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消防士長、表彰20回――昼は人を救い、夜は殺していた男の10年と、20世紀最後の絞首台

1983年1月31日、名古屋の銀行の駐車場で男がひとり、押さえ込まれた

昼下がりだった。名古屋市昭和区阿由知通4丁目、第一勧業銀行御器所支店の西側駐車場。午後1時半すぎ、社用車で来店した31歳の男性が、従業員の給料にあてる102万3000円を引き出して車へ戻ってきた。運送業をやっている会社の社長だ。

ドアを開けて運転席に座った、まさにその瞬間だった。助手席のドアが開いて見知らぬ男が滑り込み、社長の左の脇腹に硬いものを押し当てた。

「これは警察官の持っている本物の拳銃だぞ」。男はそう言い、さらに続けた。「あの事件を知っているだろう。喋ると撃つぞ。後ろの座席に金を置いて車を出せ」

あの事件、というのが何を指すのかは、当時この地方の人間なら誰でも知っていた。前の年の秋のことだ。名古屋の派出所の巡査が車ではねられ、鉄棒で殴られて、拳銃を奪われた。その拳銃で高速道路のサービスエリアの従業員が撃たれ、別の男性が射殺された。

警察庁が広域重要指定113号事件と名前をつけ、全国の警察が追いかけていた、あの事件だ。この男は、自分がその犯人だと名乗ったに等しい。

社長は、言われたとおりに車をゆっくり発進させた。ただ、腹は決まっていた。駐車場を出てしまったら殺される。そう思ったらしい。出口の手前でブレーキを踏み、いきなり銃身をつかんで「強盗だ」と叫んだ。

そこからは、みっともないくらい泥臭い揉み合いになる。二人は助手席側から車外に転げ落ちて、アスファルトの上でもつれ合った。叫び声を聞いた銀行員が何人か飛び出してきて、上から押さえにかかる。

男は暴れ、社長と行員ら3人を殴って打撲を負わせ、拳銃を2発撃った。だが弾は、誰にも当たらなかった。運がよかった、としか言いようがない。支店の中では、誰かが非常ボタンを押していた。

午後1時50分、駆けつけた昭和警察署員に身柄が引き渡される。罪名は強盗致傷、現行犯。押収された回転式拳銃は、ニューナンブの38口径だった。

この時点では、ただの銀行前の強盗未遂事件だ。夕刊の見出しに「白昼、勧銀支店襲う」と載る程度の話でしかない。だが、この現行犯逮捕から芋づる式に引っ張り出されたものが、その後10年以上にわたって日本の法廷を占領することになる。

照会にかかった名前と、その男の「前職」

取り押さえられた男は、当時34歳。京都府の生まれで、職業は無職。名前を勝田清孝といった。

まず押収された拳銃の登録番号を確かめると、3か月前に名古屋市千種区で巡査から奪われたものと一致した。人相も体格も、岐阜県の養老サービスエリアで従業員を撃った犯人の目撃像と合う。愛知と岐阜の両県警が組んでいた113号事件の共同捜査本部は、この日のうちに「勝田が113号事件の犯人」と断定している。

ここまでは、まあ、よくある話だ。逃げ回っていた凶悪犯が、たまたま襲った相手が思いのほか強くて、あっさり捕まった。それだけの話になるはずだった。問題は、この男の経歴を洗ったときに出てきたものだ。

勝田清孝は、京都府相楽郡木津町、いまの木津川市にあった相楽中部消防組合本部の職員だった。要は消防士だ。採用は1972年4月1日。2年後に消防副士長、そのまた2年後には消防士長になっている。

表彰を受けること約20回。全国規模の消防の競技大会では、2年連続で入賞している。救助訓練に真面目に取り組む、将来の幹部候補と見られていた男だった。

ここで、よく流布している話をひとつ訂正しておきたい。「現職の消防士が逮捕された」と語られることが多いのだが、厳密には違う。勝田は1980年11月、大阪の繁華街で車上狙いをやって緊急逮捕された。その3日後、1980年11月11日付で懲戒免職になっている。

名古屋で捕まったのは、その2年3か月後だ。だから逮捕時の肩書きは「無職」で、当時の新聞も「京都生まれ無職男」と書いている。

じゃあ「消防士の連続殺人」というのは誇張なのか。これが、まったくそうではない。後に確定判決で認定された8人の殺害のうち、7人は彼が消防署に籍を置いていた時期の犯行なのだ。

制服を着て、救助訓練で表彰され、消防士長に昇格していったあの8年間。それがそっくりそのまま、連続殺人の期間と重なっている。二重生活という言葉はよく使われる。だがこれは、ほんとうに文字どおりの二重生活だった。

木津町の農家の長男が、少年院を出て消防士になるまで

勝田清孝は1948年8月29日、京都府相楽郡木津町鹿背山の集落で生まれた。農家の長男で、1つ年上の姉がいる第2子。家は比較的裕福だったとされる。

1964年4月、京都府立木津高校の農業科に入学し、吹奏楽部に入った。ここでの彼は、もうすでにおかしい。小遣いの多い部員と張り合いたくて、校内食堂の食券を盗んで友人におごる。

車両を盗む。盗品を売る。バイクに乗って、女性のハンドバッグをひったくる。車上を荒らし、売店を荒らす。要するに、この頃から「身の丈を超えた見栄のために盗む」という一本の線が、まっすぐ通っているわけだ。

1965年11月18日、ひったくりで逮捕された。部屋を捜索すると、天井裏から十数個のハンドバッグ、学校から盗んだスピーカー、食堂の食券の束が出てきたという。12月24日、大阪府の和泉少年院に送致。高校は退学処分になった。

翌年7月に仮退院し、父親が勤める奈良市の自動車部品工場に就職する。ところが工場でロッカー荒らしが続発すると、「少年院帰り」の彼が疑われ、居づらくなって辞める。その後も父親の紹介で職を得ては続かない、を繰り返した。

1968年、20歳のときに、隣町の1つ年下の女性と大阪へ駆け落ちする。「少年院帰りとは一緒にできない」と相手の親に断られ、勝田の親も「家の格が違う」と反対したからだ。大阪市生野区のアパートで同棲を始め、彼は鉄工所、相手は縫製工場で働いた。

1970年2月に奈良市の運送会社へ移り、長距離トラックの運転手になる。同年3月、双方の親の承諾を得て正式に結婚。翌年には長男が生まれた。

ここまでの人生は、粗っぽいが、まあ立て直しの途中に見える。

そこに、ひとつの出来事が挟まる。1972年1月、郷里の近くで、銀行に勤める若い女性が暴行されて殺される事件が起きたのだ。勝田は無関係だった。だが警察は「少年院帰り」の彼に目をつけ、勤め先の運送会社に出入りして、従業員に根掘り葉掘り彼のことを聞いて回った。

社長からは「お前、人を殺したのか」と詰め寄られたという。結局は友人の証言でアリバイが立ち、嫌疑は晴れた。それでも、周囲の目は変わってしまった。

このときの屈辱を、勝田は後年まで繰り返し語っている。警察への不信と、うまくいかない人生への不満。その鬱憤の晴らし方が、スナックで高い酒を飲み、ホステスにチップを弾み、高級車を買う、という方向へ行った。

裏庭には200万円以上するアマチュア無線のアンテナを建て、ゴルフの会員権も買った。トラック運転手の給料で、そんな真似ができるはずがない。借金が膨らむ。返済のために空き巣を始める。

そして1972年3月、父親に勧められて消防職員の採用試験を受け、合格した。4月1日、相楽中部消防組合に正式採用。

前歴は、採用直後に職場も把握していた。それでも、懲戒免職にはならなかったのだ。当時の事情を知る人に言わせれば、多少の瑕疵は不問にされることが珍しくなかった時代でもあった。

高度経済成長で、民間の給料は上がっていた。公務員、なかでも消防士や警察官のように危険と隣り合わせの職は、慢性的な人手不足だったらしい。この一点をもって当時の消防組合を責めるのは、酷かもしれない。ただ結果から見ると、ここが分岐点だったことは動かない。

昼は救助訓練、夜は空き巣。同じ手で

消防士になって最初の5か月間、勝田は評判のいい新人だった。仕事ぶりは真面目で、訓練にも熱心。上役や同僚の評価は悪くなかったと、当時を取材したノンフィクションはそろって書いている。

