- 1999年4月14日、社宅の一室で起きたこと
- 逮捕から4日、少年は大人の法廷へ回された
- 一審も二審も、出した答えは無期懲役
- 最高裁が差し戻した2006年の夏
- 上告棄却、事件から13年目の確定
- 確定しても、再審請求は止まらなかった
- 少年犯罪の量刑論を、茶の間まで引っぱり出した
- 記録と噂の境目は、どこにあるのか
- 奪われた二つの命と、残された夫
- 裏の取れない話は、裏の取れない話として置く
- 作業服のまま、ゲームセンターに寄った朝
- 「排水検査です」と名乗った
- 天袋から降ろされた小さな体
- 地域振興券でカードゲームのカードを買った
- 母が死んだ日から、家の中が静かになった
- 「可塑性を残している」と調査官は書いた
- 無期懲役、と裁判長が読み上げた
- 遺影に布を巻かされた傍聴席
- 「外の犬に手紙を見せるなよ」
- 広島高裁は、同じ結論をもう一度出した
- 弁護人のいない弁論
- 21人の名前が並んだ弁護人目録
- 「甘えたかっただけ」という主張
- ドラえもんと、魔界転生
- テレビが懲戒請求を呼びかけた夜
- 三千八百八十六人が並んだ朝
- 「胸のつかえが下りました」
- 永山という名前の物差し
- 傍聴席から、証言台の隣へ
- 実名を出すか、出さないか
- 本の題名が裁判になった
- 掲示板に貼られ続けた顔
- 確定から14年、執行はまだない
- 草が伸び放題の空き地
- 三度、退けられた再審請求
1999年4月14日、社宅の一室で起きたこと
1999年4月14日、山口県光市(当時)の集合住宅で、23歳の主婦と生後11か月の長女が殺された。加害者は少年だった。当時18歳1か月、事件当日で数えると18歳30日で、給水設備の点検作業を装って被害者の家を訪れている。
少年は被害女性に性的暴行を加える目的で、点検を口実に室内へ入り込んだ。抵抗されたことで殺意を固め、被害女性の首を絞めて殺害した上で、性的暴行に及んでいる。胸が悪くなる話だ。
その際、母親に続いて、泣き続けていた生後11か月の長女も殺された。口や首を圧迫するなどして窒息死させたとされ、ここは書いていても手が止まる。ひどすぎる。
犯行後、加害者は遺体を天井裏や押し入れなどに隠し、発見を遅らせる行動を取った。現金等も持ち去っている。捜査の端緒は、近隣住民の異変察知と、給水設備業者を装った不審な人物の目撃情報だ。容疑者は比較的早い段階で浮上する。
逮捕から4日、少年は大人の法廷へ回された
加害少年は、事件から4日後の4月18日に逮捕された。少年なら、ふつうは家庭裁判所の少年審判手続に付される。ところが重大性が違った。山口地方検察庁は「刑事処分相当」との意見を付けて、事件を家庭裁判所へ送致している。
家裁は検討の結果、6月4日に検察官送致、いわゆる逆送を決めた。これを受けて6月11日、山口地方検察庁は加害少年を殺人・強姦致死・窃盗等の罪で山口地方裁判所に起訴する。最初の分かれ道だ。
こうして加害者は、少年でありながら成人と同じ刑事裁判の場で裁かれることとなった。長い話になる。この先13年、裁判は何度も向きを変えていくから、まあ、落ち着いて聞いてほしい。
一審も二審も、出した答えは無期懲役
第一審の山口地裁は2000年3月22日、加害者に無期懲役を言い渡した。判決は犯行の悪質性を認めている。そのうえで、18歳になったばかりという犯行時の年齢や、更生の可能性が否定できないことなどを踏まえた。極刑である死刑までは踏み込まなかった。
検察側はこれを不服として控訴する。控訴審の広島高裁も2002年3月14日、一審の判断を維持して、無期懲役の判決を言い渡した。結論は同じ。
控訴審判決でも、加害者の「更生可能性」は積極的に評価された。そこがこの判決の特徴になる。当時の量刑実務が少年犯罪にどこまで配慮していたかを、そのまま映しているわけだ。
最高裁が差し戻した2006年の夏
検察側は、無期懲役の判断を不服として上告した。2006年6月20日、最高裁判所第一小法廷は原判決を破棄し、審理を広島高裁に差し戻す決定を下す。
最高裁が問題にしたのは評価の重みで、反省の情や更生可能性をこれまでの高裁判断が積極的に評価しすぎている、と指摘した。求めたのは量刑判断のやり直しだ。はっきりした物言い。
この差し戻し決定は、少年による凶悪事件に対する量刑判断のあり方そのものに一石を投じる。法曹界と報道界の双方から、大きな注目が集まる。騒ぎはここからが本番だ。
差し戻し後の広島高裁で、加害者は従来の供述を変遷させた。強姦目的でなく甘えの気持ちから抱きついた、という趣旨の新たな主張を行うなど、公判での供述内容そのものが大きな争点となる。話がねじれた。
この供述の変遷は、遺族や世論から強い反発を招いた。当然の反応だろうね。差し戻し控訴審は2008年4月22日、世間が注視するなかで、加害者に死刑判決を言い渡している。
上告棄却、事件から13年目の確定
