雪の残る山あいの温泉宿に、テレビ中継車が列をつくった冬
一九六八年、昭和四十三年の二月の終わり。静岡県の内陸、大井川をどこまでもさかのぼった先にある寸又峡温泉という小さな湯の集落に、日本じゅうの報道機関が集まった。
集落といっても大げさなものじゃない。当時はまだ旅館が数えるほど、バスも一日に何本という山あいの土地で、東京から向かえば半日仕事だ。そんな場所の一軒の宿に、ライフルとダイナマイトを持った男が立てこもり、人質を取って警察と対峙した。そして男は、金銭でも逃走用の車でもなく、「差別発言をした刑事に謝罪させろ」と要求した。
これが金嬉老事件だ。籠城は八十八時間に及んだ。ただ、この事件が半世紀以上たっても掘り返され続けるのは、時間の長さのせいじゃない。異様だったのは、その八十八時間のあいだ、犯人が旅館の座敷で報道陣と同じこたつに足を突っ込み、テレビカメラの前で自分の生い立ちと民族差別について演説し続けたことだ。しかも、その様子を各局が競って全国に流した。
日本で「劇場型犯罪」という言葉が本格的に意味を持ちはじめた、その最初の一撃がこれだったと言っていい。
事件の呼ばれ方も一つじゃない。犯人の名前を取って金嬉老事件と呼ばれることがいちばん多いけれど、現場の地名から寸又峡事件と呼ぶ人もいるし、当時の新聞やテレビの見出しでは「ライフル魔」という乱暴な言葉が躍っていた。同じ出来事なのに、呼び名を選ぶ時点で、もう立場が出てしまう。そういうやっかいな事件なのだ。ここではまず、起きたことを順番に、できるだけ細かく追っていく。
借金取りの座るテーブルで、なにが引き金を引かせたのか
金嬉老は一九二八年十一月二十日、静岡県清水市に生まれた。在日朝鮮人の二世で、本名は権禧老という。父親は建設の仕事をしていて、彼が三歳ごろに工事中の事故で亡くなった。五歳のときに母親が「金」姓の男性と再婚したことで、彼は金という姓を名乗ることになる。生活は苦しく、小学校は五年で通えなくなり、奉公に出された。十五歳で窃盗により捕まり、朝鮮人少年を収容する保護院に入れられて、そこで終戦を迎えている。
戦後の彼の経歴は、率直に言えば犯罪歴でほとんど埋まっている。窃盗、詐欺、強盗。刑務所を出たり入ったりを二十年近く繰り返し、塀の外にいた期間のほうが短いくらいだった。一九五九年に出所したあと日本人女性と結婚して飲み屋をやろうとしたが立ちゆかず、一九六七年に離婚している。事件の時点で三十九歳。職業は新聞などで「ブローカー」と書かれた。
要するに、手形だの金だのを扱う不安定な仕事に手を出していたということだ。
事件の直接のきっかけも、その手形がらみの借金だった。一九六八年二月二十日の夜、金嬉老は清水市の歓楽街にあるクラブに呼び出される。相手は暴力団の幹部、曽我幸夫。三十四歳だった。同席していたのはまだ十代の若い組員だ。借金の返済をめぐる話し合いは、話し合いという穏やかな言葉で呼べる状態ではなかったらしい。金嬉老側の主張では、この席で相手から民族に関する侮辱を投げつけられた。
彼は持ち込んでいたライフルを取り出し、曽我に向けて撃った。若い組員も撃たれた。二人は死亡した。
ここで一つ、押さえておかなければならないことがある。この二人が命を落としたという事実は、その後どんな社会的な議論が積み上げられようと動かない。裁判で確定したのは殺人の罪であり、そのことは事件をどう解釈しようが免除されない。彼が後に法廷で訴えた差別の問題は、それはそれとして正面から扱われるべきものだけれど、二人の死をなかったことにする理屈にはならない。この記事はその線を引いたうえで書いている。
雪の道を四十五キロ、車は山の奥へ上っていった
撃ったあと、金嬉老は現場から逃げた。向かった先が寸又峡だった。清水から直線で測ればどうということはないが、道のりでいえば四十五キロほど、しかも延々と山を上る道だ。二月の南アルプス南端、夜の峠道である。
彼はライフルのほかに大量の実弾と、ダイナマイトを積んでいた。実弾の数は報じられ方によって幅があり、百発単位とも千二百発とも書かれた。ダイナマイトも十数本という数字が出ている。この「持ち込まれた量」の食い違いは、後々まで資料によって数字が揃わない原因になっている。
寸又峡温泉に着いたのは二十日の夜遅く、あるいは日付が変わるころ。彼が入り込んだのが「ふじみや旅館」だった。当時の寸又峡は、林業とダム工事で栄えた時代がひと段落し、温泉地としてこれから売り出そうという、まさにその途上にあった。宿の数も客の数も、今の観光地の感覚からすればずっとささやかだ。
