飛行機がまるごと一機、消えた。乗っていた115人も一緒に消えた。それが1987年11月29日の話で、いまが2026年。三十八年以上たった。なのに遺体はひとかけらも家族の手に戻っていないし、機体も正式には引き揚げられていない。
犯人とされる女性は死刑判決を受けたあと特赦になって、手記を出して、結婚して、いまも韓国のどこかで暮らしている。そして韓国国内では「あの事件は作り話だ」と主張する人たちが、いまだに声を上げ続けている。こんな事件、そうそうない。ミステリー事件簿と銘打ってはいるけれど、これは謎解きの気持ちよさで終わる話じゃない。読み終わったあと、たぶんちょっと嫌な気分になる。
それでも書く。書かないと、また忘れられるからだ。
- バグダッドの深夜、その機体に乗っていたのは「帰る人」ばかりだった
- 「定刻にバンコク到着、時間と位置は正常」――その数分後に消えた
- 空港でやたら目立っていた、あの「日本人の父娘」
- バーレーンの二日間、二人はまだ逃げ切れると思っていた
- 出国審査の手前で偽装は崩れ、片方だけが生き残った
- ソウルに降り立った女、その翌日に投票日が来た
- 「私は中国人です」――八日間、彼女は嘘をつき続けた
- 動機は五輪だった、というにはあまりに不器用な作戦
- ベオグラードの空港で、危うく全部終わりかけた話
- なぜ「父娘」だったのか、その偽装は三年前から仕込まれていた
- 彼女に日本語を教えた「恩恵先生」は、いったい誰だったのか
- 十五枚の写真のなかから、彼女は迷わず七枚目を指さした
- 1988年1月から2月へ、世界が三十日で動いた
- 死刑判決から特赦まで、たった二週間ちょっと
- 印税と手記と、赦された人間の残りの人生
- 「虹工作」――事件そのものより後味が悪い、一枚の文書
- それでも捏造説は消えない、消えないだけの理由がある
- 遺族も一枚岩ではない、という話をしておく
- 2020年1月、水深五十メートルで何かが映った
- クーデターと予算削減と、また過ぎていく季節
- 三十八年、遺骨はひとかけらも帰っていない
バグダッドの深夜、その機体に乗っていたのは「帰る人」ばかりだった
1987年11月28日の夜。イラクのバグダッド。中東の空港というと今はきな臭いイメージがつきまとうけど、この頃のバグダッドは韓国人労働者にとって「稼ぎ場所」への入口だった。イラン・イラク戦争の真っ最中でありながら、韓国の建設会社は中東各地に大量の作業員を送り込んでいた。砂漠に道路を通し、プラントを建て、住宅を建てる。
汗と埃と、家族に送る仕送り。そういう世界だ。大韓航空858便は、そのバグダッドを23時27分に離陸した。ボーイング707、登録記号はエイチエル7406。アブダビとバンコクを経由してソウルの金浦空港へ向かう、長い長い帰路だ。
乗客と乗員あわせて115人。外国籍はたった2人で、残りは全員が韓国人。しかも大半が、中東の現場から契約期間を終えて帰ってくる労働者たちだった。ここがこの事件のいちばん苦い部分だと思う。乗っていたのは政治家でも軍人でも要人でもない。
何年も家族と離れて働いて、やっと帰るところだった人たちだ。荷物には土産が入っていただろう。機内で眠りながら、明日の朝には家族の顔が見られると思っていただろう。その人たちが、自分たちとは何の関係もない政治の都合で消された。そして機体には、翌年に控えたソウルオリンピックのエンブレムが描かれていた。
この細部が、後に恐ろしく重い意味を持ってくる。
「定刻にバンコク到着、時間と位置は正常」――その数分後に消えた
858便はアブダビで一度降りている。現地時間の11月29日午前2時44分に到着し、3時40分ごろ再び離陸。ここから先はバンコクへ向かう長距離区間だ。インド洋の上、ベンガル湾からアンダマン海へと抜けていくルートである。最後の交信は、ビルマのラングーン管制所に対して行われた。
「定刻にバンコク到着、時間と位置は正常」。パイロットの口調はいたって平常だっただろう。何も起きていない。何も起きるはずがない。次の瞬間、858便は消えた。
韓国時間で29日の午後2時5分ごろ、アンダマン海の上空。ラングーンから南へ220キロほどの海域だとされている。そこから先が、この事件が「事件」であると同時に「傷」であり続けている理由だ。捜索が、まともに行われなかった。ブラックボックスの発信音を探る作業すら実施されなかったと遺族側は主張している。
そして当時のチョン・ドゥファン政権は、事件発生からわずか十日ほどで捜索を事実上打ち切った。遺体はひとつも見つからないまま。事件発生から半月ほど経ってから航路の近くで救命ボートらしきものが見つかった。だが、そのときにはもう現地に派遣された政府の調査団は引き揚げたあとだった、とも言われている。飛行機が落ちたら、普通は徹底的に探す。
それが遺族への最低限の礼儀だし、原因究明の第一歩でもある。なのに探さなかった。この一点が、後年「おかしいだろう」という声を生み続けることになる。
空港でやたら目立っていた、あの「日本人の父娘」
事件の直後、捜査当局が引っかかったのは乗客名簿そのものではなかった。アブダビで降りた外国人乗客15人のリストだ。そのなかに、日本の旅券で入国記録を残した二人組がいた。蜂谷真一、70歳前後の男性。蜂谷真由美、25歳前後の女性。
書類上は父娘ということになっていた。引っかかった理由が、地味に生々しい。入国カードの書き方だ。日本人旅行者はふつう姓を書く。ところがこの二人は「シンイチ」「マユミ」と名前だけを記入していた。
それだけならうっかりで済むかもしれない。だが他にも変な点が積み重なる。北朝鮮が海外工作の拠点としてよく使うとされていたウィーンとベオグラードを経由していること。最終目的地がバーレーンなのに、ベオグラードから直行できるルートを取らず、わざわざバグダッドとアブダビで何時間も乗り継ぎ待ちをして、あの858便に乗っていること。