加害者側は死刑判決を不服として再び上告した。2012年2月20日、最高裁判所第一小法廷は上告を棄却する決定を下している。これで決まった。
判決の理屈はこうだ。犯行時に少年であったことを考慮してもなお、犯行の悪質性と結果の重大性は極めて重い。酌量すべき事情は認められない。少年による犯行であっても、特段の事情がない限り死刑の適用はありうる。その判断枠組みが、ここで明確になった。
2012年3月に死刑が確定する。加害者の実名は、判決確定前後の報道を通じて広く知られるようになった。ここでも判決確定後に広く報道された事実として実名を扱う。そこは断っておく。
福田孝行、のちに養子縁組により大月孝行と改姓。私生活の詳細を興味本位で取り上げることは、ここでは避けておく。線は引く。
確定しても、再審請求は止まらなかった
死刑確定後も、弁護側は複数回にわたって再審請求を行っている。第1次は2012年10月29日の申し立て。加害者の脳機能に何らかの障害があり、心神喪失または心神耗弱の状態にあった可能性を主張する内容だった。棄却は2015年10月30日付けだ。
その後、虐待による後遺症などを理由とする第2次再審請求が2020年に提起された。こちらも2022年3月31日付けで棄却されている。いずれの請求も最終的に最高裁で特別抗告が退けられる形になり、確定判決は維持された。
この原稿を書いている時点は2026年7月だ。死刑が執行されたとする公的発表は確認できておらず、確定後の執行状況について断定的な書き方は避けておく。
少年犯罪の量刑論を、茶の間まで引っぱり出した
この事件は、少年の凶悪犯罪をどこまで厳罰化するのかという議論を、司法の外にまで広げた。社会全体の話になったんだよな。とりわけ効いたのが、無期懲役から死刑への転換をもたらした最高裁の差し戻し決定だ。
量刑判断の物差しには「永山基準」がある。複数の被害者数、犯行の計画性と残虐性、被害者側の落ち度の有無、社会的影響、加害者の年齢と前科、犯行後の情状。これらを総合的に考慮する基準だ。少年事件にも同じ基準が及ぶと示した先例として、いまも引かれる。
被害者遺族である本村洋氏の動きも大きかった。事件後にメディアで積極的に発言を続け、犯罪被害者支援制度や実名報道のあり方、少年法の運用まで幅広く問題提起をしている。制度が動いた部分。
記録と噂の境目は、どこにあるのか
本事件は判決の変遷が大きく、加害者の供述内容も二転三転した。だからネット上では、公判での供述内容そのものへの批判的な言及が数多く見られる。多くは記録どおりだ。公判記録や報道をなぞった話なので、事実として扱っていい。
困るのは、真偽不明の伝聞が混じっていることだ。加害者の獄中生活、婚姻関係、心情の変化。そういった話が「暴露系」の記事や個人ブログの形で流通していて、公的に確認されていないものはここで「未確認情報」として区別する。
遺族である本村氏の私生活についても、興味本位の記事が出回ってきた。再婚や家族構成の話だ。この記事の主眼は事件の経過と社会的意義の記録にあるので、遺族の私生活に関する詳しい言及は避ける。
奪われた二つの命と、残された夫
本事件で命を落としたのは、23歳の主婦とその生後11か月の長女だ。言葉が見つからない。母親だけでなく、生後11か月の乳児までが殺されている。そこが当時の社会に強い衝撃を与えた。
遺族である本村洋氏は、事件後長期にわたって裁判の傍聴や意見陳述、メディアでの発言を続けてきた。重い仕事だ。犯罪被害者の権利や量刑のあり方について、社会に問いを投げかけ続けている。
被害者と遺族の尊厳には配慮する。私生活の詳細や、センセーショナルな消費につながる書き方は避けて、公判で明らかになった事実の記録にとどめておく。そこは約束したい。
裏の取れない話は、裏の取れない話として置く
ネット上には、加害者の犯行動機や心理を、公判で明らかにされた事実を超えて断定的に語る言説がある。その多くは、公的な鑑定結果や判決文に基づかない推測にすぎず、正直、読むほどに疲れる類の話ばかりだ。困ったものだ。
加害者の「その後」について、獄中結婚などの具体的な生活情報を扱う記事も見られる。出典の性質を明かさないまま断定的に書かれたものが多く、ここでは一次資料で確認できない情報として区別して扱う。線引きは大事だ。
ここから先は、同じ事件をもう一度、当日の朝から細かくたどっていく。少し長い。
作業服のまま、ゲームセンターに寄った朝
1999年4月14日の朝、彼はいつもどおり会社の作業服を着て、山口県光市にある新日鐵の社宅を出ている。配管工事会社の見習い工。高校を出て勤めはじめたのはその月の1日で、現場に立った日数は指で数えられる。その朝は現場へ向かわなかった。
友人の家に上がり込み、ゲームセンターで昼まで時間を潰し、いったん社宅へ戻って飯を食った。働く気がない。沖田アパートと呼ばれた棟の一室には、実父と継母、弟2人、祖母を加えた6人が暮らしている。