同時に彼は、借金を返すために休日の長距離輸送のアルバイトを始めていた。トラックで京都から大阪へ、神戸へ、名古屋へ。そして行った先々で、空き巣に入っていた。

このアルバイトという装置が、後から見るととんでもなく効いている。消防の勤務は交替制で、当直明けにはまとまった時間ができる。その時間を、トラックの荷台と一緒に他府県へ持ち出せるわけだ。犯行地は勤務地から100キロ、200キロと離れる。

地元では模範的な公務員で、遠くでは顔を知られない通りすがりの男。1970年代の日本で、これほど都合のいい配置はなかった。

彼自身、後に「水商売の女性は大金を持ち歩いていることが多い」と気づいたと供述している。狙いは、クラブのホステスや経営者へと絞られていった。ここは覚えておいてほしい。目的は、あくまで盗みだった。ただ、気づかれて騒がれると、容赦がなかった。

最初の殺人は、消防士になって5か月後のことだ。

五人の女性と、警察が追いかけ続けた「痴情のもつれ」

1972年9月13日、午前5時すぎ。勝田は京都市山科区御陵別所町のアパートで、窓が少し開いている部屋を見つけた。隙間からハンドバッグが見えたという。

侵入したところを、住人の24歳のクラブホステスに気づかれた。「泥棒、警察に通報する」と騒がれて逆上し、暴行したうえでストッキングで絞殺した。奪ったのは現金1000円だ。人ひとりの命と、1000円が交換された。割に合わない、なんて言葉では到底済まない。

同居していた25歳の男性が帰宅して遺体を発見し、通報した。京都府警は殺人事件と断定して捜査を始めたが、方向は最初から「痴情関係のもつれ」に向いた。疑われたのは、第一発見者の同居男性と、被害女性の勤め先の常連客だ。

2件目は1975年7月6日、午前1時すぎ。場所は大阪府吹田市原町のマンション通路だ。33歳のクラブ経営者の女性からバッグをひったくろうとして抵抗され、そばにあったロープで絞殺した。

現金約10万円ほかを奪い、遺体を被害者の車に乗せて農業用水池に遺棄し、指紋を消すために車に火を放っている。ここでも捜査は、顔見知りの線へ行った。疑われたのは同棲相手と、当夜会う約束だった会社社長だ。

3件目は1976年3月5日、午前2時35分すぎ。名古屋市中区千代田の路上で、車から降りてきた32歳のクラブホステスの後をつけた。バッグをつかんで騒がれ、絞殺した。奪ったのは現金約12万円だ。遺体は被害者の車に乗せて40分ほど走り、郊外の休耕地に捨てた。

このとき彼は、捜査を攪乱するために、遺体の局部にススキを挿している。変質者の犯行に見せかけるためだ。

この偽装は、あまりにもよく効いてしまった。警察が疑ったのは、事件直前に被害者と食事をしていた43歳の弁護士だ。この弁護士はプライバシーを徹底的にかき回され、廃業に追い込まれている。

被害者が勤めていたクラブにも、常連客への聞き込みが続いた。客足が遠のき、店は閉店した。ひとつの殺人が、殺された人だけでなく、まったく無関係な人間の職業と店まで消したわけだ。

4件目は1977年6月30日の午前2時ごろ、名古屋市南区笠寺町。28歳の麻雀荘のパート従業員が、鍵をかけずに犬の散歩に出た。それを見て部屋に忍び込み、4万円入りの封筒を盗んだところで、帰宅した本人と鉢合わせした。騒がれて部屋に連れ戻し、背後から紐状のもので絞殺している。

この事件でも、別人が疑われた。被害女性と関係のあった35歳の会社員だ。取り調べの過程で会社の金の横領が発覚して逮捕され、懲役2年の判決を受けて1年4か月服役した。そして殺人の嫌疑そのものは、勝田の逮捕まで6年余りかけられ続けた。

のちに愛知県警が、この件について謝罪している。1984年には、この経緯をモデルにした実録ドラマが放送された。副題には「戦後最大の殺人鬼、勝田清孝に間違えられた男」という、身も蓋もない文言がついていた。

5件目は1977年8月12日の午後11時すぎ、名古屋市昭和区小桜町のマンションだ。勝田は帽子とサングラスで変装して、3階の通路をうろついていた。そこへドアが開き、住人の33歳の美容師指導員に「ここで何をしているのか」と咎められた。

顔を見られた、通報される。そう考えて部屋に押し込み、パンストで絞殺。遺体をベッドと壁の間に隠し、45万円相当のダイヤの指輪を盗んで出た。

この部屋のタンスには、現金40万円が手つかずで残っていた。物盗りなら、ふつうはこれを置いていかない。だから警察は、また「怨恨・顔見知り」の線を追った。遺体の第一発見者となった29歳の男性は、連日のように事情聴取を受け、離婚し、会社も辞めることになった。

5件のうち5件が、同じ構図だ。狙われた女性たちには、いずれも込み入った人間関係があった。そのうえ現場から、大金が持ち去られた形跡がない。この2つが揃うと、当時の捜査の常識では「行きずりの強盗」より「怨恨・痴情」が優先される。

しかも府県がバラバラだ。京都、大阪、愛知。管轄も、捜査本部も、記録の保管場所も別々。同一犯だという発想自体が出てこない。

勝田が10年も捕まらなかった理由を一言で言うなら、これに尽きる。彼が天才的に狡猾だったからではない。彼がまたいだ線が、たまたま日本の警察組織の継ぎ目とぴったり重なっていたからだ。

殺人の6日後、夫婦でクイズ番組に出ていた

ここで、この事件を語るときに必ず出てくる、ひときわ気味の悪いエピソードが入る。

4件目の殺人から6日後、1977年7月6日。勝田は妻とともに、朝日放送の視聴者参加型クイズ番組『夫婦でドンピシャ!』の収録に参加している。土曜の昼に放送されていた番組で、4組の夫婦が私生活に関する質問に答え、答えが夫婦で一致すれば賞金がもらえる、という趣向だ。司会は海原小浜と月亭可朝だった。

出演条件は「夫婦で楽しい人生を送っている」こと。勝田は同年2月に応募し、6月15日の局内予選、つまり面接に合格している。6月30日に人を絞め殺した男が、7月6日にはスタジオでにこやかに笑っていたわけだ。

番組内では、司会者から「もし奥さんが美人コンテストに出たら100人中10人の合格者に入るでしょうか」と聞かれた。勝田は「自分はやせ型が好みだ。妻はすらっとした体格だからスタイルの面でみれば合格だろう」と答えている。夫婦は優勝し、賞金8万円と、提供スポンサーの百貨店の商品券10万円分を獲得した。

放送は1977年8月20日。視聴率は20パーセント前後だった。

そしてこの放送の8日前、8月12日に、5件目の殺人が起きている。視聴者が茶の間で笑いながら見ていた「仲のいい消防士夫婦」は、その時点ですでに5人を殺していた。茶の間の誰ひとり、そんなことは知らない。

1983年に勝田が逮捕されると、この収録映像が後継番組やワイドショーで繰り返し流された。その時点で妻とは離婚が成立していたため、解答席の妻の顔と名前は、モザイクと伏せ字で処理された。

司会を務めた海原小浜は、逮捕後に感想を求められて「あの人の顔は人間の顔ではない」と答えている。この一言は、当時の社会が受けた衝撃をそのまま言い表していると思う。人間の顔をしていない何かが、人間の顔でテレビに映って、賞金を持って帰った。それが恐ろしいのだ。

銃を手にしてから、狙う相手が変わった

1977年1月、勝田は同僚に誘われて、猟銃の取り扱いに関する講習を受けた。そのころから、友人と射撃場に通うようになる。消防の職場の同僚経由で、銃に触れる入口ができてしまったわけだ。

同年11月、彼は猟銃を1丁盗んだ。手口の詳細はここでは書かないし、書く必要もない。大事なのは、彼が銃を手にした瞬間に、狙う相手の条件ががらりと変わったことだ。

それまで彼が殺したのは、全員が女性だった。力でねじ伏せられる相手を選んでいたからだ。銃を持ってからは違う。「仕事で大金を扱う男性」が射程に入った。

6件目は1977年12月13日の午後5時すぎ。兵庫県神戸市葺合区、いまの中央区脇浜町のビルの通路でのことだ。勝田は集金帰りとおぼしき25歳の労働金庫の職員に猟銃を突きつけ、「静かにしろ、金を出せ」と脅した。

