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二十八年後、玄関に立った男は「真犯人が名乗り出ました」と言った――弘前大学教授夫人殺し事件、法医学の権威が書いた鑑定書はなぜ人を十年牢につないだのか

朝の玄関に、見知らぬ男が立っていた

一九七一年五月二十八日の朝のことだ。場所は青森県弘前市。那須家の玄関の戸が鳴って、母のとみが出ていくと、そこには見たことのない男が立っていた。男はこう切り出したという。

「驚かないでください。真犯人が名乗り出ました」

とみは、ほとんど間を置かずに「それはXですか」と聞き返している。男はうなずいた。玄関先で交わされたのは、たったそれだけの言葉だ。

この一往復がどれだけ異様か、分かるだろうか。息子が殺人犯にされてから二十二年間、母親は誰が本当にやったのかを名指しできるだけの見当を、ずっと胸の内に持っていたわけだ。それなのに二十二年のあいだ、誰もそれを聞かなかった。裁判所も、検察も、警察も、近所の人間も。

この記事で扱うのは、弘前大教授夫人殺し事件だ。略して弘前事件、被害者の名を取って松永事件とも呼ばれるやつだ。戦後の新しい刑事訴訟法のもとで裁かれた殺人事件で、日本で最初に再審無罪になった事件でもある。

ただ、俺がこの事件を「怖い話」の棚に置きたい理由は、そこじゃない。怖いのは、一人の無実の男を十年間牢につないだものの正体だ。拷問でも密告でも、デタラメな自白でもない。日本で一番偉い法医学者が書いた、数式まで載った鑑定書だったという点が怖い。

文化勲章をもらう男が、ベイズの定理を持ち出して「九八・五パーセント」と書いた。法廷は、それを信じたのだ。ところがその数字は循環論法だった。順番に、最初から見ていこう。

念のため先に断っておく。後から自ら名乗り出た男については、この先ずっとXと書く。理由は途中で説明するが、先に言っておくと、彼は一度も刑事裁判にかけられていない。

裁判所が判決文の中で彼を名指ししたのは事実だ。ただしそれは別人の裁判での認定だ。彼自身が有罪判決を受けたわけじゃない。だからここでは「そう供述した」「自ら名乗り出た」という形でしか書かない。

昭和二十四年八月六日、蚊帳の中に男がいた

最初に、当時の弘前という街の話を少しだけ。一九四九年の弘前は、戦争に焼かれなかった街だ。青森市は前年の一九四五年七月に大空襲で丸焼けになったが、弘前は無傷で残った。城下町の骨格がそのまま生きていて、在府町のあたりには古い武家屋敷が黒い板塀を連ねていた。

とはいえ、無傷なのは建物だけだ。街には復員兵と満州からの引揚者があふれ、市役所は三か年計画の失業対策土木事業を組んでいた。味噌も醤油も足りない。市の保有量は味噌が十か月分、醤油が一年半分という試算が残る。

進駐軍は一九四五年九月二十六日、代官町から土手町を行進してきた。以後この街には、進駐軍向けのダンスホールが林立した。軍から流出したヒロポンが、まだ堂々と出回っていた時代でもある。

そこに、新しい大学ができた。前年の一九四八年二月に旧制弘前医科大学が設置され、事件の三か月前の一九四九年五月三十一日に、新制弘前大学の医学部へと再編される。医学部が実際に開設されるのは、二年後の一九五一年四月だ。要は大学再編のまっただ中、制度も人間関係もぐらぐらしている時期に、事件は起きている。

学長は東北帝大から来た精神科医、丸井清泰。学内は東北大系の学閥が仕切っていた。その丸井の片腕として大きな政治力を握っていたのが、同じく東北大から赴任してきたばかりの内科教授、松永藤雄だ。当時三十八歳で、大学附属病院の内科部長も兼ねていた。

松永一家は一九四七年から、在府町にある知人宅の離れを借りて住んでいた。知人というのは、松永が東北大にいた頃の患者の家だ。妻のすず子は事件当時三十歳。近所でも評判の美人だった。

一九四九年八月三日、松永は一週間の予定で息子を連れ、青森市へ出張に出る。四歳の娘と二人きりになるので、すず子は実家から母を呼び寄せた。

八月六日、午後十時頃。離れ一階の八畳間で、三人は「川」の字になって床に就く。天井には二燭光の水色の豆電球がひとつ。北側から順に、すず子の母、四歳の娘、そして縁側に面した南側にすず子が寝ていた。部屋には蚊帳が吊ってあった。

それから一時間ほど後のことだ。すず子の母が後に警察に話した調書が残っている。当時の言い回しのまま、何か所か引いておきたい。

「私は『ああ』という叫び声に目を醒して娘を見ると、娘の横に蚊帳の中に這っている男を発見したのであります」

男の姿については、「其の男は年齢二十年過ぎで丈五尺三寸位、白色半袖シャツに」と続く。そこから「色はよく記憶ありませんが半ズボンをはいて」とある。さらに「髪はよくわかりませんが帽子をかぶっていない男がシャがんでいましたから」と来る。最後が「私は吃驚して娘の名を一回叫んだのであります」だ。

母が名を叫ぶと、男は寝室の前のガラス戸から逃げていった。戸は一尺ほど開いていたという。母は「泥棒」と叫び、そして振り返る。

調書はこう続く。「其の男は逃げ去ってから、私は娘にしっかりしろ、どうしたと抱き起して見ると」。その先が「首のあたりから血がどくどく流れていたのであります」だ。

娘は母に抱かれながら、ひとことだけ言った。

「私は死んでしまう」

それから五分ほどで息を引き取った、と母は述べている。致命傷は左の総頸動脈で、鋭利な刃物による刺し傷だった。姦淫された形跡はなく、金品も奪われていない。畳は、後に証人が「血の海と云った具合でした」と証言するほど血に浸った。

母親はこの調書の最後に、正直すぎるくらい正直な一文を残した。「其の晩は寝る時二燭光の小さな電気を付けていたので」と前置きして、こう書かれている。

「娘を殺した犯人の顔は殆ど見ていなかったのであります」

顔は、ほとんど見ていない。これが事件二日後の、記憶が一番新しい時点での証言だ。この一行を覚えておいてほしい。

翌朝の現場検証で、八畳間の縁側の窓ガラスから、侵入時のものと思われる指紋が見つかった。現場周辺の道路では、血痕と足跡も確認されている。警察犬に足跡の匂いを追わせると、犬は現場から二百メートルほど離れた、武家屋敷の並ぶ一角で足を止めた。

手柄を立てたかった青年が、いつのまにか「犯人」になっていた

警察犬が止まったその一角に、那須家があった。

那須隆、当時二十五歳。源平の合戦で扇の的を射抜いた那須与一の、直系の子孫だ。下野を治めた戦国大名那須氏の血筋で、十五代目の代に東京の屋敷を台風で失い、縁の深かった津軽家を頼って弘前に移り住んだ。要するに、この街では誰でも名前を知っている家柄。

けれど家は傾いていた。農地改革で小作地を取り上げられ、那須家は没落していた。隆は十二人きょうだいの次男だが、長男が早くに死んでいるので、実質的には長兄にあたる。

一九四三年に東奥義塾を卒業し、満州国興安総省の開拓団指導員をやった。戻ってからは青森県の通信警察官になった。警察電話の架線と保守を巡査の身分でやるという、青森県が独自に設けた妙な職域だ。それが一九四六年三月に廃止されて、以後は定職がなかった。

長兄として家族を食わせなければならない。だから、また警察官に戻りたい。それが当時の那須隆の、一番の望みだった。

事件を知った那須は、翌朝には現場に駆けつけて聞き込みを始めている。自転車で走り回って不審者を探し、怪しいと思った人物を何人も警察に通報した。自宅の周辺から血痕や凶器を見つけようと、土までほじくり返している。手柄を立てれば警官への道が開ける、と本気で思っていたわけだ。

これが命取りになる。持ち込んでくる情報が、ことごとく的外れだったのだ。市警は逆に那須を疑い始めた。自分の犯行を隠すために、わざわざ他人を犯人に仕立てようとしているのではないか、と。

悪いことは重なる。那須宅の付近から、すず子と同じB型の血痕らしきものが見つかったのだ。もっとも、那須自身のABO式血液型もB型だった。

しかも松永宅付近の血痕と那須宅付近の血痕のあいだには、道のりにして約二百メートル、血液がまったく検出されない空白区間がある。警察犬にしても、松永宅付近の血痕があった地点にはまるで反応していない。

それでも市警は、この段階ではまだ逮捕に踏み切れなかった。この年に施行されたばかりの新しい刑事訴訟法のもとでは、もっと強い証拠が要ると分かっていたからだ。

決め手をくれたのは、一足の靴だった。

八月二十一日の夕方、那須は東奥義塾時代の後輩の家を訪ねている。帰ろうとした午後九時頃には雨が降っていたので、履いていたリンネル製の白いズック靴を後輩宅に預け、下駄と傘を借りて帰った。その夜の十一時頃、弘前市警の巡査が後輩宅にやってくる。

巡査は、その白靴に血痕らしきものが付いていると言った。後輩の妻の承諾を得て靴を借り受け、署へ持ち帰っている。ここまでが、靴が警察に渡るまでの流れだ。

ちなみに、この経緯については後の裁判で真っ向から食い違う証言が出た。後輩は「自宅を不意に警官が訪ねてきたので靴を見せた」と言い、靴を領置した警官は「那須の後輩から通報があった」と言う。領置の日付すら、警官は二十一日夜、鑑定した医師は二十二、三日と揃っていない。

靴は、弘前市内で内科・小児科を開業していた医師、松木明のもとへ運ばれた。松木は市の公安委員で、著名な民俗学者でもある地元の名士だった。そして約二時間後、松木は結論を出す。

