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福田和子・松山ホステス殺害事件――顔を捨て続けた女と、時効までの21日

おでん屋を出たところで、警察官に囲まれた

この話は、終わりのほうから始めたほうがいいような気がする。

1997年7月29日、福井市。福井駅の近くに、カウンターだけの小さなおでん屋があった。

こういう店には、当然のように常連がつく。そのなかに、よくしゃべる中年の女性客がいた。酒を飲むし、マラカスを振って騒ぐこともある。悪い人には見えなかったという。

その日、彼女がおでん屋を出て歩き出したところを、待ち構えていた警察官がぐるりと囲んだ。ここでのやりとりとして、後に何度も引用される一句がある。「シリコン整形なんてしてないわよね」。本人確認のために顔のことを問われ、とぼけたやりとりのなかで出たとされる言葉だ。

彼女の名前は福田和子といい、当時49歳である。

そしてこの日は、1982年8月19日に愛媛県松山市で起きた殺人事件の公訴時効が完成する、21日前だった。その間ずっと、彼女は逃げ続けている。日数にすると5,459日になる。彼女自身は後に手記を出すとき、その長さを「十四年と十一カ月十日」と書いた。

たった21日である。もう3週間だけ逃げていたら、彼女は自由の身だった。このギリギリの数字が、日本の公訴時効制度そのものを揺さぶることになる。

1982年8月19日、松山市のマンションで

ここで少しだけ、時間をさかのぼってみよう。1982年の夏、愛媛県松山市。道後温泉と松山城を抱える、四国最大の都市になる。当時の市内には酒場が密集していて、クラブやスナックで働く女性の数も多かった。

福田和子も、その世界の人間だった。そして8月19日、同業者である31歳のホステス女性のマンションの一室で、彼女を殺害する。首を絞めての犯行だったとされている。

この事件が単なる痴情のもつれで終わらなかったのは、その後の行動のせいだ。福田は現金や金目のものだけでなく、被害者の家財一式を運び出している。だから罪名は強盗殺人および死体遺棄になった。遺体は松山市内の山中に遺棄されている。この遺棄に関与したとして、当時の福田の夫にも死体遺棄罪で有罪判決が下った。

つまり彼女は、衝動だけで終わらせず、きちんと後始末をし、金目のものを回収したうえで逃げている。この切り替えの早さが、この人物のすべてを説明しているような気がする。

犯行の4日後、福田は松山駅から列車に乗った。当時はまだ瀬戸大橋もなく、四国から本州へ渡るには連絡船しかない。彼女は宇高連絡船で瀬戸内海を渡り、本州に上陸する。持っていたのは60万円ほどだったとされる。

たったの60万円が、そこから15年におよぶ逃亡生活の初期費用になった。

何を背負っていた女だったのか

福田和子は1948年1月2日生まれで、事件を起こしたときは34歳になっていた。

幼い頃に両親が離婚し、母親に引き取られて愛媛県川之江市、現在の四国中央市へ移っている。その後は島へ、さらに今治市へと転々とした。安定した子供時代からは、およそ程遠い育ち方をしている。

高校に進むが、交際していた同級生の男性が事故死し、それをきっかけに自暴自棄になって3年の1学期で退学している。17歳のときには、同棲相手と高松市の官舎に強盗目的で侵入し、逮捕されて服役した。この服役中に、彼女は施設内で深刻な被害を受けたとされる。当時の刑務所をめぐる不祥事は後に表沙汰になっているが、彼女の被害届は受理されなかったという。

この経歴をどう扱うかというのは、この事件を語るときにいつも問題になるところだ。同情の材料にすれば被害者と遺族に失礼だし、無視すれば人間を単なる怪物にしてしまう。事実としては、彼女はそういう人生を歩いてきて、34歳で人をひとり殺した。そこだけは、どうやっても動かせない。

金沢の和菓子屋で、彼女は女将になった

本州に渡った福田は、あちこちを経て、やがて石川県金沢市にたどり着く。ここからが15年のなかでもっとも長く、もっとも奇妙な章になる。

金沢のスナックで仕事を見つけた彼女は、採用が決まった2日後に上京して美容整形を受けている。この行動の早さが、とにかく恐ろしい。仕事が決まるということは、同じ顔を毎晩多くの人に見られるということだ。だから、その前に顔を変えてしまう。彼女のなかで顔は、服や靴と同じレベルの消耗品になっていた。