そして決定的だったのが、858便の消息が伝わった直後、この二人が宿泊先のホテルを予定より早く飛び出そうとしたことだった。逃げる人間の動きだ。バーレーンの韓国大使館は、二人が持つ日本旅券の真偽を現地の日本大使館に緊急照会した。ここで偽造が判明する。実在する日本人の身分情報を流用した旅券だったのだ。
国境を越える偽装というのは、パスポートという一枚の冊子に全体重を預ける行為でもある。そこが割れたら終わりだ。
バーレーンの二日間、二人はまだ逃げ切れると思っていた
時系列を戻す。11月29日の午前、二人はアブダビからバーレーンに到着している。実はこのバーレーン行き自体が偽装ルートで、本来の逃走経路はアブダビからアンマン経由でローマへ抜けるはずだった。ところがアブダビの空港で、案内係が親切心から二人の旅券と航空券を預かり、バーレーン行きの便を早い時間に振り替えて手続きを代行してしまう。二人は返してくれと頼んだが、断られた。
親切が仇になる。こういうディテールが、作り話ではなかなか出てこない生々しさを持っている。日曜日でバーレーンの航空会社事務所は休みだった。二人はすぐに出国できず、空港警察の助けを借りて市内のホテルに宿を取る。翌30日は観光と買い物をして過ごした。
夜になって、ホテルに立て続けに問い合わせの電話が入る。旅券のデータと旅程を尋ねる電話。日本大使館の職員からの電話だ。韓国大使館の職員が訪ねたいという電話。そして30日の夜、韓国大使館の書記官が実際にホテルの部屋を訪ねてくる。
男のほうと書記官は、英語と漢字の筆談でやりとりをした。この筆談のなかで、書記官は858便が消息を絶ったことを伝える。二人がその事実を知ったのは、このときだったとされる。つまり彼らは、自分たちの「任務」が成功したことを、韓国の外交官の口から聞かされたことになる。それでも男は落ち着いていた。
予定通り翌朝の便でバーレーンを出ればいい、何も問題ないと女に言ったという。だが、問題はもう全部起きていた。
出国審査の手前で偽装は崩れ、片方だけが生き残った
12月1日の朝7時前、二人はホテルを出て空港へ向かった。搭乗手続きを終え、出国審査へ向かう途中、7時45分ごろに止められる。日本大使館の職員とバーレーンの空港保安要員によって、偽造旅券所持者として出国を阻止されたのだ。そこから先は、書くのがつらいところだ。二人は捕まる直前、毒物を仕込んだ煙草を持たされていた。
任務が露見した場合はそれを使え、という指示があったとされる。手段そのものは書かない。書く必要もない。結果だけ言えば、男は死亡し、女は死にきれなかった。警官がとっさに止めたことで、致死量に届かなかったのだという。
生き残ったのは25歳の女のほうだった。この一人が生き残ったかどうかで、事件のその後がまるごと変わってしまう。彼女が死んでいたら、858便は「原因不明で消えた飛行機」のまま歴史に埋もれていた可能性が高い。北朝鮮の関与も、日本人拉致の話も、たぶん表に出てこなかった。歴史というのは、こういう偶然の上に乗っかっている。
ぞっとする。
ソウルに降り立った女、その翌日に投票日が来た
バーレーン当局は12月15日、生き残った女の身柄と、死亡した男の遺体、そして証拠物一式を韓国側に引き渡した。彼女は白いマスクをつけ、護送要員に両脇を支えられるようにして金浦空港のタラップを降りてきたのだ。その映像は、その日の夜のテレビニュースで大々的に流れ、翌16日の朝刊の一面も、同じ写真で埋まった。そして12月16日というのは、韓国の第13代大統領選挙の投票日である。十六年ぶりの直接選挙だった。
前年から続いた民主化運動の末にようやく勝ち取った直選制で、軍出身の与党候補ノ・テウと、野党の二人の有力候補が争っていたのだ。その投票日の前夜と当日の朝に、北朝鮮の工作員とされる女が護送されてくる映像が全国に流れた。これがどれほどの効果を持ったか、想像するのは難しくない。
引き渡しのタイミングを選挙前日に間に合わせるため、韓国側が外交的に相当な努力を注いだ形跡が、後年の再調査で当時の外交電文から確認されている。この事実は、事件そのものが北朝鮮の犯行だったという結論とはまったく別に、韓国社会に長く尾を引く。
「私は中国人です」――八日間、彼女は嘘をつき続けた
ソウルに着いた直後の彼女は、毒物の後遺症と衰弱でひどい状態だった。目を閉じて横たわったまま、食事も供述も一切拒否した。翌日から中国語と日本語で断片的に話し始める。名乗ったのは中国人としての偽名だった。両親を亡くした中国人の孤児で、日本語は日本で覚えた。
そういう筋書きだったという。この嘘が崩れていく過程が、また面白い。というと不謹慎かもしれないが、取り調べというのは結局、細部との勝負なのだと痛感させられる。ひとつは中国語だ。彼女が話すのは南方系の中国語で、自称している出身地とまるで噛み合わなかった。
もうひとつは日本の生活知識だ。日本に住んでいた頃に使っていたテレビのメーカーは何かと聞かれて、彼女は日本には存在しない北朝鮮製のブランド名を口にしてしまった。日本人化の教育は徹底していたが、教えた側が「日本のテレビの銘柄」までは仕込めなかったということだ。教育の穴は、たいてい教えた人間の知識の限界の形をしている。決定打はもっと即物的だった。
ソウルの街だ。彼女は取り調べの過程で外に出され、ソウルの繁華街を見せられている。北朝鮮で叩き込まれてきた「南朝鮮は貧しく荒廃している」という前提が、目の前の光景と一致しなかった。ネオン、車、商店、人。そこで彼女のなかの何かが折れた。
