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三千億円が絵画になって消えた――イトマン事件、バブルの底が抜けた瞬間と、誰も止められなかった一年半

絵が一枚、三億円で売られる。それが二日後には二十億円になっていて、買ったのは大阪の繊維商社だ。誰も止めないし、銀行も止めない。ここまでなら、まあバブルだから、という話で済むかもしれない。だが同じことが百八十六回繰り返され、締めて数百億円が消えたとなると、話はもう「時代の空気」では済まなくなる。

イトマン事件。大阪の中堅商社イトマン、旧社名を伊藤萬という百十年の老舗から、報道ベースで三千億円以上が流れ出したとされる一件だ。通り道になったのは、絵画とゴルフ場と地上げだった。大阪地検特捜部は一九九一年十二月の初公判の冒頭陳述で、これを「戦後最大の経済事件」と位置づけた。検察がそう言い切るのは、そうそうあることじゃない。

厄介なのは、これが誰かの財布を切った強盗の話じゃないことだ。上場企業の取締役会と、日本最強と言われた銀行と、証券取引所と、新聞社と、美術オークションの世界。その全部をつないだ配管工事のような事件で、管の一方から金を入れても、もう一方の口から出てこない。途中で消える。

三十五年経った今も、いくら消えたのか正確な数字は誰も出せていない。呆れるを通り越して、ちょっとぞっとする話をする。まあ、落ち着いて聞いてほしい。

一八八三年、心斎橋の洋反物屋――イトマンとは何だったのか

そもそもイトマンとは何だったのか。ここを飛ばすと、この事件のえげつなさが半分も伝わらない。創業は一八八三年、明治十六年の一月二日で、伊藤萬助という商人が大阪の心斎橋筋に「羽州屋」という洋反物の輸入商を開いた。これが出発点だ。

舶来の生地を扱う繊維商店である。まだ日本に紡績業がろくに育っていない時代に、外国の布を仕入れて売るというのは、目端の利く商売だった。そこから先の伸び方がすごい。

一九一八年、大正七年五月に株式会社伊藤萬商店へ改組。一九四三年五月には伊藤萬株式会社となり、二代目伊藤萬助の代で、大阪では「天下のイトマン」と呼ばれるところまで大きくなった。世界恐慌のときに資金繰りを支えたのが住友銀行で、ここから両者は切っても切れない仲になる。

一九三三年には伊藤萬ビルが完成し、繊維一本槍から総合商社化への足を伸ばし始めた。戦後は一九四九年十二月に大阪証券取引所、一九五四年六月に東京証券取引所へ上場している。一九五六年に吹田商事を吸収合併し、一九七七年には破綻した安宅産業の繊維貿易部門を譲り受けた。押しも押されもせぬ老舗だった。

東証一部と大証一部に名を連ねる会社で、ぽっと出じゃない。明治の大阪商人が起こし、百年かけて育てた会社が、最後に絵の値段で溶けて消えるわけだ。この落差が、この事件のいちばん気持ち悪いところだと思う。

住友銀行から来た男――河村良彦という経営者

一九七三年のオイルショックが最初のひびだった。繊維不況が直撃して伊藤萬の経営は一気に傾き、倒産寸前、という言い方が誇張でない水準まで落ちた。そこへ送り込まれたのが河村良彦だ。

一九二四年九月二十一日生まれ、山口県の出身。商業学校を出て住友銀行に入った、いわゆるノンキャリアの行員だった。働きながら関西大学経営学部の夜間部に七年通って一九五三年に卒業しているから、この経歴だけでどれだけ這い上がってきたかがわかる。

営業のセンスは飛び抜けていた。栄町、渋谷、銀座と支店長を歴任し、住友銀行の常務まで上がったのは、学歴で決まる世界での例外的な出世だった。叩き上げの星、というやつだ。

一九七五年一月、頭取の堀田庄三から伊藤萬の再建を命じられる。同年十一月二十八日に第五代社長に就任した。ここからの二年が、河村良彦という人の最良の時期だった。

社員と徹底的に対話し、「意識革命」を掲げて現場を回して、四十八億四千九百万円あった累積赤字を二年で消してしまう。翌年には配当も再開した。文句なしの手腕だ。

問題は、成功した経営者がしばしば辿る道を、この人も律儀に辿ったことである。増収増益が途切れると、対話は消え、ワンマン体制だけが残った。ありがちな転落の入口だ。

「住銀の別働隊」と呼ばれて

河村には強力な後ろ盾がいた。磯田一郎、一九七七年に住友銀行頭取、一九八四年から会長になった男だ。「住銀の天皇」と呼ばれ、「向こう傷は問わない」を旗印に収益至上の経営を敷いた。

マツダの再建、アサヒビールの立て直しを手がけ、一九八五年には「バンカー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれている。当時の日本の銀行界で、いちばん怖くていちばん強い男だった。河村はその磯田の腹心とされた。

イトマンは次第に、住友銀行の汚れ仕事を引き受ける会社になっていく。行内では「住銀の別働隊」、もっと露悪的には「住銀の痰壺」と呼ばれた。銀行本体の帳簿に載せたくない不良債権を、商社の帳簿に移すという役回りだ。ひどい呼び名だよね。

決定的だったのが一九八六年、首都圏に約百店舗を持つ平和相互銀行を、関西地盤の住友銀行が丸ごと飲み込んだ合併だ。これで住友銀行の預金量は約二十四兆円、国内二位に立った。磯田が執念を燃やした悲願である。

その裏で動いたのが河村だ。報道ベースで語られてきた経緯はこうなる。創業家の小宮山一族が持っていた平和相互銀行株の約三十四パーセントを、川崎定徳の佐藤茂社長が買い取り、その資金をイトマングループが融資した。

株は最終的に住友銀行へ渡る。都市銀行が表立ってできない株の受け皿を、系列商社が引き受けたわけで、露骨すぎて笑えない。この一件以降、磯田は河村をさらに重用した。

逆に言えば、住友銀行の担当行員はイトマンの経営に口を出せなくなった。「あの河村さんに、うちの若いのが物を言えるか」という空気ができあがる。監視の目が制度的に潰れた瞬間だった。

しかも、元住友銀行取締役の國重惇史が後年に語っていることだが、他の取引銀行もイトマンを見ていなかった。彼らが見ていたのは住友銀行だけで、「住友が貸すなら俺たちも貸す」という構図だったという。肝心の住友銀行が見ていないのに、だ。日本のメインバンク制の、いちばん恥ずかしい断面がここに出ている。

石油で三百億円吹き飛ばした会社

その一方で、イトマンの本業はどんどん悪くなっていた。一九八二年頃に燃料事業へ参入し、一九八四年には石油の業転取引に手を出す。石油を転売する相手先が倒産して売掛金が回収できなくなり、大穴が開いた。

さらに石油元売り大手など二十一社から、総額百億円の訴訟を起こされて敗訴。業務提携していたコンピュータ会社と玩具会社まで倒産するという不運が重なって、損失は三百億円を超えた。踏んだり蹴ったりだ。

