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ミステリー事件簿 ダッカ日航機ハイジャック事件――「一人の生命は地球より重い」の五日間、管制塔のすぐ外では本物のクーデターが起きていた

一九七七年の秋、日本という国は、たった五日間で自分の背骨がどこにあるのかを世界に見せてしまった。舞台はバングラデシュの首都ダッカ。パリを出て東京へ向かうはずだった日本航空四七二便が、インドのボンベイを飛び立った直後に乗っ取られた。そのまま南アジアの、独立してまだ六年しか経っていない国の空港に降ろされている。人質は百五十人以上。

要求は現金六百万ドルと、日本の刑務所と拘置所に入っていた九人の釈放。そして日本政府は、それを飲んだ。飲んだうえに、飲んだ理由を首相自身の言葉で国民に説明した。「一人の生命は地球より重い」。この一言は、あれから半世紀近く経った今も、日本の危機管理を語るときに必ず引っ張り出される。

ただ、この事件、そこだけ切り取って終わらせるにはあまりに惜しい。機内で起きていたこと、空港の管制塔で起きていたこと、そして同じ夜に空港のすぐ外で起きていた本物のクーデターと、その後に続いた千人規模の絞首刑。全部が同時進行していた。順番に見ていこう。

ボンベイを離陸して四分、機内に響いた「ウオー」という叫び

まず機体の素性から。一九七七年九月二十八日、日本航空四七二便。機材はダグラスDC8の62型、機体記号はJA8033。パリのシャルル・ド・ゴール空港を出発して、アテネ、カイロ、カラチ、ボンベイ、バンコク、香港を経由して東京へ帰る。いま考えるととんでもなく長い路線だ。

機長は高橋重男。乗員十四名、乗客百四十二名。この百四十二の中に、犯人五人が最初から座っていた。合計百五十六人。この便に乗り合わせていた日本航空の嘱託医、穂苅正臣という医師が後年に残した証言がやたらと生々しい。

彼はカイロに住む日本人のあいだで流行していた肝炎の調査を終えた帰りだった。カイロからカラチまでは、ピラミッドを眺めたり本を読んだりしているうちに六時間が過ぎたという。カラチで客室乗務員が全員入れ替わり、隣の席には次の乗務のために便乗していた澤田隆介機長が座った。ボンベイでは二百人以上が降り、二百人あまりが乗った。不審な乗客はいなかった、と彼は言っている。

誰も何も気づかず、異変は離陸から四、五分後だった。機内に「ウオー」という叫び声が響き、慌ただしい足音とともに、若い男が二、三人、ものすごい速さで前方へ走っていくのが見えた。騒ぎを抑えようと立ち上がったアシスタントパーサーが、拳銃を持った男たちに囲まれ、胸に銃口を突きつけられる。操縦室の鍵を出さなければ乗客を殺す。それが最初の要求だった。

彼らは日本赤軍を名乗った。どうやって武器を機内に持ち込んだのかについては、当時から諸説あるし、いま再現できる形で書くつもりもない。ここで押さえておくべきは、七〇年代の空港保安検査が、いまの感覚からすると信じられないほど緩かったという一点だけだ。

犯人たちが選んだ着陸地は、独立からまだ六年の国だった

乗っ取られた四七二便は、一度カルカッタ方面へ機首を向けた。だが途中で進路を変え、バングラデシュの首都ダッカへ向かう。当時のダッカの空の玄関はテジガオン空港だった。現在のダッカの国際空港はまだ存在していない。要するに、市街地のすぐそばにある、決して大きくない飛行場だ。

そこへ、着陸許可も何もない状態で降りてきた。現地時間の午前十一時三十分ごろのことだ。バングラデシュ空軍の司令官だったA・G・マムード空軍中将は、その日、閣議に出ていた。午前十時ごろ、副官が一枚の紙切れを渡してくる。乗員十四名を含む百五十六人を乗せた日航機がテジガオン上空を旋回して着陸許可を求めている、と書いてあった。

マムードは隣に座っていたジアウル・ラーマン大統領にその紙を回す。ジアは即座に「空港へ行って対応しろ」と指示した。マムードは管制塔に入り、無線で犯人と話し始める。彼が最初に試みたのは説得ですらなく、追い返すことだった。うちはまだ新しい国で、あなたたちが要求するようなサービスを提供できないかもしれない、よそに降りてくれ、と。

犯人は無視して降りた。なぜダッカだったのか。犯人側の言い分は残っていないが、状況から推測はできる。インド洋周辺で、日本と正式な犯罪人引渡しの枠組みが薄く、政治的に混乱していて、かつ滑走路がある場所。それがダッカだった。

マムードは後年のインタビューで「あれが百五時間に及ぶ人質劇の始まりだった」と振り返っている。日本側の記録では、発生から全面解決までを百三十四時間と数えることが多い。どちらの数え方でも、五日以上だ。

六百万ドルと「九人」――要求リストの中身が異様だった理由

着陸から約六時間後、犯人グループが無線に出てきた。彼らは自分たちを日本赤軍の「日高部隊」と名乗った。これは二年前のクアラルンプール事件に関与し、身柄を押さえられた後に獄中で自ら命を絶った日高敏彦の名を冠したものだ。つまり彼らは、最初から前の事件の続きとしてこれをやっていた。要求は二つ。

ひとつ、身代金六百万ドル。しかも百ドル札で、という指定つきだった。当時の為替は一ドルが二百六十六円前後。円換算でおよそ十六億円だ。ふたつめが、日本国内で服役中または勾留中の九人の釈放と、日本赤軍への参加。

この九人の顔ぶれが、この事件をただのテロ事件から一段ややこしい何かに変えている。奥平純三。日本赤軍で、ハーグ事件とクアラルンプール事件に関与したとして東京拘置所にいた。城崎勉。赤軍派で、横浜銀行を襲ったいわゆるM作戦の罪で府中刑務所に懲役十年だ。

大道寺あや子と浴田由紀子。この二人は日本赤軍ではなく東アジア反日武装戦線で、連続企業爆破事件の被告として東京拘置所にいた。泉水博。旭川刑務所で強盗殺人により無期懲役だ。仁平映。

