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磐井の墓には裁判の場面が立っていた、岩戸山古墳の石人と最期が二つある王の話

北東の角に、石で造った裁判所があった

福岡県八女市の丘の上に、大きな前方後円墳が横たわっている。名は岩戸山古墳。円い部分と四角い部分をつないだ鍵穴の形をしていて、墳丘の長さは百三十五メートルほどある。まわりの堤まで入れれば全長は百七十メートルを超え、北部九州で最大の古墳に数えられる。築かれたのは六世紀の前半で、須恵器という硬い焼き物の年代から、そう読まれてきた。

その墳丘の北東の隅に、一辺が四十数メートルの四角い区画がくっついている。別区と呼ばれる場所だ。ここが、岩戸山古墳をただの大きな墓から、まったく別のものへ変えた。八世紀に編まれた『筑後国風土記』の逸文に、そっくり同じ場所の描写が出てくるからだ。逸文とは、別の本に引かれて断片だけが残った文章のことをいい、原本は失われている。

風土記は、八世紀に朝廷が各国へ命じて作らせた報告書で、土地の産物や地名の由来、古老の伝えが書き込まれている。完全な形で残るものは少ない。筑後国の分も、まとまった本は失われ、断片だけが伝わる。その断片は、鎌倉時代の終わりごろにまとめられた『釈日本紀』という日本書紀の注釈書に引かれて、いまに届いた。磐井の墓の話は、その中にあった。

逸文によれば、墓の東北の角には、一つの区画がある。その区画の名は衙頭といい、政所、つまり役所のことだという。中には石の人が一体、ゆったりと立っていて、これを解部と呼んだ。解部とは裁きを扱う役人の名で、のちの律令制の刑部省にも、同じ名の官人が置かれたと伝わる。役所の言葉で、役所の場面を作ったわけだ。

その解部の前には、裸の石の人が一人、地面にぴたりと伏せている。名は偸人、つまり盗人だ。この男は、生きていたときに猪を盗んだという。いままさに、罪の重さを決められようとしているところで、石の人は、裁かれる瞬間をそのまま固めて立っている。立つ者と伏せる者の違いが、石の姿だけで、裁く側と裁かれる側の違いとして伝わってくる。

そばには石の猪が四頭いて、盗まれた品、つまり贓物と名づけられている。ほかに石の馬が三頭、石の殿が三間、石の蔵が二間ある。風土記の書き手は、これだけの数を一つずつ数えて、墓の隅の様子を細かく書き留めた。解部と、偸人と、四頭の石の猪。役者はそろい、墓の隅に、石で作った法廷が開かれていたことになる。

風土記を書いたのは八世紀の役人だが、書かれた古墳は実在した。位置も大きさも、いまの岩戸山古墳に重なる。別区が墓の北東の角にあるという場所まで、風土記の記述とぴたりと一致するのだから、見過ごしようがない。この一致が、岩戸山古墳を磐井の墓とする有力な根拠になり、古墳と文献を結ぶ強い手がかりとして扱われてきた。以来、岩戸山古墳は、磐井の墓として語られている。

この別区を、磐井の裁きの権限を人々に見せる場とみる理解がある。墓の主が生きているあいだに何を握っていたのかを、石で並べて示したという読み方だ。ただ、これはあくまで一つの読み方にすぎず、石の人たちが何のために立てられたのかを、文字は教えてくれない。まあ、石は黙っているものだ。答えはない。

石の人は百を超えて出てきた

岩戸山古墳からは、石で作った表飾が、墳丘や周りの堤、別区を合わせて百点を超えて見つかった。人の姿、動物の姿、器物の姿。大きく三つに分けられ、基本は実物大で、材料には阿蘇の溶結凝灰岩が使われている。阿蘇の大きな噴火で流れ出た火砕流が固まった岩で、石の中では彫りやすい部類に入る。気の遠くなる手間をかけて、人と同じ大きさの石の像を、一つずつ彫り上げたことになる。

