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四十億円の金屏風と、消えた銀行――平和相互銀行事件、なぜ日本人はこの事件だけを忘れたのか

新橋の日比谷通り沿いに、八階建ての銀行本店が建っていた。竣工は一九六六年、設計は久米建築事務所。一階と二階が営業室で、八階には大ホール、屋上は駐車場になっていた。この建物を建てた銀行は、いま存在しない。

名前を平和相互銀行という。一九八六年十月一日、住友銀行に吸収合併されて消えた。ただの経営難で消えたのならわざわざ書かないけど、この銀行が抱えていたのは不良債権だけじゃなかったんだ。

総会屋がいて、右翼がいて、政治家がいて、元特捜検事がいた。四十億円の金屏風があり、鹿児島沖の無人島があり、五億円が誰かに渡ったという走り書きのメモがあった。日本の総理大臣がひとり誕生する過程にも、この銀行の残り香がまとわりついている。役者がそろいすぎだ。

ぼくはこの事件を追いかけるたびに、同じ場所で足を止める。捜査は途中で止まり、報道も途中で止まった。世間の記憶からも、きれいに消えた。ロッキードもリクルートもイトマンも名前だけは残ったのに、平和相互銀行事件はほとんど誰も覚えていない。そこを掘るから、長くなるけど付き合ってほしい。

  1. 鉄屑から始まった銀行
  2. 夜七時まで開いている銀行だった
  3. 相互銀行って、何だったのか
  4. 「闇の紳士の貯金箱」
  5. 一九七九年六月、創業者が死ぬ
  6. 伊坂重昭という人
  7. 一九八五年二月、内容証明が四十六通飛ぶ
  8. 神戸の山林、一九八二年
  9. 馬毛島、一九八三年
  10. 一九八五年八月、株が動いた
  11. 四十億円の金屏風
  12. 大蔵省検査、五カ月
  13. 一九八六年一月、報道が始まる
  14. 住友銀行はなぜ引き受けたのか
  15. 一九八六年六月二十七日、防弾チョッキの株主総会
  16. 一九八六年七月六日、逮捕
  17. 検察はどこで止まったのか
  18. 判決――どこまでが確定した事実なのか
    1. 第一層・確定判決で認められた事実
    2. 第二層・報道ベースの疑惑
    3. 第三層・当事者の一方的な言い分
  19. 政治の側で何が起きていたか
  20. 一九八七年、褒め殺し
  21. 証言を読む
    1. 防弾チョッキを着た弁護士の話
    2. 店舗を見て回った住友の男の話
    3. 街宣の現場を仕切った男の話
    4. 取り調べ室で止まった検事の話
    5. 二十五人の行員の話
  22. 一次資料と初出を洗う
  23. イトマン事件への一本道
  24. バブルの金庫番たちと、直接関係の話
  25. 政治資金の実務という補助線
  26. 当時、世間はどう反応したか
  27. 四十年後に見ると、先取りだった
  28. よく語られる四つの見立てと、その反証
  29. なぜ、この事件は怖いのか
  30. なぜ、この事件は忘れられたのか
  31. 跡地には何があるか
  32. 一九八五年という一年を、もう一度並べ直す
  33. 護送船団が抱えていた矛盾
  34. 監査役が実権を握るという倒錯
  35. 数字の食い違いをどう扱うか
  36. 記者たちのことを、もう少し
  37. 「相互銀行」という言葉が消えたこと

鉄屑から始まった銀行

創業者の名前は小宮山英蔵という。戦後、東京の木挽町あたりで鉄屑商をやっていた男だ。焼け跡には鉄がいくらでも転がっていて、その商売で貯めた金を元手に、一九四九年六月一日、日本殖産株式会社を設立する。これが後の平和相互銀行になる。

やっていたのは日掛け金融だった。毎日ちょっとずつ集金して回る、いわゆる無尽の系譜だ。会社は大日殖産を吸収合併したのち社名を平和貯蓄殖産無尽に変えていて、名前に「平和」が入ったのはこのときだ。戦後の焼け野原から立ち上がった会社らしい、素朴で前向きな社名だと思う。

一九五一年、相互銀行法が施行された。これで全国の無尽会社が一斉に相互銀行へ転換する。平和貯蓄殖産無尽も転換して平和相互銀行になり、街の日掛け屋が法律ひとつで銀行になった。この出自が、後々まで銀行の性格を決めていく。

夜七時まで開いている銀行だった

平和相銀の何がすごかったか。答えは営業時間で、当初はなんと夜九時まで窓口を開けていた。行政指導で後に夜七時までに縮めたが、それでも当時の銀行としては異例中の異例だ。理由ははっきりしていて、客の多くが飲食店や水商売の人たちだったからだ。

考えてみれば当たり前の発想なんだよな。夜働く人は、昼の三時に銀行へ行けない。だったら銀行が夜まで開いていればいい。ところが、この当たり前をやる銀行は他になかったんだ。平和相銀は首都圏の駅前から住宅地の丘の上まで細かく店舗を撒いていき、日曜営業をやっている店もあったんだ。

利便性へのこだわりも徹底していた。都市銀行十行と提携し、どこの銀行のキャッシュカードでも使える現金自動機を早くから置いていた。一九六六年の本店竣工を機に、事務のオンライン化にも踏み切っている。

ちなみに一九七六年十一月三十日の朝日新聞朝刊に、「オンラインがアウト」という見出しの記事が載っている。七十五支店が一時マヒしたという内容だ。それだけ機械化が進んでいたということでもある。

平和相銀はどんどんふくれあがった。ピーク時で店舗数は百三、資金量は一兆一千五百億円。相互銀行界では第六位につけていた。都市銀行の下位行と本気で張り合える規模だ。数字だけ見れば、戦後の成功物語そのものだ。

相互銀行って、何だったのか

ここで少し制度の話をさせてほしい。今の若い人は、相互銀行という言葉すら知らないと思う。少しだけ遠回りするよ。

相互銀行は、戦前からあった無尽会社を母体にしてつくられた業態だ。無尽というのは、ひと言でいえば庶民の講のこと。何人かで金を出し合い、順番にまとまった金を受け取る仕組みだ。これを会社組織にしたのが無尽会社で、戦後の一九五一年、相互銀行法によって銀行に格上げされた。

普通の銀行とは、扱いが違ったんだよ。相互銀行は中小企業と個人向けの金融機関と位置づけられ、貸出先の規模や取引の範囲に制限がかかっていた。大企業の本格的な取引は都市銀行の縄張りで、相互銀行はそこに入れない。裏を返せば、相互銀行の土俵には都市銀行が来ない決まりだった。

これが大蔵省の護送船団行政だ。業態ごとに縄張りを引き、金利を横並びにし、店舗の出店を許認可で握る。いちばん足の遅い船に船団全体の速度を合わせるやり方だから、戦後長いあいだ、日本では銀行が一行もつぶれなかった。

つぶさなかったと言うほうが正確だ。危なくなった銀行は、大蔵省が別の銀行に合併させて処理した。船団から落ちる船は出さない。

相互銀行という業態は一九八九年前後に一斉に普通銀行へ転換し、第二地方銀行と呼ばれるようになる。平和相銀が消えた一九八六年は、業態そのものの終わりが見えていた時期でもあったわけだ。この時間感覚は、事件を読むうえでけっこう大事なんだよ。銀行は、制度の変わり目で消えたんだ。

「闇の紳士の貯金箱」

ここからは、成功物語の裏側の話だ。平和相銀は、小宮山英蔵と小宮山一族が完全に握るオーナー銀行だった。銀行の周りには小宮山ファミリーの関連企業が群れをなしていた。その数はおよそ百社以上で、レジャーも不動産も開発も警備もなんでもある。

銀行はそこへ金を出した。グループ企業向け融資の総計は六千億円を超えていたとされる。資金量一兆一千五百億円の銀行が身内に六千億円なんだから、もはや銀行というより一族の資金部門だよ。

英蔵の私的な側近には、四天王と呼ばれた面々がいた。正和恒産の安積正、旅友開発の作本宏芳、日誠総業の次郎丸嘉介、太陽開発の松尾秀登。この人たちを軸に、政治家や総会屋、右翼の顔ぶれが銀行の周囲に集まっていく。

金融界での平和相銀の評価は、身も蓋もないものだった。曰く、闇の紳士の貯金箱。ひどい言われようだ。

誤解しないでほしいんだけど、これは犯罪の話をしているんじゃない。当時の日本には、表と裏の中間みたいな領域が広く存在していた。企業と総会屋、政治と右翼、開発と地上げ。その中間領域に金を出す金融機関が必要とされ、都市銀行が出せない金を出す役割が、制度の隙間にいる金融機関に回ってきた。平和相銀は、その代表格になってしまったわけだ。

ファミリー企業の中でも突出していたのが、太平洋クラブだった。会員制のレジャークラブで、一九七三年から会員を募集し、預かり保証金という形で巨額の金を集めていた。国会でもこれは問題になっている。

一九八〇年五月十四日には、参議院に質問主意書が提出された。二十七のゴルフコースを宣伝しながら約七百七十億円もの資金を集めている点を突いたものだ。「極めて危険で問題ではないか」という指摘だ。資本金二十億円の太平洋クラブが、平和相互銀行株を八・九三パーセント持っている経緯まで問うている。事件が表沙汰になる六年前に、国会はもう気づいていたわけだ。