殺人事件で一審懲役十年、東京拘置所だ。植垣康博。連合赤軍で、M作戦と山岳ベース事件だ。知念功。沖縄解放同盟で、沖縄刑務所。

ひめゆりの塔事件の関係者だ。そして大村寿雄。京都刑務所で、京都地方公安局爆破事件。見ての通り、組織がバラバラだ。日本赤軍の同志を取り返す、という単純な話ではない。

連合赤軍、東アジア反日武装戦線、沖縄の運動、そして獄中者組合という、思想的な系統も闘争の対象もまるで違う人間が一枚のリストに並んでいる。日本赤軍は仲間を助けようとしたのではなく、獄中にいる左翼活動家を人材としてリクルートしようとしていた。だからこそ要求の文言は「釈放」だけでなく「日本赤軍への参加」までがセットになっている。ここが、この事件の気持ち悪さの核心だ。

犯人はさらに、要求に応じない場合、あるいは回答がない場合は人質を順番に殺すと通告した。しかも最初に殺すのはアメリカ人だ、と付け加えている。機内には、当時のアメリカ大統領ジミー・カーターと親しいとされたアメリカ人銀行家が乗っていた。ジョン・ガブリエルという名で記録に残る人物だ。犯人側は、彼が乗っていることを事前に知っていたとされる。

人質の中から誰を最初の犠牲者にするか、名指しで指定してきた。これがアメリカを動かし、結果として日本政府の判断にアメリカへの外交的配慮を混ぜ込むことになる。

エンジンが止まった機内は四十五度、そこに医者が一人乗っていた

ここからしばらくは、政治の話ではなく、金属の筒の中の話をしたい。犯人は燃料の消費を抑えるためにエンジンを止めさせた。九月末のベンガル湾岸である。エアコンが止まった機内の気温は四十五度を超えたと記録されている。次々に人が倒れた。

熱中症だ。ここで、たまたま乗り合わせていた穂苅医師が動いた。彼が手当てにあたり、高橋機長が空港側に補助動力車と水を要求した。これが通ったおかげで、死者を出さずに済んでいる。ハイジャックというと銃口ばかりが語られるが、実際に人質を殺すのは、たいてい暑さと渇きと時間だ。

犯人は人質からパスポート、時計、現金、貴金属を取り上げた。手荷物を乗降口に積み上げてバリケードにし、窓のシールドは全部下ろさせた。外が見えない。中も見えない。そして、機内で必要な作業は全部女性客にやらせた。

犯人たち自身は自分で持ち込んだビスケットだけを口にし、差し入れられた水は人質に毒味をさせてから飲んでいる。彼らは彼らで、外から何かを盛られることを本気で警戒していた。途中、エジプト人の乗客にコレラ感染の疑いがあることが分かる場面がある。犯人はその乗客と周囲にいた五人を解放し、機内と乗客を酒で消毒した。そして人質たちに「コレラ」という単語を口にすることを禁じた。

パニックが起きたら自分たちも制御できなくなると分かっていたからだ。閉じた空間の中で、恐怖の管理をしていたのは犯人のほうだった、という構図がここに出てくる。九月二十九日には、体調不良を理由に五人が解放されている。この中にアメリカの女優キャロル・ウェルズがいた。彼女は新婚旅行の途中だった。

夫は元カリフォルニア州議会議員のウォルター・カラビアン。彼女は降り、夫は機内に残った。この一行だけで小説が一本書けてしまうが、当事者の私生活を面白がって消費する話ではないので、事実だけ置いておく。

「一人の生命は地球より重い」――この言葉、実は前置きがある

さて、東京。福田赳夫内閣は最初から追い込まれていた。理由がひとつある。この事件が起きる前日、九月二十七日に、マレーシアのクアラルンプール空港で日本航空機が墜落している。日本人十一人を含む三十四人が死亡する事故だった。

日本航空という会社は、大事故の対応と、自社機のハイジャックの対応を、まったく同じ時間軸で同時にやる羽目になった。世論も報道も、すでに極限まで張り詰めている。犯人が示した最初の期限は九月二十九日。この時点で政府は答えを出さなければならなかった。福田首相が要求受け入れの方針を明らかにしたのは二十九日の早朝で、正式に超法規的措置として釈放を決定し、実行に移したのが十月一日だ。

日付が資料によってずれて見えるのは、方針表明と決定と実行を別々に数えているせいで、矛盾ではない。そして例の一言が出る。「一人の生命は地球より重い」。媒体によっては「人命は地球より重い」と短く記録されている。これが福田赳夫という政治家の口から出たとき、日本国内の受け止めは、いま想像されるほど冷ややかではなかった。

当時の日本には、テロに屈するなという規範がまだ社会的に確立していない。二年前のクアラルンプール事件で三木武夫内閣が同じことをやっているし、その前年にはハーグ事件でフランス政府が同じことをやっている。人質を見殺しにするという選択肢を政府が公然と取ることの是非は、まだ世界的にも決着がついていなかった。福田の言葉は、開き直りではなく、当時の常識の範囲内で最大限に格好をつけた説明だった。

少なくとも、そう受け取る余地がある。ただし、この言葉には現実的な副作用があった。国家が人命を絶対の最上位に置くと宣言してしまうと、次に人質を取る側は、それを計算に入れて要求を吊り上げられる。犯人はまさに、クアラルンプール事件で日本政府が折れた前例を無線で持ち出して交渉している。前例は、次の事件のマニュアルになる。

この構図に日本が気づくのは、もう少し先だ。

釈放を拒んだ三人が、いちばん語られていない

九人のうち、日本赤軍に加わることを承諾して出国したのは六人だった。奥平純三、城崎勉、大道寺あや子、浴田由紀子、泉水博、仁平映。この六人が羽田から日本航空の特別機に乗り込む場面は、報道陣のカメラの前で行われている。そして、三人が断った。ここが、この事件でいちばん語られていない部分だと思う。

植垣康博は「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」と言って拒否した。山岳ベース事件をはじめとする連合赤軍の内部の惨事に、当事者として向き合わないまま国外に出るわけにはいかない、という趣旨だ。知念功は「一切の沖縄解放の闘いは沖縄を拠点に沖縄人自身が闘うべきものであり、日本赤軍とは政治的、思想的な一致点がない」と述べた。