この職員がとっさに激しく抵抗し、勝田は発砲して、現金410万円を奪って逃げた。左肩から肺にかけて散弾を浴びた被害者は、2日後に出血多量で亡くなっている。

初めて銃を使った殺人だった。そして、この事件の直後の12月30日に、勝田の家では次男が生まれている。

1979年12月には、名古屋市内の愛好家の自宅から散弾銃を1丁盗んだ。翌1980年2月15日の午後3時50分ごろ、場所は名古屋市瑞穂区の市道。相手は、集金を終えてバイクで信用金庫の支店へ戻ろうとしていた44歳の外交員だ。勝田はこの外交員に猟銃を突きつけ、集金カバンごと小切手2枚を奪って逃げている。

額面の合計は24万6660円。捜査した瑞穂警察署がまとめた犯人像は、「年齢30歳程度、短髪で面長。青いサングラスに白っぽいジャンパー、暴力団組員風の男」だった。この時点でも、誰ひとり彼を消防士だとは思っていない。

7件目は1980年7月30日の午後11時すぎ。名古屋市名東区高社のスーパーマーケットで、閉店後に帰ろうと車に乗り込んだ35歳の夜間店長に、散弾銃を突きつけた。

「静かにして言うことを聞けば何もしない」と言って事務所の金庫を開けさせ、現金と商品券あわせて576万円余りを奪った。そのうえで盗んだ車を店長に運転させ、名古屋市中区の車庫まで移動させている。

そこで店長が抵抗した。銃身をつかんで、奪おうとしたのだ。勝田は「確実に逃走するためには殺害するしかない」と考えて発砲し、店長は出血多量で亡くなった。日付は変わって、7月31日の午前0時30分ごろだった。

この576万円で、勝田は何をしたか。280万円のアメリカ製スポーツカーを買い、50万円のゴルフ会員権を買った。それだけだ。人の命を奪って手にした金の行き先が、これなのだ。

車上狙いで捕まった夜、消防士の人生が終わった

1980年11月8日の未明。勝田は大阪市北区曽根崎新地の繁華街で、クラブホステスの乗用車と、車内にあったハンドバッグを盗んだ。財布に入っていた現金は7万8000円で、化粧品バッグも一緒だった。大阪府警天満警察署に緊急逮捕される。

翌11月9日、地元紙の朝刊に顔写真付きの三段見出しで記事が出た。見出しは「消防署員が盗み」。

逮捕から3日後の11月11日付で、勝田は相楽中部消防署から懲戒免職になった。それ以降、彼は一度も消防本部に姿を見せていない。ロッカーに残された私物は、謝罪に訪れた両親が持ち帰った。

この「辞令に涙し、手を震わせた」という場面を、後年、中日新聞の連載が拾っている。ただし、涙を流したのは本人ではない。

翌1981年1月29日、大阪簡易裁判所は、求刑懲役1年に対して懲役10月執行猶予3年の判決を言い渡した。

ここが、この事件でいちばん惜しい場所だ。1980年11月の時点で、勝田はすでに7人を殺していた。女性5人、男性2人。

その男が、警察の手の中にいた。指紋も取られている。顔写真も撮られている。

だが、事件は車上狙い1件として処理された。当然といえば当然で、大阪の天満署には、京都と大阪と名古屋と神戸に散らばった未解決の絞殺・射殺事件を、一人の車上狙い犯と結びつける材料は何もなかった。

手口がまるで違う。絞殺に、猟銃による射殺、そして車上狙い。指紋などの物証は、ほとんど残っていない。移動は自動車。この3点を、のちに警察庁の刑事局長が国会で「関連付けを難しくした事情」として挙げることになる。

ともかく警察はここで、凶悪犯罪の連鎖を止める機会を逃したのだ。そして勝田のほうは、職を失い、収入を失った。

それなのに、生活のレベルは落とさなかった。1982年には知り合ったスナック経営の女性と密会用のマンションを借り、家具に200万円かけている。妻とは別居状態で、乗る車はガゼールとクラウンのスーパーサルーン。金は両親にせびるか、盗むかしかない。借金を清算しては、また借金をつくる。

そのサイクルの終着点が、警察官襲撃だった。

巡査を車ではね、拳銃を奪う。一線を越えた夜

1982年10月25日ごろ、勝田は名古屋市中区新栄の駐車場から、大学生が持っていた乗用車を盗んだ。

10月27日の午後9時30分ごろ、愛知県千種警察署に電話をかけた。偽名を名乗って管内の派出所につないでもらい、応対した巡査に「派出所前を東に突き当たったところに車が停車しているので来てほしい」と告げた。電話に出たのは、ちょうどパトロールから戻った直後の、30代の巡査だ。

巡査は徒歩で現場へ向かった。言われた場所に、確かに車は停まっていた。だが、誰もいない。ナンバーを控えて派出所へ戻ろうとした、そのときだ。

後の証言によれば、彼は頭に「車に撥ねられたような衝撃」を受けて、意識を失った。実際に撥ねられていたのだ。勝田は盗んだ車を発進させて巡査をはね飛ばし、倒れたところへ近寄って鉄棒で頭部を殴った。

左顔面陥没、左前額部と右後頭部の割創、両膝前部の挫創。勝田はそのうえで、実弾5発入りの拳銃を奪って逃げた。

午後9時35分ごろ、通行人が、頭を血まみれにして電柱に寄りかかっている巡査を発見する。巡査はその通行人に、こう頼んだという。

「目が見えないので、交番まで連れて行ってほしい」

両眼を負傷し、一時は失明寸前まで行った。幸いその後完治し、勝田の一審判決が出る1986年3月までには職場に復帰している。

愛知県警は千種署に特別捜査本部を、県警本部に対策本部を置いた。「奪われた拳銃を使った第二の凶悪犯罪」の発生を全力で警戒し、県下全域に緊急配備を敷いた。

それでも、止められなかったのだ。

高速道路の夜と、100円ライター

1982年10月31日の午前2時55分ごろ、勝田は静岡県浜松市内のスーパーマーケットに拳銃を持って押し入った。店員が隙を見て外へ逃げ、「強盗だ」と叫んだため、諦めて逃走している。

いったん帰宅して夕方まで眠り、午後8時すぎに再び車で出た。午後8時半ごろ、名神高速道路の大津サービスエリアの上り駐車場。停まっていたワゴン車の助手席に強引に乗り込み、「名古屋まで乗せて行ってくれ」と言った。

運転していたのは27歳の溶接工の男性で、千葉県市原市の自宅へ帰る途中だった。走り出してすぐ、隠していた拳銃が足元に落ち、運転手に見られてしまう。拾い上げた勝田は「逃げると撃つぞ」と脅し、インターチェンジで一般道へ降りて名古屋方面へ向かわせた。

午後9時30分ごろ、滋賀県草津市大路の国道1号の路上。運転手は車を急停車させ、拳銃を奪おうとした。二人は揉み合いになり、勝田は発砲した。

ここから先は、勝田の供述と判決の認定が真っ向から食い違う部分になる。だから慎重に書く。確定判決は、勝田に殺意があったと認定している。勝田自身は最後まで「殺意はなく、撃鉄を起こしたまま別の動作をした拍子に暴発した」と主張し続けた。

彼が後に自筆で書いた控訴趣意書と上告趣意書は、この一点について、驚くほど執拗に法廷の事実認定を批判している。ともかく司法上確定しているのは、2つだけだ。この運転手が翌11月1日に亡くなったこと。そして、勝田が強盗殺人の責任を負ったこと。

動かなくなった運転手を後部座席に乗せたまま、勝田は名古屋市内の深夜スーパーを狙うつもりで車を走らせた。しばらくして、後ろから声がした。「水をくれ」。まだ生きていたのだ。

勝田はうろたえ、病院に置いていこうと探したが見つからず、やがて運転手は息絶えた。奪ったのは現金4万円。名古屋での強盗は諦め、再び名神高速に乗った。

日付が変わって11月1日の午前2時35分ごろ、岐阜県養老郡養老町の養老サービスエリア。勝田は車を停め、血のついた手袋をゴミ箱に捨てた。そこを、エリア内のガソリンスタンドの従業員に見られたと思ったのだ。

「中を見ただろう」と問いただし、相手が否定すると、今度は服装からスタンドの従業員だと判断して売上金を奪うことを思いついた。拳銃を突きつけて「名古屋の事件を知ってるやろ。売上げ金を出せ」と脅した。従業員が後ずさりすると、撃った。