一九七九年六月、創業者が死ぬ

小宮山英蔵が死んだ。ワンマンが死ぬと、組織は必ず割れる。平和相銀も例外じゃなかったし、その割れ方がまたややこしかった。

長男の英一がいて、英蔵の実弟で社長の精一がいる。英蔵の女婿で副社長の池田勉もいる。血縁の三方向が、それぞれ正統性を主張して睨み合った。オーナー企業の後継争いとしては、教科書みたいな構図だ。

ここに第四の人物が入ってくる。顧問弁護士の伊坂重昭だ。この男が、事件のほぼ全部を動かしていく。

伊坂重昭という人

伊坂重昭は一九二六年十二月二十五日、札幌に生まれている。武蔵高校から東京大学法学部。卒業後は検事になり、一九五〇年、二十三歳で宇都宮地検に赴任した。最初に担当した詐欺事件で、いきなり実刑判決まで持ち込んだという。

その後は横浜地検を経て東京地検の刑事部、特別捜査部へ進み、経済事件の捜査に定評があったとされる。東京地検特捜部で「鬼の河井」と呼ばれた河井信太郎の、弟子筋にあたる人だ。筋金入りの経歴だよ。

この人は本来なら、事件を摘発する側の人間だったわけだ。特捜検事が退官して弁護士になり、銀行の顧問になり、やがてその銀行の実権を握り、最後は特捜部に逮捕される。物語としてできすぎているけど、これは実際に起きたことだ。

伊坂が平和相銀の顧問弁護士になったのは、一九七〇年十一月。一九七七年には監査役に就いていて、英蔵が死んだとき、彼はすでに銀行の内部事情を誰よりも知る立場にいた。

内紛が始まると、伊坂は英蔵未亡人の依頼を受けて動く。未亡人は息子の英一を社長にしたくて、精一社長と池田副社長を追い出してほしいと伊坂に頼んだんだ。

伊坂は頼まれた通りに二人を追い出した。ここまでは依頼どおりだ。ところが、そこから先が違った。

池田を失脚させた英一が実権を握るかに見えた矢先、伊坂と稲井田隆社長を中心とする新経営陣との確執が表面化する。伊坂は、英一も切りにかかった。未亡人からすれば、掃除を頼んだ相手に家ごと持っていかれた形だ。

伊坂の周りには、稲井田隆、滝田文雄、鶴岡隆二という面々が集まる。のちに四人組と呼ばれる顔ぶれだ。銀行の実権は、完全にこの四人へ移った。

一九八五年二月、内容証明が四十六通飛ぶ

四人組がやったことは、はっきりしていた。小宮山ファミリー企業の整理だ。平和相銀の全貸出金の過半を超える巨額の不良債権が、ファミリー企業に張り付いていて、これを剥がさないと銀行はもたない。

一九八五年二月、四人組はファミリー企業四十六社に内容証明郵便を送りつけた。中身は容赦がない。融資の担保として、平和相銀の株式やその他の株式、小宮山家の土地や家屋を拠出せよというものだ。四百二十二億円の借入金の担保として、平和相銀株を出せと迫った。

太平洋クラブは折れて株券を出したが、英一は拒んだ。すると翌月、平和相銀の取締役会で稲井田社長が動議を出す。常務取締役兼本店営業部長である英一の解任案だ。これがあっという間に可決された。

英一は非常勤取締役に降ろされ、創業者の長男が、創業者のつくった銀行の会議室で、ものの数分で肩書を剥がされたんだ。なかなかえげつない。これで、伊坂の小宮山一族追放作戦は完了した。英蔵の死から六年弱。銀行から、創業家の名前が消えたわけだ。

神戸の山林、一九八二年

ここでいったん時計を三年戻す。のちに唯一有罪が確定する案件の話だ。大事なところなので、ちょっと丁寧にいく。

太平洋クラブが一九七三年から集めてきた預かり保証金は、一九八三年三月から償還請求が始まることになっていた。ところが、返す原資がない。返せないと分かれば信用不安が走り、平和相銀に取り付け騒ぎが起きかねないし、銀行本体が吹き飛ぶ可能性があった。

そのために組まれたのが、一九八二年十一月の土地取引だ。太平洋クラブが神戸市内に持っていた山林、評価額およそ四十二億円のものを、六十億円で売却する。仲介した不動産会社には、三億六千万円の仲介料が支払われた。

買い手になったのは、不動産会社と土木会社だ。平和相銀はこの二社に対し、土地の購入資金と開発資金として総額百十六億二千万円を融資している。ここがミソだ。

要するに、自分のグループ会社が持っていた塩漬けの土地を、自分が金を貸した相手に相場より高く買わせた。売却代金は太平洋クラブに入り、償還原資になる。銀行から見れば、担保が大幅に足りない先へ百十六億円を出した形だ。この資金の大半が闇社会に流れたとも報じられた。この取引が、後に商法の特別背任として立件される。

馬毛島、一九八三年

次が馬毛島で、鹿児島県の種子島の西にある無人島だ。今でこそ自衛隊基地の建設で全国ニュースになる島だけど、一九八〇年代にはすでに投機の対象になっていた。一九八〇年に無人島となり、石油備蓄基地の計画などが浮かんでは消えていた。

平和相銀は、この島を防衛庁にレーダー基地用地として売却する計画を立てたんだ。買い手が国なら、値段は言い値に近くなる。不良資産が一発で現金化できるわけだ。

問題は、その実現のためにやったことだ。大物右翼として知られた日本青年連盟の豊田一夫に政界工作を依頼し、総額二十億円を提供したとされる。この資金は、二十人近い自民党議員に渡ったと報じられた。

国会でもこの件は取り上げられていて、平和相互銀行の馬毛島工作資金に関する質問主意書が第百八回国会に提出されている。記録はちゃんとある。レーダー基地は建設されなかった。二十億円は溶け、誰の手に渡ったかは結局はっきりしないままだ。

ここは大事なので念を押しておく。金が渡ったとされる議員たちについて、刑事責任が確定した事実をぼくは確認できていない。報道と国会質問という形で疑いが記録されている、というのが正確な言い方だ。

一九八五年八月、株が動いた

小宮山一族を追い出した伊坂には、次の絵があった。平和相銀をシティバンクに身売りする、というものだ。外資に売れば、日本の裏の人脈は切り離せる。悪くない発想だったと思う。

ところが、絵は崩れた。一九八五年八月、英蔵未亡人が持っていた平和相銀株二千百六十三万株が人の手に渡った。全株式の三十三・五パーセントにあたるこの大株を受け取ったのは、旧東京川崎財閥系の川崎定徳社長、佐藤茂。

売却額は八十五億円と報じられている。八十億円という数字を伝える媒体もある。数字からして、もう揺れている。

佐藤茂という人は、当時「最後のフィクサー」と呼ばれていた。政財界と裏社会をつなぐ位置にいた人物だ。報道によれば、この株の買い取り資金はイトマンファイナンスから出ている。

イトマンは住友銀行の別働隊と揶揄されていた商社で、社長の河村良彦は住友銀行の磯田一郎会長が引き上げた人物だ。線がつながってくる。

要は、平和相銀の支配株が、住友系のマネーでフィクサーの手に渡ったわけだ。これがどういう意味だったかは、一年後に誰の目にも明らかになる。

伊坂は焦った。いくら銀行の実権を握っても、支配株を他人に持っていかれては話にならないからだ。何としても株を買い戻さなければいけない。この焦りに、変な話が刺さる。

四十億円の金屏風

大蔵省から天下って平和相銀の会長に就いていた田代一正が、伊坂にひとりの画商を紹介した。日生劇場の一階に店を構えていた八重洲画廊の社長、真部俊生。ここから、話が妙な方向へ転がっていく。

真部の持ちかけた話はこうだった。「金蒔絵時代行列」という金屏風を、平和相銀が買う。実勢価格と購入価格の差額が裏金になり、その裏金を然るべき筋に流せば佐藤から株を買い戻せる、という筋書きだ。

伊坂も最初は疑った。当たり前だよな、なにしろ元特捜検事だ。ところが佐藤と接触するうちに、真部と佐藤は組んでいると確信した。

しかも佐藤が、当時の大蔵大臣、竹下登と懇意であることも分かった。差額は大物政治家へ流れる裏金になる。伊坂は、この筋書きを信じてしまった。

時価三億円から四億円程度とされる屏風が、本当に四十億円で買われた。買い戻し資金として、伊坂が実質的に経営していた経営コンサルタント会社に、平和相銀が四十一億円を融資する。その金で屏風を購入する形が取られている。

契約は一九八五年八月十五日に結ばれた。よりによって終戦記念日だ。差額はおよそ三十六億円で、この金がどこへ行ったのかが金屏風事件の核心になる。

報道によれば、真部が示したメモには配分先が書かれていた。伝えられている中身には揺れがある。竹下五億、佐藤三億、伊坂一億と記されていたと書く媒体があり、佐藤十五、竹下三、伊坂一と記されていたと書く媒体もある。

数字が一致しないのはそれ自体が大事な情報で、原本を直接確認した書き手がどれだけいたのか、という問題になる。ここは後でもう一度触れる。

銀座の料亭で行われた会談に、竹下の金庫番と呼ばれた秘書の青木伊平が同席していたという報道もある。大蔵省の機密情報を記したノートを持参していたとも報じられている。政界と関係の深い画商が二人同席していたともいう。