金沢で、彼女は和菓子屋の主人と知り合う。やがて内縁関係になり、能美郡根上町、現在の能美市にある3代続く老舗の和菓子店に入った。入籍はしていないし、できるわけもない。それでも事実上の後妻として、彼女は店を切り盛りした。

しかも、この店番がまったくゆるくない。報道によれば、彼女が入ってから店の売り上げは相当に伸びたという。愛想がよく、頭が回り、商売もうまい。近所の評判も、当然ながら良かった。地元の人間から見れば、よくできた店のおかみさんである。

この時期の彼女は、人生をやり直しているようにも見える。だが、その土台のほうは最初から最後まで、まるごと嘘だった。

「京都嵯峨野の旅館の令嬢」という設定

福田は周囲の人間に対して、自分は京都嵯峨にある旅館の令嬢なのだと名乗っていた。

この設定が、なかなかよくできている。京都は誰もが知っているが、嵯峨野の旅館の内実まで知っている地方の人間は少ない。良いとこの娘という印象を与えつつ、そのくせ検証はされにくい。実家の話をされても、京都弁をちょっと混ぜておけばやり過ごせる。

さらに不気味なのは、彼女が実家から実の息子を呼び寄せ、周囲には甥だと説明して見習いとして働かせていたことだ。自分の子を、自分の子ではないことにして、同じ屋根の下で暮らす。その心理を想像すると、正直、頭がぐらぐらする。

電話の使い方も徹底していた。逆探知を警戒して、実家や知人への連絡はわざわざ京都や大阪など関西へ出向き、公衆電話からかけていたとされる。携帯電話などない時代である。公衆電話の発信地を散らすというのは、当時の捜査環境をかなり正確に理解していないと出てこない発想になる。

そして彼女は、和菓子屋の主人からの結婚の申し出を2年以上も渋っている。これは愛情がどうという問題ではない。入籍すれば戸籍を取ることになり、戸籍を取れば本名が出る。本名が出れば、そこで終わりだ。

彼女は自分の幸せを守るために、幸せの形そのものを拒否し続けなければならなかった。

顔を変え続けるということ

世間がこの事件を覚えている一番大きな理由は、やっぱり整形のことだろう。

福田は逃亡中に美容整形を繰り返した。正確な回数は論者によって違うが、報道では「7つの顔を持つ女」と呼ばれている。目元、鼻、そして輪郭。時期によって、写真から受ける印象がまるで違ってくる。後に公開手配されたときも、どの顔を手配すればいいのかという問題が捜査を困らせた。

しかも当時の美容整形は、いまのような記録管理も本人確認もゆるかった。現金を持って行けば、名前はどうとでもなる。彼女はその隙をきっちり使った。

ただ、押さえておきたいことがある。整形だけでは15年も逃げ切れない。人間を見分けるのは、顔だけではないからだ。

声、体型、しぐさ、方言、習慣。福田は強い愛媛訛りを上手に消し、土地土地の言葉に合わせて周囲へ溶け込むことができた。商売で実績を上げ、人にも好かれている。

ここが、この人物についていちばん不気味に思えるところになる。逃げているはずなのに、やたらと目立っている。ひっそり暗いところで息をしていたのではなく、地域の人気者になっていた。人間というのは、見たいものを見る。良い人として振る舞い続ければ、指名手配の殺人犯には見えない。

免許証一枚で崩れた家、そして自転車で逃げた女

石川での生活は、思いのほかあっけなく崩れる。きっかけになったのは、息子の荷物だった。

親戚のひとりが、甥とされていた若い男の荷物のなかから運転免許証を見つけてしまう。そこには愛媛県松山市の住所が記載されていた。

京都嵯峨野の旅館の令嬢の甥が、なぜ松山なのか。しかも当時、松山のホステス殺害事件は全国に指名手配中である。親戚はすぐ、石川県警に通報した。

この場面の福田の反応は、この人物を語るうえで何度も引かれてきた。彼女は、近くにあった自転車に飛び乗って逃げたのだ。店も、内縁の夫も、積み上げた信用も、全部その場に置いて、自転車で。