「ズック靴には人血が付着している」

当時の人血鑑定は、最低でも一日はかかるとされていた検査だ。それを二時間で終えている。しかも松木医院にあった設備は、後に語られたところによれば「試験管が五、六本」だった。人血鑑定に必要な抗人血清沈降素も、遠心分離機も無い。

おまけに、この靴を領置した警官は公判でこう証言している。「なんだかシミがついているからというんで」と始めて、続けたのがこれだ。

「つばをつけてこすった」

那須は後に、警官の唾液が血液と誤判定されたのではないか、と疑いを口にした。まあ、そう疑いたくもなるよな。

翌八月二十二日の夕方、市警は那須に任意同行を求めた。那須は作業着として着ていた海軍用の開襟白シャツを、警官の目の前で脱いだ。そして他の服に袖を通して、同行に応じた。

同日午後七時五十分、殺人容疑で逮捕。同時に行われた家宅捜索で、脱いだばかりのその白シャツが、実包の入っていない骨董品の拳銃などとともに押収された。

この「脱いだばかり」「警官の面前で平然と着替えた」という事情が、二十八年後に効いてくる。ここも覚えておいてほしい。

面通しの日から、母の記憶は日ごとに鮮明になっていった

取調べは荒れた。弁護士との接見は一切許されず、殴る蹴る、便所に行かせないといった扱いもあったと那須は語る。市警がまず攻めたのはアリバイだ。那須の主張する事件当夜のアリバイは激しく転変し、そのどれもが捜査によって潰された。

家族も確たるアリバイを挙げられなかった。そもそも近親者だという理由で、証言能力まで疑われている。救いのない話だ。

九月十一日、那須は「事件当夜は自宅にいて、近所の住人が氷を削っている音を聞いた」と述べた。市警がその住人に確かめると、住人は否定した。アリバイはまた崩れた格好だ。この住人が二十二年後に何と言うかは、後で書く。

時間を少し戻す。八月三十一日、青森地検は、唯一の犯行目撃者であるすず子の母に面通しをさせた。比較対照させない、被疑者だけを見せる単独面通しってやつだ。その結果できた調書がこれになる。

「私が見た犯人とそっくりであります。右側から見た横顔の輪郭も全然同一であり、頭髪が少しもつれて前に出ている格好も全く同じであり、又後から見た後姿も全く同じで胴の細さ等全く真犯人と思われます」

調書は「〔中略〕」を挟んで、さらに続く。「私は余りに今日見せて貰った男と私が見た男と酷似しているので」とあり、その先はこうだ。

「この男に娘があのようなひどい目に会ったかと思い、遂気分が悪くなった位であります」

三週間前に「顔は殆ど見ていない」と言った人が、この調子なのだ。しかも彼女の証言は、この後も日を追うごとに詳細さを増していった。記憶は時間とともに薄れるもの、というのが常識のはずなのに、この事件の記憶は逆に濃くなっていく。

この点を、一九七七年の再審判決はひとことで切り捨てた。すず子の母の目撃証言は「憎しみが強く働き先入観に大きく左右された疑いが極めて濃厚」だ、と。そう言うしかない代物だった。

十月二十二日、市警は殺人という同じ罪状で、異例の再逮捕をかけた。微罪での保釈を防ぐためだ。那須は二日後に起訴されるまで、一度も自白しなかった。

ただし、一つだけ言葉尻を取られている。

「裁判の結果無期懲役になろうが何うなろうが裁判長の認定に任せる。控訴する気持はない」

この投げやりな一言が、後の裁判で「自白」として扱われた。聞いた瞬間、耳を疑う話じゃないか。

精神鑑定に十五分しかかけなかった学長

十月二十五日、ようやく精神鑑定の結果が地検に提出された。鑑定人は丸井清泰だ。弘前医大の学長であり、松永藤雄の上司でもあって、要は被害者側と利害関係がある人物になる。

その人が、被疑者の精神鑑定を引き受けている。この時点で、もう相当おかしい。

鑑定書には、九月十日から十月二十五日まで那須を検診したと書かれていた。ところが実際に丸井が那須を診たのは、ある一日の十五分間だけだった。質問の中身も「日本一高い山は」「馬の脚は何本」「いろはを答えよ」といった調子だ。

その十五分と、那須の知人十数人の供述だけで、丸井はこう鑑定した。

「所謂変質状態ノ基礎状態テアル生来性神経衰弱症」

続く文言は「表面柔和ニ見イナカラ内心即チ無意識界ニハ残忍性『サディスムス』的傾向ヲ包蔵シテ居リ」だ。そこから「両極性相反性ナル性格的傾向ヲ顕著ニ示ス」とつながる。

理屈を噛みくだくと、こうなる。周囲の評判で「謹厳」「おとなしい」という言葉が出てくるのは、残忍性と女性への興味を抑圧した反動だ、と。褒め言葉が全部、有罪の証拠に変換されるわけだ。これをやられたら、誰も無罪になれない。

しかも丸井は、依頼されてもいないことを鑑定書の末尾に書き足した。まず「以上ニ細説シ来ッタ如ク精神医学者、精神分析学者トシテ鑑定ハ」と始まる。

その先が「凡テノ事実ヲ各方面ヨリ又アラユル角度カラ考察シ」だ。そして結びに「被疑者ハ少ナクトモ心理学的ニ見テ本件ノ真犯人テアルトノ確信ニ到達スルニ至ッタ」と来た。

医者が「真犯人である」と書いたのだ。二十八年後、再審判決はこれを「鑑定結果に真犯人まで断定するに至っては、鑑定の科学的領域を逸脱したもの」と斬り捨てる。当然の話だよな。

靴とシャツを持って、鑑定人のあいだを走り回る

さて、物証だ。ここからが本題になる。押収されたのはズック靴と白シャツで、この二つが驚くほど多くの鑑定人のあいだを行ったり来たりする。時系列で追うと、これがもうホラーなのだ。

松木の次に鑑定を引き受けたのは、青森医専の法医学教室教授、引田一雄だった。逮捕直後の八月二十四日に物件が持ち込まれ、引田はまずズック靴を調べた。ルミノール反応、陰性。ベンチヂン反応も陰性で、結論は「血液の証明なし」だった。

引田がこの結果を市警に伝えると、市警はどうしたか。残りの物証を、引田のもとから引き揚げてしまったのだ。鑑定嘱託を正式に撤回することもなく、鑑定の途中で持ち帰っている。引田は後に、少なからず侮辱を感じたと語った。

そのせいで、引田は白シャツについては肉眼検査しかできなかった。彼が見たのは、左肩から左乳にかけての「褪灰暗色」の汚点二、三個だ。褪せた灰色がかった暗い色で、仮に血だとしてもかなり古いもの、というのが引田の見立てだった。

次にズック靴と白シャツが渡ったのは、国家地方警察青森県本部の科学捜査研究所だ。九月十二日に出た鑑定書でも、ズック靴からは血痕が見つからなかった。白シャツからはABO式でB型の血液が検出されている。

とはいえ那須もすず子も同じB型だから、どちらのものとも判別できない。これでは決め手にならない。

ここで、那須の精神鑑定留置という「時間」ができた。地検はその隙を使って、もう一度松木に鑑定を頼んでいる。松木は市警の技術吏員、つまり鑑識官を共同鑑定人に立てて、十月半ばにズック靴と白シャツを調べた。

すると、だ。それまでの鑑定では一度も触れられなかった血痕が、両方から多数、新たに発見された。同じ物を同じように調べているはずなのに、鑑定を重ねるたびに血痕が増えていく。

ほぼ同時に、東北大学医学部法医学教室の助教授、三木敏行による白シャツの鑑定も行われた。こちらでも血液が検出されている。決定的だったのは、Q式血液型でQ型、つまりラージ・キューが白シャツから出たことだ。

すず子と那須の血液型は、ABO式でB型、MN式でM型まで一致していた。ところがQ式では、すず子がQ型で、那須がq型、スモール・キューと食い違う。だから白シャツについた血は那須自身の血ではありえず、すず子の返り血だ、という論法が、ここで成立してしまったわけだ。

「白シャツからすず子と同型の血液が検出された」。ただこの一点を決め手として、那須隆は一九四九年十月二十四日に殺人罪で起訴された。

ところが、この松木・鑑識鑑定には、あとから数え切れないほどの穴が見つかる。

八月の最初の松木鑑定では、血液型の判別は不可能だったとされている。なのに逮捕状の請求書では、B型と判定されたことになっていた。十月四日の再鑑定でも試料不足で判別できなかった血液型が、十七日頃の共同鑑定ではなぜか判別されている。

ベンチヂン反応が陰性だったはずの左靴の斑痕まで、血液と鑑定されていた。おまけに最初の松木のズック靴鑑定書を、検察は公判に出すことを拒み続けた。それが法廷に姿を現すのは、事件から二十八年後、一九七七年の再審が始まってからだ。

もう一つある。ここが背筋の寒いところなのだが、松木の共同鑑定人になった市警の鑑識官は、鑑定を終えた直後に知人にこう漏らしていた。

「那須はシロだ」

その鑑識官によれば、白シャツについていた斑痕は、飛沫痕の特徴である星型じゃなかったという。中央に膨らみのある、駒込ピペットで上から垂らしたような洋梨型だった、と。飛んできた血ではなく、落とされた血の形をしていたわけだ。

「私なら可能です」――東大教授が法廷に置いた鑑定書

一審は一九四九年十一月一日に始まり、三十回の公判を重ねた。検察側は那須を「『獣人』のような異常性格者」だとして、極刑を求めている。冒頭陳述の第一声が「被告人は変態性欲者であるが」だ。起訴状一本主義に真っ向から反する断定表現だった。

