事件の全貌(時系列で追う経緯)
石川県のほぼ中央に、日本三名山のひとつに数えられる霊峰・白山がある。その山麓には、かつて鶴来町を玄関口として河内村、吉野谷村、鳥越村、尾口村、白峰村という五つの山村が連なっていた。
豪雪と深い渓谷に囲まれたこの一帯は、地元で単に「白山ろく」と呼び習わされてきた。都市部の金沢からわずか数十分の距離にありながら、独特の静けさを保っている。
1996年、この白山ろくの一角で、一人の女性が命を奪われるという事件が起きたと伝えられている。
事件の詳細な発生状況については、他の著名な未解決事件に比べて公表されている情報が極めて限られている。地元紙の縮刷版や当時の警察発表を除けば、事件の経緯を体系的にまとめた公開資料はほとんど存在しない。これ自体が「白山ろく殺人事件」という呼び名とともに、ミステリー好きの間で語り継がれてきた大きな理由のひとつになっている。
伝えられるところによれば、被害者は白山ろくの集落内、あるいはその近辺で遺体となって発見され、発見までに一定の時間が経過していたらしい。
事件発覚後、石川県警察は捜査本部を設置した。置かれたのは、当時この地域を管轄していた松任警察署。のちに鶴来警察署と統合し、現在の白山警察署となる。周辺住民への聞き込みや交友関係の洗い出しが進んでいく。
当時、白山ろくの村々は過疎化と高齢化が進みつつも、住民同士の結びつきが強く、よそ者の出入りが目立ちやすい土地柄だった。それだけに、集落の誰もが「まさかこの土地で」という衝撃を受けたと伝えられている。
しばらくの間、日没後に女性が一人で出歩くことを避けるようになった。そういう証言をいくつも聞いている。
捜査の経過と現在の法的状況
1996年当時の刑法では、殺人罪の公訴時効は15年と定められていた。単純計算だと、2011年ごろに時効を迎えるはずだ。
ところが2010年4月27日、改正刑事訴訟法が成立して即日施行される。殺人など生命に関わる重大犯罪の公訴時効を撤廃する内容で、白山ろく殺人事件もこの対象に含まれることとなった。
これにより、事件は法律上「時効の壁」に阻まれることなく、いまも捜査を続けられる状態が保たれている。
石川県警察は、複数の未解決事件を同時に抱えてきた。金沢市内で1992年に発生したスイミングクラブの女性コーチ殺害事件。同時期に管内で発生した独身女性殺害事件。白山ろく殺人事件も、そうした長期未解決事件のひとつに数えられる。
時効撤廃後、警察庁および都道府県警察は、長期未解決事件を専従で扱う特命捜査体制を整備した。当時の捜査資料の再検証や、DNA型鑑定など科学捜査技術の進歩を活かした再鑑定も進むようになっている。
石川県警も例外ではない。事件発生から四半世紀以上が経過した現在も、白山警察署及び県警本部捜査一課が過去の証拠品の再精査や関係者への再聞き込みを継続しているとみられる。もっとも、逮捕・起訴に至ったという公式発表はこれまでのところない。事件は今も未解決のまま扱われている。
異説・陰謀論・ネット上の噂
情報が乏しい事件であるがゆえに、インターネット上ではいくつかの異説が生まれてきた。ひとつは「土地勘のある人物による犯行」説。
白山ろくの集落は外部からの人の出入りが少なく、事件当夜に不審者が長時間うろついていれば必ず誰かの目に留まったはずだ。その土地柄の特殊性から、「犯人は集落の内情をよく知る人物だったのではないか」という推測がまことしやかに語られている。これは公式に裏付けられた説ではなく、あくまで地理的条件から生まれた憶測にとどまる。
もうひとつの語りとして根強いのが、「観光地化と事件の風化」を結びつける説。白山ろくの村々は2005年の平成の大合併により白山市に編入され、地域名としての旧村名は行政上の地名としては姿を消していった。
これにより、事件の記憶を地域の中で語り継ぐ土台そのものが失われつつあるのではないか。行政の合併が結果的に未解決事件の風化を早めたのではないか。そういう指摘が、地元の郷土史愛好家や事件マニアの間でしばしば話題になる。
さらに一部では、白山信仰という土地の宗教的背景と結びつけた語りも存在する。白山は古来「白山権現」として篤い山岳信仰を集めてきた霊山だ。その山麓で起きた未解決の死という取り合わせが、単なる刑事事件を超えた「祟り」や「山の神の怒り」といった物語を呼び込みやすい。
そういう土壌になっているとの指摘もある。これはあくまで娯楽的な都市伝説の域を出ない。事件そのものの捜査とは切り離して読んだほうがいい。
メディア報道・掲示板やSNSでの反応
白山ろく殺人事件は、全国紙で大きく報じられた著名な事件などに比べると、報道の露出はずっと小さかった。地元紙である北國新聞や北陸中日新聞が、事件発生時および節目の年に短い続報を掲載してきた程度で、全国的な知名度は決して高くない。
この「知られていなさ」自体が、未解決事件まとめサイトや掲示板コミュニティで頻繁に取り上げられる理由になっている。なぜこれほど有名になっていないのか。そういう投稿がしばしば見られる。