ソウル到着から八日後の12月23日ごろから、彼女は本格的に供述を始める。自分は朝鮮労働党中央委員会の調査部に所属する特殊工作員キム・ヒョンヒであること。そして、あの飛行機を落としたこと。
動機は五輪だった、というにはあまりに不器用な作戦
彼女の供述と、その後の起訴内容によれば、指令が下りたのは1987年10月7日。平壌市内の招待所と呼ばれる施設で、キム・ジョンイルの直筆指令が伝達されたとされる。目的は、翌年のソウルオリンピックの単独開催を妨害すること。参加申請を萎縮させ、韓国は危険な国だという印象を国際社会に植え付ける。そのために韓国の旅客機を落とせ、と。
実行日と便名まで具体的に指定されていたという。正直に言うと、この動機説明にはずっと違和感が付きまとってきた。当時、韓国政府と接触していた米国大使館の関係者ですら、動機を測りかねていた記録が残っている。年末の大統領選挙で北朝鮮が望んでいたのは野党の勝利のはずなのに、こんなテロを起こせば与党に有利に働くのは目に見えている。
オリンピックまでまだ八か月以上あるのに、なぜこのタイミングで最高強度の攻撃をやるのか。当時の韓国側の当局者自身がそう首をかしげていた、と米国側の電文は伝えている。つまり「動機の不自然さ」は、陰謀論者が後から言い出した難癖ではない。事件当時、韓国政府の内部にもあった率直な疑問だったのだ。ここは押さえておいたほうがいい。
彼女によれば、二人は11月12日に平壌の順安飛行場を発ち、モスクワ、ブダペスト、ウィーンと移動している。国境を越えるたびに旅券が入れ替わった。北朝鮮の旅券で出て、車内で返上し、蜂谷名義の日本旅券を受け取る。そのままウィーンからベオグラードへ入り、11月27日に別動の案内役から爆発物を受け取った。小型のラジオと、酒瓶に見せかけた液体。
手口の詳細は書かない。書かないが、要するに「見た目がただの旅行者の持ち物」であることが全てだった。
ベオグラードの空港で、危うく全部終わりかけた話
この作戦、実は途中で一度バレかけている。ベオグラードの空港で、ラジオに入っていた電池が保安検査で没収されそうになった。バグダッドの空港でも同じことが起きて、保安要員が電池をゴミ箱に捨ててしまったのだ。彼女がそれを拾い、男が電池をラジオに戻して、スイッチを入れて音が鳴るのを見せて抗議した。保安要員は申し訳なさそうな顔をして通した。
このくだり、供述として細かすぎて、逆に妙にリアルだ。当時の空港保安のゆるさも透けて見える。1987年というのは、機内持ち込みの電子機器を一つ一つ疑う時代ではなかった。だからこそ、この事件は世界の航空保安の歴史を一段階変えた事件でもある。二人は11月28日の深夜、バグダッドで858便に乗り込んだ。
座席は普通席の7Bと7C。荷物を頭上の棚に上げ、アブダビでそのまま置いて降りた。時限装置は数時間後に合わせてあった、とされる。この「置いて降りる」という一行が、115人の運命を決めた。
なぜ「父娘」だったのか、その偽装は三年前から仕込まれていた
ここでひとつ、地味だが重要な話をしておきたい。なぜ二人は「父と娘」だったのか。答えは単純で、そのほうが自然だからだ。中年をとうに過ぎた男と、二十代の女が二人で長距離を移動する。恋人だと思われれば人の記憶に残る。
同僚だと言えば職業を聞かれる。だが父と娘なら、誰も何も聞かない。空港でも、ホテルでも、税関でも、視線がすっと滑っていく。人間の注意というのは、説明のつく組み合わせの前ではあっさり眠るのだ。そしてこの父娘という設定は、事件の三年以上前から準備されていた。
彼女の供述によれば、二人が父娘の工作組として編成されたのは1984年の7月。そこから海外での適応訓練が始まる。同年8月に平壌を発ち、モスクワ、ブダペスト、ウィーンを経由して、コペンハーゲン、フランクフルト、チューリヒ、ジュネーブ、パリを回り、香港経由でマカオへ。十月に平壌へ戻るまで、二か月近い「実習旅行」だった。
その後も1985年から1987年にかけて、中国の広州やマカオで語学と生活訓練を続けている。この間、彼女は二種類の旅券を使い分けていた。北朝鮮の旅券と、蜂谷真由美名義の日本旅券だ。国境を越えるたびに担当者へ返し、また受け取る。身分そのものが備品として管理されていたわけだ。
彼女に与えられた「日本人としての履歴」も細かかった。父は運送会社の役員で、母は数年前に死亡している。本籍と住所、通った学校、大阪へ嫁いだ姉がいること。全部暗記させられた。名前も、生年月日も、家族構成も、全部他人のものだ。
それを七年かけて身体に入れる。こういう話を読むと、彼女が捕まったあと最初に中国人だと名乗ったのは、単なる嘘というより訓練された反射だったのだろうと思えてくる。何重にも身分をかぶせられた人間が、最後にどれが本当の自分かを言うのに八日かかった。その八日間が、この事件の全部を決めた。
彼女に日本語を教えた「恩恵先生」は、いったい誰だったのか
ここから日本の話になる。そして、この事件が日本人にとって他人事でなくなる分岐点でもある。キム・ヒョンヒは供述のなかで、こう語った。自分は日本人になりすますための教育を、日本人の女性から一対一で受けた。期間は1981年7月から1983年3月まで。
約一年八か月、共同生活をしながら、一日十七時間半にも及ぶ日程で日本語と日本の生活習慣を叩き込まれた、と。言葉だけではない。箸の持ち方、化粧の仕方、立ち居振る舞い、日本人のものの考え方。そういうものを丸ごと移植する教育だ。彼女は日本に一度も行ったことがないのに、後年の記者会見では日本人記者と日本語で普通にやりとりができた。
それだけの水準まで仕上げられていたということだ。その教師の名前を、彼女は「李恩恵」と呼んでいた。日本の警察は、この証言をもとに失踪者の洗い直しを始める。そして辿り着いたのが、田口八重子さんという女性だった。1955年8月生まれ。