真冬の平日の夜、旅館の帳場にいた人たちにとって、銃を持った男が入ってくるというのは、想像の外側にもほどがある事態だっただろう。
人質になったのは、旅館の経営者一家と宿泊客たちだ。人数はこれも資料によってばらつく。十三人という数字がもっとも広く流通していて、通信社系の記録や事典類はこれを採っている。一方で、経営者家族六人と宿泊客十人で計十六人と書く資料もあるし、出入りしていた従業員や近隣の人まで含めて三十九人という数字を出している解説もある。
おそらく、籠城の途中で解放された人がいること、旅館の関係者をどこまで数えるかという線引きの違い、そして初報の混乱がそのまま残ったことが重なっている。細かいようだが、こういう数字のズレは、当時の現場がどれほど混乱していたかの証拠でもある。
午前二時の電話――自首なのか、宣言なのか
籠城が始まってから、金嬉老の行動は普通の立てこもりの型から外れていく。二十一日の午前二時ごろ、彼は自分から清水警察署に電話をかけた。人を撃ったこと、いま寸又峡にいること、人質を取っていることを、自分の口で伝えている。逃げ隠れするつもりが最初からなかったということだ。
そして同じ時間帯に、地元の新聞社にも電話を入れている。ここが決定的だった。彼は警察と報道機関に、ほぼ同時に自分の居場所を知らせたのだ。
要求として彼が出したのは、大きく二つだった。一つは、前の年に清水署で取り調べを受けた際に自分に差別的な発言をしたという刑事、階級でいえば巡査部長にあたる人物に、公の場で謝罪させること。もう一つは、報道陣との会見を認めること。金や逃走の手段の話ではない。人質の解放条件が「謝れ」だけで構成されている立てこもりというのは、当時の日本の警察にとって前例がなかった。
二十一日の午前九時五十分ごろには、もう最初の会見が開かれている。事件発生から半日足らずで、犯人が記者を部屋に上げて話をしている。彼は自分の生い立ちを語った。朝鮮人であるというだけで受けてきた扱い、就職の壁、警察での扱われ方。そして、自分がやったことについては「死をもって謝罪する」という趣旨のことも口にしている。詫びる言葉と、糾弾する言葉が、同じ人間の口から交互に出てくる。
この振れ幅が、事件を読み解こうとする人たちを今日まで悩ませ続けている。
こたつを囲む人質と、ダイナマイトの脇に置かれた七輪
旅館の座敷の光景は、当時の写真や関係者の話を通じて、かなり具体的に伝わっている。畳の上にライフルの実弾がざらざらと盛られ、床にはダイナマイトが並べられ、導火線が垂れている。そのすぐそばに、火をおこした七輪が置かれていた。手を伸ばせば火がつく、という状況を意図的に作っていたわけだ。警察が突入すればどうなるか、誰の目にも明らかにするための配置だった。
ところが、その物騒な部屋のなかで起きていたことは、絵として不釣り合いなほど日常的でもあった。人質たちは縛られてはおらず、部屋のなかの移動はかなり自由だった。食事をとり、こたつに入り、犯人と同じ空間で夜を明かす。あとに残された映像や写真には、こたつを囲む人質と犯人と記者、という理屈に合わない構図が写っている。
恐怖がなかったという意味ではまったくない。銃と爆薬に囲まれた部屋で、いつ何が起きるかわからないまま何日も過ごす緊張は、外側から想像できるものではないだろう。それでも、そこには奇妙な共同生活の空気ができてしまっていた。
人質は段階的に解放されていく。二十二日の朝には経営者の妻と子どもたちが出され、二十三日にもさらに何人かが解放された。最終的に、最後まで宿の中に残っていたのは五人だったと記録されている。解放のたびに、外で待っていた家族や警察官のあいだに一瞬の安堵が走り、そのすぐ後にまた沈黙が戻る。それが四日間くり返された。
金嬉老が人質に手を上げなかったこと、女性や子どもを先に解放したこと、この二つは事件直後から繰り返し語られ、彼を「単なる凶悪犯ではない」と見る人たちの根拠になった。同時に、二人を撃ち殺した直後の人間が十数人を銃と爆薬で囲っているという事実は動かない。この二つを同時に抱えられるかどうかが、この事件を語るときの最初の関門になる。
「あの刑事に謝らせろ」――要求が金でなかったことの重さ
謝罪要求の中身をもう少し具体的に見ておきたい。金嬉老が名指ししたのは、前年に別の件で清水署の取り調べを受けたときに、自分に対して朝鮮人であることを蔑む発言をしたとされる巡査部長だった。彼はその一言を、何年も前から積み上がっていた屈辱の代表として持ち出した。個人的な恨みとして片づけるか、社会の側の問題を突きつけたと見るかで、事件の像は真逆になる。
