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五年半、犯人は町の中にいた――デルフィ殺人事件、一四歳が遺した四三秒がすべてをひっくり返すまで

インディアナ州の真ん中に、人口三千人にも満たない小さな町がある。デルファイ。トウモロコシ畑と運河跡と、郡庁舎のある広場。町の名前を全米が知ることになったのは、二〇一七年二月一四日のことだ。前日から行方がわからなくなっていた二人の少女が、廃線になった鉄道橋の下、小川のほとりで見つかった。

一三歳のアビゲイル・ジョイス・ウィリアムズ。みんなは「アビー」と呼んでいた。一四歳のリバティ・ローズ・ジャーマン。こっちは「リビー」。中学校の同級生で、大の仲良しだった。

そして、この事件を五年半にわたって世界中の人間の頭から離れなくしたのは、リビーのスマートフォンに残っていた四三秒の動画だった。画面の中で、見知らぬ男が二人に向かって歩いてくる。そして低い声でこう言う。「ダウン・ザ・ヒル」。丘を下れ。

この記事では、その四三秒から始まった長い長い話を、最初から最後まで追いかける。当日の時系列、遺された映像と音声、二枚の似顔絵、五年半の空白、埋もれていた一枚の紙、そして法廷。ネットが勝手に作り上げた犯人像と、その全部が間違っていたこと。最後に、二〇二六年八月現在まだ終わっていない控訴審の話まで。長い。

でも、削るところがない。

学校が休みの月曜日、二人は橋に向かった

二〇一七年二月一三日は月曜日で、デルファイ・コミュニティ中学校は休みだった。冬の中西部にしては悪くない天気で、気温は摂氏で言えば一〇度前後まで上がっており、アビーはリビーの家に泊まっていた。前の晩は女子中学生らしくスマホをいじって夜更かししていたらしい。午後一時半すぎ、リビーの姉ケルシー・ジャーマン、当時一七歳が、二人を車に乗せて出かけた。目的地はモノン・ハイ・ブリッジ・トレイル。

デルファイの町外れ、廃線になった線路跡を歩ける遊歩道だ。ケルシーが二人を降ろしたのは、カウンティ・ロード三〇〇ノースという道路の脇、フージャー・ハートランド・ハイウェイの近く。時刻はおよそ一時三五分。ごく普通の、姉が妹とその友達を送っていく風景だった。この日、リビーの祖母ベッキー・パティは、二人を行かせるかどうか少しだけ迷ったという。

のちに法廷で語ったところによれば、リビーはこう言った。「おばあちゃん、大丈夫だから」。あの一言を、ベッキーは八年間ずっと抱えて生きることになる。トレイルの先にあるのがモノン・ハイ・ブリッジだ。この橋がまた、なかなかの代物である。

一八九一年、モノン鉄道が架けた鉄骨の高架橋で、全長は二六〇メートルほど、ディア・クリークの水面からの高さは一番高いところで一九メートル。最後に列車が走ったのは一九八七年。以来、放置されっぱなしだった。手すりはない。枕木は所々抜け落ちていて、足元から真下の川が見える。

渡るときは枕木の上を跳び石みたいに歩くしかない。つまり地元の子どもにとっては、ちょっとした度胸試しの場所で、何十年もそうだった。危ないと言われつつ、みんな渡っていた。だからアビーとリビーがそこに行ったのは、特別な冒険でもなんでもない。そしてこの橋の構造こそが、あとで残酷な意味を持つことになる。

橋の上は一本道で、逃げ場がない。すれ違うのも一苦労だ。誰かが向こうから歩いてきたら、引き返すか、押し通るか、その二択しかない。

「ダウン・ザ・ヒル」――少女がポケットの中で回し続けたカメラ

二人がその後どう動いたかは、リビーのアイフォンが分刻みで記録していた。裁判でインディアナ州警察のクリス・セシル巡査部長が示したデータは、こうだ。午後一時三八分四九秒、リビーは連絡先に「ダディオー」と登録されている父親に電話をかけている。一時四一分四四秒、スナップチャットに写真を投稿。一時四三分四九秒、車の中で撮った二人の写真を投稿だ。

二時五分二〇秒、橋そのものを撮ったスナップチャットの写真。人は写っていない。そして午後二時七分二〇秒。これがリビーが最後にスマホのロックを解除した瞬間だ。この直前に投稿されたのが、あまりにも有名になったあの一枚――橋の上を歩くアビーの後ろ姿である。

ダウンジャケットを着て、枕木の上を慎重に進んでいる。何の変哲もない写真。友達との散歩の記録。だが実質的に、これがアビゲイル・ウィリアムズの生前最後の姿になった。その六分後。

午後二時一三分五七秒、リビーは動画の撮影を始める。四三秒間。映っているのは、橋の上をこちらに向かって歩いてくるアビーと、その後ろから距離を詰めてくる男の姿だ。男は濃い色のジャケットにジーンズ、帽子。うつむき加減で、両手をポケットに突っ込んでいる。

顔は潰れていて、正直、誰なのか判別できない。音声には、リビーの呼吸音と、寒さで鼻をすする音が入っている。そして声。リビーが道について話している。「ほら、これが道だよ」。

そして「向こうには道がないから、ここを下りなきゃ」。デジタル鑑識のブライアン・バナーが法廷で示した文言では、「道がない。トレイルはここで終わってる。だからここを下りるの?」という趣旨のやりとりだった。そのすぐあと、男の声が入る。

「ガイズ」。そして「ダウン・ザ・ヒル」。アビーは「ハイ」だか「ヘイ」だか、短く応じたようにも聞こえる。動画はそこで終わる。もう一つ、この動画には決定的な音が入っていた。

少女のどちらかが「ガン」――銃、と口にしているのだ。検察はこれを、男が拳銃を見せて二人を支配下に置いた証拠として主張することになる。ここで、どうしても言っておきたいことがある。リビー・ジャーマンは、目の前に得体の知れない男が現れて、逃げ場のない鉄橋の上で追い詰められているという状況で、スマホを構えて録画を始めたのだ。一四歳が。

恐怖で頭が真っ白になってもおかしくない場面で、彼女は「記録する」という判断をした。しかもそのあと、スマホは彼女の身体の下に隠される形で現場に残り、犯人に持ち去られなかった。インディアナ州警察はこれを繰り返し「英雄的」と呼んだ。誇張だとは思わない。この四三秒がなければ、この事件はおそらく永遠に解決していない。

そしてアップルのヘルスケア機能が記録した、リビーのスマホの最後の「動き」は、午後二時三二分三九秒。動画の撮影開始から一八分後だった。

三時一五分、迎えの車は誰も乗せずに帰った

リビーの父デリック・ジャーマンは、午後三時一五分にトレイルの入口に着き、約束の時間で、誰もいなかった。最初は、まあ、遊びに夢中なんだろうと思う。中学生が三〇分くらい遅れるのはよくある話だ。だが電話が通じない。何度かけても出ない。

時間が過ぎていく。二月の午後は短い。家族は自分たちで探し始めた。橋の周辺、トレイル、思い当たる場所。それでも見つからない。

警察に行方不明の届けが出されたのは午後五時三〇分で、その夜、デルファイの町は総出になった。当局は当初、事件性を強く疑ってはいなかった。橋から落ちたのではないか、というのが最初の見立てだったのだ。あの橋なら十分ありうる話ではある。懐中電灯の光が林の中で揺れ、消防団員も住民もボランティアも、真っ暗な森を歩き回った。

気温は下がっていく。夜通し探した人もいた。翌二月一四日、バレンタインデーの正午すぎ。デルファイの住民ジェイク・ジョンズが、ディア・クリークの流れの中にタイダイ染めのシャツが落ちているのを見つけ、消防士に知らせた。同僚が近所のパット・ブラウンに連絡を取り、墓地側から回り込んで確かめてもらうことにした。

午後零時一五分、パット・ブラウンから通報が入る。モーニング・ハイツ墓地の南側に、遺体が二つある、と。彼は最初、それをマネキンだと思ったと証言している。人間だと認識するのに時間がかかった。そういう光景だったということだ。

場所は橋から約八〇〇メートル東、ディア・クリークの北岸。橋の対岸、木立の中だった。二人は前日の午後、あの動画が撮られてから二〇分と経たないうちに、丘を下り、川を渡り、そこに連れて行かれていたことになる。そして二人は殺されていた。首を切られていた。