弘前市民の大多数も、那須の有罪を疑わなかった。夫の松永藤雄は当時の新聞に対し、那須は遺伝性の異常性格者だと語っている。そのうえで「社会のバチルスの如きもので、社会の進化にとって絶滅すべき存在」と述べ、処刑を支持した。

弁護側は物証を攻めた。血痕が付いた犯行当時の着衣を、犯人が逮捕日まで毎日着続けることなどありえない、と。証人として立った引田も、血痕の経年変色の専門家として、白シャツの斑痕は最近のものではありえないと証言した。

これに対する検察側の反論が、これまた凄い。引田には本件以前にルミノール検査の経験がない。加えて引田は共産党のシンパだから証言に信憑性がない、というのだ。

弁護側はさらに踏み込んだ。白シャツの血痕は、引田鑑定の「褪灰暗色」から三木鑑定の「赤褐色」へと、時間が経つほど鮮やかさを増している。血の色は時間とともに赤から褐へ変わるのが不動の原則で、褐から赤褐へ逆行することは断じてない。だからこの血痕は捏造されたものだ、という主張だった。

弁護側は白シャツの再鑑定を、東京大学か慶應義塾大学に委託するよう裁判所に求めた。裁判所も、これを容れている。鑑定を命じられたのが、東京大学医学部法医学教室教授、古畑種基だ。

念のために書いておくと、この再鑑定を求めたのは弁護側だった。無実を証明してもらうつもりで頼んだ相手が、結果として那須を十年間牢につなぐ鑑定書を書く羽目になる。皮肉にもほどがある。

古畑種基は一八九一年、三重県生まれ。一九一六年に東京帝大を出てすぐ助手になり、ドイツ留学を経て、一九二三年に三十二歳の若さで金沢医科大学の法医学教授に就いた。一九三六年に東大教授、一九四七年に学士院会員になっている。

ABO式血液型の遺伝法則の発見者として世界的に知られ、後に文化勲章を受章し、科学警察研究所の所長を十二年務める。当時の日本で法医学の最高権威といえば、この人のことだった。

一九五〇年七月六日から九月二十日まで行われた再鑑定で、古畑はまずズック靴について、斑痕の存在も人血の付着も認められないと結論した。那須の逮捕根拠になった靴の血は、東大教授によって否定されたわけだ。検察側はそれを「前の鑑定で試料が消費されたためだ」と言い逃れた。

ところが白シャツについては、古畑はこう書いた。付着していた血痕は、ABO式、MN式、Q式、そしてE式の四つすべてで、すず子のものと完全に一致する、と。E式の血液型鑑定が裁判に使われたのは、日本の司法史上初のことだ。

その赤褐色の人血痕は、事件現場の畳表の血液と同時期のものだ、とも古畑は書いている。鑑定書の末尾には、数式まで載った。

九八・五パーセントという数字の正体

古畑は、東京工業大学工学部教授の小松勇作の協力を得た。ベイズの定理を使って、白シャツの血痕と現場の血痕が同一人物のものだと証明しようとしたのだ。鑑定書の原文を引くと、こうだ。

「即チ畳表についている血痕と開襟シヤツについている血痕が同一人の血液である確率は〇・九八五又は九八・五パーセントであり」

続きは「両者の血痕が同一人の血液でない確率は〇・〇一五又は一・五パーセントとなる」だ。そのうえで「理論上〇・九八五の確率であるといふことは」と受ける。締めは「実際上は同一人の血痕であると考へて差支へないことを示している」と言い切る形だった。

法廷に、数式が置かれたわけだ。戦後まもない日本の裁判所に、東大法医学教室の教授が、ベイズの定理で計算した確率を持ってきた。しかも計算を手伝ったのは東工大の数学者だという。これに勝てる弁護人が、当時どれだけいただろうか。

計算の中身はこうだ。古畑は、同一人物であった時の一致率をXと置いた。そして日本人におけるBMQE型血液の持ち主の割合である一・五パーセントをYと置き、XをX足すYで割った。それが〇・九八五になる。

一審で弁護側は、直感的な反論をした。一・五パーセントという数字があるなら、人口六万人の弘前市には、すず子のほかに九百人の「被害者候補」がいる計算になるじゃないか、と。

控訴審で証言台に立った古畑は、これにこう返した。白シャツの血痕は動脈から飛散したものが付着したとみられるが、動脈が損傷したBMQE型の人間が九百人もいるものか、と。見事な切り返しに聞こえる。

でも古畑は、鑑定書の計算の中で「動脈損傷」という条件を一切入れていない。だから数式の話としては、弁護側の指摘のほうが正しかったわけだ。ここからが、後年の数学者たちが指摘した部分になる。

古畑の鑑定書には、極めて不完全な形でしか数式が現れない。これを一般的なベイズの定理に復元しようとすると、妙なことが起きる。

まず「血痕がBMQE型である」という事象をAと置く。「血痕がすず子のもの」をB1、「すず子のものでない」をB2とする。古畑の言う結論の確率は、AのもとでのB1の事後確率にあたる。これをベイズの定理で書き下し、古畑の式と突き合わせてみる。

すると、古畑の式が成立するためには、ある前提が要ることが分かる。B1の確率とB2の確率が等しい、つまりどちらも二分の一だ、という前提だ。

言い換えよう。古畑鑑定は、計算を始める前の段階で、那須が犯人である確率を五〇パーセントと設定していた格好になる。

これがどれほど無茶か。刑事裁判は、被告人が無罪だという前提から出発するはずの手続きだ。そこに「まず五分五分から始めます」という数式を持ち込み、最後に九八・五パーセントという数字を出してみせる。無罪推定という原則が、鑑定書の中でこっそり五分五分にすり替えられていた。

もう一つある。古畑は日本人全体におけるBMQE型の出現率を代入している。これは、日本人全員が那須のシャツに血痕を付ける機会を持っていた、と述べているに等しい仮定だ。

この二つの仮定を連立させると、答えはベイズの定理とは無関係に導けてしまう。〇・五を〇・五〇七五で割ると、約〇・九八五。古畑鑑定が用いているのは、事実上の循環論法なのだ。最初に置いた仮定が、そのまま結論として出てくる装置だったわけだ。

弁護側は上告審でも、この確率計算には証拠能力がないと主張した。計算をしたのは小松で、古畑じゃない。小松は鑑定人として宣誓しておらず、裁判所に対して何の責任も負っていない。鑑定人が自分の知識経験に基づいて実験した報告でなく、他人の判断を自分の鑑定に貼り付けて提出したものだ、と。

最高裁第一小法廷は、これを退けた。

「鑑定を行うに当たって必要とされる特別な知識経験は、必ずしも鑑定人その人の直接経験により得たものには限定されない。鑑定人は他人の著書やその他のものから得た知識によっても鑑定を行うことができる」

ちなみに再審の段階では、脳卒中で入院していた古畑本人に代わって、鑑定の助手を務めた医師が法廷に立った。その医師の証言がすごい。古畑鑑定を実際に行い、鑑定書を作成したのは助手で、古畑はそれを清書する程度しか行っていなかった、というのだ。

控訴審で弁護側は古畑を追及した。「人血鑑定以前の段階を検査できなかったほどの微量の試料から、そこまで複雑な鑑定が可能だったのか」と。古畑はこう答えている。

「他の方なら不可能かもしれません。しかし、私なら可能です」

無罪、そして理由を語らなかった裁判長

一九五一年一月十二日。傍聴人が廊下まではみ出した法廷で、一審判決が言い渡された。主文。被告人を罰金五千円に処する。被告人に対する公訴事実中殺人の点については被告人は無罪。

青森地裁弘前支部の裁判長、豊川博雅は、拳銃所持についてのみ有罪として罰金刑を科し、殺人は無罪とした。ところが、無罪の理由の説明がほとんどない。豊川は「その証明十分ならず結局犯罪の証明なきに帰する」とだけ述べた。それ以上の説明は、一切加えていない。

法廷は荒れた。傍聴人から非難の声が上がり、検事は席を蹴って退廷し、すず子の母は傍聴席で卒倒した。

なぜ理由を書かなかったのか。仙台高裁秋田支部への転任を控えていた豊川が、多忙を極めていたからだという。正直、呆れるしかない。

この手抜き同然の判決が、逆転有罪の原因になったのではないか。豊川は後々までそう悔やみ続けた。実際、検察が提出した控訴趣意書には、理由を欠いた判決は刑事訴訟法第三七八条第四項に違反する、という主張がしっかり入っている。

後年、豊川が語ったところでは、無罪にした理由はこうだ。那須は変わり者ではあったが、殺人を犯すまでとは思わなかった。白シャツの斑痕については古畑鑑定も相当重視したものの、素人目に見ても引田の言うように古いものに見えた、と。

判決後、松永藤雄は仙台高検に手紙を送った。引田の医学者としての能力を批判したうえで、控訴審では自分に鑑定をさせるよう要請している。

一九五一年三月、青森医専が閉校になった。医専の教授たちは自動的に弘前大学医学部の教授へ横滑りしていった。ところが、たった一人、引田だけが教授会の審査にかけられて退官処遇となる。松永が検察宛ての手紙で予言したとおりに、だ。

呼吸の回数まで数えていた夫

控訴審は一九五一年六月十九日から、仙台高裁刑事第二部で開かれた。検察側はなおも那須が変態性欲者だと主張し、再度の精神鑑定を求めている。裁判所は、東北大学医学部教授の石橋俊実に鑑定を命じた。

石橋は八月二十一日から十二月十一日まで、那須に問診を重ねた。性格、知人の証言、既往症、性生活、遺伝歴、家族歴まで調べ上げて、出した結論がこれだ。

「被告人が変態性欲者であるという断定は下し得ない」

丸井鑑定は、検察側の依頼で行われた再鑑定によって否定された。すると検察側はどうしたか。那須の性向を「変態性欲者」から「変質者」に下方修正したのだ。

犯行は変質性に駆られてのものだとして、情状酌量を求めた。求刑も死刑から無期懲役に引き下げている。そして動機については「動機は犯罪の構成要件ではない」として、証明そのものを放棄した。