匿名掲示板やまとめサイトでは、こんな文脈で本件が紹介されることが多い。地元では知らない人がいないのに、全国的には全く報じられていない事件がある。地方の未解決事件が全国メディアの関心を引きにくい構造そのものへの問題提起につながっている。
SNS上では、白山や手取川流域の自然美を紹介する観光系の投稿に対し、こんなコメントが付くことがある。この近くで昔、未解決の事件があったと聞いたことがある。観光と事件の記憶が奇妙な形で結びついている実態がうかがえる。
事件が残した影響・後世への波及
白山ろく殺人事件が石川県警察にもたらした最大の影響は、公訴時効撤廃という全国的な制度改正の必要性を、現場レベルで改めて浮き彫りにしたことだと思う。
時効撤廃運動そのものは、東京都内の複数の未解決事件の遺族らが牽引した全国的な動きだった。ただ、石川県内でも複数の長期未解決事件が積み重なっている。それが、地域社会における「時効なき捜査」への支持を後押しした側面がある。
また、この事件をきっかけに、白山ろくの集落では防犯灯の増設や、地域ぐるみでの見守り活動が強化されたと伝えられている。過疎が進む山村の防犯体制の整備は、その後の高齢化社会における独居世帯の見守りという、より広い課題にもつながっていった。
現在、白山市は「白山手取川ジオパーク」として自然観光を軸にした地域振興を進めている。その足元には、未解決のまま眠り続ける事件がある。地域の歴史を語るうえで避けて通れない一面だ。
白山ろく殺人事件が示しているのは、未解決事件が「情報の空白」そのものによって語られ続けるという逆説的な現象だ。詳細な証拠や捜査資料が公開されないことは、事件の風化を防ぐ意味では課題になる。同時に、憶測や都市伝説的な物語が入り込む余地を生み、結果として事件の記憶を別の形で存続させている。
公訴時効が撤廃された今、理論上はいつか解決の日が来る可能性が残されている。ただ、発生から30年近くが経過し、当時を知る関係者の高齢化も進んでいる。念のため書いておくと、時間との戦いは年々厳しくなっている。
被害女性の尊厳を守るためにも、この事件を単なる怪談やオカルト的な消費の対象として扱うのではなく、いまだ答えの出ていない現実の未解決事件として記憶し続けたい。白山という霊峰の静けさの陰に、まだ解かれない謎が眠っている。それがこの事件を長く語らせてきた核心なのだろう。
雪が落ち着くまで待つしかなかった
白山ろくの冬は十一月の終わりにやってくる。手取川ぞいの県道が一晩で白くなって、そこから先は四月まで色が戻らない。平年でも積雪が二メートルを超える土地だから、住人は降雪量ではなく根雪の深さで冬を数える癖がついている。
白峰の年寄りに聞くと、雪は降るもんやなくて溜まるもんや、という言い方をする。降り方の話をしているんじゃない。いつまで消えないかの話。
白山ろくという呼び方は、行政が決めた区分ではなく、山の麓で暮らす人たちの実感から生まれた言い方だった。郡でいえば石川郡、流域でいえば手取川の上流域、気象の分類でいえば特別豪雪地帯の指定域にあたる。線引きは人によって少し違う。地元の人が白山ろくと口にするとき、そこには金沢とはまるで別の時間が流れているという含みが必ず入ってくる。
一九九六年、この山あいで女性がひとり死んだ。そう語られている。見つかったのは集落の内か、その縁のあたりだったらしく、発見までにそれなりの時間が空いていたという話も聞いた。
ただ、そこから先の輪郭がやたらと薄い。全国紙はほとんど追わず、地元紙が短い続報を何度か出しただけで、事件の経緯をまとめた公開資料は今もほとんど見当たらない。名前だけが先に流通して、中身が後から追いつかないまま三十年が経った。
「白山ろく殺人事件」という呼び名は、その空洞ごと人の口に運ばれてきた。何が起きたかより、何が分からないかで語られる事件。だから語りだけが勝手に増えていくわけだ。
雪国の事件は季節に縛られる。十二月から三月まで、現場になった一帯はまるごと雪の下へ入る。踏み込んだ足跡も、落ちた物も、争った跡も、全部まとめて埋まってしまう。
捜査する側からすれば最悪の条件だった。地元の人に当時の話を振ると、みんな似た言い方に落ち着く。雪が落ち着くまで待つしかなかった、と。
待っているあいだに何が流れて、何が消えたのか。そこを口にする人は、正直、いまのところ誰もいない。
川をさかのぼると道が細くなる
鶴来の町を抜けて国道百五十七号に入り、白山比咩神社の大鳥居を過ぎると、左右の山がいきなり道へ近づいてくる。河内、吉野谷、鳥越、尾口、白峰。かつての五つの村が、手取川に沿って数珠つなぎに並んでいた。
手取川はもともと暴れ川として知られる。源は標高二千七百二メートルの御前峰あたりで、河口までの距離が短いわりに落差が大きく、上流の谷はどこを見てもV字に深く切れ込んでいる。
だから平らな土地がほとんどない。集落は河岸段丘のわずかな平面にしがみつくように建っていて、家と家の間隔が異様に詰まっている。白峰の町並みは、半間幅の細長い窓を縦に並べた二階建て三階建てが軒を寄せ合う形。
冬になると、この密集が効いてくる。屋根から下ろした雪を置く場所が敷地内にないから、いったん道へ出して、それを毎日川まで運ぶ作業が要る。雪下ろしと雪出しに一日が溶ける家も珍しくなかった。
