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フィレンツェの怪物――同じ拳銃が十七年撃ち続けた、丘の上の未解決

トスカーナの丘は、写真で見るとほんとうに綺麗だ。糸杉の並木、ブドウ畑、夕方になると空がオレンジから紫に変わる。その同じ丘で、十七年にわたって、車の中にいた若いカップルが撃たれ続けた。撃った銃はずっと同じ一挺だ。犯人は捕まっていない。これがイタリアで「モストロ・ディ・フィレンツェ」、フィレンツェの怪物と呼ばれる事件だ。

丘の上には、いつも同じ夜があった

まず全体像を押さえておく。一九六八年から一九八五年まで、フィレンツェ近郊の田舎道で八組、合計十六人が殺された。被害者はほぼ全員が、人目につかない場所に車を停めていたカップルだ。使われたのは.22口径のベレッタとみられる自動拳銃で、薬莢はすべてウィンチェスター製、底面に「H」の刻印が入った同じロットの弾だった。この一致が、バラバラだった事件を一本の線につないだ。

そして四十年以上たった今も、その銃は見つかっていない。犯人として確定した人物もいない。有罪判決を受けた人間はいる。でも判決の中身をたどっていくと、誰がどの事件を「やった」ことになっているのか、審級ごとにぐらぐら揺れる。そこがこの事件のいちばん厄介で、いちばん人を引きつけるところなんだよな。

一九六八年八月二十一日、シーニャ――最初は痴情のもつれのはずだった

最初の夜は、誰も連続殺人だなんて思っていなかった。一九六八年八月二十一日、日付が変わったころ。フィレンツェの西、シーニャの墓地に近い未舗装の道に、白いアルファロメオ・ジュリエッタが停まっていた。中にいたのはアントニオ・ロ・ビアンコ(二十九歳、左官職人)と、バルバラ・ロッチ(三十二歳)。ロッチには夫がいた。ステファノ・メレという男だ。二人は不倫関係だった。

撃たれた弾は八発。二人にそれぞれ四発ずつ。そして異様なのは、後部座席に六歳の男の子が眠っていたことだ。ロッチの息子、ナタリーノ・メレ。銃声のなか、この子は無傷だった。そして真っ暗な田舎道を、ひとりで数キロ歩き、近くの農家の玄関を叩いた。この「歩いた子ども」の存在が、のちのち何十年も捜査を混乱させることになる。

夫のステファノ・メレは硝煙反応が出て、自白した。一九七〇年に懲役十四年。事件は「よくある痴情のもつれ」として片づけられた。ここで終わっていれば、ただの地方紙の三面記事だったはずだ。

六年の空白のあと、一九七四年九月十四日に何かが変わった

次は一九七四年九月十四日の夜。舞台はフィレンツェの北東、ムジェッロ地方のボルゴ・サン・ロレンツォ。サッジナーレのフォンタニーネ・ディ・ラバッタという、ディスコの近くのブドウ畑だ。パスクアーレ・ジェンティルコレ(十九歳、バール店員)とステファニア・ペッティーニ(十八歳)がフィアット一二七の中にいた。

撃たれたのは八発。男性に五発、女性に三発。そしてここから、この事件の「怪物」らしさが始まる。女性の遺体は車外に引き出され、死後に多数の刺し傷を負わされていた。さらに現場のブドウの若枝が遺体に用いられていた。犯人がなぜそんなことをしたのか、動機の説明は今日まで誰にもできていない。

遺体が見つかったのは翌十五日の朝。当時、警察はこれを一九六八年の事件と結びつけていない。六年も離れているし、場所も二十キロ以上違う。誰もつながりを想像しなかった。

一九八一年六月六日、スカンディッチ――「怪物」という言葉が新聞に載った日

さらに七年が空く。一九八一年六月六日の夜十時ごろ、スカンディッチのモシャーノ、ロヴェータの丘。銅色のフィアット・リトモの中で、ジョヴァンニ・フォッジ(三十歳、倉庫作業員)とカルメラ・デ・ヌッチョ(二十一歳、店員)が撃たれた。八発が発射され、うち五個の薬莢が回収されている。

このとき初めて、遺体に対して明確に外科的な切除が行われていた。詳細は書かない。ただ、この一点で捜査本部の空気が変わった。行きずりの強盗でも、痴情のもつれでもない。何か別のものが丘を歩いている、と現場の刑事たちは理解した。

地元紙が「怪物」という単語を使い始めたのはこのあたりからだ。そしてフィレンツェ中の若者が、夜に車を停める場所を変え始めた。

一九八一年十月二十二日、カレンツァーノ――四か月半後、同じ手口

六月の事件から四か月半。一九八一年十月二十二日から二十三日にかけての深夜、こんどはフィレンツェの北西、カレンツァーノのトラヴァッレ地区、レ・バルトリーネと呼ばれる場所。黒いフォルクスワーゲン・ゴルフの中に、ステファノ・バルディ(二十六歳、工員)とスザンナ・カンビ(二十四歳、電話交換手)がいた。

