栃木県今市市土沢、大沢小学校から南へのびる市道は、いまも細いままだ。片側は雑木林、反対側に住宅がぽつぽつ建つだけの道で、昼間でも人通りはそう多くない。二〇〇五年十二月一日の午後二時五十分ごろ、一年生の一団が赤いランドセルを背負ってこの道を歩いていた。下校としては、ごく当たり前の時刻。
道の途中に三叉路がある。吉田有希ちゃんは、そこで一緒に帰ってきた友達と別れた。自宅までは残り数百メートルで、直線にすれば家から一キロほどしか離れていない、毎日通る見慣れた分かれ道だった。
その先を、誰も見ていない。目撃証言も、防犯カメラの映像も、二十年経ったいまに至るまで一つも出ていない。
- 砂利道の入口で、警察犬の足がぴたりと止まった
- 野鳥を見に来た三人が、落ち葉の斜面で気づいた
- 県境をまたいだ瞬間に、捜査は二本立てになった
- 懸賞金は二百万円から五百万円へ引き上げられた
- 秋葉原に捜査員が入り、リストが作られたという話
- 検出されたDNAは、県警の元捜査幹部のものだった
- 同じ県警が、十五年前にも自白だけで人を有罪にしていた
- 偽ブランド品の捜査から、まったく別の話が始まった
- 六月十一日、五通の調書ができた
- 供述の中から、もう一人が消えた
- 動機については、判決もほとんど書かなかった
- 人質司法という言葉が、外側から投げつけられてきた
- カメラが回り始めたのは、話が終わった後だった
- 録画が義務づけられるのは、全事件の三パーセントだけ
- カメラは、いつも終盤だけ回っていた
- 「殺してごめんなさいって五十回言わされた」
- モニターの中で、男は泣き崩れていた
- 「補助証拠」が、いつの間にか「実質証拠」になっていた
- 映像そのものが持つ、偏りの問題
- 弁護士会が声明を出し、研究者が論文を書いた
- 裁判員は「映像が無ければ判断は違った」と語った
- 録画が始まった後も、取調べの問題事例は出続けた
- 刺し傷の角度が、ほぼ揃っていた
- 粘着テープに、誰のものか分からないDNA型が残っていた
- 別件の捜索で出てきたものが、どう使われたか
- Nシステムの記録は、遺棄現場から三十キロ離れていた
- 審理は、四十日ほどで終わった
- 判決文には「客観的事実のみでは認定できない」と書かれていた
- 検察が、殺害の日時を十三時間に広げた
- 高裁は一審を破棄し、それから同じ刑を言い渡した
- 一審と控訴審では、同じ証拠の見え方が変わった
- 三行で終わった最高裁
- 再審の扉は、制度そのものが重い
- 二〇二五年七月、新しい弁護団ができた
- 証拠は、いまも検察の手元にある
- 間接証拠を積み上げた側には、積み上げた側の論理がある
- テレビで流れた自白映像と、割れ続ける世論
- 二十年分の記事が、同じ見出しで積み上がった
- あの冬に、日本中の通学路が作り替えられた
- ひまわり隊は、五百人から二百十八人になった
- 「今市市」という地名は、事件の三か月後に消えた
砂利道の入口で、警察犬の足がぴたりと止まった
夕方になっても帰らない娘を家族が探し、学校と近所に電話を入れ、それから警察へ届け出た。十二月の日没は早く、捜索はあっという間に夜へ食い込んでいく。懐中電灯の光が雑木林を舐めるように動く。捜索は夜通し続いた。
警察犬が入った。犬は三叉路から南へおよそ百二十メートル進んだ砂利道の入口で反応を失い、そこから先の匂いを追えなくなっている。連れ去りが起きたのはこの地点だろう、という見立てが早い段階で立った。
この一点は、十年後の法廷まで生き残る。検察が車へ乗せられた場所として主張したのがここで、弁護側もそこで何かが起きたこと自体は争わなかった。割れたのは、誰がそれをやったのかという一点だけ。ここからが長い。
そして、物が何も出てこなかった。ランドセルも傘も水筒も上履き袋も、周辺をどれだけ探しても見つからないまま夜が明ける。遺留品ゼロという、八年半にわたって捜査本部を苦しめる条件が、初日のうちに揃っていた。
野鳥を見に来た三人が、落ち葉の斜面で気づいた
翌十二月二日の午後二時ごろ、茨城県常陸大宮市の山林で、野鳥観察に来ていた高齢の男性三人が斜面の異変に気づいた。落ち葉に半ば埋もれる形で、有希ちゃんはそこにいる。
今市からの距離はおよそ六十キロ。県道と国道を乗り継いで車で一時間半。山道の選び方によっては、もっとかかる。栃木と茨城、県境を挟んで真逆の方角に位置する場所だった。死因は胸部を複数回刺されたことによる失血死と判断されている。
現場の状況は、最初から辻褄が合っていなかった。失われた血液量に見合うだけの血が、斜面にほとんど残されていないのだ。数滴程度しか採取できなかったという指摘もある。
刺されたのはここではない。法医学の専門家は早い段階からそう見ていて、この見立ては十年後の公判で弁護側の柱の一本になる。ただし二〇〇五年十二月の時点では、まだ誰も裁判の話などしていなかった。
県境をまたいだ瞬間に、捜査は二本立てになった
栃木県警と茨城県警は合同捜査本部を設置した。形のうえでは一本の指揮系統。だが中身は最後まで二本だった。
連れ去り現場は栃木、遺棄現場は茨城。管轄が割れると、指揮系統も情報の流れも報告の書式も二重になり、どちらの県警が主導してどちらの地検に持ち込むのかという調整に時間を食われる。その調整が終わるまでの空白は、そのまま捜査の速度を削った。