警察はこの要求に、当時としては異例の対応をした。籠城の最終盤、テレビを通じて謝罪の意思が示されたと伝えられている。誰がどの立場で、どこまでを謝ったのかは資料によって書き方が違い、当該の警察官本人の名で謝罪文が読まれたとするもの、県警の上層部が画面に出て遺憾の意を示したとするものがある。
いずれにせよ、警察という組織がテレビカメラの前で立てこもり犯の要求に形のうえで応じたという事実は、当時の人々に強い印象を残した。
要求が金でなかったことは、事件の性格を決定づけた。身代金や逃走手段なら、交渉は取引になる。けれど「謝れ」は取引にならない。謝った時点で、警察は差別の存在を公に認めることになるし、認めないままでは人質が返ってこない。金嬉老は、警察が絶対に踏みたくない場所を正確に踏んだ。この一点だけを見れば、彼は自分の置かれた状況を冷静に計算していたと言うほかない。
記者が最前線であり、そのまま交渉役にもなってしまった四日間
この事件のいちばん異様な部分は、犯人と警察のあいだに報道機関が物理的にも役割的にも割り込んだことだ。旅館には記者やカメラマンが繰り返し出入りした。犯人が会見を開き、記者が質問し、答えが電波に乗る。犯人がテレビの生放送に電話で出演したこともあった。警察は突入も強行できず、記者が持ち帰る情報に頼る場面すら生まれた。
当時の評論家、大宅壮一は、警察をメディアが仲介しているようだ、という趣旨のことを言っている。皮肉としても、状況の要約としても正確だった。
テレビは編成を壊して中継に走った。番組表に載っていた枠が差し替えられ、事件の続報が繰り返し流れた。日本のお茶の間が、進行中の人質事件を、犯人の顔と声つきでリアルタイムに見た。これはそれまでになかった経験だ。三億円事件が同じ年の暮れに起きるが、あちらは犯人が見えない事件だった。こちらは犯人が画面のなかでしゃべり続ける事件だった。見ている側の心のざわつき方が、まるで違う。
そして、報道側が一線を越えた場面もあった。カメラを回すために、ライフルを空に向けて撃ってくれないかと頼んだ記者がいた、という話が繰り返し伝えられている。犯人はそれに応じ、乱射する場面が撮影された。演出のために発砲を要請するというのは、報道の枠をどう好意的に解釈しても擁護できない。この一件はのちに報道倫理の議論で必ず引き合いに出される事例になった。
事件報道が事件そのものを作りにいってしまった、その典型として。
二月二十四日午後三時二十四分、玄関先の十数秒
決着は五日目に来た。一九六八年二月二十四日の午後、金嬉老は記者会見に応じるかたちで旅館の玄関先に出た。そこに集まっていた報道陣のなかに、記者に変装した静岡県警の捜査員が紛れ込んでいた。人数は六人とも九人とも伝えられる。彼らは合図とともに一斉に飛びかかり、金嬉老を組み伏せた。籠城は八十八時間で終わり、最後まで宿に残っていた五人の人質が解放された。時刻は午後三時二十四分と記録されている。
取り押さえられた瞬間、金嬉老は舌を噛んで自殺しようとしたと伝えられている。捜査員がそれを力ずくで止めた。口をこじ開けるために警察手帳をねじ込んだ、という話まで残っている。この生々しさが、この事件の記録の特徴だ。細部の一つひとつが、誰かの目に焼きついたまま何十年も語り継がれている。
逮捕の手法そのものも、あとから議論の的になった。記者に化けて近づくというやり方は、報道機関への信頼を人質作戦に流用したことになる。取材者の身分が警察に利用されるなら、次に現場に入る記者は誰からも信用されなくなる。事件が終わったあと、報道側がこの点で警察に抗議したという話も伝わっている。もっとも、その報道側が発砲を頼んでいたわけで、どちらが誰を責められるのかという話でもある。
この事件は、関わった全員がどこかで足を踏み外している。
法廷が第二の現場になった、七年間
裁判が始まると、事件は舞台を静岡地方裁判所に移して、まったく別の性格の出来事になった。起訴された罪名は殺人、監禁、それに爆発物取締罰則違反。事実関係でもめる余地はほとんどない。撃ったことも立てこもったことも本人が認めている。にもかかわらず、この裁判は七年以上続いた。争われたのが、行為の有無ではなく、行為の意味だったからだ。
弁護側は、金嬉老という個人を裁く前に、その個人を作った歴史のほうを法廷に持ち込もうとした。植民地支配の帰結として日本に生きることになった一世の子として生まれ、国籍を選ぶ機会もないまま「外国人」として扱われ、就職も居場所も塞がれ、少年期から犯罪と刑務所を往復する以外の道を用意されなかった。