手口の詳細をここで再現するつもりはない。それは遺族のためにも、読む人のためにも、書くべきことではない。事実として押さえておくべきなのは、犯行が白昼堂々、公共の遊歩道からわずかな距離で、日没まで何時間もある時間帯に行われたということだ。これは異常なことだ。現場には枝が置かれていた。

二人の身体の上に。捜査の主任だったインディアナ州警察のブライアン・オレヒーは法廷で、それは遺体を隠す目的で置かれたものだと考えている、と証言した。この「枝」が、のちに一つの奇妙な理論の出発点になる。

顔のない男、通称「ブリッジ・ガイ」

二月一五日、遺体の身元が公式に確認された。そして同じ日、インディアナ州警察はリビーの動画から切り出した一枚の静止画を公開する。粗い。とにかく粗い。橋の枕木の上を、うつむいて、両手をポケットに入れて歩いてくる白人男性。

ジーンズ、濃い色のジャケット、帽子。それだけ。目も鼻も口も判別できない。それでもこの一枚は、瞬く間に全米に広がった。二月一九日、州警察はこの男を「最重要容疑者」と位置づける。

誰が言い出したのか、彼には「ブリッジ・ガイ」というあだ名がついた。橋の男。二月二二日、連邦捜査局と州警察は、リビーのスマホから抽出した音声の一部を公開した。ノイズにまみれた、たった三語。「ダウン・ザ・ヒル」。

この音声公開が、この事件の性格を決定づけたと思う。顔のない写真と、体のない声。人間が最も不安になる組み合わせだ。しかもその声は、被害者自身が録音したもので、全米の視聴者は、少女が殺される直前の音を、テレビのニュースで聴いた。二月二三日には、通報の電話が殺到しすぎて、キャロル郡の回線が処理しきれなくなったのだ。

はっきり言って、想定の外だった。そこで、連邦捜査局のワシントンにある大規模事件用のコールセンターへ転送されるようになったのだ。連邦捜査局は全米四六州、およそ六〇〇〇枚の電光掲示板に二人の写真とブリッジ・ガイの画像を出した。高速道路を走っていれば、否応なく目に入る。二月二四日からは、デルファイをはじめインディアナ州中の家々の玄関先にオレンジ色の電球が灯り始めた。

リビーの母親の呼びかけがきっかけで、オレンジはアビーの好きな色だったのだ。「犯人がまだ捕まっていない」という意思表示でもあり、この灯りは、五年半にわたって消えなかった。懸賞金も膨らんでいく。二月二七日には住民の寄付で九万六〇〇〇ドル。三月一日、インディアナポリス・コルツのパンター、パット・マカフィーとオーナーのジム・アーセイが九万七〇〇〇ドルを出し、総額二〇万ドルを突破。

最終的には二五万ドルに達し、三月九日、リビーの祖父マイク・パティが初めて公の場に立った。この時点で通報は一万一〇〇〇件を超えていた。四月には一万六〇〇〇件、聴取は五〇〇件以上。それでも容疑者は特定されなかった。

二枚の似顔絵は、どう見ても別人だった

二〇一七年七月一七日、捜査当局は最初の似顔絵を公開する。事件当日にトレイルにいたハイカーの証言をもとにしたものだった。若い男だった。二〇代、下手をすれば一〇代にも見える。細面で、髪は明るく、目つきが独特だった。

この一枚が公開された当日だけで、連邦捜査局に五〇〇件の新しい通報が入った。そして一年半以上が過ぎる。二〇一八年二月の一周年会見では、通報が三万件を超えたと発表された。それでも進展はない。転機――正確には「転機のように見えたもの」――は、二〇一九年四月二二日に訪れる。

州警察は緊急の記者会見を開き、まったく新しい似顔絵を公開した。今度の男は明らかに年上だった。三〇代から四〇代、角張った顔、後退した生え際。二〇一七年の似顔絵とは、はっきり言って別人にしか見えない。州警察はこう説明した。

二〇一七年の似顔絵は「副次的」なものとして扱う。今回のこれが、我々が犯人だと考える人物である、と。年齢の推定も一八歳から四〇歳に修正され、ただし実年齢より若く見える可能性があるという但し書きがついた。同時に、リビーの動画から新たに一秒ほどの映像が公開された。ブリッジ・ガイが歩いている動画。

当局は視聴者に、歩き方の癖を見てほしいと呼びかけた。音声も、より長いバージョンが出された。「ガイズ……ダウン・ザ・ヒル」。当局はここで、これは二人の声ではなく一人の声である、と念を押している。そしてこの会見で、州警察本部長のダグ・カーターは、カメラを見据えて犯人に直接語りかけた。

「我々は、お前が人目につく場所に堂々と隠れていると考えている。二年以上のあいだ、お前は我々が捜査の方針を切り替えるとは思ってもみなかっただろう。だが、我々は切り替えた」さらにこう続けた。「お前にはまだ、ほんの少しだけ良心が残っていると私は信じている」。そして「お前が二人の幼い少女を惨殺したと知ったとき、お前に一番近い人たちはお前をどう思うだろうか」。

芝居がかっている。だが本部長は本気だった。この時点で、当局は犯人が地元の人間である可能性が極めて高いと考えていたのだ。結果から言えば、この読みは正しかった。恐ろしいほど正しかったのだ。

犯人はまさに「人目につく場所」――町のドラッグストアのレジの向こう側――にいた。だが、そこにたどり着くまでにさらに三年半かかる。

五年半、捜査は膨らみながら空回りした

二〇一七年から二〇二二年までのデルフィ事件の捜査は、規模だけを見れば圧倒的だった。連邦・州・郡の合同捜査本部が作られ、初期には四〇人から五〇人の捜査官が投入された。通報の総数は最終的に数万件に達する。ボランティアが延々と通報用紙を整理していた。だが、規模が大きいことと、正しく機能することは別だ。

この期間、何人もの人物が「関心対象者」として名前を出されたり、ネットで名指しされたりした。コロラド州で別件で逮捕された男が似ているとして州をまたいで聴取を受けたことがある。地元で少女への暴行事件を起こした男が浮かんだこともある。遺体発見現場の土地の所有者だった高齢男性の自宅に捜索令状が入ったこともある。この男性は結局、殺人では一度も起訴されないまま、二〇二二年に亡くなった。

そしてもう一つ、この事件を語るときに避けて通れない存在がある。「アンソニー・ショッツ」を名乗る偽アカウントだ。二〇一六年から二〇一七年にかけて、スナップチャットとインスタグラムでそのアカウントは動いていた。実在する男性モデルの写真を無断で使い、自分は裕福なモデルだと名乗って、複数の少女に接触し、画像を要求し、直接会おうと持ちかけていた。

典型的な「キャットフィッシュ」――なりすまし――のアカウントである。そしてこのアカウントは、リビー・ジャーマンとやりとりをしていた。事件前夜の泊まりがけの集まりで、リビーはこのアカウントの人物にすっかり夢中になっていた、という証言がある。このアカウントを運用していた男は、二〇二〇年八月に別件で逮捕され、児童の性的搾取に関する三〇件の罪で起訴、のちに有罪となって長期の実刑判決を受けている。

彼は捜査官に対し、アカウントには複数の人間がアクセスできたと述べ、のちには父親もアクセスしていたと主張した。デジタル鑑識では、文体の違いから少なくとも二人が使っていた可能性が示唆された。だが――ここが重要だ――この男はデルフィの殺人については一度も起訴されていないし、州警察が容疑者だと述べたこともない。彼が有罪になったのは、まったく別の、それはそれで許しがたい犯罪に対してだ。

にもかかわらず、ネット上ではこのアカウントこそが事件の核心だという説が何年にもわたって主流だった。二〇二一年一二月、州警察が公式にこのアカウントについて情報提供を呼びかけたことで、その説はさらに勢いづいた。捜査本部が本気で追っていたのは事実だ。ただ、それが殺人の実行犯につながることはなかった。二〇二二年二月、事件から五年の節目にダグ・カーター本部長はこう言った。

三年以内には解決できると思う。「今日かもしれない」。半分は当たった。その年の一〇月だった。

段ボールの中で五年半眠っていた、一枚の紙

デルフィ事件を語るうえで、これ以上に苦い話はない。キャシー・シャンクという女性がいる。児童保護の仕事を長年やって退職したあと、キャロル郡の捜査本部で通報の整理をボランティアで手伝っていた。彼女が扱った通報用紙は、およそ一万四〇〇〇枚にのぼる。二〇二二年九月、彼女はある一枚に目を留めた。