沖縄の問題を、中東を拠点にする武装組織の物語に回収されるのを拒んだわけだ。大村寿雄は「政治革命を目指す赤軍とはイデオロギーが異なる」と断った。つまり犯人グループは、勝手に人選して、勝手に「同志」認定して、勝手に飛行機を乗っ取って、しかも三分の一に断られた。テロという行為の暴力性は当然として、この人選のずさんさは、彼らが獄中の活動家をどれだけ雑に見ていたかを物語っている。

断った三人は、その後もそれぞれの司法手続きに戻った。植垣は後に懲役二十年が確定し、一九九八年に出所している。大村は二〇二一年に和歌山県内の医療施設で肺炎により、七十七歳で亡くなった。もうひとつ、政府側にも交渉のねじれがあった。九人のうち泉水博と仁平映は獄中者組合に属していて、罪状は強盗殺人と殺人だ。

日本政府は議論の過程で、この二人については「思想犯ではなく刑事犯である」という理屈で釈放を拒む方針を立て、実際にそう交渉した。ところが犯人側がまったく応じない。最終的に日本政府が折れて、二人も出国している。人命最優先という旗を立てた瞬間、線引きの理屈は全部後ろに下がる。この一件はそれを露骨に示している。

法務大臣が辞めた。それでも飛行機は飛んだ

法務省と検察は、真正面から反対した。当時の法務大臣は福田一。首相の福田赳夫とは血縁関係はない。検事総長は神谷尚男。二人とも、確定判決を受けた者や公判中の被告人を、法的根拠なしに国外へ出すことに強硬に反対した。

法治国家における法の番人としての立場からすれば、当たり前の反応だ。だが、内閣の方針は覆らなかった。この釈放は、法務大臣が刑務所と拘置所を所管する法務省矯正局長を直接指揮するという形で実行されている。二年前のクアラルンプール事件のときは、検察庁法十四条ただし書きの指揮権に準ずる形が取られた。要するに、法律の条文の外側に、その都度どうにか手続きの見た目を作っていたということだ。

福田一は、実行が決まった後、周囲の慰留を振り切って大臣を辞めた。引責辞任だ。国務大臣が、自分の所管する法秩序が政治判断に踏み越えられたことの責任を取って辞める。ある意味で、この事件でいちばん筋の通った振る舞いをした人物かもしれない。細部も味わい深い。

釈放された六人が出国するにあたっては、日本国政府が正規のパスポートを発行している。テロ組織に合流する人間に、国が旅券を出した。そして出国した直後、旅券法にもとづく返納命令が出されている。形式だけは整えるが、実質は素通り。さらに、彼らには身代金とは別に、獄中で働いた労務金が上乗せされた金銭が渡された。

国家が、自分たちの刑務所で働いた分の賃金をきちんと精算して、テロリストのもとへ送り出したわけだ。この官僚的な律義さと、目の前で崩れている法秩序の対比が、なんとも言えない。十月一日の未明、午前三時半以降に釈放は実行された。同じ日の朝、政府特使団が羽田を発つ。団長は運輸政務次官の石井一。

日本航空の朝田静夫社長ら同社役員と運輸省幹部が同行し、機材はやはりDC8の62型でJA8031。積んだのは六百万ドルの現金、釈放された六人、交代要員の客室乗務員、そして六トンの食料だった。離陸は午前六時五分ごろだったと記録されている。

滑走路を塞いだトラックと、四発の威嚇射撃

現地では、日本側が到着する前から交渉の骨格ができあがっていた。犯人は当初から「日本政府とは交渉しない」と通告していたので、実務はすべてマムードが握っていたのだ。彼にとってこの事件は、独立六年目の国と自分の名を国際的に押し上げる機会でもあった。そういう計算があったことは、後の証言からも隠されていない。十月一日、日本側は「六人と六百万ドルを渡すのだから、人質は全員解放しろ」と主張した。

犯人は「五十七人だけ渡す。残りは最終目的地で解放する」と譲らない。最終目的地がどこなのかは明かさない。押し問答が続いたあと、ハイジャック機が突然、離陸するかのように滑走路へ動き出した。このときマムードが取った行動が凄まじい。

あらかじめ用意していた計画を発動し、トラックと消防車と空港の各種車両を一斉に滑走路へ突っ込ませて、機体の進路を物理的に塞いだ。犯人は空に向けて四発撃った。車両を退かせるための威嚇射撃だ。緊張は一気に跳ね上がったが、機体は結局もとの位置に戻った。そこからマムードは段階交換案を出す。

釈放者一人と百万ドルを渡すごとに、人質を十人解放しろ、という提案だ。六回繰り返せば六人と六百万ドルが全部渡り、五十七人が出てくる計算になる。第一段階が始まったのは十月一日の正午ごろ。最初に降りてきた十人は女性客だった。その様子は現地のテレビで生中継されている。

当時のバングラデシュ国営放送は一日四時間しか放送していなかった。だが、この事件のあいだだけは事実上二十四時間体制の放送局になった。日本大使館も協力していたという。国全体が管制塔を見ていた。同じ日の午前十時四十分ごろ、犯人は例のアメリカ人銀行家ジョン・ガブリエルを人道的な理由で解放している。

糖尿病があり、前立腺の疾患があり、冠動脈疾患もあった。最初に殺すと名指しされていた人物が、体調を理由に最初に降ろされたのだ。彼は市内の病院に運ばれ、アメリカ大使館の医師の診察を受けた。痛みはあるが意識ははっきりしている、というのが当時の記録だ。日本側の交渉は、はっきり言ってうまくいっていない。

石井らが無線に出るたびに犯人は態度を硬化させた。相手にされていなかった。それでも石井は、独断で一手を打っている。救援機の中にいた最後の交換要員、奥平純三に対して、日本政府代表団と人質全員を交換するよう犯人を説得してくれ、と頼んだのだ。釈放したばかりの人間に交渉を代行させる。

無茶だが、動いた。マムードも同じことを考えていて、奥平に対して「これ以上人質を解放しないなら燃料も食料も供給しない。閉じ込められるだけだ」と迫っている。アメリカ人を殺すという通信のカウントダウンが残り五秒に迫った場面で、石井は要求を全部飲む回答をした。翌十月三日には高橋機長と便乗していた澤田機長の機転で、さらに人質が降りている。