その積み重ねが引き金を引かせたのだから、日本の刑事司法がこの男だけを切り離して裁くのは筋が通らない、という組み立てだ。極端に踏み込んだ主張としては、公訴そのものを取り消すべきだという議論まで出た。
法廷には作家、学者、評論家といった人たちが関わった。支援組織がつくられ、被告人本人が長い意見陳述をおこない、その記録が資料集として出版された。籠城の最中にも、東京のホテルに集まった文化人と弁護士が「金さんへ」と呼びかける文章をまとめ、それを吹き込んだテープを持って現場を訪ねた、という出来事があった。事件の初期段階から、この案件は単なる刑事事件として扱われることを拒まれていたわけだ。
検察の見立てと弁護側の主張、そのどちらにもあった無理
検察の立場ははっきりしていた。この事件は、金の貸し借りをめぐる私的なもめごとから発した殺人であり、差別は後から持ち出された飾りにすぎない。籠城中に民族差別を叫んだのは、自分の立場を有利にし、世論を味方につけるための計算だ。二人が死んでおり、その後の立てこもりも計画性が高い。よって死刑が相当である。これが求刑の骨格だった。
弁護側の主張は先に書いたとおりだが、こちらにも弱点はあった。もし生い立ちと差別が犯行の原因だと言い切るなら、同じ境遇を生きながら誰も撃たなかった無数の在日一世二世の人たちの人生を、どう位置づけるのか。差別が人を殺人に追い込むという説明は、差別を受けた側の人間性をむしろ狭く見積もることにもなりかねない。この点は当時、在日社会の内部からも指摘された。
事件を民族の抵抗として語ることに、当事者たちが必ずしも一枚岩で乗ったわけではなかった。
判決は一九七二年六月、静岡地裁が死刑の求刑に対して無期懲役を言い渡した。一九七四年六月に東京高裁が控訴を退け、一九七五年十一月四日に最高裁が上告を棄却して無期懲役が確定する。この着地点の読み方も割れた。死刑を回避したのは差別の主張が一定程度受け止められた結果だと見る人がいる一方で、判決は生い立ちを情状の一つとして考慮したにすぎず、事件を社会問題として認めたわけではないと読む人もいる。
判決文の重心をどこに置くかで、結論が変わる。
塀の中で起きた、もうひとつの騒動
裁判のさなか、事件はまったく別の方向にも飛び火した。勾留中の彼の処遇が異常だったことが発覚したのだ。独房に施錠がされておらず、本来持ち込めるはずのない品物が次々に差し入れられていた。刃物や工具の類まで含まれていたという。彼が自殺をほのめかして職員を揺さぶり、規則違反が一つ通るとその既成事実が次の違反の口実になる、という悪循環が積み上がった結果だった。
これは国会の法務委員会でも取り上げられ、法務省の関係者を含めて二十六人が処分を受けた。刃物を差し入れた職員はのちに自ら命を絶っている。拘置施設の管理がここまで崩れた例はそう多くない。事件の主役が中心にいると、その周囲で人が壊れていく。この事件の記録を追っていて何度も感じるのは、その構造だ。
この一件は、彼の像にも影を落とした。差別を告発した男という物語と、拘置所の職員を脅して便宜を引き出していた男という現実が、同じ人物のなかで並んでしまう。どちらか一方だけを見て語れば、必ず嘘になる。
人質だった人が、ずっと後になって漏らしたこと
証言として最初に紹介したいのは、人質になり、途中で解放された人の言葉だ。柴田という姓で伝えられているその人は、解放されたあとの取材に対して、犯人を単純な悪人として突き放す言い方をしなかった。伝えられているのは、もしあの人が朝鮮人でなかったら、もっと日の当たる場所に出ていられたのではないか、という趣旨の言葉だ。
自分を銃と爆薬のある部屋に何日も閉じ込めた相手について、被害に遭った当人がそう口にしたという事実は、この事件の空気を何よりよく表している。
なぜそうなったのかを考えると、あの四日間の距離の近さに行き着く。人質たちは縛られてもいなければ、別室に押し込められてもいなかった。同じ座敷で、同じこたつで、同じ食事の時間を過ごしていた。犯人は自分の子ども時代のこと、学校で言われたこと、就職を断られたこと、警察でどう扱われたかを、聞き手が誰であろうと話し続けた。人質たちはそれを、逃げ場のない距離で何十時間も聞かされたことになる。
恐怖と憐憫と苛立ちが混ざった、名前のつけようのない感情がそこに生まれたとしても不思議ではない。