ここも念押ししておく。竹下登は、この件で立件されていない。起訴もされていないし、有罪判決も存在しない。四十億円の流れは、最終的に司法の場で解明されなかった。だからここに書いたことはあくまで報道された疑惑で、ぼくはそれ以上のことを断定するつもりはない。

皮肉なことに、株の買い戻しは実現しなかった。伊坂は騙されたと気づいたが、手元には四十億円で買った屏風だけが残った。元特捜検事が、画商にはめられた形になったんだ。笑えない話だ。

大蔵省検査、五カ月

契約が結ばれた直後、大蔵省の検査が入った。しかも規模も期間も異例。金融検査の部隊が大量に投入され、検査は五カ月続いた。銀行局長は吉田正輝、中小金融課長は後に事務次官となる中平幸典。

ただの検査で済む話じゃなかった。大蔵省はそれ以前から、平和相銀をずっと持て余していたんだ。不祥事と役員逮捕と内紛が繰り返される、銀行局にとっての慢性的な頭痛の種だった。

一九八〇年の国会質問主意書のやり取りを見ると分かりやすい。四月九日には健全性に問題なしと答えておきながら十六日には社長の辞任を求めていて、その矛盾を突かれている。要は、実態を分かっていながら表向きは守っていたんだ。

検査の結果が出たのは一九八六年一月で、不良債権はおよそ五千億円、自己資本を含み益ごと食いつぶしても足りない水準だった。実質的に債務超過だ。護送船団のいちばん遅い船が、ついに沈み始めていた。

預金は逃げ、一兆一千五百億円あった資金量は一兆円を割り込んだ。銀行の血が抜けていくのは早い。あっという間だ。

一九八六年一月、報道が始まる

そこへ報道が来た。一九八六年一月に共同通信が金屏風取引を報じ、以後、平和相銀のスキャンダルが次々と表沙汰になっていった。太平洋クラブ、馬毛島、金屏風。押さえていた蓋が全部飛んだ。

面白いのはこの年の一月というタイミングで、大蔵省検査の結論が出た月と、報道が始まった月が重なっている。偶然かもしれないし、そうでないかもしれない。

当時を知る書き手の中には、大蔵省が銀行を処分するために報道を利用したと見る人もいる。反対の見方もあって、報道に押されて大蔵省が動かざるを得なくなったとする人もいる。どちらが正しいかは、今も決着していない。

住友銀行はなぜ引き受けたのか

ここが、事件のいちばん面白いところだと思う。誰も引き受けたがらない不良債権まみれの銀行を、なぜ住友銀行が抱えたのか。答えは店舗だ。

一九八五年のプラザ合意の後、日本の金利は下がり、銀行に金があふれたのに、貸す先が足りない。首都圏に店を出したい。ところが大阪に本店を置く住友銀行には、出店規制という制度の壁が立ちはだかっていた。大蔵省の店舗行政のもとでは、住友が東京に自由に支店を増やす道は閉ざされていた。

その点、平和相銀には首都圏に百三の店舗網がある。駅前にも住宅地にもあり、これを一括で手に入れられるなら、店舗規制の壁を丸ごと飛び越えられる。住友銀行会長の磯田一郎は、この絵を描いた。

磯田一郎は一九一三年生まれ。一九三五年に住友銀行へ入り、一九七一年に副頭取、一九七七年に頭取、一九八三年から会長。住銀の天皇と呼ばれた男だ。人事権を握り、行内には磯田派とそれ以外という線が引かれた。関東進出は、磯田の悲願だったんだ。

大蔵省の側にも都合があった。実質債務超過の相互銀行を、破綻させずに処理したい。護送船団の建前を崩さずに始末したい。受け皿として都市銀行の上位行が名乗り出るなら、これほどありがたい話はない。

住友の株集めと大蔵省の緊急処理案が、綺麗に噛み合った。関係者はこれを熟柿作戦と呼んだ。柿が熟して落ちるのを待つという意味で、落ちてきた柿を受ける手が、あらかじめ下に置かれていた。

株の三十三・五パーセントを持つ佐藤茂が、住友側と近い関係にあったことは前に書いた通りだ。買い取り資金がイトマンファイナンスから出ていたとする報道を並べると、絵の構図は自然に見えてくる。

これも、司法によって認定された事実じゃない。報道と関係者の回想によって組み立てられた見取り図であり、そこは区別しておきたい。話がきれいすぎるときほど、用心がいる。

合併後の住友銀行は、預金量およそ二十四兆円で都市銀行第二位に躍り出た。首都圏に約百の拠点を得て、磯田の悲願は達成された。不良債権処理で一時的に業績は落ちたが、わずか二年で都市銀行の収益首位を奪回している。数字だけ見れば、住友銀行にとってこの買い物は成功だった。

一九八六年六月二十七日、防弾チョッキの株主総会

合併を決める株主総会の日、平和相銀の本店周辺には警視庁機動隊の大型車両が並び、あたりは厳戒態勢になった。銀行の株主総会に、機動隊。ただごとじゃない。

この総会で株主側の指導にあたったのが、弁護士の久保利英明だった。彼は当日、防弾チョッキを着て会場に入っている。理由は明快で、日本中の総会屋が押し寄せると読んだからだ。

総会屋の全盛期で、ソニーの株主総会で十三時間半粘られた事例が、当時の指導のベンチマークになっていた。ここに闇の紳士の貯金箱の解体という議題が乗るのだから、何が起きてもおかしくない。

ふたを開けてみれば、総会は一時間四十分で終わった。合併承認の採決は予定通り可決され、バトンは同時刻に開かれていた住友銀行側の総会へ渡った。防弾チョッキは、使われずに済んだわけだ。

でも、この一時間四十分の静けさはむしろ不気味だ。あれだけの案件が荒れずに終わったのは、誰かが事前に全部を均していたから、と考えるほうが自然じゃないか。

一九八六年七月六日、逮捕

総会から九日後の一九八六年七月六日、東京地検特捜部が動き、伊坂重昭が特別背任の容疑で逮捕される。稲井田隆ら平和相銀の経営陣、関係した不動産会社社長も一緒に取られた。かつての古巣に、伊坂は逮捕される側として戻ったんだ。

容疑の中身は、一九八二年の神戸の山林をめぐる融資だった。金屏風でも馬毛島でもない。ここが、この事件の最大の空白だ。

検察はどこで止まったのか

事件を追った側の証言として、後年こういう話が出ている。取り調べの現場では、午後から腰を据えて金屏風事件をやるぞと検事が意気込んでいた。ところが午後になると突然、調べはここまでだ、釈放する、と告げられた。上層部から指示があったことを示唆する証言だ。

金屏風は立件されず、四十億円の行方は不問に付され、検察が立件したのは神戸の山林の件だけだった。なぜ止まったのか。

捜査の裏取りが足りなかったからだ、という見方がある。後に皇民党事件で議員名が法廷に出たときも、検察庁幹部と法務大臣が裏付け不十分だったと述べて幕引きになっている。当時の検察が政界の中枢に踏み込む材料をどこまで持っていたかは、外からは分からない。

もう一つの見方は、単純に政治が止めた、というものだ。当時の大蔵大臣は竹下登。事件の重心は、自民党の実力者たちの周辺にあった。

合併という着地点はすでに決まっており、これ以上引っかき回すのは誰の得にもならない。そういう空気があったのではないか、と多くの書き手が指摘している。筋は通る話だ。

どちらが正しいのか、ぼくには決められない。ただ、事実として残っているのはひとつだ。四十億円のうち三十六億円が消え、その行方は現在に至るまで公的に確定していない。

判決――どこまでが確定した事実なのか

ここから先は、三つの層に分けて書く。混ぜて読むと必ず間違えるからだ。ちょっと面倒だけど、ここは手を抜けない。

第一層・確定判決で認められた事実

伊坂重昭は一九九〇年三月二十六日、東京地裁で懲役三年六カ月の実刑判決を受けた。求刑は六年。控訴、上告と争われた末に、最高裁第一小法廷が一九九八年十一月二十五日に判断を示して有罪が確定した。

事件番号は平成七年(あ)第二四六号で、判例集は刑集第五十二巻八号五七〇頁に収録されている。裁判長は藤井正雄。ここは記録として動かない。

判旨は、実務的に大事な内容を含んでいる。要旨はこうだ。問題になったのは、相互銀行の役員らによる土地の購入資金および開発資金等の融資だ。

その融資は、土地の売主に対し、遊休資産化していた土地を売却して代金を直ちに入手できる利益を与える。融資先に対しては、大幅な担保不足であるのに多額の融資を受けられる利益を与える。役員らはそれを認識しながら、あえて実行した。

相互銀行と密接な関係にある売主に資金を確保させ、ひいては相互銀行の利益を図る。そういう動機があったとしても、それが融資の決定的な動機ではなかった。そうした事情のもとでは、役員らに特別背任罪における第三者図利目的を認めることができる。

銀行のためでもあったんだ、という言い訳は通らない。最高裁はそう言ったわけで、この判断は後の金融機関役員の背任事件にも効いてくる、実務上の里程標だ。

同じ事件で、社長だった稲井田隆については懲役三年と報じられている。ほかにも複数の関係者が起訴されたが、公開情報で刑の確定まで追える範囲は限られる。ここは正直に書いておく。