動機の説明を放棄したまま、人を無期懲役にしようとしたわけだ。

現場検証も行われた。その席で、裁判長の中兼謙吉が那須に向かってこう言っている。

「どういう格好でやったのか。おいキミ、ここに来てやってみろ」

一審で無罪判決を受けている被告人に向かって、この言いぐさだ。

検察側の要請で、夫の松永藤雄が証言台に立った。彼が法廷に提出したのは、一審公判における那須の呼吸数の変化の記録。

松永は一審のあいだずっと、那須の真後ろの傍聴席から、およそ三メートルの距離で那須を観察し続けていた。そして記録した。平常時は一分間に十八回から二十回程度の那須の呼吸数が、自分に不利な尋問を聞いている際は二十五回から三十回まで上昇した、と。

医学部教授が法廷の後ろの席から、被告人の背中の動きをひたすら数えている。想像すると、けっこう怖い絵だ。

一九五二年五月三十一日、控訴審判決。主文。原判決を破棄する。被告人を懲役拾五年に処する。

有罪の理由として並べられたのは、すず子の母や近隣住民や知人の証言、那須にアリバイがないことだった。白シャツについての松木・鑑識鑑定と三木鑑定と古畑鑑定、ズック靴についての松木・鑑識鑑定も入っている。那須を変態性欲者とする丸井鑑定まで並んでいた。

検察側ですら撤回した丸井鑑定を、判決は「経験則に反しない」という理由で受け入れた。翌一九五三年二月十九日、最高裁が上告を棄却する。三月三日、有罪が確定した。

「法医学のモデルケース」として語られた十年

ここで、事件の「その後」がどう扱われたかを書いておきたい。ここが一番いやな部分だ。

この裁判は、血痕鑑定の結果をほぼ唯一の証拠として有罪判決に辿り着いた、法医学上のモデルケースとされた。青森地検弘前支部は、通常は五年で廃棄される裁判記録を、若手検事の育成のために保管するという特別処分まで採っている。

古畑は検察研究所で、この鑑定について繰り返し講演した。『法医学の話』をはじめとする数々の自著でも、那須を有罪に導いた自分の功績を語った。岩波書店から出たこの本は、再審までに二十四刷を重ねている。

那須隆が牢の中で無実を叫んでいたちょうどその十年間、彼を犯人にした鑑定は「科学捜査の成功例」として扱われた。若い検事たちに教材として配られ、本になって売れていたわけだ。

いっぽう那須家は潰れた。

弁護費用のために知人からの借金を重ね、甲冑や古文書といった先祖伝来の家宝を売り払った。一審が終わるまでには、明治から構えていた屋敷まで手放している。移り住んだ先の家には投石があり、塀を壊され、頼んでもいない出前が大量に送りつけられた。

弘前で「那須」という名字は、いじめと不採用に直結した。妹の一人は、八回の転職を余儀なくされている。

十年、彼は謝らなかった

那須は秋田刑務所で五年服役し、宮城刑務所へ移された。

秋田では服役態度が良好だったため、社会人に準ずる扱いを受ける一級模範囚への特進を、異例の早さで提案された。那須は、それを辞退している。改悛の情を示すことを拒んだからだ。やっていないことを反省できるわけがない。

宮城刑務所でも謝罪を拒み続けたが、当時の分類課長の取りなしで、結局は一級模範囚に上がった。模範囚だから、仮釈放の機会は何度も巡ってくる。けれど更生保護審議会の面接で那須は犯行を否認し続け、そのたびに仮釈放は却下された。その回数、六回。

心境が変わったのは、長年の刑務作業で患った脊椎の治療を拒否され、このまま獄死するのではないかという恐怖が募っていた頃だ。一九六二年八月、末の弟が水難事故で死んだ。

その弟が死んだ後になお「人殺しの兄の祟りだ」と罵られている、という話が那須の耳に届いた。那須は七回目の面接を申請した。

「君がやったのか」

「やったことを認めます」

面接官は重ねて、「自白は仮釈放のためではないか」と聞いた。那須は、この問いには答えなかった。結果、申請は通過。

一九六三年一月、那須隆は三十九歳で宮城刑務所から仮釈放された。獄中で十年かけて貯めた作業賃金は、すべて滞納していた訴訟費用の支払いに消えている。迎えた父が最初にかけた言葉は、ひとことだけだったという。

「うん、御苦労であった」

この父のことを、少し書いておきたい。二十八年間、裁判所書記官を務めた人だった。

息子が最高裁の判決を待っているとき、父は手紙でこう言い聞かせている。最高裁判所なら判ってくれる。判決は静かに待つもの。最後は正義が通る、と。

那須が最高裁の期日通知を父に送ったときの手紙も、残っている。

「待ちに待った最高裁の裁判宣告の期日通知が来ましたので同封します。歴史的な十九日です」

手紙はこう続く。「日ごろの教えを守って心静かに冤罪の晴れるのを念じておりますから、ご安心くださるようお願い申し上げます」

歴史的な十九日は、上告棄却の日になった。

それでも父は、落胆する息子を励まし続けた。何時かは必ず、必ず冤罪は晴れる。今日の悲運も払拭できる。それまで健康に留意して忍耐せよ。自暴自棄に陥るな。

父はこの後、息子の雪冤を見ることなく死ぬ。再審請求を日弁連が支援すると決めた一九七一年九月十七日、その当日に、七十九歳で世を去った。

出所後の那須は、縁者を頼って職を転々とした。かつての証人や元の弁護人を訪ね歩いても、弁護人たちはいずれも世を去るか病床にあるかのどちらかだ。弁護側の裁判資料も散逸していた。新情報があると持ちかけてくる詐欺師も少なくなかった。友人は一人残らず失っている。

それでも那須は弘前を離れなかった。「自分で自分に強くなればそれでいい」という一心だった、と本人は語る。やがて、名刺を出さずに済む浴場管理人の職を見つけた。

一九六五年、遠縁の女性と結婚。生活は落ち着き、雪冤への熱は少しずつ冷めていった。そこへ、冒頭のあの朝が来る。

三島由紀夫が死んだ翌年、刑務所の病舎で

自ら名乗り出たXは、一九三〇年に北海道で生まれた。三歳のときに函館大火で焼け出され、弘前へ移ってきた男だ。子どもの頃から那須とは顔見知りで、那須の弟とは尋常小学校の同級生だった。

国民学校高等科を出るとすぐ、十五歳で国鉄弘前機関区に就職している。庫内手から機関助手見習、機関助士へと同期の誰よりも早く昇進し、先輩からの信頼も厚かった。それが敗戦で崩れる。

弘前に林立した進駐軍向けのダンスホールに、夜ごと入り浸るようになった。乗務を欠勤した挙句、国鉄を辞めている。家業のミシン修理・販売業を手伝うようになったが繁華街通いはやまず、軍から流出したヒロポンが女遊びに拍車をかけた。

やがて路上で女性を押し倒したり、ナイフで傷つけたりするようになる。弘大医学部附属病院の看護婦寮への侵入も繰り返した。

一九四九年八月六日の夜のことを、Xは後にこう供述している。ヤスリをグラインダーで尖らせた手製のナイフを持って、松永一家が間借りしていた家主の家へ向かった、と。ミシンの修理で以前訪れたことがあり、そこに若い娘がいることを知っていた。ただ、離れに松永一家が住んでいることまでは知らなかったのだ。

正面玄関には鍵がかかっていたので侵入を諦め、離れに回った。縁側の戸には鍵がかかっていなかった。再審判決の後に受けたインタビューで、Xは津軽の言葉のまま、こう語っている。

「そいで雨戸がスッとあいて、身体はいる分だけあけて、膝かぶついて這っていったんだっちゃ。で、ホレ、蚊帳あったもんで、それもスッとあげて、女のひとが寝ていたんだっちゃ」

「胸のとこに、スッと手やるかなと思ったら、グッと動いたのさ。動いたような気したんだよな」

語りはこう続く。「こりゃ大変だ、目覚ましたら大変だって、いきなり、こっち〔右手〕で、グッと刺したのさ、咽喉のどこさ」。

「したら、むこうで、グッと〔首を〕左サねじったもんで、切れだのさ。ボコボコって、水流れるみたいだ音して、そのまま抜いて逃げてきたんだっちゃ」

ただ女性の体に触りたかっただけで、姦淫する気はなかった。ナイフも、護身用に持っていただけ。子どもの泣き声を聞いて逃げ出し、途中で現場近くの井戸にナイフを捨てようとしたが、現場から近すぎると考え直した。翌日、市内の映画館の便所に投げ込んだ。Xはそう供述した。

ここで一つ、動かしがたい事実がある。Xは事件の約一か月後、一九四九年九月三日に、弘大医学部附属病院の看護婦寮への侵入で市警に現行犯逮捕されているのだ。那須がまだ取調べを受けている真っ最中に、Xは同じ弘前市警の中にいたわけだ。

拘置所では、二人は挨拶を交わす仲。Xは、那須が自分の罪を被らされていることを知っていた。

それでもXは、他の傷害や住居侵入は認めながら、すず子の殺害については頑強に否認した。死刑が怖かったからだ、と後に語っている。差し入れの弁当殻に忍ばせたメモで、拘置所の中から母親にアリバイ工作を頼んだ。

母と、当時X宅に泊まり込んでいた仕事相手が証言し、Xは殺人の容疑者から外された。Xはその後、三件の事件で強姦致傷罪や強盗傷人罪などに問われた。一九五〇年六月に青森地裁弘前支部で懲役十年、控訴審で懲役七年となり、青森刑務所に収監されている。