もちろん、これを美談にしてはいけない。犯人の話をずっと聞かされた人が犯人に情のようなものを持ってしまうこと自体、人質の心理として説明のつく現象でもある。それでも、解放後の証言が「怖かった」の一言で終わらなかったこと、そして日の当たる場所という言い方が選ばれたことには、当時の日本社会が何を暗黙に了解していたかが滲んでいる。
朝鮮人であれば日の当たる場所には出られない、という前提が、被害者の側にすら共有されていたということだ。
旅館をたたむ日に、女将が語ったこと
二つ目は、事件の舞台になった旅館そのものをめぐる証言だ。ふじみや旅館は事件のあとも営業を続けた。事件現場だったことは地元でも当然知られていたし、それを目当てに来る客もいた。旅館は二〇一〇年、館内に事件の資料を展示する小さな資料館を設け、有料で公開している。半世紀近く抱えてきたものを、隠すのでも売り物にするのでもなく、記録として置いておくという判断だったのだろう。
その旅館が店じまいをしたのが二〇一二年の一月だ。廃業を伝える報道で、女将が語った理由は、事件とは何の関係もない、まったく普通の話だった。観光の客も長期の滞在客も減ってしまったこと、自分が高齢になり営業を続けるのが難しくなったこと。それだけだ。日本じゅうのテレビカメラが押し寄せた宿の最後が、全国どこの山の温泉宿にもある理由で終わったというのは、ある意味でいちばん誠実な幕引きだった。
この女将の言葉が証言として重いのは、事件を語っていないところだと思う。事件現場としてしか語られなくなった土地の人にとって、事件は語る話題ではなく、日常のなかにずっと居座っている家具のようなものだ。四日間の異常事態のあと、そこには四十年以上の普通の日々があった。布団を上げ下ろしし、風呂を沸かし、客に茶を出す時間のほうが、圧倒的に長かった。
外から来る人間は事件の話ばかり聞きたがるが、当事者の時間はそういうふうには流れていない。
現場にいた記者たちが、あとから自分を疑いはじめた話
三つ目は、報道の側からの証言だ。個々の記者の回想は雑誌や番組で断片的に語られてきたが、共通して出てくるのは、当時は誰も止められなかった、という感覚だ。他社が旅館に入っているのに自社だけ入らないという選択肢はなかった。犯人が会見を開くと言えば行く。電話に出ると言えばつなぐ。それが当たり前だった。
競争の理屈だけが現場を動かしていて、報道が事件の一部になっているという自覚が生まれるのは、ずっとあとのことだった。
とりわけ長く尾を引いたのが、空に向けて撃ってくれと頼んだ件だ。あの要請が誰の口から出たのかは、はっきりした形では特定されていない。ただ、そういう要請があり、犯人がそれに応じて発砲したという事実は、報道側自身が繰り返し検証記事で扱ってきた。要請した人間が特別に悪質だったというより、あの場の空気が要請を生んだ、という言い方をする回想が多い。絵が欲しい、他社にない画が欲しい。
その欲望が、人質のいる建物の前で、銃を撃たせるところまで滑っていった。
もう一つ、記者たちが後年しきりに言及するのは、逮捕の瞬間だ。記者に化けた捜査員が犯人を取り押さえたとき、本物の記者たちは、自分たちの職業がそのまま作戦の道具に使われたことを知った。取材者として現場に立っているつもりが、警察の隠れ蓑を提供していた。
事件が終わって、報道各社が警察に抗議したという話が残っているのは、それが単なる面子の問題ではなく、次の現場で誰も取材に応じてくれなくなるという実務上の恐怖でもあったからだ。この事件は、報道が自分の立ち位置を初めてまともに疑った現場でもあった。
温泉街の人がいまも口にする、あの冬の異様さ
四つ目に、地元の人の証言を挙げておきたい。寸又峡は当時、林業とダム工事で人が入っていた時代を過ぎて、温泉地としてこれから売り出そうという段階にあった。地元の人が語るのは、いちばんいいところで冷や水を浴びせられたという感覚だ。ジャーナリストが後年おこなった取材でも、温泉地としてはこれからだというときに事件が起こった、という言い方が出てくる。名前が全国に知れ渡ったのは間違いない。
ただ、その知られ方が事件現場としてだった。
同時に、事件が観光の呼び水になったという皮肉な事実もある。それまでほとんど知られていなかった地名が、あの数日で日本じゅうに刷り込まれた。以後、寸又峡には事件を知って来る客が来るようになる。二〇〇〇年代に入ってからは、鉄道会社と組んだ企画ツアーが売り出され、事件にちなんだ食べ物や土産物の案まで検討されたことがある。籠城にちなんだ鍋料理や、犯人の名前をつけた煎餅といった具合だ。
実現の度合いはさておき、そういう発想が出てくる時点で、地元にとっての事件の位置づけがどれだけ複雑かがわかる。