石人の中には、平たい靫の形をした石に、人の顔を彫ったものがある。靫とは、矢を入れて背負う武具の一つだ。片手を挙げたような姿の石人もあり、立体というより、板に近い形をしたものが、岩戸山には数多くある。石の人形と聞いて思い浮かべる、丸みのある像とは、だいぶ印象が違う。板のような石の人。

器物の石には、盾や靫、刀の形をしたものがある。風土記は、石の盾を六十枚と数えた。戦に出る人の武具を、石で写して墓のまわりに並べた格好になる。人の石と武具の石が入り混じって、丘をぐるりと取り囲んでいた。どれも、戦のための道具だ。

埴輪の代わりに石の人を立てる、それが八女の古墳の流儀だった。風土記は、石人と石盾が各六十枚、交互に陣を組んで墓の四面を囲んでいたと書く。出土した石製品が百を超えるのだから、風土記が描いた景色は、ほら話どころか、実際の姿に近かったことになる。考えてみてほしい。陣を組んだ石の人が、丘の上から四方をにらんでいた。

発見の話には、天気が絡む。一九六四年の夏、集中豪雨のせいで、墳丘の一部が崩れ落ちた。すると石刀や石靫が、散らばった姿で土の中から現れたという。風土記に書かれたとおりの石の品々が、土砂といっしょに流れ出て、墳丘のあちこちに転がっていた。長いあいだ土の下にいたものが、雨で姿を見せた。

戦後の開墾で畑を広げる最中にも、石の人や石の馬は数多く見つかっている。ところが、その大部分は運び去られたという。壊れた状態で出てきたものも多かった。いま別区の東の端には、本物ではなくレプリカが据えてあり、石の人が立っていたころの並びの様子を、いまに伝えている。見た目は同じでも、土から出たものとは違う。

本物は、近くの岩戸山歴史文化交流館に収められた。丘の上の石の人は写しで、本物は屋根の下にいる。墳丘の上には、大神宮の祠と石碑が建っていて、古い墓の上に、のちの世の人々の祈りが、静かに重なっている。石の人が立つ丘は、いまも人の手で守られている。ここは国指定の史跡。

筑後から肥後にかけて、いまの福岡県南部から熊本県のあたりには、石の人や石の馬を墓に立てる習わしがあった。近畿の古墳に並ぶ埴輪は、土を焼いて作られる。こちらは、石を彫って作る。同じ墓のまわりを飾る品でも、土地によって素材が変わるのだから、墓の飾り方には、その土地の流儀が出る。

高さ七丈、周り六十丈と書かれた墓

風土記の筆は、墓の大きさにまで及ぶ。高さは七丈、周りは六十丈。墓の領域は、南北が各六十丈、東西が各四十丈と記され、数字がやけに具体的で、墓の姿を思い浮かべられるほどだ。丈は昔の尺で、いまのメートルにそのまま直すのは難しいから、念のため断っておく。寸法つきの墓だ。

場所の書き方も細かい。上妻県の南二里に、筑紫君磐井の墓がある。上妻は、いまの八女のあたりの昔の呼び名で、のちに上妻郡という郡の名にもなった。八女古墳群は、八女丘陵と呼ばれる高まりに、いくつもの古墳が連なる一帯をいい、磐井の墓は、その丘の一つに築かれた。

墓の主は、生きているうちにこの墓を造らせたのだ。寿墓と呼ばれるものだ。風土記によれば、磐井が生前に墓を築いているさなか、官軍が急に動き出して攻めかかろうとしたため、墓は放棄されたという。石の人が並ぶ墓は、持ち主の戦いの途中で、置き去りにされた。

では、岩戸山古墳が本当に磐井の墓なのか。長いあいだ、本命は別の古墳だった。同じ八女古墳群にある石人山古墳で、福岡県八女郡の広川町にあり、墳丘の長さは百七メートルほどだ。築造は五世紀の前半から中ごろにあたり、岩戸山古墳より、ずっと早い時期に造られた。

石人山古墳に伝わる石人は、たった一体。武装した姿で、高さは約一・八メートルあり、古墳の名もこの石人に由来する。国の重要文化財に指定されている。石棺の蓋には直弧文や重圏文が浮き彫りにされ、丹の色が塗られていて、最古期の装飾古墳として重んじられている。