九発が発射され、七個の薬莢が現場から回収された。女性の遺体はやはり損壊されていた。死亡推定時刻は真夜中ごろ。

そして不気味な後日談がある。事件のあと、被害者の母親のもとに正体不明の電話がかかってきた。この手の「犯人からの接触」めいた話は、この事件では何度も出てくる。全部が本物とは限らない。だが全部が嘘とも言い切れない。当時の捜査資料には、確認できないまま残された断片がやたらと多い。

一九八二年六月十九日、バッカイアーノ――たった一人、逃げようとした男がいた

一九八二年六月十九日の夜。モンテスペルトリのバッカイアーノ、県道沿い。パオロ・マイナルディ(二十二歳、整備工)とアントネッラ・ミリオリーニ(十九歳)のフィアット一二七が襲われた。

この夜だけ、シナリオが崩れた。マイナルディは撃たれても即死しなかった。彼はエンジンをかけ、車をバックさせ、道路を横切って、反対側の側溝に突っ込んだ。整備工らしい、とっさの判断だ。犯人はそれを追った。ミリオリーニはその場で死亡。マイナルディは重傷のまま病院に運ばれ、翌日、意識を取り戻すことなく亡くなった。

もし彼が一言でもしゃべっていたら。これは、この事件を追う人間が全員一度は考えることだ。県道沿いという、それまでよりずっと開けた場所だったこと。車のライトが誰かに見られていた可能性があること。この夜が「いちばん惜しかった夜」と呼ばれる理由がここにある。そして被害女性の遺体には損壊がなかった。犯人が作業をする時間がなかった、と読むのが自然だ。

一九八二年夏、古い封筒から出てきた薬莢が過去を裏返した

バッカイアーノの直後、捜査は思わぬ方向から動いた。匿名の投書が「一九六八年のシーニャの事件を見直せ」と伝えてきたのだ。

一九八二年七月二十日、予審判事ヴィンチェンツォ・トリコーミが、十四年前のステファノ・メレ事件の記録を引っ張り出した。そこには保管されたままの弾丸と薬莢があった。照合の結果は決定的だった。一九六八年に人を殺した銃と、一九八一年に人を殺した銃は同じだった。「H」の刻印まで一致した。

これで捜査は根本から書き換わる。ステファノ・メレは一九六八年の事件で有罪となり、その後の年月の大半を刑務所か施設で過ごしていた。つまり彼が撃てるはずのない事件で、彼の事件と同じ銃が使われている。銃はどこかで誰かの手に渡ったのだ。それが誰か。ここから「サルデーニャ人筋」という巨大な迷路が始まる。

一九八三年九月九日、ジョーゴリ――ワーゲンバスの中にいたのは二人の男だった

一九八三年九月九日の夜、スカンディッチのジョーゴリ。フォルクスワーゲンのキャンピングバスの中で、西ドイツから来た二十四歳の青年ふたり、ホルスト・ヴィルヘルム・マイヤーとイェンス=ウーヴェ・リュッシュが撃たれた。七発。

この回だけ、被害者に女性がいない。だから当初から「犯人が女性と間違えた」という見立てが強かった。リュッシュは髪が長く、車内には眠っている姿しか見えなかっただろう、と。実際、遺体に損壊はなかった。目的の相手ではなかったから作業をやめた、という解釈だ。

弾道の分析から、発砲は地上一メートル三十センチ以上の高さから行われたと推定された。そこから犯人の身長は一メートル八十前後ではないか、という数字が出た。この「一八〇センチ説」は、あとでピエトロ・パッチャーニという小柄な男が容疑者になったとき、弁護側の重要な武器になる。

一九八四年七月二十九日、ヴィッキオ――夏祭りの帰り道

一九八四年七月二十九日。ムジェッロのヴィッキオ、ラ・ボスケッタと呼ばれる場所。クラウディオ・ステファナッチ(二十一歳)とピア・ジルダ・ロンティーニ(十八歳)が、フィアット・パンダの中にいた。ロンティーニは地元のバールで働いていて、その日も友人たちと夏の夜を過ごしていた。

最初の一発は右側のドアガラスを貫いた。後部にいた人物に当たった。ロンティーニは車から逃げ出したが、追いつかれた。彼女の遺体には切除が行われていた。

この事件は地元コミュニティを完全に破壊した。ヴィッキオは人口数千人の町だ。全員が全員の顔を知っている。「知らないやつが来た」なら話は早いが、そういう証言は出てこなかった。犯人は地元の風景に溶け込んでいる誰かだ、という確信が、このあたりから捜査側にも住民側にも根を張っていく。

一九八五年九月七日から八日、スコペーティ――テントを狙った最後の夜

そして最後の夜が来る。サン・カシャーノ・イン・ヴァル・ディ・ペーザのスコペーティ。フランスから旅行に来ていたナディーヌ・モーリオ(三十六歳)とジャン=ミシェル・クラヴェイチヴィリ(二十五歳)が、フォルクスワーゲン・ゴルフの脇に張った小さなテントで眠っていた。

犯人はテントの布ごと撃った。クラヴェイチヴィリはテントから飛び出し、数十メートル走った。追いつかれ、そこで殺された。モーリオはテント内で死亡し、遺体は損壊された。