那須の弁護を担当していた三上直吉は、このXの事件の弁護も並行して担当していた。当時八十三歳、県弁護士会の最長老で、弁護士登録番号二十三番という人だ。その三上が、一審の法廷で、すず子殺害の真犯人はXだと訴えた。

主張は容れられなかった。それどころか、検察側は後にこう批判している。

「那須を弁護するために自己の弁護する他の事件の被告人を犯人視する主張は、弁護人の良識を疑わしめるもの」だ、と。二十八年後、裁判所はこの八十三歳の老弁護士が正しかったと認める。

Xはその後も、塀の中と外を往復した。仮釈放の直後に逮捕され、一審有罪、控訴審で逆転無罪。二か月後にまた逮捕されて不起訴、そしてまた事件を起こして懲役十年だ。

一九六三年七月、Xは秋田刑務所から宮城刑務所へ移された。那須が仮釈放された、半年後のことだった。

二十歳を過ぎてから人生のほとんどを監獄の中で過ごしてきたXは、やがてキリスト教に傾倒していく。同時に、自分が罪を背負わせた那須についての自責の念に駆られ始めた。けれど、あの事件の公訴時効が成立しているかどうか確信が持てず、告白をためらい続けた。

そして一九七一年三月八日が来る。出所を目前にしたXを含む数人の囚人が、刑務所の病舎で、数か月前に起きた三島事件について話し込んでいた。前年の十一月二十五日、三島由紀夫が市ヶ谷で自決した、あの事件だ。

囚人たちは三島の男気を讃えた。そして話の流れで、女狙いの犯罪ばかりやってきたXを非難し始めた。Xはとっさに、こう口走っている。自分は過去に殺人を犯し、その罪を他人に着せて逃れたことがある、と。

多くの囚人は、これを虚勢と受け取って相手にしなかった。ところが一人だけ、猥褻図画販売罪で服役していた男が興味を示した。ここではMと呼ぶ。Mにも、警察に司法取引を反故にされて望まない罪を受けた過去があった。

ほぼ同時期に出所したMは、Xを自分の馴染みの弁護士である南出一雄に引き合わせた。南出は元思想検事で、一審の担当検事とは後輩にあたる関係。同時にMは、Xの存在を那須家に伝えている。冒頭のあの朝、玄関に立っていたのがMだ。

Mは、もう一本の電話をかけた。相手は、読売新聞東北総局で松山事件の再審請求についての記事を書いていた記者、井上安正だ。一九七一年五月二十九日のことだった。

「弘前大教授夫人殺し事件の真犯人と思われる人物がいる」

追いかけた記者と、圧力をかけられた法医学者

ここで証言をいくつか並べておきたい。この事件を動かしたのは、法廷の外にいた人間たちだからだ。最初は井上安正のこと。

一九四四年栃木県生まれ。下野新聞を経て一九七〇年に読売新聞に入社したばかりの、駆け出しの事件記者だった。彼が書いた取材ノートの記録によれば、この事件を追いかけた日数は二千二百日。五年九か月にもなる。

南出は読売新聞に対して、再審請求の準備が整うまで一切の報道を差し控えるよう要請した。井上とMは、Xの生活が脅かされて告白が反故にされることを恐れた。Xの職場に取材をかけ始めた他社からXを匿い、Xに新しい職まで世話している。

Xは那須に直接謝罪したいと言った。けれど南出と井上は、二人が事前に口裏を合わせたと疑われることを恐れて、決してXと那須を会わせなかった。二人が顔を合わせるのは、二十五年ぶりに、再審公判の法廷でただ一度きりになる。

六月三十日付の朝刊で、読売新聞はスクープ記事を出した。ところが他紙は追随しなかった。当時の捜査関係者への取材が十分でないという理由で、他紙はXの告白に疑惑の色を強めていく。地元紙の東奥日報などは、八段抜きで冤罪を否定する連載を始めた。

同じ時期に、XとMがそれぞれ窃盗と職業安定法違反の容疑で身柄を取られた。その取調べの際に、警察から殺人の告白を取り消すよう圧力をかけられた、という話も伝わっている。

「Xにはアリバイがある」「告白は那須の国家賠償目当てだ」という批判が続いた。そのなかで、井上らは地味な裏取りを続けている。Xがナイフを捨てたという映画館の跡地も掘ったが、凶器は出なかった。

でも、二つ出た。一つは、当時X宅に泊まり込んでいたXの仕事相手が名乗り出て、読売新聞にこう証言したことだ。事件の犯人はXだと考えていたが、商売に響かないようにアリバイ工作に協力した、と。

もう一つのほうが効いた。一九四九年の取調べで、那須は「近所の住人が氷を削っている音を聞いた」と言っていた。その住人に否定されて、アリバイが崩れたあの件だ。

読売新聞の取材に対し、その住人がようやく口にした本当のことはこうだ。当時、自宅でどぶろくを密造していた。それを警察に追及されたくなくて嘘をついた。でも確かに、事件当夜、自分は自宅で氷を削っていた、と。

二十二年間、一人の男の人生を左右していたのは、どぶろくだった。笑えない話だよな。井上はこの取材で日本新聞協会賞と菊池寛賞を受け、日弁連からは報道関係者として初めて感謝状を贈られている。

次は、再鑑定を引き受けた法医学者の話。再審請求審では、白シャツの血痕鑑定の検証のため、弁護側が北里大学の船尾忠孝を、検察側が千葉大学の木村康を、それぞれ鑑定人として立てた。

木村は、古畑と親しい間柄。だから仙台高検から再鑑定を依頼されたとき、言を左右にして態度を決めかねていた。その直後、木村は呼び出しを受ける。

相手は井関尚栄。古畑の門下生筆頭で、当時の科学警察研究所の所長だ。食事の名目で呼ばれた席で、木村はこう言われたという。

「いまさら古い事件を引っ掻き回すな」

「法医学の権威を守れ」

木村はこれに反発した。真実の追究こそが法医学の使命だ、と。そして逆に、再鑑定の依頼を引き受けると決めた、と後に語っている。

権威を守れ、と言われて引き受けたわけだ。この一言がなければ、あの再鑑定は存在しなかったかもしれない。

木村と船尾が突きつけた指摘は、痛烈だった。古畑鑑定は試料不足を理由に、人血鑑定以前の段階をすべて省略している。これについて古畑はこう主張した。Q型抗原とE型抗原は、ヒト血球以外から発見されていない。だから、それらに凝集素が反応した時点で人血であることは確定される、と。

木村はこれを崩した。抗E凝集素はヒトの血球だけでなく、ヒト、ヤギ、ヒツジ、イヌの唾液などにも反応する。その時点で、E式についての古畑の前提は崩れている。Q型抗原についても、ヒト血球以外から発見されていないのは、あくまで現時点での研究成果にすぎない、と。

木村はさらに、古畑が鑑定の結論部分でやった合成も指摘した。自分の行ったMN式とE式の鑑定結果に、以前の鑑定によるABO式とQ式の結果を合成していたのだ。しかも、その以前の結果の入手元が鑑定書からは分からない。

船尾のほうは、MN式血液型の検出可能期間は最長で半年程度だと指摘した。事件から一年以上経った時点での古畑鑑定で、正確な判定などできない。E式についても、試料量は検出限界を下回っていたはずだ、と。

決定的な話もある。一九三四年にQ式血液型を発見した今村昌一と、翌年にE式血液型を発見した杉下尚治は、どちらも金沢医科大学時代の古畑の門下生だ。

Q式はブタの血清から、E式はウナギの血清から作る抗原で判定する血液型だ。ところがQ式は、日本国外ではまったく存在を認められなかった。一九二七年にオーストリアのカール・ラントシュタイナーが発見していたP式血液型と、同一のものと見なされたのだ。

一九六五年頃から、日本の法医学界にも同じ認識が広まった。抗原の由来によって判定結果がぶれるという欠陥もあって、Q式はやがて教科書から姿を消す。E式に至っては、もっとひどい。そのような独立した形質は、そもそも存在しなかったと判明したのだ。

那須隆を十年間牢につないだ「四つの血液型の完全一致」のうち、二つは、後に存在しない血液型だったと分かったわけだ。ホラーとしか言いようがない。

三つ目に、市警の鑑識官の話を挙げておく。先に書いた「那須はシロだ」の人だ。

再審の頃、松木明は仙台高検に覚書きを提出している。白シャツの鑑定はすべて共同鑑定人の鑑識官が行ったもので、自分は清書と捺印しかしていない、という弁明だった。これに対して鑑識官のほうは、自分こそ原稿の清書しか行っていないと反論した。鑑定は松木によって行われたのだ、と。

二人とも「自分は書いただけだ」と言っている。人を十五年の懲役に追い込んだ鑑定書は、誰も自分が作ったと認めない紙になっていた。

誰も知らなかった井戸が、土の下から出てきた

一九七一年七月十三日、南出を中心とする三十人体制の再審弁護団が、仙台高裁に再審請求書を提出した。九月十七日には、日弁連が事件委員会を設置して正式に支援を開始する。その当日に、那須の父が死んだ。

事実調べでは、二つの偶然が味方した。一つは、青森地検が「若手検事育成のための教材」として裁判記録を特別保管していたことだ。那須を犯人にした鑑定の手柄話を残すために取っておいた記録が、そのまま弁護側の武器になった。

もう一つは、輪番制で高裁刑事第二部に回されるはずだった再審請求が、刑事第一部に回されたこと。第二部の裁判長は細野幸雄で、かつて那須に有罪判決を下した控訴審で陪席判事を務めていた人物だった。弁護側が抗議して、忌避が通っている。

一九七二年三月二十七日から一週間、弘前で証人調べと現場検証が行われた。Xは裁判官らの前で、かつての現場で自ら犯行を再現してみせている。そのとき、Xは首をかしげた。

