を割られたくない」という明確な計算がある。パニックの中に、冷静な部分が残っており、三つめ。遺棄場所の選び方が中途半端だ。
フォックス・チェイスのあの藪は、たしかに人目につきにくい。だが完全な山奥ではない。ゴミが捨てられている、地元の人間が普通に出入りする場所だ。本気で隠すつもりなら、もっといい場所はいくらでもあった。ここから読めるのは、犯人がその土地にある程度の土地勘を持ちながら、そこまで綿密に計画したわけでもない、ということだ。
四つめ。段ボール箱が「バシネットの空箱」だったという事実。これは意味深長だ。赤ん坊用の揺りかごの箱を、四歳児の棺として使った。犯人がその箱を持っていたということは、その家に最近赤ん坊が来たか、来る予定があったか、あるいは単に近所の誰かが捨てた箱を拾ったかのどれかだ。
前二者なら、捜査対象は劇的に狭まる。だが一九五七年の捜査で、十二箱の行方は追い切れなかった。五つめ。手足のふやけ。これは犯人が遺体を水につけたことを意味する。
風呂で死んだのか、死後に洗ったのか、そのどちらかだ。「エム」の証言が捜査員に効いたのは、この点をきれいに説明していたからである。これらを重ねると、浮かんでくるのは「日常的にこの子を養い、日常的に虐待し、そして日常が破綻した瞬間に隠蔽に走った、車を使える大人」という像だ。それが実の親か、預かり親か、施設関係者か。そこから先は、まだ誰にも言えない。
「エム」の証言を、いま読み直す
身元が判明したあと、「エム」の証言はどう位置づけ直されるべきか。まず、彼女が語った「人身売買組織から三千ドルで買った」という骨格は、かなり苦しくなった。ジョゼフには実の両親がいて、出生記録があり、母親は同じ市内で普通に暮らして結婚し、別の子どもを育てていたのだ。一方で、彼女が語った細部のいくつかは、当時公表されていなかった捜査情報と一致していた。
ベイクドビーンズ、風呂場、髪と爪、雨の朝、そしてナンバープレートを隠した通りすがりの男である。ここは今でも説明がつかない。考えられる可能性は三つある。ひとつ、彼女の話の一部が本当で、細部の記憶が別の記憶と混線している。ふたつ、彼女が事件の詳細をどこかで読み、それが自身の被虐待体験と結びついて記憶として定着した。
みっつ、通りすがりの男の目撃供述が、彼女の証言前にどこかで公になっていたのだ。捜査当局はこの線を裏付けられず、そして彼女は身元がメディアに漏れて以降、協力を止めた。それが現状だ。念のためもう一度書く。「エム」の証言は現在も裏付けの取れていない未確定情報であり、彼女が語った家族が犯行に関与したと確認された事実は存在しない。
そして、この件で最も真面目に考えるべきことがある。彼女は虐待の被害を訴えた当事者でもあった。証言の信頼性が問われることと、その人が受けた被害が軽んじられることは、まったく別の問題だ。真偽が確定しない証言の扱いは、いつもこの二つを取り違えないところから始まる。
この事件が、未解決事件報道に残した宿題
二〇二二年から二〇二三年にかけて起きたネット上の騒動は、この事件が残した最も現代的な遺産だ。構図はこうだ。警察は、証言を引き出すために被害者の実名を公表する必要がある。しかし実名を公表すれば、その姓を持つ実在の家族が、証拠のない加害者候補として不特定多数に晒される。両親の名前を伏せても、姓が出た時点で系図データベースを使えば数時間で候補は絞れてしまう。
素人の遺伝子系図学が、その気になれば警察と同じ道を歩けるようになったからだ。しかも今回、元警察幹部という肩書きを持つ人物のブログが、その拡散の起爆剤になった。専門家の権威と、検証されていない推測が同じパッケージで流れると、受け手はそれを見分けられない。これは、この事件に固有の問題ではない。遺伝子系図捜査が普及するほど、同じ構図はあらゆる未解決事件で繰り返される。
被害者に名前を返す技術は、同時に、無実の親族に的を描く技術でもある。考察を楽しむのは自由だ。この記事だってその楽しみを共有している。ただ、実在の家族の名前を並べて「こいつが怪しい」とやった瞬間に、それは考察ではなく加害になる。その線は、思っているよりずっと手前にある。
六十九年目に、何が残ったか
一九五七年二月に藪の中で少年を抱き上げたサム・ワインスタインは、二〇〇四年に亡くなった。九年間台帳をめくったウィリアム・ケリーも、三十六年を注ぎ込んだレミントン・ブリストウも、最初に現場に立ったエルマー・パーマーも、みな答えを見ずに世を去った。粘土で少年の顔を復元したフランク・ベンダーは二〇一一年に亡くなっている。彼らは全員、間違った仮説を追っていた。
里子ホームも、シンシナティの家も、メンフィスの家族も、女の子として育てられていたという読みも、正解ではなかったのだ。それでも、彼らがいなければ二〇二二年は来なかった。なぜなら、彼らが遺骨を掘り起こす手続きを取り、遺骨を保存させ、事件を「閉じさせなかった」からだ。一九九八年の掘り起こしがなければ検体はなかった。
ヴィドック協会が改葬費用を出さなければ、遺骨は無縁墓地の記録の中で埋もれていたかもしれない。二〇一九年に二度目の掘り起こしを認めさせた執念がなければ、ライプツィヒの研究所にたどり着く骨はなかった。推理は全部外れたのだ。だが、執念は無駄ではなかった。この事件が最終的に教えるのは、たぶんそれだ。
正解にたどり着けない捜査にも、次の世代のために事件を生かしておくという仕事がある。ジョゼフ・アウグストゥス・ザレリは、いまアイビー・ヒル墓地に眠っている。墓石には彼の名前と、かつての呼び名である「アメリカの知られざる子」が並んで刻まれている。花とおもちゃは、いまも絶えない。殺した人間はまだ分かっていない。
彼の四年間も、まだ埋まっていない。でも、彼にはもう名前がある。六十五年かかって、それだけは取り返した。