この切り替えの早さは、事件当日の行動とまったく同じになる。情に引きずられず、何も惜しまない。先を考えて、とにかく足を動かす。こういう人間が15年逃げ切れたのは、偶然じゃないんだろうなと思う。

履歴書のいらない仕事を、渡り歩いた

石川を出た後の足取りは、供述と報道をつなぎ合わせるとこうなる。

1988年5月13日、福井市に現れてホステスとして働き始める。1992年には大阪市内の風俗店にいた。愛知県内ではモーテルの客室清掃員をしていた時期もある。本人の供述では、近畿、中国、北陸の料理店や酒場を転々としていたという。使った偽名は20を超えるとされる。

このリストを見て気づくことがある。全部、身元確認が緩い業界なのだ。現金日払い、保険なし、履歴書なし。

当時の日本には、そういう雇用の隙間が広大にあった。戸籍も住民票も健康保険もなしで、人ひとり食っていけた。これは福田の才覚というより、時代の隙間だと思う。

時効直前、彼女は福井駅前のビジネスホテルを定宿にしていた。ここもまた、なかなか奇妙な話になる。逃亡のセオリーとしては、駅前のホテルはいかにも目立ちやすい。だが彼女は逃げ隠れることより、普通に暮らすことを選んだ。おでん屋の常連になり、酒を飲み、人としゃべった。

そして結局のところ、それが彼女の命取りになった。

テレホンカードと肉声と、懸賞金100万円

時効が迫るなかで、松山東警察署はなりふり構わずの手を打ちはじめることになる。

まず、福田の顔写真を刷ったテレホンカードを作って配った。携帯普及前夜の当時、テレホンカードは誰もが財布に入れて持ち歩くものだ。手配書は交番に貼ってあるだけだが、テレホンカードは周囲に拡散する。

次に、福田の肉声を公開した。結果としては、これが決定的だった。顔は変えられても、声までは変えられない。テレビのワイドショーと、ゴールデンタイムの公開捜査番組が、この声を繰り返し流した。

そしてもうひとつが、懸賞金100万円である。当時の日本の警察としては前例のない規模の、情報提供の呼びかけになる。

この3つの組み合わせは、いま見ると非常に合理的だ。顔ではなく、声のほうで探す。専門家ではなく、一般人の目と耳を使う。そこへ金銭的な動機づけをつける。初期のクラウドソーシング捜査と言っていい。

福井市のおでん屋の店主も、その番組を見ていた。しょっちゅう流れる福田の声を聞いていて、あるとき思う。この声、うちの常連さんに似てないか。

決め手は、ビール瓶とマラカスの指紋

ここから先の展開が、この事件でいちばん有名なシーンになっている。

通報を受けた警察は、店主の協力を得て彼女が触ったものを回収していく。ビール瓶に、グラス、そしてマラカス。カラオケで盛り上がったときに振っていたやつだ。

このマラカスというディテールが、なんとも言えない。ただ楽しむためだけの道具を、彼女は嬉々として振っていた。そのマラカスの表面に残った指紋が、15年前に人を殺した女のものだと確定させた。

指紋というのは、整形では変わらない。顔を何度変えても、声を押し殺しても、指先だけは15年前のままだった。

7月29日、店を出たところで逮捕。身柄は福井駅から特急サンダーバードと山陽新幹線を乗り継いで岡山駅へ、そこからはワゴン車で松山東署へ送られた。この移送には報道陣が同じ列車に乗り込んでおり、車内の様子がことごとく報じられている。ワイドショーの熱量がすさまじい時代だ。

なお、通報した人物は懸賞金を受け取ったが、後にそれを慈善団体に寄付している。そして、この店は2019年3月31日に閉店した。

時効完成11時間前の、起訴

逮捕されたのが7月29日で、時効の完成は8月19日である。

だが、逮捕しただけでは時効は止まらない。公訴時効を停止させるには起訴が必要になる。検察は取り調べと補充捜査を進め、1997年8月18日に殺人罪で起訴した。時効完成まで、残り11時間だったとされる。

この「11時間」という数字は、当時の新聞で何度も見出しに使われている。

裁判のほうは長引いている。1999年5月31日、松山地方裁判所は無期懲役を言い渡す。福田は控訴したが、2000年12月13日に高松高等裁判所が控訴を棄却した。2003年11月には最高裁も上告を棄却し、無期懲役が確定する。収監先となったのは、和歌山刑務所である。