ここで、この事件史上いちばん激しく争われている論点が出てくる。殺害は九月七日土曜の夜だったのか、八日日曜の夜だったのか。遺体が発見されたのは九日月曜、キノコ狩りに来た人たちによってだ。検死所見と、テント周辺の状況、周辺住民の記憶が食い違い、二つの説が今も並び立っている。たった一日。だがこの一日の差で、特定の人物のアリバイが成立したり崩れたりする。

だからこの論点だけで一冊本が書けるレベルで揉め続けているんだよな。

九月十日午前十時半、検事宛ての封筒が開かれた

遺体発見の翌日。一九八五年九月十日の午前十時半ごろ、フィレンツェ検察庁に一通の封筒が届いた。宛先はシルヴィア・デッラ・モニカ検事。彼女はこの事件を担当していたが、一九八四年一月に捜査から離れていた。

宛名は手書きではなかった。雑誌から切り抜いた活字を一文字ずつ貼りつけて作られていた。そして「Repubblica」の綴りが、Bひとつで書かれていた。中に入っていたのは、被害者ナディーヌ・モーリオの身体組織の一片だった。二.八センチ×二.〇センチ。セロファンに包まれ、白い紙に封じられていた。

鑑識は執念で追った。切り抜きに使われたのは『ジェンテ』誌の一九八四年十二月二十一日号、第五十一号。糊はデキストリンとUHUの二種類。投函されたのは九月九日の午前九時半より前、サン・ピエロ・ア・シエーヴェの郵便局から。切手は四五〇リラ、サルデーニャのボーザ城の図柄。九つの指紋断片が採取されたが、唾液は検出されなかった。

これだけ調べて、誰も特定できていない。犯人はこの一通を最後に、公式には二度と姿を見せていない。

「H」の刻印――弾丸が語り続けたたったひとつの事実

物証の話をしておく。この事件で本当に確実なものは、実はほとんどない。指紋も足跡も、犯人のものと断定できたものはない。目撃証言は膨大にあるが、互いに矛盾する。

確実なのは弾だけだ。.22ロングライフル、ウィンチェスター製、底面に「H」の刻印。銃は.22口径のベレッタとみられる自動拳銃。撃針が残す痕跡の個性から、八件すべてが同一の銃であることが確認されている。

ただし、その銃そのものは一度も見つかっていない。四十年以上、イタリア中の警察が探して、出てこない。しかも「H」刻印のロットは特定の時期に流通したもので、当時から古い弾だった。つまり犯人は、一九六八年より前に手に入れた弾を、一九八五年まで少しずつ使い続けていたことになる。この一点だけで、犯人像はかなり絞られるはずなんだが、それでも絞りきれていない。

サルデーニャ人一味説――ヴィンチ三兄弟という迷路

一九六八年の銃が後年の事件に使われている以上、あの夜その場にいた人間、あるいはその周辺の人間を洗うしかない。バルバラ・ロッチはサルデーニャ島出身のコミュニティと深く関わっていた。とくにヴィッラチードロという町から一九五二年以降トスカーナに移り住んだヴィンチ三兄弟、ジョヴァンニ、フランチェスコ、サルヴァトーレは、いずれもロッチと関係を持っていた。

捜査線上には次々と名前が挙がる。フランチェスコ・ヴィンチが最初に逮捕された。だが彼が勾留中の一九八三年に新たな事件が起きた。次にステファノ・メレの兄ジョヴァンニ・メレと義兄ピエロ・ムッチャリーニが逮捕された。今度は彼らの勾留中、一九八四年に事件が起きた。

これが「サルデーニャ人筋」の悲惨なところで、逮捕するたびに犯人が外で人を殺すので、そのたびに仮説が崩れる。一九八九年、予審判事マリオ・ロテッラはついにサルデーニャ人筋を全面的に断念した。何年もかけて、誰も起訴できなかった。

一九八八年、サルヴァトーレ・ヴィンチ裁判が示した「証明できなさ」

サルヴァトーレ・ヴィンチについては、別筋の裁判があった。一九六〇年にサルデーニャで彼の妻バルバリーナ・ステーリが死亡した件だ。当時は自殺として処理されていたが、後年これが殺人ではないかとして起訴された。

一九八八年、裁判所は彼を無罪とした。証拠が足りなかった。彼はその後トスカーナから姿を消し、行方が長くわからなくなる。近年の取材で、生存していて国外にいた時期があると報じられている。

この裁判が象徴的なのは、二十八年前の出来事を法廷で証明することの絶望的な難しさだ。そしてフィレンツェの怪物という事件は、ずっとこの「証明できなさ」と戦い続けることになる。疑わしい人物はいる。状況はそろっている。だが有罪にできるだけの何かが、いつも足りない。

コンピューター捜査という新兵器と、ピエトロ・パッチャーニの浮上

一九八四年、フィレンツェ警察に「反怪物捜査班」、通称SAMが設置された。指揮を執ったのはルッジェーロ・ペルジーニ警視。彼は当時としては先進的な手法を持ち込んだ。性犯罪の前歴者リストを作り、犯行現場との地理的な近さでふるいにかけ、コンピューターで交差させたのだ。