ここで、ちょっと信じられないことが起きる。弾は胸に命中した。だが、この従業員は死ななかった。胸ポケットに入れていた100円ライターが、弾を弾いたからだ。

彼は全治2か月の重傷を負いながら逃げ延び、勝田は売上金を諦めて逃走した。ジャンパーは脱ぎ捨て、京都方面へ向かうトラックに乗せてもらい、大津サービスエリアに置いていた自分の車で家へ帰っている。

11月1日、警察庁はこの一連の事件を広域重要指定113号事件に指定した。それでも勝田は止まらない。1982年11月28日には京都市山科区のスーパーマーケットに拳銃を持って押し入り、現金152万7000円を奪って逃げている。

年が明けた1983年1月30日の午後8時ごろ、勝田は京都市内のマンションを自分の車で出発した。31日の午前8時30分すぎには、名古屋市西区の路上で別の車を盗んで乗り換えた。犯行場所を物色して入ったのが、御器所の銀行の裏の駐車場だ。

その後のことは、最初に書いたとおりだ。

452日間。取調室で起きたこと

逮捕後の勝田は、最初から全部を喋ったわけじゃない。

留置場で、彼は眠れない夜を過ごしていた。本人の言い方によれば、殺した人たちの怨霊のようなものに怯えていたという。逮捕から8日後の2月8日、すべて話して楽になろうと考えて、養老の一件のほかに、女性5人と男性2人を殺したことを自供した。

このときの捜査側の反応が、この事件のいちばん奇妙なところだ。取調官は何度も「本当にお前が殺したのか」と確認したという。信じられなかったのだ。

5人の女性の絞殺事件は、どれも「怨恨・痴情」の線で捜査され、事実上の迷宮入りになっていた。それが、いま目の前で銀行強盗をしくじった男の仕業だというのだから、無理もない。

勝田は後年、なぜあそこまで喋ったのかについて、こう書き残している。告白しない自分自身に、もはやごまかしが通らなくなっていたのです、と。

彼が繰り返し挙げていた理由が、もうひとつある。かつて自分が無実の殺人の嫌疑をかけられ、勤め先に警察が来て、社長に「人を殺したのか」と詰め寄られた記憶だ。自分の事件で同じ目に遭っている人間が何人もいる。それを晴らさないと済まない、と彼は書いている。

供述が出るたびに、名古屋地検と愛知県警は起訴と再逮捕を繰り返した。1983年2月10日、地検はまず銀行前の強盗致傷と窃盗で起訴。県警は同日中に、警官襲撃・拳銃強奪の強盗致傷と窃盗の容疑で再逮捕した。以後、残る罪状が次々と追起訴されていく。

すべての捜査が終結したのは1984年4月26日。逮捕からこの日まで452日で、愛知県警本部における留置期間の史上最長記録になった。この間に彼が読んだ本は100冊にのぼると、当時の新聞は報じている。同日、勝田は名古屋拘置所へ移送された。以後、死ぬまでこの建物から出ることはなかった。

最終的に彼が起訴されたのは、合計33の罪状、27の犯罪事実だ。内訳は強盗殺人7件、殺人1件、強盗致傷3件、強盗2件、強盗殺人未遂1件、強盗未遂1件、窃盗12件などだ。

窃盗・強盗の総数は、彼の供述をもとに300件とも400件とも500件とも報じられている。数字が揃わないのは、10年以上前の空き巣の日付と場所を、本人も覚えていないからだ。

「まだ10人くらい女性を殺している」――22人という数字の正体

公判が進んでいた1983年10月23日までに、勝田は男性3人、女性5人の計8人の殺害を自供していた。そこまでは、後に法廷で認定される数と一致する。

問題はここからだ。彼はそれとは別に、こう供述した。

「まだ10人くらい女性を殺している。最初の殺人は16歳か17歳のころ、郷里の木津町近辺で犯した」

毎日新聞は1983年10月24日付の朝刊で、「殺害人数は合計18人か」と報じた。仮に本当なら、1948年の帝銀事件の12人を超え、戦後日本の犯罪史上最悪の大量殺人事件に発展する、と。

さらに、1993年に出た佐木隆三の犯罪事典には、犠牲者は計22人という記述がある。内訳は女性19人と男性3人で、そのうち立件できたのは8件だ、という。この「22人」がひとり歩きした。いまでも勝田清孝を紹介する記事の見出しには、たいてい22という数字が踊っている。

だが、ここは分けて読まないといけない。

追加で供述された分は、既に自供していた8件と比べて、時間も場所も記憶が曖昧だった。裏付けが取れず、結局ひとつも立件されなかった。確定判決が認定した殺害は8人。それ以上でも以下でもない。

自白は捜査の端緒にはなるが、それだけで犯罪事実が確定するわけじゃない。当たり前の話なのだが、この事件については、その当たり前が守られてこなかった。

彼を「22人殺した男」と断定して書いた雑誌が山ほどあり、本人はそれを読んで人間不信を深めていった。義姉となった来栖宥子は後に、勝田が「マスコミにその実像を誇張、捏造して伝えられた」ことに苦しんでいたと書いている。

先に言っておくが、これは勝田を擁護する話ではない。8人殺せば死刑になる。22人でも8人でも、判決は変わらなかった。確定していないことを確定したかのように書くのは、単純に事実に反する。それだけの話だ。

二つの死刑を求刑された法廷

1983年5月27日の午後1時15分、名古屋地裁刑事第4部で初公判が開かれた。弁護人は国選が1人。

この時点で起訴されていたのは、京都山科の事件2件、拳銃強奪事件、浜松の事件、養老サービスエリアの殺傷事件、そして銀行前の事件だ。勝田は養老の件についてのみ殺意を否認し、その他は大筋で起訴事実を認めた。

弁護人は、各犯行時の勝田が「心神耗弱状態、すなわちノイローゼ状態」にあったとして、完全責任能力を否定した。検察が1万5000字に及ぶ冒頭陳述で読み上げたのは、生い立ちから犯行動機、犯行経緯までだ。

この裁判には、少し変わった構造がある。刑法45条の併合罪の規定によって、勝田の犯罪は途中で受けた有罪判決を境に、真っ二つに割られたのだ。

1980年11月の車上狙いで執行猶予判決が確定するまでが「前半事件」で、強盗殺人7件を含む17罪。その後の「後半事件」が、殺人1件を含む113号事件関連の16罪だ。だから主文も2つになる。求刑も判決も、2つずつ言い渡されることになったわけだ。

1983年10月26日の第5回公判で、勝田は初めて法廷で殺人の件数を口にした。「男女7人を殺害した。申し訳ない気持ちでいっぱいだ」。そして、涙を流した。この日は、千種区の警察官襲撃事件からちょうど1年になる直前だった。

検察が前半・後半の両方について死刑を求刑したのは、1985年11月26日の第22回公判だ。論告は容赦がない。「天をも恐れず、共同社会の一員に留まることを自ら否定するかのように犯行を重ねた」と、まず断じた。

続けて、「男女7人を無差別に殺害するなど冷酷性を究めた」と指摘した。後半事件でも「有罪判決後にまた1人を殺害するなど更に残忍性を強め」た、という。そして「犯行から次の犯行までの再犯速度を著しく速めて法秩序に挑み、社会を完全に敵に回した」と続けた。

そのうえで、高速道路と銃器を用いた「現代的犯行」の手口は模倣性・伝播性が高く、もはや矯正は不可能だ、と述べた。

1985年12月16日の第23回公判で結審。初公判から、2年7か月が経っていた。最終意見陳述で、勝田は拘置所内で綴った『贖罪の日々』という手記を提出し、被害者と遺族への謝罪を述べている。

1986年3月24日、名古屋地裁は求刑どおり、前半・後半の両事件とも死刑を言い渡した。判決理由には、こうある。

「果てしない虚栄心・物欲を満足させるため犯罪の拡大・再生産を行い、大胆で悪質・残虐だ」

「逮捕後、反省・悔悟の日々を送っているとはいえ、自らの生命をもって史上まれな凶悪犯罪を償うほかにない」

一人の人間が2つの死刑判決を受けて確定した例は、8人を殺して1959年に執行された死刑囚以来のことだった。

死刑は違憲か。名古屋高裁で弁護団が挑んだこと

勝田は当初、控訴に消極的だった。判決から2日間、拘置所で弁護人と話し合っている。弁護人が「正しい判断を受ける権利がある」と説得すると、「控訴すべきだろう」と応じた。1986年3月28日、本人と弁護人が別々に控訴状を提出した。