埼玉県川口市の出身で、七人きょうだいの末っ子。1978年6月、当時22歳。東京都内のベビーホテルに二歳半の娘と一歳の息子を預けたまま、忽然と姿を消していた。兄が同年7月に捜索願を出したが、手がかりはゼロだった。子どもを預けたまま消えた母親。
事件当時、それがどう受け取られたかは想像がつく。だが実際に起きていたのは、まったく別のことだった。
十五枚の写真のなかから、彼女は迷わず七枚目を指さした
1991年5月、日本の警察はキム・ヒョンヒに十五枚の写真を見せた。誰が誰だか説明はしない。並べて見せるだけだ。彼女は迷わず七枚目を指さした。田口八重子さんが写った一枚だった。
「恩恵先生」だと。その後の照合で、彼女の語る「李恩恵」の特徴と田口八重子さんの特徴は、六十以上の項目で一致したとされる。同年5月、埼玉県警は「李恩恵」が田口八重子さんであると事実上断定する記者会見を開いた。日本人拉致問題という言葉が、国際的な外交課題として本格的に浮上する起点は、ほぼここにある。北朝鮮による日本人拉致は、それ以前から一部で指摘されてはいた。
だが、政府レベルで動かざるを得ない具体性を帯びたのは、大韓航空機爆破事件の実行犯の口から出た「先生」の話がきっかけだった。つまり、115人が乗った飛行機が落ちなかったら。あるいは実行犯が二人とも死んでいたら。田口八重子さんの名前が浮かび上がるのは、もっとずっと遅れていた可能性が高い。この因果の絡まり方は、どう受け止めればいいのか正直わからない。
2002年9月、北朝鮮は日本人拉致を公式に認めた。田口八重子さんについては「1986年7月に交通事故で死亡した」と説明した。だが2004年11月の日朝実務者協議で、北朝鮮側は死亡確認書とされる文書について、本来存在しないものを作成したことを認めている。説明の土台そのものが崩れているということだ。田口さんの兄は拉致被害者家族会の代表を務め、長男は成人してから公の場で母親の名前を訴え続けた。
キム・ヒョンヒは2009年3月に韓国の釜山で兄と長男に面会し、2010年7月には日本を訪れて拉致被害者の家族と会っている。このときの来日は特例的な措置で、警備の規模や待遇をめぐって国会でも論争になった。面会の場で、彼女は田口さんの長男に「お母さんは生きています」「希望を持ちなさい」と繰り返したという。飛行機を落とした人間の口から、拉致された女性の息子へ向けて出た言葉だ。
この構図を、どう呼べばいいのか。加害と証言が、同じ一人の人間のなかに同居している。
1988年1月から2月へ、世界が三十日で動いた
自白から先の展開は速い。1988年1月15日、韓国の国家安全企画部が捜査結果を正式に発表した。北朝鮮の指令による犯行であり、実行犯二人は朝鮮労働党中央委員会調査部の工作員であるという内容だ。同日、彼女の記者会見も行われている。日本の記者と日本語でやりとりするその姿は、日本国内にも強い衝撃を与えた。
その五日後の1月20日、米国が北朝鮮をテロ支援国に指定した。当時の米国務省報道官は「北朝鮮との貿易はもともと極小なので実質的な経済効果は大きくない。これは象徴的な措置だ」と率直に述べている。だが象徴だからこそ効く場面がある。この指定は、2008年10月に解除されるまで二十年九か月続いた。
1月26日には日本が制裁措置を発表。2月4日には米下院で事件に関する公聴会が開かれた。そして2月16日と17日、国連安全保障理事会。前に書いた通り、決議は採択されずに閉幕した。わずか一か月で、ひとつの航空機事件が国際政治の主要議題まで駆け上がったことになる。
そのスピード自体が、当時の東西冷戦末期の空気を物語っている。ソウルオリンピックは、冷戦下で二度続けてボイコット合戦になった大会のあと、久しぶりに東西両陣営がそろって参加する見込みの大会だった。そこに冷や水を浴びせようとした、というのが公式に採用された動機の骨格だ。結果的に、オリンピックは予定通り開催され、過去最多に近い国と地域が参加し、大成功と評価された。テロは目的を達成しなかった。
ただ、目的を達成しなかった代わりに、115人が死んだ。それだけが残った。
死刑判決から特赦まで、たった二週間ちょっと
裁判の経過を追っておく。彼女が起訴されたのは1989年2月3日。争点は、上からの指令に従っただけの人間にどこまで刑事責任を問えるかという点だった。裁判所は、思想教育を受けていたことは法律上の強要にはあたらないと判断し、死刑を選択する。判決が確定したのは1990年3月27日。
そして4月12日、ノ・テウ大統領による特赦。確定からわずか二週間ちょっとだ。理由はこうだった。本当の犯人は北朝鮮の政権であり、彼女はその道具として使われた被害者でもある、と。米国側の外交文書にも、韓国政府が彼女を「北朝鮮政権の犠牲者」として扱っているという評価が残っている。
遺族は当然、猛烈に反発した。115人が死んでいる。そのうち一人も遺体が戻っていない。なのに実行犯は生きて、しかも自由になる。この理不尽を「政治的な寛容」という言葉で飲み込めというのは、無理な話だ。
特赦の日から、遺族と彼女の関係は決定的にこじれた。そのこじれは、いまも解けていない。
印税と手記と、赦された人間の残りの人生
特赦のあと、彼女は手記を出した。日本でも上下二巻で翻訳出版され、大きな話題になった。彼女は印税を航空機事件の遺族補償に充てると表明している。その後、1997年に元情報機関職員の男性と結婚した。子どもがいる。
公の場からはほとんど姿を消し、韓国国内で保護を受けながら暮らしていると報じられてきた。北朝鮮情勢について時折コメントを出すことはあった。2011年の東日本大震災の際には日本へ義援金を送っている。一方、北朝鮮に残された彼女の家族は収容所に送られたとされる。工作員の家族に対する連座は、北朝鮮の統治の常套手段だ。