集落と集落のあいだには、人の気配がまるでない区間が続く。杉の植林と、崩れかけた斜面と、土砂を止めるための砂防堰堤の列。車を停めて窓を開けると水の音しか聞こえない場所が、いくつもある。
よそから来た人間が長くうろついていれば、たしかに目につく土地だ。ただし逆のことも言える。見られずに動ける時間帯と場所が、この地形にはいくらでもある。
夜の谷は本当に暗い。街灯の切れ目が延々と続き、対向車のライト以外に光源がない区間で、自分がどこを走っているのか分からなくなる瞬間がある。
谷の奥には中宮温泉があり、その先の岩間には天然記念物の噴泉塔群が湧いていて、硫黄のにおいが沢筋に漂っている。尾添のあたりではツキノワグマの目撃がいまも珍しくなく、秋になると集落の柿の木に爪痕が残ることもあった。人の領分が狭い。道と川と数十軒の家を除けば、残りはまるごと獣と雪のものだという感覚が、この谷にはずっと続いている。
現場の近くまでは、誰でも車で行ける。ただ、どこがそうなのかを示すものが何ひとつなく、訪ねる側は川と杉林を眺めて引き返すだけになる。標識も柵もない。事件があったと言われる一帯は、いまも人が普通に通り抜けていく、ただの谷筋の細い道でしかなかった。
犯人は土地勘のある人間だろう、という推測が出てくる理由は、この道を一度でも走れば体で分かる。分かるけれど、それは地形が言わせているだけで、根拠と呼べるものではない。
松任署に置かれた捜査本部
当時この一帯を管轄していたのは松任警察署だった。のちに鶴来署と統合されて今の白山警察署になるが、山あいの村を抱える所轄として、凶悪事件を扱う頻度はもともと低い。
捜査本部が立つと、署の道場に長机が並んで電話が引かれる。県警本部の捜査一課が入り、所轄の刑事が地取りに散っていく。白山ろくの地取りは、平野部のそれとまるで勝手が違った。
まず家が散っている。そのうえ冬は出作り先や町場へ降りている世帯があって、訪ねても留守が続く。聞き込みの相手にたどり着くまでに、一日が終わってしまう。
やっと会えても、山の暮らしは時間の記憶が緩い。何時何分という証言がなかなか出てこず、陽が落ちた頃、雪が降り出す前、という単位で話が進んでいく。
加えて、村の人間関係が濃すぎた。誰が誰の親戚で、どの家とどの家が仲違いしているか。刑事が一軒聞いて回れば、その夜のうちに集落じゅうが知ることになる。
そうなると証言が縮む。隣の家に迷惑がかかるかもしれない話を、みんな途中で飲み込んでしまう。山村の捜査では昔から言われてきたことだが、白山ろくはその傾向がとりわけ強い土地柄だった。
県警はこの時期、別の重い未解決も抱えていた。一九九二年十月一日の未明、金沢市三十苅町のスイミングクラブ駐車場で、二十歳の女性コーチが細いひもで首を絞められて死んでいた事件。
延べ六万人の捜査員を投入し、六千人以上から事情を聴いている。髪に絡まったメタセコイアの葉、刃物で切り裂かれた泥だらけのオーバーオール、現場に落ちていた男性の頭髪。物はいくらでも残っていて、それでも人に届かなかった。
冬の捜査には、平野部ではまず起きない足かせがついて回る。除雪が入る前の朝は車が出せず、聞き込みの開始がそのまま昼近くまでずれ込んでしまう。携帯電話もまだ薄かった。連絡手段が集落の公衆電話と各戸の固定電話しかない時代の捜査は、想像よりはるかに手間のかかる仕事だった。
紙面はやけに静かだ。地元紙が社会面の片隅に短く載せ、続報は節目の年に思い出したように出る、という扱いが長く続いた。載り方が小さい。山の事件は金沢の事件より一段低く見られている、という不満を白山ろくの人から何度か聞かされた。
県警の中に、またかという空気が沈んでいた時期。そこへ白山ろくの一件が重なる。人も予算も、まず金沢へ向かう。山の事件は、そこで静かに一段下へ置かれた。まあ、そういう順番になる。
時効が消えた日
一九九六年当時の刑法では、殺人罪の公訴時効は十五年と決まっている。そのまま数えれば二〇一一年のどこかで終わる計算で、遺族にとっては毎年一枚ずつ砂時計が減っていくような期間だった。
ところが二〇一〇年四月二十七日、改正刑事訴訟法が成立して即日施行される。人を死亡させた罪のうち死刑にあたるものについて、公訴時効が撤廃された。まだ時効が完成していない事件は、そのまま対象に入る。
白山ろくの一件も、この網に引っかかった。法律の上では、期限が消えたことになる。
期限が消えたことと、捜査が動くことは別の話だ。撤廃を受けて各県警は長期未解決を専従で扱う特命の班を置き、当時の資料を読み直し、保管してきた遺留品をもう一度鑑定へ回すようになった。
DNA型鑑定の精度は、一九九〇年代半ばと今とで桁が違う。当時は資料が微量すぎて判定不能とされたものから、いまは型が出る例が増えてきた。だから証拠品をどう保管してきたかが、そのまま解決の可能性を決めてしまう。
厄介なのは人のほうだ。発生からちょうど三十年。当時三十代だった目撃者は六十代を越え、捜査にあたった刑事の大半はとっくに退職している。