地元の人がいちばん強く覚えているのは、報道の量だという話をよく聞く。山の道に車がずらりと並び、集落に見たこともない数の他所者があふれ、旅館の前にライトが立った。犯人を見た人より、報道陣を見た人のほうが圧倒的に多い。この土地の記憶において、事件の主役は必ずしも金嬉老ではなく、あの冬に押し寄せた人の群れのほうだったりする。
それは、この事件がどういう事件だったかを、住民が体で理解していたということでもある。
「英雄」と呼ばれ、そして呼ばれなくなるまで
事件当時から、韓国では金嬉老の扱いがまるで違った。日本での民族差別と闘った人物として報じられ、支援の動きも起きた。日本で「ライフル魔」と呼ばれていた同じ人物が、海のむこうでは象徴になっていたわけだ。この非対称は、事件が国内の話に収まらなかったことを意味している。のちに韓国では彼を題材にした映画が作られ、舞台にもなった。
無期懲役で服役していた彼は、一九九九年九月、七十歳で仮釈放される。逮捕から三十一年半が過ぎていた。ただし条件がついていた。韓国へ渡り、日本には二度と入国しないこと。日本で生まれ日本で育った人間が、日本に戻らないことを条件に釈放されるという結末は、それ自体が事件の主題をもう一度なぞっている。彼は釜山に住み、本名の権禧老に戻した。韓国では歓迎され、講演にも呼ばれた。
しかし、その後の数年で評価は崩れていく。二〇〇〇年、彼は講演をきっかけに知り合った女性の夫の家に押し入り、監禁や放火に及ぶ事件を起こして逮捕され、実刑判決を受けた。同じ年には、生活のために支給された資金を妻が持ち出して姿を消すという出来事もあった。英雄として迎えた側が急速に距離を取り、韓国での人気は地に落ちたと書かれるようになる。二〇一〇年三月二十六日、彼は釜山の病院で前立腺がんのため亡くなった。
八十一歳だった。
晩年の彼の言葉として伝わっているものに、空を見上げて、日本の方角へ飛んでいく飛行機を眺めていた、という話がある。すぐそこにあるのに行けない、という言い方だったという。生まれ育った土地に戻れないまま死んだ人が、その土地への思いを口にしていた。事件で彼が突きつけた問いは、最後まで彼自身に返ってきていた。親族は、彼の遺骨を母親の墓に納めることを拒んだと伝えられている。
遺灰は釜山の沖と、事件のあった寸又峡に撒かれたとされる。
掲示板とタイムラインで、この事件は何度も掘り返される
インターネット以後、この事件はずっと定期的に掘り返されるネタになっている。昭和の重大事件をまとめた匿名掲示板のスレッドでは、三億円事件やよど号と並んで必ず名前が出る。動画サイトには当時の映像の断片が上がり、そのたびにコメント欄で同じ論争が繰り返される。この構図は二十年以上変わっていない。
論争の型はだいたい三つに分かれる。一つは、動機は借金トラブルであって差別は後付けだ、という主張。二つ目は、後付けかどうかにかかわらず、日本社会に差別があったこと自体は事実で、事件はそれを可視化した、という主張。三つ目は、被害者が二人死んでいる以上、社会的な意味づけの議論そのものが不謹慎だ、という主張。この三つが噛み合わないまま延々ぶつかる。
さらに厄介なのは、二〇〇〇年代後半以降、この事件が排外的な言説の材料として流通しはじめたことだ。二〇一〇年前後、彼の再入国をめぐる報道が出た時期には、特定の団体が抗議行動をおこない、動画サイトでは彼を殺人鬼として紹介するコンテンツが拡散した。事件が持っていた差別への問題提起という側面が、逆向きの燃料として使われるようになったわけだ。
この転用については研究者からも指摘があり、事件の意味が誰にも独占できないまま漂流し続けていることの例として分析されている。
一方で、事件を反権力の象徴として抽象化する流れもずっとある。ドラマや演劇、映画で繰り返し取り上げられるとき、彼はしばしば具体的な民族の問題から切り離され、権力に立ち向かった個人という一般的な形にならされてきた。そのほうが物語として扱いやすいからだ。ただ、そぎ落とされているものが何なのかは意識しておいたほうがいい。差別の話を抜いた金嬉老事件は、ただの派手な籠城事件になる。
考察がぶつかる三つの地点と、それぞれの反証
考察として最も強いのは、やはり動機の順番をめぐる議論だ。差別が先か、借金が先か。差別が先だという説は、彼が籠城の最初の電話の時点から差別の話をしていたこと、要求が金銭でなかったことを根拠にする。これに対する反証は、そもそもクラブでの発砲は借金の話し合いの席で起きており、差別発言があったという主張は本人以外の生存する目撃者から裏づけを取りにくい、という点だ。