そこに残った名前のひとつが、ピエトロ・パッチャーニだった。一九二五年生まれの農民。メルカターレ在住。地元では「イル・ヴァンパ」と呼ばれていた。かっとなると手がつけられない、という意味だ。

彼の経歴はたしかに重かった。一九五一年、恋人をめぐる争いから相手の男を刺殺している。刺し傷は十九か所。十三年服役し、一九六四年に出所した。その後、娘たちへの性的虐待で有罪判決を受け、一九九一年まで服役していた。密猟者で、猟銃の扱いに慣れていて、犯行現場のほとんどを日常的な行動範囲に含めていた。

一九九三年一月十七日の朝、「あんたらが探してるのはわしじゃない」

一九九二年、パッチャーニの自宅と菜園に大規模な捜索が入った。そして菜園の土の中から、未発射の.22ウィンチェスター弾が一発、見つかった。「H」刻印の系統の弾だ。

パッチャーニは激しく否定した。誰かが置いたのだ、と。実際、この弾の状態については当時から疑問が出ていた。だがこれが決め手になった。

一九九三年一月十七日の朝、彼は逮捕される。手錠をかけられながら、彼はこう言ったと報じられている。あんたらが探してるのはわしじゃない、と。この一言は、その後のイタリアで何度も引用されることになる。

捜査側が押収したものには、ほかにもボッティチェリ『春』の複製画、ドイツ人被害者のものとされるスケッチブック、被害者の持ち物とされる小物などがあった。ただしそのどれもが、決定的ではなかった。決定的でないものを大量に積み上げる。それがこの起訴の構造だった。

一九九四年の第一審――十四の殺人、そして終身刑

第一審は一九九四年四月に開廷した。イタリア中がテレビに釘づけになった。パッチャーニは法廷で泣き、叫び、聖母に祈り、自分は「哀れな農夫」だと繰り返した。傍聴席は満員だった。

検察側の証人として重要だったのがロレンツォ・ネージという男で、一九八五年のスコペーティ事件の夜、現場付近でパッチャーニの車を見たと証言した。この証言は審理の途中で内容が変わっていったことでも知られている。

一九九四年十一月一日、判決。八件のうち一九六八年を除く七件、被害者にして十四人の殺害について有罪。終身刑。イタリアの新聞は「怪物、ついに捕まる」と一面で報じた。

一九九六年二月十三日、検察官自身が無罪を求めた異様な控訴審

ところが控訴審で、前代未聞のことが起きる。検察側の代表である検事総長ピエロ・トニーが、法廷で被告人の無罪を求めたのだ。証拠が足りない、捜査の質が低い、というのがその理由だった。訴える側が「この人は有罪にできません」と言った。

一九九六年二月十三日、控訴審はパッチャーニを無罪とした。しかも「事実を犯していない」という、最も強い形の無罪だ。彼は釈放された。

これで終わらなかった。同年十二月十二日、破毀院がこの無罪判決を破棄し、控訴審のやり直しを命じた。パッチャーニは再び被告人の立場に戻った。だが一九九八年二月二十二日、彼はメルカターレの自宅で死亡しているのが見つかる。再審は開かれないまま、彼の裁判は終わった。

つまり法的に言えば、パッチャーニは有罪でも無罪でもない状態のまま死んだ。彼を「フィレンツェの怪物だった」と断定した確定判決は、ひとつも存在しない。

「日曜の友人たち」――法廷から生まれた流行語

パッチャーニの第一審に、マリオ・ヴァンニという元郵便配達人が証人として呼ばれた。パッチャーニとの関係を問われた彼は、自分たちは一緒に食事をする程度の間柄だ、という意味のことを繰り返した。イタリア語で「メレンダ」、軽食やおやつのことだ。

この受け答えが「コンパーニ・ディ・メレンデ」、おやつ仲間、日曜の友人たち、という言葉を生んだ。テレビが繰り返し流し、イタリア語の日常表現として定着した。今でもイタリアでは、うさんくさい仲良しグループを指して使われることがある。

そして皮肉なことに、この言葉を生んだ本人が次の被告人になる。ヴァンニ、そしてジャンカルロ・ロッティ。彼らを軸にした「複数犯説」が、捜査の第二幕を開けることになった。

ロッティ証言という薄氷の上に立った有罪判決

ジャンカルロ・ロッティは知的能力に問題を抱えた男だった。当初は目撃者として現れ、やがて自分も現場にいたと語り始める。パッチャーニとヴァンニが殺すのを見た、自分は見張りをした、と。

この証言が第二の裁判の土台になった。一九九八年、第一審でヴァンニは五件の二重殺人について終身刑。ロッティは四件について懲役三十年。もうひとりの被告ジョヴァンニ・ファッジは無罪だった。

控訴審では、検事総長トニーがまたしてもヴァンニの無罪を求めた。だが判決は有罪を維持し、一九八一年十月の件だけをヴァンニについて無罪とした。ロッティは二十六年に減刑。ファッジは全審級で無罪。二〇〇〇年、破毀院がこれを確定させた。