広域捜査のつなぎ目が粗いという弱点は、日本の未解決事件に繰り返し顔を出す。今市事件も例外にならなかった。初動の四十八時間、聞き込みの網は二つの県にまたがって張られ、県境をまたぐ部分の目が最後まで粗いまま残された。
時期の悪さも重なる。同じ年の十一月二十二日には広島市で小学一年生の女児が殺害されており、十日と経たないうちに栃木でも同じ学年の子どもが消えたことになる。全国の学校と警察が、同時に混乱していた時期だった。
懸賞金は二百万円から五百万円へ引き上げられた
捜査本部はフリーダイヤルを設け、両県の駅や商業施設にポスターを貼り出した。それでも決め手になる情報が来ない。電話は鳴るのに、線がつながらない。正直、打つ手がなかった。
二〇〇六年八月一日から懸賞金二百万円、二〇〇七年七月二十七日にはそれを五百万円へ引き上げている。公的懸賞金制度の中でも上限に近い金額だ。額が上がるということは、捜査の手詰まりがそれだけ深いということでもある。
二〇〇六年一月二十八日には国家公安委員会委員長が現場へ足を運んだ。政治的な案件になったという意味であり、県警への圧力も相当なものだったはずだ。それでも動かない。
交番には、事件当日と同じ服装をさせた有希ちゃんの等身大パネルが立てられた。全国を見渡しても、ここまでやる例はそうない。通りかかった人に、あの日の背格好をそのまま見せて記憶を掘り起こすという狙いだった。
秋葉原に捜査員が入り、リストが作られたという話
二〇〇六年十一月二日発売の週刊新潮が、少し妙な記事を載せた。捜査員が秋葉原へ潜入してフィギュア愛好家のリストを作成している、という内容だ。
真偽はさておき、この報道が示していたのは一つしかない。犯人像がまるで絞れていなかった、ということ。
金銭目的でもなく、怨恨でもなく、被害者との面識もない。動機の型が立たない事件では、捜査機関は属性でしか対象者を集められなくなる。趣味嗜好で網を張るという発想は、まあ、そこから出てくる。
ローラー作戦は何度も回された。不審車両の目撃情報、白いセダンという断片、県境付近の道路を通った車の記録。聞き込みの対象は近隣から同心円状に広がり、類似の連れ去り事件との関連も一件ずつ潰されていった。
積み上がったのは、膨大な「該当なし」の山である。徒労とは呼べない。ただ、八年半は長い。
そうやって八年半が過ぎる。地域の側にも、同じだけの時間がそのまま積もっていった。
検出されたDNAは、県警の元捜査幹部のものだった
二〇〇七年三月九日、遺体の複数箇所から同一男性のDNA型が検出されていると報じられた。捜査本部が色めき立つ材料であり、うまくいけば犯人へ直結する物証になる。
ところが二〇〇九年九月二十日、その型の正体が判明してしまう。栃木県警の元捜査幹部。現場検証の際に付着した汚染だった。犯人の型ではなかった。二年以上、捜査本部は幻を追っていたことになる。
なぜ二年以上も気づかなかったのか。判明のきっかけは、別の事件の再鑑定である。足利事件だ。もう一件の、幼い女の子の事件になる。
同じ栃木県内で一九九〇年に起きた四歳女児の殺害事件で、DNA型鑑定を根拠に無期懲役が確定していた菅家利和さんは、二〇〇九年六月四日に釈放された。翌二〇一〇年三月二十六日、宇都宮地裁で再審無罪が言い渡されている。当時の鑑定精度と、自白の取られ方が同時に崩れた事件だった。
その検証作業の流れで、今市事件の試料に混入していた汚染も表に出た。栃木県警にとっては、二重に苦い年になったわけだ。
同じ県警が、十五年前にも自白だけで人を有罪にしていた
足利事件を、もう少しだけ書いておく必要がある。今市事件の捜査と裁判を見るうえで、外せない背景になるからだ。先に断っておく。
一九九〇年五月十二日、足利市のパチンコ店駐車場から四歳の女児が連れ去られ、翌日に渡良瀬川の河川敷で遺体が見つかった。逮捕されたのは近所に住む幼稚園の送迎バス運転手。当時のDNA型鑑定で体液の型が一致したとされ、本人も自白した。
ところが鑑定の精度は、いまの水準から見れば粗いものだった。菅家さんは公判の途中から否認へ転じ、再鑑定によって型が一致しないことが判明する。釈放は二〇〇九年六月四日、再審無罪は二〇一〇年三月二十六日。十七年半を獄中で過ごした後のことだった。
後に公開された取調べの録音テープには、否認する菅家さんへ取調官が迫る場面が入っていた。警察庁は二〇一〇年四月、足利事件における捜査の問題点をまとめた検証報告書を出している。自白偏重と、鑑定への過信。挙がった問題は、はっきり言ってその二つに集約される。
足利も今市も、管轄は栃木県警。再審無罪から四年後に、同じ県警が別の女児殺害事件で自白を得て、それを軸に立件した。この符合を弁護側と支援者が持ち出すのは、言ってみれば当然の流れになる。
偽ブランド品の捜査から、まったく別の話が始まった
二〇一四年一月二十九日、鹿沼市に住む当時三十一歳の男性が商標法違反の疑いで逮捕された。偽ブランド品の所持という、事件とは何の関係もない容疑。母親も同じ件で立件されている。
ところが勾留中の取調べで、話題が二〇〇五年十二月の事件へ滑り込んでいく。二月の段階で、男性は「話して楽になりたい」という趣旨の言葉を口にしたとされる。ただし中身は語らず、「姉に会わせてくれたら話す」と条件をつけた。
四月十七日、栃木県警は異例の発表をした。男性が事件への関与を認めており、裏付け捜査を進めている、と。逮捕前に県警が関与を公表するというのは、まず起きない。それだけ確信があった、とも読める。あるいは、外に出さざるを得ない事情があったのか。