最終的にダッカで解放されたのは百十八人だった。

十月二日午前三時、空港の外で本物の銃撃戦が始まった

ここからが、この事件がただのハイジャックで終わらない理由だ。十月二日の午前零時過ぎに、釈放者と身代金、そして人質の交換作業が一段落した。無線のやり取りも減り、あとは夜が明けたら機体が飛び去るのを待つだけ、という空気になっていたのだ。その静けさの中で、午前三時ごろ、空港に隣接する軍の駐屯地で銃声が始まった。伏線は九月二十五日にさかのぼる。

ジアウル・ラーマン大統領はエジプトのカイロを訪れ、アンワル・サダト大統領と会談していた。国連安保理の議席をめぐる支持取りつけが目的だったが、その席でサダトは重大な警告を伝える。エジプトの情報機関が、バングラデシュ軍内部にジアを殺害してマルクス主義政権を樹立する計画を掴んだ、というのだ。計画の実行予定日は九月二十八日、空軍記念日の式典。

ジアは二十七日にダッカへ戻ると、マムード宛てに手書きの短いメモを送り、式典に出席できないと伝えている。そして二十八日、その式典はハイジャック事件のせいで中止になり、九月三十日にはボグラで最初の反乱が起きた。第二十二東ベンガル連隊の兵士が二人の中尉を殺害し、旅団長らを人質に取り、銀行や商店を襲った。だが、この時点でもまだ首都は動いていない。十月二日の未明、動いた。

陸軍通信部隊の兵士が合図として爆竹を鳴らし、小銃を一発撃つ。それを合図に数百人の兵士が兵舎から飛び出し、武器庫を襲った。近くのクルミトラ空軍基地からも数百人の空軍兵が合流し、午前二時四十分ごろには七百人規模で中央兵器廠を襲撃して武器弾薬を奪っている。兵舎には「武装革命を継続せよ」「将校のいない軍隊を作れ」と書かれたビラが撒かれていた。午前五時、政府のラジオ局が占拠された。

五十五分に「革命が成功した」という声明が放送される。空軍のアフサル・アリ・カーン軍曹が、革命評議会が結成され自分がその長であると名乗った。放送はわずか五分で終わり、局は通常のコーラン朗誦の番組に戻った。第九歩兵師団と警察が突入して放送局を奪還したからだ。

「ちょっとした緊急事態だ。自分の身は自分で守れ」

問題は、反乱兵が空港へなだれ込んだことだ。彼らの標的は、明確に空軍の高級将校だった。空港の反対側にある空軍将校クラブと、そして管制塔。ハイジャック事件の対応のために、この国の指揮系統の中枢が、ほぼ全員、管制塔とその周辺に集まっていたからだ。反乱側は、ハイジャック犯が受け取った六百万ドルの現金を奪うことも狙っていたとされる。

管制塔の中で銃撃戦が起きた。日本の政府関係者と報道各社の人間の目の前でだ。当時は報道規制が敷かれていたため、詳細が伝わるまでには時間がかかった。空軍将校十一人が殺された。グループキャプテンのラース・マスード、同じくアンサール・アハメド・チョウドリー。

ウィングコマンダーのアンワル・シェイク、以下、少佐級から少尉級までが並ぶ。中には十六歳の少年も含まれていた。空軍少佐の息子だった。鎮圧にあたった陸軍側でも十名が死亡している。マムード本人も襲われ、彼が民間航空局長の部屋にいたところ、扉を破られて数人の兵に連れ出された。

隣にいたアンサール・チョウドリーは、自動小銃を持った軍曹に至近距離から撃たれて即死し、マムードは撃たれなかった。本人の証言では「私は外された」、彼の妻の言い方では「奇跡的に助かった」となる。管制塔の交渉役は、その瞬間から外務省のS・A・ジャラルという官僚が引き継いだ。マムードの声は、機体がダッカを離れるまで二度と無線に乗らなかった。彼と他の高級将校は身を隠していたとみられている。

機内でも銃声ははっきり聞こえていた。後に解放された人質の何人かは、あれは特殊部隊の突入だと思った、と証言している。犯人側も無線で「何が起きた」と問い合わせた。管制塔からの返答が、この事件でいちばん忘れがたい一行だ。「ちょっとした緊急事態だ。

兵士が近づいたら撃っていい。自分の身は自分で守れ」。国家が、ハイジャック犯に対して、自国の兵士を撃つ許可を出している。米国大使館の報告文書でも、管制塔は「クーデターのようなものが起きた。だが、これは国内問題であなたたちに向けられたものではない」と説明したうえで、当面は追加の人質解放を遅らせるしかないと伝えたことが記録されている。

石井一政務次官も撃たれそうになったという。とっさに「日本人だ」と言うと、相手は謝って引き下がった。緊迫の極みなのに、どこか間の抜けた場面だ。反乱は午前七時ごろまでにほぼ制圧された。第四十六旅団と第九歩兵師団が投入され、ある中隊が空港ターミナルを掃討して、少なくとも二十人の反乱兵を射殺し、六十人を捕らえたのだ。

午前十一時四十五分、ジア大統領が短い演説を放送した。「方向を誤った者たち」が起こした騒ぎであり、陸海空軍と国境警備隊と警察の団結によって阻止された、と。

クーデターの後始末は、事件より重い数字を残した

そして、ここから先が本当に重い。ジア政権は徹底的な報復に出た。十月九日から軍事法廷が始まる。裁判長は下級の将校や下士官が務め、被告は集団で裁かれ、弁護人はつかない。死刑判決から四十八時間以内に執行された。

ダッカ中央刑務所の絞首台は、三人から四人を同時に吊るせるように拡張された。公式記録では、十月九日以降の二か月で千百四十三人が絞首刑になっている。独立系の推計では二千人を超えるとも言われる。拷問死した者はこの数字に含まれていないという指摘もある。ボグラの反乱に関わったとされる兵士たちはラジシャヒで処刑され、夜間外出禁止令の下で秘密裏に埋葬された。

手錠がついたままの遺骨が見つかったという証言も残っている。ジャーナリストのアンソニー・マスカレニャスは、これをバングラデシュの歴史上もっとも残虐で破壊的な処罰行為だと書いた。極度の速さと、司法手続きへの完全な無視をもって遂行された、と。マムード自身も、失敗した反乱の後にクルミトラ基地を訪れ、「お前たちは十一人殺した。だからお前たちは千百人死ぬ」と言い放ったとされる。