ロッティは二〇〇二年三月十五日、健康上の理由で釈放され、同月三十日に肝臓がんで死亡した。六十一歳。ヴァンニは二〇〇九年四月十三日、フィレンツェ近郊の病院で死去。八十一歳だった。

ここで押さえておきたいのは、この有罪判決の根拠がほぼロッティの供述だけだったという事実だ。物証はない。DNAも指紋もない。ロッティの話は時期によって内容が変わった。だから今でも、イタリア国内でこの判決を「正しい」と考える人は多数派ではない。事件は法的には一部決着し、実態としては未解決という、奇妙な二重状態にある。

「第二のレベル」――儀式説とジュッタリ捜査の暴走

二〇〇一年ごろ、捜査は新しい仮説に踏み込む。GIDESという専従班を率いた警察官ミケーレ・ジュッタリが唱えた「第二のレベル」説だ。

骨子はこうだ。パッチャーニやヴァンニは実行役にすぎない。彼らの背後に、金を払って人体の一部を回収させていた依頼主がいる。その依頼主は秘密結社的な集団に属し、部位を儀式に用いていた。ロッティが供述のなかで「医者」に言及したことが、この説の出発点になった。

名前が挙がったのが、サン・カシャーノの薬剤師フランチェスコ・カラマンドレイと、ペルージャの医師フランチェスコ・ナルドゥッチだった。

だが、この線は法廷でことごとく崩れた。カラマンドレイは二〇〇八年五月二十一日、簡易裁判で「事実は存在しない」として全面無罪となった。もっとも強い形の無罪だ。彼は二〇一二年五月一日、七十一歳で亡くなっている。ナルドゥッチをめぐる一連の立件も、関係者全員が最終的に無罪となった。

批判も痛烈だった。犯罪学者フランチェスコ・ブルーノは、そもそも「注文を受けて殺す連続殺人者」など存在したためしがないし、イタリアの悪魔崇拝集団が計画的に人を殺した実例もない、と切り捨てている。

一九八五年十月十三日、トラジメーノ湖に浮かんだ医師

それでもナルドゥッチの件が消えないのには、理由がある。タイミングが良すぎるのだ。

フランチェスコ・ナルドゥッチはペルージャの裕福な家に生まれた消化器内科医だった。一九八五年十月、トラジメーノ湖のボートから姿を消し、十三日に遺体となって湖から引き上げられた。スコペーティ事件のわずか一か月後だ。当時は事故または自殺として処理された。

二〇〇二年、遺体が発掘され、再鑑定が行われた。すると、溺死とされた当初の死亡診断と矛盾する所見、つまり頸部への圧迫を示す損傷が報告された。さらに、引き上げられた遺体と埋葬された遺体が同一人物なのかという疑いまで浮上した。

検察は、彼が集団の一員で、口を封じられたのだという筋書きを立てた。だが、それを裏づける証拠は最後まで出なかった。関係者への立件はすべて崩れ、遺族側も名誉を回復している。残ったのは「不可解な死」という事実だけだ。

記者マリオ・スペッツィが逮捕された日、事件は自分自身を食い始めた

この捜査がどこまで行ったかを示す出来事がある。二〇〇六年、フィレンツェの日刊紙ラ・ナツィオーネで長年この事件を追ってきた記者マリオ・スペッツィが、捜査妨害の疑いで逮捕され、二十三日間勾留されたのだ。

スペッツィは一九四五年生まれ。第一報から現場に立ち会い、被害者遺族とも捜査員とも付き合いのある、この事件の生き字引だった。彼は「第二のレベル」説を強く批判していた。その彼が逮捕された。国際的なジャーナリスト団体が抗議し、勾留はのちに違法と判断された。

共同取材していたアメリカ人作家ダグラス・プレストンも事情聴取を受け、事実上イタリアを離れることになる。二人が二〇〇八年に発表した共著は世界的なベストセラーになり、この事件を英語圏に知らしめた。スペッツィは二〇一六年九月九日、長い闘病の末に亡くなっている。七十一歳だった。

捜査を批判した記者が捕まる。捜査官と検事が職権乱用で起訴される。専従班は解散する。事件そのものより、事件を追う側の混乱のほうが目立つ時期が確かにあった。

誤認された救急隊員――エンツォ・スパッレッティが失った数か月

証言と体験談の話をしよう。まずエンツォ・スパッレッティだ。

一九八一年六月、スカンディッチの事件のあと、彼は突然逮捕された。理由は単純で、事件の詳細が公表される前に、その内容を口にしていたからだ。救急車の運転手だった彼は、あのあたりの道を仕事でも私用でもよく走っていた。そして正直に言えば、彼はいわゆる「のぞき」の常習者でもあった。停まっている車を見に行く人間は、当時のトスカーナの丘に決して珍しくなかった。

彼は数か月にわたって勾留された。妻には言えないことがあった。自分がなぜあの時間にあの場所にいたのか、説明するには私生活を全部さらけ出す必要があった。彼は黙り、その沈黙がさらに疑いを深めた。地元では「あいつが怪物だ」という空気ができあがった。