日付は二〇一七年二月一六日。事件のわずか三日後に作成されたものだ。内容はこうだった。ある男が自分から捜査当局に連絡してきて、事件当日、自分はモノン・ハイ・ブリッジのトレイルにいた、と申告している。彼は三人の少女を見たと述べている。

シャンクは引っかかった。彼女は法廷で、こう証言している。事件当日に橋の上で男を見たと通報してきた「三人の少女」がいたことを覚えていた。だから、この用紙に書かれた「三人の少女を見た男」との間に「関連の可能性がある」と思った、と。二〇二二年九月二一日、名前が「リチャード・アレン」に修正される。

二〇一七年二月一八日、当時インディアナ州天然資源局の警察部門にいたダン・デュリンが、この男に電話で聴取をしていた。男の申告によれば、当日は午後一時から三時まで、あるいは一時半から三時半までトレイルにいたのだ。橋のほうへ歩き、川で魚を見ており、三人の少女を見かけたが、株価アプリを見ていたので気を取られていた。デュリンは報告書を書き、それが、あの用紙になった。

キャシー・シャンクからの連絡を受けて、デュリンと捜査陣は当時の記録を洗い直す。すると妙なことに気づいた。この男は二〇一七年四月、釣り許可証の申請で自分の身長と体重を変更していた。デュリンはこれを「珍しいことだ」と法廷で述べている。キャロル郡保安官のトニー・リゲットは、この通報を見たときの感覚をこう表現し、「引っかかった。

あの日、三人の少女を見たと言っている人間がいるなんて、私は知らなかった」保安官は男の職場に行き、駐車場に停まっていた車を撮影したのだ。二〇一六年式のフォード・フォーカス。バックで駐車枠に入れてあった。この「バックで停めてある車」が、五年半前の目撃証言と噛み合うことになる。

二〇二二年一〇月、レジの向こうにいた男

二〇二二年一〇月一三日、捜査当局はデルファイ市内の一軒の家に捜索令状を執行した。住んでいたのはリチャード・マシュー・アレン、当時五〇歳。一九七二年九月生まれ。インディアナ州メキシコという町で育ち、地元の高校を一九九一年に卒業。地域の短大で会計を学び、陸軍と州兵に短期間在籍。

二〇〇三年から二〇一三年までローガンズポートのウォルマートで店長を務め、二〇〇六年一二月にデルファイに移り住んだ。二〇一八年二月からは大手ドラッグストアチェーンの調剤助手として、町の店で働いており、妻と娘がいた。つまり、町の人間で、買い物に来れば会う顔だった。家の中から出てきたものは、こうだ。シグ・ザウエル製の四十口径拳銃。

弾薬だ。保管箱の中に入っていた四十口径の弾丸が一発。青いカーハートのジャケット。ナイフが三〇本近く。カッターナイフが少なくとも四本。

携帯電話が一二台、ポケットベルが二台、メモリーカードが二枚。ただし、これらのどれ一つとして、現場と直接結びつく物的証拠にはならなかった。この点は最後まで弁護側の武器になる。捜索を指揮した州警察のジェリー・ホールマン警部補は、押収品目録の書式が要るかとアレンに尋ねたときのことを証言している。アレンはこう答えたという。

「どうでもいい。もう終わりだ」。二度そう繰り返した、と。同じ日、市警の元署長スティーブ・マリンらがアレンから事情を聴いている。アレンは当日の服装について、ジーンズ、青か黒のカーハートのジャケット、ニット帽、軍用ブーツかスニーカー、と述べた。

車はフォード・フォーカス。トレイルでは、年上が一人、若いのが二人の、計三人の女性を見た。そして、あなたがブリッジ・ガイなのか、と問われたとき、アレンはこう言ったのだ。「もしその写真が女の子のカメラで撮られたものなら、それが私であるはずがない」一〇月二六日、リチャード・アレンは逮捕された。一〇月二八日に法廷に出され、殺人二件で正式に訴追。

一〇月三一日にインディアナ州警察が公表し、アレンは無罪を主張し、町は文字通り凍りついた。ある住民は「ずっとそこにいたのか」と漏らしたのだ。ダグ・カーター本部長が「人目につく場所に隠れている」と犯人に呼びかけたあの会見の場所から、アレンの家までは車で数分だった。一一月二九日、フランシス・ガル特別判事の判断で、逮捕の根拠を記した宣誓供述書が公開される。そこには決定的な一行が含まれていた。

現場で、被害者の一方の遺体から六〇センチも離れていない場所に、撃たれていない四十口径の実包が一発落ちていた。そしてその薬莢の底部に残された痕跡は、アレンが所有していたシグ・ザウエルの拳銃で薬室に送り込まれ、排出されたときにつくものと一致する――と鑑定されたのである。アレンは二〇〇一年からこの銃を所有し、誰にも貸したことはないと述べていた。

そして、なぜ自分の銃を通った弾が二人の少女の間に落ちていたのか、説明できなかったのだ。

弁護団が外され、そして戻ってきた

裁判に至るまでの道のりも平坦ではなかった。当初は二〇二三年三月に予定されていた公判は、証拠開示の量を理由に何度も延期される。二〇二三年一〇月、事件は妙な方向に転がった。弁護人アンドリュー・ボールドウィンの法律事務所から、現場写真が外部に流出したのだ。事務所を訪れていた元従業員が、無断で写真を撮影していた。

この人物はのちに刑事訴追されている。ガル判事は、これを弁護人の重大な過失だとして、ボールドウィンとブラッド・ロッツィの二人を事件から外した。弁護側は反発し、インディアナ州最高裁に持ち込む。二〇二四年一月一八日、州最高裁は二人の弁護人を復帰させた。二月八日に公表された意見書によれば、地裁は「弁護人の資格剥奪が、被告人が受ける不利益を検討したうえでの最後の手段であるとは認定していなかった」。

一方で、ガル判事を交代させる申し立ては全員一致で退けられたのである。被告側は「特別判事が偏頗であることを明確に示す事実」を提示できなかった、というのが理由だ。流出した現場写真は、その後インターネットの暗がりを回った。これについては後で書く。胸糞が悪くなる話だ。

公判は結局、二〇二四年一〇月一八日に始まった。場所はデルファイのキャロル郡庁舎。ただし陪審員は地元からは選ばれなかった。事件の知名度が高すぎるためだ。裁判所はアレン郡から陪審員を選び、バスでデルファイまで運び、期間中は隔離した。

町の中で、町の人間を裁くわけにはいかなかったのだ。

法廷で再生された四三秒

初日、検察側のニコラス・マクレランド検事は冒頭陳述をこう組み立てた。この事件は三つの要素でできている。ブリッジ・ガイ、一発の弾、そして二人の少女の惨殺だ、と。検察の主張はシンプルだった。アレンは銃を使って二人を橋から丘の下へ追いやり、性的暴行を加えるつもりだったが、その計画は狂ったのだ。

そして二人を殺し、陪審員は彼自身の口から出た自白を聴くことになる、と検事は予告した。弁護側のボールドウィンは真っ向から否定し、捜査は「最初から滅茶苦茶だった」。アレンの「自白」は、捜査と長期の収監によるトラウマの産物であり、やってもいないことを認めたものだ。実際、アレンは獄中で「二人を撃った」「浅い墓に埋めた」といった、事実と食い違う内容まで口にしている。

二人は撃たれていないし、埋められてもいない。それが何よりの証拠だ、と。さらに弁護側は、リビーではなくアビーのスマホが午後四時以降に基地局と接続した形跡を持ち出した。「午後四時以降、人間の手があの電話に触れている。リチャード・アレンは家にいて、二度と戻っていない」

裁判は二一日間続いた。ここからは、証言席に立った人々の話を、一人ずつ見ていきたい。この事件は、証言の集積でできている。

泥と血にまみれた男とすれ違った女性

サラ・カーボーという地元の女性が証言席に立ったのは、公判五日目のことだった。彼女は日常的にモノン・ハイ・ブリッジ・トレイルの周辺で犬を散歩させていた。二〇一七年二月一三日の午後四時ごろ、彼女は道路脇を歩く男とすれ違ったという。男は泥にまみれていた。そして、血にも。