父が再婚したのは、そう昔の話じゃない。事件の3か月ほど前に異母弟が生まれ、家の中での彼の座り位置は目に見えて動いていた。新しい家族の輪に、彼の席はない。
午後2時20分ごろ、彼はもう一度その部屋を出て、北へ200メートルほど歩いた先の7棟へ向かっている。彼は18歳と30日。法律の上では、まだ少年法の枠の中にいる年齢だった。
社宅というのは、棟ごとに番号が振られ、どの部屋にどんな家族が住んでいるかを住人なら大体つかんでいる場所だ。潮の匂いのする町。光市は瀬戸内に面した製鉄の町で、海岸線に沿って社宅と工場が並んでいる。
室積のほうまで行けば白砂の浜があり、休日には家族連れが出る町で、事件が起きたのはごく普通の昼下がりだった。のどかな町なんだよな、本来は。何も起きないはずの午後だった。
「排水検査です」と名乗った
玄関の前に立った彼は、排水検査の作業員だと名乗り、工事会社の作業服を着たまま上がり込んでいる。疑う理由がない。ドアを開けたのは23歳の主婦、本村弥生さんで、腕には生後11か月の長女、夕夏ちゃんがいた。日中の社宅は、若い母親と幼い子どもばかりになる。
社宅の間取りはどの部屋も似たようなもので、玄関を入ってすぐ台所、奥に和室が二間という作りだった。押し入れがあり、その上に天袋が付く。大人ふたりと赤ん坊が暮らすには足りても、逃げ場の少ない家族用の狭い箱でもある。
午後2時30分ごろ、彼は背後から弥生さんに抱きついた。抵抗は激しかった。首を絞められた弥生さんはそこで亡くなり、加害者はそのうえで性的暴行に及んでいる。のちの判決はこの一連を、動機に酌むべき事情がみじんもない非人間的な所業と書いた。
その言葉以上のことを、ここで付け足す気はない。それで十分だ。判決の一文が、あの部屋で起きたことの重さをもう言い尽くしている。
母親の異変を感じ取った夕夏ちゃんは、泣きやまなかった。生後11か月。午後3時ごろ、彼は紐を首に巻いて絞め、床に叩きつけるなどして殺害している。
ふたつの死の間隔は30分ほどしかなく、玄関の鍵が閉まった狭い部屋の中で、それだけのことが起きている。息が詰まる。数字を並べるだけで、こちらの手も重くなる。
天袋から降ろされた小さな体
遺体を隠した場所は、部屋の押し入れだった。弥生さんを下段へ押し込み、夕夏ちゃんのほうは上の天袋へ投げ入れている。天袋とは、押し入れの上に付いた浅い収納のことで、大人が背伸びをしてようやく手の届く高さにある。
夫の本村洋さんが会社から帰ったのは、その日の夕方だった。妻の姿がない。玄関を開けても、いつもいるはずの妻が見えず、部屋を一つずつ見て回って押し入れを開けた彼が最初に見つけたのは、妻のほうだった。
最後の妻の姿や表情を見たとき、どれだけ苦しかったか。本村さんは後年の講演で、そう振り返っている。こちらは黙って聞くしかない。
娘のほうは、自分では見つけられなかった。天袋の中から夕夏ちゃんを降ろしたのは、110番通報を受けて駆けつけた光警察署の署員だ。自分の手で娘を見つけてやれなかったという悔しさを、本村さんはその後の講演で何度も口にしている。
23歳と、生後11か月。数字だけが先に報道へ流れ、社宅の一室には規制線が張られた。製鉄の町は一気に静まり返り、作業服の若い男を見たという話がその日のうちに近隣で出はじめる。線は、思ったより早く細くなった。
地域振興券でカードゲームのカードを買った
逃げる前、彼は部屋の中から財布を抜き、入っていた現金と地域振興券を持ち出している。現金は300円ほど。振興券は額面で6000円ぶんあり、当時はどの家庭にも配られていたものだ。
指紋の付いたスプレーとペンチも持ち去り、外で捨てた。罪証隠滅の工作だ。18歳の頭で考えた工作としては、雑な部類に入る。隠し方としては、あまりに穴だらけだ。
振興券はその日のうちに使われ、カードゲームのカードと菓子類に化けた。あまりに軽い。この行動が、のちの法廷で何度も引用される。反省の情を測る材料として、検察側はここを繰り返し突いた。
山口県警は捜査本部を置き、社宅の周辺を端から聞き込みに回っている。作業服の男、排水検査、不審な訪問。手口が具体的だったぶん、容疑者の輪郭はすぐ固まっていく。
1999年4月18日、事件から4日後に彼は殺人容疑で逮捕された。18歳という年齢が、この日から事件の意味を変えていく。少年法の対象だから、実名も顔写真も出ない。
新聞は少年A、少年Fといった記号で彼を呼びつづけ、その記号が外れるまでに13年かかった。長いよね、13年は。決して短いとは言えない時間だ。
母が死んだ日から、家の中が静かになった
家庭裁判所の記録に残る生育歴は、読んでいて気が重くなるほど荒れている。幼いころから実父の暴力を受けていた。殴られ、蹴られ、それが日常だったという家の中で、唯一逃げ込める場所は母親のところしかなかった。
その母親が、彼の中学時代に自ら命を絶っている。少年鑑別所の所見は、この出来事を人格形成の分岐点として扱った。見捨てられたと感じ、心の支えを失った。所見にはそう書かれている。
