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ジェフリー・ダーマー事件――逃げ出した少年を、警察は殺人鬼の手に返した

ミルウォーキーという街の名前を聞いて、まずビールを思い浮かべる人と、まず一九九一年七月の匂いを思い浮かべる人がいる。後者にとってこの街は、いまだに終わっていない話だ。

十七人が殺され、そのうち何人かは、助かるはずだった。助かるはずだったのに助からなかった。その一点が、三十年以上たっても消えない棘として残っている。

午後十一時三十分、二十五番通りの交差点で起きたこと

一九九一年七月二十二日の夜、ミルウォーキー市警のパトカーが街の北側を流していた。乗っていたのはロルフ・ミューラーとロバート・ラウス。ベテランと呼んでいい二人だ。時刻は午後十一時三十分ごろ。夏のミルウォーキーは湿気が重い。窓を開けても風が入ってこないタイプの夜だった。

そこに、上半身をほとんど覆っていない黒人男性が手を振って飛び出してきた。三十二歳のトレイシー・エドワーズ。彼の左手首には、片方だけの手錠がぶら下がっていた。金属が街灯を反射していたという。

警官は最初、性的な遊びのトラブルだと思った。実際、そういう通報は珍しくない。だがエドワーズの言い分は違った。近くのアパートで、男にナイフを突きつけられた。心臓をえぐると言われた。逃げてきた。

手錠の鍵が合わなかったのが、この夜の分かれ目になる。警官が携行している標準の手錠キーで外れなかったので、二人は「じゃあ現場を見よう」となった。もし鍵が合っていたら、その場で外して事情聴取だけで終わっていたかもしれない。歴史というのは、そういうくだらないところで転ぶ。

二一三号室のドアが開いた

三人が向かったのは、北二十五番通り九二四番地のオックスフォード・アパートメント。その二階、二一三号室だった。

ドアを開けたのは、痩せた白人男性。三十一歳のジェフリー・ライオネル・ダーマー。眼鏡をかけ、落ち着いた口調で、酒の匂いをさせていた。

ダーマーは驚くほど協力的だった。ナイフの件は否定し、恋人同士のいざこざだと説明した。彼はこの手の説明が異様にうまい。二か月前にも同じ手で警官三人を追い返している。

だがこの夜は、部屋の中の空気が味方をしなかった。強烈な悪臭。そして、警官の一人が寝室の引き出しを開けた。

そこにあったのはポラロイド写真の束だった。生きている人間の写真ではないものが、何十枚も混ざっていた。ミューラーは同僚に向かって「これは本物だ」と言ったと記録されている。その瞬間、ダーマーはエドワーズに掴みかかろうとし、二人の警官に床に押さえつけられた。手錠がかかったのは午後十一時半すぎ。ダーマーの十三年間は、そこで終わった。

冷蔵庫を開けた警官が廊下に出た

応援が到着し、部屋の捜索が始まる。冷蔵庫、冷凍庫、クローゼット、ベッドの下、そして寝室に置かれた大型のドラム缶。何が出てきたかは、当時の全国紙が一斉に報じたとおりだ。複数の人物の遺体の一部があり、身元確認のために検死局が総動員される規模だった。捜査員のうち何人かはその場で外に出て、しばらく戻ってこなかった。ベテランの鑑識係が「これほどのものは見たことがない」と語ったのは、決して誇張ではなかった。

ここで書けるのは、記録としての事実までだ。ダーマーは被害者を薬物で昏睡させ、殺害し、遺体を損壊し、一部を保存していた。食人に及んだことも本人が認めている。それ以上の細部は、この記事では書かない。書かなくても、この事件が何を突きつけたかは十分に伝わる。むしろ細部を並べることが、この三十年間ずっと遺族を殴り続けてきたからだ。

地元紙ミルウォーキー・ジャーナルの当時のパートタイム記者、アン・E・シュワルツのもとに警察官からの電話が入ったのは、その夜のうちだった。彼女がこの事件の第一報を書いた。のちに彼女は、当時の報道が誇張と伝聞で膨らんでいった過程そのものを検証する本を書くことになる。

一九七八年、オハイオ州バス・タウンシップの夏

遡ろう。

ダーマーは一九六〇年五月二十一日、ミルウォーキー生まれ。父ライオネルは化学者、母ジョイスは情緒不安定を抱えていた。一家は一九六八年、オハイオ州バス・タウンシップの森に囲まれた家に移る。少年ダーマーは道路で轢かれた動物の死骸を集め、瓶に保存した。父は息子の「科学的関心」だと解釈して、骨を漂白する方法を教えている。この一点が、のちに父子両方を苦しめることになる。