六月三日、殺人容疑で逮捕。弁護側が「百二十三日間の身柄拘束」と呼ぶ、別件勾留の長い期間がここで終わった。九月十日には情報提供者二名へ懸賞金五百万円が支払われている。容疑者不明の事件で懸賞金が実際に払われたのは、当時まだ二例目だった。
六月十一日、五通の調書ができた
自白とされる供述がまとまったのは、逮捕から八日後の六月十一日。この日に五通の供述調書が作られている。
中身はこうだ。車で女児を連れ去り、布テープで手足を拘束してスタンガンを使い、わいせつな行為をしたうえで刺した。ただし最初の供述では、刺したのは同行していた第三者だとされていた。
その第三者は、その後の供述から消える。検察の主張では、男性本人がバタフライナイフで刺したという構図に固まった。供述は一度で固定されず、細部が揺れ続けている。
本人は後にこう説明した。自白しなければ刑が重くなると思った、検事から「もう自白も必要ない」と告げられた後だった、と。二〇一五年五月からは全面的に否認へ転じ、弁護人から矛盾を指摘されたことで撤回したと述べている。公判では一貫して「殺していません」と言い続けた。
供述の中から、もう一人が消えた
供述の変遷そのものが、公判の大きな争点になった。中でも扱いが難しかったのが、最初に登場した第三者の存在である。
六月十一日の調書には、刺したのは同行していた別の人物だという趣旨の内容が入っていた。自分は連れ去りとわいせつ行為までを認め、致命傷を与えたのは他人だ、という構図になる。ところが捜査が進むうちに、この人物は供述から抜け落ちていく。
検察が公判で主張したのは、被告人が単独でバタフライナイフを使ったという筋書きだった。第三者の話は、記憶の混乱か、責任を軽くするための作り話として処理される。
弁護側の読み方は逆だ。存在しない人物を語ったということは、その供述全体が体験に基づいていない証拠になる、と。実際に見たことを話しているなら、途中で登場人物が消えるという現象は起きにくい。
裁判所は、自白の根幹が客観的事実と矛盾しないと判断した。細部の変遷は記憶の曖昧さで説明がつく、という立場である。根幹と細部をどこで線引きするのか。その線の引き方が、この事件では結論を左右した。基準は示されていない。
動機については、判決もほとんど書かなかった
もう一つ、この事件には最後まで埋まらない穴がある。動機だ。ここだけは、誰も埋められていない。
金銭目的でもなく、被害者や家族との面識もない。判決が認定したのは行為の流れであって、なぜそれが起きたのかという部分には踏み込んでいない。動機が不明でも有罪認定は可能という刑事裁判の建前どおりの処理になる。
だが捜査の側から見ると、動機の空白は最後まで重かった。犯人像の絞り込みができず、八年半にわたって対象者を属性で広げるしかなかった原因も、突き詰めればここにある。
そして弁護側から見れば、動機の不在はまったく逆へ働く。なぜこの人物がこの行為に及んだのかという説明が無いまま、有罪の結論だけが立っている。そう映る。
同じ空白を、双方が反対の方向から指摘した。今市事件の議論が噛み合わない理由の一つが、ここにもある。
人質司法という言葉が、外側から投げつけられてきた
ここで一度、日本の身柄拘束の仕組みを確認しておきたい。
逮捕されると、警察は四十八時間以内に検察へ送る。検察は二十四時間以内に勾留を請求し、認められれば十日間、延長でもう十日間。合計すると最長二十三日間、取調室に呼び出され続ける状態が続く。しかも取調べに弁護人が立ち会う権利は、日本の法律に書かれていない。
被疑者は多くの場合、警察署内の留置施設に置かれる。代用監獄と呼ばれてきた運用だ。取り調べる側が寝起きの場所まで管理する構造で、否認を続ければ勾留が延び、認めれば区切りがつく。そういう力学が働きやすい。逃げ場がない。
国連拷問禁止委員会は二〇一三年、弁護人の立会いがない取調べと時間制限の欠如、そして自白への過度な依存に重大な懸念を示した。自由権規約委員会も二〇二二年、逮捕前を含むすべての取調べを録音録画し、全事件へ適用するよう勧告している。人質司法という呼び名は、国内の造語から国際的な批判の用語になった。
今市事件の別件勾留は、この仕組みの中で起きた。商標法違反で捕まり、取調室では別の事件を聞かれ、否認したまま百日以上が過ぎていく。そこにいる人間が何を考えるかは、制度の設計思想とは別の問題として残る。
カメラが回り始めたのは、話が終わった後だった
ここから先が、この事件を日本の刑事司法の教科書に載せた部分になる。
取調べの録音録画、いわゆる可視化。この制度が日本で動き出したのは、警察や検察が自発的に思い立ったからではない。外から押し込まれた結果だ。
二〇一〇年、厚生労働省の元局長だった村木厚子さんが郵便不正事件で無罪判決を受けた。大阪地検特捜部が描いていた構図は法廷であっさり崩れ、さらに主任検事が証拠のフロッピーディスクを改ざんしていた事実まで発覚する。検察史上最悪級の不祥事だった。
法務省に検察の在り方検討会議が置かれ、法制審議会には新時代の刑事司法制度特別部会が設けられた。議論は数年にわたって続く。二〇一六年五月二十四日に改正刑事訴訟法が成立し、録音録画の義務化部分は二〇一九年六月一日から施行された。
つまり、日本の可視化は冤罪事件の反省として生まれた制度だということ。この出自を押さえておかないと、今市事件で起きたことの奇妙さが見えてこない。
録画が義務づけられるのは、全事件の三パーセントだけ