一体の石人山と、百を超える岩戸山。数の差は、そのまま時代の差に重なる。石人山のほうが数十年から百年あまり古く、八女の石人の流儀は、世代を重ねるうちに少しずつ大きく育っていったわけだ。石の人は、一体から百を超える数へ増えた。

一九五六年、昭和三十一年に、考古学者の森貞次郎が、風土記の記述と見比べたうえで岩戸山古墳を磐井の墓と見た。風土記の記す大きさに合うこと。北東に衙頭にあたる区画がつくこと。この二つが決め手になり、岩戸山古墳は通説の座に着いた。石人山古墳は、磐井の祖父の墓かもしれない、という見方に落ち着いた。

史跡の指定も、岩戸山のほうが遅い。石人山古墳が国の史跡になったのは、昭和十三年、一九三八年のことだ。岩戸山古墳は昭和三十年、一九五五年の十二月二十三日に指定された。のちの一九七八年には、どちらも八女古墳群として一つにまとめて指定し直され、丘の上の古墳が一続きの史跡になった。

墓の中身は、まだ分かっていない。電気探査では、横穴式石室とみられる構造が確かめられたが、内部の主体は明らかになっていない。石室の中身は、まだ誰にも確かめられていない。磐井の墓と呼ばれる古墳の奥には、掘られていない部分が、そのまま残っている。

六万の兵が筑紫へ着かなかった

『日本書紀』は、磐井の最期を継体天皇の二十一年と二十二年に置く。書紀の紀年で、継体の在位は五〇七年から五三一年。磐井の戦いは、西暦に直せば五二七年から五二八年のあたりで、教科書では五二七年の出来事として覚えた人も多い。岩戸山古墳の築造は六世紀の前半で、時期は重なる。

継体天皇は、地方から迎えられた大王だった。書紀は、継体を応神天皇の五世の孫と記し、都から遠い越前の地にいたところを迎えられたと書く。大和に入ったのは、即位から二十年近くあとの継体二十年のことで、その翌年に磐井の戦いが起きる。西暦では五二六年にあたる。都入りしたばかりの王権に、筑紫から火の手が上がった。

二十一年の六月三日、近江毛野が六万という大軍を率いて、朝鮮半島南部の任那へ向かうことになった。書紀は、この出兵を磐井が止めたのが、戦いの始まりだったと書く。書紀の中で、磐井は筑紫国造と呼ばれる。六万という数字は、書紀の書いたとおりだ。

書紀は磐井を、前から謀反を企てていた男として描く。事の成りにくさを恐れ、機会をうかがううちに、年月ばかりが過ぎたという。それを知った新羅が、こっそり賄賂を磐井に送り、毛野の軍を防ぐよう勧めたと、書紀は筑紫の外の国までからめて語る。古事記の短い記事に、賄賂の話は出てこない。

磐井は火の国と豊の国を押さえ、海の道をふさいだ。火の国は、のちの肥前と肥後にあたる。豊の国は、のちの豊前と豊後。外から来る朝貢の船を、自分のもとへ誘い込み、毛野の前に立ちふさがって、軍を通さなかったと書紀は言う。

書紀には、磐井が毛野に放った言葉も載る。いまはお前も使者だが、昔は私の仲間だった。肩や肘をすり合わせ、同じ器で飯を食った間柄ではないか。どうして急に使者になって、昔の仲間である私を、お前の前にひれ伏させようとするのか。磐井はそう言い放って、毛野の軍を通さなかったという。

同じ器で飯を食った。この台詞が磐井の口から本当に出たのかは、確かめようがない。書いたのは、勝った側の歴史書だ。ただ、勝者の史書が、敵の口にこんな言葉を言わせている点は、動かない。断っておくが、これは書紀の筋書きの話で、実際のやり取りの記録を、そのまま写したものではない。