記憶を持っている人間の数が、毎年きれいに減っていく。金沢のスイミングコーチの事件は二〇〇七年九月三十日に時効を迎えた。あと三年遅ければ撤廃に届いていた、という距離。
時効撤廃と前後して、警察庁は捜査特別報奨金の制度を広げ、未解決の重大事件に情報提供を呼びかける仕組みを整えていった。石川県警も長期未解決事件を専従で扱う体制を置き、当時の実況見分調書や供述調書を一から読み直す作業に入っている。紙の束との格闘。発生から三十年が経った事件で最後に物を言うのは、結局その地味な読み直しだったりする。
遺族の無念を伝えた地元紙の見出しを、今でも覚えている人が金沢には大勢いる。白山ろくは、その逆側に立っている。時効はない。代わりに、終わりもない。
泰澄という坊さんが登った山
事件の背後に白山がある、という言い方はよくされる。ただ、この山をただの風景として扱ってしまうと、土地の何も見えてこない。白山は千三百年ものあいだ、人が命懸けで登り続けてきた場所だった。
養老元年、西暦でいえば七一七年。越前の僧だった泰澄が御前峰に登ったという。瞑想のさなかに九頭龍王が姿を現し、自分は白山明神、妙理大菩薩であると名乗った。翌年、泰澄は頂上に社を建てる。
それ以前から、白山は麓の村にとって水の神だった。雪解け水が手取川になり、加賀平野の田を潤す。この山の雪がそのまま稲になるという実感が、信仰の土台をつくっている。
平安期に入ると、加賀、越前、美濃の三方から登拝路が整えられた。これが三馬場。加賀の馬場が白山比咩神社、越前の馬場が平泉寺白山神社、美濃の馬場が長滝白山神社で、天長九年に開かれたと伝わる。
白山比咩神社そのものが、手取川のほとりを転々としてきた。応神天皇二十八年に十八講河原へ、霊亀二年に安久濤の森へ遷ったと社伝は語る。
文明十二年十月の大火で本宮は全焼し、御神体は三宮の地へ避難した。それから百年以上の衰亡期が続き、文禄五年に前田利家の支援でようやく再興が成る。祭神は白山比咩大神、つまり菊理媛尊と、伊邪那岐、伊弉冉の三柱。
久安三年、神宮寺が延暦寺の末寺になったとき、比叡山の日吉七社をまねて白山七社が組まれた。本宮、金剱宮、三宮、岩本宮、中宮、佐羅宮、別宮。この七つが山頂と麓をつなぐ骨格として働いた。
白山は、いまも気象庁が常時観測を続けている活火山でもある。歴史時代の噴火記録がいくつも残っていて、山そのものが静かに生きているという前提を、昔の人はごく普通に共有していた。だから神として祀る。噴いて、崩れて、水を出して人を殺す山に名前と人格を与えることが、この土地での折り合いのつけ方だった。
中世の白山修験は、馬の鼻も向かぬ白山権現と言われるほど力を持っていた。武士でさえ正面から手を出さない。それくらいの勢いが、この谷筋にはあった。
檜新宮で引き返した者たち
加賀禅定道は白山比咩神社を起点にする。まずハライ谷で神人に祓ってもらい、そこから尾根づたいに頂上を目指す。片道だけで相当な距離があり、途中に泊まるための室がいくつも置かれていた。
その室を維持するには、食料も薪も寝具も下から担ぎ上げねばならず、ふもとの村がそのつど人手を出していた。江戸の享保年間より後になると、越前側の市ノ瀬には平泉寺の僧が常駐して入山料を取るようになっている。信仰は商売でもあった。山頂の管理権を奪い合って加賀と越前が鉄砲を撃ち合ったのも、根っこにはこの金の流れがある。
その途中に檜新宮という場所がある。ヒノキの大木が林立する修行所で、老人や女はここまで登って白山を遥拝し、そこから先へは行かせてもらえなかった。
しかり場という分岐もある。女人禁制を破った老女が神罰を受けて石に変わったと伝わる地点だ。同じ型の話は美濃側にもあって、おたけり坂と母御石には、泰澄の母が神の怒りに触れて石の中へ閉じ込められたという伝説が残る。
山が人を選ぶ。選ばれなかった者は道の途中で石に変えられる。白山の登拝路には、この構図が場所を変えて何度も出てくる。
道沿いには天池室の跡があり、宿泊施設を支えた石垣が今も草の下に見える。四塚山のあたりは龍ヶ馬場と呼ばれ、仙人が駿馬を調教した場所という話がついている。加賀室の跡は大汝峰と七倉山の鞍部。
千年以上にわたって、人が同じ道を踏み続けた。おかげで道筋は所々で深く凹んでいる。土が削れるほど歩かれたという、それ自体が記録みたいなもの。
その加賀禅定道も、近代に入ると長いこと廃道になっていた。四塚山までの古道が復活したのは昭和六十二年。越前側の別当坂までの道が復元されたのは平成十一年になってからだ。
歩く人が絶えれば道は消える。消えた道がもう一度使えるようになるまで、この山では半世紀近い時間がかかった。
千蛇ヶ池の蓋
白山の頂上近くに、夏になっても雪が消えない池がある。千蛇ヶ池。名前のとおり、蛇の話がべったりと貼りついている。
昔、白山の上には三千匹のおろちが棲んでいた。麓まで下りては作物を食い荒らし、家畜を襲った。困り果てた村人の訴えを受けて、泰澄はこの三千匹を三つに分けて始末したという。
どうしても言うことを聞かない千匹は、地面に埋めて上から石を積み、そのまま封じた。弥陀ヶ原の近くにある蛇塚がそれだと伝わる。