繊維はもう伸びないし、石油では失敗した。じゃあ何をやるか。一九八六年から始まったバブル景気のただ中で、河村が出した答えは不動産だった。

東京本社を建てるという名目で、南青山の地上げに着手する。ここに合計で千億円近い金が動いたとされる。ところが、土地は全部は買えなかった。虫食いのまま再開発できず、金利だけが膨らんでいく。

地上げというのは、全部揃って初めて価値が出る商売だ。九割買っても、残り一割が売らなければゼロに等しいんだよな。

一九八八年の秋、日本経済新聞の記者だった大塚将司は、住友銀行の國重惇史から呼び出されて南青山の地図を見せられている。十月十九日の深夜だ。全部を買い上げるのは無理で、虫食いのままだと債務だけが膨らむから記事にしてくれ、と國重は言った。

大塚は断った。「株価と地価がこの状況では無理だ。記事にしても何のインパクトもない」。日経平均が三万八千円台へ向かっていた時期で、誰も信じない。この判断は正しかったし、同時に、二年後まで事態を放置することにもなった。

一九八九年八月、ミナミの料亭

そこへ現れたのが伊藤寿永光だ。一九四四年十二月十六日生まれ、愛知県津島市の出身。不動産のプロ、地上げ屋、経営コンサルタントと、肩書きは呼ぶ人によって変わった。

河村と伊藤が初めて顔を合わせたのは、一九八九年八月初旬、大阪ミナミの料亭だった。同席したのは住友銀行名古屋栄町支店長と、元名古屋支店長でイトマン常務の加藤吉邦。伊藤本人の証言によれば、河村を紹介したのは磯田だという。

ただしこれは伊藤の一方的な言い分で、裏づけのある話じゃない。一般には、伊藤が河村を知ったのはもう少し後だとされてきた。念のため書いておく。

この席で伊藤は、自分を実際より大きく見せる話をしたらしい。そしてほどなく、雅叙園観光の手形回収で百億円ほど足りないと河村に訴える。すると河村のほうから増資の話が出て、伊藤萬が引き受けてもいい、となった。

伊藤はこれでようやく息をついた、と語っている。話が早すぎる。

雅叙園観光という時限爆弾

この雅叙園観光というのが、そもそもとんでもない爆弾だった。一九四八年に松尾國三が創業したホテル会社で、東証一部上場。日本ドリーム観光の大株主でもあった。

一九八四年に創業者が亡くなると内紛が起き、そこへ仕手集団が乗り込んできた。一九八七年五月には、発行済み株式の約八割にあたる二千二百万株を押さえられてしまう。

そして一九八七年十月、ブラックマンデーが来た。買い占めていた株が軒並み暴落し、資金の穴埋めに雅叙園ホテルの手形が乱発される。その総額、およそ七百億円。株価はさらに下がり、手の施しようがなくなった。

手形を握らされた債権者たちは、不渡りが出れば自分の金が消える立場にいた。彼らが回収を急ぐ一方で経営に担ぎ出したのが許永中で、一九八八年二月頃のことだ。仕手集団の代表は同年に失踪し、関連企業は同年十一月に破産宣告を受けた。

雅叙園観光の株は、行き場を失って転がる。最後に落ちた先が、伊藤寿永光の手元だった。

伊藤は巨額の含み損を抱え、資金の手当てに追われていた。当初は大阪府民信用組合の資金を使って手形回収の資金繰りをしていたが、これが頓挫する。新しいスポンサーとして頼ったのが、イトマン社長の河村だった。

一九九〇年二月二十七日、伊藤萬は雅叙園観光株の第三者割当増資を千万株、百十一億円で引き受ける。同年二月一日に伊藤は企画監理本部長として伊藤萬に入社し、六月二十八日には常務に昇格した。

地上げ屋が、四か月で東証一部上場商社の常務だ。この人事だけで、社内が誰も河村を止められない状態だったことがわかる。正直、めちゃくちゃだと思う。

なぜ絵画だったのか――値段を誰も検証できない資産

ここからが本題だ。土地でもゴルフ場でもよかったのに、なぜ絵画がここまで大きな役割を果たしたのか。答えは身も蓋もなくて、絵の値段は誰にも検証できないからだ。

土地には路線価があり、公示価格があり、近隣の取引事例がある。株には市場価格がつくし、ゴルフ会員権にも相場表がある。ところが絵画には、それがない。

同じ画家の同じ時期の作品でも、一点ごとに違う。世界に一枚しかないのだから、比較対象が存在しない。値段を決めるのは、鑑定書と、直近の取引実績と、最後は「そういうものだ」という空気だ。

しかもバブル期の日本では、その空気が壊れていた。一九八七年三月三十日、ロンドンのクリスティーズで、安田火災海上保険がゴッホの「ひまわり」を約二千四百七十五万ポンドで落札した。日本円で約五十八億円、当時の絵画の史上最高値だ。

日本の損害保険会社が、絵に五十八億円。世界中の美術関係者がひっくり返った。記録はすぐに更新される。

一九八九年十一月三十日、パリと東京を衛星回線で結んだオークションで、ピカソの初期の傑作「ピエレットの婚礼」が落札された。三億一千五百万フラン、約七十三億八千万円。買い手はリゾート開発会社の日本オートポリスだった。

そして頂点が一九九〇年五月だ。五月十五日、ニューヨークのクリスティーズで、大昭和製紙名誉会長の齊藤了英がゴッホの「医師ガシェの肖像」を八千二百五十万ドルで落札。日本円でおよそ百二十五億円、絵画一点が百億円を超えた世界初の取引となった。

その二日後、今度はサザビーズでルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を七千八百十万ドルで落札している。四十八時間で一億六千万ドル。一人の日本人が、世界一高い絵と世界二番目に高い絵を続けて買ったのだ。

数字で見ると、もっと露骨になる。日本の美術品の年間輸入額は、一九八五年に約四億七千万ドルだったものが、一九八七年に約十一億五千万ドル、一九八九年に約二十八億三千万ドルと膨らんだ。一九九〇年には約四十九億六千万ドルまで跳ね上がっている。五年で十倍だ。

ピーク時、世界のオークションで売買される印象派とモダンアートのうち、四割から五割を日本の買い手が落としていたとされる。フラッグシップのイブニングセールでは、使われる金の二枚に一枚が日本円だった。すごい時代だよね。

なぜそんなことが起きたか。土地と株の含み益が膨らみすぎて、行き場を探していたからだ。そして肝心なのは、金融当局が絵を見ていなかったことである。

一九八九年頃には土地への融資に対する締めつけが始まっていたが、絵画は当局のマークの外にあった。値上がりする絵を買うための資金には、金融機関が積極的に融資を続けた。ノンバンクは作品そのものを担保に、評価額の半分まで貸したという。

当時の日本には、値段を誰も検証できない資産に、いくらでも金が付く回路が開いていたわけだ。そこに気づいた人間がいた、という話である。

ロートレックから始まった

イトマンの絵画取引の入口は、意外なほど小さな相談だった。一九八九年十一月、磯田一郎の長女が河村に、西武系の高級美術品・宝飾品を扱う会社「ピサ」が持っていたロートレックのコレクションについて相談を持ちかけた。売り先を探せないか、と。