以後、家庭は静かに組み替えられ、父が再婚して継母が入り、事件の3か月前には異母弟が生まれた。深刻な非行歴はない。学校でも家でも浮いていたという証言が残る。
彼は誰にも相談しないまま、高校を出て、働きはじめて、二週間で崩れた。早すぎる。どこかで誰かが気づけなかったのか、とはどうしても思ってしまう。
この生育歴は、のちに弁護団が前面へ押し出す材料になる。精神の発達が年齢に追いついていない。生と死の区別がついていない。心理鑑定の所見を引きながらそう主張したものの、世間はそれを言い訳としか受け取らなかった。
「可塑性を残している」と調査官は書いた
少年事件だから手続きの入口は審判になり、逮捕された彼の事件もいったん家庭裁判所へ回されている。山口地検が送致したのは5月8日で、刑事処分が相当だという意見書が付けられていた。この意見書の存在が、その後の流れを決めている。
山口家裁の判断は6月4日に出た。検察官送致、いわゆる逆送。これで彼は、少年でありながら大人と同じ刑事法廷に立つことが決まった。6月11日、山口地検は殺人と強姦致死、窃盗の各罪で山口地裁に起訴する。
見落とされやすい点がある。矯正の現場は当初、彼の更生可能性をまったく否定していなかった。山口少年鑑別所の報告書は、人格の偏りはまだ矯正教育による可塑性を否定するほど固まっていない、と書いている。
家裁調査官も可塑性を残していると見て、長期の施設教育を求めていた。最初の診断は、まだ間に合う、だった。この評価が、13年かけて完全に反転する。
反転させたのは検察でも世論でもなく、彼自身の口から出た言葉だった。皮肉な話じゃないか。更生できるかどうかを、当人が自分の言葉で繰り返し踏みにじっていく。
無期懲役、と裁判長が読み上げた
山口地裁の初公判は1999年8月11日で、彼は起訴事実を認め、反省の言葉を述べている。少年が大人の法廷に立つ光景そのものが珍しい。12月22日の公判で、検察は死刑を求刑している。少年に対する死刑求刑は、それだけで全国ニュースになった。
判決が出たのは2000年3月22日で、言い渡されたのは無期懲役だった。裁判所は犯行の悪質さを認めながら、18歳になったばかりという年齢と、更生の可能性を切り捨てられない点を理由に挙げている。当時の量刑実務からすれば、順当な結論。
永山基準の枠組みでは、年齢は死刑を回避させる方向に働く。法律家の目には、意外でも何でもない判決だった。遺族の目にはまるで違って見えた、というところが、この事件のその後を決めていく。
法廷を出た本村さんは、カメラの前に立った。「司法にこれほどまでに裏切られると、もう何を信じていいのか分からなくなりました」。その一言は、いまも繰り返し流される。
被告人を早く社会に出してほしい、自分が殺しますという趣旨の発言も、この会見から出た。無理もない。遺族の口からそんな言葉が出る国だったのかと、社会はそこではじめて驚いた。
本村さん自身、判決の後しばらくは生きる気力を失いかけていたと明かしている。踏みとどまらせたのは、一緒に司法を変えてくれないか、という検事の一言だった。怒りの向け先が、そこで変わる。
遺影に布を巻かされた傍聴席
いまでは想像しにくいが、2000年ごろの刑事裁判に遺族の席というものはなかった。被害者は当事者じゃない。ただの傍聴人という扱いで、発言権もなければ質問する権利もなく、証拠の中身すら知らされないまま審理が進む場面もあった。
本村さんは妻と娘の遺影を抱えて法廷へ入ろうとし、職員に止められている。「調子に乗るな」。そう言われ、涙を流しながら遺影に布を巻いたと本人が語るこの一場面が、のちの制度改正を押し出す力になった。
被告人が法廷で何を言っても、遺族は座って聞くしかない。質問もできない。尋問もできない。妻と娘を殺された男が、その裁判では完全な部外者として扱われていた。ひどい仕組みだと思わないか。
本村さんは弁護士の岡村勲さんらが立ち上げた全国犯罪被害者の会に加わり、幹事として動きはじめる。あすの会と呼ばれた団体だ。2001年12月26日の意見陳述では、「被告人が犯した罪は万死に値します」と述べている。
意見陳述の制度そのものが、2000年の法改正でようやく入ったばかりだった。まだ新しい。遺族が自分の言葉を法廷に置く仕組みは、それくらい生まれたての制度だったわけだ。
「外の犬に手紙を見せるなよ」
控訴審の途中で、一通の手紙が世に出た。拘置所の中から友人へ宛てて書かれたもので、検察はこれを広島高裁へ証拠として提出している。中身がそれまでの反省の弁とまるで噛み合わず、法廷の空気はこの一通で完全に変わっている。
「犬がある日かわいい犬と出合った、そのままやっちゃった」。犯行を、そう書いている。「もう勝った」「終始笑うは悪なのが今の世だ」という一文も並び、読む側の血の気が引くような言葉が続く。