彼女が生き延びたことの代償を、彼女ではない誰かが払わされた可能性が高い。彼女の人生をどう評価するかは、たぶん人によって割れる。悔いていると受け取る人もいれば、遺族の前で「悔いている」と言えること自体が特権だと考える人もいる。そして2018年には、彼女が遺族側の団体を親北的だと表現したことをめぐって、市民団体側から名誉毀損で訴えられている。和解には至っていない。
三十八年たっても、この事件の関係者たちは同じ場所で立ちすくんだままだ。
「虹工作」――事件そのものより後味が悪い、一枚の文書
ここから、韓国国内でこの事件が「終わらない」最大の理由に入る。2004年11月、韓国の情報機関である国家情報院に、過去の事件を検証するための委員会が設置された。過去に中央情報部や国家安全企画部が関わった事件を洗い直す組織で、大韓航空機爆破事件も対象七件のひとつに選ばれた。2006年8月1日の中間報告、そして2007年10月24日の総合報告書。ここで出た結論は二段構えだった。
ひとつ。事件そのものは北朝鮮の工作員によるものである。当時の安全企画部が自作自演したという疑惑や、事前に察知しながら見過ごしたという疑惑については、それを裏付ける手がかりが一切見つからなかった。委員会はこれをはっきり否定した。彼女が北朝鮮出身であることも、1972年に平壌で開かれた南北の会談の際に花束を渡した子どもたちのなかに中学生の彼女が写っている写真を発掘することで裏づけている。
もうひとつ。だが同時に、この事件は当時の政権によって選挙のために露骨に政治利用されていた。事件発生からわずか三日後の1987年12月2日、安全企画部の主導で「大韓航空機爆破事件北傀陰謀暴露工作」という計画文書が作成されていた。通称「虹工作」。まだ北朝鮮の犯行だという確証が取れていない段階で「北の背後推定説」を発表して大々的に報道させる。
大統領選挙の投票日である12月16日より前に捜査の中間発表を行う、事件を一部の候補を糾弾する材料として使う。そういう内容が並んでいたという。実際、遺族は北朝鮮糾弾の決起集会に何度も動員されている。さらに委員会は、当時の安全企画部の進め方も指摘した。彼女の供述だけに依存し、検証を経ないまま急いで発表している。
そのせいで捜査結果に一部の誤りが生じ、それが不必要な疑惑を生む原因になった。
1988年1月の捜査発表で提示された写真の一部が、事実確認をしないまま宣伝に使われた誤りだったことも認めている。要するに、こうだ。犯行そのものは北朝鮮のものだった。だが、それを扱った当時の韓国政府のやり方は真っ黒だった。この二つは矛盾しない。
同時に成り立つ。そして、この「同時に成り立つ」という構図こそが、事件を三十八年間ほどけない結び目にしている。
それでも捏造説は消えない、消えないだけの理由がある
北朝鮮は事件直後から一貫して否定してきた。1987年12月5日の声明を皮切りに、1988年1月の捜査結果への全面反論、同年2月の国連安全保障理事会での批判まで、少なくとも六回の公式声明を出している。主張は「韓国当局が大統領選挙に勝つために仕組んだ茶番だ」というものだ。日本でも当時、一部の政党やメディアが捏造説に同調した。
だが韓国国内で捏造説が生き延びてきた理由は、北朝鮮の主張に賛同しているからではない。もっと単純で、もっと切実だ。物証がないからである。まず、ブラックボックスが回収されていない。飛行機事故の原因究明の中心にあるべき記録装置が、いまだに見つかっていない。
次に、遺体が一体も家族の手に戻っていない。遺品のひとかけらすら渡されていない。そして機体そのものが、正式には確認されていない。1990年に海底から回収されたとされる胴体上部の外板にオリンピックのエンブレムが確認されたという話がある。だが、遺族側はこれを含めた当時の物証全般に強い疑問を示してきた。
国家情報院の委員会が2004年と2006年に現地探査を行った。だが、海中の岩の塊を機体だと発表してしまったこともあり、遺族の不信はむしろ深まったのだ。国連安保理での扱いも、遺族側の疑念を支えてきて、1988年2月16日と17日の二日間、安保理はこの事件を議題にした。韓国と日本が緊急会合を要請し、北朝鮮も参加した。議論は大きく四つに割れる。
北朝鮮のテロだとする韓国、日本、米国。韓国の自作自演だとする北朝鮮だ。安保理で扱うこと自体に反対したソ連や中国。そして「韓国が行った捜査には問題があり、独立した深いレベルの調査が必要だ」とする西ドイツ、イタリア、ザンビアなど。結局、決議は採択されずに終わった。
国際社会の場で「北朝鮮の犯行である」という結論が正式に確定したわけではない、という事実が残った。もっとも米国は1988年1月20日に北朝鮮をテロ支援国に指定しており、日本も同月に制裁措置を発表している。米国の当局者が独自にキム・ヒョンヒを直接調べ、彼女が北朝鮮の工作員だと結論づけていたことも、後年公開された外交文書で明らかになった。国際的な政治判断としては、ほぼ決着していたと言っていい。
それでも遺族が求めているのは、政治判断ではなく現物だ。人が乗っていた機体。そこに残っているかもしれない骨。それだけである。
遺族も一枚岩ではない、という話をしておく
この事件を語るとき、つい「遺族」とひとまとめにしてしまう。だが実際には、遺族の側も長い年月のなかで割れてきた。韓国には犠牲者の家族による団体が複数ある。事件は北朝鮮のテロだったという公式結論を受け入れたうえで、遺骨の捜索と機体の確認を最優先に求めるグループ。そして公式結論そのものに疑いを持ち、当時の政権の関与も含めた全面的な再調査を求めるグループ。