彼女はその会社に勤めていた。ここまでは、まだ何の事件でもない。誤解のないように書いておくと、磯田一郎も彼女も刑事責任を問われてはいない。

河村はこれを伊藤に相談し、伊藤が許永中につないだ。伊藤萬はピサからコレクションを十六億七百万円で買い受ける段取りをつけ、それを許側へ六十八億円あまりで転売する話になった。ところが代金は支払われなかった。

一九九〇年一月下旬、今度は許のほうから河村に話が持ちかけられる。絵画の転売事業を一緒に立ち上げないか、美術品や貴金属に投資すれば経営が安定する、と。ここから先が坂道だ。

伊藤萬は、許永中の関連する複数の会社から、絵画や骨董品を総額六百七十六億円で買い受けた。うち許側との取引は、五百二十八億円から五百五十七億円という数字で伝えられている。西武百貨店や三越百貨店からの仕入れもあった。

売り手側の会社の名前が、また味わい深い。関西新聞、富国産業、関西コミュニティ。新聞社が絵を売っているのだ。

この関西新聞は許の関連企業で、後に自分の売った絵の代金を払えずに、不渡りを出して倒産することになる。この話はあとでもう一度出てくる。

六百八十億円分の絵が動いた

構造そのものは、恐ろしいほど単純だ。安く仕入れた絵を、間に何社か挟んで転がし、そのたびに値段を上げる。最後にイトマンが高値で買い、差額は途中の会社に落ちる。

裁判で認定されたのは、鑑定評価書の偽造などが行われ、時価の二倍から三倍という法外な価格で買わされていたということだ。一部には、仕入れ値の何十倍という値がついた例もあったと報じられている。桁がおかしい。

そして河村や伊藤は、それを認識しながら買っていた。ここが特別背任の核心になる。知らずに騙されたのではなく、会社に損害が出るとわかったうえで買ったから背任なのだ。

なぜそんなことをするのか。答えは決算だ。イトマンは不動産と石油で損失を抱え、住友銀行に対して見せかけの優良決算を作り続ける必要があった。

絵を高値で買えば、その絵は資産として計上される。値段が検証できない資産なのだから、簿価はいくらでも書けてしまう。損失は先送りされ、決算書はきれいなままだ。

河村は自分の地位を守るために、そのきれいな決算を必要としていた。土地は登記されるし、株は市場が値をつける。でも絵は、金庫にしまえば誰にも見えない。バブル期の日本で、これほど都合のいい箱はなかった。

同時期、絵画以外の通路も動いていた。「伊藤プロジェクト」と総称される不動産・ゴルフ場開発案件で、一九九〇年十一月末までに千九百二十九億円が流出したとされる。内訳がまたすごい。

銀座一丁目の地上げに六百六十四億円、岐阜県関市のゴルフ場に六百四十億円、瑞浪のカントリークラブに二百三十四億円。鹿児島のさつまカントリークラブに二百億円、八王子の相武カントリー倶楽部に百十億円、長野の野尻湖リゾート開発に百六億円。開発許可も取れていない山林に、担保も取らずに数百億円が出ていく。

これらの多くは実際の開発には回らなかった。伊藤や許の関連企業の借金返済や簿外債務の処理に充てられた、というのが検察の見立てだった。

一九九〇年五月二十四日、朝刊の片隅

さて、報道の話だ。この事件は、二人の男の共同作業でこじ開けられた。

一人は日本経済新聞の記者、大塚将司。一九五〇年生まれで、一九七五年に日経へ入社し、証券部と経済部で証券業界、銀行、大蔵省を担当した名物記者だ。

もう一人が、住友銀行業務渉外部の部付部長、國重惇史。東京大学を出て一九六八年に住友銀行へ入行し、大蔵省担当を長く務めたエリートバンカーである。

この二人は一九八八年の時点で、すでにイトマンの異常に気づいていた。ただ、その時には時代の流れに逆らってまで記事にすることができなかった。日経平均は上がり続け、地価も上がり続けていたのだから無理もない。

潮目が変わったのは一九九〇年に入ってからだ。株価が下がり始めた。大塚は磯田への取材を進め、二月頃からはイトマン問題を直接ぶつけるようになる。

三月の取材で、磯田はこう言ったという。河村社長が伊藤とその背後にいる人物たちに食いつかれることを心配し、「千億円くらいやれば奴らもイトマンと縁を切るだろう」と。千億円を手切れ金として口にする感覚が、この時代の頂点にいた銀行家の相場観だった。

そして國重は動いた。「イトマン従業員一同」の名前で内部告発文書を作り、大蔵省銀行局長の土田正顕宛てに極秘裏に送りつけたのだ。同時に、頭取や日経の社長、他紙、週刊誌にも送った。

封筒に指紋を残さないよう手袋をし、最後に拭き取ることも忘れなかったという。後に本人が明かした話だ。スパイ映画かよ、と言いたくなる。

その上で、記事が出た。一九九〇年五月二十四日付の日本経済新聞朝刊で、イトマンの決算発表当日だ。見出しは「伊藤万、土地・債務圧縮急ぐ 住銀、融資規制受け協力」。一兆二千億円という借入金の規模が書かれていた。

正直に言えば、これは牙を抜かれた記事だった。当時の批評では、日経の主要借入先の一つだった住友銀行の頭取から、直々の圧力があったからだとも言われている。

それでも河村は激怒した。住銀内に情報を漏らしている人間がいる、と。ここから河村は住友銀行との対立姿勢を深めていく。

一九九〇年九月十六日、三面の三段

第二弾が、この事件の本当の起点になる。一九九〇年九月十五日、土曜日の午後。日経の編集フロアは閑散としていた。

当時デスクに座っていた田村秀男のところに、大塚が原稿を持ってきたのだ。数字と事実だけを淡々と並べた原稿だったが、重大性はすぐわかった。田村の反応はこうだ。

「これは超弩級のスクープじゃないか。一面アタマにするから、解説を加えよ」

田村はそう指示した。ところが大塚は譲らず、「三面の段物でよい」と言う。一面トップにするには、事前に電話で上司へ報告しなければならない。そして大塚はこう言った。

「そしたらこの記事は潰されるよ」

編集幹部は、事件報道が住友銀行の信用不安につながることを恐れている。大塚は、編集委員として頻繁に米国出張し社内事情に疎い田村がデスクに座る日を選んで、この原稿を出稿してきたのだ。幹部に待ったをかけられればボツになりかねない。

結局、翌十六日付朝刊の三面に、三段見出しで全文が載った。「伊藤万グループ 不動産業などへの貸付金一兆円を超す 住銀、資産内容の調査急ぐ」。記事としては異例に長い、重大記事だった。