「ヤクザはツラで逃げ、馬鹿は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ」。この一節が、世論を決定的に動かした。致命的だった。
外の犬に手紙を見せるなよ。彼の語彙で犬というのは外部の人間を指し、そんな注意書きまで添えられていた。取材でこの手紙を見たジャーナリストは、内容をそのまま披露することをためらったと書いている。まあ、そうなるよな。
一審で示した反省は何だったのか。手紙は、その問いを法廷へ投げ返した。以後の審理は量刑論よりも、この男は本当に悔いているのかという一点に引きずられていく。争点が、心の中身に移った。
広島高裁は、同じ結論をもう一度出した
第一次控訴審の判決は2002年3月14日に出て、広島高裁は検察の控訴を棄却し、無期懲役を維持した。判決は更生可能性を積極的に評価し、少年に対する量刑としての均衡を保とうとしている。
当時の実務からすれば、突飛な判断じゃない。被害者2人の事件で、犯行時18歳。その条件で死刑になった前例は当時の日本に極端に少なく、高裁は年齢という要素を重く見たにすぎない。
法律家の世界では、ごく普通の判断として受け止められていた。けれど社会の側は、もう違う温度でこの裁判を見ていた。そのずれは、この先もどんどん広がっていく一方になる。
1997年の神戸連続児童殺傷事件以降、少年犯罪への視線は一気に硬化していた。少年法の厳罰化が政治の議題に上がり、2000年には改正法が成立する。16歳以上の少年が故意に人を死なせた場合、原則として検察官へ逆送する仕組みが入った。
光市の事件は、その議論の象徴として何度も引っぱり出される。便利に使われた面もあるんだよな。本村さんは判決後、裏切られたとは思わないと話している。
一審のときの激しさはない。冷静に受け止めたうえで次の段階へ気持ちを切り替えており、検察の上告によって舞台は最高裁へ移る。
弁護人のいない弁論
最高裁第一小法廷の弁論は2006年3月14日に開かれた。ところが、主任弁護人の安田好弘さんと足立修一さんが法廷に現れず、弁護人抜きのまま手続きが進んでいる。この欠席だけで、大きなニュースになった。法廷戦術としては、相当に危うい賭けだ。
最高裁の判断は6月20日に出た。原判決を破棄し、審理を広島高裁へ差し戻す。理由の芯は量刑にあった。反省の情や更生可能性を、これまでの高裁は積極的に評価しすぎている。
ここで最高裁は、犯行時の年齢を絶対的な回避事由としては扱わないという、踏み込んだ言い回しを使った。犯罪の客観的な側面が悪質なら、特に酌量すべき事情がない限り死刑を選ぶほかない。量刑論が組み替わる。
差し戻しという結論は、実質的に死刑を検討し直せという指示に近い。法曹界も報道も、そう読んだ。広島高裁へ戻された審理は、それまでとはまったく別の裁判として始まる。
弁護団は大幅に入れ替わり、最終的に20人を超える大所帯へふくらんでいった。ここから裁判は妙な方向へ転がる。ちょっと身構えてほしい。
21人の名前が並んだ弁護人目録
新しく主任に就いた安田好弘さんは、死刑事件の弁護で名前の通った人だった。麻原彰晃の主任弁護人を務め、死刑廃止運動の中心にもいる。引き受ける事件は、世間の反感を正面から浴びるものばかりだった。光市の事件も、その系譜に入る。
弁護人が20人を超えたのは、審理の組み立てを根本から作り直す必要があったからだ。記録は膨大で鑑定も一からやり直しになり、全国から弁護士が集まって合宿のような検討が重ねられた。費用の大半は手弁当。
この体制そのものが世間には異様に映り、なぜ少年ひとりのためにこれだけの人数が動くのかと言われた。批判も飛ぶ。死刑廃止のための実験台にしているのではないか、という声だ。
弁護団は、死刑という刑罰を争う以上は当然の体制だと答えた。安田さんの立場ははっきりしている。弁護人の仕事は被告人と一緒に事実を解明し、司法が適正に機能しているかを監視することだ。
復讐やリンチを防ぐために法廷がある、というその理屈は、遺族の感情とはどうしても噛み合わなかった。筋は通っていても届かない。ここは誰が悪いとも言いにくい。
「甘えたかっただけ」という主張
差し戻し控訴審の第1回公判は2007年5月24日で、新しい弁護団が示した事実認定は一審とも二審とも違っていた。強姦目的を否定する。殺意も否定する。それまで本人が認めてきた内容を、根本からひっくり返す組み立てだった。
弥生さんに抱きついたのは、優しくしてもらいたいという甘えの気持ちからだと述べている。予想外の抵抗に驚愕して首を押さえただけで、殺すつもりはなかった。筋立てが丸ごと入れ替わる。
検察側の主張とは、もはや別の事件を論じているに近い。耳を疑う。夕夏ちゃんについては、泣きやませるために首へ紐を巻いたと説明し、蝶々結びにしただけで殺意はないとした。
2007年6月26日の被告人質問で、彼は自分の口からそう答えている。凍るよな、それは。法廷の空気が凍ったのはこの瞬間だったと、そのとき傍聴席にいた記者が書き残す。