次の千匹には刈込池に棲むよう命じ、池の大岩に大きな剣を立てた。鉄に触れると体が腐るとおそれたおろちは、それきり池から出てこなくなった。
残りの千匹は頂上近くの池へ追い込んで、上から万年雪で蓋をしてしまう。御宝庫と呼ばれる岩場が、その蓋の役をしているという。雪が全部消えれば蛇が出る。だから白山の雪は消えない。
この話の骨は案外はっきりしている。白山の雪は季節ではなく封印として扱われている。消えては困る物、開けてはいけない蓋。
一九九六年の冬も、現場となった一帯は分厚い雪の下に入った。そこへ蓋の比喩を重ねる人が出てくるのは、まあ自然な流れだろう。雪が隠す。雪が守る。雪が返さない。
白山の伝説には、黒百合にまつわる話も混じっている。恋と嫉妬のもつれから毒だと噂を立てられ、女が黒百合ごと葬られたという筋になっている。白山の高山帯に咲くクロユリの群落は、いまもその話と結びつけて語られてきた。花に罪はない。それでも、花の名前に人の死をくくりつけてしまうのが、この山の周辺に積もった語りの癖だった。
土地の物語というのは、こうやって新しい出来事にくっついてくる。くっついた瞬間、事件は事件でなくなって山の話に変わってしまう。変わったほうが、聞く側は飲み込みやすい。
鉄砲を撃った牛首の男
白山ろくが江戸期に天領だったことを知る人は、地元にもそう多くない。加賀藩の領内にありながら幕府の直轄地。そうなるまでの経緯が、この土地の性格をよく表している。
明暦元年、加賀藩が山頂の白山堂を修理しようとして尾添村の百姓を送り込んだ。ところが越前側の牛首村がこれを鉄砲で撃って追い返す。山頂の管理権を誰が握るかという、金と面子の絡んだ争いだった。
寛文六年、加賀馬場の白山宮の長だった澄意が京の朝廷に働きかけ、白山堂の管理をもう一度認めさせる。越前勢はまた武力で阻んだ。
寛文八年、しびれを切らした加賀藩は尾添と荒谷の両村を幕府へ返上してしまう。住民およそ九十人が能登へ移された。村ごと動かされている。
延宝元年、幕府は牛首村の土豪だった加藤籐兵衛から殿の地位を取り上げ、越前大野へ追放した。四代続いた家の失脚で、争いはようやく決着する。
結果として白山麓十八ヶ村が天領になり、山頂の管理権は加賀馬場が握った。藩でも国でもない、宙ぶらりんの十八村がこうして生まれる。
天領は年貢が軽いと言われがちだ。白山麓の場合、そのかわり外との行き来には細かい制約がついた。どこの藩にも属さない村は、どこの藩からも守ってもらえない。
天領になった白山麓十八ヶ村の暮らしは、年貢の米では立ちゆかなかった。炭を焼き、紙を漉き、生糸を出し、山で採れるものを現金に換えて幕府の役所へ納めるという形で成り立っている。米が採れない村。その事実が、焼畑と出作りという独特の生業をこの谷に根づかせた大きな理由になっている。
白峰の言葉がジゲ弁と呼ばれる独特な形になった背景にも、この孤立がある。加賀弁とも越前弁とも違うイントネーション。地理と歴史の両方で切り離されてきた土地の音だ。
三年、村に人影が絶えた
鳥越には城がある。鳥越城と、谷を挟んだ二曲城。加賀一向一揆が最後まで踏みとどまった砦として、国の史跡に指定されている。
長享二年、加賀の一向一揆は守護の富樫政親を攻め滅ぼした。それから約百年、この国は百姓の持ちたる国と呼ばれることになる。その終わりが、よりによって白山ろくで訪れた。
天正五年、手取川の戦いで上杉謙信が織田軍を破る。三年後、本願寺の顕如が退城し、新門主の教如は籠城を続けた。北陸の総大将は柴田勝家、前線を任されたのが佐久間盛政。
天正九年、山内組の指導者だった鈴木出羽守義明とその子が松任城へ呼び出され、騙し討ちで首を切られた。首は安土の城下で、他の一揆指導者十九名とともに晒されている。
山内組は夜討ちをかけて鳥越城を奪い返す。だが長くは保たなかった。吉野組による最後の抵抗も、そこで潰える。
数百の吉野組の一揆衆が磔にかけられた。吉野、佐良、瀬波、市原、木滑、中宮、尾添。この七ヶ村が全滅したと記録にある。そして三年のあいだ、村に人影が絶えた。
三年、人がいない。その言葉の重さは、鳥越城跡の空堀に立ってみると少しだけ伝わってくる。石垣はきれいに整備され、往時の曲輪の形がよく分かる。
鳥越城跡の発掘では、焼けた建物の跡と一緒に、金箔を貼った板の破片まで出てきた。山の中の砦に金箔が持ち込まれていた。その一点が、加賀一向一揆という組織の厚みをそのまま見せてくる。貧しい百姓の反乱ではない。教団と商業と武力が絡み合った、ひとつの統治機構が織田軍に潰されたということだ。
白山ろくは、人が一度まるごといなくなった土地だ。いま住んでいる人たちの先祖には、その空白のあとで入ってきた家が少なくない。地縁が濃く見えて、実のところ何度も切れている。
ナギ畑の火
白山ろくの暮らしを支えてきたのは水田ではない。焼畑だった。地元ではナギ畑と呼ぶ。斜面の草木を薙ぎ払ってから火を入れるので、この名がついた。
前の年の秋に木を伐り倒して乾かしておく。五月下旬の晴れた日を選んで火を入れ、イブリという道具で斜面の上から下へ順に火を送っていく。火が収まったその日か翌日には、もう種を蒔いた。