両者は近い時期に同じ場所で追悼式を開くこともあれば、別々に動くこともある。2006年に第一次の真実和解のための委員会へ真相究明を申請したのは後者の流れで、2007年7月11日に調査開始が決定された。調査で焦点とされた論点は五つだった。安全企画部が事前に知っていたか、あるいは介入したのか。858便が消えた原因は爆破なのか、墜落なのか、失踪なのか。
虹工作の実態は何か。遺族が政権によって反北宣伝に利用され、監視や尾行といった人権侵害を受けたのか。そして実行犯とされる女性が本当に北朝鮮の工作員なのか。だがこの調査は、遺族側が途中で申請を取り下げる形で終わっている。そして2021年10月13日、第二次の委員会に対して改めて真相究明が申請された。
前回から十四年ぶりの再申請だ。このとき遺族が委員長に伝えた要望のひとつが「残骸と推定される物体の捜索に委員会も加わってほしい」というものだった。真相の究明と、遺骨の捜索。この二つは彼らのなかで分かれていない。一方で、公式結論を受け入れている側の遺族が求めているのも、結局は同じ物体だ。
機体を確認してほしい、骨を返してほしい。立場が違っても、要求の最終形は一致している。海の底の同じ一点を、違う理由で見つめている。この構図は、あまり報じられない。報じられるのはいつも「陰謀論をめぐる対立」の部分ばかりで、対立する双方が同じものを待っているという事実は抜け落ちる。
だがそこを抜いたら、この三十八年の話は骨格を失うと思う。
2020年1月、水深五十メートルで何かが映った
長い停滞を破ったのは、政府でも情報機関でもなかった。地方局の取材班だ。2020年1月、韓国の放送局の大邱の取材チームが、専門家二人を伴ってミャンマー沖のアンダマン海に入った。そして海岸から30キロほど、水深およそ50メートルの海底で、旅客機の残骸としか見えない物体を水中撮影することに成功する。翼のような形をした長い構造物と、エンジンらしき部品。
位置は、858便の当時の航路からそう外れていない。遺族が根拠として挙げたのは二点だった。撮影された左翼のエンジンの外形が858便の機種と一致すること。そして国際民間航空機関の記録上、第二次世界大戦以降にアンダマン海で墜落した旅客機は858便しかないこと。映像を見た遺族は眠れなかったという。
三十二年間、遺品のひとかけらも受け取れなかった人たちが、初めて「探せば見つかるかもしれない場所」を目にしたのだ。同月30日、遺族の団体はソウルの政府庁舎前で記者会見を開き、即時の引き揚げと調査を要求し、当時の大統領も動いた。同年11月には韓国とミャンマーの当局が確認作業への協力で合意し、政府レベルの捜索団が編成され、23億ウォン余りの予算まで組まれたのだ。出発日程も決まった。
2021年2月、いよいよ出発というその直前だったのだ。
クーデターと予算削減と、また過ぎていく季節
2021年2月1日、ミャンマーで軍事クーデターが起きた。政変と、それに続く内戦。捜索は無期限で延期された。その後の経緯は、読んでいて息が詰まる。2022年に韓国で政権が交代すると、外交部は捜索関連の予算を全額削減した。
ミャンマーの情勢が好転する見込みがないという理由だったのだ。二年間使われなかった23億ウォンの予算は、その年の暮れに不用予算として国庫に戻された。国会で「遺族の願いに背を向けるものだ」という批判が出たのだ。遺族は毎年11月29日に追悼式を開き、そのたびに「まだ何も進んでいない」と繰り返すことになった。2024年11月の37周忌。
遺族会の会長は「機体らしきものを見つけてから五年近く経つのに、まだ捜索ひとつできていない」と絞り出すように語った。この会長は、亡くなった乗務員の配偶者だ。2025年に韓国で再び政権が変わると、風向きが少し変わった。同年9月11日、大統領の就任100日会見でこの件が質問に出る。大統領は「まったく考えたことがなかった話なので、今日の質問をきっかけに考えてみる」と答えた。
即答ではなかったが、扉は開いたのだ。11月29日の38周忌の追悼式には、大統領室の高官が歴代政権の関係者として初めて出席し、この問題が解決できていないことに遺憾の意を表明した。遺族側は「2026年1月末までに、まず機体確認のための小規模な捜索隊だけでも出してほしい」と要請した。現地の海は1月と2月が最も濁りが少なく、それを逃すと潮の流れが変わって撮影すら困難になるという事情がある。
しかも海底の物体は漁網に覆われているとの情報もあった。2026年に入ってからも、外交部の回答は「ミャンマーの内戦状況と調査団の安全確保を考慮し、慎重に検討中」というものだったのだ。1月末の期限は結局過ぎた。そして2026年の夏、大統領室の担当高官がインタビューで、乾期の始まる今年の秋、9月中に捜索を実施する方向で調整していると明らかにした。目的は引き揚げではなく「確認」。
2020年に撮影された物体には、それが858便だと断定できる標識が写っていなかった。だから今回はエンブレムなり登録記号なりを確認し、あの機体が本当に858便なのかを確定させる。原則は「人道主義」で、ミャンマー側もその原則で合意しているという。いまが2026年9月。つまり、まさにその季節に入ったところだ。
三十八年、遺骨はひとかけらも帰っていない
この記事を書いている時点で、確定している事実を並べ直しておく。115人が死んだ。遺体は一体も家族のもとに戻っていない。ブラックボックスは見つかっていない。機体は正式には確認されていない。
実行犯とされる一人は特赦を受けて生きている。共犯とされたもう一人は現場で死んだ。当時の韓国政府が事件を選挙に利用した文書は実在が確認された。北朝鮮は一貫して否定している。国連の場で決議は採択されなかった。