内容の根拠がすごい。イトマンについて調査・報告せよと命じられた住友銀行が、日本銀行に提出した資料に基づいて書かれていたのだ。そりゃ重い。

この記事の反響は大きかった。九月十六日以降、住友銀行以外の銀行はイトマンから急速に資金を引き揚げ始める。

ただし、他紙は無視した。三面の段物なら参考程度にとどめ、後日自社の特報として出せばいい、と考えるのが新聞業界の習性だからだ。一面アタマなら各紙は追わざるを得なかった。

田村は後年、これを「恥ずべきことに日経は事件の矮小化に努めた」と振り返っている。実際、九月二十日付の朝刊一面には、別の記者が書いた記事が載った。「伊藤万、債務三千五百億円圧縮 不動産売却、住銀も協力」という、火消しのような記事だ。

広報部を誰が仕切っていたのか

日経の報道が出ると、イトマン側はマスコミ対策を本格化させた。一九九〇年六月には、関西新聞の社長が企画監理本部副本部長として入社している。関西コミュニティの社長と許の秘書も、広報部員として入社した。

いずれも許の関連企業の人間だ。さらに暴力団組長の秘書が白昼堂々と伊藤の部屋を出入りするようになり、イトマンの広報部はさながらやくざが仕切っているように見えた、という証言が残っている。上場企業の広報部の話である。

金の話もえげつない。後の公判での検察の冒頭陳述によれば、河村は当初こうした対策に消極的だったが、伊藤の進言で情報を抑え込むことを決断した。経済誌に二回、提灯記事を書かせ、業務委託費の名目で二億円を支払った。

週刊誌と日経の記事を抑えるため、伊藤は不動産会社社長の小早川茂に対策を依頼し、その見返りが同社への十億円の融資。名目は神奈川県箱根町の山林での霊園開発。だがその山林は国立公園内にあり、開発の見込みなどなかった。

冒頭陳述には、こうもあった。週刊誌の記者を五百万円で懐柔して、記事の差し止めを工作した(差し止めは失敗している)。日経新聞には社内協力者を獲得し、報酬として千万円を支払った。

千万円を払って何を買ったのか。記事を書いている記者が誰なのか、という情報だ。つまり大塚将司の身元である。

一人の新聞記者の情報を集めるために、千万円を投じる。その先に何を考えていたのかは、書かないでおく。考えるだけで寒気がする。

日経は独自に社内調査を行い、一九九二年一月三十一日の記者会見で「社内協力者に該当する者はいない」「報道に圧力による影響はない」と発表した。二月十日には調査終了を公表している。

小早川は信義を盾に協力者の名前を明かさなかったため、冒頭陳述でも人物は特定されていない。真相は今も宙に浮いたままだ。

大塚自身は、スクープの後の一九九一年三月に証券部次長へ異動になり、事件報道の第一線から外れた。狡兎死して走狗烹らる、とはまさにこのことだ。

一九九〇年十月七日、天皇が退く

九月十六日の記事以降、事態は坂を転がった。住友銀行の内部でも動きがあり、部長会が要望書をまとめて、大阪にいた頭取の巽外夫に手渡している。

巽は腹をくくった。「部長会の総意なら、自分が磯田に退いてもらうよう進言するしかない」と。

一九九〇年十月七日、磯田一郎が会長辞任を表明する。辞任は十六日付だった。表向きは別の不祥事の責任を取る形だったが、誰もそう受け取らなかった。

十月二十四日、住友銀行グループの社長会「白水会」の席上で、巽は支店長逮捕の不祥事について深々と頭を下げている。十一月には、伊藤寿永光がイトマン常務を辞任した。

一九九一年一月一日、会社は商号を「イトマン株式会社」に変更し、企業イメージの刷新を図った。新年から心機一転、という体裁だ。だが、その元日の朝刊が、すべてを吹き飛ばした。

一九九一年元日、朝日新聞の大見出し

一九九一年一月一日、朝日新聞が絵画取引の疑惑をスクープした。見出しはこうだ。

「西武百貨店→関西新聞→イトマン 転売で二十五億円高騰」

「絵画取引十二点の実態判明、差額はどこへ流れた?」

具体的な絵の枚数と、具体的な差額の金額が入った。ここで初めて、一般の読者が事件の形を目で見たことになる。デパートから新聞社を経てイトマンへ、たった二段階で二十五億円上がるんだから、子どもでもおかしいとわかる。

この記事の影響で、イトマンと許側は、それまで関西新聞などを仲介した直接の絵画取引を、融資契約に切り替えた。関西新聞は以後、融資の返済に追われることになる。

同年四月十六日に休刊を告知し、十七日に休刊して、事実上の廃刊となった。廃刊号の一面には「住友(銀行)・イトマン問題 巨大金融のどす黒いワナ」「問題終結後再登場を期す!!」という大見出しが躍った。

そして四月二十三日、イトマンに納入した絵の代金を払えず、二度目の不渡りを出して事実上倒産した。自分が売った絵の代金を払えずに潰れる新聞社。字面がもう倒錯している。

一九九一年一月二十五日、イトマン社長の河村良彦が取締役会の緊急動議で解任された。電撃的だった。二月五日には、磯田一郎が住友銀行の取締役を辞任している。

一九九一年七月二十三日、大阪三十六度

大阪地検特捜部が事情聴取を始めたのが、一九九一年二月。四月二十四日には大阪府警と合同で強制捜査に入り、全国五十七か所を一斉に捜索した。

捜査は一時中断する。再開したのは六月四日で、許の関連企業への家宅捜索から始まった。翌五日には画廊、金融会社の本社、貸金業者などへと捜索が広がり、そこからイトマン関連企業と取引先へ進んでいく。

そして七月二十三日。大阪は三十六度あった。商法違反の特別背任容疑で、河村良彦、伊藤寿永光、許永中、イトマン前副社長、関西コミュニティ社長、許の秘書の六人が逮捕された。

九月九日、大阪府警が霊園開発名目の十億円について、不動産開発会社社長の小早川茂を特別背任容疑で逮捕。九月十七日には、大阪府民信用組合の過剰融資疑惑で伊藤を背任容疑で再逮捕し、同信組の理事会長も逮捕された。ここでイトマン事件の捜査はほぼ終わる。

逮捕された者、十八名。起訴された者、七名。一九九一年十二月十九日、大阪地裁で初公判が開かれ、冒頭陳述で検察は「戦後最大の経済事件」と述べた。

確定判決で認定されたのは、ここまでだ

ここからは慎重に線を引く。この事件について語られることの多くは、判決で認定された事実じゃないからだ。まず、判決で有罪と認定されたものを並べておく。

絵画取引について。許側の関連会社がイトマングループに対し、鑑定書を偽造するなどして時価の二倍から三倍の価格で絵画を売りつけ、イトマン側に損害を与えた、というのが罪状だ。窓口となった伊藤と許が、商法の特別背任罪に問われた。

損害額は大阪地裁の認定で約二百六十五億円。なお、二〇〇五年十月七日の最高裁第三小法廷の決定では、百八十六点・総額四百七十二億円の取引について約二百二十三億円の損害という数字が示されている。