義務化の対象は、裁判員裁判の対象事件と、検察が独自に捜査する事件に限られている。全刑事事件に占める割合は、およそ三パーセント。
残りの九十七パーセントは努力義務にとどまる。逮捕されていない任意の取調べは対象外で、別件で起訴された後の取調べも外れる。日弁連も各地の弁護士会も、成立の時点からこの穴を繰り返し指摘してきた。
今市事件は、その穴にきれいに落ちた事例になった。
男性が商標法違反で捕まったのは二〇一四年一月二十九日、殺人容疑で再逮捕されたのは六月三日。取調べの録画が始まったのは、再逮捕より後からだった。否認から供述へ転じていった五か月弱が、映像としてはまるごと残っていない。
カメラは、いつも終盤だけ回っていた
可視化の実務には、法律の条文からは見えにくい癖がある。
検察が取調べの一部録音録画を試行し始めたのは二〇〇六年八月。警察も遅れて試行に入り、裁判員制度が始まる二〇〇九年五月に向けて体制が整えられていった。ただし当初から、録るのは取調べの終盤だけという運用が広く行われていた。
調書を読み上げて署名させる場面。事件について落ち着いて語る場面。つまり、すでに供述が固まった後の映像だけが残る。そこへ至るまでの押し引きは、記録に入らない。一部可視化と呼ばれ、弁護士会が最も強く批判してきたのがこの形だった。
二〇一六年度の後半には、義務化の対象となる事件で全過程の録音録画が七割台後半まで進んだとする数字も出ている。制度としては前に動いた。それでも、対象外の別件取調べに同じ義務が及ぶわけではない。
今市事件で起きたのは、まさにこの落差である。カメラの前の彼は落ち着いて、詳しく、泣きながら語った。カメラの無い部屋で何が起きたのかは、本人の記憶と捜査側の記憶が食い違ったまま、検証の手段を持たない。
「殺してごめんなさいって五十回言わされた」
本人が語る、映っていない期間の中身はこうだ。
「今日は認めるまで寝かせない」と言われた。「君、人殺したことあるよね」と繰り返し詰められた。「有希ちゃんを殺してごめんなさい」と五十回言わされたという。検事には無実だと言うなと釘を刺され、家族も責任を取らされるぞと脅された――母親は同じ商標法違反で身柄を取られている。
弁護側の集計では、取調べは延べ二百三十二時間に及んだ。否認すると右頬を平手で打たれ、頭部を負傷したとも主張されている。留置施設で自殺を図ったこともあったという。
台湾で生まれ、日本語が母語ではなかった。二〇〇九年五月に帰化している。言語的に不利な立場につけ込まれたのだ、という点も弁護側は繰り返し訴えた。
もちろん、ここまでは本人と弁護側の言い分である。裁判所はその多くを採用しなかった。ただ、真偽を検証する材料そのものが存在しないという構造は動かない。録画が無いのだから、確かめようがない。空白は空白のまま残る。
モニターの中で、男は泣き崩れていた
二〇一六年二月二十九日、宇都宮地裁で初公判が開かれた。裁判長は松原里美、裁判員裁判である。
被告人は「殺していません」と述べて無罪を主張した。ところが検察は、法廷の外にいた彼を法廷へ持ち込む。検事の取調べで犯行を詳しく自白する映像を、モニターで再生したのだ。
泣き崩れる姿。うつむいて肩が震えている。言葉に詰まり、激しく動揺する姿。裁判員六人の目の前に、それが流れた。
法廷で否認している被告人と、画面の中で泣いている被告人。並べて見せられたとき、人間の目にはどちらが「本当」に映るのか。証拠としてどうかという以前に、演出としてこれ以上ないほど強い。人の目は、動く顔のほうを信じる。
「補助証拠」が、いつの間にか「実質証拠」になっていた
ここに法律上の論点が立つ。取調べの録音録画とは、本来なにを証明するための証拠なのか。
制度の建前はこうだ。自白調書が任意に作られたものかどうかを裁判所が確かめるための材料であり、調書という主役を支える裏方にすぎない。法律用語では補助証拠と呼ぶ。
今市事件の一審では、それが主役の側へ回った。映像そのものを、犯罪事実を認定する証拠として使ったのだ。実質証拠化と呼ばれる使い方である。
最高検察庁は、録音録画の媒体を犯罪事実認定の実質証拠として積極的に活用する方針を打ち出していた。冤罪を防ぐために導入されたはずの仕組みが、有罪立証の道具へ転用されていく。批判はそこへ集中した。
映像そのものが持つ、偏りの問題
もう一つ、証拠としての映像に固有の問題がある。撮り方が判断を動かしてしまう、という点だ。
取調べの録画は、ふつう被疑者を正面から捉える。取調官は画面の外か、後ろ姿だけ。見る側の視線は自動的に被疑者へ固定され、その表情と声だけが評価の対象になる。部屋の空気も、それまでの何十時間も、画面には入らない。
心理学の分野では、カメラアングルが供述の任意性の評価を左右するという実験結果が古くから知られている。被疑者だけを映した映像を見た人は、その供述をより自発的なものだと判断しやすい。
日本の裁判所も、この危うさに気づき始めた。二〇一九年七月、東京地裁は別の事件で、取調べの録画映像を証拠として採用せず、音声のみを採用するという判断を示している。映像は偏った印象を与え、主観的な判断を招く危険がある、というのが理由だった。
今市事件の一審は、この論点が正面から議論される前の判決になる。裁判員六人は、日本で最も早い時期に、自白映像を実質証拠として見せられた市民の一組だった。手探りだったはずだ。
弁護士会が声明を出し、研究者が論文を書いた
栃木県弁護士会は二〇一六年五月、刑事訴訟法改正に反対する会長声明を出している。その中で今市事件の判決を名指しで取り上げた。