両親の離婚協議が長引き、一九七八年の夏、家には誰もいなくなった。母は弟を連れて出て行き、父はモーテルに移っていた。高校卒業から三週間後の六月十八日、十八歳のダーマーはヒッチハイクをしていた同い年のスティーヴン・ヒックスを家に誘い、殺害する。ヒックスはロックコンサートの帰りだった。この最初の一件から次の殺人まで、九年の空白がある。

空白の間、ダーマーはオハイオ州立大学を一学期で追い出され、陸軍に入って衛生兵として西ドイツに派遣され、飲酒を理由に除隊させられ、フロリダを経てミルウォーキーの祖母の家に転がり込んだ。チョコレート工場アンブロシア・チョコレート・カンパニーの夜勤ミキサー係。それが彼の表向きの人生だった。同僚は彼を「無口で、退屈な男」と評している。

「写真を撮らせてくれたら金を払う」

一九八七年から犯行が再開する。狩り場になったのは、ミルウォーキー市内のゲイバーやバスハウス、ショッピングモール周辺だった。手口はほぼ一定で、金を払うから写真を撮らせてほしい、あるいはビデオを一緒に見よう、という誘いだ。被害者の多くは黒人、ヒスパニック、アジア系の若い男性で、経済的に余裕がなく、失踪しても大きく報じられない層だった。

これは偶然ではない。誰が「探される人間」で誰が「探されない人間」かを、ダーマーは正確に理解していた。捜査の空白は、彼の技術ではなく、社会の側の設定だった。行方不明届が出ても、警察が本気で動くかどうかは被害者の属性で変わる。一九九一年のミルウォーキーでは、そこに疑いの余地がほとんどなかった。

一九八八年、彼はもう捕まっていた

ここが最大の分岐点だ。

一九八八年九月二十七日、ダーマーは十三歳の少年に薬物を飲ませて性的暴行を加えた容疑で逮捕されている。少年の名はソムサック・シンタソムフォン。ラオスからの難民一家の息子だった。

一九八九年一月三十日、ダーマーは第二級性的暴行と児童誘引の罪を認めた。ここで検察は懲役五年を求刑したが、量刑は一九八九年五月二十三日、更生施設での一年間(日中就労可の外部通勤付き)と五年間の保護観察に落ち着いた。しかも実際の収監は十か月ほどで打ち切られている。

量刑審理でダーマーは判事にこう述べた。もう二度としない。治療を受けたい。これは私の人生を変える機会だ。父ライオネルも息子の治療継続を訴える手紙を出している。判事はそれを信じた。信じたその年の間に、ダーマーはすでに次の殺人に手を染めていた。

家賃三百ドルの部屋と、異臭の苦情

一九九〇年五月十四日、ダーマーは祖母の家を出て、北二十五番通り九二四番地のオックスフォード・アパートメント二一三号室に入居する。四十九戸の低所得者向け集合住宅で、住民の大半は黒人だった。家賃は月三百ドルほど。彼はドアに追加の錠を付け、監視カメラのようなものを設置し、自分の部屋に誰も入れなかった。

住民たちは異臭に何度も苦情を言っている。管理人のソパ・プリンスウォンは、匂いについて直接ダーマーに問いただした。冷凍庫が壊れて肉が腐った、水槽の熱帯魚が死んだ、と彼は答えた。深夜に電動工具の音がする、という苦情もあった。

だが匂いも音も、それだけでは令状にならない。低所得層のアパートで異臭がしても、行政が動く速度は遅い。この遅さが、七人分の命の差になった。

一九九一年五月二十七日、午前二時の路上

そして、この事件で最も語られる夜が来る。

五月二十七日の未明、オックスフォード・アパートメントの前の路上に、全裸の少年がうずくまっていた。十四歳のコネラック・シンタソムフォン。一九八八年に被害に遭ったソムサックの、実の弟だった。三年の間隔をおいて、同じ一家の兄弟が同じ男に狙われたことになる。

一家の背景はこうだ。父ソントーンは一九七九年、ラオスの政変を逃れてメコン川を渡り、タイの難民キャンプを経て、一九八〇年にカトリック系の支援団体の手引きでミルウォーキーに定住した。子どもたちは英語を覚え、学校に通っていた。アメリカという新天地は、彼らにとって安全な場所であるはずだった。

少年を最初に見つけたのは、近所に住む十代の少女二人、サンドラ・スミスとニコール・チルドレスだった。少年は明らかに正常な状態ではなく、体には傷があった。二人は九一一に通報した。同時に、近くの部屋に住むグレンダ・クリーブランドも通報している。