対象の切り取り方が違うため数字に幅が出る。いずれにしても、二百億円台の損害が司法の認定だ。ここは動かない。

岐阜県の瑞浪ゴルフ場への融資について。開発許可も出ていない土地に十分な担保も取らずに融資したとして、河村と伊藤が特別背任。

鹿児島のさつま観光への融資について。イトマンに百四十六億円の損害を与えたとして、河村、伊藤、許が特別背任。

自社株取得について。一九八九年十二月から約一年、イトマンの資金で自社株を不正に取得したとして、商法の自社株取得禁止違反。検察は動機について、自らの保有株を増やして住友銀行からの圧力に対抗しようとしたと主張した。

立川株に絡む十億円について。一九八九年十月、イトマン系列の繊維商社「立川」の株を買い占めていた金融会社の会長と、河村は密約を結んだ。イトマン所有の立川株を二年後に譲渡するというもので、手付金として十億円を受け取ったとして、業務上横領に問われている。

箱根の霊園開発名目の十億円について。国立公園内で開発見込みのない山林の霊園開発を名目に融資したとして、河村、伊藤、小早川が特別背任。実態はマスコミ対策費とされた。

大阪府民信用組合の無担保融資について。同信組の資金で雅叙園観光に、一九八九年二月から七月まで限度額を超える二百七十一億円を融資したとして、伊藤と同信組理事会長が背任。

株券などの偽造について。伊藤が有価証券偽造罪、有印私文書偽造罪などに問われた。ゴルフ場の株券を名古屋市内の印刷所で偽造し、これを担保に百十億円を引き出したとされる案件だ。

三人は裁判で無罪を主張した。一審判決は一九九九年九月九日で、河村に懲役七年、伊藤に懲役十年。

許は保釈中の一九九七年十月に姿を消していたため、公判が遅れた。一九九九年十一月に東京都内のホテルで身柄を確保され、二〇〇一年三月二十九日に懲役七年六か月・罰金五億円の判決を受けている。保釈保証金六億円は没収された。

控訴審は大阪高裁で、河村と伊藤が二〇〇二年四月二十三日、許が同年十月三十一日に、いずれも棄却。そして二〇〇五年十月七日、最高裁の上告棄却で刑が確定した。事件発覚から十五年だ。長い。

伊藤はこの間の二〇〇三年、保釈中に別の脱税事件で証拠隠滅を指南したとして逮捕され、懲役一年六か月・執行猶予三年の有罪となっている。許は石橋産業から約百七十九億円の約束手形をだまし取った詐欺事件でも起訴され、二〇〇八年二月十二日に懲役六年が確定した。

報道ベースで語られてきたこと

一方で、判決になっていない話がこの事件には山ほどある。ここは区別して読んでほしい。

流出総額とされる「三千億円」は、判決の認定額ではない。イトマン本体から三百六十億円、全体では三千億円以上が闇社会に消えたという言い方が広く流通してきたが、これは報道と関係者の証言をつなぎ合わせた推計だ。「数千億円」「数兆円」という表現も使われてきた。

要するに、誰も正確には知らない。大塚将司自身がこう言っている。イトマン事件で流れた金は最終的に伊藤、許、そして暴力団に流れ込んだと言われているが、結局それがいくらなのかはわからない。いろんな会社が介在して、そのあいだで金が闇に消えていったからだ、と。

残ったのはイトマンの負債だけ、という形だ。損失処理についても報道ベースの数字で、イトマンが処理した損失が約千億円、残った不良資産約五千億円は住友銀行が受け皿会社で引き取ったとされる。この受け皿会社でどれだけの損失が出たかは、公表されていない。

反社会的勢力との関係についても、報道された範囲を超えない。伊藤が暴力団幹部とつながりのある人物だったこと。その組の関係者がイトマンに出入りしていたこと。住友銀行が平和相互銀行を手に入れる過程で、イトマンが資金を出したこと。

こうした事実関係は繰り返し報じられてきた。けれど、個々の資金の最終的な行き先を裁判所が認定したわけじゃない。

磯田一郎の長女が絵画取引に関わっていたとされることも、報道ベースだ。彼女も磯田も刑事訴追はされていない。この事件で銀行の側から刑事責任を問われた者は、実質的にいなかった。ここは押さえておいてほしい。

当事者たちの言い分

そして三つ目の層がある。関係者の一方的な主張だ。許永中は二〇一九年に自叙伝を出し、複数のインタビューにも応じている。

彼の主張はこうだ。「イトマン事件は、本来は私の事件ではありません」。検察が事件の構図を歪めた、と彼は言う。

絵画取引についての言い分も明快だ。最初にロートレックのコレクションの購入を頼んできたのは、イトマンの専務のほうだった。その後、イトマンは七千億円の貸出債権を持っているがリスクヘッジをしたいと言って、自分の絵画を担保にした融資を求めてきた、と。

だから「どこまで行っても私とイトマンの間の融資でしかない。しかも、イトマンから頼まれたことですよ」。そして「まぎれもなく無罪だったと今でも確信している」。

ただし、これは有罪が確定した人物の、確定後の主張だ。裁判所は三審を通じてこの主張を退けた。書き手として、彼の言い分を紹介はするが、追認はしない。

伊藤寿永光の側にも言い分がある。河村を紹介したのは磯田だ、という証言だ。一般には伊藤が河村と知り合ったのは仕手集団代表の失踪後とされてきたが、伊藤は失踪以前から関係があったと述べている。これも裏づけのない一方的な証言である。

さらに、事件の構図そのものを別の絵で描く見方もある。ノンフィクション作家の取材に対し、許は服役中にこう語ったとされる。これは暴力団同士の勢力争いに絡んだ排除の構図で、山口組が住友銀行本体に食い込むのを防ぐ動きがあった、という趣旨だ。

國重惇史が描いた「正義の内部告発者が銀行を救った」という物語とは、正面から矛盾する。どちらが正しいのか、裁判では明らかにならなかった。

証言その一――仕掛けた記者

ここからは証言を、それぞれの声で読ませてもらう。大塚将司の話を、彼自身の言葉の記録から拾い直すと、この事件は一本の電話ではなく一枚の地図から始まっている。

一九八八年十月十九日の深夜零時前から二時間余り、國重の自宅マンションで南青山の地図を広げられた。全部を買い上げるのは困難で、虫食いのままでは債務だけが膨らむ。記事にしてほしい、と國重は言った。

大塚は断った。株価と地価がこの状況では無理だ、記事にしても何のインパクトもない、と。その二年後、株価が反転して初めて記事は書けた。

だが、書けた記事は自分が望んだ形ではなかった。五月二十四日の第一報は牙を抜かれ、九月十六日の第二報は三面の段物扱い。それも自分から「三面でよい」と言ったのだ。

一面にすれば潰されるとわかっていたからだ。潰されない場所を選んで書く。それが、当時の日本で最大の経済事件を世に出すために、記者が取れた唯一の方法だった。

そして事件が動き出すと、彼は現場から外された。一九九一年三月、証券部次長。特ダネを取った記者が、その特ダネの取材班から消えるわけだ。

後に彼は日経の経営をめぐる内部告発で懲戒解雇され、裁判を経て二〇〇四年に和解で復帰している。事件から三十年後、彼は三冊目の本を出した。理由は正義というより執念だろう、と評した書評家がいる。たぶん、それが一番正確だ。