伊坂はその後収監され、一九九九年八月に医療刑務所へ移され、二〇〇〇年四月七日に刑の執行が停止される。四月十日、七十三歳で亡くなった。逮捕から死去まで十四年近く。事件の主役は、判決確定の一年半後にこの世を去った。

第二層・報道ベースの疑惑

以下は、報道と国会質問と関係者の回想で伝えられてきた話で、司法の認定を受けていない。ここからは足場がやわらかくなる。

金屏風の四十億円のうち、実勢価格との差額およそ三十六億円が政界に流れたとされる疑惑。真部俊生が示したとされるメモに、配分先が書かれていたという話。当時の大蔵大臣であった竹下登への五億円という数字も、ここに入る。竹下の秘書だった青木伊平が取引に関与していたという報道も同じで、これらはすべて第二層に属する。

馬毛島の二十億円が二十人近い自民党議員に渡ったという話も同様で、国会に質問主意書という形で記録が残っているのは事実だ。でもそれは疑いが記録されたということで、事実が認定されたということじゃない。

平和相銀株の買い取り資金がイトマンファイナンスから出たという報道も、司法の場で確定した事実じゃない。住友銀行が佐藤茂を介して株を押さえたという見取り図も、同じだ。ここに名前の挙がる人々のうち、この件で刑事責任を問われていない人については、犯罪者として扱われるべきじゃない。当然のことだけど、はっきり書いておく。

第三層・当事者の一方的な言い分

もう一段、性質の違う情報がある。当事者本人が、自分の立場から語ったことだ。

伊坂側から見れば、彼は不良債権まみれのオーナー銀行を立て直そうとした経営者だ。創業家を切り、資産を整理し、外資への身売りまで構想した。神戸の山林の取引についても、銀行を守る行為だったという主張は成り立つ。太平洋クラブの償還不能から来る、取り付け騒ぎを防ぐためだったという理屈だ。

その主張は実際に法廷でなされ、最高裁はそれを認めなかった。動機として存在したことは否定されず、決定的な動機ではなかったと判断されたんだ。この差は微妙だけど、決定的だ。

小宮山家の側から見れば、話はまるで違う。創業者の未亡人は息子を社長にするために顧問弁護士に掃除を頼み、その弁護士に、逆に家ごと乗っ取られた。

銀行は、父が鉄屑から築いたものだ。奪われたのは自分たちのほうだ。この言い分にも、一定の筋は通っている。

住友銀行の側から見ればこれは救済で、大蔵省の要請を受けて、誰も引き受けない銀行を引き受けた。預金者は一円も損をしていない。行員の大半も雇用が維持された。

関東への進出という実利があったことは否定しない。ただ、それは救済の対価であって陰謀じゃない。この言い分も、それ自体としては筋が通っている。

三つの層を並べてみると分かる。この事件で司法が認定した範囲は、驚くほど狭い。狭いからこそ、その外側で語りが増殖した。

政治の側で何が起きていたか

平和相銀が崩れていく時期、自民党の中では別のドラマが進行していて、両者は決して無関係じゃない。一九八四年の時点で、田中派は百二十一人を抱える党内最大派閥だった。ところが田中角栄は後継を指名しない。派内には停滞と苛立ちが溜まっていた。

竹下登を担ぐ動きが、水面下で始まる。一九八四年十二月十八日、赤坂のフランス料理店に竹下、梶山静六、金丸信ら七人が集まった。十二月二十五日には十二人ほどの会合で、新グループの名前が創政会と決まった。

一九八五年一月二十三日には、築地の料亭「桂」に二十五人。金丸信は、ニューリーダーといわれる竹下ももう六十歳である、と言った。勉強会をつくることの正当性を、年齢という誰にも反論できない事実で押し切ったわけだ。

田中角栄は一月二十七日にいったん了承する。ところが翌二十八日の新聞報道で、梶山、羽田、小沢らの名前が絡んでいると知って激怒した。そこから凄まじい切り崩しが始まる。

参加希望者は八十三人から四十人に半減し、総裁選に出るための推薦人五十人まで、あと十人という数字だ。際どいところだ。

一九八五年二月七日、砂防会館別館で創政会の設立総会が開かれた。衆議院二十九人、参議院十一人の計四十人。二十日後の二月二十七日、田中角栄は脳梗塞で倒れる。政治生命は、ここで終わった。

創政会はいったん解散し、一九八七年七月四日、竹下を会長とする経世会が発足し、同じ年の秋、竹下は総理大臣になる。ここでちょっと、時計を平和相銀の側へ戻そう。

この時系列を、平和相銀の時系列と並べてみてほしい。創政会の設立総会は、一九八五年二月七日だ。ファミリー企業四十六社への内容証明が飛んだのが、同じ一九八五年二月。

株が佐藤茂に渡ったのは同年八月で、金屏風の契約が八月十五日。その直後から、大蔵省検査が五カ月続く。竹下は当時、大蔵大臣だ。

政治家がひとり総理へ駆け上がっていく道と、銀行がひとつ壊れていく道が、同じ二年間の同じ場所で交差している。これが偶然か必然かは、資料からは決められない。でも、並べて見たときの不気味さは本物だ。

一九八七年、褒め殺し

竹下登が総裁を狙うとき目の前に立ちはだかったのが、日本皇民党という右翼団体による街宣活動だ。やり方が独特で、攻撃ではなくひたすら称賛する。「日本一の政治家、竹下登先生」と延々と褒める。皮肉と嫌がらせを称賛の形で浴びせるので反論のしようがなく、これが褒め殺しと呼ばれた。よく考えたものだ。

理由は、竹下が田中角栄に反旗を翻して創政会をつくったことだった。当時の総裁だった稲本虎翁が、親を裏切る者が国のトップになるのはおかしいと考えた、と後に党の関係者が語っている。

竹下側は必死になった。浜田幸一が皇民党本部を訪ねて、八億円積むから手を引いてくれと申し入れたが、断られている。褒め殺しという言葉が定着したのは、このやり取りがきっかけだったともいう。

最終的に、街宣が止まった経緯が問題になった。東京佐川急便の渡辺広康社長が仲介に入り、稲川会二代目会長の石井隆匡が動いたとされる。二度目の会談で条件がまとまった。条件は金銭じゃなく、竹下が田中角栄邸へ直接謝罪に行くこと。

竹下は小沢一郎とともに、目白の田中邸を訪ねた。でも田中家側に門前払いされ、名刺を置いて帰るしかなかった。それでも街宣は止まり、約束は果たされたと見なされたんだ。妙な決着だ。

この一件が公になったのは五年後の一九九二年。東京佐川急便事件の公判で、皇民党ナンバー二の大島竜珉の検察官面前調書が読み上げられた。一九九二年十一月五日、東京地裁の法廷。

調書には、仲介工作に関わったとされる自民党議員七人の実名が記されていた。金丸信、森喜朗、浜田幸一、小渕恵三、梶山静六、魚住汎英、浦田勝。

浜田、魚住、浦田は接触を認め、金丸、森、小渕、梶山は否定した。自民党は、議員および党の名誉を著しく傷つけるものだとして司法当局を批判し、刑事告訴や裁判官訴追委員会での措置まで検討した。結局、検察庁幹部と法務大臣が裏付けが不十分だったという趣旨を述べ、自民党が矛を収める形で決着している。

金丸信は臨床尋問で稲川会の関与を認め、こう言ったとされる。川に落ちたところを助けてもらったのだから、それが暴力団だろうが感謝するのは当然だ、と。竹下は後の証人喚問で、万死に値するとして道義的責任を認めたが、議員辞職は最後まで拒んだ。

この事件をきっかけに、国会議事堂等周辺地域および外国公館等周辺地域の静穏保持に関する法律が制定されている。街宣車を法律で押さえるという発想が、ここから生まれた。

念のため確認しておく。皇民党事件で、名前の挙がった議員たちが刑事責任を問われて有罪になった事実はない。調書が法廷で読まれたことと、その内容が事実認定されたことは、まったく別の話だ。

証言を読む

この事件は、当事者の証言がところどころに残っている。事件の巨大さに比べれば少ないけど、質は高い。いくつか読んでみよう。

防弾チョッキを着た弁護士の話

一九八六年六月二十七日、平和相互銀行の株主総会。合併承認という重い議案がかかったその日、総会指導にあたった弁護士の久保利英明は、防弾チョッキを着て会場に入った。

理由は本人が語っていて、日本中の総会屋が駆けつけるだろうと予想したからだという。当時、総会屋対策は企業法務の最前線だった。ソニーの株主総会では、大勢の総会屋が出席して十三時間半も粘られたという事例があり、それが現場の相場感になっていた。

平和相銀は闇の紳士の貯金箱と呼ばれた銀行で、しかもその解体を承認する総会だ。荒れないはずがない、とみんなが思っていた。本店の周りには機動隊の大型車両が配置され、緊張感が漂っていたという。

ところが総会は一時間四十分で終わった。合併採決のバトンは、同時刻に開かれていた住友銀行側の総会へ無事に渡った。この証言の面白さは、着込んだ防弾チョッキが結局使われなかったという点にある。

あれだけ危険視された総会が、拍子抜けするほど静かに終わった。荒れる材料は山ほどあったのに、誰も荒らさなかった。荒らす側にとっても、この着地は都合がよかったんじゃないか。そう考えると、静けさのほうがよほど怖い。