「私は彼のほうを見た。でも彼は目を合わせなかった」彼女はその場では何もしなかったのである。警察に連絡したのは、それから三週間も経ってからだ。理由を問われて、彼女は自分がどれほど動揺し、パニックに陥っていたかを語った。ニュースでアンバー・アラートの写真――つまりブリッジ・ガイの静止画――を見たとき、あれはあの男だ、と確信したという。

それでも動けなかった。ある日、検問に立っている警官の姿を見て、彼女はそれを「神からのサインだ」と受け取り、ようやく話したのだ。弁護側の反対尋問は容赦がなかった。ブラッド・ロッツィは、彼女が複数回の警察聴取のあいだに供述内容を変えていると突きつけた。最初はどう言ったのか。

次はどうか。血のことはいつ言い出したのか。法廷でのやりとりは相当に険悪になり、傍聴記者は「棘のある応酬」と形容している。彼女は引き下がらなかった。私は見た、と言い続けた。

この証言をどう評価するかは難しい。三週間後の申告、記憶の変遷、事後にメディアで見た画像の影響――目撃証言の信頼性を疑う理由は揃っている。実際、弁護側の狙いもそこだった。一方で、彼女の話には最初から一貫している核の部分がある。泥と血にまみれた男が、事件現場のすぐそばの道路を、午後四時ごろに歩いていた。

ここは他の証拠と時間的に矛盾しない。陪審は最終的に、この証言を信じたのだと思われる。

「あの人、幸せそうな人には見えなかった」

もう一人、忘れがたい証言をしたのが、当時のことを語ったレイリー・ボーヒーズだ。彼女は事件当日、家族や友人と一緒にトレイルにいた。彼女はフリーダム・ブリッジという別の橋の近くで、一人の男とすれ違ったのだ。田舎町の子どもらしく、彼女は手を振った。挨拶のつもりで、男は振り返さず、彼女は法廷でこう表現し、あの人は「幸せそうな人には見えなかった」。

そして、リビーの動画から切り出されたブリッジ・ガイの写真を見せられたとき、彼女はこれがその男だと同定したのだ。一〇代の少女が、見知らぬ大人に手を振って無視された。それだけの話だ。事件がなければ、翌日には忘れていただろう。だが彼女はそれを覚えていて、七年半後に証言席で語った。

デルフィ事件はこういう細部の集積でできている。誰かがふと覚えていた違和感が、七年越しに証拠になる。この日、他にも二人が同じ日に同じ男を見たと証言している。三人の少女がその日、橋の上で男を見たという通報――キャシー・シャンクが二〇二二年に思い出したあの記録――は、実在していたのだ。

検死医が語った、少女たちの最期

法医病理医のローランド・コー医師の証言は、法廷の空気を変えた。彼は二人の解剖を担当している。アビゲイル・ウィリアムズの頸部には五センチから六センチの創があり、深さはおよそ二・五センチ。皮膚の損傷の状態から、刃は右から左に引かれたと考えられた。背中と脚に死斑があり、死後かなりの時間、仰向けの状態で置かれていたことがわかる。

リバティ・ジャーマンには四か所、あるいは五か所の頸部の創があり、交差するような形状から、二度刃を通した可能性が示された。手には血がついており、脳には酸素欠乏による腫脹があったのだ。凶器について、コー医師は当初は鋸歯状のナイフだと考えていたが、のちに考えを改め、カッターナイフではないかと述べた。ただし断定はしなかった。確認できるかと問われて、彼はこう答えている。

「確定的には、言えません」意識を失うまでの時間についても証言があった。アビーは五分から一〇分、あるいはそれ以上。体位によって変わる。リビーは五分程度で、出血がより急速だった。そして重要な点として、二人のどちらにも性的暴行の痕跡は認められず、防御創も見当たらなかった。

血痕分析の専門家パトリック・シセロも同様の証言をしている。これが何を意味するかは、慎重に考えるべきだ。防御創がないということは、二人が抵抗できる状況ではなかった――つまり武器で完全に支配されていた可能性が高い、ということだ。検察が主張した「銃で支配した」という筋書きと整合する。同時に、性的暴行の痕跡がなかったという事実は、検察が主張した「性的な動機」との関係で、弁護側が突く材料にもなった。

一万四〇〇〇枚を数えた女性の証言

キャシー・シャンクが証言席に立ったのは公判六日目だった。彼女が語ったのは、前に書いた通報用紙の話だ。法廷で明らかになった細部はさらに具体的だった。用紙は二〇一七年二月一六日付。名前は「リチャード・アレン・ホワイトマン」。

ホワイトマンは通り名だ。「クリアード」のスタンプ。二〇二二年九月に彼女がそれを見つけ、九月二一日に名前が「リチャード・アレン」に修正された。この証言のあと、キャロル郡保安官トニー・リゲットが立ったのだ。彼は「引っかかった」と述べ、三人の少女を見たという申告に誰も注目していなかったことに驚いたと語った。

この一連の証言は、検察にとっては「解決の物語」だが、同時に痛烈な自己批判でもある。犯人は事件の三日後に自分から名乗り出ていた。自分がその日その場所にいたと申告していた。そして、記入ミス一つで五年半、書類の山に沈んだ。ある報道は保安官の言葉を引いて、容疑者は「隙間に落ちていた」と表現した。

冷静に見れば、これは組織的な失敗だ。数万件の通報を紙で処理する体制の限界と、名寄せの不備。五年半のあいだに、この町ではオレンジの電球が灯り続け、遺族は毎年二月に取材を受け、ネットでは無関係な人間が犯人扱いされ続けた。その全部が、たった一枚の紙のミスの上に乗っていたのだ。

弾は、本当にあの銃から出たのか

検察の物証の柱は、あの未発射の実包だった。だからここが最大の戦場になったのだ。州警察の銃器鑑定官メリッサ・オバーグは、半自動拳銃が薬室に弾を送り込み、排出するときに薬莢につく痕跡について説明した。そのうえで、現場の実包はアレンの銃を通ったものだと証言している。反対尋問でロッツィは食い下がった。

あなたの資格は。この銃種の経験は。検査手法は。オバーグは、記録上の脱漏があったこと、そして現在の銃の痕跡が二〇一七年当時の痕跡と一致するかどうかは確実には言えないことを認めた。似ている可能性はある、という言い方だった。

弁護側は自前の鑑定人、エリック・ウォーレンを呼んだ。ウォーレンはオバーグの結論に真っ向から反対した。アレンの銃で試射・排出した弾と、現場の実包との間には、同一と結論づけるだけの一致がない、というのが彼の見解だったのだ。さらに弁護側は、現場での実包の取り扱いそのものを攻撃した。

州警察の鑑識官ジェイソン・ペイジとデュエイン・ダッツマンへの尋問で、実包の発見位置と回収過程の写真が十分に撮られていないことを執拗に指摘した。四四枚の現場写真が示されたが、その決定的な一発については記録が薄い。これは、法廷での争点であると同時に、ネットでの「弾は置かれたものだ」という説の温床にもなった。この点は後述する。そして、もう一つ。

州警察のディーエヌエー分析官ステイシー・ボジノフスキーの証言だ。現場から採取された検体の多くは、アビーかリビー、あるいはその混合の血液だった。アビーの手に握られていた一本の毛髪は、リビーの姉ケルシーのものと判明したのだ。二人の爪の下と身体からは「何らかの男性」のディーエヌエーが検出されたが、量が不十分で解析できなかった。実包には植物片と土がついていたが、ディーエヌエーの解析には足りなかった。

そして決定的な問答が来る。検査したいずれの物品からも、リチャード・アレンのディーエヌエーは検出されたか。「いいえ、検出されていません」現場にアレンのディーエヌエーはなかった。この事実は動かない。検察は物証ではなく、状況証拠と本人の言動で有罪を取りにいったのだ。

独房一三か月と、六一回の「自白」

検察が最も強く押したのは、アレン自身の口から出た言葉だった。検察側の主張によれば、アレンは収監中に六〇回以上、犯行を認める発言をしている。相手は妻、母、親族、刑務所長、担当心理士、職員、他の受刑者。対面でも、電話でも、文書でも。法廷では実際に八本の通話録音が再生された。

二〇二二年一一月から二〇二三年六月にかけてのものだ。妻のキャシーとの通話で、アレンは自分が二人を殺したと述べている。妻はこう返した。「違う、あなたはやってない。あなたは具合が悪いのよ。