証言その二――告発したバンカー

國重惇史の側から見ると、風景はまったく違う。彼は東京大学を出て一九六八年に住友銀行に入り、大蔵省担当を長く務めた。将来の頭取候補と呼ばれた男だ。

イトマンの内情を知るようになったきっかけは、一九八五年にさかのぼる。住友銀行がイトマンを使って平和相互銀行を合併しようと画策した際、大蔵省担当としてその工作の最前線を任されたことだった、と彼は書いている。

合併を成功させるためにイトマン内部に深く入り込み、そこに情報源ができた。皮肉な話だ。汚れ仕事のために作った回路が、後にその汚れを暴く回路になった。

彼の手帳は一九九〇年三月二十日から始まり、事件が終結するまでの約二年、ほぼ毎日の動きが記録されている。銀行の役員専用の運転手まで情報源にした、と本人が明かしている。抜け目がない。

その彼が下した判断が、内部告発文書のばら撒きだった。「イトマン従業員一同」の名で、大蔵省銀行局長へ、頭取へ、日経の社長へ、他紙へ、週刊誌へ。手袋をして封筒を扱い、最後に拭き取った。

当初は「俺が決着をつける」と言っていた磯田のトーンが、だんだん変わってくる。そのとき彼は、「磯田さんに一刻も早く身を引いてもらうしかない」と腹を決めたという。

住友銀行の救世主、と後に呼ばれた。同時に、この文書が「怪文書紛い」として国会で取り上げられたことも事実だ。内部告発というものが持つ、正義と工作の両義性が、この一件には全部詰まっている。

彼自身のその後も平坦ではなかった。銀行を出て別の業界のトップに立ち、そこでの醜聞で失脚し、『堕ちたバンカー』というタイトルの本の主人公になった。なんとも皮肉だ。

証言その三――デスクの席にいた男

三人目は、一九九〇年九月十五日にデスクに座っていた田村秀男だ。彼の証言は短いが、重い。

原稿を見て「超弩級のスクープじゃないか」と思い、一面アタマにしろと指示した。しかし部下は三面でいいと譲らない。理由を聞けば、一面にすれば潰される、上に報告する義務があるからだ、と。

そこで彼が選んだのは、三面の三段見出しで全文を載せることだった。記事としては異例の長さ。妥協でもあり、抵抗でもある。

そして後年、彼はこう書いた。日経編集局は銀行界首脳の意向を優先し、バブル融資の反社会性や銀行界の歪んだ構造を正そうという気はなかった、と。恥ずべきことに日経は事件の矮小化に努めた、とも。

九月二十日付一面の火消し記事について、彼は「いわばマッチポンプ」と切って捨てている。住銀とイトマンの両首脳に依頼された別の記者が書いたのだ、と。

自社をここまで書く元デスクは、そういない。國重が指摘した「住銀や大蔵省の及び腰の対応がその後の空白の十年につながった」という言葉を、運命の記事を編集した者として長く反芻してきた、と彼は書いている。

証言その四――絵を運んでいた側

もう一人、美術の側にいた人間の証言を紹介したい。ある日本人アートディーラーの回想だ。

バブル期の印象派オークションには、日本人の画商が二百人規模で大挙して押しかけた。当時二十代だった彼は、その日本人参加者の座席表を作らされたという。座席表を作らないと誰が誰だかわからないほど来ていたわけだ。

彼はこう振り返る。美術品取引の業界にイトマンの名が知れわたったのは、一九八〇年代後半のことだ。この会社が突然、高額な美術品を買いあさっているという情報が広まり、美術商がこぞって作品を持ち込んだ。

彼自身、当時は西武系の高級美術品・宝飾品を扱う会社に勤めていて、イトマンとの大型取引に関わっていたという。そして、当時の空気をこう言葉にしている。

「今この絵画を買っておけば、半年後には三倍になっているかもしれない」。そんな認識が社会に広がり、闇社会の資金も美術市場に大量に流れ込んでいた、と。

売り手として現場にいた人間の言葉だから、重みがある。誰かが騙されたというより、市場に参加していた全員が、値上がりを前提に動いていた。イトマンはその市場で、いちばん派手に手を挙げていた買い手だったのだ。

総量規制、あるいは引き金――一九九〇年三月二十七日

なぜ一九九〇年に全部が壊れたのか。制度の側からも見ておこう。

一九九〇年三月二十七日、大蔵省銀行局長の土田正顕の名前で、不動産融資の総量規制が通達された。不動産向け融資の伸び率を、貸出全体の伸び率より低く抑えろという行政指導で、目的は地価高騰を鎮めること。

この通達には有名な穴があった。住宅金融専門会社と農協系金融機関が対象外だったのだ。結果として、農協から住専を経由して不動産へ金が流れ続け、後の住専問題を悪化させた。

規制は一九九一年十二月二十日に解除されるまで、約一年九か月続いた。効果は、狙いすぎるほど効いたんだよな。金融機関は全国規模で貸し渋りと貸し剥がしに走り、地価は反転して資産デフレが始まった。

日銀は一九八九年から利上げに転じていた。日経平均は一九八九年十二月二十九日の大納会で三万八千九百十五円の史上最高値をつけた後、翌一九九〇年の大納会には二万三千八百四十八円まで落ちている。一年で四割近い下落だ。

ここが肝で、バブルというのは膨らんでいる間、表と裏が仲良く共存できる。地価が上がり続けるなら、無理な地上げも、いい加減な担保も、いつか値上がりで帳尻が合う。だから誰も気にしない。

ところが膨張が止まった瞬間、この蜜月は終わる。値上がりを前提に組んだすべてが、そのまま損失になる。

イトマン事件が一九九〇年に表面化したのは偶然じゃない。株価が下がり始めたから大塚は記事を書けたし、地価が反転したから隠しきれなくなった。金融引き締めが引き金を引いたのだ。

同じ頃、他でも底が抜けていた

この時期に底が抜けたのは、イトマンだけじゃない。一九九一年には証券業界の損失補填問題が噴き出した。

大手証券会社が大口顧客の運用損を穴埋めしていたことが明るみに出て、経営陣が退く事態になった。営業特金という仕組みを通じた事実上の利回り保証が、業界の慣行として広く行われていたことがわかったのだ。

同じ一九九一年八月十三日、大阪で料亭の女将だった尾上縫が詐欺容疑で逮捕された。「北浜の天才相場師」と呼ばれ、数千億円を投機的に運用していた人物だ。

十二の金融機関から詐取した額が三千四百二十億円で、負債総額は四千三百億円。個人としては日本で史上最高額だった。一九九〇年末時点の負債は七千二百七十一億円まで膨らみ、一日あたりの金利負担が一億七千百七十三万円だったという。