韓国の情報機関の検証委員会は「北朝鮮の犯行であり、自作自演ではない」と結論づけた。それでも遺族の一部と市民団体は、いまも真相究明を求めている。遺族会の会長は「私の夫は乗務員でしたが、ほとんどの人は稼ぎに行った労働者でした」と語っている。「チョン・ドゥファン政権、ノ・テウ政権の時代から真相究明を求めてきた。だが、メディアは無視し、政府はむしろ遺族を政治的に利用した。
死亡届を出していないのに、政府が職権で三か月で処理してしまった」とも。死亡届を出せない気持ちは、想像できる。遺体を見ていないからだ。骨も見ていない。荷物のひとつも返ってきていない。
それで死んだことにしろと言われても、頭ではわかっても体が動かない。その状態のまま三十八年である。遺族の多くはもう八十代だ。時間は誰も待ってくれない。ここからは、事件の全体を一段引いた場所から眺め直しておきたい。
時系列の追いかけっこでは見えてこないものが、いくつかある。まず、この事件がなぜここまで「二重構造」になってしまったのかという話だ。普通、大きな事件には「犯人が誰か」というひとつの軸しかない。ところが大韓航空858便の場合、軸が二本ある。「誰が落としたのか」と「落ちたあと、韓国政府は何をしたのか」だ。
そしてこの二本目の軸で出てきたものが、あまりに真っ黒だった。事件発生から三日後に選挙利用の計画文書を作り、投票日前日に実行犯の護送映像を全国に流し、遺族を糾弾集会に動員する。これは陰謀論者の妄想ではなく、韓国の情報機関自身が2006年と2007年に文書で確認したことである。ここが本当に厄介なところで、二本目の軸が黒いと、一本目の軸まで疑いたくなるのが人間の自然な反応なのだ。
「選挙のためにここまでやる政権が、事件そのものを作らなかったと言い切れるのか」。この問いは論理的には飛躍している。政治利用と自作自演はまったく別のレベルの話だ。だが感情としては、あまりにも理解できる飛躍でもある。捏造説が三十八年生き延びてきた土壌は、北朝鮮の宣伝ではなく、この飛躍の自然さのなかにある。
次に、物証の欠落について。航空事故の調査では、機体の破片の変形パターン、金属の破断面、内装材に付着した残留物、そういうものを積み上げて何が起きたかを再構成する。ところが858便では、その積み上げが最初から成立していない。捜索が十日で打ち切られたからだ。飛行記録装置も音声記録装置も回収されていない。
この状態で「爆発物によって空中で分解した」と断定するのは、通常の航空事故調査の作法からすると相当に踏み込んだ判断になる。では判断の根拠は何だったのか。ほぼ、生き残った一人の供述だった。国家情報院の検証委員会も、当時の当局が供述に依存して検証なしに急いで発表したことが後の疑惑を生んだと明確に認めている。
委員会自身は当時の天候が良好だったこと、ハイジャックであれば必ず来るはずの交渉要求が一切なかったことなどから、爆発物による墜落という推定に無理はないとしている。この判断は、状況証拠としては相応に強い。ただし「無理はない」と「物証で確定した」の間には、まだ距離がある。遺族が求めているのは、その距離を埋める作業だ。三つ目。
キム・ヒョンヒという人物の位置づけについて。彼女は加害者であり、証人であり、そして北朝鮮の統治システムの産物でもある。この三つが分離できない。1962年生まれ。子役として映画に出た経歴があり、大学で日本語を学び、1980年に工作機関へ引き抜かれた。
以後七年、平壌近郊の施設で語学、格闘、そして「資本主義社会での立ち居振る舞い」を仕込まれる。クレジットカードの使い方、スーパーでの買い物の仕方、ナイトクラブでの振る舞い方。北朝鮮国内では触れることのない生活様式を、演技ではなく身体に入れる訓練だ。こういう教育を十八歳から二十五歳まで受けた人間に、「自分の頭で判断すべきだった」と言うのは、たぶん半分しか正しくない。
裁判所は思想教育を強要とは認めなかった。それは法として一貫している。同時に、大統領は彼女を道具として使われた側だと見て特赦した。この二つの判断の間に、遺族の怒りが落ちている。制度は彼女をどう扱うか決めた。
だが遺族は、その決定に一度も同意していない。四つ目に、日本にとってのこの事件の意味を整理しておきたい。日本人にとって、この事件はどこか「隣の国の悲劇」として消費されてきた面がある。だが実際には、日本は三重に当事者だ。ひとつ、実行犯が日本人になりすまし、日本の旅券を使った。
実在の日本人の身分情報が流用されたということは、名前を勝手に使われた人がこの国にいたということでもある。ふたつ、なりすましのための教育を担ったのが、日本から連れ去られた日本人だった可能性が極めて高い。みっつ、この事件がなければ、日本人拉致問題が外交課題として浮上する時期は大きく遅れていた。三つ目の点は、皮肉というより残酷と言ったほうがいい。
田口八重子さんの名前が浮かんだのは、彼女が教えた相手が飛行機を落とし、その相手が生き残って喋ったからだ。もしバーレーンの警官がとっさに手を出さなかったら、その供述は永遠に存在しなかった。人がひとり生き残るかどうかで、別の国の外交課題の有無が決まってしまう。歴史というのは、こういう理不尽な蝶番でつながっている。五つ目。
捏造説の扱い方について、はっきりさせておきたいことがある。この記事は「そういう主張が韓国国内に存在し、いまも一定の支持を得ている」という事実を書いた。それは書くべきだと思うからだ。だが同時に、韓国の情報機関の検証委員会が2007年に出した結論も書いた。安全企画部による自作自演の疑惑も、事前察知して見過ごした疑惑も、それを裏付ける手がかりは一切ない。
そういう結論だ。