この言葉は当時者の証言にもとづく伝聞であり、確定した事実として扱うべきものではない。だが、その後の数字とあまりに符合してしまうために、いまも引用され続けている。日本の飛行機が一機、勝手に降りてきたことが、この連鎖の引き金を引いた。もちろん、クーデター計画そのものは日航機とは無関係に進行していた。サダトの警告がその証拠だ。

だが、政府中枢が空港の管制塔に釘付けになるという状況を作り出したのは、まぎれもなくこの事件だった。反乱側はその隙を突いた。日本政府は事件解決後、謝礼と謝罪の意味を込めてバングラデシュに特派使節を送っている。そしてバングラデシュ政府は、日本に対して補償を一切求めなかった。この対応は国際的に高く評価された。

四十年後の二〇一七年、日本政府はマムードに旭日重光章を贈っている。当時八十三歳だった彼は「日本人の記憶がこれほど長く続くとは信じがたい」と笑っていたという。

クウェート、ダマスカス、そしてアルジェ――なぜあの国だったのか

クーデターが鎮圧された直後、バングラデシュ側は動いた。反乱軍が六百万ドルを奪いに来ることを恐れた大統領令によって、ハイジャック機に強制離陸命令が出されたのだ。もはや交渉の主導権も何もない。出て行け、である。乗員と残りの人質を乗せた四七二便は、日本の救援機とともにダッカを離れた。

行き先は、日本の外務省が受け入れ交渉と手配を進めていたアルジェリアだった。経由地のクウェートで人質七人が、シリアのダマスカスでさらに十人が解放される。そして最終的に、アルジェの近郊にあるダル・エル・ベイダ空港に着陸した。ここで残っていた人質十二人と乗員七人、合わせて十九人が全員解放され、犯人五人と釈放された六人はアルジェリア当局に投降し、その管理下に置かれたのだ。

日本時間の十月四日午前一時二十五分、事件は終わった。誰も死ななかった。この一点は、何をどう批判するにしても動かない。なぜアルジェリアだったのか。理由は複数ある。

ひとつ、当時のアルジェリアはハイジャック防止に関する国際条約を結んでいなかった。犯人を引き渡す義務がない。ふたつ、ソ連などの支援を受けて東側寄りの立場を取っていた。みっつ、アメリカのブラックパンサー党のメンバーの亡命を受け入れた実績があった。キューバなどと並んで、パレスチナ解放機構をはじめとする第三世界の武装組織にとって最大級の後ろ盾のひとつだったのだ。

要するに、逃げ込む先として計算されていた。犯人たちがその後どうやってそこを離れたのか、六百万ドルがどこへ消えたのか。当時のニューヨーク・タイムズの記事でも「直ちには明らかでない」と書かれたまま、いまも完全には解明されていない。ちなみに機体のその後も書いておく。JA8033は日本に戻され、犯人が機内で爆発物の実験をして一部が壊れたトイレを修理し、清掃したうえで通常運航に復帰した。

一九八四年まで日本航空で飛び、その後メキシコのアエロメヒコ航空に売られて、九〇年代前半まで現役だった。人間の記憶よりも、金属のほうがしぶとい。

事件が終わって十七日後、ドイツはまったく逆の答えを出した

ダッカ事件の終結から十日後の一九七七年十月十三日、一機の旅客機が乗っ取られた。スペインのパルマ・デ・マヨルカ空港を発って、フランクフルトへ向かう便だった。ルフトハンザ航空一八一便、ボーイング737の「ランツフート号」である。実行犯はパレスチナ解放人民戦線のメンバー四人。男二人、女二人で、カップルを装って搭乗していた。

彼らの要求は、西ドイツで収監されていたドイツ赤軍幹部十一人の釈放と、千五百万ドルだった。構図はダッカとそっくりだ。武装組織が民間機を乗っ取り、獄中の仲間の釈放と現金を要求する。ドイツ赤軍は前月に、ドイツ経営者連盟会長ハンス・マルティン・シュライヤーを誘拐していた。そちらの要求が通らないので、圧力を上乗せするためにこのハイジャックが仕掛けられたのだ。

西ドイツ側は、ダッカ事件の顛末を当然知っていた。犯人側も知っていたはずだ。一八一便はローマ、ラルナカ、バーレーン、ドバイと転々とし、どこの国も着陸を渋った。南イエメンのアデンでは滑走路を車両で封鎖され、燃料が尽きかけたユルゲン・シューマン機長が脇の砂地に強行着陸するしかなかったのだ。そして、外部と連絡を取ったことを理由に、シューマン機長は乗客の目の前で頭を撃たれて殺され、三十七歳だった。

十月十七日未明、機体はソマリアのモガディシュに着き、機長の遺体は滑走路に投げ捨てられたのだ。機内では犯人が乗客に酒をかけ、爆破に備えていた。だが、ヘルムート・シュミット首相は要求に一切応じなかったのだ。彼はソマリアのシアド・バーレ大統領と直接交渉して特殊部隊投入の許可を取りつける一方、突入で人質に犠牲が出たら内閣総辞職する、と腹を決めていた。

十月十八日の未明、ミュンヘン・オリンピック事件をきっかけに創設された国境警備隊第九グループ、GSG9の三十人が突入した。作戦名はマジック・ファイヤー。イギリスのSAS隊員二名が新型の閃光弾を投入して開始の合図とし、隊員たちは非常口から機内に入った。所要時間は約五分。犯人四人のうち三人を射殺し、一人を逮捕、人質全員を救出した。

負傷はGSG9隊員一名と客室乗務員一名の軽傷のみ。「モガディシュの奇跡」と呼ばれた。突入の報が伝わると、シュタムハイム刑務所にいたドイツ赤軍幹部三人が獄中で自ら命を絶ち、その報を受けたドイツ赤軍はシュライヤーを殺害したのだ。翌十九日、フランスに乗り捨てられた車のトランクから遺体が見つかった。半月しか離れていない二つの事件で、日本とドイツは正反対の答えを出したのだ。

日本は誰も死なせず、テロリストと六人の活動家と六百万ドルを世界に放流した。ドイツは犯人を制圧し、人質を全員助け、しかし機長を失い、誘拐されていた経営者を見殺しにした。どちらが正しかったのか。この問いは、いまも倫理学の教科書に載るレベルの難問として残っている。断言できるのはひとつだけで、モガディシュ以降、先進国が人質と引き換えに服役囚を釈放するという選択肢は、事実上テーブルから消えた。