あなたはそんなことしてない」母親のジャニスとの通話では、この制度が自分を殺そうとしていると訴え、自分は正気を失いつつあると言った。州警察のブライアン・ハーシュマン主任巡査は、七〇〇本を超えるアレンの通話を聴いた人物として証言台に立った。法廷で再度、あの音声が再生される。「ダウン・ザ・ヒル」。誰の声かと問われて、ハーシュマンはこう答えた。

「リチャード・アレンです」ウェストビル矯正施設の担当官たちも、アレンが繰り返し犯行を認めたと証言した。ただし、録音も録画も一切なく、監視していた職員の書面記録があるだけだったのだ。同時に彼らは、アレンが自傷行為に及んでいたことも語った。頭を壁に打ちつけ、排泄物を口に入れ、便器から水を飲んだ。

施設の主任心理士モニカ・ワラは、二〇二二年一一月から一二月にかけて自殺監視下のアレンを毎日訪問し、二〇二三年四月から再び担当した。彼女は事件について話さないよう助言したが、アレンは自分から語り出したという。ワラによれば、アレンは少女たちに対する意図が性的なものだったと述べた。またアレンは宗教に強く傾斜し、聖書を抱いて眠り、教誨師を求め、ワラ自身の信仰を気にかけた。

ところが反対尋問で、この証言の土台が揺らぐ。ワラは、ある調査を経て矯正局を退職しており、彼女は職務用の端末で非公開の事件情報を検索していた。ソーシャルメディア、ポッドキャスト、掲示板でこの事件の議論を追いかけていたのだ。複数の真犯罪系のコミュニティやアカウントに情報を書き込んでいた。米国心理学会の倫理指針に反するのではないかと問われて、彼女は「グレーゾーンだと思う」と答えたのだ。

そして、ネットで見た内容をアレン本人に伝えていたことも認めた。つまり、獄中のアレンに毎日会って話を聴いていた心理士自身が、この事件のネット世論に浸っていたのだ。弁護側にとっては、これ以上ない材料で、弁護側の反撃は、収容環境そのものに向けられた。矯正局の臨床心理士ディアナ・ドウェンガーは、重篤な精神疾患と診断された受刑者を三〇日を超えて独居拘禁することはできないと証言した。

アレンは二〇二三年四月にその診断を受けている。そして彼が独房にいた期間は、一三か月だった。二〇二三年四月一四日からは、本人の同意なしにハロペリドールの投与が認められたのだ。房内は常時カメラで監視され、他の受刑者からは日常的に脅迫を受けていた。神経心理学者ポリー・ウェストコットは、二〇二三年八月にアレンを診察した結果、不安と抑うつ、そして依存性パーソナリティ障害を認めたと述べたのだ。

妻に日常生活を全面的に依存していた。ウェストビルでは精神病状態にあり、症状を誇張している兆候はなかった、と。精神科医スチュアート・グラシアンは、アレンの症状はせん妄と整合すると述べた。ハロペリドールを投与した精神科医ジョン・マーティンは、こう証言している。「リチャード・アレンは何も悪いことをしていなかった。

刑務所の規則を一つも破っていない。それなのに、破ったかのように扱われていた。それは正しくない」そして陪審は、二〇二三年四月から五月にかけて撮影された獄中映像を一五本、法廷で見た。四本では、アレンは裸で、両腕を背中で拘束され、二人以上の看守に付き添われていたのだ。最後の五二分の映像では、車椅子に拘束され、医療関係者が観察していた。

陪審員たちの反応は目に見えるものだったと報じられている。弁護人ジェニファー・オーガーですら呆然としていた、と。ここが、この裁判の最も難しい部分だ。「彼は自白した」と「彼は自白させられる状態に置かれていた」が、どちらも同時に成立しうる。陪審はこの二つを秤にかけ、前者を選んだ。

控訴審の最大の争点も、まさにここになる。

オーディン信仰の儀式殺人説――一三六ページの奇書

さて、この事件を語るうえで避けて通れないのが、弁護側が持ち出した「もう一つの筋書き」だ。二〇二三年九月、アレンの弁護団は一三六ページに及ぶ書面を裁判所に提出した。内容を要約するとこうなる。二人を殺したのはリチャード・アレンではない。北欧神話の主神オーディンを崇拝する集団、いわゆるオーディニズムの信奉者たちが、儀式的な生贄として二人を殺した――というものだった。

弁護側が根拠として挙げたのは、こういう点だ。凶器がナイフであること。遺体が特定の形に配置されていたこと。木に被害者の血で何かが書かれていたとされること。一方の少女がもう一方の衣服を着せられていたこと。

そして現場に散乱していた木の枝が、ゲルマン系のルーン文字――オーディンと結びつく象徴――の形に組まれていたこと。さらに弁護団は、地元でオーディン信仰を実践していたある男性を名指しした。その男性の息子は、アビゲイル・ウィリアムズと交際していたことがあったのだ。そして男性自身は、事件現場にあったとされるルーンを模したような画像を交流サイトに投稿していた。それが弁護側の主張だったのだ。

この書面は公開文書として世に出た。そして、火がついた。まず検察のマクレランド検事の反論はこうだ。「一三六ページのうち、法的に意味のある主張がなされているのは一三ページにすぎない。残りの九割は、交流サイトが食いつくための空想的な弁護論を並べただけである」

学術的な反論も出た。バトラー大学のチャド・バウマン教授は、こう述べている。オーディン信仰の信奉者が個人として殺人を犯した例はある。だがそれは儀式的生贄として行われたものではない。現代のこの系統の信仰において、生贄と呼びうる実践に最も近いものは動物の供物であって、人間ではない。

また、いわゆる北欧異教の実践者コミュニティの側からも反発があった。彼らは白人至上主義と結びついた集団と自分たちを明確に切り離しており、自分たちの伝統はあらゆる人々に開かれていると主張してきた。「オーディン信仰イコール儀式殺人」という図式そのものが、既に何重にも間違っている。そして、捜査当局も初期にこの線を検討していたことは事実だ。ある専門家に意見を求め、その結果、この方向を放棄している。

弁護側はその報告書が開示されなかったと主張し、検察はそもそもその専門家が関連を否定したのだと反論した。二〇二四年九月四日、フランシス・ガル判事はこの理論の提示を禁じる決定を下した。理由はこうだ。この証拠の証明力は、争点を混乱させ陪審を誤導する危険性に「大きく上回られている」。そして弁護側は、オーディニズムと本件殺人とを結びつける証拠能力のある証拠を提示できなかった。

公判一三日目の二〇二四年一一月一日にも、弁護側は再度この線を陪審に届けようと試み、判事は再び却下している。結果として、陪審はこの「もう一つの筋書き」を一切聞かないまま評決に至った。そして弁護側は今、控訴審でまさにこの点を最大の争点の一つに据えている。「被告人には完全な防御を提示する権利があったのに、それを奪われた」と。念のためはっきり書いておく。

ここで名指しされた地元の男性は、この事件で一度も起訴されていない。捜査当局が容疑者だと述べたこともない。彼を犯人扱いする根拠は存在しない。法的に確定しているのは、リチャード・アレンの有罪だけである。

ネットが作った犯人たち

デルフィ事件は、インターネット時代の未解決事件がどうなるかの見本市みたいな案件だった。顔のない写真、体のない声、地元の田舎町、そして五年半の空白。素材として完璧すぎた。浮上した説を、一つずつ見ていこう。そしてそれぞれ、どこが崩れるのかも。

説その一「二枚の似顔絵は別人。だから犯人は複数いる」

これは最も広く支持された説だ。二〇一七年の若い男と二〇一九年の中年男は、どう見ても別人である。だから、犯行に関わった人間は二人以上いる。橋の上で目撃されたのが一人でも、丘の下にはもう一人いたのだ――という筋書きだった。だが実際のところ、州警察自身が二枚は異なる人物を描いたものだと認めており、そのうえで二〇一九年版のほうを「我々が犯人だと考える人物」と位置づけている。

つまり最初の似顔絵は撤回に近い扱いを受けたのだ。似顔絵というのは目撃者の記憶を絵に起こしたものであって、写真ではない。二年後に別の目撃情報から作り直した絵が別人に見えるのは、複数犯の証拠ではなく、単に最初の絵が外れていたということでしかない。しかもリチャード・アレンは、二〇一七年当時の姿を見れば、細身で年齢より若く見える男だった。