この二つを並べて置くのが、いま取れる一番誠実な態度だと考えている。どちらかを消すのは簡単だ。捏造説だけ書けば刺激的な記事になるし、公式結論だけ書けば無難な記事になる。だが両方書かないと、なぜこの事件が三十八年も終わらないのかが説明できない。終わらない理由は、真相が完全に闇のなかだからではない。
公式結論はある。ただ、その結論を支えるはずの物が海の底にあって、誰も持ち帰っていないからだ。六つ目。捜索が実現しない理由の変遷を追うと、この国が何を優先してきたかが透けて見える。1987年から2019年までは、そもそも探していない。
2020年に地方局の取材班が見つけてしまってから、ようやく政府が動いた。2021年はミャンマーのクーデターで止まったのだ。2022年からは政権交代で予算そのものが消えた。2025年に再び政権が変わって、初めて大統領室の高官が追悼式に姿を見せ、遺憾の意を表明した。そして2026年、乾期に入る秋の捜索に向けて調整が進んでいる。
この四十年近い流れのなかで、遺族が求めてきたものは一貫して変わっていない。骨を返してほしい。それだけだ。真相究明とか歴史的評価とか、そういう言葉より前に、まず物理的に、家族の一部を手に取りたい。その要求が四十年近く宙に浮いている国というのは、どういう国なのか。
韓国の遺族会の関係者は、こう問うている。済州島の事件の犠牲者の遺骨も、朝鮮戦争時の民間人犠牲者の遺骨も、国が探している。なのに、なぜ858便の犠牲者だけが海の底で漂ったままなのか。答えは、たぶん誰も持っていない。七つ目に、この事件が航空保安の歴史に残したものについて。
1987年当時、旅客機の機内に電子機器を持ち込むことは何ら特別なことではなかった。
ベオグラードでもバグダッドでも、保安要員が引っかかったのは電池だけで、しかも「音が鳴るから本物のラジオだ」という一点で通してしまった。この事件のあと、乗り継ぎ便の乗客が途中で降りた場合の手荷物の扱い、機内に残された荷物の管理、電子機器の検査手順は、世界的に大きく見直されることになる。三十八年後のいま、我々が空港で靴を脱がされたりモバイルバッテリーの機内持ち込みルールを説明されたりする。
その遠い源流のひとつがここにある。安全というのは、たいてい誰かが死んだあとに整備される。八つ目。「証言だけで事件が確定した」ことの重さについて、もう少し踏み込んでおきたい。刑事事件でも航空事故調査でも、証言は本来、物証を補強するものだ。
物証が骨格で、証言が肉付けになる。ところが858便では、その順序が逆になった。証言が骨格になり、物証は後からごく断片的に付いてくるだけだった。しかもその証言の主は、七年間にわたって身分を偽る訓練を受けた人物である。彼女が真実を語っていたとしても、構造として脆いことに変わりはない。
この脆さを埋めるには、二つの道しかない。ひとつは、彼女以外の独立した証拠を積み上げること。米国が独自に彼女を調べ、保有していた工作員の写真から接触人物を特定させ、記者会見の音声を分析して北朝鮮の工作員だと結論づけたのは、この方向の作業だった。旅券の身分流用の経路、欧州各国での足取り、東欧の当時の記録。こういうものを丁寧に照合すれば、証言の裏取りはできる。
実際、その多くはすでに行われている。もうひとつが、機体そのものだ。海底に沈んでいる金属の塊は、誰の証言にも依存しない。爆発によって内側から破断したのか、それ以外の要因で分解したのか、金属は嘘をつかない。だからこそ遺族は機体にこだわるし、だからこそ「引き揚げではなく、まず確認」という2026年の方針にも意味がある。
あの物体が858便だと確定するだけで、この事件の議論は初めて物の上に立てるようになる。九つ目。この事件を「昔話」として扱えなくなっている理由も書いておく。2020年に映像が出たあと、政権が変わるたびに捜索の扱いが変わった。ある政権では予算がつき、次の政権では全額削られ、その次の政権でまた検討が始まる。
遺族から見れば、家族の骨を探すかどうかが選挙のたびに賭け直されているようなものだ。これは過去の事件の話ではなく、いま現在進行形で起きている政治の話である。三十八年前に政治利用された遺族が、三十八年後にもまだ政治の周期に振り回されている。この反復こそが、この事件のいちばん暗い部分かもしれない。最後に、この記事を書いていていちばん引っかかったことを書いておく。
この事件、登場人物の名前は全部残っているのに、犠牲者115人の名前がほとんど流通していないのだ。実行犯の名前は誰でも言える。当時の大統領の名前も言える。だが、あの夜バグダッドから乗った人たちの名前を、我々はひとりも知らない。彼らはずっと「115人」という数字でしか語られてこなかった。
数字は忘れやすい。三十八年たてば、なおさらだ。だから遺族は毎年11月29日に集まって、名前を呼ぶことをやめない。呼ぶことでしか、そこに人がいたことを証明できないからだ。2026年の秋、もし捜索隊が海に入って、水深50メートルの海底で機体の標識を確認できたら。
そのとき初めて、「115人」は「115人分の何か」に変わる可能性がある。骨が出るとは限らない。四十年近い海のなかだ。期待しすぎるのは危険だし、遺族もそれはわかっている。それでも、確認だけでも、という声が出ているのは、確認すら一度もされていないからだ。
事件の真相をめぐる議論は、これからも続くだろう。北朝鮮は否定を続け、公式結論は北朝鮮の犯行だと言い、韓国国内の一部は疑いを持ち続ける。その全部が並走したまま、四十年目が来る。けれど、そのどの立場に立っていても一致できることがひとつだけある。あの飛行機に乗っていた人たちは、まだ帰ってきていない。
それだけは、誰も否定しない。この記事が言いたいことも、結局のところそれに尽きる。