彼を救ったのは、皮肉にも次の殺人だった。一九八一年十月、彼が塀の中にいる間に、カレンツァーノで新しい事件が起きた。彼は釈放された。だが失われた数か月と、貼られたレッテルは戻らない。彼は町を出ることになる。この事件には、犯人でない人間が人生をめちゃくちゃにされた例がいくつもあって、彼はその最初の一人だった。

生き残った六歳児が背負い続けたもの

もう一人、書かなければならないのがナタリーノ・メレだ。

一九六八年八月の夜、六歳の彼は母親が撃たれる車の後部座席にいた。そして生き延びた。真夜中の田舎道を歩き、農家にたどり着き、大人たちに助けを求めた。当時の記録によれば、彼は誰かに手を引かれた、というような趣旨のことを口にしている。だが幼児の証言は、大人たちの誘導であっという間に形を変える。彼の言葉は捜査のたびに引用され、そのたびに違う意味を持たされた。

彼はその後、施設と親族の間を行き来しながら育った。父とされたステファノ・メレは母親殺しで服役していた。彼はイタリア中が知る「あの事件の子ども」として大人になり、可能な限り公の場から距離を置いてきた。

そして二〇二五年、五十七年後に、彼の人生のいちばん深いところがひっくり返る。あとで書く。

捜査を率いた男たちの、その後

ルッジェーロ・ペルジーニは、アメリカの捜査手法をイタリアに持ち込んだ先駆者として評価される一方、パッチャーニ逮捕の立役者として批判も浴び続けた。彼が導入したデータ照合は、当時としては画期的だった。だが「条件に合う人間を絞り込む」という手法は、絞り込んだ先に真犯人がいなければ、無関係な誰かを潰すだけの装置になる。

ミケーレ・ジュッタリは「第二のレベル」を追い、最終的に自身が職権乱用で起訴された。ジュリアーノ・ミニーニ検事も同様だ。彼らは今も自説を撤回していない。

一方で、地道な仕事を続けた人たちもいる。あの九月十日の封筒を、指紋断片九つと糊の成分と切手の図柄まで分解した鑑識の技官たちの仕事は、いま読んでも執念を感じる。犯人にたどり着けなかっただけで、仕事そのものは一級品だった。この事件は、優秀な人間が総出でかかっても解けないことがある、という見本でもあるんだよな。

掲示板と考察界隈で、この事件はこう語られてきた

日本語圏でこの事件が広く知られるようになったのは、二〇〇八年の共著の翻訳と、海外ミステリー好きの口コミ、そして二〇二五年十月にNetflixで配信された全四話のドラマがきっかけだ。ステファノ・ソッリマ監督のこのシリーズは配信ランキング上位に入り、日本でも一気に検索数が跳ねた。

ネットで繰り返される見立てはだいたい四つに整理できる。ひとつ、単独犯説。同じ銃、同じ弾、同じ状況設定という異常な一貫性は、複数人でやると必ずどこかで崩れる、という主張だ。ふたつ、サルデーニャ一味説。銃の出所から考えれば当然の帰結。みっつ、儀式・カルト説。よっつ、複数の模倣犯が同じ銃を使い回したという合作説。

それぞれに反証がある。単独犯説には、十七年という異様に長い活動期間と、六年・七年という長すぎる空白の説明がつかない。一味説には、これだけの人数が四十年一言も漏らさないのは無理という反論がある。カルト説には物証がゼロという致命傷がある。合作説には、そもそも銃を回した経路の痕跡が一切出ていないという穴がある。

個人的におもしろいと思うのは、日本語圏の考察が「なぜ日本の事件と似た構造に見えるのか」を語りたがる傾向だ。地元密着型で、全員が顔見知りで、警察が疑わしい人物を早々に決め打ちして、あとから覆る。この構造は国境に関係なく起きる、ということなんだと思う。

二〇二五年七月、DNAが一枚の家系図を書き換えた

二〇二五年、この事件は久しぶりに本物のニュースになった。

七月二十二日、フィレンツェ検察が委託したDNA鑑定の結果が明らかになる。あの夜生き延びた六歳児ナタリーノ・メレの生物学上の父親は、ステファノ・メレではなく、ジョヴァンニ・ヴィンチだった。サルデーニャ人筋の中心にいたヴィンチ三兄弟の長兄だ。しかも彼は、これまで一度もまともに捜査対象になっていなかった。

鑑定を担当したのは遺伝学者ウーゴ・リッチ。ナタリーノのDNAと、ジョヴァンニ・ヴィンチの息子のDNAを比較し、さらに発掘されたフランチェスコ・ヴィンチの遺骨からも遺伝子プロファイルを取った。担当検事はオルネッラ・ガレオッティとベアトリーチェ・ジュンティ。捜査記録は再び開かれた。

これが何を意味するのか。一九六八年のあの夜、犯人は後部座席の子どもを撃たなかった。もし犯人がこの子の本当の父親を知っていたなら、というのが、いま最も熱く語られている推論だ。ただし専門家からは慎重論も出ている。父子関係が判明したこと自体は、誰が引き金を引いたかを直接示すものではない。

さらに二〇一五年には、スコペーティ事件のクッションから新たな弾頭が見つかっており、そこから採取された遺伝情報が一九八三年と一九八四年の弾のものと一致したと報じられている。二〇一八年十二月三日にも新たな弾頭が出た。四十年前の現場から、まだ物が出てくるのだ。