部分的な録画しかない状態で自白の任意性を認めるのは危うい。録画されていない部分で何が起きたかを後から検証できない以上、判断を誤る危険が残る。声明の骨子はそこだった。
法学研究者の批判は、もう一段細かいところを突いている。自白の任意性と信用性を映像によって肯定し、その同じ映像を今度は補強証拠としても使う。同一の証拠の二重使用ではないか、という指摘だ。
刑事訴訟法三百十九条二項は、自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には有罪にしてはならないと定める。憲法三十八条三項も同じ趣旨を置いている。補強法則と呼ばれるこの仕組みが、今市事件の一審では形骸化したという論文が複数出た。
調書裁判から録画裁判へ。看板が替わっただけで中身は変わらないどころか悪化している――公判中心主義の空洞化を危ぶむ声は、いまも消えていない。
裁判員は「映像が無ければ判断は違った」と語った
判決後の記者会見で、裁判員の一人はこう述べている。映像で言っていることと法廷で言っていることが違うので、どちらが正しいか見極める作業だった、と。
別の裁判員は、犯行を自白した録音録画がなければ判断は違っていただろう、という趣旨のコメントを残した。映像が結論を決めた。当事者の口から、そう出ている。
弁護側から見れば、これほど怖い話もない。検察が選んだ場面だけを編集して見せられ、その前段にあった数か月が画面に無い。心身を痛めつけられた過程は映像化されていない、というのが弁護団の主張だった。
録画が始まった後も、取調べの問題事例は出続けた
可視化が入れば取調べが浄化される。そんな単純な話ではなかったことは、その後の事例が示している。
日弁連が二〇二四年の人権擁護大会で採択した決議には、録画が残っていたからこそ表に出た事例が並ぶ。三重県では二〇二二年、窃盗を否認する被疑者に対して、泥棒に黙秘権があるのかという趣旨の言葉が投げられた。奈良県では二〇二三年、どのみちお前のせいだと決めつける発言が記録されている。
不動産会社の社長が逮捕された事件では、検事が机を叩き、およそ五十分にわたって怒鳴り続けた。裁判所はこれを違法な取調べと認定している。大川原化工機の事件でも、欺瞞的な手法が供述の自由を損なったと判断された。
録画は、取調官を紳士にはしない。ただ、後から検証できる材料は残す。今市事件の争点が消えないのは、その材料が肝心の時期にだけ存在しないからだ。
日弁連は同じ決議で、全事件の全過程の録音録画と、取調べへの弁護人立会権の確立を求めた。立会権については、いまも法制化の目処が立っていない。
刺し傷の角度が、ほぼ揃っていた
公判で争われた物証の中身へ入る。結論から言えば、この事件には被告人と遺体を直接つなぐ物証が存在しなかった。
凶器は出ていない。バタフライナイフで刺したという供述があるのに、そのナイフは押収されていない。遺体から被告人のDNA型も検出されていない。わいせつ行為をしたという供述があるにもかかわらず、その痕跡も確認されなかった。
自白の中身と遺体の状態が噛み合わない、という指摘も出た。供述では、被害者は立った状態で胸を十回ほど刺されたことになっている。ところが刺し傷の角度はほぼ一定で、立位から膝立ちへ姿勢が変わった場合に生じるはずのばらつきが見当たらない。
筑波大学の教授は、遺棄現場の血液量の少なさを法廷で指摘した。推定で一リットル近い出血があったはずなのに、斜面に残っていたのは数滴程度。さらに遺体の死後硬直が、車の後部座席に寝かせた姿勢のまま固まっていたという。急斜面の地形に沿った形にはなっていなかった。
殺害現場と遺棄現場は別だ。法医学の側からは、そう読めるという証言だった。
粘着テープに、誰のものか分からないDNA型が残っていた
遺体の頭部に貼り付いていた粘着テープからは、複数のDNA型が検出されている。一つは鑑定人のもの。もう一つは、被告人とも捜査員とも一致しない、正体不明の型だった。
控訴審でこのデータを入手した弁護団は、第三者の存在を示すものだと主張した。日本大学医学部の元教授で法医学者の押田茂實さんが、二〇一八年二月六日の法廷で、被告人とも捜査員とも異なる型が遺体表面から出ていると証言している。
検察側が犯人性の根拠として押し出したのが、ネコの毛だった。遺体に付着していた毛と被告人の飼い猫の毛が、同じグループに属するという鑑定。麻布大学獣医学部の教授が、七十一グループに分けた場合の同一グループであり、五百七十匹を調べて〇・五パーセント程度の型だと証言した。
弁護側はここを徹底的に崩しにかかった。同一グループというのは同一個体という意味ではない、猫は生涯に数十匹の子を産むのだから同じ型を持つ子孫はいくらでもいる、と。
控訴審では、ウイルス学者でネコの遺伝子を専門にする京都大学准教授の宮沢孝幸さんが証人に立った。被告人の猫のDNA型は国内のおよそ二割が持つ種類であり、〇・五パーセントという数字の出し方そのものが不適切だという内容。遺体の毛と被告人の猫は一致せず、由来しない可能性が高いとまで述べた。
別件の捜索で出てきたものが、どう使われたか
商標法違反の捜索では、事件と直接関係のないものも押収されていた。多数のナイフ類と、児童を含む画像データ。報道でも大きく扱われた部分だ。
これらは、犯人像との親和性を語る材料として機能した。刃物を集めていた、子どもへの関心を示す資料を持っていた。捜査機関がこの人物へ注目を強めた理由の一端も、そこにあったとみられている。