日本が静かに作り替えたもの――対策本部、法律、そして名前のない部隊

日本政府は、要求を飲んだその月から、二度と同じことをしないための工事を始めている。ここはあまり知られていないが、動きは速い。一九七七年十月、内閣に「ハイジャック等非人道的暴力防止対策本部」が設置された。日本赤軍対策、国際協力の推進、保安検査の強化など七項目の防止対策が決定される。同年十一月十九日には「航空機強取等防止対策を強化するための関係法律の一部を改正する法律」が成立した。

名前が長いが、要するにハイジャック絡みの複数の法律を一括で締め直す改正だ。翌一九七八年五月十六日には「人質による強要行為等の処罰に関する法律」が成立する。人質を取って第三者に何かを強要する行為そのものを、独立した重い犯罪として処罰する枠組みができた。ダッカで起きたことを、法律の側から名指しできるようにしたわけだ。対外的にはもっと大胆な手を打っている。

一九七八年八月七日、ボンで開かれた七か国首脳会議で、日本の提案により「航空機ハイジャックに関する声明」が採択された。ハイジャック犯の引渡しや訴追を拒否する国、あるいは機体を返さない国に対しては、その国へのすべての航空機の運航を停止する、という内容だ。犯人を匿う国に、航空路線ごと制裁をかける。

まさにアルジェリアやリビアや南イエメンで起きたことを踏まえた提案で、要求を飲んだ当事国が言い出したという点に、この国の反省の形が出ている。この声明を受けて、同年八月二十五日には前述の対策本部が「ハイジャック等に対する対処方針」を決定した。法秩序の維持のため、犯人の不法な要求には断固たる態度で臨むと明記している。一年足らずで、方針は百八十度ひっくり返った。

同年十一月には、在外公館の襲撃に備える海外警備官の制度も始まっている。出入国管理と旅券の運用も、この事件を境に硬くなった。釈放者に正規の旅券を出して直後に返納命令をかける。あの噛み合わない処理を二度とやらないために、日本赤軍関係者への旅券の発給と失効の管理は厳格化されていく。国外で身柄を押さえられたメンバーが、次々と日本へ強制送還されて裁判にかけられていく。

八〇年代以降のその流れは、この時期に整えられた枠組みの上に乗っている。そして、部隊ができて、事件の起きた一九七七年、警視庁と大阪府警にハイジャック等に対処する特殊部隊が作られた。当初は警視庁第六機動隊特科中隊、通称ロッカチュウ、大阪府警第二機動隊の特殊検挙班あるいは零中隊などと呼ばれ、存在そのものが長く非公表だったのだ。隊員の名前は警察官の名簿から消されていた。

一九七九年の三菱銀行人質事件で大阪の特殊検挙班が突入したことで、その存在の輪郭が世に出る。広く知られるようになったのは一九九五年の全日空機のハイジャック事件で、犯人を逮捕して人質を救出したときだ。これらが増設と装備強化を経て、いまのSATになった。手本にしたのは、ダッカの十七日後に結果を出したGSG9である。同じ教訓から、アメリカ陸軍もデルタフォースを作った。

さらに、警察庁は警備局に公安第三課兼外事課の調査官室を設け、中東、ヨーロッパ、東南アジアで日本赤軍の追跡捜査を始めた。この調査官室が、現在の国際テロリズム対策課の原型だ。日本の対テロ体制は、ダッカで負けたところから始まっている。

「日本はテロまで輸出するのか」と言われた話の、答え合わせ

この事件を語るときによく出てくるのが、諸外国から「日本はテロまで輸出するのか」と非難された、という話だ。当時の日本は家電や自動車の輸出が急増していた時期で、それにひっかけた皮肉である。実際にこの言い回しがどの国の誰の口から出たのかは資料によって曖昧で、通説として流通しているという言い方が正確だろう。ただし、この批判をそのまま鵜呑みにするのも公平ではない。

同じ時期、フランスはハーグ事件で日本赤軍メンバーを釈放している。西ドイツも一九七二年のルフトハンザ六一五便の事件で犯人の要求を飲み、ミュンヘン・オリンピック事件の実行犯を釈放した。一九七〇年のPFLPによる旅客機同時ハイジャックでは、複数の国が収監中の人物を出している。当時のテロ対応の相場観は「人質を助けるためなら仲間を出す」であって、日本だけが特別に腰砕けだったわけではない。

とはいえ、日本の場合は事情がもうひとつ悪かった。二年前のクアラルンプール事件で同じことをやっているという実績があったことだ。しかも犯人は、その実績を交渉の場で持ち出してきている。日本政府は前に折れたのだから今回も折れるはずだ、という読みだ。読み通りになった。

一度目は判断、二度目は前例、三度目があれば制度になる。だから日本は三度目が来る前に方針を変えた。ボン・サミットで自ら制裁の枠組みを提案したのは、そのための最短距離だった。もうひとつ、あまり指摘されない副産物がある。この事件は国内の司法にも長く尾を引いた。

大道寺あや子が起訴された後に国外へ逃げたことで、東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件の公判が停止する。刑事訴訟法の規定により共犯者の公判中は公訴時効が停止するため、同じ事件で指名手配されていた桐島聡の時効も止まったままになった。桐島とみられる男性が神奈川県内の病院で名乗り出て死亡が確認されたのは、二〇二四年一月のことだ。

半世紀近く、一機のハイジャックが日本の刑事手続きの時計を止め続けていたことになる。同事件で死刑判決を受けた者の刑が執行されないまま、獄中で病死した例も出ている。判決は出ているのに、共犯者の裁判が終わらないから執行できない。テロが法秩序に残した傷は、条文の細かいところに、こういう形で今も残っている。

手配写真の顔は、今も更新され続けている

最後に、人の話をしよう。犯人グループとして名前が挙がっているのは五人。丸岡修、佐々木規夫、坂東國男、西川純、和光晴生である。ただし、この五人が同じ重みで確定しているわけではない。丸岡修は一九八七年に東京で逮捕され、二〇〇〇年三月に無期懲役が確定し、二〇一一年に亡くなった。

西川純は一九九七年にボリビアで拘束されて日本へ送られ、二〇一一年九月に無期懲役が確定している。この二人は司法手続きを経て確定している。和光晴生は一九九七年にレバノンで拘束され、二〇〇〇年に日本へ移送されたが、ダッカ事件については立件されなかった。彼が起訴されたのはハーグ事件とクアラルンプール事件で、そちらで無期懲役が確定し、二〇二三年に亡くなっている。