グレンダ・クリーブランドという名前を覚えておいてほしい

グレンダ・クリーブランドは、当時三十六歳の黒人女性で、隣接する建物に娘と暮らしていた。彼女はこの夜だけでなく、その後も繰り返し警察に電話をかけ続けた人物だ。

現場に来たのは三人の警官。ジョン・バルサーザック、ジョゼフ・ギャブリッシュ、そして訓練中のリチャード・ポルブカンだった。ダーマーは落ち着いた態度で、この子は十九歳の自分の恋人で、酒を飲みすぎて喧嘩になっただけだと説明した。「ジョン・マン」という名前まで口にしている。少年は薬物のせいで言葉を発せず、自分で自分を弁護できなかった。

少女二人は必死に食い下がった。彼は子どもだ、抵抗している、と。しかし警官は少女たちを下がらせ、ダーマーと少年を二一三号室に連れて行った。部屋の中には、少年が写った写真が用意されていた。ダーマーが見せたその写真で、警官たちは「恋人同士」という説明に納得した。彼らは部屋を出た。少年をそこに残して。

無線に残った、あの笑い声

この後の警察無線の記録が、後年ミルウォーキーを揺らすことになる。

現場を離れた警官が、酔った恋人同士の痴話喧嘩を処理した、と報告し、続けて「シラミ駆除が必要だな」という趣旨の冗談を言い、笑い声が入っている。この録音は市の公文書として残り、報道で繰り返し再生された。

グレンダ・クリーブランドはその夜のうちに再び警察に電話をかけている。あの子は本当に大人だったのか、子どもではなかったのか。応対した警官は、あれは成人男性で問題は解決した、と答えた。彼女は納得しなかった。数日後、行方不明の少年の写真が新聞に載ったのを見て、また電話した。さらに連邦捜査局にも連絡した。誰も動かなかった。

ダーマーが逮捕された後、彼女のもとには全米のメディアが押し寄せた。彼女は「私は英雄じゃない、当たり前のことをしただけ」と言い続けた。市は後に彼女を表彰したが、彼女はその後もオックスフォード・アパートメント近くのアパートに住み続け、二〇一〇年十二月に亡くなっている。

少年が死んだのは、警官が去った三十分後だった

コネラック・シンタソムフォンが殺害されたのは、警官三人が部屋を出てからおよそ三十分以内とされている。この「三十分」という数字が、ミルウォーキー市警の歴史に消えない傷を刻んだ。

遺族は連邦裁判所に提訴した。訴えの核心は、警察が黒人・アジア系の住民に対して白人住民と同等の保護を与えていない、という平等保護条項違反だった。一九九三年の連邦地裁の判断を経て、市は一九九五年四月、八十五万ドルの和解金を支払うことで合意した。市議会の採決は割れた。息子の命に値段が付くこと自体に、遺族は複雑な思いを述べている。

バルサーザックとギャブリッシュは一度は懲戒免職となったが、警察組合の支援を受けて不服申し立てを行い、後払いの給与付きで復職した。ギャブリッシュはその後ウィスコンシン州グラフトンの警察で幹部となり二〇一九年に退職、バルサーザックはミルウォーキー警察組合の会長を務め二〇一七年に退職している。この「復職」という事実が、後の映像化作品で最も強い怒りを呼ぶ場面のひとつになった。

保護観察官の記録に残っていた、四日前の面談

もうひとつの見落としが、保護観察の側にあった。

ダーマーの担当保護観察官はドナ・チェスター。一九九〇年三月から担当し、隔週で面談していた。彼女は前年に大学の社会福祉学部を出たばかりで、抱えていた案件は百二十件を超えていたとされる。

本来、性犯罪で保護観察下にある対象者の自宅訪問は制度の要だ。だがチェスターは一度もダーマーの部屋に足を踏み入れていない。訪問義務は業務量を理由に事実上免除されていた。もし誰かが二一三号室のドアの内側を見ていたら、という仮定は、この事件のあらゆる場面に付いて回る。

チェスターの記録には、ダーマーの愚痴が丁寧に残っている。金がない。仕事がつらい。将来が見えない。最後の面談は一九九一年七月十八日。ダーマーはチョコレート工場を解雇されたことを告げ、自殺をほのめかしている。四日後に彼は逮捕された。被害者の遺族の一部は後に州と担当者を提訴したが、連邦控訴審は職務上の免責を理由に訴えを退けている。