ただ、所持品から犯人性を導くという推認には、はっきりした限界がある。同じものを持っている人間は他にもいる。持っていることと、特定の日に特定の場所で特定の行為をしたことのあいだには、証明の橋が要る。
判決も、押収品そのものを犯人性の直接の根拠には置かなかった。有罪認定の柱として並べられたのは、あくまで供述と、映像と、状況証拠のほうだった。
それでも報道と世論の受け止めは、また別の動き方をする。押収品の一覧が先に世間へ流れ、人物像が固まってから裁判が始まった。予断の形成という論点は、この事件でも繰り返し出てくる。
Nシステムの記録は、遺棄現場から三十キロ離れていた
もう一つの柱がNシステム、自動車ナンバー自動読取装置の記録だった。宇都宮市鐺山町の国道百二十三号で、午前二時二十分に東へ向かい、午前六時十二分に西へ戻る走行が記録されている。
検察は、これを遺棄の往復として提示した。時間帯も方角も、山林へ向かって戻ってくる動きと整合する、と。
弁護側の反論は単純だった。その地点は遺棄現場から三十キロ離れている。車がどこから来てどこへ向かったのかまでは、この記録からは分からないはずだ、と法廷で突いた。被告人のアパートから遺棄現場までは七十キロ以上あり、最短でも一時間半はかかるという指摘も重ねている。
そして、この事件には「秘密の暴露」が無い。犯人しか知り得ない事実を自白が含んでいて、それが後から客観的に裏付けられる。自白の信用性を担保する古典的な条件が、今市事件では満たされなかった。凶器の場所も、遺留品の行方も、供述から出てこなかったからだ。どこを掘っても、何も出ない。
審理は、四十日ほどで終わった
一審の公判は、二〇一六年二月二十九日に始まり、四月八日に判決が出ている。
期間にして四十日ほど。裁判員裁判では、公判前整理手続で争点と証拠を絞り込み、連日開廷で一気に審理する運用が取られる。市民を長期間拘束しないための設計だ。
ところが今市事件は、物証が乏しく争点が広い。自白の任意性、供述の信用性、法医学的な矛盾、猫の毛の鑑定、Nシステムの読み方。専門家証人も複数立った。それを四十日で消化する。
弁護側は、この日程そのものにも不満を表明していた。争点の数に比べて審理の時間が足りない、という趣旨である。裁判員制度の効率化と、複雑な否認事件の審理。この二つが噛み合わないという問題は、今市事件以降も各地で表面化していく。
そして判決の日、法廷には遺族も座っていた。十年待って、ようやく開かれた裁判である。
判決文には「客観的事実のみでは認定できない」と書かれていた
二〇一六年四月八日、宇都宮地裁は求刑どおり無期懲役を言い渡した。女児を拉致してわいせつな行為をし、ナイフで刺して殺害し、遺体を山林へ遺棄したという認定である。
判決理由の中で裁判所はこう述べている。自白は具体的で迫真性に富み、その根幹は客観的な事実と矛盾しないから信用できる、と。信用性を支える材料として挙げられたのが、取調べの録音録画に映る激しい動揺と不自然な態度、Nシステムの記録、そしてネコの毛の鑑定だった。
同じ判決文には、客観的事実だけから被告人の犯人性を認定することはできない、という趣旨の記載もあった。ここを弁護側と支援者は一貫して問題にしている。客観証拠では足りないと裁判所自身が書き、それでも自白を軸に有罪へ至った。その構造が、そのまま批判の的になった。
裁判員裁判だったことの意味も大きい。自白の任意性を判断するのは職業裁判官だけで、裁判員はそこに関与しない。だが信用性の評価には裁判員も加わる。映像を見た六人の市民が、法廷の否認と画面の自白を秤にかけることになった。
被告人は四月十九日付で東京高裁へ控訴した。
検察が、殺害の日時を十三時間に広げた
控訴審の初公判は二〇一七年十月十八日。裁判長は藤井敏明。ここで異例の展開が起きる。
検察が訴因変更を請求したのだ。殺害場所を「栃木県か茨城県内とその周辺」へ広げる。殺害時刻は「二〇〇五年十二月一日午後二時三十八分ごろから十二月二日午前四時ごろまで」へ拡大。そういう内容だった。
時間にして、およそ十三時間の幅。丸一日に近い。場所に至っては、二つの県とその周辺という、ほとんど絞られていない指定になる。
一審が認定した殺害の日時と場所を、検察自身が維持できないと判断したということ。弁護側は、訴因があいまいすぎて防御ができないと強く反発した。それでも高裁は変更を認める。
高裁は一審を破棄し、それから同じ刑を言い渡した
二〇一八年八月三日、東京高裁は一審判決を破棄した。理由は、取調べの映像だけで犯罪事実を認定したのは違法だというもの。殺害の日時と場所についての事実誤認も指摘された。
ここまでなら弁護側の勝ちに見える。ところが判決は続く。状況証拠を総合すれば被告人が犯人であると認められる、として、改めて無期懲役を言い渡した。
高裁が重く見た材料の一つが、被告人が母親へ宛てた手紙だった。自分で引き起こした事件だ、という趣旨の一文が含まれていたという。自白そのものは信用できないとしながら、別の形で残された言葉を犯人性の根拠に据えた格好になる。
自白を否定して有罪を維持する。この判断の組み立て方は、法律家のあいだでも評価が割れた。一審の認定手法を違法と断じた点を評価する声がある一方、結論が変わらないのなら是正になっていないという批判も根強い。
一審と控訴審では、同じ証拠の見え方が変わった