なぜ一審で言わなかったのか。馬鹿にされると思ったから。彼の説明は、それだけだ。7年以上たってから出てきた新しい説明を、法廷も世間も受け入れなかった。
ドラえもんと、魔界転生
主張は、もっと奥へ踏み込む。遺体を押し入れに入れたのは、隠すためじゃない。ドラえもんに助けてもらおうと思ってそこへ入れた、四次元ポケットなら生き返らせてくれる、という理屈だった。
遺体への行為についても、小説の名前が出てきた。山田風太郎の『魔界転生』。あの本に復活の儀式として書いてあったから同じことをした、というのが弁護団の説明だ。死者をよみがえらせる手順のつもりだった、と。
法廷の外で、弁護団は記者会見を開いて主張を解説した。被告人は生と死の区別がついていない。精神の発達が、年齢にまるで追いついていない。心理鑑定の所見を根拠に、そう説いた。
世論は納得しなかった。テレビは遺族の声を繰り返し流し、弁護団の主張を並べて対比させていく。荒唐無稽という言葉が紙面に躍り、鬼畜弁護団という呼び名まで生まれた。
BPOが後に検証したとおり、報道は遺族に同調し、弁護側を批判する内容が大多数を占めている。偏っていたと言っていい。報道のほうも、冷静さを欠いていたように思える。
テレビが懲戒請求を呼びかけた夜
2007年5月27日、読売テレビの番組で弁護士の橋下徹さんが視聴者へ呼びかけた。あの弁護団が許せないと思うなら、一斉に懲戒請求をかけてもらいたい。番組名は『たかじんのそこまで言って委員会』で、関西を中心に高い視聴率を取っていた枠だ。
反応は、そのまま数字で出た。弁護団への懲戒請求は約7558通に達している。2007年の懲戒請求の総数は9585件で、前年の1367件から約7倍だ。そのうち84パーセント、8095件が光市の弁護団へ向けられたものだった。
各弁護士会の結論は、2007年11月から翌年4月にかけて出そろう。弁護活動は職責を果たすものであり、懲戒事由に当たらない。処分を受けた弁護士は一人もおらず、請求書の多くは定型文で、事件記録を読んだ形跡がなかった。
テレビの一声で、何千通もの書類が動く。ちょっと怖い光景だよな。記録を読まずに送った人が、いったいどれだけいたのかと思う。
弁護士側は橋下さんを訴えた。広島地裁は2008年10月2日に800万円の賠償を命じ、広島高裁は2009年7月2日に360万円へ減額している。
最高裁は2011年7月15日、呼びかけは不法行為に当たらないとして原告を逆転敗訴させた。弁護団19人による別訴も、2013年4月30日に棄却される。
橋下さんは2010年9月17日、大阪弁護士会から業務停止2か月の懲戒処分を受けた。理由は、あの番組での呼びかけだ。民事の責任と弁護士会内部の責任が別々の判断として並び、ひとつの発言が司法の周辺をまるごと揺らした。
三千八百八十六人が並んだ朝
差し戻し控訴審の判決は2008年4月22日に言い渡され、広島高裁の周りには朝から傍聴希望者の列ができた。その数、3886人。抽選の倍率は百倍を軽く超え、テレビ局の中継車が歩道を埋めた。
判決は殺意も強姦目的も認定したうえで死刑を選び、その理由の書き方がこの判決の一番の特徴になる。被告人が当審公判で虚偽の弁解を弄し、偽りとみざるを得ない反省の弁を口にした。
それにより、死刑を回避する特に酌量すべき事情を見出す術もなくなった。判決文には、そう書かれている。自分の言葉で、自分の逃げ道をふさいだ格好になったわけだ。
差し戻し審での主張そのものが死刑の理由になり、弁護方針が結果を決めたという読み方が成り立つ。この弁護士たちが少年を殺したに等しい。そう書いたジャーナリストもいた。
弁護団の側にも、当然ながら言い分はある。安田さんは後年、自白調書が21通にわたって大きく変遷している点を挙げ、検察官の誘導を疑う根拠として首に残った蒼白帯の位置を示した。
片手で逆手に押さえた痕であり、両手で絞めたという筋書きと合わない。それが弁護側の見立てだ。世論との距離は、最後まで縮まらなかった。
「胸のつかえが下りました」
死刑判決の翌朝、広島拘置所に一人のジャーナリストが面会に入った。相手は、23歳になっていた彼だ。死刑を言い渡された直後の人間が何を言うのか、出てきた言葉は、「胸のつかえが下りました」だった。
安堵していた、というのがその記者の受け取り方だ。法廷で見せていた表情とは、まるで違う。故郷の海の話もした。ときどき海が恋しくなる、潮の匂いを嗅ぎたい、風に当たりたい。
光市は瀬戸内に面した町で、彼が育った社宅からも歩いて海へ出られた。同じ海風の中。被害者の家族が暮らしていた棟もそこにあり、加害者と被害者はもともと同じ社宅の住人だった。
その距離の近さが、事件の後味をよけいに悪くしている。同じ風に吹かれていた隣人同士だったと思うと、どうにもやりきれない気分になる。