弁護士も呼ばず、六十時間しゃべり続けた

逮捕後の取り調べで、ダーマーは驚くほど早く話し始めた。弁護士の同席を拒み、六十時間以上にわたって供述を続けたと記録されている。担当したのは殺人課のデニス・マーフィー刑事で、以後数か月にわたってダーマーの話し相手のような立場になった。

ダーマーは被害者の顔をほとんど覚えていなかったが、状況の断片は詳細に語った。捜査側は写真と歯科記録、DNAを突き合わせ、身元不明だった遺体を一人ずつ名前のある人間に戻していく作業に入る。この作業には数か月を要した。オハイオ州バス・タウンシップの実家の裏庭も掘り返され、一九七八年のスティーヴン・ヒックスの痕跡が確認された。

最終的にウィスコンシン州で十五件、オハイオ州で一件、合計十六件で立件された。ダーマー本人が認めた殺害は十七件。立件されなかった一件は、証拠が不十分だったスティーヴン・トゥオミの件である。

「有罪だが心神喪失」という賭け

一九九二年一月十三日、ダーマーは十五件の殺人について「有罪だが心神喪失」を主張した。事実関係は全面的に認める。争うのは責任能力だけ。ウィスコンシン州の制度では、この主張が通れば刑務所ではなく精神科施設に収容される。弁護人ジェラルド・ボイルの狙いはそこだった。

この選択には批判もあった。事実を全部認めた以上、心神喪失が認められなければ量刑は最悪になる。しかもウィスコンシン州には死刑がない(一八五三年に廃止されている)ので、どちらに転んでも死刑にはならない。つまり、ボイルは失うものが少ない賭けに出たとも言える。だが同時に、この裁判は「連続殺人犯は病人か悪人か」というアメリカ社会の長年の問いを、公開の法廷に持ち込む装置にもなった。

公判はミルウォーキー郡巡回裁判所、ローレンス・グラム判事の法廷で一九九二年一月三十日に始まった。傍聴席と被告人席の間には防弾ガラスが立てられた。陪審員は非公開の場所に隔離された。地元テレビ局は連日中継し、街全体がこの裁判を見ていた。

精神科医たちの代理戦争

審理の中身は、ほぼ精神科医同士の殴り合いだった。

弁護側はフレッド・バーリン、ジュディス・ベッカー、カール・ウォルストロムらを立て、ダーマーは重度のパラフィリアと人格障害により、行為を法に合わせて律する能力を失っていたと主張した。

検察側の主任はミルウォーキー郡地方検事マイケル・マッキャン。彼が切り札として呼んだのが、法精神医学の大御所パーク・ディーツだった。ディーツの論法は明快だ。ダーマーは犯行前に必ず酒を飲んで踏ん切りをつけていた。証拠を隠すために手間をかけた。逮捕を避けるために嘘をついた。逃げた少年を取り返すために警官を騙した。これらはすべて、自分の行為が違法だと理解し、状況を計算できる人間の行動である、と。

中立の立場から証言した精神科医ジョージ・パレルモとサミュエル・フリードマンも、責任能力を否定するには至らないという趣旨の意見を述べた。争点は「異常かどうか」ではなく「異常だから制御できなかったと言えるか」に絞られていく。ダーマー自身は法廷でほとんど無表情のまま座っていた。

十対二、そして十五の終身刑

一九九二年二月十五日、陪審は評議の末に評決を出した。ウィスコンシン州の民事的手続では十二人中十人の一致で足りる。結果は、十五件すべてについて「精神障害により責任能力を欠いていたとは認められない」。つまり、法的には正常。各訴因につき二人が反対に回ったと報じられている。傍聴席にいた遺族の何人かは声を上げて泣いた。

二月十七日の量刑審理では、遺族が次々に意見陳述に立った。エロール・リンジーの姉リタ・イズベルは被告人に向かって激しい言葉を投げつけ、法廷の柵を越えようとして制止された。この場面のテレビ映像は、のちに三十年後の論争の火種になる。

グラム判事は十五件それぞれに終身刑を言い渡し、これを連続して執行するよう命じた。判事は「被告人が二度と自由を見ることのないよう構成した」と述べている。仮釈放の可能性は事実上ゼロになった。同年五月、オハイオ州の裁判所がスティーヴン・ヒックスの件で十六件目の終身刑を加えた。

一九九四年十一月二十八日、体育館の裏で

服役先はウィスコンシン州ポーテージのコロンビア矯正施設。ダーマーは当初、単独房で保護されていたが、本人の希望もあって一般受刑者との共同作業に加わるようになった。彼は獄中で洗礼を受け、聖書を読み、面会に来る父と話していた。