一審と控訴審を並べると、面白いことが起きている。証拠の顔ぶれはほぼ同じなのに、重みの置き方がまるで違う。
宇都宮地裁は、映像に映る態度と供述の具体性を前面に出した。東京高裁はその使い方を違法と断じ、代わりに手紙の一文と状況証拠を前面へ持ってきた。結論は同じ無期懲役。だが理由づけは、別の建物のように組み替えられている。
同じ材料から二通りの論理が立つ。それはつまり、材料そのものが決定的ではなかったということでもある。弁護側が繰り返し主張してきたのも、まさにその一点だ。
検察の側から見れば、組み替えが効いたのだから証拠は足りていた、という話になる。読み方は、最後まで分かれたままだった。判決文は、その分岐を消さない。
三行で終わった最高裁
二〇二〇年三月四日、最高裁第二小法廷は上告を棄却した。裁判長は三浦守。いわゆる三行決定で、職権による判示は付かなかった。
弁護側は異議を申し立てたが、同月十六日に棄却される。十七日付で無期懲役が確定した。発生から十四年三か月、逮捕から五年九か月が経っていた。
被告人の身柄は千葉刑務所へ移る。そして服役しながら、無実の主張を続けている。直接的な証拠は無いはずだ、というのが本人の言い分だ。
再審の扉は、制度そのものが重い
確定判決をひっくり返す手続きが再審だ。ところがこの制度は、刑事訴訟法の中でほとんど整備されていない。
条文はわずか二十条ほど。手続きの進め方は各裁判所の裁量に委ねられ、証拠開示のルールも書かれていない。検察の手元にある未提出の証拠を出させられるかどうかが、担当裁判官の考え方一つで変わる。再審格差という言葉まで使われてきた。
もう一つの壁が、検察官の不服申立てだ。裁判所が再審開始を決定しても、検察が抗告すれば手続きは止まり、争いは何年も続く。無罪の可能性が認められた後に、さらに待たされる構図になる。
袴田事件がその典型だった。二〇二四年九月二十六日、静岡地裁が再審無罪を言い渡し、同年十月九日に確定している。事件の発生は一九六六年。五十八年が過ぎていた。人ひとりの一生分に近い。
再審法の改正論議は、この判決を受けて一気に動いた。法制審議会での議論が進み、二〇二六年に入って答申がまとまる。ただし証拠開示の範囲や検察官抗告の扱いについては評価が割れ、後退だとする批判も出ている。今市事件の再審請求は、この動きの真っただ中に置かれることになる。
二〇二五年七月、新しい弁護団ができた
再審請求の動きは、確定直後から始まっていた。二〇二〇年十月二十四日には「今市事件は終わっていない」と題したシンポジウムが開かれている。日本国民救援会が支援事件として取り上げ、「えん罪今市事件・勝又拓哉さんを守る会」も活動を続けてきた。
弁護団が本格的に再結成されたのは二〇二五年七月。再審請求のためのクラウドファンディングとマンスリーサポーター募集も始まった。支援団体の総会では、請求をなるべく早く出したいという方針が語られている。
弁護団が掲げる柱は四つある。物的証拠が無いこと、遺体から被告人のDNA型が検出されていないこと、秘密の暴露が存在しないこと、そして自白に任意性が無いこと。加えて、粘着テープから出た正体不明のDNA型を新証拠として位置づける構えだ。
一方で、捜査に関わった側の確信は揺らいでいない。間接証拠を一つずつ積み上げた結果だという立場を、当時の関係者はいまも崩していない。二十年の節目にも、その趣旨の証言が地元紙に載った。
有罪の確定判決がある。同時に、再審を求める側の主張も止まっていない。今市事件は、その両方が並んだままの状態で置かれている。
証拠は、いまも検察の手元にある
再審請求の実務で最初にぶつかる壁は、証拠の所在だ。
刑事裁判に出てくる証拠は、捜査機関が集めたもののごく一部にすぎない。取り調べの記録も、鑑定の生データも、採取した資料も、提出されないまま検察庁に眠る。弁護側がそれを見られるかどうかは、裁判所が開示を勧告するかどうかにかかっている。
今市事件でも、この構図がそのまま出た。粘着テープから第三者のDNA型が出ていたことを弁護団がつかんだのは、控訴審に入ってデータを入手してからだった。一審の裁判員六人は、その情報を持たずに評議へ入っている。
見せられた証拠で判断するしかない。裁判員制度の前提にある、当たり前すぎる制約だ。だから開示の範囲が、そのまま評議の質を決めることになる。
再審請求では、この非対称をどこまで崩せるかが勝負になる。鑑定資料が保管されているのか、再鑑定に耐える状態なのか、録画されていない時期の捜査メモが残っているのか。請求する側は、まずそこから確かめる作業に入る。
間接証拠を積み上げた側には、積み上げた側の論理がある
冤罪を疑う論点ばかり並べたので、逆側の言い分も書いておく。
捜査に関わった人たちの確信は、二十年経っても揺らいでいない。彼らの説明はこうだ。直接証拠が一つも無い事件でも、独立した間接証拠が同じ方向を指し続けるなら、その一致を偶然で説明するほうがかえって不自然になる。
ネコの毛、Nシステムの記録、母親へ宛てた手紙の一文、そして供述に含まれていた具体的な描写。一つずつ取り出せば、どれも決定打にならない。それを承知のうえで、全部を重ねたときに残る像を見てほしい、という主張だった。
東京高裁も、最終的にはこの組み立てを採った。一審の映像の使い方を違法と断じておきながら、状況証拠の総合によって犯人性は認められると結論づけている。自白を外しても結論は変わらない、という判断である。