丸岡の述懐では、和光はダッカには参加していないとされる。つまり、名簿に載っていることと、裁判で認定されたことは別物だ。ここは慎重に区別しておきたい。佐々木規夫と坂東國男は、いまも国際手配のまま行方が分からない。釈放された六人のその後も、見事に散らばった。

泉水博は一九八六年にフィリピンで拘束され、日本へ送られて刑を追加された。二〇二〇年三月、岐阜刑務所で八十三歳で亡くなっている。城崎勉は一九九六年にネパールで拘束され、別件でアメリカで懲役三十年を務めた後、二〇一五年に日本へ強制送還され、成田で逮捕された。懲役十二年が確定し、二〇二四年七月二十日に府中刑務所で七十六歳で亡くなったのだ。

浴田由紀子は一九九五年にルーマニアで拘束され、懲役二十年が確定して二〇一七年に刑期満了で出所した。そして奥平純三、大道寺あや子、仁平映の三人は、いまも国際手配中だ。二〇二六年七月時点で、警察当局が把握している逃亡中の日本赤軍関係者は六人。ダッカ事件の実行犯とされる坂東國男と佐々木規夫だ。ダッカで釈放された奥平純三、大道寺あや子、仁平映。

そしてクアラルンプール事件で釈放された松田久である。全員が七十代後半から八十歳前後になった。警視庁はホームページや動画で手配写真だけでなく、七十歳前後の推定似顔絵まで公開して情報提供を呼びかけている。「ひそかに帰国し、国内で潜伏している可能性も十分に考えられる」というのが警察の言い分だ。

ちなみに、テルアビブの空港で乱射事件を起こした岡本公三については、二〇二六年七月にパレスチナ解放人民戦線が死亡を発表した。七十八歳だった。一九七七年の秋に飛行機の中で起きたことは、いまも終わっていない。手配写真の顔だけが、コンピューターで少しずつ歳を取っていく。ここからは、事件の顛末を追うだけでは見えてこない部分を、もう少し腰を据えて掘っていきたい。

まず考えたいのは、この事件で交渉というものが誰の手にあったのか、という問題だ。表向き、日本は当事国だ。日本の航空会社の機体で、日本人の乗客が多く乗っていて、要求されたのは日本の刑務所にいる人間と日本政府が用意する現金だった。ところが、実際に犯人と口をきいていたのは日本人ではない。バングラデシュ空軍の司令官と、その部下と、途中から加わった外務省の官僚だった。

犯人が「日本政府とは交渉しない」と最初に通告したからだ。相手はこちらを人間として扱う気がない。要求を突きつける対象ではあっても、対話する相手ではない。この構造は、国家にとって相当に屈辱的だったはずだ。石井一政務次官が現地に着いたとき、交渉の骨格はすでにマムードが作り上げていた。

日本側にできたのは金と人間を届けることと、無線に出るたびに相手を苛立たせることだけだった。当時の記録に「日本側は全く交渉の相手にされなかった」とはっきり残っているのは、後年に脚色された悪口ではなく、現場の実感だと思う。この構造には、当時の日本が抱えていた本質的な弱点が出ている。国外で自国民が人質になったとき、日本には自前で介入する手段が何ひとつなかった。

部隊もない、法的な根拠もない、相手国と共同作戦を組む枠組みもない。あるのは金と、政治的な決断だけだ。手段が金しかない国は、金で解決する。それを弱腰と呼ぶのは簡単だが、選択肢が一つしかない場所で選択の是非を論じてもあまり意味がない。だから日本は事件の直後から、選択肢を増やす工事を始めた。

対策本部を作り、法律を通し、サミットで制裁の枠組みを提案し、名前を伏せた突入部隊を編成したのだ。ダッカで日本が本当に負けたのは交渉ではなく、交渉の前段階、つまり選択肢の枯渇だった。次に、福田赳夫の言葉をもう一度、意地悪に読んでみたい。「一人の生命は地球より重い」。この文の主語は誰か。

人質の生命だ。では、この天秤の反対側に置かれた「地球」は何を指すのか。当時の文脈では、法秩序と、国家の面子と、将来の抑止力だろう。福田は、目の前の百人以上の命を、抽象的な将来の危険より重いと判断した。政治家としては、たぶんこれ以外の選択はできなかったのだ。

もし突入して十人死んでいたら、あの内閣はその日のうちに終わっていた。ドイツのシュミット首相が総辞職の覚悟を固めていたのは、それが現実的なリスクだったからだ。ただし、この言葉の危うさは、天秤の反対側にあるものが「将来の犠牲者」だという点を隠してしまうところにある。要求を飲めば次の事件が来る。次の事件の人質は、まだ誰かも分からない。

名前も顔もない未来の百人と、いま目の前で汗だくになっている百人を、同じ秤に載せることは、人間の感覚としてはほぼ不可能だ。だからこの言葉は、正しいというより、正直だった。日本人はこの正直さを、その後ずいぶん長く引きずることになる。そして皮肉なことに、この言葉を発した内閣自身が、一年以内に「不法な要求には断固たる態度で臨む」と方針を書き換えた。前言撤回ではあるが、無責任ではない。

自分が飲んだ苦さを、制度に翻訳した。政治の仕事としては、案外まっとうな部類だと思う。三つ目に掘りたいのは、釈放を拒んだ三人のことだ。植垣康博、知念功、大村寿雄。彼らのやったことの是非は司法が判断済みで、ここで擁護する話ではない。

だが、獄中にいる人間が、突然「お前を国外に出してやる。そのかわり武装組織に加われ」と告げられて、断るというのは、どういう精神状態なのか。植垣は連合赤軍の内部で起きた惨事に、当事者として向き合うと言った。知念は沖縄の運動が本土発の武装組織に吸収されることを拒んだ。大村はイデオロギーが違うと言った。

三人とも、自分の運動の筋を守るために、自由になる機会を蹴っている。テロリストの側から見れば、これは完全な計算違いだったはずだ。獄中の左翼活動家なら誰でも喜んで加わると思い込んでいた。その傲慢さが、人選のリストにそのまま出ている。組織も思想も罪状もバラバラの九人を並べて「同志」と呼ぶ雑さは、彼らが日本国内の運動の実態から完全に切れていたことの証明でもある。