一九九四年十一月二十八日の朝、清掃作業のため体育館付近に配置された三人のうちの一人、クリストファー・スカーヴァーが、金属の棒でダーマーを襲った。同じ班にいたジェシー・アンダーソンも襲われている。ダーマーは頭部に致命的な損傷を受け、搬送先の病院でおよそ一時間後に死亡した。三十四歳。判決から二年九か月しか経っていなかった。

スカーヴァーは後年、動機について、ダーマーが食堂で人体を模した悪ふざけをして周囲を挑発していたことと、その罪の内容そのものが我慢ならなかったことを挙げている。ただし彼の証言は年によって揺れており、鵜呑みにはできない。彼にはさらに二つの終身刑が加算された。

ダーマーの遺体は解剖後に火葬された。脳を研究用に保存するかどうかで、離婚した父と母が対立し、裁判所が判断する事態になった。結果、脳も火葬された。遺灰は両親が分けて引き取っている。墓はない。

「警察が信じたのは殺人鬼の言葉だった」

この事件がミルウォーキーで持つ意味は、殺人事件の枠を大きくはみ出している。

一九九一年の夏、逮捕直後から市内では抗議行動、座り込み、キャンドル集会が続いた。黒人市議マイケル・マギーはノーキスト市長とアレオラ警察本部長の辞任を要求した。八月にはジェシー・ジャクソン師が来訪し、教会での集会に千人近くが集まった。

ジャクソン師の言葉が、この論争の核を一行で言い当てている。「警察は、無実の女性の言葉ではなく、殺人者の言葉を選んだ」。グレンダ・クリーブランドの通報と、ダーマーの弁明。どちらを信じるかを分けたのは、証拠ではなく、誰の言葉に重みを置くかという判断だった。

背景にはミルウォーキー特有の事情がある。この街は全米でも屈指の人種居住分離が進んだ都市で、黒人人口は北側に集中していた。当時の黒人失業率は十八パーセント前後、白人の数倍。殺人発生率は三年で倍以上に跳ね上がっていた。

加えて、被害者の多くがゲイコミュニティに属していたことも大きい。エイズ危機のただ中で、警察に相談すること自体がリスクだと考える人が大勢いた。行方不明者の届出が遅れ、届出があっても軽く扱われる。ダーマーはその構造の隙間で十三年生き延びた。

事件後、ミルウォーキー市警は行方不明者対応の手続きを見直し、市の消防警察委員会の権限が強化され、市民からの苦情処理の仕組みも改められた。それでも「あの夜と同じことは絶対に起きないか」と問われて、はいと答えられる関係者はほとんどいない。

心神喪失は本当に否定されるべきだったのか

陪審の結論に対しては、当時から異論があった。「あれだけの行為をして正常なわけがない」という直感的な反発と、「精神医学の診断名が付くことと、法的責任能力があることは別だ」という法律実務側の説明が、いまも噛み合わないまま並走している。

法的な整理としてはこうだ。多くの州で採用されている基準は、行為の善悪を認識できたか、あるいは違法と知りつつ行為を制御できなかったか、である。ダーマーは明らかに前者をクリアしていた。隠蔽工作、嘘、警察対応の巧みさ。これらは制御不能な人間の行動ではない。だから評決は法的には筋が通っている。

一方で、彼の内的世界が徹底的に病んでいたことは、弁護側も検察側も否定していない。つまり争点は「病んでいたか」ではなく「病んでいれば免責されるのか」だった。この事件は、精神医学的な異常と刑事責任のあいだにある線を、アメリカ社会にもう一度突きつけた。線は動かなかった。だが線があること自体への居心地の悪さは、いまも残っている。

父ライオネルの本、記者アンの本、作家ブライアンの本

書かれたものも多い。

父ライオネル・ダーマーは一九九四年に回想録を出した。息子の幼少期を掘り返しながら、自分の中に同じ暗い衝動の芽がなかったかを執拗に問う本で、読後感は重い。彼は二〇二三年に亡くなった。息子より二十九年長く生きたことになる。

イギリスのノンフィクション作家ブライアン・マスターズは一九九三年、ダーマー本人と往復書簡を交わした上で長編を書いた。マスターズはイギリスの連続殺人事件についても書いており、加害者の内面に踏み込む手法で知られる一方、加害者に共感的すぎるという批判も常に受けてきた。この本もその批判を免れていない。