法律家のあいだでも、この評価は割れたままだ。状況証拠による有罪認定の限界をどこに置くか。最高裁は二〇一〇年の別の事件で、一つの枠組みを示している。
情況証拠で認定する場合には、被告人が犯人でないとしたら合理的に説明できない事実関係が含まれていなければならない、という条件だ。その枠組みに今市事件が収まっているのかどうか。そこが議論の焦点になる。
テレビで流れた自白映像と、割れ続ける世論
この事件の語られ方は、二つの水路にきれいに分かれた。
一つは、取調べ映像を軸にした語り。法廷で再生された自白の場面はテレビのニュースやワイドショーでも繰り返し取り上げられ、泣き崩れる被告人の姿が視聴者の印象を決めた。映像の力は、法廷の内と外で同じように働く。
もう一つは、冤罪を疑う語り。週刊誌や弁護士会の会報、支援団体の集会から出てきた情報が積み上がっていく。物証の無さ、別件逮捕、百二十三日間の身柄拘束、五か月分の録画の欠落。そういう論点が共有された。
掲示板やSNSでの議論も、この二つの依拠する材料の違いで割れている。有罪だと考える側が指し示すのは、供述の具体性、ネコの毛、Nシステムの記録、そして母親への手紙。冤罪を疑う側が指し示すのは、DNA型の不一致、血液量の矛盾、刺し傷の角度、取調べの実態だ。
噛み合わないのは当然で、見ている証拠が最初から違う。土俵が別なのだ。確定判決は一方の見方を採用したが、他方の疑問に全部答えたわけでもない。
二十年分の記事が、同じ見出しで積み上がった
地元紙の下野新聞は、この事件を追い続けてきた。特集の棚が組まれ、命日の十二月一日が来るたびに記事が出る。逮捕の日には電子号外まで打った。
被害者の名前は、遺族の意向もあって早い時期から報じられている。有希ちゃん、という呼び方が、報道の中で二十年間使われ続けた。一方の被告人については、逮捕時から実名で報じられた。確定後は受刑者という肩書きが付く。
テレビの側は、やはり映像を求めた。法廷で再生された自白の場面は、ニュースでも情報番組でも繰り返し取り上げられている。ただし映像そのものは公開されていないので、画面に流れるのは法廷スケッチと、記者の説明だけ。それでも泣き崩れたという言葉は、十分に強く届いた。
情報の非対称は、ここでも働いている。映像を実際に見たのは、法廷にいた人間だけ。世間が受け取ったのは、見た人の要約にすぎない。要約は、要約する人の判断を必ず含む。
あの冬に、日本中の通学路が作り替えられた
二〇〇四年から二〇〇五年にかけて、子どもを狙った事件が続いていた。
二〇〇四年十一月十七日、奈良市で小学一年生の女児が下校途中に連れ去られ、殺害された。二〇〇五年十一月二十二日には広島市で同じ学年の女児が被害に遭う。その九日後が今市だった。一年の間に、小学一年生が三人。世論は一気に沸騰した。
政府の動きは速かった。二〇〇五年十二月二十日、犯罪対策閣僚会議が「犯罪から子どもを守るための対策」を決定する。通学路の緊急点検、危険箇所の洗い出し、地域住民による見守りの組織化。いま学校で当たり前になっている仕組みの多くが、ここで骨格を与えられた。
文部科学省は地域ぐるみの学校安全体制整備推進事業を立ち上げ、スクールガードリーダーを各地へ配置していく。防犯ブザーは配布から常時携帯へ、「子ども一一〇番の家」は点から面へ。二〇一八年には登下校防犯プランがまとめられ、通学路の合同点検と防犯カメラの設置が改めて位置づけられた。
集団下校も、保護者の付き添いも、もとから日本にあった習慣ではない。二〇〇四年と二〇〇五年の事件が、学校行事の中へそれを押し込んだ。
ひまわり隊は、五百人から二百十八人になった
事件が残したものは、司法の論点だけではなかった。
栃木県教育委員会は事件直後に緊急アピールを出し、防犯ブザーの一斉点検と通学路の見回り強化を各校へ求めた。広島の事件と合わせて全国が動き、集団下校と保護者の付き添いが標準になっていく。文部科学省は通学路への防犯カメラ設置の検討に入った。いま当たり前になっている見守りの光景は、二〇〇五年の冬に形を変えている。
大沢小学校では、保護者と地域住民と教職員による「大沢ひまわり隊」が発足した。一時は五百人ほどいた隊員が、二十年を経て二百十八人まで減っている。それでも登校への付き添いは続いており、危険箇所を落とし込んだマップと「子ども一一〇番の家」の位置は毎年共有されてきた。
下校のやり方は、二〇二四年十月に見直された。児童だけで帰る形へ戻したのだ。十九年ぶりに、事件前と同じ風景が戻ったことになる。
「今市市」という地名は、事件の三か月後に消えた
最後に、地名の話を書いておく。
今市市が日光市などと合併して新しい日光市になったのは、二〇〇六年三月二十日。事件発生から三か月半後だった。合併の議論は事件よりずっと前から進んでいたので、事件とは関係がない。ただ結果として、事件現場の市の名前は、捜査が本格化する前に行政区画から消えた。
住所は日光市土沢へ変わる。学校名も日光市立大沢小学校になった。それでも事件の呼び名だけは「今市事件」のまま残った。報道も判決文も支援団体も、消えた市の名前で呼び続けている。地名が地図から消えても、事件名として生き残ることがある。
二〇二五年十二月、発生から二十年の日。学校関係者と「大沢ひまわり隊」の隊員たちが墓前に立った。初代隊長で前の日光市長だった粉川昭一さんは、昨日のことのように思い出される、と語ったという。
三叉路から百二十メートル先の砂利道の入口は、いまもそこにある。舗装もされず、標識も立たず、ただの道の分かれ目として残っている。