この件では東洋信用金庫の元支店長らが架空の預金証書の作成に関わり、同信金は経営破綻して、一九九二年十月一日に三和銀行に救済合併された。日本興業銀行も、一九八九年時点で融資残高五百八十六億円に達していた。

その興銀は、一九九一年八月に架空証書の話を聞かされた直後、自行の債権三十三億円を売り抜けて回収したとされる。尾上には一九九八年三月に大阪地裁で懲役十二年の判決が出て、二〇〇三年四月に確定した。

京都でも同じ構造が動いていた。近畿放送、現在の京都放送だ。創業家が残した簿外債務の処理に絡んで裏社会に接近し、ノンバンクから百四十六億円を借り入れて、本社の建物、土地、放送機材にまで根抵当権を設定された。

一九九一年二月十九日の経営会議の議事録が残っていて、監査役だった元検事がこう詰め寄っている。「通帳を出してくださいよ。新聞記事によると、大阪府民信用組合から借りた百億円を、百四十六億円の中から返しておるんでしょ」。

役員たちはこのとき初めて、金がゴルフ場開発ではなく別の借金返済に消えていたことを知った。この会社は一九九四年に会社更生法を申請している。

構図がまったく同じなのがわかるだろうか。値段の検証できない資産か、あるいは開発見込みのない土地を材料にして、簿外の債務を先送りする。担保を積み、金は途中で消える。

イトマン事件は特殊な事件ではなく、あの数年の日本でいちばん大きく現れた症例だった。正直なところ、そう見るしかない。

会社が消えた日

イトマンはどうなったか。一九九三年四月、住友金属工業の子会社である住金物産に吸収合併された。

一八八三年の創業から百十年。心斎橋の洋反物屋から始まった会社が、絵とゴルフ場と地上げの果てに消えた。

住友銀行はその後、不良債権の処理に追われ、二〇〇一年にさくら銀行と合併して三井住友銀行になる。イトマン事件は、日本のメガバンク再編の遠い引き金の一つになった。

余談のようで余談でない話を一つ書く。一九九四年九月十四日の早朝、名古屋市千種区のマンションで、住友銀行名古屋支店長が射殺された。この支店は伊藤寿永光をイトマンに紹介した経緯に関わっていたとされ、イトマン関連を含む多数の不良債権を抱えていたところだ。

同年十一月十三日に、拳銃を所持していた男が銃刀法違反で逮捕され、当初は犯行を供述し、銃の線条痕も一致した。だが犯行時刻の矛盾など複数の理由で、立件は断念された。

男は後に「事件について知っているが言えない」と口を閉ざしたという。事件は二〇〇九年九月十四日に時効を迎えた。

イトマン事件との関連は報道の域を出ない。だが、この時期の日本でこういうことが起きていた。そこだけは動かない。

なぜ、今も語られるのか

三十五年経って、なぜこの事件がまだ語られるのか。理由は三つあると思う。

一つ目は、企業統治というものが、この事件で完全に空振りしたからだ。イトマンは東証一部と大証一部の上場企業で、取締役会があり、監査役がいて、監査法人がつき、株主総会もあった。

それらが全部あった上で、地上げ屋が四か月で常務になり、開発許可のない山林に数百億円が出ていき、時価の三倍の絵が百八十六点買われた。制度が機能しなかったのではない。制度はあったのに、誰も使わなかったのだ。

二つ目は、メインバンク制の限界を露骨に見せたからだ。日本の金融は長く、メインバンクが融資先の経営を監視するという建前で回ってきた。

イトマンにとってのメインバンクは住友銀行で、社長は住友銀行から来た人間だった。監視するどころか、監視される側の人事権を握っていたのがメインバンクなのだ。

しかも、その社長を送り込んだ会長が河村を庇護したことで、担当行員が口を出せなくなった。他行は住友銀行を見て貸し、誰も会社そのものを見ていなかった。この構造が、後の不良債権問題の原型として繰り返し引用される。

三つ目は、値段の検証できない資産という発想が、まったく古びていないからだ。絵画は極端な例だが、値段の根拠が曖昧な資産を高値で買い、それを担保にして金を回し、損失を先送りする。

この形式そのものは、その後の時代にも形を変えて何度も現れた。イトマン事件はその原型として、いまだに参照され続けている。

そして最後に、この事件が結局のところ「解明されなかった事件」だからだ。逮捕は十八人、起訴は七人で、有罪は確定した。しかし、消えたとされる三千億円がどこへ行ったのかは、裁判では明らかにならなかった。

銀行の側から刑事責任を問われた者は、実質的にゼロ。千万円を受け取ったとされる新聞社の協力者も、特定されないまま幕引きになった。解けなかった問題は、いつまでも問い直される。イトマン事件が今も語られるのは、そういうことだ。

騙されたのではなく、わかっていて買った

ここからは、本編で書ききれなかった角度をいくつか足しておく。まず、この事件を語るときに一番よく間違えられる点から潰しておきたい。

「イトマンは騙された」という理解は、司法の認定と食い違う。特別背任という罪は、会社のためにやったつもりが失敗した、では成立しない。任務に背いて、会社に損害を与えることを認識したうえで行為をしたときに成立する罪だ。

だから確定判決が認めたのは、河村と伊藤が「これは会社に損をさせる取引だ」とわかっていながら実行した、ということになる。被害者面のできる話じゃない。

では、なぜわかっていながらやったのか。この事件の一番の急所はそこにある。答えは、決算だ。

イトマンは石油と不動産で巨大な穴を抱えていたし、その穴を埋める実業上の手立てはなかった。しかし河村には、住友銀行に対して「うちは大丈夫です」と言い続ける必要があった。そうしないと社長の椅子が飛ぶ。実際、彼は解任の瀬戸際にいた。

ここで、値段の検証できない資産が効いてくる。損失は、資産に姿を変えれば消える。厳密には消えないが、決算書の上では消えてしまう。

百億円の穴が空いたなら、百億円の絵を買って資産計上すればいい。その絵に本当は十億円の価値しかなくても、鑑定書に百億円と書いてあれば、監査の目を当面はすり抜ける。

土地なら路線価があるし、株なら市場価格がある。絵にはそれがない。だから絵だったのだ。

構図をもう一段引いて見ると、もっと悪い。イトマンは絵を買うために金を借りていて、その金の出どころは銀行だ。銀行は上場企業の決算書と担保を見て貸す。

決算書がきれいなのは絵を高く計上しているからで、担保になっているのはその絵だ。絵の値段を根拠にして、絵を買う金が出ている。これを循環という。

バブルの正体は要するにこれで、資産価格が上がり続けている限り、循環は破綻しない。うまくできている、と感心している場合じゃないけどね。

金庫で眠った名画たち

止まった瞬間に何が起きるかは、数字が全部語っている。日本の美術品輸入額は一九九〇年の約四十九億六千万ドルから、一九九一年に約十一億二千万ドル、一九九二年には約五億七千万ドルまで落ちた。二年で九割減。

印象派の価格はピークから半分以下に沈み、サザビーズとクリスティーズの取扱高は一九九〇年から一九九二年で四割から五割縮んだ。世界の美術市場で二枚に一枚を落としていた買い手が、ある日いなくなったのだから当然だ。