どちらの説も、決定的な証拠を欠いたまま今日まで来ている。
二つ目の争点は、籠城中の彼の行動がどこまで計算だったか、という問題だ。報道機関を巻き込んだ手際、要求の立て方、人質の解放の順番。これらを見て、極めて周到な計画だったとする説がある。反証としては、事件全体の始まりが衝動的な発砲であり、逃走先が土地勘のある山だったことは計画性というより行き当たりばったりで説明できる、という指摘がある。
籠城が始まってから状況に適応していったと見るほうが自然だ、という読み方だ。
三つ目は、この事件が社会に何を残したかという評価の問題だ。事件によって在日の置かれた状況が広く知られ、その後の議論の出発点になったという評価がある。反証としては、事件は差別の議論を「暴力と結びついた話題」にしてしまい、かえって語りにくくしたのではないか、という批判が古くからある。実際、事件のあと相当長いあいだ、日本のメディアでこの主題は扱いづらいものになった。
良い方向にも悪い方向にも影響したという中間の見方がいちばん実態に近いのだろうが、その中間はいつも人気がない。
寸又峡と清水は、いまどうなっているのか
現場になった二つの土地の話をしておきたい。まず寸又峡温泉。行政区画としては、当時の榛原郡本川根町が合併して、いまは榛原郡川根本町になっている。島田市の金谷側から車で山道を一時間半ほど、大井川鐵道の千頭駅からバスに乗れば四十分ほど。旅館が数軒とみやげ物屋が並ぶ小さな温泉街で、規模は当時と大きくは変わらない。
名物は湖の上に架かる吊り橋で、水の色が独特の青緑をしていることで知られ、近年は写真映えする場所として人を集めている。事件を知らずに訪れる人のほうが、いまでは多いだろう。
ふじみや旅館は前述のとおり二〇一二年に廃業した。建物の運命について明るい情報は乏しいが、少なくとも宿としては存在しない。事件の資料館も二年足らずで幕を閉じた。事件を知って現地を訪ねる人がいちばん困惑するのは、そこに何もないことだ。看板も碑もない。あるのは温泉と山と川で、四日間の出来事は土地の側からは何も語られない。それでいいのだと思う。土地には土地の時間がある。
もう一方の清水はどうか。事件当時の清水市はその後、二〇〇三年に静岡市と合併して静岡市清水区になった。港町であり、次郎長の町であり、サッカーの町でもある。歓楽街の風景も半世紀で様変わりした。発砲があったクラブがどこにあったのか、いま歩いて特定できる人はほとんどいない。ここでも事件の痕跡は消えている。二人が命を落とした場所であることを示すものは、街のどこにもない。
それでも、なぜ半世紀以上語られ続けるのか
この事件が消えない理由を、一つに絞ることはできない。ただ、いくつか確実に言えることはある。
まず、日本で最初に「進行中の犯罪をテレビが生で追いかけた」事件だったこと。犯人の顔と声を、事件の最中に全国が見た。この経験の衝撃は、後の類似の事件すべての参照点になった。人質事件のたびに報道各社が中継の可否で揉めるとき、頭の隅にあるのはいつもこの事件だ。
次に、犯人の要求が「謝れ」だったこと。これは犯罪史のなかでも異様に個性的だ。金でも逃走でもなく、言葉による謝罪を人質と引き換えに求めた。しかもそれが、社会の側の差別という主題に直結していた。事件が単なる事件で終わらず、七年の裁判と無数の論争を生んだのは、この一点があったからだ。
そして三つ目に、この事件が誰にとっても居心地の悪い形をしていること。差別を告発した人物として持ち上げようとすれば、二人を撃ち殺した事実と拘置所での振る舞いが邪魔をする。凶悪犯として切り捨てようとすれば、彼が突きつけた問いが残ってしまう。晩年の転落まで含めて、この人物は誰の物語にもきれいに収まらない。人はきれいに収まらないものを、繰り返し語り直そうとする。
だから金嬉老事件は、五十年以上たってもまだ終わっていない。
最後に一つだけ確認しておきたい。事件の意味をどう論じても、清水のクラブで亡くなった二人は戻らないし、四日間を銃と爆薬のそばで過ごした人たちの恐怖はなかったことにならない。差別があったかどうかという問いと、殺人が許されるかという問いは、まったく別の問いだ。この事件が難しいのは、その二つを同時に手に持たなければいけないからで、片方を捨てれば途端に話は簡単になる。
簡単になった時点で、それはもうこの事件の話ではない。
三つの事件が重なった、ひとつの出来事
ここまで書いてきて改めて思うのは、金嬉老事件というのは「三つの事件が重なった一つの出来事」だという構造の問題だ。