控訴審の中身は、正直、ずいぶん異様だ。事実認定の争いより、死刑制度そのものの違憲性についての論戦が中心になっていったからだ。

弁護団が掲げた論点は3つある。ひとつ、死刑は憲法36条が禁じる「残虐な刑罰」である。ふたつ、刑法は死刑を絞首によると定めるだけで、具体的な方法を定めた法律がなく、憲法31条の法定手続の保障に違反する。

みっつ、死刑執行に関与する刑務官には過酷な苦痛が課されており、憲法18条が保障する苦役からの自由を侵害する。

検察側は、執行方法は1873年の太政官布告、いわゆる絞罪器械図式で規定されており、現行憲法下でも有効だと反論した。刑務官に関する主張は独自見解にすぎない、とも。

1987年9月9日の第5回公判で、弁護団は証人を申請した。松山事件で再審無罪が確定した元死刑囚や、東京拘置所の勤務医時代に百数十人の死刑囚と交流した作家。死刑執行を体験した元刑務官に、各国の死刑制度に詳しい専門家もいる。最終弁論までに計14人を申請したが、ことごとく却下された。

これに対して主任弁護人らは、1987年6月30日付で担当裁判官3人の忌避を申し立てている。証拠調べを却下されたままでは公正な裁判が行われないおそれがある、という理由だった。

名古屋高裁は7月8日までに、「証拠申請を却下したからといって不公平な裁判をするおそれはない」として却下し、異議申し立ても退けた。主任弁護人は訴訟指揮への不満から辞任届を出したが、高裁は同年12月までに「辞任は認めない」と決定している。

1988年1月12日に結審。同年2月19日、名古屋高裁は一審の死刑判決を全面的に支持して、控訴を棄却した。

判決は、弁護側の「自首」の主張も退けている。逮捕されるまで連続的に殺人などの犯行を反復しており、とうてい自首とは認められない、というのだ。

そのうえで一連の犯行を、「飽くことを知らぬ金銭欲を充足させ、虚飾に満ちた生活の維持を図るべく行われた」ものだとした。「わが国の犯罪史上にも類例を見いだし得ない事件で、酌量の余地は何らない」とも断じている。

判決後、主任弁護人は中日新聞の取材に「証拠調べ、事実認定、死刑違憲論議など、あらゆる点で審理が尽くされておらず承服しえない判決だ」と答えている。

勝田本人は、接見に来た弁護人に「死刑違憲論の審理に期待していたが、名古屋高裁は証人申請を認めず踏み込んだ内容にはならなかった」と不満を語った。そして自分で上告状を書き、1988年3月2日付で最高裁に上告した。ここから、長い待ち時間が始まる。

数十秒で終わった最高裁

上告審の口頭弁論が開かれるまでに、5年半かかった。

1993年11月4日、最高裁第一小法廷。弁護人は憲法36条を根拠に死刑違憲論を展開し、精神鑑定を実施しないまま責任能力を認めたのは憲法31条違反だと主張した。養老の件は殺意がなく暴発だったのに、確定的殺意を認定したのは重大な事実誤認だ、とも訴えた。

さらに、逮捕後に自白した7件の殺人を判決自体が「自首」と認めながら、量刑の軽減を認めたのは1件だけだったのは不当だ、と。検察側は「殺人7件の自白・反省悔悟の情を考慮しても死刑に処する以外にない」と述べ、上告棄却を求めた。

1994年1月17日、上告審判決。第一小法廷は「罪責が重大で、犯行を深く悔悟していることなどを考慮しても一・二審の死刑判決はやむを得ない」として、上告を棄却した。逮捕から11年が経っていた。

この日の法廷には、社会見学の子どもたちが傍聴に来ていたという。主文は、開廷からわずか数十秒で読み上げられた。注目を集めた事件にしてはあっけない結末だった、と新聞は書いている。

弁護団は記者会見で、こう述べた。ある程度は予想していた判決だったが、日本は国際連合の人権規約委員会から死刑廃止を勧告されている。そのような情勢の中で、国民感情だけを根拠に死刑を存続するのは時代に合わないのではないか。

勝田は1月26日付で判決訂正を申し立てた。だが2月3日付で、裁判官5人全員一致で棄却された。死刑が正式に確定したのは、決定書が届いた2月5日のことだ。

この1994年1月17日という日には、彼の人生でもうひとつのことが起きている。支援者の女性の実母と養子縁組をして、姓が「藤原」に変わったのだ。

一通の手紙から始まった13年

死刑囚となった勝田は、外の世界との回路をほとんど閉じてしまった人だった。マスコミを徹底的に嫌い、死刑廃止運動にも月1回の教誨にも興味を示さず、獄外との連絡を絶って自分の殻に閉じこもった。

各社があらゆる手段で接触を試みたものの、ことごとく失敗。それが彼を、さらに遠ざけた。

そこへ、名古屋に住む一人の主婦から手紙が届いた。来栖宥子という。カトリックの信徒で、司法にも死刑にも詳しくない、本人の言葉を借りれば「平板な人生を送ってきた主婦」だった。

きっかけは、1987年に創出版から出た勝田の獄中手記『冥晦に潜みし日々』だった。207ページの本で、装丁の絵は勝田自身が描いている。帯には「五人の女性、三人の男性を殺し続けた連続殺人犯がみずからの犯罪行為を赤裸々に綴った注目の書」とあった。

来栖はこの本を、同じ名古屋拘置所に収監されていた別の被告から差し入れの形で受け取って読んだ。翌1988年1月半ば、感想文のような手紙を初めて書いている。

手記は、表現こそ拙いが、生い立ちと事件について正直に書かれていた。7件の殺害を自ら告白するくだりには、それによって死刑が決定的になるという不安と恐怖が、隠されていなかった。彼女が手紙に書いたのは、「勝田さんの正直な佇まいに、心を動かされました」という言葉だ。

ここから、13年続く交流が始まる。彼女が送った手紙類は約600通、勝田からの返事は約400通。名古屋拘置所への面会は、200回を優に超えた。勝田は彼女を「たった一人の心友」と呼んだ。

死刑が確定すると、親族以外は面会も文通も原則としてできなくなる。だから確定の日に養子縁組をして、義理の姉弟になったわけだ。

念のために言っておくと、この本を読んで正反対の感想を持った人も大勢いる。読書サイトには、手記はこう書いてあるようにしか読めない、という辛辣な評が残っている。「自分が金に執着するようになったのは親が金を与えたからだ」。「殺すのが目的じゃなくて、相手が騒いだから殺すしかなかっただけだ」。

実際、彼が自分で書いた控訴趣意書と上告趣意書を読むと、その印象もよくわかる。8名の命を奪った自分に否認する資格はないと、何度も書いている。そのくせ養老の一件については、裁判官の認定を「妄断」と呼び、法廷の審理を「事なかれ主義裁判」と呼び、「正義などみじんも窺えなかった」とまで書く。

反省の言葉と、裁判所への強烈な不信。それが、同じ文章の中に同居している。

獄中の彼は、視覚障害者のための点字翻訳のボランティアを続けていた。刑の確定者である彼に、拘置所は親族以外の団体との連絡を特別に許可していた。「少なくとも108冊以上、訳したい」と、恥ずかしそうに言ったことがあるという。108というのは、煩悩の数だ。

2000年11月30日、20世紀最後の絞首

死刑執行までの最後の1年、勝田は重度の腰痛で、ほとんど寝たきりだった。横になるにも許可がいる。晩年は、点訳の作業も思うように進まなかった。

生前最後の面会は2000年11月28日。死刑執行の2日前だ。彼は終始、両腕に体の重みを預けるようにして、腰をかばっていたという。

11月30日。法務省の死刑執行命令により、名古屋拘置所で2人、福岡拘置所で1人の刑が執行された。

勝田への告知は、同じ拘置所のもう一人の執行が終わった、午前9時30分ごろのことだ。拘置所長が後に義姉に語ったところによれば、告知の直後、彼は根が生えたように座って動かなかったという。8階の居室からエレベーターに乗るまでに、ずいぶんと時間がかかった。拘置所側はそれを、じっと待った。

所長は「藤原は動揺しやすいので、あとにしました」「動揺しやすいので力を貸してください、と僧侶にお願いしました」と説明したという。

最初は「遺書は書かない」と言っていた。それを変えたのは、僧侶らの説得だ。刑場の隣の部屋で書いた2通のうち、1通は実の両親宛てで、感謝の言葉が連ねてあった。

もう1通は義姉宛てで、こういう文面だった。喧嘩ばかりしてごめんなさい、本音は心より信頼しておりました、怒らせるようなことばかり繰り返して実に済まぬことだったと深く反省しております。