店舗を見て回った住友の男の話

合併を受ける側の証言もあって、後に三井住友銀行の頭取となり、日本郵政社長も務めた西川善文の回顧録がその中身を伝えている。西川は、旧平和相銀の店舗を実際に足で回った。見た光景は、彼の言葉を借りればこうなる。住宅公団の団地の商店街にある、郵便局程度の規模の店。新興住宅地の丘の上にあって、営業時間が夜十二時までの店もあれば、駅前のビルにあるが、地下に成人向け映画館が入っている店もある。

住友銀行が欲しかったのは、首都圏の店舗網だ。ところが実際に見てみると、一店一店が小さく、使い物にならない店が多いと判断せざるを得なかった。百三あった店舗は、支店または出張所へと絞り込まれていった。

もう一つ、西川は営業時間の交渉でも苦労している。夜七時までの窓口営業は、客には便利でも銀行にはひどく非効率だった。機械化が進んでいない時代で、営業時間が長ければ行員は二交代制になり、他行よりはるかに人数が要る。

このままでは住友の収益を圧迫する。西川は、夜七時営業をやめたいと大蔵省へ折衝に行った。ところが銀行課長は首を縦に振らない。

住友銀行は七時営業を続ける前提で平和相銀を買うのではないか、と言われたんだ。何度も折衝を重ねて、ようやく了承を取った。平和相銀の名前が残っているうちは仕方がないが、正式合併後は勘弁してほしい、という線だ。

この話には、当時の大蔵省の性格が凝縮されている。銀行を潰さないために合併させるが、その合併で利用者の便益が落ちることは許さない。護送船団は、そういう細かさで運用されていたんだ。

街宣の現場を仕切った男の話

皇民党側の証言もある。当時、総隊長として現場を切り盛りしていた大島竜珉が、後年インタビューに答えている。

彼によれば、街宣の理由は先代総裁の義憤だったという。親を裏切るような人物が国のトップになるのは教育上もおかしい、そんな思いが先代を駆り立てたのだろう、と語っている。

現場では、現職の自民党議員秘書たちから竹下のスケジュールを入手していた。常時三十人弱のメンバーが、風変わりなエールを送り続けたという。秘書から日程が漏れていた、というのがすごい。

標的の身内から情報が出ていたわけで、政界内部にも、竹下の総裁就任を歓迎しない力が働いていたことを示唆している。敵は外だけじゃなかった。

もっと大胆な話もある。一九八七年秋、竹下は世田谷区内にある故佐藤栄作元首相邸に転居することになった。引っ越しの準備が進む最中、大島は試しにその新居を訪ねてみたという。

警備の人間はいたが、竹下登激励会の名刺を見せて手ぬかりなくやっているかと声をかけたら、正面からすんなり入れた。そのまま各部屋を隅々まで見て回ったという。度胸がすごい。

絨毯が敷かれ、応接セットが置かれた部屋。その隣には、日当たりのよい縁側つきの和室と、歴史を感じさせる庭。この景色を眺めながら先人は国を動かしていたのかと思うと感慨深かった、と本人は述懐している。

彼の分析はこうだ。向こうからすれば、最も嫌な相手を家に入れたことになる。自分が引っ越す前に部屋を見られたとなれば、何をしに来て何を仕掛けたのか、気味が悪くて仕方なかったはずだ、と。

心理戦として、これ以上のものはない。物理的な暴力は一切使っていない。褒めて、訪ねて、名刺を置いてくる。それだけで相手の神経を削る。竹下は円形脱毛症になったともいわれ、右翼ひとつ押さえられないようでは総理は務まらないという風評まで流れた。

取り調べ室で止まった検事の話

事件の核心に触れる証言もある。金屏風事件をめぐる捜査関係者の話だ。

伝えられているところによれば、取り調べの現場では、午後から腰を据えて金屏風事件をやるぞと検事が意気込んでいた。にもかかわらず午後になると突然、調べはここまでだ、釈放する、と告げられたという。上層部からの指示があったことを示唆する証言だ。

この証言は伝聞で、誰がいつ誰に語ったかまで公開情報で辿れるわけじゃないから、第二層の情報として扱うべきだ。ただ、結果だけ見れば辻褄は合っている。

逮捕は神戸の山林の件でなされ、金屏風は立件されず、四十億円の行方は法廷に上がらなかった。現場の検事に意欲があったのに上で止まった、という構図は、日本の経済事件で何度も語られてきたものだ。真偽は分からない。でも、そう語られること自体が、この国の刑事司法に対する温度を映している。

二十五人の行員の話

もう一つ、忘れてはいけない証言群がある。事件の主役じゃない人たちの声だ。

一九九一年、田沢拓也という書き手が『住友銀行人事第2部 旧平和相互銀行員25人の証言と軌跡』という本を出した。版元はアイペックプレス、二百二十二ページの本だ。タイトルの人事第二部というのがもう全部を語っていて、合併後、旧平和相銀の行員たちは別枠で扱われた。

合併から半年で旧平和相銀の行員が全員いなくなったという噂が流れたが、これは事実じゃない。百を超える拠点を回さなければならないのだから、行員を一斉に切れるはずがない。旧平和相銀の若手の中から、十数年の出世競争を生き残って三井住友銀行の部店長にまで昇進した人が、実際に複数いる。

その一方で、旧平和相銀の店には店番八百番台と九百番台が振られ、出自が番号で分かるようになっていた。支店番号としては統合されたが、この番号体系は今も残っているとされる。事件から四十年近く経っても、数字だけは消えていない。

事件を起こしたのは一部の役員で、夜七時まで窓口を開けて客の預金を集めていたのは、名前も残っていない何千人もの行員だ。事件を語るとき、この人たちの存在をとばして語るのはフェアじゃないと思う。

一次資料と初出を洗う

この事件を自分で確かめたい人のために、たどれる材料を整理しておく。地味だけど大事な話だ。

新聞から始めよう。事件そのものより前になるものとして、朝日新聞一九七六年十一月三十日朝刊十三版二十三面の記事がある。見出しは「オンラインがアウト 平和相銀七十五支店が一時マヒ」。事件とは無関係の障害報道だけど、当時の平和相銀の規模と機械化の水準を裏づける一次資料として使える。

判決関連では、朝日新聞一九九八年十一月二十七日の記事が最高裁の判断を伝えている。見出しは「伊坂重昭元監査役の有罪確定 旧平和相銀不正融資事件 最高裁」だ。同じく朝日新聞二〇〇〇年四月十三日には「伊坂重昭元監査役 刑停止中に死去 平和相銀事件で有罪」という記事が出ている。この二本を押さえておけば、有罪確定と死去という骨格は動かない。

判例そのものは、最高裁判所第一小法廷一九九八年十一月二十五日決定として、刑事判例集第五十二巻八号五七〇頁に載っている。事件名は商法違反、事件番号は平成七年(あ)第二四六号。裁判長は藤井正雄で、参照条文は平成九年改正前の商法四八六条一項と、平成七年改正前の刑法二四七条だ。公判記録として確認できる範囲は、事実上ここが上限だと思っていい。

逮捕の同時代資料なら、全日本海員組合の機関誌『海員』がある。第三十八巻第八号、一九八六年八月号の百二十七頁に載った「平和相銀前社長ら逮捕」という記事だ。業界誌にも、足跡はちゃんとあるわけだ。

同時代の分析記事なら、『銀行労働調査時報』第四百四十一巻、一九八六年一月号に座間美朗の論考がある。タイトルは「経営陣の内紛が招いた新型金融再編の道 平和相互銀行の経営破綻の軌跡と問題点」。事件が表沙汰になった直後の分析としては、相当早い。

『実業往来』第三百九十七巻の一九八五年七月号には、こんな記事が載っている。「平和相互銀行お家騒動の仕掛人 大蔵省銀行局の描くシナリオ」。合併の一年以上前に、大蔵省が絵を描いているという見立てが業界誌に出ていたわけだ。これは重い。

『政経人』第二十七巻第八号、一九八〇年八月号の百四頁から百五頁には「一から出直しなるか平和相互銀行」という記事がある。この時点で、すでに銀行は立て直しを語られる状態だった。一九八〇年の段階で、だ。

国会の記録も一次資料になる。一九八〇年五月十四日提出の、平和相互銀行および太平洋クラブ等の疑惑に関する質問主意書。第百四回国会には、平和相互銀行に対する監査のあり方に関する質問主意書が出ている。第百八回国会の、平和相互銀行の馬毛島工作資金に関する質問主意書。いずれも国会の公式記録として残っており、誰でも確認できる。

書籍では、時系列でこうなる。山田穂積『謀略の金屏風 平和相互銀行事件・その戦慄の構図』が、一九九四年五月に出ている。宝島社の前身にあたる版元から出た二百三十八ページの本で、金屏風に真正面から取り組んだ数少ない単行本だ。

田沢拓也『住友銀行人事第2部 旧平和相互銀行員25人の証言と軌跡』は、一九九一年にアイペックプレスから。合併された側の行員たちの声を集めた本だ。近藤弘『住友銀行―7人の頭取』は一九八八年に日本実業出版社から出ていて、合併の二年後という早さで住友側を扱っている。

有森隆『銀行の墓碑銘』が二〇〇九年二月、講談社から。バブル崩壊後に消えた銀行二十行を検証した本で、平和相銀の章が事件の骨格を押さえている。日本語で読める通史としては、いまのところこれが基準になる。