「廊下の幅はもっと狭かったはず」

現場の離れは一九六一年の改築で、縁側の幅が広げられていた。Xの記憶のほうが正しかったのだ。

さらに逃走経路の検証で、Xは、途中でナイフを捨てようとした井戸は隣の建物の左側にある、と主張した。弁護側は困った。事前の調査で、建物の右側にしか井戸がないことを把握していたからだ。

単なる記憶違いだろうと思って、弁護側はXを建物の右手に誘導しようとした。Xはそれを無視した。

「右の方は絶対行かないですから、右の方は関係ないですから」

そう言って、Xは建物の左手を掘り返させた。土の下から、井戸の跡が出てきた。隣の家主ですら、二十年間その存在を知らなかった井戸だ。

これが「秘密の暴露」と呼ばれるやつだ。捜査機関も裁判記録も、そして弁護側さえ知らなかった事実を、供述者が言い当てる。犯人でなければ知りようがない。

Xの証言は他にも、現場周辺の引き戸や踏石の状況、被害者と犯人の姿勢や位置関係が、事件当時の記録と一致していた。いっぽうで、現場の床材や窓の状況、犯行後に聞いた叫び声の内容などは記録と食い違っていた。完璧じゃない。二十年以上前の記憶なのだから、当たり前といえば当たり前だ。

ところが一九七四年十二月十三日、仙台高裁刑事第一部は再審請求を棄却した。

決定理由書は二百五十ページに及んだ。南出も認めるほど、綿密に審理されていた。ズック靴の血痕については「付着を証明するものは皆無」とし、那須の「変態的性格」もはっきり否定している。

廊下の幅についてのXの告白は「裁判記録や第三者では知り得ないことで信憑性がきわめて高い」とまで書いた。それなのに、Xが事件当時現場の近くに住んでいたことを考えれば秘密の暴露とは言い切れない、とした。白シャツの血痕鑑定については、古畑鑑定を全面的に受け入れている。

結論はこうだ。有罪判決は疑わしいが、無罪を証明する明白性を欠く。

那須は「もう日本の司法は何も信用できない」と繰り返した。弁護団を率いてきた老弁護士の南出は「日本の再審制度は無きに等しい」と嘆いた。悲嘆のあまり、以後は新たな弁護を引き受けなくなったという。

当時の再審のハードルは、新証拠が「有罪認定の正当性を動かして、無罪の認定に到達する高度の蓋然性を有する」ことだった。真犯人の告白ですら通らない。だから再審は長く「開かずの扉」と呼ばれていた。

扉をこじ開けたのは、まったく別の事件。

一九七五年五月二十日、最高裁第一小法廷は、一九五二年に札幌市で警察官が射殺された白鳥事件の再審請求を棄却した。ただしその決定の中で、新証拠の明白性の判断基準について、こう述べている。

新証拠が「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」にあたるかどうかは、当の証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断すべきだ。そしてこの判断に際しても、「疑わしいときは被告人の利益に」という刑事裁判における鉄則が適用される。再審開始のためには、確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りる、という意味でだ。

いわゆる白鳥決定。皮肉なことに、白鳥事件そのものは再審が開かれないまま終わっている。それでも、この決定が後の再審事件すべての入口を開けた。

弁護側は同年十月十四日、白鳥決定をこの請求にも適用するよう補充書を提出した。古畑鑑定を完全に覆せなくてもいい。Xの告白でそれを切り崩し、合理的な疑いを生じさせれば足りる。方針はそう固まった。

一九七六年一月二十九日、仙台高裁刑事第二部が事実調べの開始を決定した。同年七月十三日、原決定を取り消して再審を開始する決定が出る。白鳥決定の基準が適用された、最初の再審開始決定だった。

決定を書いた裁判長は三浦克巳。この人は、十七年前にXに逆転無罪判決を言い渡した、仙台高裁秋田支部の裁判長その人だった。

四万字の決定文と、「氷解する」という一語

再審開始決定の理由は、四万字を超えた。異例の長さ。そこで指摘されたことの核心は、極めてシンプルだった。白シャツの斑痕が鑑定を経るにつれて変化していることに、誰も説明をつけられない。

順に並べてみればいい。一九四九年八月二十四日、引田が肉眼で見たのは「褪灰暗色」の汚点二、三個。九月の科捜研鑑定では「褐色汚斑」で、十月の三木鑑定では「赤褐色」の斑痕になる。翌一九五〇年の古畑鑑定では、ごく小さな数個の「赤褐色」の斑点だった。

血の色は、時間とともに赤から褐へ向かう。これは動かない。褐から赤褐へは戻らない。なのに、このシャツの斑痕は時間が経つほど赤くなっていった。そのうえ数まで増えていったのだから、たまらない。

検察側は再審公判で、Xの告白は虚偽で、再鑑定の結果も弁護側に都合のいい部分の切り貼りにすぎない、と主張した。その一方で一九七七年一月、事件から二十八年経って、ズック靴に関する松木の単独鑑定書をようやく法廷に開示している。

再審公判で、那須は裁判所に対してこう証言した。

「無実の者が苦しむようなことは二度と起こさないでほしい」

法廷に立ったXは、こう言った。

「一日も早く那須さんを無罪にしてやって欲しい」

二人が顔を合わせたのは、この一度きりだ。その後、二度と会うことはなかった。

一九七七年二月十五日、再審判決。月一回のスピード審理で、四回の公判での結審だった。

判決は、ズック靴に対する松木鑑定を「矛盾しかつ杜撰な点が多く認められる」として退けた。丸井の精神鑑定は「個々の資料に対する検討が不徹底で、全般的に独自の推理、偏見、独断が目立ち」と評されている。そのうえで「鑑定結果に真犯人まで断定するに至っては、鑑定の科学的領域を逸脱したもの」として退けられた。

那須宅周辺の血液も、事件との結び付きを否定されている。すず子の母の目撃証言も「憎しみが強く働き先入観に大きく左右された疑いが極めて濃厚」とされた。一つずつ、有罪の柱が抜かれていく。

白シャツについて、判決はこう書いた。まず「先づ前記古畑鑑定によれば」と始まる。

「本件白シャツに附着していた血痕は、前記畳表に流出した被害者の血液と同じ『赤褐色』を呈した血痕であった」というのだ。

その先が「被告人は被害者の返り血を浴びた本件白シャツを、逮捕時までそのままの状態で着用していたことになる」だ。判決はそこから、那須のふるまいに目を向ける。

判決は「しかも被告人はそれを家宅捜索にきた警察官の面前で何ら悪びれることなく脱ぎ捨て」と書く。続けて「他の衣類と着替えたうえ警察署に同行していることは前記のとおりである」とある。そして「殺人を犯した犯人がこのような行動に及ぶということは全く考えられない、有りうべからざる行動である」と言い切った。

血まみれのシャツを、警官の目の前で脱ぐ殺人犯はいない。

判決はさらに、斑痕の分布を問題にした。まず「相互に極めて不規則、不揃いで」と書く。そのうえで「一見して『噴出』または『迸出』した血液が附着したとは到底考えられない不自然な状況」だと認定している。

押収された一九四九年八月二十二日当時の色合いと、鑑定で血液型が判定された当時の色合い。その相違は「瀝然としている」と判決は断じた。ここで、あの一文が来る。

判決は「このようにみてくると」と切り出す。

「本件白シャツにはこれが押収された当時には、もともと血痕は附着していなかったのではないかという推察が可能となるのであり」

判決は続ける。「そう推察することによって始めて前記の疑問点、即ち被告人が右シャツを平然と着用していたことも疑問でなくなり」と。

さらに「『噴出』または『迸出』血液の附着が不自然であるという疑問点も解消し」とある。締めが「色合いの相違という重大な疑問も氷解する」だった。

氷解する。

押収された時点で、シャツに血は付いていなかった。後から誰かが付けた。そう考えると、すべての矛盾が消える。判決はそう言っているのだ。捏造という言葉こそ使っていないが、意味は誰にでも分かる。

最後に、判決はこうも書いた。血痕の附着を前提としない以上、「確率の適用もその前提を欠き全く無意味となる」と。九八・五パーセントという数字は、こうして消えた。

判決は「本件一切の証拠を検討しても、本件が被告人の犯行であることを認めるに足る証拠は何一つ存在しない」と結論した。Xの告白については、こう書いている。

「かりに〔X〕が全く本件にかかわりのない人間であるとすれば、その供述するところはすべて虚偽架空の事実を供述していることとなるのであり」

判決はさらに続ける。「それにしては、これまで述べてきたようにかくまでに微細な点に至るまで客観的証拠と合致するような供述をすることは到底できるものではない」と。

そして裁判所は、本件の真犯人はXであると断定する、と書いた。

繰り返しておく。Xはこの事件で起訴されていない。公訴時効がとっくに完成していたからだ。だから彼は裁判を受けていないし、弁明の機会も与えられていない。

ここに書いたのは、別の男の無罪判決の理由の中で裁判所がそう認定した、という話だ。彼が有罪になったという話じゃない。

検察側は、期限前日の二月二十八日に上告を断念した。那須隆の無罪が確定した日、彼は自宅の玄関に、事件以来ずっと掛けることのできなかった表札を、再び掲げた。

謝った人間は、たった一人だった

さて、ここからが本当にいやな話だ。一九七七年八月三十日、那須は刑事補償として千三百九十九万六千八百円を受け取った。拘禁日数四千三百七十八日で割ると、一日あたりおよそ三千二百円になる。