そして地元記者アン・E・シュワルツ。第一報を書いた本人が、二〇二一年に改めて出した本の趣旨は明快だ。この事件については、報道された内容の少なからぬ部分が伝聞と誇張で膨らんでいる。彼女は当時の混乱した情報環境を検証し、いくつかの「有名なエピソード」が確認できないものであることを指摘した。事件の語られ方そのものを疑う本が、事件を最初に報じた人間から出てきたというのは、けっこう象徴的な話だ。

配信ドラマと、遺族が突きつけた「なぜ聞かなかった」

二〇二二年九月、Netflixがライアン・マーフィー製作、エヴァン・ピーターズ主演のドラマシリーズを配信した。世界的に大ヒットし、配信直後から数週間、視聴ランキングの上位を占め続けた。作品は警察の不作為や人種問題を正面から描いており、その点を評価する声も多かった。

しかし遺族の反応は激烈だった。

エロール・リンジーの姉リタ・イズベルは、自分の法廷での陳述がほぼそのまま再現されたことについて「Netflixは私に一言も聞かなかった。この悲劇で金を稼ぐのは、ただの強欲だ」と語った。彼女の親族エリック・ペリーは「数か月ごとに新しいダーマー作品が出て、そのたびに家族は電話とメッセージの嵐で叩き起こされる。残酷だ」と書いた。

トニー・ヒューズの母シャーリー・ヒューズは、息子の死で他人が利益を得ることへの苦痛を訴えている。被害者の娘の一人は、配信後に悪夢が続いていると証言した。

配信プラットフォーム側が作品に性的少数派向けのタグを付けたことも炎上した。被害者がゲイコミュニティの人々だったことと、作品をその層向けの娯楽として分類することは、まったく別の話だからだ。タグは後に外された。

さらに、ハロウィンにダーマーの扮装をした写真がSNSに大量に投稿され、オンラインストアでは関連グッズが売られた。遺族が最も嫌がる形での二次消費が、作品の成功と同時に発生した。製作側は後に被害者を追悼する取り組みへの寄付を打ち出したが、遺族側の弁護士は「後付けの思いつきだ」と切り捨てている。

更地のまま残る、二十五番通りの一区画

オックスフォード・アパートメントは一九九二年十一月に取り壊された。四十九戸のうち大半の住民は事件後に退去していた。跡地はいまも更地のままだ。三十年以上、駐車場にも公園にもならず、草が生えている。

ダーマーの遺品も残っていない。競売にかけられそうになったとき、地元の不動産開発業者ジョゼフ・ジルバーが企業や個人から四十万七千ドルあまりを集めて一括で買い取り、すべて破棄した。売却代金は遺族に分配された。冷蔵庫も工具も写真も、この世に残っていない。それでも「ダーマー・ツアー」を企画しようとする人間が定期的に現れ、そのたびに市民が潰してきた。

被害者の追悼碑を作ろうという議論は何度も持ち上がった。ドラマがヒットした二〇二二年にも再燃した。だが実現していない。理由ははっきりしている。碑を建てれば、それはダーマーに惹かれる人間を呼び寄せる装置になりかねない。市長は慎重な姿勢を崩していないし、何より遺族の側から強い要望が出ていない。

グレンダ・クリーブランドの親族は「作るなら現場ではない場所に、犯人ではなく被害者の顔が見える形で」と提案している。

掲示板と考察界隈が繰り返す論点と、その反証

日本語圏の掲示板やまとめサイト、動画の考察でも、この事件は定番のネタとして繰り返し取り上げられてきた。そこで何度も出てくる主張と、それに対する事実関係を整理しておく。

まず「父親が息子に動物の解剖を教え込んだのが原因」という説。これはドラマの演出が広めたもので、実際には少年ダーマーが拾ってきた動物の骨の処理方法を、父が理科の知識として教えたという話だ。因果関係を父に負わせるのは無理がある。父自身が回想録でその責めを引き受けようとしているせいで、話がねじれている。

次に「警察はダーマーが白人だから見逃した」という単純化。人種の要素が決定的だったのは間違いないが、正確には「被害者が黒人・アジア系・ゲイだったから通報が軽く扱われた」という構図だ。加害者の白人性と被害者の属性、両方が働いている。片方だけを取り出すと、なぜ通報者グレンダ・クリーブランドの言葉が無視されたのかを説明できない。

三つ目に「あの少年を返した警官は表彰された」という話。ドラマにそういう場面があるため広まったが、事実ではない。二人は懲戒免職になり、その後に組合の支援で復職した。表彰と復職はまったく違う。ただし「結果的に彼らのキャリアは続いた」という点で遺族が抱く不条理感は本物で、そこを軽く扱うべきではない。