中東を拠点に、日本の獄中名簿だけを見て人を選んだ。だから三分の一に断られた。四つ目。同時進行していたクーデターの扱いについて。日本の資料では、このクーデターはたいてい「事件をさらに緊迫させた出来事」として、数行で処理される。

だが、バングラデシュの側から見れば、順序が完全に逆だ。彼らにとっての一九七七年十月二日は、空軍将校十一人が殺され、それをきっかけに二か月で千人以上が絞首刑になった日である。日本の飛行機は、その日に空港にいた背景に過ぎない。数字を並べてしまえば残酷なほど明白で、日航機の乗員乗客は一人も死んでいない。

バングラデシュ側では、その夜だけで二十人以上の兵が射殺され、将校と兵士が二十一人死に、その後の処刑で公式でも千百四十三人が死んだ。同じ空港で、同じ夜に、まったく釣り合わない量の死が起きていた。もちろん、クーデター計画は日航機とは無関係に存在していた。サダトがジアに警告したのは事件の三日前だ。だから日本に因果の責任があるという単純な話ではない。

しかし、政府と軍の中枢が管制塔に釘付けになり、空軍の高級将校が一箇所に集まった。しかも空港には現金六百万ドルが運び込まれる。その状況を作ったのは、間違いなくこの事件だった。反乱の首謀者たちがその日を選んだのは偶然ではないだろう。テロリズムは、それを仕掛けた本人が意図していなかった場所でも、社会の一番脆いところを引き裂く。

ダッカ事件がバングラデシュに残したのは、日本への恨みではなく、自国の軍と社会に走った巨大な亀裂だった。そして、その亀裂の後始末として実行された処刑の数は、いまも十分に検証されていない。ここで、バングラデシュ政府が日本に一切の補償を求めなかったという事実の重みも考えたい。当時の同国は独立六年目で、経済的にも政治的にも余裕はまるでなかった。

日本の飛行機を受け入れたせいで、事実上の内乱を招き、空軍幹部を失ったのだ。それでも請求書を送らなかった。これはたいへんな判断だ。日本政府は特派使節を送って謝礼と謝罪を伝え、四十年後には現場の指揮を執った将官に勲章を贈った。国と国の関係の中では珍しく、後味の悪くないやり取りだと思う。

もっとも、勲章を受け取ったマムード自身が、その後の大量処刑をめぐって国内で厳しい評価を受けている人物でもある。一つの事件の評価が、国境をまたぐと反転する。歴史というのは、だいたいこういう構造をしている。五つ目に、モガディシュとの対比をもう一段だけ深めたい。日本とドイツを分けたのは、勇気の量ではなく、蓄積の差だ。

西ドイツには一九七二年のミュンヘン・オリンピック事件という、取り返しのつかない失敗の記憶があった。あの事件では人質全員が死んだ。その失敗の直後にGSG9が作られ、五年間かけて訓練が積まれた。だからモガディシュのとき、シュミット首相の手元には「使える選択肢」が実在しており、日本にはそれがなかったのだ。同じ年の同じ秋に、片方には五年分の準備があり、片方にはゼロだった。

判断の是非を比べる前に、この非対称を見るべきだと思う。さらに言えば、モガディシュの結末も手放しで褒められるものではない。突入は成功したが、機長は先に殺されていた。獄中のドイツ赤軍幹部三人が自ら命を絶ち、誘拐されていた経営者は報復として殺されたのだ。政府は要求に応じない方針を貫き、その結果として一人の民間人を見殺しにした。

ドイツ国内でこの決断が「英断」として定着するまでには時間がかかっている。テロに屈しないという原則は、それを貫いた側にも死者を積み上げる。ダッカは全員が生きて帰り、モガディシュは制圧に成功した。両方の帳簿を並べると、どちらにも黒字と赤字がある。この事件を「日本は弱腰でドイツは強かった」という一行に圧縮してしまうのは、両方の死者に対して雑すぎる扱いだ。

六つ目。この事件が日本社会に落とした影のうち、いちばん奇妙なものについても触れておきたい。事件の十七日後、長崎でバスジャック事件が起きている。「阿蘇連合赤軍」を名乗る二人組が、政治家との面会などを要求した。だが、実態は一連の赤軍事件を模倣した身代金目的の犯行とされた。

警察は強硬策を選び、犯人一人が射殺され、一人が逮捕され、人質十六人は無事に救出されている。ダッカで政府が要求を飲んだ直後に、国内では真逆の対応が取られている。テロの手口は、報道を通じて模倣される。そして模倣犯には、国家はためらわずに強硬手段を使える。この落差もまた、当時の日本の対テロ体制の未整備さを示している。

ほかにも、福岡の療養所で、この事件の報道をめぐって同室の患者と口論になり、刺殺に至るという事件まで起きている。全国が同じ画面を見つめ続けた五日間の緊張は、まったく無関係な場所で人を壊した。最後に、この事件が現在まで持ち越しているものを整理しておきたい。ひとつは、逃亡中の六人の存在だ。全員が高齢で、居場所も生死も確認されていない者がいる。

国際手配はいまも生きている。ふたつめは、司法手続きの停止という奇妙な後遺症だ。共犯者が国外に逃げたことで公判が止まり、その結果として死刑判決が確定していても執行できない状態が続いた。判決文はあるのに、事件が終わっていない。三つめは、制度としての遺産だ。

SATも、国際テロリズム対策課も、人質による強要行為を処罰する法律も、全部この事件の産物である。日本が要求を飲んだ日から、この国の対テロ体制は始まった。こうして並べてみると、ダッカ事件は「福田赳夫が名言を残した事件」ではまったくない。国家が自分の法を自分で踏み越えたときに何が起きるか。そのコストが誰にどう分配されるか。

そして分配の帳簿が何十年も閉じないということ。それを、ひとつの飛行機と、ひとつの管制塔と、ひとつの隣国の内乱を通して見せた事件だ。乗員乗客百五十六人は全員生きて帰った。それは紛れもなく良いことで、同じ夜、同じ空港の外で千人以上が死ぬ道が開き、それも同時に起きたことだったのだ。この二つを同じページに並べて書けるようになるまで、半世紀近くかかった。

それが、この事件をいま読み返す理由だと思っている。

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