その金は、亡父の墓代を除いてすべて、再審費用と、その後の国賠訴訟の費用に消えた。

同年十月二十二日、那須は青森地裁弘前支部に提訴した。那須と九人の親族、そして亡父の分を合わせて、総額九千七百五十九万五千九百円の国家賠償を求める訴え。

原告側の主張はこうだ。捜査機関が物証を捏造したうえで、虚偽の実況見分調書と鑑定書を作成した。検察は違法な見込み逮捕と勾留を行い、物証の捏造を知りながらそれを無視して、一部の資料を隠蔽している。高裁と最高裁は、一審の無罪を深く検討せずに職務上の注意義務を怠った。

ちなみに、事件当日の実況見分調書には妙な点がある。事件から数時間後に作成されたことになっているのに、冒頭に「被疑者那須隆に対する殺人被疑事件につき」という文言があるのだ。那須が逮捕されるのは十六日後だ。捜査課長は後に、実際に調書を作成したのは事件から二週間後のことだったと語った。

被告となった国側は、事件の冤罪性そのものを否定した。松木・鑑識鑑定によるズック靴と白シャツの鑑定結果には「何ら疑義を差しはさむ余地は存しない」として、その正確性を改めて強調している。再審無罪が確定した後に、だ。

国側はそれだけで済まさなかった。言い分はこうだ。白シャツについての松木・鑑識鑑定が実際に行われたのは、一九四九年八月二十三日頃。その後シャツは松木から直接科捜研へ引き渡された、というのだ。引田がシャツを目にしたというのは虚偽だ、というまったく新しい主張だった。

一九八一年四月二十七日、一審判決。裁判長の矢崎博一は、ズック靴と白シャツについての鑑定の信頼性を完全に否定した。那須を犯人とみるべき証拠が何一つない状況で起訴に踏み切った一審検察官には、注意義務違反の違法があったとも認定した。

戦後に発生した冤罪事件で、検察官に過失責任が認められたのは、これが初めてのケースだ。

ただし、捜査機関の不法行為は認められなかった。控訴審裁判所の判断も、自由心証主義の範囲内だとして違法性を退けられている。親族への賠償請求は、那須の無罪によって精神的苦痛はすでに慰謝されている、という理由で棄却された。

那須本人に認められた額は九百六十万二千四百一円。拘禁中の逸失利益二百七十二万九千二百一円に、精神的苦痛への慰謝料二千万円と弁護費用八十七万円を足す。そこから刑事補償の千三百九十九万六千八百円を差し引いた額だ。

日弁連は同日、谷川八郎会長の名で会長声明を出した。判決が那須隆氏の請求を認めたのは、雪冤者の実質的救済にとってまことに画期的なことである、と。

しかし、現実の経済情勢の変化を十分に考慮せず、その認容額は極めて少額であって、現実離れのものになっている。また、家族の請求に対しては、その苦しみを十分に把握せず、全面的に退けたのは、まことに遺憾である。声明はそう続いていた。

双方が控訴。

一九八六年十一月二十八日、仙台高裁裁判長の輪湖公寛は、那須側の主張をすべて退けた。一審で認められていた検察官の過失責任まで、否定している。裁判官と検察官が故意に職権を逸脱したとは認められない、むしろ有罪判決の確定を避けられなかった弁護側に責がある、と。逆転全面敗訴だった。

一九九〇年七月二十日、最高裁第二小法廷が上告を棄却し、那須の全面敗訴が確定した。最高裁が示した基準は、こういうものだ。

再審により無罪判決が確定した場合でも、元の裁判における裁判官の行為に国家賠償法上の違法を認めるには条件が要る。その裁判官が違法または不当な目的で裁判をしたなど、職権をその趣旨に明らかに背いて行使したと認められなければならない。

検察官についても同じ調子だ。公訴の提起と追行の際に、各証拠資料を総合してなお合理的な判断過程により有罪の嫌疑があった場合は、違法行為に当たらないという。

有罪を支えた証拠に、判決自身が「もともと血痕は附着していなかったのではないか」と書いた。この事件ですら、国の責任は認められなかった。那須はこう語っている。

「個人の権利は無防備なのに、国の責任は何重にもガードされている。いかに国家権力が強大であるか思い知らされた。岩を素手で叩いたようだ」

一九九一年三月、知人に宛てた手記には、こうあった。

「殺人犯でも告白しているのに、警察、検察、裁判官の誰一人として謝罪した者がいない」

手記は「千人の指差すところ、病なくして死す、と云う世間の指弾、万人の白眼視に耐えに耐え」と続く。その先が「忍びに忍んだ両親、弟妹の長い屈辱の日々に対し、判決は」だ。判決が何と言ったかは、こう書かれている。「それは世間が悪いのであって親、弟妹として当然受ける事であり、受忍の限度にある」。

手記は続く。「再審で無罪になったからそれで、慰謝されたと解すべきであり、それで足りる、と慰謝料の請求を棄却しています」。

そして結びの一文が「この不当な裁判に真実は復讐する」だった。那須はそのあとに「必ず」と添えて、同じ言葉をもう一度重ねている。

謝ったのは、誰だったか。Xだ。彼は再審開始の前に、那須に謝罪の意を伝えている。

ただし、判決が出た後には態度を変えた。「もう那須の顔を見たくない。無罪判決をもらっても、俺にはなんのあいさつもない」と、苛立ちを露わにしている。

一九八四年四月、Xは中学三年生の女子生徒三人に金を払って猥褻行為を働いたとして逮捕され、青少年保護条例違反で罰金刑を受けた。この事件が過去とともに各紙で一斉に報じられ、前科が知れ渡った。営んでいた廃品回収の提携先からも、契約を打ち切られている。

夫の松永藤雄は「判決通り那須さんが無実なら、家族も含めて本当にお気の毒に思う」と語った。元市警捜査課長のほうは、当時自分の潔白を証明できなかった那須を非難している。

いっぽうの那須は、自分を陥れたXについて、こう語っていた。

「むしろ感謝している」

「人間の偽りのない心に触れた気がします」

恨み言を、一度も述べなかったという。

権威の名前が、静かに消えていくとき

古畑種基は一九七一年の暮れに脳卒中で倒れ、一九七五年五月六日に八十三歳で死んだ。弘前事件の再審無罪判決は、その一年九か月後だ。彼が死んだ後、彼の名前が付いた事件が次々に崩れていった。

一九七七年、弘前事件が再審無罪。一九八四年三月には財田川事件が、同年七月には松山事件が再審無罪になった。一九八九年一月、島田事件も再審無罪。弘前以外の三件は、いずれも死刑が確定していた事件だ。

財田川事件では、古畑は被告人が穿いていたとされるズボンに、被害者と同じO型の血痕が付着しているという鑑定書を二度作成した。再審開始決定は、第一鑑定の信用性に乏しいとした。微小の血痕を寄せ集めたうえに、実際の検査のほとんどを大学院生がやっていたからだ。第二鑑定の対象となった血痕は、第一鑑定の後に付けられた疑いがあるとも指摘している。

松山事件では、古畑は三木敏行とともに、被告人が使用していたとされる掛布団の襟当に血痕が付着していると鑑定した。ところが第二次再審請求審で、この鑑定に先立って行われた宮城県警技師の鑑定が、裁判に提出されていない証拠の中から出てきた。

その鑑定の中身は、こうだ。「掛布団の裏には、人血痕は付着していないものと認める」。

島田事件では、古畑は被害者の胸の傷が、被告人の自白どおり生前につけられたものだと証言した。ところが死体発見当日に行われた県警察医の鑑定書には、胸と陰部の傷には生活反応がなく死後のものだと記載されていた。

古畑は再開された公判で、これを覆す証言をしている。幼女の場合は血管が十分に発達しておらず、生前の傷でも皮下出血がないことがある、と。

いわゆる四大死刑冤罪事件は、免田、財田川、松山、島田だ。このうち三件に、古畑が関わっていた格好になる。

弘前事件の再審無罪の後、岩波書店は『法医学の話』を「文脈に疑問がある」として出品停止、絶版とした。これには批判もある。

ある医師は、悪い奴の書いた本を絶版にするのは出版社の自殺行為だ、と書き残している。負の歴史を市民が読めなくすることこそ権力に都合がいいのだ、と。正直、俺もそう思う。冤罪を作った鑑定がどういう言葉と論理で書かれていたのかを読めなくしたら、次に同じことが起きたとき誰も気づけない。

同じ医師は、もう一つ指摘している。日本の医学部では、古畑種基の冤罪への関与は教えられない。日本法医学会をはじめとする関連学会のサイトにも、その記述はないという。

三重県では県出身の偉人として敬愛され、紀宝町のふるさと資料館には業績が展示されている。出身小学校の跡地には、文化勲章受章記念碑まで建つ。

古畑は法医学の教科書で、こう書いていた。法医学の目的は「真実を明らかにすることによって真犯人を確定したり、犯罪、中毒等による社会不安を除かんとすること」だ、と。

真犯人を確定するのは、法医学じゃなく裁判所の仕事だ。この一文にすべてが表れている、という批判は的を射ていると思う。

念のために書いておくが、これは古畑という個人を悪魔化したい話じゃない。ABO式血液型の遺伝法則に関する彼の仕事には、疑いようのない学術的価値がある。問題は、法廷の中で「権威」がどう振る舞い、法律家がそれをどう扱ったかという構造のほうだ。

「他の方なら不可能かもしれません。しかし、私なら可能です」と言われたとき、裁判官はそれを検証する手段を持っていなかった。持とうともしなかった。それが構造の名前だ。

なぜこの話は、七十年以上たっても背中が寒いのか

俺がこの事件を怖いと思う理由を、はっきり書いておく。拷問や密告が怖いのは当たり前だ。それは誰が見ても悪だと分かる。

でもこの事件で人を十年間牢につないだのは、白衣を着た人間が書いた紙だった。数式が載り、東京大学の名前も入っていた。手続きは全部踏まれていたし、三審制だって機能していたのだ。一審で無罪判決すら出ている。