耕すのは浅く、肥料はいっさい使わない。一年目にヒエ、二年目にアワ、三年目に大豆。作物を替えながら五年ほど使ったら、あとは二十年から三十年、そのまま放っておいて地力が戻るのを待つ。
主食はヒエだった。アワ、コクビエ、ソバ、エゴマ、アズキ。小屋のまわりの常畑はキャーチと呼ばれ、こちらには肥料を入れて野菜を作っている。
出作りというのは、この畑のそばに小屋を建てて住み込む暮らしのこと。四月に山へ入り、月末までに火入れを済ませる。六月から八月は養蚕と草取りに追われ、九月と十月は炭を焼いた。
十月から十一月にかけて穀物と野菜を収穫し、十一月の末に母村へ下りてくる。十二月から二月は雪の中で、農具を直し、藁を綯い、機を織って過ごす。
小屋は木造の茅葺き、三間建ての寄棟造り。戦前は二階と三階を養蚕に使っていた家が多い。中はネドコとオミャーに分かれ、囲炉裏のある居間が団らんと食事と屋内仕事の中心になる。
江戸末期の白峰には、出作りの家が三百八十戸以上あったという。六十年ほど前の調査では、石川と福井を合わせて約七百八十戸。それが今では山麓全体で数えるほどしか残っていない。
終わらせたのは燃料革命だった。昭和三十年代の半ば、薪と炭が石油とガスに置き換わって製炭業が事実上崩れ、出作り生活も一緒に終わる。余った人手は高度成長期の都市労働力として吸い上げられていった。
ヒエやアワを主食にした暮らしは、今の感覚だと貧しさの記号として受け取られやすい。ただ、白山ろくの出作り集落では、それがきちんと体系化された技術として磨かれてきた。とち餅や熊の肉。山でしか手に入らない食材を組み合わせた献立が、冬を越すための現実的な設計として機能していた。
山の中には、誰も住まなくなった小屋の跡が点々と散らばっている。茅が落ちて柱だけが立っている場所もある。人が消えた地点が、この山域にはやたらと多い。
別当谷が崩れた朝
昭和九年七月十一日の未明、手取川が牙をむいた。例年にない量の雪解け水に、四百ミリを超える豪雨が重なったせいだった。
別当谷が大崩壊を起こす。周囲の支谷からも土砂が噴き出し、流出量はおよそ一億立方メートルと推定された。河床は市ノ瀬で十二メートル、風嵐で七メートルも上がっている。川底が持ち上がるという表現は、決して誇張ではない。
死者九十七人、行方不明十五人、負傷者三十五人。流された家が百七十二戸、倒れた家が六十五戸、浸かった家が五百八十六戸。埋没と流失をあわせた耕地は二千八百八町歩にのぼった。
上流から河口まで、流域のほとんど全域がやられている。手取川の鉄橋も能美電鉄の橋梁も落ちた。石川県の災害史でも、これを超える被害はそうそう出てこない。
このとき押し流されてきた巨岩が、いまも牛首川の河原に転がっている。百万貫の岩。重さが百万貫、およそ四千トンあるという見立てからついた名前だ。
岩は動かせない。だから記念碑ということにした。毎年、百万貫の岩まつりが開かれている。災害を忘れないための行事が、そのまま観光資源として機能しているのが白山ろくらしい。
白峰で出作りが目に見えて減りはじめたのも、この水害からだった。山の斜面が崩れて畑が消え、暮らしの基盤が一晩で削り取られている。
昭和九年の水害のあと、この流域では国による直轄の砂防事業が本格的に始まっている。崩れた別当谷を押さえ込むための堰堤が次々と積まれ、白山砂防は百年近く続く長期戦へ入っていった。山を治めてから川を治める。その順番を守らないと平野が守れないという発想が、この災害からはっきりと固まった。
この土地の人は、白山を美しいとはあまり言わない。まず怖いものとして扱う。信仰の対象になった理由も、結局はそこに行き着くのだと思う。
三百三十戸が沈んだ
昭和四十年代に入ると、手取川の上流に巨大なダムをつくる計画が動き出す。一九六六年に手取川が一級水系へ指定され、国の直轄管理に移ったことが出発点だった。
翌年、建設省が工事実施基本計画を策定する。一九六八年には電源開発が水量と急流に目をつけて発電所を検討しはじめ、金沢と小松の人口急増による水不足も重なった。一九七〇年、三者が手取川総合開発計画を共同でまとめる。
尾口村と白峰村の三百三十戸、三百二十二世帯が水没すると決まった。当然、激しい反対運動が起きる。
交渉は相当に揉めた。一九七四年に水源地域対策特別措置法が施行され、手取川ダムは九条等指定ダムになる。この前後で道路が整備され、冬に孤立していた地域へ車が入れるようになった。
温泉が引かれ、スキー場ができ、年間十万人を超える観光客が来る土地へ変わっていく。村の空気が動いたのは、そのあたりからだったらしい。一九七四年の暮れ、補償交渉がようやく妥結した。
本体工事は一九七八年に終わり、翌年六月一日から湛水が始まる。堤高は百五十三メートル。北陸地方のロックフィルダムとしては最大の規模になった。
計画発表から十二年での完成は、これだけの水没物件を抱えたダムとしては異例の速さだった。速いということは、飲み込んだものも速く見えなくなるということ。
移転した人たちは桑島地区に造成された代替地へ入り、一九七六年に桑島町と深瀬新町が成立した。町名は残った。地面のほうは水の下にある。