西川善文『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』が二〇一一年十月、講談社から。文庫版は二〇一三年十一月、三百八十四ページ。合併実務を担った当事者の肉声として、価値が高い。

安積忍『黒い渦潮 平和相互銀行合併の真相』が二〇一七年十一月、幻冬舎メディアコンサルティングから。百三十五ページで、事件から三十一年後に出た本だ。

雑誌記事なら、『財政金融ジャーナル』第四十巻第六号、二〇〇〇年六月号がある。笹子勝哉の「大きな意味をもつ旧平相伊坂氏の死」で、伊坂の死を金融史の文脈で受け止めた同時代評だ。

面白い一冊も挙げておく。一九六三年に光風社から出た『人間形成 ある根性』という本だ。この本に、「人生十二年周期を実践 弁護士(元検事)伊坂重昭」という一章がある。事件の二十年以上前、若き伊坂が成功者として紹介されている本だ。

人生を十二年周期で考える、というのが彼の持論だったらしい。一九七〇年に平和相銀の顧問になり、一九八二年に神戸の山林の融資が実行され、一九九四年前後に裁判が続いていた。皮肉なほど、十二年で刻まれている。

イトマン事件への一本道

平和相銀の話は、そこで終わらない。人と金の流れは、五年後の戦後最大の経済事件へ続いていく。イトマン事件は、大阪の総合商社である伊藤萬をめぐった特別背任事件だ。

イトマンは、住友銀行の別働隊と揶揄されていた。社長の河村良彦は、磯田一郎が引き上げた人物だ。そのイトマンの子会社であるイトマンファイナンスから、平和相銀株の買い取り資金が出たと報じられている。平和相銀を解体するための資金の出口と、イトマン事件で暴走する資金の出口が、同じ場所にあるわけだ。

イトマン事件の経過はこうだ。一九八九年八月に、河村と経営コンサルタントの伊藤寿永光が初めて会う。一九九〇年二月、雅叙園観光株の引き受けが百十一億円。同年五月二十四日と九月十六日に、日本経済新聞が経営危機を報じる。

一九九一年一月に河村が解任。四月二十四日に大阪地検特捜部が強制捜査に入り、七月二十三日に河村、伊藤、そして実業家の許永中らが逮捕された。逮捕者は十八人、起訴は七人。

判決は、河村が懲役七年、伊藤が懲役十年、許が懲役七年六月と罰金五億円で、二〇〇五年十月に最高裁で刑が確定している。絵画取引の総額は六百八十億円にのぼり、うち被害額は二百六十五億円とされた。

伊藤萬本体から三百六十億円、全体では三千億円以上が闇に消えたといわれる。住友銀行は、五千億円の不良債権を被った。桁が違う。

磯田一郎は一九九〇年十月十七日に引責辞任を発表した。イトマンのことは墓場まで持っていくと言い、沈黙を守ったとされる。一九九三年十二月三日、八十歳で亡くなった。

平和相銀とイトマンを並べると、同じ形が二度出てくるのが分かる。銀行が直接は触れられない領域に周辺の会社を経由して金が出て、その周辺の会社を銀行の実力者が人事で握っている。問題が起きると、実力者は責任を取らずに事件だけが処理される。

一九八六年に平和相銀で起きたことの構造は、一九九一年にイトマンで繰り返された。学習されなかったんじゃない。構造がそのまま残っていたから、同じことが起きたんだ。

バブルの金庫番たちと、直接関係の話

イ・アイ・イの高橋治則についても触れておく。正直に言うと、平和相互銀行と高橋治則の直接の融資関係を、ぼくは公開資料から確認できていない。ここは、推測で埋めてはいけない部分だ。それでも、二人の話を並べる意味はある。

高橋治則は一九四五年十月九日、長崎県平戸島の生まれ。慶應義塾の幼稚舎から大学まで進み、一九六八年に日本航空へ入社した。その後、父が経営していた電子部品商社イ・アイ・イに転じ、会社をリゾート開発会社へ変えていく。

一九八一年から協和信用組合に関わり、一九八五年五月、改称後の東京協和信用組合の理事長に就任した。同じ一九八五年に、イ・アイ・イを店頭公開している。一九八五年は、平和相銀の株が動き、金屏風の契約が結ばれ、大蔵省検査が始まった年だ。後に一九八五年は、バブル元年と呼ばれるようになる。

高橋は日本長期信用銀行から流れ込む資金を元手に、サイパンのハイアット・リージェンシーを取得した。シドニーのリージェントを百三十億円、パースのハイアット・リージェンシーを百二十億円で買った。プライベートジェット二機で世界を飛び回り、香港、ミラノ、ニューヨーク、タヒチでもホテルを買っていく。

環太平洋のリゾート王と呼ばれ、グループ資産は一兆円を超えた。自家用ジェットに大蔵省の官僚を乗せた接待旅行が、後に問題になっている。派手すぎる。

一九九〇年の総量規制で資金繰りが行き詰まり、長銀の管理下に入って優良資産を切り離された。一九九四年に東京協和信用組合が破綻。一九九五年六月二十七日、高橋は背任容疑で逮捕され、同じ日、旧安全信用組合の前理事長も東京拘置所の門をくぐっている。

一九九九年十月、東京地裁は懲役四年六カ月の実刑を言い渡した。二〇〇三年六月の東京高裁で懲役三年六カ月に減刑され、最高裁へ上告する。その最中の二〇〇五年七月十八日、くも膜下出血のため五十九歳で亡くなった。イ・アイ・イ・インターナショナルは二〇〇〇年に破産申し立てを受け、負債総額は四千七百六十四億円に達している。

平和相銀と東京協和信用組合。相互銀行と信用組合で、どちらも都市銀行が入れない制度の隙間にある金融機関だ。どちらもオーナー的な人物に握られ、身内とその周辺に金を流し、最後は破綻して背任事件になった。融資関係があったかどうかとは別に、同じ型の金融機関が同じ壊れ方をしたことは動かない。

制度の隙間は、便利さの源泉でもあった。夜七時まで開いている銀行も、地域の信用組合も、大銀行が拾わない客を拾っていたんだ。その同じ隙間が、大銀行が触れない金の通り道にもなった。便利さと危うさが、同じ場所から出ている。バブルを理解するうえで、ここはいちばん外してはいけない点だと思う。

政治資金の実務という補助線

金屏風の話を理解するには、当時の政治資金の実務を知っておく必要がある。一九八〇年代の日本で、政治家が動かす金には表と裏があった。表は政治資金規正法に沿って収支報告書に載る。裏は載らない。その載らない金をどうつくるか、ここに専門技術があった。

よく使われたのが、価値の測りにくいものを介在させる手法だ。美術品、書画、骨董、不動産。これらは適正価格が一つに決まらない。専門家が三億円と言うものを四十億円と評価しても、それは間違いだと機械的には言えない。

そこに差額が生まれ、差額は誰かの手元に残るから、絵画取引はバブル期の経済事件に必ず出てくる。イトマン事件で問題になったのも絵画取引で、総額六百八十億円という数字が動いている。金屏風も同じ発想の産物だ。

もう一つの技術が、迂回だ。銀行が直接出せない金を系列や関係先の会社に貸し、その会社から先へ流すと、銀行の帳簿には正常な事業融資として載る。実際の使い道は、帳簿の外にある。平和相銀が経営コンサルタント会社に四十一億円を貸し、その会社が屏風を買ったという形も、この構造だ。

こういうことを、当時の当局がまったく知らなかったわけじゃない。実態はよく知っていて、知っていたうえでどこまで踏み込むかを選んでいた。護送船団行政は、金融機関を守る仕組みであると同時に、金融機関の実態を当局が把握し続ける仕組みでもあった。把握しているのに動かない、という状態が長く続いたんだ。

念のため書いておくと、ここで説明したのは構造であって手口の手順じゃない。この記事はやり方を教えるためのものじゃないし、これらの構造は現在の法制度と検査体制のもとでは成立しにくくなっている。そこは誤解しないでほしい。

当時、世間はどう反応したか

一九八六年の日本は、事件を大きくは受け止めなかった。理由はいくつかある。これが案外、大事なところだ。

第一に、預金者が損をしなかった。合併によって、預金は住友銀行に引き継がれた。通帳の残高は一円も減らない。銀行が消えるという異常事態なのに、当事者である預金者に実害がなかったんだ。実害がなければ、社会は騒がない。

第二に、事件の絵が地味だった。人が死んだわけでも、大量の被害者が出たわけでもない。土地の売買と融資と屏風。テレビ向きじゃない。

第三に、そして最大の理由だけど、事件がロッキードとリクルートに挟まれていた。ロッキード事件の一審判決が一九八三年、リクルート事件の発覚が一九八八年。平和相銀事件はその真ん中に落ち、前後により分かりやすい政治スキャンダルがあり、世間の関心はそちらに吸われた。

その一方で、金融界と永田町は本気で反応していた。相互銀行界六位の銀行が消えるというのは、護送船団の建前が壊れかけているという意味だ。業界誌が事件の前から大蔵省のシナリオを書き、国会では質問主意書が飛び、株主総会には機動隊が出た。分かっている人たちは、これが大きな出来事だと分かっていた。