上告審の口頭弁論は2012年1月23日に開かれ、2月20日に最高裁第一小法廷が上告を棄却した。判決はこう述べた。何ら落ち度のない被害者の命を奪った残虐で非人間的な犯行であり、犯行当時少年であっても刑事責任はあまりにも重い。
裁判官の一人、宮川光治さんは反対意見を書いている。犯罪行為の強烈さが、矯正教育の機会を与えるかどうかという議論を吹き飛ばしてしまった。死刑を選ぶべきじゃない。少数意見として、記録に残る。
死刑が確定したのは2012年3月16日で、事件から13年近くが過ぎていた。長すぎる。13年という数字の重さは、何度書いても少しも軽くならない。
永山という名前の物差し
日本の死刑適用には、判例上の物差しがある。1983年7月8日、最高裁第二小法廷が永山則夫の事件で示した枠組みだ。犯罪の性質、動機、態様、結果の重大性、遺族の被害感情、社会的影響、年齢、前科、犯行後の情状。この9項目を総合して判断する。
永山則夫も、犯行時は少年だった。1968年から翌年にかけて4人を射殺し、一審は死刑、控訴審は無期懲役。最高裁が破棄して差し戻し、再度の控訴審で死刑へ戻り、確定は1990年、執行は1997年8月1日だ。
構図は、光市とそっくり重なる。無期懲役を最高裁が破棄し、差し戻し審で死刑。ただ、永山の事件は被害者4人で光市は2人、被害者の数という項目だけを見れば光市のほうが軽い。
そこを年齢以外の要素で埋めたのが、2006年の決定だった。年齢を回避事由として重く扱わない判断は、事実上の基準変更として受け止められている。
この事件を境に、少年であることは死刑を免れる盾でなくなった。流れは戻らない。市川一家4人殺害事件の死刑囚も犯行時は19歳で、2017年に執行されている。
傍聴席から、証言台の隣へ
本村さんが遺影を抱えて止められた2000年ごろ、刑事裁判に被害者の居場所はほとんどなかった。それが10年足らずで変わる。動かしたのは、制度をつくる側じゃない。遺族たち自身の声だった。
2004年12月に成立した犯罪被害者等基本法は、被害者の権利を国の責務として初めて明文化した法律だ。翌年には基本計画が閣議決定され、刑事手続への関与が検討課題に上がった。
あすの会は署名を集め、国会議員を回り、法務省の審議会へ人を送り込んでいる。地道な話だよね。ひとつずつ扉を叩いて回るような、根気の要るやり方で押していった。
2008年12月1日、被害者参加制度が施行された。殺人や傷害致死、性犯罪、危険運転致死傷などの事件で、被害者や遺族が公判へ参加できる。証人尋問ができる。被告人質問ができる。量刑についての意見も、自分の口から述べられる。
日弁連は反対した。法廷が鬱憤を晴らす場になり、事実認定や量刑判断へ予断を与えかねない、という理由だ。その懸念は、いまも消えていない。
ただ、遺影に布を巻かされた男が制度の設計へ関わり、証言台の隣に椅子を置かせた流れは動かない。布一枚から始まった。その重みは、法廷に座る遺族の数だけ増えていく。
本村さん自身は、この制度を光市の裁判で使っていない。施行されたのは差し戻し審の判決が出た後で、彼は自分のためじゃなく、後に続く遺族のために動いた。制度をひとつ作るのに、妻と娘を失ってから9年かかっている。
実名を出すか、出さないか
少年法61条は、少年事件の本人が推知できる報道を禁じている。この事件でも、逮捕から判決確定までの13年間、大手メディアは匿名を守った。崩れたのは2012年2月20日、死刑確定の日。各社の判断が、その日を境に真っ二つに割れた。
朝日、読売、産経、日経、NHK、在京キー局が実名報道へ切り替えている。朝日は、国家によって生命を奪われる刑の対象者は明らかにされるべきだと説明した。理屈は各社で違う。
読売は、死刑が確定すれば更生の機会は失われると書いた。産経は、事件そのものの重大性を理由に挙げている。匿名を貫いた社もある。毎日新聞は、少年法の理念を尊重すると表明した。
中日新聞と東京新聞は、再審や恩赦の制度がある以上、更生の可能性が直ちに消えるわけじゃないという立場を取っている。同じ日の紙面で、名前の載る新聞と載らない新聞が並んだ。ちょっと異様な光景だ。
日弁連は2月24日の会長声明で、実名報道は少年法61条に明らかに反すると抗議した。東京弁護士会も同趣旨の声明を出している。報道の自由と少年法の理念が、正面からぶつかった数日間。決着は、いまもついていない。
2022年4月に施行された改正少年法で、18歳と19歳は特定少年と呼ばれるようになった。起訴された段階で、実名報道の禁止が外れる仕組みだ。光市の事件で13年かけて争われた問題が、そのまま法律の条文へ書き込まれた形になる。
本の題名が裁判になった
実名の問題は、本の形でも争われた。2009年、ジャーナリストの増田美智子さんが実名ルポを出している。タイトルは『福田君を殺して何になる』で、本人への面会取材をもとに書かれた一冊だった。
死刑囚側は、出版の差し止めを求めて提訴する。承諾していない、という主張だ。一審から最高裁まで争われ、2014年9月に死刑囚側の敗訴が確定した。差し止めは、認められなかった。