渇水の年、ダムの水位が下がると、沈んだ集落の道の跡や石垣が水面に顔を出すことがある。その写真が出回るたび、ネットの一角が毎回ざわつく。
手取川ダムのそばには手取川総合開発記念館が建っていて、沈んだ集落の写真や生活道具が展示されている。移転前の家並みを写した白黒の写真には、いまの湖面からはまるで想像のつかない道と橋と田んぼが写り込んでいる。水は記録を残さない。だから記録のほうを陸に上げて、建物の中で保存するしかなかった。
沈んだ村のすぐそばで起きた未解決事件。この並びだけで、話はひとつ勝手に生まれてしまう。生まれた話は、元の事件よりずっと速く遠くまで広がった。
白山下という終点
鶴来から手取川をさかのぼっていく鉄道が、かつてあった。北陸鉄道金名線。加賀一の宮から白山下までを結び、山麓の村と平野の町をつないでいた線だ。
始まりは軽便鉄道で、沿線の人たちからはポッポ汽車と呼ばれていた。金沢と名古屋を鉄道でつなぐという壮大な構想のもと、一九二五年に金名鉄道が設立され、翌年に開業している。
社長の小堀定信は私財を注ぎ込み、一時は破産寸前まで追い込まれた。一九三一年にガソリンカーを導入し、一九四九年に電化。開通二十五周年のとき、白山下の駅前に小堀の胸像が建った。
過疎が進んで客が減り、一九七〇年からは昼間の運行が止まる。一九八三年十月の豪雨で橋梁が傷んだことが、とどめになった。
一九八四年十二月十二日、手取中島と広瀬のあいだで、手取川橋梁の橋台を支える岩盤が風化していると判明する。全線が運休になり、そのまま復旧されずに一九八七年四月二十九日で廃線になった。
白山下は、正式には終点ではなく起点の駅だった。地図の端に見える場所から数えはじめる線。土地の感覚としては、そのほうが正しい気もする。
いま駅舎はサイクリングの拠点として使われている。線路はもうない。築堤の土手とトンネルの跡が、藪の中に埋もれたまま点々と残っている。
一九九六年の時点で、白山ろくへ入る公共交通はすでに細っていた。バスの本数も限られ、車を持たない者が単独で奥まで入り込むのは、そもそも難しい土地になっていた。
金名線の廃線跡は、いま歩くとかなり分かりにくい。築堤は藪に飲まれ、トンネルの坑口は落石で半分ふさがり、橋梁の橋台だけが川の中に取り残されて立っている。時刻表の記憶も薄れた。鉄道で山へ入っていた時代の白山ろくは、もうほとんどの人の頭から抜け落ちてしまっている。
この条件が、犯人は車で来たはずだという推測を生む。生みはするが、そこから先へ進めた人はまだひとりもいない。
雪女は白いとは限らない
白山ろくの怪異は、雪と山に強く寄っている。当たり前といえば当たり前だが、話の型がなかなか独特だ。
上柏野には六尺坊主の話が伝わる。真夜中に田を耕していた奉公人の前へ、やたら背の高い何かが立った。念仏を唱えたら霧のようにほどけて消えたという。
成町に出るのは大坪の化物。傘をさした女の姿で夜道に現れる。声をかけると、うなや、と返してくる。人の返事ではない。そこで正体が知れる。
長屋町には長屋火という怪火がある。長享二年の一向一揆で死んだ者の霊火だとされ、梅雨どきや天気の悪い夜に低く飛ぶ。地元では祟りとして怖がるより、村を守った命の証として扱ってきた。
雪女の話は北陸一帯にあるが、白山麓のそれは色の描写が薄い。白い着物の美女という定型より、吹雪のなかに人がいた、という証言の形で伝わることが多かった。
出作りの暮らしを思い浮かべると、この違いが腑に落ちる。冬の山小屋は本当に孤立する。吹雪の日に窓の外へ人影が見えたら、それは助けを求めている人かもしれない。開ければ自分が死ぬ。
開けなくても、開けなかったことを一生抱えることになる。雪女は、その判断を物語に置き換えた装置だと思う。誰かを見捨てた記憶を、人ではない何かのせいにして片付ける仕掛け。
山村の怪談には、こういう実務的な機能がしばしばある。人柱の話も白山ろくには散らばっていて、手取川の堤や橋の下に人を埋めたという型が繰り返し出てくる。
どれも場所の特定ができない。特定できないまま、川が荒れるたびに思い出される。一九九六年の一件も、そっくりこの回路へ入った。
噂というのは、証拠の少ない場所ほど早く育つ。白山ろくの場合、山の怪異という既成の型が先にあったぶん、新しい出来事がその型へ吸い込まれるまでの時間が極端に短かった。型がある土地は強い。強いぶん、実際に起きたことの細部を平気ですり潰してしまう危うさも抱えている。
聞き取りは難しかった。事件の話になると、みんな一度言葉を選び直してから、当たり障りのない世間話の方向へ静かに寄せてくる。隠しているのとも違う。狭い集落で三十年も同じ話題を抱えてきた人たちなりの、擦り切れない距離の取り方なんだと思う。
山が獲った、白山が怒った、雪が隠した。そういう言い方をする人が、いまでも出てくる。ただ、それは事件を消す言い方でもある。消されるのは、たいてい被害者のほうだ。
掲示板に貼られた地図
この事件がインターネットで回りはじめたのは、未解決事件のまとめ文化が育った二〇〇〇年代の後半からだと思う。匿名掲示板には、地元では誰でも知っているのに全国では報じられない事件、という枠がある。そこへ放り込まれた。