一つ目は、一九六八年二月二十日夜に清水のクラブで起きた殺人事件。二つ目は、翌日から寸又峡で始まった人質籠城事件。三つ目は、それから七年以上にわたって静岡地裁と東京高裁と最高裁で続いた、民族差別をめぐる論争としての裁判。この三つは連続しているようでいて、性格がまったく違う。そして厄介なことに、多くの人はこの三つのどれか一つだけを見て、事件全体を語ってしまう。殺人だけ見れば凶悪犯の話になる。
籠城だけ見ればメディアの話になる。裁判だけ見れば社会思想の話になる。三つ全部を同時に持たないと、この事件は正しい形にならない。
構造をもう一段掘ると、この事件が持っていた本当の新しさは、犯人が「観客」を発見したことにあると思う。それまでの立てこもり事件で、犯人が相手にしていたのは警察だけだった。金嬉老は警察と同時に、いや警察よりも先に、報道機関に電話をかけた。彼が交渉していたのは、包囲している警察ではなく、テレビの向こう側にいる何千万人の日本人だった。
人質は交渉の道具というより、その舞台を維持するための時間稼ぎだったとさえ言える。要求が「謝罪」というきわめて象徴的なものだったのも、観客が見ていなければ何の意味も持たない要求だからだ。密室での謝罪では成立しない。公開されて初めて意味を持つ。彼はそのことを理解していた。
この「観客の発見」がなぜ一九六八年に起きたのかを考えると、テレビの普及率と中継技術の進歩がちょうどその段階に来ていた、という技術的な条件に行き着く。テレビは各家庭に行き渡り、中継車は山奥にも入れるようになり、各局は競争のなかで生中継の価値を発見したばかりだった。犯人の側にその条件を利用する発想が生まれたのは、ある意味で必然だった。
以後、日本の重大事件は多かれ少なかれ「見られること」を前提に起きるようになる。犯行声明を新聞社に送る、映像を残す、SNSで予告する。形は変わっても、原型は寸又峡の座敷にある。
そのうえで、いま読み直すときに慎重になるべき点も挙げておきたい。一つは、この事件を差別問題の代表例として扱うことの危うさだ。差別を受けた人が武装して人を殺すという構図を代表例に据えてしまうと、差別を語ること自体が暴力の話とセットになる。実際には、差別に対して暴力以外の方法で向き合ってきた人のほうが圧倒的に多いし、その人たちの営みのほうが社会を動かしてきた。
事件を「差別と闘った物語」として一直線に読むのは、闘わずに耐えた人や、別のやり方で闘った人を見えなくすることにもなる。逆に、事件を口実にして特定の民族や国籍の人々を攻撃する材料に使うのは、それこそ事件が突きつけたものの正反対の使い方であって、話にならない。
もう一つは、事件を「昭和の懐かしい大事件」として消費する構えへの違和感だ。三億円事件やよど号と並べて年表に載せ、当時を懐かしむ文脈に置いた瞬間、事件は終わったものになる。けれど、この事件の中心にあった問い、つまりこの社会で生まれ育ちながら「外国人」として扱われる人がいることをどう考えるのかという問いは、当時のまま宙に浮いている。
事件を過去の枠に押し込めることは、その問いを一緒に押し込めることでもある。寸又峡が観光地として事件を軽く扱おうとしたときに漂った居心地の悪さは、たぶんそこに由来している。
最後に、この事件の記録を追っていていちばん印象に残るのは、登場人物の誰も救われていないことだ。二人が死に、遺族が残された。人質になった人たちは一生忘れられない四日間を抱えた。旅館は事件現場という肩書きを四十年以上背負ったあげく、まったく普通の理由で店を閉じた。拘置所の職員は命を絶った。報道機関は自分たちの職業倫理に消えない傷を負った。
そして金嬉老自身は、三十一年の服役のあと生まれ育った国に戻ることを禁じられ、渡った先でもう一度事件を起こし、英雄と呼ばれた場所で誰にも顧みられずに死んだ。母の墓にも入れなかった。ここには、劇的な結末も教訓めいた締めくくりもない。あるのは、ただ壊れたものの一覧だけだ。
だからこそ、この事件は語り継がれるのだと思う。人はきれいに終わった話をすぐに忘れる。終わらなかった話だけが残る。寸又峡の温泉街を歩いても、清水の街を歩いても、その痕跡はもうほとんど見つからない。看板も碑もない。それでも、二月の山の冷たさとテレビカメラのライトの記憶は、実際にその場にいなかった人の頭のなかにまで残っている。事件が残したのは事実の集合ではなく、答えの出ない問いのほうだった。
そして問いというのは、答えが出ないかぎり、何度でも人のところに戻ってくる。