四十年後に見ると、先取りだった

四十年近く経った今、この事件はいくつかの点で先取りだったことが分かる。ひとつは、銀行が破綻する時代の入口だったこと。日本ではこの後、一九九五年に木津信用組合と兵庫銀行が破綻し、一九九七年に北海道拓殖銀行と山一證券が飛んだ。護送船団は、そこで終わった。その最初のひび割れが、一九八六年の平和相銀だ。

当時はまだ、破綻ではなく救済合併という形が取られた。形式は守られたが、中身はもう壊れていた。外側だけの話だ。

ふたつ目は、金融機関と反社会的勢力の関係を制度として遮断する必要が認識される、その前段階だったこと。今の銀行には反社チェックの仕組みがあり、取引の入口で弾く。当時は、その発想自体がなかった。闇の紳士の貯金箱という言葉が業界の共通認識として流通していたのに、それを止める制度がなかったんだ。

三つ目は、コーポレートガバナンスという言葉が輸入される前夜だったこと。オーナー一族が銀行を私物化し、それを追い出した経営陣が今度は別の形で私物化する。取締役会は数分で常務を解任し、監査役が実権を握る。

監査役が背任で逮捕されるというのは、ガバナンスの教科書に載せたいくらいの倒錯だ。最高裁の判断が、その後の金融機関役員の責任論に効いてくるのも当然だった。笑うに笑えない。

よく語られる四つの見立てと、その反証

この事件には、繰り返し語られてきた見立てがいくつかある。順番に、反証と一緒に置いてみる。第一の見立ては、住友銀行が乗っ取ったというものだ。株を押さえ、大蔵省と組み、銀行を安く手に入れた、という筋書き。根拠は、株の買い取り資金の出どころと、佐藤茂と住友側の近さと、関東進出という明白な動機だ。

これへの反証はこうだ。住友は、五千億円規模の不良債権を抱え込んでいる。得た店舗の多くは小さすぎて使えず、大幅な統廃合をするはめになり、夜七時営業の廃止では大蔵省に押し切られかけた。乗っ取りにしてはリスクが大きすぎる。

大蔵省に押しつけられた面のほうが強く、その見返りとして関東の店舗を得たと考えるほうが自然だ、という反論だ。どちらの言い分にも根拠がある。

第二の見立ては、検察が政治的に止められたというものだ。金屏風を立件しなかったのは政界の中枢に届いてしまうからだ、という話で、取り調べ現場の証言もこれを支えている。

反証としては、証拠が単純に足りなかった、という線がある。裏金の配分先とされるメモは、伝えられている数字自体が資料によって食い違っている。メモがあるというだけでは、金が渡ったことの証明にはならない。しかも、屏風の適正価格を客観的に確定するのは難しい。

特別背任で神戸の山林を落とすほうが、立証の確実性ははるかに高い。検察が確実に取れるところで勝負した、という説明は十分に成り立つ。これも筋が通る。

第三の見立ては、この事件が竹下政権の成立を左右したというものだ。金屏風と皇民党を、一本の線でつなぐ読み方になる。反証としては、両者に直接の因果を示す資料がないことを挙げなければならない。

金屏風は一九八五年の話で、皇民党の街宣は一九八七年の話だ。共通しているのは、登場人物の一部と時代の空気。竹下が総理になれた理由は、田中派の分裂と創政会の結成という政治力学で十分に説明がつく。時系列が重なることと、因果があるという主張は別物だ。

第四の見立ては、大蔵省が最初から解体の絵を描いていたというものだ。一九八五年七月の業界誌が、すでに大蔵省銀行局の描くシナリオという見出しを打っている。この点は、この説を強く支持する。

反証は、大蔵省がそこまで統制的に動けたのかという疑問だ。一九八〇年の国会答弁の段階で、もう矛盾を突かれて事態を後追いしていた形跡がある。検査に異例の五カ月をかけたのは、絵を描いていたからじゃなく、実態が想定以上にひどくて時間がかかったからだとも読める。

結局のところ、確定判決という硬い岩は一つしかない。神戸の山林の融資が特別背任にあたるという、最高裁の判断だ。その周りにあるものは、全部やわらかい。やわらかいものをどう積むかで、見える絵が変わる。

なぜ、この事件は怖いのか

ぼくがこの事件を怖いと感じるのは、幽霊が出るからじゃない。逆だ。何も出ないから怖い。

考えてみてほしい。この事件では、誰も殺されていない。誰も預金を失っていないし、事件を主導した人物は法廷で裁かれて有罪が確定している。制度としては、一応まともに機能したように見える。

なのに、四十億円のうち三十六億円がどこへ行ったのか誰も知らない。二十億円が誰の懐に入ったのかも、誰も知らない。それでも社会は回り、銀行は合併し、政治家は総理になり、四十年が過ぎた。

大きな金が説明されないまま消えても、日本という社会は普通に動き続けられる。これが怖い。異常が異常として扱われず、日常の一部として吸収されてしまう。

もう一つ怖いのは、当事者の入れ替わりの早さだ。創業家を追い出した人物が、追い出した先で実権を握り、その実権が原因で逮捕される。銀行を救済した銀行が、五年後にもっと大きな事件を起こす。

誰かが悪だったから起きたんじゃなく、その場所に立った人が同じことをやってしまう。人じゃなく構造が犯人だとすると、構造が残っている限り同じことが起きる。現に、五年後に起きた。

なぜ、この事件は忘れられたのか

いくつも理由がある。一つ目は、被害者の顔が見えないこと。預金者は無傷で、損をしたのは住友銀行の株主と日本の金融システム全体だ。抽象的な被害者しかいない事件は、記憶に残らない。

二つ目は、事件が完結しなかったこと。ロッキードには田中角栄の有罪という頂点があり、リクルートには広範な立件と政権の崩壊があった。平和相銀事件には頂点がない。神戸の山林で一人有罪、それだけだ。物語として終わっていないものを、人は覚えていられない。

三つ目は、銀行の名前が消えたこと。これが大きいと思う。事件の舞台になった組織が丸ごと存在しなくなり、追及する相手も、謝罪する主体も、記念する場所もない。名前が消えれば、事件も一緒に消える。

四つ目は時間差だ。最高裁の判断が出たのは一九九八年、事件発覚から十二年後だ。一九九八年といえば、日本は金融危機の真っ最中だった。長銀と日債銀が国有化された年だ。

十二年前の相互銀行の背任事件など、誰も気にしていられなかった。判決が出た瞬間には、もう時代が入れ替わっていた。とにかく間が悪い。

五つ目は、記録の少なさだ。この事件を正面から扱った単行本は、数えるほどしかない。しかも刊行はばらけていて、一九九一年、一九九四年、二〇〇九年、二〇一七年という具合だ。一冊が出るたびに、それが最後の一冊になりかけた。追う人が少なければ、記憶は薄くなる。

もうひとつ、これは記録に残らない理由だけど、書けなかった話がある、と言われ続けてきたことだ。書かれた記事より、書かれなかった記事のほうが多いという類の話だ。

裏付けが取れなかったのか、圧力があったのか、それとも書き手が自分で判断して止めたのか。外からは区別できない。でも、当時この事件を追った人たちの多くが、消化不良のまま現場を離れたことは確かだ。

跡地には何があるか

ここからは、いまの話をしておきたい。平和相互銀行の本店は、東京都港区新橋五丁目一番二号にあった。合併から十二年後の一九九八年まで、住友銀行の第二東京営業部として使われている。名前が変わっても、店として生き延びていたわけだ。

その後は住友クレジットの東京支店になり、さらに三井住友カードの東京本社になった。ビルの壁面の色は、平和相銀時代と同じままだったという。二〇一四年、建て替えが決まる。住友系の不動産会社によって旧本店ビルは解体され、二〇一六年六月末、跡地に新しいビルが竣工した。日比谷通り沿いに立っていた八階建ての銀行本店は、こうして完全に消えた。

旧平和相銀の店舗は、統廃合を経ながらも三井住友銀行の店舗網の一部として残ったんだ。店番の八百番台と九百番台は、支店番号として統合された後も、体系としては生きている。数字だけが、銀行がそこにあったことを覚えている。

ちなみに、思わぬところにも平和相互銀行の姿がある。特撮番組の秘密戦隊ゴレンジャー第五十一話で、怪人が襲う銀行として実際の平和相互銀行が使われているんだ。一九七〇年代の子ども番組に、あの銀行のロケ映像が焼き付いている。事件を知らない人が、いちばん自然に平和相銀の姿を見られるのは、たぶんそこだ。

事件を追った書き手たちは、それぞれの形で記録を残した。合併された側の行員二十五人の声を集めた本があり、金屏風に正面から挑んだ本がある。消えた銀行二十行の墓碑銘を書いた本があり、実務を担った当事者の回顧録もある。

事件から三十一年後に、真相を問い直した本もある。書かれなかった記事のほうが多かったとしても、書かれたものは残った。残ったものから、ぼくらは組み立て直せる。

新橋の日比谷通りを歩くとき、五丁目のあたりで少し足を止めてほしい。そこには銀行があった。夜七時まで窓口を開けて、昼間に来られない人たちの金を預かっていた銀行だ。

その銀行は預かった金の一部を名前を明かせない場所へ流し、名前ごと消えた。跡地には、新しいビルが立っている。ただ、話はもう少し続く。事件を線じゃなく面で見るために、書ききれなかったところを詰めておきたい。