疑惑段階のまま残っている名前たち

公平のために書いておく。この四十年で「怪物ではないか」と名指しされた人物は数十人にのぼる。そのほとんどが、疑惑のまま何も証明されずに終わっている。

二〇一七年には、当時八十六歳の元外国人部隊兵ジャンピエロ・ヴィジランティが捜査線上に浮かんだ。彼は.22口径のベレッタを登録所持していた時期があり、パッチャーニとは一九五一年ごろヴィッキオで面識があったとされる。彼は銃は盗まれたと届け出ており、関与を全面否定している。立件には至っていない。

アメリカ人退役軍人ジョー・ベヴィラックアをめぐる説もあった。フィレンツェのアメリカ人墓地で長く働いていた人物だ。この説を唱えたイタリア人ジャーナリストは、二〇二四年十二月、名誉毀損で有罪判決を受けている。裁判所は「ゾディアック事件との関連」という主張を根拠のないものと判断した。捜査自体も二〇二一年に打ち切られている。

つまり、いま名前が出ている人物のうち、司法の場で「この人がやった」と認定された人間は一人もいない。ここは絶対に間違えてはいけないところだ。

トスカーナの丘という舞台装置

なぜあの土地だったのか、という話をしたい。

一九六〇年代から八〇年代のフィレンツェ周辺には、独特の事情があった。若者に自分の部屋がない。カトリック的な家族規範が強く、結婚前の同居はまず考えられない。ホテルは高いし、地元では顔が知れている。じゃあどこへ行くか。車だ。そして車で行く先は、街灯のない丘の道になる。

この「ルオーゴ・アッパルタート」、人目につかない場所の文化は、当時のイタリア中部では完全に日常だった。夜になると、丘のあちこちに車が点在する。それを見に行く「グアルドーニ」と呼ばれるのぞき屋も一定数いた。つまり丘は、無防備な標的と、無数の目撃者候補と、後ろ暗い事情を抱えた常連客が同居する、きわめて特殊な空間だったわけだ。

犯人はこの空間を熟知していた。どこに車が停まるか、いつまでなら誰も通らないか、逃げるならどの農道か。そして捜査側から見れば、事情を聞くべき人間が「絶対に本当のことを言わない人たち」ばかりだった。愛人といた人、のぞきに来ていた人、密猟に来ていた人。全員が別のことで嘘をつく。この構造が捜査を何年分も遅らせた。

「怪物」という言葉が国を変えた

この事件は、イタリア社会に具体的な変化を残している。

まず、恋人たちが丘に行かなくなった。八〇年代半ばのフィレンツェでは、夜の郊外に車を停める文化そのものが一時的に消滅した。当時の若者にとって、それは単なる不便ではなく、自由の喪失だった。

次に、メディアの形が変わった。イタリアの犯罪報道が現場中継的・連続ドラマ的になっていく転機がこの事件だと言われる。テレビが法廷を追い、被告人の泣き顔が茶の間に流れ、視聴者が判決前に「有罪」を決める。この形式は、のちのイタリアの有名事件の報道すべてに引き継がれた。

そして「コンパーニ・ディ・メレンデ」という言葉が辞書に残った。事件が言葉を作り、言葉が事件を生き延びさせている。

なぜこの事件は語られ続けるのか

未解決事件はいくらでもある。それでもこの事件が別格なのは、材料が異常に豊富だからだと思う。

八件の現場、十六人の被害者、十七年の時間幅、確実な物証がひとつだけ(弾)、有力容疑者が複数、確定した有罪判決があるのに納得されていない、儀式説から陰謀論まで揃っている、記者が逮捕され、捜査官が起訴され、四十年後にDNAが家系図をひっくり返す。物語として、盛りすぎなのだ。

もうひとつは、舞台がフィレンツェだということ。ルネサンスの都、観光地、美しい丘。その真裏で人が撃たれ続けた、という落差が強烈すぎる。イタリア人自身が、この事件を「自分たちの美しい国の裏側」として語ってきた。

最後に、これがいちばん大きいと思うんだが、この事件には「解けそうな感じ」がずっとある。同じ銃、同じ弾、限られた地域、限られたコミュニティ。あと一歩で届きそうに見える。届かない。その距離感が、人を四十年引きつけてきた。

実はこれは「二つの事件」なのではないか

ここまで時系列で追ってきたので、最後に全体を俯瞰して、この事件の構造そのものを整理しておきたい。

まず確認しておきたいのは、この事件が実は「二つの事件」だという見方だ。ひとつは一九六八年のシーニャの銃撃。もうひとつは一九七四年以降の連続殺人。この二つを結びつけているのは、銃と弾という物証だけだ。動機も、手口も、対象の選び方も、まったく違う。一九六八年は明確に人間関係のなかで起きた殺人で、遺体損壊もなければ、後部座席の子どもは無傷で生きて帰されている。