二〇一九年の会見で当局が「実年齢より若く見える可能性がある」と付け加えたのは、まさにその読みだったのだろう。

説その二「午後四時以降に誰かがスマホを触った」

これは弁護側が法廷で正面から使った説でもある。デジタル鑑識のステイシー・エルドリッジは、リビーのスマホのデータを分析している。二月一三日午後五時三〇分から翌一四日午前四時三〇分まで、約一一時間にわたって基地局への接続も動きの記録もなかった。それが彼女の証言だったのだ。

そのうえで、驚くべきことに、二月一三日午後五時四五分にイヤホンが音声端子に差し込まれ、そのまま五時間近く挿さったままだったことを示すデータがある、と述べた。これはかなり不気味なデータだ。ネット上では「犯人が現場に戻ってきた」「第三者が遺体を動かした」といった説が乱れ飛んだ。ただし、慎重に見るべき点もある。スマホは遺体の下に隠れる形で、二月の屋外に一晩置かれていた。

低温、湿気、圧力。オペレーティングシステムのログというのは、物理的な接点の変化を「イヤホンが挿された」と解釈することがある。湿気や異物、あるいは遺体の重みによる圧迫でも、同種のイベントが記録されうる。検察はこの解釈を採らなかったし、陪審も最終的に採らなかった。つまりこれは「決定的に怪しいデータ」ではなく、「解釈が割れているデータ」だ。

ネット上では前者として語られ続けた。

説その三「あの弾は置かれたものだ」

未発射の実包が遺体のすぐそばに落ちていた。しかも半自動拳銃の薬室を通っただけで発射されていない弾が、犯行現場に都合よく残る、というのは確かに不自然に見える。だから「捜査当局が後から置いた」という説が生まれた。弁護側も、実包の発見と回収の写真記録が不十分であることを法廷で厳しく突いた。弾が本当にアレンの銃を通ったのかどうか――つまり鑑定の信頼性――を疑うのは、法廷でも実際に行われた真っ当な争いだ。

だが「後から置かれた」説は、単純に時間の順序が合わない。

説その四「キャットフィッシュ・アカウントこそが核心だ」

前述した偽アカウントの件だ。リビーが事件前夜まで熱を上げていた相手が、少女たちに接触して直接会おうとしていた人物だった。しかもそのアカウントの運用者は、まったく別件で児童の性的搾取について有罪になっている。因果関係の匂いは、確かにする。だからこの説は何年も、ネットにおける主流だった。

二〇二一年一二月に州警察が公式に情報提供を呼びかけたことで、「やはり本命だ」という空気が完成したのだ。だが、そうはならなかった。この人物は殺人については一度も起訴されていない。捜査当局が容疑者だと述べたこともない。そして裁判で有罪となったのはリチャード・アレンだ。

論理としては、こういうことだと思う。「少女に接近する悪質な人物が近くにいた」ことと「その人物が少女を殺した」ことは、まったく別の命題である。前者が真であっても後者は導かれない。ネットの推理は、この二つをしょっちゅう混ぜた。

説その五「体格的に一人では無理だ」

リチャード・アレンが逮捕されたあと、ネットで真っ先に出たのがこれだった。この男は小柄で細身だ。一三歳と一四歳の二人を、同時に制圧して丘を下らせ、川を渡らせるなんて無理だ。だから複数犯だ、と。真犯罪ポッドキャストの取材者たちが、この論法の気持ち悪さを的確に指摘している。

この人たちは、証拠に合わせて結論を動かすのではなく、自分が先に決めていた結論に合わせて証拠を弾いているのだ、と。しかも「無理だ」という判断の根拠は、体格の印象論でしかない。銃を持った成人男性が、逃げ場のない橋の上で少女二人と対峙している。これは体格の問題ではない。

説その六「地主が犯人だった」

遺体が見つかった土地の所有者だった高齢男性に、疑いの目が集中した時期がある。二〇一七年三月に捜索令状が入ったのは事実だ。当局はこれを通常の手続きだと説明した。この男性は殺人では一度も起訴されないまま亡くなっている。にもかかわらず、彼はネット上で何年も犯人として語られ続けた。

名前も顔も出回った。私はここで、この人物の名前を書かない。書くべきではないと思うからだ。「疑われた」ということと「やった」ということの間には、絶望的に深い溝がある。この事件は、その溝を無視することがどれだけの被害を生むかの実例でもある。

掲示板は法廷になった

デルフィ事件のネット文化は、途中から明確に有害な段階に入った。真犯罪ポッドキャストを運営し、のちにこの事件の書籍をまとめた取材者たちは、自分たちが受けた仕打ちを具体的に書き残している。容姿を執拗に嘲笑され、職業や人間関係について根も葉もない噂を流され、直接的にも間接的にも殺害予告を受けた。自宅の写真をネットに晒され、親族に連絡が行き、根拠のない告発が吹き込まれた。そして彼らはこう付け加えている。

捜査官も、検察官も、証人も、そしてアビーとリビーの親族も、自分たちよりもっとひどい目に遭った、と。なぜこうなるのか。彼らの分析は鋭い。真犯罪コミュニティの一部の人間は、「自分の推理が当たっていること」の上に自我を築いてしまう。すると、証拠を追うのではなく、自分の推す容疑者を熱狂的なスポーツファンのように応援するようになる。

そして自説に反する情報を持ってきた人間を、裏切り者として攻撃する。真実を見つけることより、自説が正しかったことを確認するほうが大事になる。最悪だったのが、あの流出した現場写真だ。弁護人の事務所から漏れた、二人の少女の遺体の写真。それがネットの一部で、取材者の言葉を借りれば「レアカードの交換」のように扱われ、手に入れた、と自慢する人間がいた。

そして――ここが本当に堪える――受け取った人間のうち、誰一人として当局に通報しなかった。一三歳と一四歳の少女の遺体写真である。それが収集品になっていた。一方で、この事件のネット文化には確かに功績もある。数万件の通報の中には、市民の目撃情報が含まれていた。

世論の圧力が捜査資源を維持させた側面もある。オレンジの電球は、ネットを通じて州境を越えて広がった。そして何より、遺族自身が交流サイトで発信を続けることで、事件が忘れられるのを防いだ。ケルシー・ジャーマンは大学に入ったとき、最初は匿名でいようとした。だが授業の課題のスピーチで、自ら「匿名という外套」を脱いだ。

彼女は事件の顔になることを選んだのだ。だから単純に「ネット民は悪」という話ではない。ただ、境界線がある。情報を広めることと、人間を私刑にかけることの間には。デルフィ事件では、その線が何度も踏み越えられた。

有罪、そして一三〇年

二〇二四年一一月七日、公判一八日目。双方の最終弁論が行われた。マクレランド検事は、二〇一七年二月一三日は「この地域が決して忘れることのない日だ」という言葉から始めたのだ。トレイルに向かう車内で撮られたスナップチャットの写真を示し、現場の写真を示し、そして午後二時一三分の動画に戻った。彼はこの動画のスクリーンショットを「アビゲイルとリバティが誘拐された瞬間」と呼んだ。

そして、こう言った。「何かがリバティに、これを録画させたのだ」検事はブリッジ・ガイを見たと証言した目撃者たちを並べ、防犯カメラに映った二〇一六年式フォード・フォーカスに触れたのだ。二〇一七年当時、キャロル郡に登録されていたその型の車は一台だけだった。リチャード・アレンのものだ。

そして、アレン自身がブリッジ・ガイと同じ服装をしていたこと、当日その場にいたことを認めていること、獄中で繰り返した自白を挙げた。弁護人ロッツィの最終弁論は、検察の捜査そのものへの弾劾だった。「いちばん肝心なのは、彼らがあなた方に知られたくないことだ。我々が何度も何度も言わなければならなかったことである。我々が彼らの仕事をやらされたのだ」

彼は四つの柱を立てた。壊れた時系列。ずさんな弾道鑑定だ。虚偽の自白。そしてデジタルデータ。

録画された取り調べ映像の多くが上書きされて復元不能になっていたこと――この問題が発覚したのは二〇二三年八月だ――を突いた。目撃証言の食い違いも指摘し、ある目撃者はブリッジ・ガイを「少年っぽくて若々しい」と表現していた。五〇歳のリチャード・アレンには当てはまらない、と。そして弁護側は、トレイルの近くに住んでいた別の男性の名前も出した。この人物もまた、一度も起訴されていない。

ロッツィは陪審にこう言った。州は必死になって「事実をこの捜査に合うようにねじ曲げている」。陪審の評議は一一月七日午後一時二五分に始まった。この日は二時間で終わり。八日、九日と続いた。