一九八五年という一年を、もう一度並べ直す

この事件は、一九八五年に凝縮されている。改めて並べてみると、異様さが分かる。二月七日、砂防会館別館で創政会の設立総会。衆参あわせて四十人だ。

同じ二月、平和相銀からファミリー企業四十六社へ内容証明が四十六通。二月二十七日、田中角栄が倒れる。三月、取締役会で小宮山英一の解任が可決される。五月には、高橋治則が東京協和信用組合の理事長に就任。

八月、英蔵未亡人の持っていた株二千百六十三万株が佐藤茂へ渡る。八月十五日、金屏風の売買契約。その直後から大蔵省の異例の検査が始まり、五カ月続く。九月二十二日、プラザ合意。

日本の政治の権力構造が動いた年であり、日本の金融が緩みはじめた年であり、平和相互銀行が決定的に壊れた年だ。この三つが同じ一年に収まっている。関係があるかどうかは別として、同じ空気の中で起きたことは間違いない。

一九八五年をバブル元年と呼ぶ人は多い。ぼくはそれに、闇が制度の内側に入り込んだ年、という言い方を足したい。プラザ合意で円が急騰し、金利が下がり、行き場のない金が国内にあふれた。

そのとき、金の出口を持っていたのは誰か。表の経済じゃなく、その周辺にいた人たちだった。制度は金を用意し、周辺の人たちが行き先を用意したわけだ。この組み合わせが、その後の十年を決めてしまった。

護送船団が抱えていた矛盾

もう少し制度の話を掘る。護送船団行政には、構造的な矛盾があった。大蔵省は銀行を潰さず、潰さないことで預金者を守り、金融システムの信認を守る。これは戦前の金融恐慌の反省から来ている。理屈としては正しい。

だけど、潰さないと決めた瞬間に副作用が生まれる。経営が悪化した銀行は市場から退場させられず、退場しないなら、内部で何が起きていても外から見えない。経営者は、最後は当局が助けてくれると知っている。モラルハザードという言葉が輸入される前から、実物はここにあった。

平和相銀の場合、大蔵省はずいぶん早い段階で実態を把握していた形跡がある。一九八〇年の国会答弁では、四月九日に健全性に問題なしと言いながら十六日には社長の辞任を求めた。矛盾を突かれても答えようがない。

実態は知っているけど、公に認めれば取り付け騒ぎになるから、表向きは健全と言い続け、裏で人事に手を突っ込む。これが護送船団の実際の運用だった。

一九八五年七月の業界誌が、お家騒動の仕掛人は大蔵省銀行局だという見立てを載せている。合併の一年以上前のことだ。この記事が正しければ、大蔵省は解体のシナリオを持っていたことになる。

持っていたとして、それは悪なのか。放置すれば預金者が損をする。潰せばパニックが起きるのだから、筋書きを作って軟着陸させるしかない。当局の立場に立てば、これは職務だ。

問題は、その筋書きの実行にあたって、株の取得やフィクサーの介在など、グレーな手段が使われたと報じられていることだ。目的が正当なら手段は問わない、という発想が制度の内側に入り込み、それが後にイトマンで、もっとひどい形で反復される。

監査役が実権を握るという倒錯

ガバナンスの目で見ると、この事件はそうとう異様だ。監査役というのは、本来は経営を監視する役。執行の権限は、持たないのが建前だ。ところが伊坂重昭は、監査役の立場から銀行の実権を握った。

しかも元特捜検事の弁護士だ。法律のプロで、企業犯罪の捜査経験があり、監視する側の職にいた人が、監視の職を足場にして経営を支配した。倒錯としか言いようがない。

なぜそれが可能だったかといえば、オーナー企業だったからだ。オーナー企業では、正式な権限より人間関係のほうが強い。創業者が死に、血縁が三方向に割れたとき、いちばん強かったのは全員の弱みと事情を知っている顧問弁護士だった。役職じゃなく、情報が権力になったんだ。

取締役会は機能しなかった。創業者の長男である常務の解任案が、社長の動議であっという間に可決されている。誰も止めていない。もはや取締役会は経営を監督する装置じゃなく、実権者の決定を追認する装置になっていた。

最高裁の判断が効いてくるのは、まさにここだ。銀行のためという動機があったとしても、それが決定的でなければ第三者図利目的は認められる。役員が自分の頭の中で正当化していたかどうかは、免罪符にならない。

この基準は、その後の金融機関役員の責任追及で繰り返し参照されていく。事件は忘れられたけど、判例は生きている。ここは強調しておきたい。

数字の食い違いをどう扱うか

この事件を調べていると、資料ごとに数字が食い違う場面によく出くわす。いくつか並べてみる。株の売却額は、八十五億円と書く資料と約八十億円と書く資料がある。金屏風の実勢価格は、三億円から四億円という表現と五億円程度という表現がある。真部メモの配分は、竹下五億・佐藤三億・伊坂一億という書き方と、佐藤十五・竹下三・伊坂一という書き方がある。

太平洋クラブの集めた金は約七百七十億円という国会での数字がある一方、書籍によって前後する。こういう食い違いを、いい加減な資料だと切り捨てるのは簡単だ。でもぼくは逆に読む。

食い違いこそが、この事件の本質を示していると思う。なぜ食い違うかといえば、原資料が公開されていないからだ。裁判で認定されたのは、神戸の山林の件だけ。金屏風は法廷に上がらなかった。

だから、メモの原本を法廷が検証していない。検証されていないものについて、各書き手が別々の取材源から聞いた数字を書く。当然ずれる。

数字の食い違いは、司法が空白を残したことの直接の痕跡なんだ。ここを埋められるのは公判記録だけで、その公判記録がない。読者としてできるのは、食い違いを食い違いのまま抱えることだけだと思う。無理に一つの数字に決めてしまうと、そこで嘘が始まる。

記者たちのことを、もう少し

書かれなかった記事の話をしておく。一九八六年一月に共同通信が金屏風取引を報じ、そこから各紙が追った。この時期、経済部と社会部の記者が相当な数、平和相銀に張り付いていたはずだ。ところが、当時の報道で政界ルートに踏み込んだものは多くない。

理由として一般に語られるのは、三つある。一つは、裏付けが取れなかったこと。政治資金の流れは、渡した側と受け取った側の両方が黙れば証明できない。

二つ目は、捜査が止まったこと。検察が立件しなければ、記事の根拠は関係者の証言だけになり、訴訟リスクを考えると、実名で書ける社は少ない。三つ目に語られるのが、圧力だ。これは証言としては流通しているけど、確認できる形で記録されているものは少ない。

ぼくが大事だと思うのは、この三つが独立じゃないという点だ。捜査が止まれば裏付けは細り、裏付けが細れば書けなくなり、書けなければ捜査を再開させる世論も生まれない。圧力をかけなくても、システムが自然に沈黙を生む。そのほうが、よほど怖い。

書けなかった記者たちの一部は、後に本を書いた。一九九四年の『謀略の金屏風』も、二〇一七年の『黒い渦潮』も、その系譜にある。三十一年後に本を出すというのは、三十一年間このことを考え続けたってことだ。事件が忘れられたと言われるとき、忘れていない人が確実にいたことは書いておきたい。

「相互銀行」という言葉が消えたこと

もう一つだけ書いておく。この事件が忘れられた理由として、業態そのものが消えたことを挙げておきたい。平和相互銀行が消えた三年後、一九八九年前後に相互銀行はいっせいに普通銀行へ転換し、第二地方銀行と呼ばれるようになった。相互銀行という言葉は、日常語から消えた。

言葉が消えると、その言葉が指していた世界の記憶も薄れる。夜まで開いている銀行があったこと。無尽から出発した銀行が全国にあったこと。

中小企業と個人だけを相手にする業態が、制度として存在したこと。今の若い人にこの前提を説明するのは、けっこう骨が折れる。前提が伝わらない事件は、語り継がれない。

皮肉なことに、平和相銀が持っていたいちばんの美点も、同じように消えた。夜七時までの窓口営業。合併実務にあたった住友の担当者は、これをやめるために大蔵省へ何度も足を運んだ。銀行課長は、住友は七時営業を続ける前提で買うのではないかと言って首を縦に振らなかったんだ。結局、正式合併後は勘弁してもらうという線で決着した。

事件の話ばかりしてきたけど、この銀行がやっていた一番まっとうな仕事は、それだった。昼に銀行へ行けない人のために、夜に窓口を開けておくこと。この単純な親切が、経営効率という理由で消えた。事件で消えたんじゃなく、合理性で消えたんだ。

平和相互銀行の跡地に立つと、そのことをいちばん考える。あの銀行は、便利さと危うさを同じ根っこから生やしていた。制度の隙間に立っていたから客に優しくでき、制度の隙間に立っていたから闇の紳士の貯金箱になった。片方だけを取り出すことは、できなかったんだ。

だからこの事件は、悪い人が悪いことをした話じゃない。制度の隙間にできた場所が、優しさと汚れを同時に育てて、最後にまとめて潰された話だ。潰したのも制度だった。

潰したあとに残ったのは、誰のものか分からない三十六億円と、番号だけになった店舗と、新しいビルだ。覚えている人が少ないほど、その場所は静かになる。静かな場所ほど、また同じものが育ちやすい。ぼくがこの事件を書き残しておきたいと思う理由は、たぶんそこにある。

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