そして2005年2月、刑務所内の工場でくも膜下出血を起こして緊急入院する。意識は、二度と戻ることがなかった。同年3月10日、和歌山市内の病院で死去している。まだ57歳という若さだった。

確定からわずか1年4か月である。逃げた15年と比べると、服役した時間はあまりに短い。

なお、福田は1999年8月に手記を出版している。タイトルは『涙の谷…私の逃亡、十四年と十一カ月十日』というものだった。殺人犯の手記出版には当然批判が集中したが、印税800万円は遺族に寄付されている。

担当編集者は後に、彼女と向き合った日々をこう振り返っている。シャバにいる私の方が精神的に支配されていくような感覚を覚えた、という趣旨の証言だ。獄中にいてなお、人を引き込む力があったということになる。

「時効ってなんなんだ」から、2010年の法改正まで

この事件が世論に残した一番大きなものは、間違いなく「時効ってなんなんだ」という地の声だろう。

当時の日本では、殺人罪の公訴時効は15年だった。なぜ時効があるのかには、一応の理屈がある。

時間が経てば証拠が劣化し、証人の記憶もあてにならなくなる。被告人を永遠に不安定な地位に置くのは酷だし、社会の処罰感情も薄れていく。教科書には、だいたいそう書いてある。

だが、福田和子のケースはその理屈を正面から殴っている。彼女は、あと少しで逃げ切りそうだった。しかも、教科書が想定する「陰に隠れて面を伏せて生きる」タイプではない。店を切り盛りし、酒を飲み、マラカスを振って楽しく暮らしていた。遺族からすれば、これを受け入れられるはずがない。

2000年代に入り、犯罪被害者遺族の声がメディアと政治に届くようになる。全国犯罪被害者の会の活動が広がり、被害者参加制度の導入と並行して、時効見直しの議論が本格化した。

さらにDNA型鑑定の精度が飛躍的に上がったことで、時間が経てば証拠が使えなくなるという前提そのものが崩れた。古い証拠品から、後年になって犯人が割り出されるケースが実際に出てきたからだ。

そして2010年4月27日、刑法および刑事訴訟法の一部を改正する法律が施行される。人を死亡させた罪で死刑にあたるもの、つまり殺人や強盗殺人などの公訴時効が廃止された。その他の致死罪も、大幅に延長されている。

もちろん、この法改正は福田事件だけを理由に実現したものではない。多くの未解決事件と、その遺族の長い活動の結果だ。ただ「時効の理不尽」を国民に一番分かりやすく見せた事件をひとつ挙げろと言われたら、多くの人はこの事件を挙げると思う。「残り21日」「残り11時間」という数字は、それくらい強い。

皮肉なことに、福田は逃げ切れなかったからこそ、時効廃止の象徴になった。もし彼女が8月20日に発見されていたら、事件はもっと静かに忘れ去られていたかもしれない。

なぜ、この女は語り継がれるのか

この事件は小説になり、ドラマになり、映画にもなった。ノンフィクションでも何冊か書かれている。なぜ、ここまで人を惹きつけるのだろう。

ひとつは、顔を捨てるというイメージの強さだろう。人間のアイデンティティの中心にあるものを、メスで切って入れ替える。しかも、それを何度も繰り返した。自分の顔を失ってまで、彼女はいったい何を守ろうとしたのか。そこに、人はどうしても想像力を引きずり込まれる。

もうひとつは、彼女が魅力的だったということになる。これを書くのは気が引けるが、事実なので仕方がない。

逃亡中の彼女を知っていた人間の証言は、驚くほど一致している。とにかくよく働くし、愛想もいい。面倒見がよくて話が面白く、どこへ行っても可愛がられる。

この評価は、彼女が殺人犯であることと少しも矛盾しない。人間は、悪の顔と善の顔を同時に持てるからだ。その当たり前の恐ろしさを、この人物は極端な形で見せている。

三つ目が、タイマーの存在になる。カウントダウンというのは、物語を面白くしてしまう。

しかもこのカウントダウンは、事件のあとに後付けされたものではない。当時リアルタイムで、国民全員が見ていた。テレビが「時効まであと何日」とやっている。あれはもう、一種の全国中継のようなものだった。