急な宣告に今は大変ショックでとても冷静とは言い難いですが、自分の犯罪を省みて、この急な宣告も仕方が無いか、ともう諦めの境地に自分を導いている次第です。私のような人間のことは一日も早く忘れ、決して泣かぬよう、幸せな日々をお過ごしください。私は幸せ者でした。

さらにもう1枚、宛先を特定しない紙に、こう書いて拇印を押している。私に関する一切の所持品及び遺品、遺骨を含めて、決してこの世に残ることのない焼却処分を強く希望します。

遺書を書き終えると、煙草を一服した。それから、僧侶に付き添われて刑場へ向かった。

生前、面会でこう言っていたそうだ。執行に際してははっきり告知してほしい、騙されるように連行されるのは嫌や、自分の足でしっかり歩いて行きたい、と。所長によれば、彼は自分の足で歩いた。本人の望みは、そこだけは叶ったことになる。

刑場では、被害者一人一人の名前を号泣しながら唱え、詫びた。後ろ手に縛られ、頭巾で目隠しをされたあと、最後にこう申し出た。

「もう一度、先生の顔を見たい」

頭巾が取られた。立ち会った僧侶の顔を見て、「ありがとう」と言った。それが最後の言葉だったと伝えられている。午前11時38分、死亡。52歳だった。

これが、20世紀最後に執行された死刑のひとつになった。助命を願う声が、なかったわけじゃない。

1994年10月には、カトリック名古屋教区の委員会が、全国の宗教家など2516人分の助命嘆願の署名を法務大臣に提出していた。それが効くことはなかった。

12月2日の正午から名古屋市内の斎場で行われた葬儀に参列したのは、義姉のほか、教会関係者ら約20人だ。遺体は同日の午後に火葬された。荼毘に付したとき、腰の部分には骨がほとんど残っていなかったという。

義姉は「あんな腰でよく点字を打てたものだ」と書いている。遺骨は、岡山県にある義姉の実家の墓に納められた。

事件が通り過ぎたあと、そこに残されたもの

この事件のいちばん重たい部分は、判決でも執行でもない。勝田清孝という一人の男が通り過ぎたあとに、どれだけの人生がねじ曲がったまま残されたか、というところにある。ここからは、それぞれの立場の人が残した言葉を、いくつか並べて書く。

弾を弾いた100円ライターと、その後の夜勤

養老サービスエリアのガソリンスタンドで撃たれた従業員の話から始めたい。彼は40代の男性だった。深夜の2時半すぎ、勤務中に見知らぬ男から「中を見ただろう」と声をかけられた。

次の瞬間には拳銃を突きつけられ、「名古屋の事件を知ってるやろ。売上げ金を出せ」と脅された。後ずさりしたところを、撃たれた。

胸ポケットの100円ライターが、弾を弾いたのだ。それだけのことで、彼は生き延びた。ライターがなければ、確定判決が認定する死者は9人になっていた。

全治2か月の重傷を負い、彼はその後、職場に復帰している。ただし、以前と同じ人間には戻れなかった。1986年3月、一審の死刑判決が出た日に、中日新聞が関係者の声をまとめている。

その記事によれば、彼は夜勤のとき、自然と周囲を必要以上に確認するようになった。人間不信の状態に陥った、と表現されている。

ここからは想像するしかない部分だ。深夜のサービスエリアというのは、そもそも見ず知らずの人間が次々に降りてきて、少し話して、また走り去っていく場所だろう。そこで働くというのは、通りすがりの他人を基本的に信用する仕事でもある。

その土台を、あの夜に撃ち抜かれたんだと思う。全治2か月と診断書に書かれたのは、胸の傷だけだ。そのほかの部分については、誰も治癒を証明してくれない。

拳銃を奪われた巡査も、似た形で記録に残っている。彼は両眼を負傷して一時は失明寸前まで行き、頭部と膝に重傷を負った。幸い完治し、勝田の一審判決までには職場に復帰した。

1986年の同じ記事で、関係者の声は「命の尊さを知れ」「ひとつの区切りがついた」といった短い言葉として拾われている。区切り、という言葉が使われるまでに、事件から3年半かかっている。

1986年の一審判決では、押収されていた拳銃1丁と実包、弾丸2個が、この巡査に還付されている。奪われたものが、判決文の末尾でようやく持ち主のところへ戻ったわけだ。

6年間、殺人犯として見られ続けた男

もうひとつ、絶対に飛ばしてはいけない話がある。勝田が捕まるまでの間、彼が殺した人の周囲にいた人々が、代わりに疑われ続けたことだ。

1977年6月に名古屋市南区で麻雀荘のパート従業員が絞殺された事件では、被害女性と関係のあった30代の会社員が容疑者として浮かんだ。事件当日、彼は彼女の部屋を2度訪ねていた。2度目が、事件発生時刻に近い深夜だった。帰宅時間を証言できるのは妻だけで、要するにアリバイがない。

取り調べは執拗だった。その過程で、彼が会社の金に手をつけていたことが発覚して逮捕される。懲役2年の判決を受け、1年4か月服役した。横領は彼自身の罪で、そこに言い訳の余地はない。

だが殺人の嫌疑のほうは、勝田が自供するまでの6年余り、晴れることなく彼の上に乗り続けた。彼は職を失い、家庭も崩壊寸前まで行った。

この件については、のちに愛知県警が謝罪している。1984年9月29日には、この経緯をもとにした実録ドラマが放送された。当時の長寿サスペンス枠の最終回で、番組の冒頭には、実在の個人・団体を誹謗中傷するものではない、という断りが表示された。

このドラマのクライマックスは、無実を訴え続けた男が、自分を追い詰めた捜査官に「謝れ」と叫ぶ場面だという。捜査官は謝らない。男は殴りかかる。ドラマだから脚色は入っているだろうが、この構図そのものは作り物じゃない。

同じことは、ほかの事件でも起きている。1976年に名古屋市中区で殺された女性の件では、直前に一緒に食事をしていた40代の弁護士が疑われた。プライバシーを徹底的に暴かれ、廃業に追い込まれている。被害者が勤めていたクラブも、常連客への聞き込みが続いて客が離れ、閉店した。

1977年8月に名古屋市昭和区で殺された女性の件では、遺体の第一発見者となった20代の男性が連日事情聴取を受け、離婚し、会社を辞めた。1972年の京都の事件で疑われたのは、同居していた男性と勤め先の常連客だ。1975年の吹田の事件では、同棲相手と、当夜会う約束だった会社社長が疑われている。

数えてみてほしい。確定判決で認定された8人の被害者のほかに、少なくとも5人か6人の人間が、殺していない殺人の嫌疑を年単位で背負わされている。廃業、離職、離婚、服役、閉店。

これを全部、勝田ひとりのせいにするのは公平ではない、という見方もある。捜査の判断は、捜査機関がしたことだ。それでも、勝田がひとつ嘘の代わりに沈黙を選ぶたびに、どこかで誰かの人生が削られていたのは確かだ。

彼自身、控訴趣意書にこう書いている。自分の昔を思い起こし、無実の罪を着せられて日陰を生きてきた人達の苦衷を察すると、何としても嫌疑を晴らしてやらねば済まない、と。1972年に彼自身が無実の殺人を疑われたあの経験が、皮肉な形で戻ってきたのだ。

「彼が最後に幸せだったことは、許されないことです」

もっとも重い言葉は、被害者の遺族から来た。

義姉となった来栖宥子は、勝田の執行から4年半後の2005年6月、一通のメールを受け取っている。差出人は実名で書いてきたが、来栖は公開にあたってそれを伏せた。文面を、そのまま引く。

私の母は勝田に殺されました。勝田は貴方に、死ぬ前の気持を伝えられたけれど、私の母は何も言えぬまま殺されました。勝田は覚悟を決められたけど母は決められなかったと思います。大人になってから、色々とかたりたいこともあったと、そう思います。

勝田のなにをうったえたいのかわかりません。実はいい人とでも。罪は許されないが彼は許される。彼が最後に幸せだったことは許せないことです。

これに対して、来栖は反論しなかった。指摘されている一つ一つが正当端的で、立ち上がってくる切なる思いに打たれた、と書いている。そして続けた。勝田によって唐突に理不尽に何の覚悟も無く命を奪われた被害者の最後とは天地の開きであり、許し難いことである、と。