一九七四年以降は、被害者と犯人の間に個人的な関係がまったく見当たらない。この断絶をどう説明するかが、すべての仮説の分水嶺になっている。

単独犯説を採るなら、一九六八年に人を撃った人間が、六年後に別の動機で撃ち始めたことになる。ありえなくはない。だが六年、そして一九七四年から一九八一年までさらに七年という空白が説明できない。連続殺人犯の空白期間はふつう、収監、転居、病気、あるいは他所での犯行で説明される。この事件では、そのどれも見つかっていない。

複数犯説を採るなら、銃が誰かから誰かへ渡ったことになる。すると次の問いが来る。なぜ渡した側は、渡した先が何をしているか十七年間気づかなかったのか。あるいは気づいていて黙っていたのか。二〇二五年のDNA鑑定が刺激的なのは、この「銃の相続関係」に新しい線を引ける可能性があるからだ。

ジョヴァンニ・ヴィンチという、これまで捜査の中心にいなかった人物が、被害者女性ともっとも深いところでつながっていたと判明した。だがここでも冷静さは必要で、父子関係の判明は引き金を引いた手の特定ではない。この区別を曖昧にした瞬間、この事件は過去四十年と同じ間違いを繰り返すことになる。

司法判断を十行で正確に言える人が、たぶんいない

司法判断の整理も、もう一度やっておく価値がある。ピエトロ・パッチャーニは第一審で十四人の殺害について有罪、終身刑。控訴審で「事実を犯していない」として無罪。破毀院がその無罪を破棄し差し戻したが、再審が開かれる前に死亡。したがって彼について確定した司法判断は存在しない。マリオ・ヴァンニは一九八二年から八五年の四件の二重殺人について有罪が確定し、服役中に死亡。

ジャンカルロ・ロッティは自白に基づき有罪が確定し、釈放直後に病死。ジョヴァンニ・ファッジは全審級で無罪。フランチェスコ・カラマンドレイは「事実は存在しない」として無罪。ナルドゥッチをめぐる立件は関係者全員が無罪。この十行を正確に言える人が少ないから、ネットの議論はいつも噛み合わないんだと思う。

そして、確定した有罪判決があるのに事件が「未解決」と呼ばれ続ける理由。それはヴァンニとロッティの有罪が、ロッティの供述という一本の柱だけで立っているからだ。物証はない。ロッティの供述内容は時期によって変わった。彼らを犯人とする判決は、あの銃と弾が示す異様な一貫性を説明できていない。判決を出した裁判所自身が、真の首謀者や動機を確定できないまま筆を置いている。

捜査の失敗を四つに分解する

捜査の失敗という観点で見ると、この事件には教科書に載せられるレベルの構造的欠陥が並んでいる。ひとつめは早期の決め打ち。一九六八年に「痴情のもつれ」と結論して記録を棚に上げた結果、銃の照合が十四年遅れた。ふたつめは容疑者の逐次的な使い捨て。誰かを逮捕し、拘留中に事件が起き、また別の誰かを逮捕する。これを何度も繰り返した。みっつめは証言依存。

物証が出ないから供述に頼り、供述に頼るから供述が育ってしまう。よっつめは仮説の肥大化。「第二のレベル」に踏み込んだ段階で、捜査は検証可能な範囲を超えてしまった。反証できない仮説は、どれだけ精緻でも捜査の役には立たない。

それでも、この事件には奇妙な希望がある。物証が現場に残り続けているからだ。二〇一五年にクッションから弾頭が出た。二〇一八年にも新しい弾頭が出た。当時の技術では扱えなかった微量の遺伝情報が、いまは扱える。四十年前の証拠品が、いまの技術で初めて口を開き始めている。逆に言えば、この事件は「時間が味方する数少ない未解決事件」の一つだ。

多くの未解決事件では、時間が経つほど証拠は劣化し、証人は死に、記憶は薄れる。この事件でも証人はほとんど死んだ。だが弾は残った。

丘で殺されたのは、十六人の若者だった

最後に、被害者のことを書いておきたい。この事件は「怪物」の物語として消費されがちだ。パッチャーニの泣き顔、ナルドゥッチの湖、切り抜き文字の封筒。どれも強烈で、記事にしやすい。だが実際にあったのは、十六人の若者が丘の上で殺されたという事実だけだ。十八歳、十九歳、二十一歳。バールで働いていた人、店員だった人、整備工だった人、休暇で旅行に来ていた人。

彼らには一人ずつ名前があって、家族がいて、翌日の予定があった。

ヴィッキオでは、被害者の家族が四十年にわたって事件を語り続けてきた。忘れられることのほうが、間違った犯人を名指しされることより怖い、という趣旨のことを遺族は繰り返してきた。二〇二五年のDNA報道を受けて、遺族側の弁護士は新しい鑑定が持つ意味の大きさに言及している。誰かを吊るしたいわけじゃない。何が起きたのかを知りたいだけだ、というのが遺族側の一貫した姿勢だ。

そう考えると、この事件をおもしろがって語ることには、必ず後ろめたさがついてくる。それでも語られ続けるのは、たぶん、語りをやめた瞬間に本当に終わってしまうからだ。イタリアの捜査記録はまだ閉じていない。弾はまだ何かを言おうとしている。丘はいまも同じ形をしている。銃だけが、どこにもない。

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