毛野のその後も、書紀に載る。任那での振る舞いを咎められて召し返され、帰る途中の対馬で病に倒れたという。磐井の前で足止めされた将軍は、のちに任那でも咎めを受け、そのまま都へ戻ることなく亡くなった。磐井を斬ったのは、毛野ではなく別の将軍だ。

麁鹿火に、斧と鉞が渡された

毛野の軍が進めなくなり、朝廷は新しい将軍を立てることにした。書紀によれば、大伴金村らが、物部麁鹿火の右に出る者はいないと推した。金村も麁鹿火も、大連と呼ばれる最高位の臣だ。人選は、これで決まる。継体天皇はこの推薦を受け入れ、麁鹿火を筑紫へ送って磐井を討たせることに決めた。

天皇は麁鹿火に、斧と鉞を授けた。斧と鉞は、軍を預けるしるしだ。長門から東は自分が治める、筑紫から西はお前が治めよ。賞も罰も思うままに下せ、いちいち報告するな、という場面を書紀は載せている。九州の戦の行方を、ただ一人の将軍に丸ごと預けるという、思い切った任命だったことになる。

書紀の日付を並べてみる。毛野の出発が二十一年の六月、御井の戦いが二十二年の十一月。間は一年と五か月ほどだ。その間に、朝廷は将軍を選び、軍を整えて、筑紫へ向かわせたことになる。戦いは、一朝一夕の出来事ではなかった。

二十二年の十一月十一日。麁鹿火の軍は、筑紫の御井郡で、磐井の軍とぶつかった。書紀は、旗と鼓が互いに見えるほど両軍が近づき、土ぼこりが入り交じる激しい戦いになったと、短く書く。麁鹿火は磐井を斬り、境を定めた。戦いの描写は、それだけだ。

御井郡は、いまの福岡県三井郡と久留米市の中心部にあたる。岩戸山古墳のある八女から、遠くはない。戦場と墓は、同じ筑紫の内に収まる。地図の上では、そういう距離だ。だからこそ、斬られたはずの王が山へ逃げたと語る風土記との食い違いが、いっそう気になってくる。

十二月になると、磐井の子の葛子が、糟屋の屯倉を朝廷に差し出した。書紀によれば、父の罪で自分も殺されることを恐れ、死罪を贖いたいと願い出たのだ。屯倉とは、朝廷が直接治める土地や施設のことで、そこで作られた米や産物は、朝廷の蔵に納められる。父を斬られた子は、土地を渡して命を買った。

糟屋は、博多湾の東にあたる土地の名で、のちに糟屋郡という郡の名にもなり、海に近い位置にある。葛子が差し出した土地、糟屋の屯倉。そこは、朝廷の手が海のほうへ伸びる足がかりになった。筑紫の外交の窓口に、ヤマトが一歩近づいたことになる。

古事記は、ずっと短い。筑紫の君石井が、天皇の命に従わず、無礼が多かった。そこで物部荒甲の大連と大伴金村の連、つまり書紀の麁鹿火と金村にあたる二人を遣わし、石井を殺させた。それだけだ。ちなみに、名前も磐井ではなく石井と書かれていて、読みはどちらも同じ「いわい」になる。

同じ王が、山の中で死んでいた

風土記は、書紀と違う最期を書く。官軍が急に動き出し、攻めかかろうとした。磐井は勝てないと見て、ひとりで豊前国の上膳県へ逃げ、南の山の険しい峰のほとりで、亡くなったという。戦場で斬られた書紀の磐井とは、まるで別の終わり方だ。山で終わった王。

書紀では、磐井は筑紫の御井で斬られた。風土記では、ひとり山へ逃げて終わった。一人の王の最期が、二つの書物で食い違う。どちらかが間違いなのか、どちらにも何かの事実の核があるのか。正直なところ、分からない。

三つの書物が成った時期も、押さえておく。古事記は七一二年、日本書紀は七二〇年に出来上がった。風土記は、八世紀に朝廷が各国へ命じて書き上げさせたものだ。書紀が磐井の死を置く五二八年のあたりから数えて、どの書物も、二百年近くあとの文章になる。遠い昔の話だ。