このやりとりは、この事件が残した問いを、そのまま見せてくれると思う。

勝田は最後に、告知を受け、遺書を書き、煙草を吸い、僧侶の顔を見て、ありがとうと言って死んだ。死刑という制度の中でも、それはずいぶん整った最期の部類に入る。拘置所は彼を待ち、僧侶は付き添い、義姉は遺体を引き取って通夜を出した。

彼が殺した8人には、そのどれもなかった。深夜のアパートで、マンションの通路で、路上で、ビルの通路で、駐車場で、国道の脇で、一言も残せないまま終わったのだ。遺族は、その最期を最後まで知ることができない。

被害者遺族が「彼が最後に幸せだったことは許せない」と書くのは、当たり前のことだ。そして、それが当たり前だというところこそが、この事件のいちばん動かしがたい部分なのだと思う。

取り調べにあたった刑事の言葉

もうひとつだけ、性格の違う証言を置いておきたい。勝田を取り調べたベテラン刑事の言葉で、勝田が自分で書いた控訴趣意書の中に出てくる。

その刑事は、捜査一課ひとすじで31年やってきた人だった。次々に自分から余罪を喋る勝田を前にして、こう言ったという。永年いろんな被疑者を取り調べてきたが、自分から何もかも喋るお前みたいな奴は初めてじゃ、と。

別の日には、こうも言った。わしはお前に何一つ罪の追及はしていないんだぞ。お前が全部自分から喋ったことなんだ。もし証言が必要ならいつでも言って来い。法廷に立って証言してやる。

勝田はこの申し出を、一度は断ろうとしている。警察官の言葉に頼ることは、被害者への詫びをなおざりにして罪を逃れる卑劣な手段に思えてならなかった、と書いている。結局は弁護人に諭されて証人申請したが、それも却下された。

義姉によれば、この刑事は勝田の訃報に接して「冥福を祈ります」と言ったという。

担当した検事も、似た趣旨のことを言っている。浜松や京都のスーパーを襲った事件と、神戸や名古屋の猟銃を使った事件は、手口も似ているから、お前が喋らなくてもいずれ追及されただろう。だが5人の女性殺しは、お前が喋らなければ絶対に判らなかった。なぜそんな古い事件まで話す気になったんだい、と。

現場検証のとき、捜査員がさりげなく握り飯を分けてくれた。そういう小さな心遣いに触れるうちに、良心の呵責に苛まれるようになった、と勝田は手記に書いている。告白しない自分自身に、もはやごまかしが通らなくなっていたのです、と。

これを美談として読むかどうかは、読む人しだいだろう。ただ、迷宮入りした5件の女性殺害の真相が明らかになったのは、科学捜査でも張り込みでもなかった。取調室でのこうしたやりとりからだった、というのは記録として残しておく価値がある。

更地になった家

勝田の逮捕によって、木津町の実家の家族は郷里を離れた。

1996年、義姉となった来栖がこの集落を訪ねている。彼女が着いたとき、家はもうなかった。10日ほど前に取り壊されて、更地になっていたという。

近所の人に尋ねると、こう教えられた。土地の持ち主から「廃材の一本も無いように、土地だけにして返してくれ」と言われ、家族が来て壊していったのだ、と。

彼女は、タクシーを待たせたまま、思いのほか小さく見える土地の前にぼんやり立っていたと書いている。そしてこう付け加えた。殺人犯の出た家を、土地の所有者は逮捕から13年間もそのままにしておいてくれたのだ、と。

勝田の妻は、逮捕の時点ですでに離婚が成立していた。子は二人いた。息子たちのその後について、公にされている情報はない。それでいいと思う。

父親については、少しだけ記録がある。少年院に入った息子に、友人が「面会に行ってやってほしい」と土下座して頼んでも、世間体を気にして一度も行かなかった。

そのくせ車を買う金をせびられれば出し、1976年には金に困ったと泣きつかれて200万円を渡している。1980年の車上狙いのときには、裁判所に減刑を求める嘆願書を出した。甘やかしと突き放しが、ちぐはぐに同居している人だった。

勝田はこの父親に宛てて、最後の日に感謝の手紙を書いている。

職場のほうはどうなったか。相楽中部消防組合本部にとって、この事件は最悪の形で降ってきた。1980年11月に「消防署員が盗み」の三段見出しが出て、3日で懲戒免職にして、それで終わったはずだった。

その2年3か月後、かつての部下、かつての同僚が、全国の新聞の一面に別の顔で戻ってきたのだ。表彰20回、全国競技大会に2年連続入賞したあの男が、8人を殺していた。

彼の在職中を知る人たちが公の場でまとまって語った記録は、公開資料の中にはほとんど見当たらない。当時を取材したノンフィクションが拾っているのは、勤務態度は真面目で、上役や同僚の評判も悪くはなかった、という程度の淡い言葉だけだ。

無理もない。何を言っても、あの二重生活を見抜けなかったという一点に戻ってしまう。

ひとつだけ、はっきりしていることがある。1977年1月、勝田が猟銃の講習を受けるきっかけをつくったのは、職場の同僚の誘いだった。射撃場に通うようになったのも、そこからだ。

もちろん、誘った同僚に責任はない。趣味に誘っただけだ。ただ、その人がその後の人生でこの事実をどう抱えたかを考えると、気が重くなる。

この事件が、日本の捜査の仕組みに残したもの

勝田清孝が10年捕まらなかった理由を、警察庁の刑事局長が1983年3月の国会で説明している。第98回国会の、参議院地方行政委員会でのことだ。

挙げられたのは3点だった。ひとつは、手口が一定していなかったこと。絞殺があり、猟銃による射殺があり、奪った拳銃による射殺がある。あとの2つは、指紋などの物的証拠がほとんど残されていなかったこと、そして自動車で広範囲を移動していたことだ。

当時の捜査手法が同一犯を割り出すために使っていた道具立ては、犯罪手口の照合と指紋だった。この2つが、両方とも効かなかったわけだ。そのうえ地理的に、管轄を横断していた。

同じ答弁では、こうも説明されている。1983年3月の時点では、113号事件で死亡した1人とは別に7件7人の殺害をほのめかしており、警察が裏付けを進めている段階だ、と。

日本の広域捜査の仕組みは、この事件の20年前にできたものだった。1956年に重要被疑者特別要綱、1957年に犯罪捜査共助規則。そして1963年から64年にかけて、5人を殺しながら全国を逃げ回った男の事件があった。これを契機に、1964年4月13日、広域重要事件特別捜査要綱が制定された。

警察庁が指定した広域重要事件については、国が予算を出し、警察庁の調整のもとで関係する都道府県警察が特別捜査を行う。1974年に広域重要捜査要綱へ移行し、指定対象は「社会的反響の大きい凶悪又は特異重要の事件」に絞られた。1981年10月には、準指定制度が増設されている。

制度そのものは、存在した。にもかかわらず、勝田事件で広域重要指定113号として指定されたのは、1982年10月末からの一連の事件だけだ。警察官からの拳銃強奪と、それを使った強盗殺人・強盗。それ以前の7件の強盗殺人も、300件近い窃盗も、指定の対象になっていない。

なぜか。指定するには、まず「同一犯による広域の連続事件だ」と気づかなければならないからだ。京都の絞殺、大阪の絞殺、名古屋の絞殺、神戸の射殺。これらが一人の男の仕業だと誰かが言い出さない限り、そもそも指定の俎上に載らない。制度は、気づいた後にしか働かない。

1983年10月27日、事件からちょうど1年のタイミングで、日本経済新聞の名古屋版がこう見出しを打っている。「短銃強奪の勝田事件から1年、広域捜査に教訓、常識外の捜査どう克服」。

常識外、という言葉が全部を言っている。当時の捜査の常識では、京都と名古屋と神戸の事件が一本の線でつながるはずがなかった。

そのあと何が起きたか。時期の一致だけを、事実として並べておく。

警察庁は1983年10月から、犯罪現場に残された指紋から犯人を割り出す遺留指紋照合業務を、指紋自動識別システムを使って開始した。1984年10月からは、これに加えて被疑者の身元や余罪を確認する業務も始めている。導入前後1年を比較すると、該当者の確認件数は4.4倍に増えたという。