では、担保に取られた絵はどうなったか。ここが本当に気の滅入る話で、二〇〇三年の回顧記事では、最大で一万点、総額約一兆円分の絵画が日本の金融機関の金庫に眠っていたと推計されている。

売れば損失が確定するから、売らない。買値の二割程度の価値しかない作品も多かったという。

一九九七年にはこの問題を扱ったテレビドキュメンタリーも作られた。担保として金融機関の手に渡った絵が、一度も公開されないまま、購入額の半値で密かに海外へ売られていく様子が追われている。

日本人が世界中から買い集めた名画の相当部分は、美術館に飾られることもなく、金庫の中で不良債権の一部として何年も過ごしたわけだ。文化の話をしているつもりが、いつのまにか会計の話になっている。これが絵画バブルの後始末だ。

小さく載せた記事が、いちばん効いた

次に、報道の側の話をもう少し掘る。この事件が報道史の題材として繰り返し取り上げられるのは、スクープが出たからではない。スクープが出たのに、小さく扱われたからだ。

考えてみてほしい。日本最大の経済紙が、日本最大の銀行の系列商社が一兆円を超える貸付金を抱えているという話を、日銀提出資料に基づいて掴んだ。これを一面トップにしない理由は、報道の論理には存在しない。

存在するのは、取引の論理だけだ。事件報道が銀行の信用不安につながるかもしれないし、その銀行はうちの主要借入先でもある。だから小さくする。

記者はそれを見越して、社内事情に疎いデスクが座る土曜日を選んで原稿を出し、自分から「三面でいい」と言った。潰されるくらいなら小さく載せる。この判断は、記者として正しい。

同時に、正しい判断をしなければ記事が出せない編集局というものが、そこにあったということでもある。笑えない話だ。

そして皮肉なことに、その小さな扱いこそが結果を出した。三面の三段でも、日銀提出資料に基づく記事の破壊力は本物だったわけだ。九月十六日以降、住友銀行以外の銀行はイトマンから一斉に資金を引き揚げた。

銀行は他の銀行の動きを見ている。一行が引けば全部が引き、会社は資金繰りで死ぬ。事件はそこから一気に動いた。

物語を作った二人

もう一つ、この事件で報道が試されたのが「情報源との共犯関係」という問題だ。國重は住友銀行の現役取締役級の人間として、記者に情報を流し、同時に内部告発文書を大蔵省とマスコミに撒いた。

記者はその情報で記事を書いた。二人はタッグを組んでいて、記者は後に「國重と心中してもいい」と言っていたと伝えられる。

これを報道倫理としてどう評価すべきなのか、簡単には答えが出ない。結果として事件は表に出て、経営者は退き、捜査が始まった。公益はあった。

しかし同時に、記者が特定の内部者と組み、その内部者の社内政治上の目的に沿った形で記事が出た、という面も否定できない。國重の目的は磯田を退かせて住友銀行を救うことで、それは達成された。

その一方で、住友銀行の側から刑事責任を問われた者はいなかった。事件は商社の事件として処理され、銀行は生き延びたわけだ。

だから、後年になって別の関係者から「これは別の構図の事件だった」という主張が出てくることにも、耳を貸しておく価値はある。有罪が確定した人物の主張だから真に受けろ、とは言わない。

ただ、この事件について世に流通している物語の骨格は、内部告発者と記者の二人によって作られたものだ。そこは頭に入れておいたほうがいい。物語を作った人がいるということは、物語に入らなかった要素があるということなんだよな。

事件が残した宿題

制度への影響も整理しておく。イトマン事件そのものが直ちに法改正を生んだわけじゃない。しかしこの事件が突きつけた問題群は、その後の十年でひとつずつ制度化されていった。

金融機関の不良債権の開示、株主代表訴訟の実効性、監査役の権限強化。社外取締役の導入に、反社会的勢力の排除条項、企業のコンプライアンス部門の設置。どれも、イトマン事件で「なかったせいで起きた」ものばかりだ。

とりわけメインバンク制については、この事件が象徴的な墓碑になった。融資先の経営を銀行が見る、という日本型ガバナンスの前提は、実は「銀行が人を送り込む」ことと表裏だった。

そして送り込んだ人が暴走したとき、送り込んだ側には止める動機がない。銀行にとっては、系列先が不良債権を引き受けてくれるほうが好都合だからだ。

監視者と受益者が同じ人間なら、監視は機能しない。当たり前の話だが、当たり前が三千億円で証明されたわけだ。

男たちのその後

人の話も書いておく。河村良彦は懲役七年が確定し、二〇一〇年一月十二日に亡くなった。八十五歳だった。

公判中の一九九九年には、大阪府知事選に無所属で立候補し、九人中八位で落選している。何を思って出たのかはわからない。

ただ、商業学校を出て夜間大学に七年通い、ノンキャリアから都市銀行の常務まで上がった男だ。倒産寸前の老舗商社を二年で立て直した男の最後としては、あまりに寒々しい。

もし彼が一九七〇年代の再建だけで退いていたら、日本の経営史に名を残す再建屋として扱われていたはずだ。実際、その二年の仕事は本物だった。問題は、成功が続かなくなったときに、彼が「見せかけの成功」を選んだことだ。

そして彼にそれを選ばせたのは、彼を庇護した銀行の会長であり、口を出せなくなった担当行員であり、住友銀行を見て貸した他行だった。値段のわからない絵を高く買ってくれる会社を歓迎した美術市場も、その一つだ。誰か一人が悪いという話じゃないから、余計に始末が悪い。

磯田一郎は会長を辞し、取締役も辞して、一九九三年に亡くなった。刑事責任は問われていない。

「向こう傷は問わない」という彼の言葉は、収益を取りに行く現場を鼓舞するための言葉だったはずだ。けれど結果として、傷の中身を誰も検証しない組織を作った。

伊藤寿永光は懲役十年。許永中は懲役七年六か月と罰金五億円に、別件の懲役六年が加わり、通算でおよそ三千日を獄中で過ごした。二〇一二年に本人の希望で韓国へ移送され、二〇一三年九月三十日に仮釈放、二〇一四年九月に刑期満了となっている。

絵は、値段を聞かれても答えない

そして会社は、ない。イトマンという名前は一九九三年に消え、関西新聞も一九九一年に消えた。東洋信用金庫も消えたし、平和相互銀行はもっと前に消えていた。

この事件の周りで、いくつの組織が名前ごと消えたか数えていくと、だんだん怖くなってくる。絵は残った。金庫の中に、誰も値段のわからないまま。

バブルというのは、資産価格が上がりすぎる現象のことではないと思う。値段が本当かどうか、誰も確かめなくなる現象のことだ。確かめない人が増えるほど値段は上がり、上がるからますます確かめない。

イトマン事件は、その回路の一番奥まで行った人たちの記録だ。三千億円が絵になって消えた、というのは比喩じゃない。実際に、絵になったのだ。そして絵は、値段を聞かれても答えない。

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