九日の土曜日は五時間。証言の記録は読み上げられなかった。陪審は自分たちの記憶だけを頼りに議論した。そして一一月一一日月曜日、午後二時すぎ。評決が出た。

殺人二件と重罪殺人二件、全ての訴因について有罪。法廷では、アレンは目を見開き、聖書を手に持っていた。ガル判事は評決の読み上げ前に、法廷の秩序を保つよう警告した。「不満は外に持って出てください」。アレンの家族は呆然としていた。

すすり泣きが聞こえた。連れ出される直前、アレンは家族のほうを振り返り、口の動きだけでこう伝えたという。「大丈夫か?」一二月二〇日、量刑審理が開かれた。ガル判事はアレンに、殺人一件につき六五年、それを連続して服役させる形で、合計一三〇年の刑を言い渡した。インディアナ州法の枠内で科しうる、事実上の最大刑である。

五二歳の男にとって、これは終身刑と同義だ。判事はこう述べた。「私は二七年間、裁判官を務めてきましたのだ。あなたはインディアナ州で最も凶悪な犯罪の一つに数えられます」そして彼女は、法廷でのアレンの態度にも触れた。裁判のあいだ自分に向かって目を回してみせたのと同じように、今も目を回している、と。

遺族の八年

量刑審理では、遺族が次々に立った。リビーの祖母ベッキー・パティは、こう言った。「あの日、リビーとアビーをトレイルに行かせるという私の選択は、もう決して変えられません。あの人が、アビーとリビーの人生の最後の一時間に与えたのと同じ恐怖を抱えて生きることを望みます」この言葉の重さがわかるだろうか。彼女は八年間、「行かせなければよかった」を毎日抱えて生きてきたのだ。

「おばあちゃん、大丈夫だから」と言った孫を送り出した自分を。リビーの母キャリー・ティモンズは、こんな悪が存在することに自分は「目が見えていなかった」と語った。アビーの祖母ダイアン・アースキンはこう言った。「今日は我が家にとって大きな悲しみの日です。家に帰ってシャンパンで祝うようなことはしません」有罪判決が出ても、祝うものは何もない。

当たり前のことなのに、外側の人間はよく忘れる。リビーの祖父マイク・パティは、アレンに直接語りかけた。「あなたは責任を認めることもできたはずだ。立ち上がって、控訴などしないことだ」キャロル郡保安官トニー・リゲットは記者にこう言った。「この事件に区切りなど、決して訪れません」そして評決の日、リビーの姉ケルシー・ジャーマンは短くこう言い、「今日が、その日でした」彼女は事件当時一七歳だった。

妹とその友達を車で送り届けた最後の人間だ。そして八年間、事件の顔として発信し続けた。二〇二五年二月一三日、事件から八年の日に、彼女はこう書いている。「今のところ言えるのはこれだけです。この八年間、毎日私たちを支えてくれて、アビーとリビーのために正義をもたらす手助けをしてくれて、ありがとう」

橋のある町のその後

デルファイは、人口二八〇〇人あまりの町だ。郡庁舎のある広場と、運河跡の歴史公園と、かつてのプロレスラーの出身地であることくらいが、以前の売りだった。今は違う。町の名前を検索すれば、出てくるのはこの事件だ。だが町は、それだけで終わらせず、事件から数か月後、およそ一〇〇人の住民が橋の近くを歩き、祈った。

あの場所を取り戻すためだった。歴史的建造物の保存に取り組む人物は、地元の若者たちが「自分たちのトレイルを取り戻したがっていた」と語っている。彼はこの事件を、住民にとっての「無垢の喪失」だと表現した。何世代もあの橋の美しさを享受してきた町にとって、それは風景そのものが汚されるということだった。二〇一七年四月には、歴史保存団体がモノン・ハイ・ブリッジの救済に乗り出すことを発表している。

橋を壊すのではなく、直すことを選んだのだ。初期の構造補修に約一〇万ドルが充てられ、その後の計画では床板と手すりを設け、トレイルとつなぐことが構想された。そして二〇一七年八月、両家族は運動公園の建設を発表する。アビー・アンド・リビー記念公園。非営利のエル・アンド・エー・パーク財団が設立され、その理念はこう掲げられた。

「リビー・ジャーマンとアビー・ウィリアムズの生を称え記念し、自然と芸術と遊びと運動を何世代にもわたって享受できる場所をつくること」。資金集めは、記念ソフトボール大会から始まった。二〇二〇年には全米プロバスケットボール協会のオールスター事業から助成を受けている。二人が通っていたデルファイ・コミュニティ中学校は、図書室を「アビー・アンド・リビー記念図書室」と改名した。考えてみてほしい。

この町は、二人が最後に歩いた場所を修復し、二人の名前を子どもが遊ぶ場所と本を読む場所につけた。事件を消すのでも、事件に飲み込まれるのでもなく、名前を残す方向を選んだのだ。一方で、町は観光地にもなってしまった。事件現場を見に来る人間がいる。撮影して投稿する人間がいる。

裁判の期間中、キャロル郡庁舎の周りには全国からメディアが集まり、傍聴席をめぐる列ができた。町の住民は、自分たちの日常の場所が全米放送の背景になるのを見ていた。デルファイに生まれ育った人が語ったことがある。この町の子どもたちは、あの二人のことを知って育つ。知らないという選択肢がない、と。

二〇二六年八月現在、まだ終わっていない

さて、ここからが現在進行形の話だ。有罪判決と量刑のあと、リチャード・アレンは各地の施設を転々とした。ウェストビル矯正施設、ペンドルトン矯正施設、そして二〇二五年七月一八日、州際協定に基づいてオクラホマ州のレキシントン矯正収容センターに移送された。インディアナ州内では彼の安全を確保できないという判断があったとみられる。二〇二五年三月一二日、事件はまた別の形で世間を揺らした。

「リック・アレンに正義を」を掲げる支援団体が、自前のサイトであの四三秒の完全版動画を公開したのだ。裁判で陪審にだけ示され、それまで一般には出ていなかった映像である。八年越しで、世界中がその全部を見た。アレンの弁護士事務所は交流サイトでこの公開を確認し、事件について問い合わせが極めて多く寄せられ続けていると述べたのだ。四月九日には、州警察の取り調べ映像と獄中での自白場面の映像が公開された。

逮捕直後に容疑を否認する場面、そして家族との八本の通話が含まれていた。そして控訴だ。二〇二五年三月、弁護側が控訴の予告を提出。二〇二五年一二月一七日、一一三ページに及ぶ控訴人準備書面が提出された。争点は大きく三つ。

第一に、自宅の捜索が違憲であり、押収された証拠は排除されるべきであるという主張。弁護側は、捜査当局が令状請求にあたって目撃者の供述を省略し、また改変して、ブリッジ・ガイの映像に合うようにしたと主張している。第二に、獄中の自白は、長期にわたる独居拘禁による心理的強制の産物であり、適正手続に反するという主張。彼は「重度の障害状態」にあった、というのが弁護側の言い分だ。

第三に、公正な裁判を受ける権利の侵害。裁判所は弁護側の証拠を不当に排除し、検察側の伝聞証拠は認めた。自白がなされた状況に関する弁護側の証拠は封じ、代替容疑者の理論も提示させなかった。つまり、あのオーディン信仰の件だ。念のため書いておくが、ここまでは弁護側の言い分である。

弁護側の表現を借りれば、「陪審は物語の半分しか聞いていない」。二〇二六年三月二六日、インディアナ州司法長官室が答弁書面を提出した。反論はこうだ。捜索令状は適法に取得されている。アレンが親族や施設職員や心理士に語った内容は任意であり、強制されたものではない。

代替容疑者論と儀式的動機の主張は「あまりに思弁的で裏づけを欠く」。そして、仮に証拠採否の判断に一部誤りがあったとしても、「アレンの有罪を示す証明は圧倒的なままである」。二〇二六年四月二九日、弁護側は口頭弁論の実施を求める申立てを提出した。そして五月、インディアナ州控訴裁判所はこれを認めた。口頭弁論の期日は、二〇二六年九月二一日午前一〇時。

場所はインディアナ州議会議事堂内の州最高裁法廷。三人の裁判官による合議体の前で、双方に三〇分ずつが与えられる。つまり、この記事を書いている二〇二六年八月二六日現在、デルフィ事件の法的な決着はまだついていない。あと一か月足らずで、リチャード・アレンの有罪判決が維持されるのか、再審理が命じられるのかを左右する審理が始まる。