昭和60年の警察白書には、こういう一節もある。同一犯人による広域犯罪かどうかの判断は、各都道府県警察の広域捜査官らが保管中の未検挙重要事件記録を突き合わせて行っている。だが広域犯罪の増加が著しい今日、細かなデータの照合を手作業で正確に行うには、多大な労力と困難が伴う。

そこで警察庁は、「重要事件関連検索システム」を開発した、と白書は続ける。重要凶悪事件の中から、同一犯人によって2都道府県以上にわたって行われた広域犯罪を割り出す機能を持つシステムだという。

白書が挙げているこのシステムの目的は、2つだ。ひとつは、重要事件が発生したときに既登録事件と自動照合して類似事件を抽出し、同一犯かどうかの判断に役立てること。もうひとつは、重要事件の被疑者が検挙されたときに、既登録の未解決事件から類似事件を抽出し、余罪捜査を適正かつ迅速にすること。

読み返してみてほしい。これはそのまま、勝田事件でできなかったことの一覧だ。1982年に養老で人が撃たれたとき、1977年に神戸で労金の職員が撃たれた事件と照合する仕組みはなかった。1983年に勝田が捕まったときも、未解決の絞殺事件から候補を抽出する仕組みはなかった。だから彼が自分から喋るまで、誰も気づけなかったのだ。

このシステムは、昭和60年度から運用を開始する予定とされている。勝田の捜査が終結したのが1984年4月だから、時期はぴったり重なる。

白書はもちろん「勝田事件があったから作った」とは書いていない。こういうシステムの開発は何年もかかるものだから、単純な因果として書くのは乱暴だ。それでも、1980年代半ばの日本の警察が何に困っていたかは、これ以上ないほどはっきり読み取れる。

残念ながら、この時期の教訓が直後の事件を防いだわけでもない。勝田が逮捕された翌1984年には、拳銃を得るために警察官を襲って射殺し、その銃で消費者金融の店員を撃った事件が起きた。これも広域重要指定を受けている。犯人は、元警察官だった。

その後も、派出所や交番が襲われ、警察官が殺されて拳銃が奪われる事件は、1989年、1992年、そして2018年に複数と、断続的に起き続けている。

なぜ「人を助ける仕事の人間が」という構図は、これほど刺さったのか

さて、最後にいちばん大事なところを書く。

勝田清孝という名前が40年以上たっても消えないのは、殺した人数のせいではない。日本の犯罪史には、より多くを殺した事件がある。10年という期間の長さでもない。逃げ切った未解決事件のほうが、もっと不気味だ。

刺さったのは、構図だ。「人を助ける仕事の人間が、その手で殺していた」という構図である。この構図がなぜ日本社会にこれほど効いたのか、いくつか角度を分けて考えてみたい。

ひとつめ。消防士という職業は、日本で数少ない「無条件の善」として扱われる職だ。警察官は取り締まる側だから、恨まれることも、疑われることもある。医者も、結果が出なければ責められる。

だが消防士は、燃えている家に入り、水に落ちた人を引き上げ、事故現場から人を運び出す。目に見える形で、誰の目にも明らかに、人の命を救う側にしかいない。子どもが憧れる職業の常連なのも、そういう単純さがあるからだろう。

その単純さを、この事件は真っ二つに割った。救助訓練で20回表彰された同じ人間が、夜になると他人の部屋に入って、見つかったら絞め殺していた。

しかもそれは、別人格になっていたからでも、精神を病んでいたからでもない。一審から最高裁まで、裁判所は一貫して完全責任能力を認めている。動機は狂気ではなく、車と酒と見栄と借金、それだけだった。

ふたつめ。この事件は、日本人が信じている「信用のインフラ」の中身を疑わせた。

日本社会は、肩書きへの信頼で相当な部分が回っている。役所の名刺を出せば、それ以上は問われない。制服を着ていれば、玄関を開ける。公務員で、妻子がいて、地元で表彰されている男を、誰が疑うだろうか。

勝田が実際にその信用を利用した、というわけでもない。彼が犯行の現場で身分を使った形跡はない。だが、彼が捕まらなかった最大の理由は、「疑われる側のリスト」に最初から載っていなかったことだ。

1972年に一度だけ、少年院帰りという理由でリストに載せられ、アリバイで外された。それきり10年、誰のリストにも載らなかった。

制服と表彰状とテレビ出演が、そのまま人物証明として機能していた時代。それが1970年代の日本だった。この事件は、その証明書が紙切れでしかないことを、全国紙の一面で証明してしまった。

みっつめ。時代の匂いの問題がある。

勝田が殺しを重ねた1972年から1982年は、日本が急速に豊かになっていた時期とほぼ重なる。車が一家に一台になり、高速道路網がつながり、消費は美徳と言われた。

彼が奪った金の使い道を並べると、これ以上ないほど当時の消費文化そのものだ。高級スポーツカー、ゴルフの会員権、アマチュア無線のアンテナ、スナックでのチップ、愛人のマンションの家具。どれも彼が発明したものではない。テレビや雑誌が「こういう暮らしがいい暮らしだ」と、毎日流していたものだった。

そのうえ彼は、高速道路を使って府県をまたぎ、犯行地を分散させた。車があり、道があり、給料以上の生活が当たり前に見える。その3つが揃って初めて成立する犯罪だった。

だから当時の論者はこの事件を、戦後日本の「飽食化」「広域化」「虚飾化」を象徴する新しい犯罪と呼んだ。名古屋地検の論告も、高速道路と銃器を使う手口を「現代的犯行」と表現して、模倣性・伝播性が高いと警戒している。

日本社会がこの事件を怖がったのは、勝田が理解不能な怪物だったからではない。むしろ逆で、彼の欲しがったものが、みんなが欲しがっていたものと同じだったからだ。

車が欲しい、いい暮らしをしていると思われたい、見栄を張りたい。その延長線上のどこかに、人を絞め殺す地点がある。その距離が思ったより短かったことに、みんなが震えたのだと思う。

よっつめ。テレビの存在が、この事件の記憶を決定的にした。

殺人の6日後にクイズ番組に出て、妻のスタイルを褒め、賞金と商品券を持って帰る。この一点がなければ、勝田事件はもっと早く忘れられていたはずだ。

当時の視聴率20パーセント前後という数字は、その回を何百万人という単位の人が見たことを意味する。日本中の相当数の人が、「あの夫婦、見たことがある」という体験を持ってしまったわけだ。

逮捕後、その映像がワイドショーで繰り返し流された。視聴者は、かつて自分が茶の間で笑いながら眺めた顔を、殺人犯として見直すことになる。この二度目の視聴こそが、恐怖の本体だ。自分の目は何も見抜けなかった、という実感が、全国規模で同時に起きた。

司会者が「あの人の顔は人間の顔ではない」と言ったのは、その実感を代表した発言だったのだと思う。もっとも、その言葉が正確かというと怪しい。彼の顔は、最後まで人間の顔だった。そこが問題なのだ。

いつつめ。この事件は、加害者を人間として扱うことの居心地の悪さを、正面から突きつけてくる。

死刑執行の場で、被害者一人一人の名前を唱えて泣いた男がいる。点字を108冊訳したいと言い、教誨師に「私が立ち会った中で、もっとも人間らしかった」と言われた男だ。13年間、文通を続けた義姉を「たった一人の心友」と呼んだ男でもある。

同じ男が、1000円のために人を絞め殺し、576万円でスポーツカーを買っている。

この2つを同時に飲み込むのは、正直しんどい。だから世間は、どちらか一方だけを見る方向へ行きがちだ。「冷血」「鬼畜」と書いて片付けるか、「あれも人間だった」と書いて救済の物語にするか。

だが、被害者遺族から来たあのメールは、その両方をきれいに拒否している。罪は許されないが彼は許される。彼が最後に幸せだったことは許せないことです。そこには、加害者の人間性を認めながら、それでも許さないという、いちばん難しい立ち位置がある。

勝田清孝事件がいまも語られるのは、たぶんこの居心地の悪さのせいだ。人を助ける仕事の人間が人を殺した、という衝撃だけなら、時間が薄めてくれる。だが、その男が最後まで人間だった、という一点は薄まらない。

彼が働いていた消防本部の建物は、いまもそこにある。彼が育った集落の家は、更地になって、もうない。彼が押さえ込まれた銀行の支店は、2018年までに統合されて廃店になった。

彼が撃たれた人を置き去りにしようとして病院を探した国道も、拳銃を突きつけた高速道路のサービスエリアも、いまも普通に走れる。何ひとつ、特別な場所ではない。それがいちばん怖い、と個人的には思っている。

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