この訴訟については、弁護過誤を隠すのが目的だったという批判も出ている。勝訴した側の関係者が、取材にそう答えた。本の中身よりも、誰が実名を語る権利を握るのかという争いになる。
当事者の名前が、商品として扱われた瞬間でもあった。実名が世に出たあと、彼は養子縁組によって福田孝行という名を捨て、大月孝行へと姓を変えている。改姓そのものが、次の記事の種になった。
名前を手放すことも手に入れることも、この事件では公の出来事として扱われている。なんとも落ち着かない話だよな。名前ひとつにまで、ずっと世間の目がついて回った。
掲示板に貼られ続けた顔
実名も顔写真も、報道よりずっと早くネットへ出ていた。2ちゃんねるをはじめとする掲示板では、2000年代の初めから個人情報が飛び交っている。少年法61条は出版物とテレビを縛る。匿名の書き込みまでは、どの法律も押さえきれなかった。
差し戻し審の主張が伝わると、書き込みの量は跳ね上がった。ドラえもん、魔界転生、復活の儀式。この三語が切り貼りされて掲示板の定型文として貼られ続け、文脈を落とした断片だけが独り歩きしていった。
公判記録に基づく批判と、出所不明の伝聞が同じ画面に並ぶ。獄中結婚の噂、心境の変化の噂、支援者の噂。裏付けのない話が暴露系の記事や個人ブログで増え、検索結果の上位を占めるようになった。
どれが公判で認定された話なのか、見分けるのが年々難しくなっている。読む側も骨が折れる。うのみにせず、出どころを確かめる癖だけは手放さないでほしい。
遺族についても、同じことが起きた。本村さんの私生活を扱う記事が量産され、豪邸を建てたといった根も葉もない話まで出回っている。本村さんが再婚を公表したのは死刑確定の日の会見で、その告白すら面白がる材料として消費された。
「うれしいという感情はない」。確定の日、本村さんは記者にそう答えている。13年かけて手に入れた判決の感想が、その一言だった。
確定から14年、執行はまだない
死刑が確定した人間は刑が執行されるまで拘置所で暮らし、作業もなく、外部との接触は厳しく絞られる。面会できる相手は原則として親族と弁護人だけで、手紙のやり取りにも制限がかかった。彼はいまも広島拘置所にいる。
再審請求中の執行をどう扱うかは、法務省の運用に任されている。請求中でも執行された例はある。請求を繰り返すことで執行が遠のいた例もあり、光市の事件はどちらかといえば後者に近い形で時間が流れている。
確定から14年が過ぎても執行の公表はなく、被害者遺族にとってこの時間の長さは別の苦しさになる。判決が出たことと、刑が実行されることは違う。そこにある落差を、遺族は毎年数えることになった。
日本の死刑確定者は百人を超えて推移している。少年だった者は少ない。犯行時に少年だった確定者はごく少数で、光市の事件はその少ない枠の中でも突出して知られた一件になった。
草が伸び放題の空き地
事件現場となった社宅はその後しばらく建っていて、本村さんは花を手向けに何度も現地を訪れていた。近所の書店主が、その姿を覚えている。「よく来ていたよ」と。
老朽化を理由に棟が取り壊されたのは、死刑確定から数年後のことだ。2015年に現地を歩いた記者は、そこが広大な空き地へ変わっているのを見ている。不動産会社の看板が一枚。雑草が伸び放題で、管理されている様子はなかった。
近所の住人は迷惑がっていた。風の強い日には、伸び放題の草木の種が飛んでくる。そんな苦情が出るくらい放置されていた。献花する場所そのものが消えたので、本村さんの姿も見かけなくなったという。
「今のこの町はゴーストタウン」。書店主は、町のことをそう言った。製鉄の町は人口を減らして事件の記憶ごと薄くなり、報道陣が詰めかけた場所には、いまは種を飛ばす草が生えている。
三度、退けられた再審請求
死刑が確定してからも、弁護側は手続きを止めていない。第1次再審請求は2012年10月29日に申し立てられ、脳の機能に障害があり、心神喪失か心神耗弱の状態だった可能性を主張した。広島高裁は2015年10月30日に、これを退けている。
異議申し立ても2019年11月7日に棄却された。2020年12月7日の特別抗告棄却で、第1次の手続きは終わる。第2次再審請求は2020年に出され、新証拠が9点そろえられた。虐待による後遺症を柱に据えた内容だ。
広島高裁の決定は2022年3月31日で、結論は棄却。異議申し立ては2023年3月29日に退けられ、特別抗告の棄却は同じ年の12月11日だった。
第3次再審請求が申し立てられたのは、2023年12月のことになる。広島高裁がこれを棄却したのは2026年2月27日だ。新規性がない、確定判決に対する主張の域を超えない。決定理由はそう書かれている。
弁護側は異議を申し立て、手続きはいまも広島の裁判所で続く。事件からは27年が過ぎた。あの社宅の跡地で草が伸びていくあいだも、法廷の書類だけは積み上がっていく。