流布している推理は、大きく三つに分けられる。ひとつめが土地勘説。集落の構造と道の少なさからして、外部の人間には動けないという読み方だ。
ふたつめが通り魔説。国道百五十七号は福井へ抜ける幹線で、季節によっては県外ナンバーの通行が多い。通過するだけの人間なら地縁が効かず、動機も追えない。
三つめが合併風化説。二〇〇五年の平成の大合併で、河内、吉野谷、鳥越、尾口、白峰の五村と美川町、松任市が一緒になって白山市が発足した。旧村名が行政地名から落ち、事件を語り継ぐ枠組みごと消えたという見方になる。
合併風化説は、感情としては分かる。ただ、地名が消えたから事件が消えるという因果は、そのままでは成り立たない。白峰も鳥越も地区名としては生きているし、郵便物もその表記で届く。
土地勘説のほうには、それなりに効く反証がある。白山ろくは閉じているように見えて、人の出入りはむしろ激しかった。ダム工事、砂防工事、スキー場、林業。季節労働で外から入ってくる人の数は昔から多い。
冬だけ来て春に消える人もいた。よそ者はすぐ分かる、という前提そのものが、思われているほど堅くない。
通り魔説にも穴はある。通過者の犯行なら遺棄地点は道路に近くなりやすく、そうでない場所で見つかったという話が本当なら前提が崩れる。ただ、そこを確かめられる公開資料が見当たらない。
結局、どの説も同じところで止まってしまう。一次情報がないから、推理が推理を食って勝手に太る。それだけ。
SNSでは、もっと妙な接続も起きている。白山や手取川の風景写真に、この近くで昔、未解決の事件があったらしい、というリプライがぶら下がる。観光の投稿に事件の記憶が貼りつく形。
それを読んだ人が、また別の場所で同じことを書く。出どころのない知識が、そうやって増殖していく。いま流通している事件の輪郭は、ほとんどこの増殖でできあがったものだ。
二〇一〇年代の後半からは、未解決事件を扱う動画チャンネルがこの一件を取り上げるようになった。地図の航空写真に赤い丸を打ち、合成音声でナレーションを流すという、どこかで見たことのある作りの短い動画。数字は伸びる。伸びた分だけ、確認されていない設定が既成事実のように固まっていった。
書く側として守れることは、たぶん二つしかない。確認できていないことを確認できたように書かないこと。実在の誰かを犯人として名指ししないこと。話がどれだけ面白くなっても、そこは譲らない。
今の白峰を歩く
白峰の町並みは平成二十四年七月九日に重要伝統的建造物群保存地区へ選定された。大壁づくりの家が肩を寄せ合い、半間幅の細長い窓が縦に切ってある。雪国の顔がそのまま残っている一角だ。
牛首紬を織る工房も続いている。特殊な繭から手挽きした糸を使う紬で、八百年以上の伝統を持ち、石川県の無形文化財に指定されている。日本三大紬のひとつに数えられてきた。
牛首という地名は、泰澄が白山を開いたときに牛頭天王や十二神将を祀ったことに由来するという。一八七六年、牛首村と風嵐村が合併して白峰村になった。
平成二年からは毎年、雪だるままつりが開かれている。二千個ほどの雪だるまと雪像が集落を埋め、夜になると中に灯りが入る。過疎の山村の催しとしては、かなりうまくいっているほうだろう。
桑島には化石壁がある。恐竜の化石が大量に出た崖で、日本の古生物学の現場としてよく知られてきた。二〇二三年、白山手取川ジオパークはユネスコ世界ジオパークに認定されている。
白山ろく民俗資料館には、出作り民家が山から移築されて建っている。積雪期の用具、人生儀礼の道具、山村の生産用具。国の重要有形民俗文化財に指定されたものが、屋内にびっしりと並ぶ。
人が減った土地で、人の暮らしだけが丁寧に展示されている。歩いていると妙な感じがしてくる。展示の外には空き家があって、雪囲いをしたまま何年も開けられていない家が普通にある。
白山の一帯は二〇一六年に白山ユネスコエコパークとして拡張登録され、人の暮らしごと守る区域になった。出作り文化も牛首紬も、その枠組みの中で保全すべき地域資源として扱われるようになった。守る対象になった暮らし。実際に暮らしていた人たちは、その多くがもう山にいない。
白峰の人口は減り続けている。合併前の村の時点ですでに千人台へ落ち込んでいて、いまは集落を歩いても子どもの声がほとんど聞こえてこない。空き家も増えた。雪下ろしをする人手が足りず、潰れるままになっている家が冬ごとに一軒ずつ増えていくという話も聞く。
事件の現場と言われる場所に、案内板は立っていない。慰霊碑もない。花が置かれているという話も、地元で聞いたことがない。誰かが手を合わせているとすれば、それは個人の家の仏壇の前でのことだろう。
未解決事件の慰霊は難しい。犯人が決まっていないと、何に向かって祈ればいいのかが定まらない。定まらないまま、年月だけがどんどん積もっていく。
雪はまた降る。十一月の末に道が白くなり、四月まで戻らない。その下に何があるのかを誰も掘り返さないまま、季節だけがきちんと回っていく。
今年も白峰の家々は、そろそろ雪囲いを始める頃だ。板を打ちつける音が川の音に混じって、谷のあちこちで響いている。