弁護側は一貫して、アレンは無罪であり、控訴手続を通じて第二の裁判で完全な防御を提示する機会が得られることを望んでいる、と表明している。遺族は、控訴などするなと法廷で言った。ここからは、事実の並べ直しではなく、この事件が突きつけているものについて書く。少し踏み込む。まず、司法的に確定していることと、そうでないことを、もう一度きれいに分けておきたい。

確定しているのは、次のことだ。二〇二四年一一月一一日、陪審はリチャード・アレンを、アビゲイル・ウィリアムズとリバティ・ジャーマンの殺害について、全ての訴因で有罪と評決した。二〇二四年一二月二〇日、フランシス・ガル判事は一三〇年の刑を科した。これが現在の法的な事実である。未確定なのは、次のことだ。

控訴審は係属中であり、二〇二六年九月二一日に口頭弁論が予定されている。有罪判決が維持されるか、破棄されて再審理となるかは、まだ誰にもわからない。そして、確定していないどころか、法廷で証拠として認められてすらいないのが、オーディン信仰の儀式殺人説である。この理論の中で名前を出された人物は、この事件で一度も起訴されていない。弁護側が最終弁論で言及したトレイル近くの住民も同じだ。

遺体発見現場の土地所有者だった故人も同じだ。偽アカウントの運用者も、殺人については起訴されていない。ネット上で何年も犯人扱いされてきた人々は、全員、司法的には一切の関係がない。この区別は、どれだけ強調しても足りない。そのうえで、この事件の構造を三つの角度から考えたい。

一つ目は、証拠の「薄さ」をどう扱うかという問題だ。この裁判で有罪を導いたものを冷静に並べると、意外なほど細い。現場にリチャード・アレンのディーエヌエーはなかった。指紋もない。凶器も見つかっていない。

彼が二〇一七年に使っていた携帯電話は、そもそも押収できていない――どこに行ったのか、誰にもわからない。彼の自宅から出た三〇本近いナイフとカッターナイフのどれも、現場と結びつかなかった。カーハートのジャケットも同じだ。有罪の柱になったのは、四つある。第一に、彼が事件当日その場所にいたことを自分から認めていたこと。

第二に、彼の服装と車が、ブリッジ・ガイおよび目撃証言と一致すること。第三に、彼の銃を通ったとされる未発射の実包が現場にあったこと。第四に、獄中での数十回にわたる自白と、声の同定だ。このうち、第三の実包は鑑定人同士が真っ向から対立した。第四の自白は、その取得環境そのものが控訴審の争点になっている。

第二の一致は状況証拠であり、当時のインディアナの田舎町でカーハートのジャケットとジーンズという格好は珍しくもなんともない。フォード・フォーカスの登録が郡内に一台だけだったという事実は、それなりに効いてはいるが。残るのは第一だ。彼は、その日その場所にいた。自分でそう言った。

事件の三日後に。考えてみると、この事件の最大の皮肉はここにある。リチャード・アレンを最終的に有罪にした最も強固な事実は、彼自身が捜査当局に提供したものだった。もし彼が二〇一七年二月に何も申告していなければ、二〇二二年にキャシー・シャンクが見つける紙は存在しなかったのだ。彼は自分から名乗り出て、そして五年半、書類の山に守られていた。

なぜ名乗り出たのか。事件直後、彼は妻にも自分がトレイルにいたと話している。誰かに目撃されているかもしれないという計算だったのかもしれない。あるいは、まったく別の心理だったのかもしれない。ここは推測でしかない。

二つ目は、「捜査の失敗」という問題だ。五年半のあいだに何が起きたかを考えると、暗い気持ちになる。数万件の通報が集まり、四〇人から五〇人の捜査官が動き、六〇〇〇枚の電光掲示板が全米に立ち、懸賞金は二五万ドルに達した。それだけの資源が投入されながら、答えは最初の三日以内に既に手元にあった。これは個人の怠慢の話ではないと思う。

むしろ、大量の情報を人手で捌く仕組みの限界の話だ。姓と住所が混線した一枚の紙。それを検出できる仕組みが、当時の捜査本部にはなかった。名寄せも、相互参照も、通報同士の突合も、人間の記憶に依存していた。皮肉なことに、それを最後に救ったのも人間の記憶だった――ボランティアの女性が「三人の少女」という言葉を覚えていた、という一点である。

この事件が教えてくれるのは、たぶんこういうことだ。捜査資源を増やすことと、捜査を賢くすることは別だ。通報が三万件から四万件に増えることは、必ずしも解決に近づくことを意味しない。むしろ、既に手元にある正解が、ノイズの中に深く沈むことを意味する場合がある。三つ目は、私たちがこの手の事件をどう消費してきたか、という問題だ。

デルフィ事件は、あるジャンルの完成形だった。少女が自分で撮った犯人の映像。三語の音声だ。廃線の鉄橋。田舎町だ。

未解決の五年半。ポッドキャストが何本も作られ、掲示板に何十万件もの書き込みが積み上がり、素人の「捜査」が延々と行われた。そのエネルギーの一部は、間違いなく善意だった。忘れさせない、というのは大事なことだ。遺族自身がそれを望んでもいた。

ケルシー・ジャーマンが匿名をやめて発信を選んだのは、まさにそのためだ。だが、同じエネルギーが人を傷つけ、無関係な人間の顔と名前がネットに晒された。土地の所有者だった高齢男性は、殺人で起訴されないまま、犯人として語られながら亡くなったのだ。取材者は殺害予告を受け、自宅を晒された。そして、少女たちの遺体写真が「レアカード」として流通し、受け取った誰一人として、それを当局に届けなかった。

私はここに、真犯罪コンテンツの構造的な問題があると思っている。事件を追うことが趣味になった瞬間、被害者は登場人物になり、容疑者は推しになり、事実は「自分の推理が当たっていたかどうか」の判定材料になる。取材者たちが書いた通りだ。真実を見つけることより、自説が正しかったことを確認するほうが大事になる。そして、それが最も残酷な形で現れたのが、あの流出写真の件だった。

あそこには、もはや事件を解決したいという動機はない。ただ、他人が持っていないものを持っているという優越感だけがある。では、どうすればよかったのか。簡単な答えはない。ただ、線は引ける。

情報を広めることと、人間を私刑にかけることは違う。仮説を立てることと、実名で犯人だと断定することは違う。関心を持つことと、被害者を素材にすることは違う。この記事も、その線の上で書いているつもりだ。だからこの記事には、起訴されていない人々の名前を書いていない。

最後に、あの四三秒のことをもう一度考えたい。一四歳のリバティ・ジャーマンは、逃げ場のない鉄橋の上で、見知らぬ男が近づいてくるのを見て、スマートフォンを取り出して録画ボタンを押した。誰かに教わったわけではないだろう。恐怖の中で、彼女は「これを残さなければ」と判断した。そして、その判断だけが、五年半後に犯人を法廷に立たせたのだ。

目撃者の記憶は薄れ、似顔絵は外れ、ディーエヌエーは出ず、凶器は見つからず、捜査は空転した。何もかもが失敗した中で、被害者本人が遺した記録だけが残っていた。これは英雄譚ではない。一四歳が英雄になる必要なんて、本当はなかった。彼女は友達と橋を渡っていただけだ。

学校が休みの月曜日に。だが、彼女はそれをやった。そして、その記録は今も存在している。二〇二五年に完全版が公開され、誰でも見られるようになった。見るべきかどうかは、人それぞれだと思う。

ただ、あの映像が存在するという事実だけは、覚えておいていい。二〇二六年九月二一日、インディアナ州議会議事堂の法廷で、この事件の次の章が始まる。有罪が維持されるのか、もう一度やり直しになるのか。デルファイの人たちは、また待つことになる。町の玄関先のオレンジの電球は、二〇二二年の逮捕のあと、多くの家で消された。

犯人が捕まったからだ。だが、消さなかった家もあると聞く。あの色は、もともとアビゲイル・ウィリアムズの好きな色だった。犯人が捕まっていない印であると同時に、二人を忘れない印でもあった。だから、消す理由も、消さない理由も、どちらもある。

アビゲイル・ジョイス・ウィリアムズ、一三歳。リバティ・ローズ・ジャーマン、一四歳。二人が生きていれば、今年で二二歳と二三歳になっている。

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