なぜ15年も逃げられたのか、をもう一度考える

ここからは、この事件をもう少し衝動の外側から見てみたい。

まず、なぜ15年も逃げられたのかという問い。これを福田和子個人の能力の話にしてしまうのは、半分は間違いだと思う。もちろん彼女は器用で、人に取り入るのがうまく、切り替えが早かった。

だがそれ以上に、当時の日本社会には身元を問わない隙間が異常に広かった。履歴書なし、現金日払い、寮完備。スナックも、モーテルの清掃も、風俗店も、誰でも今日から働けた。住民基本台帳ネットワークなんてものもないし、防犯カメラも、顔認証も、携帯の位置情報もない。人は、名前を捨てれば消えられた。

逆に言えば、同じ事件が今起きたら、福田は15年ももたないだろう。就労すればマイナンバーが要る。コンビニにも駅にもカメラがあり、SNSには人の顔が写り込む。ホテルのチェックインにも身分証が必要だ。

このケースは、日本がどれだけ身元を固定する社会になったかを測る目盛りにもなっている。安全になったとも言えるし、逃げ場のない社会になったとも言える。たぶん、そのどちらも本当なのだ。

次に、公開捜査そのものの話をしておきたい。松山東署がやったことは、いまの目で見るとごく当たり前に見える。顔写真を拡散させ、声を公開し、そこへ懸賞金を掛ける。だが1990年代の日本の警察にとって、これはかなりの冒険だった。

当時の捜査機関は情報を抱え込むのが基本で、外に出すのはリスクとされていた。ガセネタの山を捕まえる手間もバカにならない。実際、福田の件でも大量のガセ情報が寄せられている。それでも、そのなかから本物が出た。今日の公開捜査番組や、指名手配のSNS発信の原型は、この辺にある。

遡及適用をめぐる、いまも続く論争

時効制度の話についても、もう少し丁寧に書いておきたい。

2010年の改正は、単に今後は時効なしにしただけではない。施行日の時点でまだ時効が完成していない事件にも、遡及的に適用された。

これには憲法の遡及処罰禁止の観点から強い批判があり、日弁連は会長声明で懸念を表明している。可罰性の問題ではなく手続規定の変更だから遡及でも良い、というのが立法側の理屈だった。この論争は、学界でいまも続いている。

遺族の無念を晴らすことと、被疑者になりうる全国民の手続保障を守ること。この二つは、実は真っ向からぶつかる。どちらかが絶対に正しい、という問題ではない。

メディア史の面でも、この事件の意味は大きい。1997年は、神戸連続児童殺傷事件が起きた年でもある。ワイドショーの犯罪報道がエンタメ化のピークに達していた。

福田の移送に報道陣が同じ列車で乗り込んで、車中の様子を実況する。いまやったら問題になるやり方だ。「7つの顔を持つ女」というキャッチーな呼び名も、実在の殺人事件の扱いとしてはかなり乱暴になる。この事件が面白い話として消費されやすいのは、当時の報道のフレームがそう作られてしまったからでもある。

15回の夏を、遺族はどう過ごしたか

そこを踏まえたうえで、この記事で一番大事なことを書いておきたい。

この事件には、死んだ人がいる。1982年8月19日に31歳で命を奪われた女性だ。彼女にも家族がいて、年を取っていく親がいた。

その人たちは15年間、犯人がどこかで普通に生きているという事実を抱えて暮らしている。毎年8月になると、時効までのカウントダウンが進む。その15回の夏を、想像してみてほしい。

福田和子は、魅力的なキャラクターとして消費されすぎた。整形を繰り返し、男を魅了し、警察を翻弄した女。そういう語られ方は、正直、共犯の気味がある。彼女は演じていたし、世間はそれを見たがった。

手記の印税800万円が遺族に寄付され、通報者が懸賞金を慈善団体に寄付した。この後日談は、その居心地の悪さをみんなが感じていた証拠のようにも見える。

15年の逃亡で、彼女はいくつもの名前といくつもの顔を手に入れている。だが最後、和歌山の病院で意識のないまま死んだときの名前は、やっぱり福田和子だった。顔を何度変えても、指紋も、声も、自分がやったことも、結局はついて回る。そこだけは、この長い話のなかで唯一、すっきりしている部分なのかもしれない。

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