それでも、人は牢に入った。ここで起きたことを分解すると、こうなる。

最初に、警察は先に犯人を決めた。決めてから、証拠を集めている。集めた証拠が「ない」と出るたびに、鑑定人を替えた。引田が「血液の証明なし」と言えば物証を引き揚げ、科捜研が決め手を出さなければ、また松木に戻す。四回目にしてようやく、欲しい答えが出た。

次に、その答えに権威の判子が押された。弁護側が無実を証明してもらうために頼んだ再鑑定が、逆に一番強い有罪の証拠になったのだ。皮肉としては、できすぎている。

その権威を検証できる人間が、法廷にいなかった。血痕鑑定の手順も、Q式血液型の検出限界も、ベイズの定理も、裁判官には分からない。分からないから、肩書きで判断するしかない。

検察は控訴審でこう言った。引田鑑定と、血液型の分野で「日本の、否、世界の権威者」とされた古畑の鑑定と、どちらを信用すべきかは明らかだ、と。

これが全部だ。科学が法廷に入ってくるとき、そこにあるのは科学じゃない。「科学の格好をしたもの」を誰が信じるか、という政治になる。

もう一つ怖いのは、記憶のほうだ。すず子の母は嘘つきじゃない。娘が目の前で殺されて、犯人の顔を見られなかった。その無念と犯人への憎しみを抱えたまま、三週間後に、警察が連れてきた一人の男を見せられた。

比較する相手はいない。この男ですよ、という空気の中で見せられた。そこから彼女の記憶は、日を追うごとに鮮明になっていった。横顔の輪郭も、もつれた髪の格好も、後ろ姿の胴の細さも。

本人は嘘をついているつもりなど、微塵もなかっただろう。記憶が、後から与えられた情報で書き換えられていっただけだ。この現象は今では認知心理学の教科書に載っている。けれど一九四九年の法廷では、「被害者の母が断言している」という重みしかなかった。

そしてもう一つ。那須隆が疑われた最大のきっかけは、彼が熱心に捜査に協力したことだった。警察官に戻りたくて、自転車で走り回って情報を集めていたのだ。持ち込んだ情報が的外れだったから、逆に疑われた。

これが怖くないだろうか。善意で、前のめりで、いい人であろうとした行動が、そのまま有罪の状況証拠に変換される。何もしなければ、疑われなかったかもしれない。こういうのを世間では「呪い」と呼ぶのだと思う。

それでも、同じことが起き続けている

弘前事件が特殊な昔話なら、まだ救いがある。でも、そうじゃない。

一九九〇年、栃木県足利市で四歳の女児が殺害された。犯人とされたのは、幼稚園バスの運転手だった菅家利和さんだ。決め手は、当時開発されたばかりのMCT118型検査法によるDNA型鑑定だった。科学警察研究所は、被害者の下着の体液と菅家さんのDNA型が一致すると鑑定している。

科警研は捜査本部に「出現頻度は千人中一・二人程度」と伝えていた。指紋ほどの識別精度はない、という意図だったという。ところが捜査幹部はそう理解しなかった。逆に評価して、「ほぼ間違いなく犯人」という先入観で捜査が進んだ。

取調べで「現場にあった精液とあなたの精液が一致している」と告げられた菅家さんは、その日のうちに虚偽の自白をした。無期懲役が確定し、十七年半服役している。

二〇〇九年、再鑑定によってDNA型は一致しないと判明した。二〇一〇年三月二十六日、宇都宮地裁は無罪を言い渡し、裁判長は起立して謝罪した。検察官も論告の場で謝罪している。

弘前事件から、六十年後。血液型がDNA型に変わっただけで、構造は同じだった。まだ確立していない科学的手法を法律家が過大評価し、それを被疑者に突きつけて自白を取る。

そして袴田事件。一九六六年、静岡県清水市の味噌製造会社専務宅で、一家四人が殺害された。従業員だった袴田巌さんが逮捕され、一九八〇年に死刑確定。

有罪の決め手となったのは、事件から約一年二か月後に、現場近くの味噌タンクから突然見つかった「五点の衣類」だった。再審の最大の争点は、その衣類に付いた血痕の「赤み」だ。一年二か月も味噌に漬かっていた血痕に、なぜ赤みが残っているのか。

これを最初におかしいと言ったのは、法医学者じゃない。浜松市の一人の主婦だ。証拠開示された衣類のカラー写真を見て、こんなに血が赤く、シャツの色も白いはずがない、と感じたのだ。

彼女は自宅の台所で、実験を始めた。自分の血を付けた布を、水や味噌や醤油や酢や豆乳やサラダ油など、十種類ほどに漬けてみる。すると、酸性や弱酸性のものに漬けた布の血が素早く黒くなる傾向が見えた。

この気付きをもとに、弁護団が専門家に実験を依頼した。それが、再審開始決定を導いた新証拠になっている。

二〇二四年九月二十六日、静岡地裁は袴田さんに無罪を言い渡した。判決は、捜査機関による三件の捏造を認定している。五点の衣類は「発見に近い時期に犯行とは無関係に捜査機関によって血痕を付けるなどの加工がされ隠匿された」とされた。

実家で見つかった衣類の切れ端も、「捜査機関によって捏造された」と認定された。自白調書は「肉体的・精神的苦痛を与えて供述を強制する非人道的な取り調べによって獲得され、虚偽の内容を含む」と断じられている。

死刑確定事件の再審無罪は、島田事件以来三十五年ぶりで、戦後五例目だった。決定的だった五点の衣類のカラー写真は、最初の再審請求から二十九年後の二〇一〇年になって、ようやく開示された。

ここからが、今の話になる。袴田さんの無罪確定を受けて、再審制度の見直しがようやく動いた。二〇二六年七月十七日、再審規定を見直す改正刑事訴訟法が参議院本会議で可決、成立したのだ。

一九四八年に現行刑訴法が制定されて以来、再審に関する規定の見直しは、これが初めてだった。弘前事件が起きた一九四九年から二〇二六年まで、七十七年間ずっと、再審のルールはほぼ大正時代のままだったわけだ。

改正の柱は二つある。裁判所による証拠開示命令の義務化と、再審開始決定に対する検察官の不服申立ての原則禁止だ。どちらも、ここまで見てきた問題そのものだよね。

ただし、日弁連は成立当日に会長声明を出して、なお不十分な点が多いと指摘した。検察官の不服申立ては、「取り消されるべきものと認めるに足りる十分な根拠」がある場合には例外的に許容されている。検察官が自分で「十分に根拠がある」と判断すれば、申立てができてしまう。

証拠の開示も、裁判所が命じない限り、請求人は証拠に直接アクセスできない。新たに設けられた規定もある。検察官から提出された証拠を、再審請求やその準備以外の目的で使うことを一律に禁止するものだ。違反すれば、一年以下の拘禁刑か五十万円以下の罰金が科される。

袴田さんの弁護団は、この規定の削除を求める声明を出した。弁護団長の小川秀世弁護士の言い分はこうだ。検察はその理由を「自分たちは組織で間違いはないからだ」と言う。検察が間違っていたから再審法を改正しようとしているのに、自分たちは絶対に間違えないことを前提に法案を作っている、と。

袴田さんの姉、秀子さんは九十三歳で、こう語っている。すべからく緩いですね。私たちは良い証拠も悪い証拠も全部出してほしいと言っているが、出すのだか出さないのだか分からない、と。

思い出してほしい。袴田事件の流れを変えたのは、開示された証拠写真を素人の主婦が見て「おかしい」と感じたことだった。目的外使用が禁止されていたら、あの写真は彼女の目に触れていない。

弘前事件だって同じだ。あの再審を動かしたのは、囚人の雑談と、新聞記者の五年九か月と、権威を守れと言われて腹を立てた法医学者だった。みんな、法廷の外の人間だ。

表札を掛け直すまでの、二十八年

那須隆は、国賠請求が棄却された後も講演を続けた。国家賠償法の改正と陪審制の導入を求めて、活動している。地元から名誉市民に推す声もあったが、本人は辞退している。

裁判費用を捻出するために、那須家の家宝は売り払われていった。売却を免れた七百点余りの資料は、一九九三年、那須与一生誕の地とされる栃木県大田原市に寄託された。二〇〇四年に道の駅「那須与一の郷」がオープンし、二〇〇七年十月、そこに那須与一伝承館が開館する。

那須隆は、その名誉館長に任命された。そして三か月後の二〇〇八年一月二十四日、弘前市内の病院で、八十四歳で死んだ。

「私が死んでも、誰にも知らせないで欲しい」

それが、那須の遺した言葉。

八百年前、屋島の海で扇の的を射抜いた男の子孫は、二十五歳から五十三歳までの二十八年間を、無実の証明に費やして死んだ。そのうち十年は塀の中だった。国からの謝罪は、ついに一度もなかった。

俺がこの記事でいちばん書きたかった場面は、判決でも鑑定書でもない。一九七七年三月、無罪が確定した日に、那須が自宅の玄関に表札を掛けた場面だ。

事件以来二十八年間、那須という表札を掲げることができなかった。掲げれば石が飛んでくる家だったからだ。その名前が、もう一度玄関に戻った。それだけの話に、二十八年もかかったのだ。

七十七年かかって、ようやく再審のルールが一度書き換わった。それも、まだ足りないと言われている。

この記事を読み終えた人に、一つだけ持ち帰ってほしいことがある。「科学的な証拠がある」という言葉を聞いたときの話だ。その科学が誰によって、どんな道具で、どんな前提のもとで作られたのかを、一度だけ疑ってみてほしい。

試験管が五、六本しかない医院で、二時間で出た「人血」。東大教授が数式で出した「九八・五パーセント」。どちらも当時は、れっきとした科学だった。

那須隆が手記の最後に二度くり返した、あの復讐の言葉を思い出してほしい。復讐は、まだ途中だ。

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