四つ目に「ダーマーは獄中で改心していた」という語り。彼が洗礼を受けたのは事実だし、面会者に反省を語ったのも事実だ。しかし同時に、彼は自分の内的衝動が消えたとは一度も言っていない。改心の物語は、周囲が欲しがったから流通した面が大きい。

最後に「食人の描写は誇張だ」という主張。これは半分当たりで半分外れている。本人が供述で認めた部分と、当時の報道が伝聞で膨らませた部分が混在していて、地元記者が後年その切り分けを試みている。ただ、切り分けたところで事件の悪質さが下がるわけでもない。

なぜ、この事件だけが三十年語られ続けるのか

アメリカには連続殺人事件がいくつもある。被害者数だけならもっと多い事件もある。それでもダーマー事件が突出して語られるのは、猟奇性のせいだけではない。

第一に、この事件は「制度が三回止められたのに止めなかった」という記録だからだ。一九八八年の逮捕と量刑。保護観察の家庭訪問。一九九一年五月の路上。三つの分岐点のどこかで違う判断がされていれば、少なくとも五人から七人は生きていた。これは推測ではなく、時系列からほぼ確定する。制度の失敗がこれほど具体的に数えられる事件は珍しい。

第二に、通報した人間が正しかったのに聞かれなかった、という構図の普遍性だ。グレンダ・クリーブランドは何も間違えていない。彼女は見て、電話して、食い下がって、それでも届かなかった。この経験に覚えのある人間は世界中にいる。だから彼女の名前は、事件から三十年たっても呼ばれ続ける。

第三に、この事件がアメリカの人種と性的少数派の問題を、抽象論ではなく「一人ずつの死」として可視化してしまったことだ。ダーマーは統計を利用した。誰が探されないかを知っていた。その統計を作ったのは彼ではなく社会の側で、だから社会の側が答えを出さなければ話が終わらない。

第四に、映像化のたびに遺族が殴られるという、終わらない二次被害の構造がある。この事件は「消費されること」自体が事件の続きになってしまった珍しいケースだ。語れば語るほど誰かが傷つき、しかし語らなければ制度の失敗が忘れられる。この二律背反から、いまだに誰も抜け出せていない。

彼は狡猾ではなかった。網が粗すぎたのだ

ここからは、通しで書いてきた事実の上に、もう一段考えを重ねておきたい。

まず、この事件を語るときに最も誤解されているのは「ダーマーが天才的に狡猾だった」という前提だと思う。実際の彼は、驚くほど雑だ。異臭で何度も苦情を受け、管理人に問い詰められ、被害者を逃がし、警官を二度も部屋に入れ、最後は手錠を片方しか掛けられずに逃げられている。犯行の隠蔽能力という点では、むしろ下手な部類に入る。にもかかわらず十三年続いた。ここを取り違えると、事件の教訓が全部ずれる。

つまり、彼を止められなかったのは彼が優秀だったからではない。周囲の網が、彼のレベルの雑さすら拾えないほど粗かったからだ。異臭の苦情は住宅の問題として処理され、深夜の物音は騒音として処理され、行方不明は家出として処理され、路上の少年は痴話喧嘩として処理された。それぞれの現場で、担当者は自分の持ち場のルールに従って正しく振る舞っていた。誰も横をつながなかった。

この「部分最適の集積による全体の失敗」は、行政の失敗のなかで最もありふれた形であり、最も直しにくい形でもある。

次に、一九八九年の量刑判断について。あの時点で判事の前にあった情報は、二十八歳の男が十三歳の少年に薬物を用いて性的暴行を加えたという事実と、被告人の反省の弁と、父親の嘆願書だった。当時のウィスコンシン州の量刑実務では、初犯かつ有職の被告人に対して施設収容と保護観察を組み合わせるのはごく標準的な選択で、判事が異常に甘かったわけではない。制度の平均値どおりの判断をした結果として、七人が死んだ。

ここが本当に怖いところだ。個人の失敗であれば個人を替えれば済む。制度の平均値の失敗は、平均値そのものを動かさないと直らない。

保護観察の家庭訪問免除も同じ構造だ。担当者は百二十件超を抱えていた。訪問を免除したのは、彼女の怠慢というより、案件数と人員のバランスが最初から破綻していたからだ。性犯罪前歴者の自宅訪問という、最もコストをかけるべき業務が、コストがかかるという理由で真っ先に削られた。二〇二〇年代のいまも、多くの国の保護観察や児童相談の現場で同じことが起きている。