書き手の立場も、それぞれ違う。日本書紀は、朝廷が国の正史として仕上げた書物だ。古事記は、天皇家の系譜と物語を語る。風土記は、各国の役所が土地の事情を報告したもので、古老から聞いた話も混ざる。同じ戦いを、三つの別々の目で見ているわけで、見る位置が違えば、語られる姿も違ってくる。

磐井という名の書き方も、書物ごとに違う。書紀は筑紫国造磐井、古事記は筑紫君石井。風土記は、筑紫君磐井。名前も肩書きもそろわないが、どの書物も、同じ一人の人物を指している。呼び名の違いは、書き手の立場の違いを映すのかもしれない。

風土記の続きは、さらに生々しい。官軍は磐井の行方を見失った。怒りの収まらない兵たちは、墓に立つ石の人の手を打ち折り、石の馬の頭を叩き落としたという。手を折られた石の人と、頭を落とされた石の馬。逃げた王の代わりに、残された石が、怒りをぶつけられた。

土地の古老は、こんな言い伝えを残したらしい。上妻県に重い病が多いのは、あのときの乱暴が原因なのだろうか、と。石の人や馬を壊した報いを、土地の人は、病の多さに結びつけて語ったわけだ。風土記は、その言い伝えを、そのまま書き留めた。

岩戸山の石の人や馬は、実際に壊れた状態で、たくさん見つかっていて、風土記の話と土の中の姿はよく重なる。壊れ方の理由までは、土は教えてくれない。官軍の仕業だったのか、のちの世の損傷なのか。そこから先は、読む側の判断になる。

書紀の磐井は、機会をうかがって謀反を企てる男だ。風土記の磐井は、自分の墓に石の人と石の法廷を並べさせ、官軍が来ると、ひとり山へ逃げた王として描かれる。同じ王の、二つの顔。同じ人物の姿が、書く側の立場でここまで変わる。勝った側の筆と、土地に残った伝えとの、温度の差がそこにある。

乱と呼ばれた戦の中身

磐井の戦いは、長いあいだ磐井の乱と呼ばれてきた。朝廷に逆らった地方豪族の反乱、という見方だ。書紀の筋書きは、朝廷に背いた磐井を、天皇の命を受けた将軍が討つという形で、その見方をそのまま支える。書いたのが勝った側だという点は、頭に置いておきたい。

近年は、乱とは呼ばず、戦争として捉える研究が進んでいる。ヤマトの王権と磐井との間で、朝鮮半島への対応の方針が食い違い、そこから起きた戦いだという理解だ。鎮圧の話に収まらず、二つの勢力のぶつかり合いと読み替える。呼び名が変われば、見える景色も変わる。ここが、見方の分かれ目だ。

岩戸山古墳の規模と石製品から、磐井は筑紫に独自の政権を築いていたと推定される。北は玄界灘、南は有明海まで及ぶ勢力だ。有明海の沿岸は、朝鮮半島との対外交渉の窓口の役割を果たしたとする説があり、その窓口を握ることが争点だったという。外交の権限を、どちらが握るか。争点は、そこだ。

戦いのあと、ヤマトは北部九州に屯倉を次々に置いた。書紀は宣化天皇の元年、五三六年に、那津の口に官家を整えたと記す。筑紫、肥、豊の三国に散らばった屯倉の穀を、そこへ集めるためだったという。博多湾に近い那津は、のちに大宰府へつながる、外交と軍事の拠点として整えられていく土地だった。

このあとの書紀には、筑紫や豊や火の国の各地に、屯倉が置かれた記事が続く。安閑天皇の代のことだ。磐井が押さえた国々に、朝廷の直轄地が点々と生まれていった。九州の北から中ほどまで、朝廷の拠点が連なる景色。戦いの結果は、地図の上にも残った。

外交の窓口は、筑紫の君の手から、ヤマトの手へ移っていった。葛子が差し出した糟屋の屯倉も、その流れの中にある。石の人が立ち並ぶ丘は、戦いのあとも、そこにあった。別区のレプリカは、いまも墳丘の東の端に並んでいる。

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