ダーマー事件が単なる過去の異常事例ではなく、いまも現在形の警告であるのは、この一点による。

楽な物語と、面倒な物語

一九九一年五月の路上の場面には、もう少し細かい補助線がいる。

あの夜、警官三人が現場で処理しなければならなかった情報は、少なくとも四つあった。少年らしき人物が全裸で路上にいる。二人の少女が「あれは子どもだ」と主張している。近隣住民が別途通報している。そして白人男性が「自分の恋人だ」と説明している。四つのうち三つは同じ方向を指していて、一つだけが違う方向を指していた。彼らは一つを採った。

なぜか。ひとつには、ダーマーの説明が「警官が処理しやすい物語」だったからだ。ゲイカップルの痴話喧嘩、という枠にはめてしまえば、これは書類一枚で終わる案件になる。逆に「未成年者への性的加害の疑い」と枠を取り直せば、身元確認、医療機関搬送、児童保護機関への連絡、上司への報告と、一晩仕事になる。

深夜二時に、楽な物語と面倒な物語のどちらを選ぶか。ここに人種と性的指向のバイアスが乗る。差別というのは、多くの場合、面倒を避けたい人間の背中を押す形で作動する。無線に残った笑い声は、彼らがこの案件を「片付いた面倒」として処理し終えた証拠だった。

そして、身分証の確認をしなかったという事実がある。少年の身元を照会していれば、行方不明届と照合できた可能性がある。ダーマーの身元を照会していれば、彼が児童への性的暴行で保護観察中であることが即座に判明したはずだ。照会一本。それだけで止まった。これがこの事件の最も残酷な事実で、遺族が三十年間言い続けていることでもある。

モンスター化は、学ぶことを拒否する手続きだった

裁判の評価についても、もう少し踏み込んでおきたい。

「心神喪失が認められなかった」という結論だけを見ると、精神医学が敗北したように読める。だが法廷で起きたことはむしろ逆で、彼が重篤な精神的異常を抱えていたという点については、双方の専門家がほぼ一致していた。争われたのは、その異常が法的な免責につながるほど行動制御を奪っていたかだけだ。この区別は一般には伝わりにくく、ゆえに評決は「やっぱり悪人だった」という単純な物語に回収されてしまった。

この回収が何を生んだかというと、「連続殺人犯は理解不能なモンスターである」という結論だ。理解不能ということにしておけば、社会の側は自分を検証しなくて済む。モンスターは天災のようなもので、対策のしようがないからだ。だが実際には、彼は理解可能な条件の積み重ねの中で動いていた。狙う相手を選び、狩り場を選び、嘘の種類を選んでいた。全部、社会構造を読んだ上での選択だ。

モンスター化は、事件から学ぶことを社会が拒否する手続きだった、という言い方もできる。

映像化の問題も、この延長線上にある。二〇二二年のドラマは、警察の不作為と人種問題を正面から扱った点で、それまでの猟奇殺人鬼ものから一歩踏み出していた。作り手には批評的な意図があったはずだ。だが結果として起きたのは、主演俳優への熱狂と、扮装写真の氾濫と、遺族への嫌がらせの再燃だった。批評的意図は、大衆的な流通経路に乗った瞬間に別のものへ変質する。

ここには、実在の事件を娯楽として流通させることの原理的な問題がある。

遺族の側が繰り返し言っているのは、実は「作るな」ではない。「作るなら一言聞け」だ。法廷での陳述は公的記録だから使用に許可はいらない、というのは法的には正しい。だが法的に正しいことと、人としてやっていいことの間には距離がある。この距離を詰める作法が、実話ベースの映像作品にはまだ確立していない。ダーマー事件は、その未整備さを最も残酷な形で露呈させた事例として、業界の内側でも参照され続けている。

何も建てないという選択

最後に、更地のことを書いておきたい。

北二十五番通りのあの区画は、三十年以上何にも使われていない。開発の話が出ても進まない。追悼碑の話が出ても決まらない。この「決められなさ」こそが、ミルウォーキーの正直な状態を表していると思う。忘れることもできず、記念することもできない。忘れれば失敗が消える。記念すれば犯人が呼ばれる。どちらも選べないまま、草が生えるに任せている。

それは怠慢に見えるかもしれないが、別の見方もできる。何も建てないという選択は、この事件がまだ処理し終えていないという事実を、街が正直に晒し続けているということでもある。答えの出ていないものに、きれいな石碑を建てて終わらせない。その不格好さのほうが、少なくとも誠実だ。

十七人の名前を検索すればすぐ出てくる時代に、街の真ん中の空き地だけが、まだ何も言わずに残っている。この事件を考えるときの手触りとしては、たぶんそれが一番正しい。

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