住宅街の奥で、ヘルメットをかぶる
長野市の松代は、城下町の面影を残す静かな町だ。象山の地下壕の入口は、その住宅街の一角にあって、道は狭く、大型の車は入りにくい。ふつうの家並みのすぐ先で、山の腹が四角く口を開けている。入口そのものも狭い。
見学に料金はかからない。入口で用意されたヘルメットをかぶって薄暗い穴の中へ入ると、壕は大人がふつうに立って歩ける高さに掘られている。足もとは出口のほうへほんのわずかに傾き、湧き水を外へ流す勾配がついている。
壁には、細い穴がいくつも並ぶ。削岩機の刃を打ち込んだ跡と、火薬を詰めた発破の穴だ。80年以上前の工事の手つきが、岩肌にそのまま刻まれている。歩いた人の記録によれば、壁も天井も削ったままの岩が露出していて、崩れた箇所は少ないという。
天井には、鋼の支保工が組まれた場所があり、その上に丸太がのる。岩から染み出した水が壁や天井を伝い、水滴になって落ちる所もある。岩肌には苔が生え、蝙蝠が飛ぶという。照明は少なく、奥へ進むほど暗くなる。
歩けるのは、全体のごく一部にすぎない。公開されているのは約500メートル。象山の壕は、資料によって5800メートルから6000メートルほどの長さに掘られたと記される。見られるのは8%ほどだ。残りの大部分は、立ち入ることのできない暗がりのなかにある。
この穴は、何のために掘られたのか。1944年の秋、日本の陸軍は、天皇と政府と軍の中枢を、東京からこの山の中へ移そうとしていた。
サイパンが落ちた夏
1944年7月、サイパン島が陥落した。島に築かれた基地から、爆撃機が東京まで飛べるようになる。本土が戦場になるという見通しが、陸軍の中で、現実の話として語られ始めた。
大本営は、戦争のあいだ天皇の下に置かれた最高の司令部だ。1937年に設けられてから敗戦まで、陸軍と海軍の中枢が同じ組織に入っていた。置かれた場所は東京。軍の考えは、本土決戦で敵に最後の打撃を与え、国体護持などの条件で和平に持ち込むことだった。その戦いの司令塔を、空襲の届かない山の中へ移す。
言い出したのは、陸軍省の井田正孝少佐だと伝わる。戦局が悪化した1944年の初めに、安全な土地への移転を陸軍次官に提言し、あわせて計画書も提出したという。資料によって時期にずれがあり、陸軍次官への提言を1月とするもの、2月とするもの、5月とするものが並ぶ。最初の移転先は八王子だった、という記述も残る。
同じ年の5月初め、信州で移転先の適地を探す調査が行われ、調べを重ねた末に、松代が最適地として選ばれる。理由として挙がるのは、おもに5つだ。
1つ目は、海岸から遠いこと。海から離れた山国は敵の上陸から遠く、信州は日本の重心にあたる土地だ、という言い方が、当時の陸軍にはあったらしい。2つ目は、岩盤だった。固い岩は10トン爆弾にも耐える、という見積もりが立てられた。
3つ目は、飛行場が近くにあるか、造れる場所であること。4つ目は、労働力と資材を集めやすく、作業員の宿舎も建てやすいことだ。5つ目は、地名の品のよさ。信州は「神州」につながるという理屈で、松代は真田家10万石の城下町、民家が少なく秘密も守りやすいと見られた。
1944年7月、東條内閣の最後の閣議で、長野の松代へ皇居や大本営、重要な政府機関を移すための施設工事が了承された。内閣が倒れる間際に決まった計画は、そのまま敗戦までの1年あまりを、極秘のうちに走り続ける。
松代の裏手には、3つの山が並ぶ。象山、舞鶴山、皆神山。象山は「ぞうざん」と読み、幕末の思想家、佐久間象山の号は、この山の名から取ったという。地名の響きまで、選ぶ理由に入っていた。
「倉庫」と呼ばれた山の穴
工事の名前は「松代倉庫工事」。大本営を移すとは、どこにも書かれなかった。略して「マ工事」と呼んだと伝わる。表向きの名は倉庫でも、山の中で掘られているのは、天皇や政府や軍の中枢が移り住むための穴だった。
命令の流れを追うと、1944年9月に陸軍大臣が着工を命じている。資材の搬入はすぐに始まり、10月には朝鮮人労働者のための飯場が建った。事実上の工事は、このときから動き出す。
正式な着工は、1944年11月11日。象山のイ地区で、この日の11時11分に最初の発破が打たれたという。以後、敗戦の直前にあたる1945年7月まで、工事の命令は次々に追加され、掘る場所も増えていく。
地区は3つに分けられた。象山がイ地区、舞鶴山がロ地区、皆神山がハ地区で、山の名は図面の上で記号になる。象山には、政府の各省庁と日本放送協会の海外局、中央電話局が入る予定だった。舞鶴山は、大本営と天皇、皇后の御座所、宮内省のための山だ。皆神山は食料をしまう倉庫。
皆神山は、最初は違う使い方を考えられていたという。天皇の住居にする案があったが、地質が悪く、倉庫用へ変更された。固い岩を探して選んだ松代でも、山ごとに岩の質には、差がある。
計画の総延長は、13キロを超えた。ちなみに、静岡の丹那トンネルは、全長が7.8キロほどで、1918年に着工してから開通まで、16年かかっている。松代の計画は、それを大きく上回る穴を、10か月足らずで掘り上げるつもりだった。正直、無茶な数字だ。
象山の当初案は7500メートル。実際に掘れたのは約5900メートルで、達成率は8割になる。舞鶴山は2600メートルの計画が9割まで進み、皆神山は見直した計画の1900メートルをほぼ掘り終えた。
現場の責任者は、工事主任の吉田栄一。陸軍の建技大尉だった。彼が雑誌の軍事史学に書いた「松代大本営工事回顧」は、いまも働き手の人数を語るときの拠り所になる。
組織の系統も、資料に残る。計画から設計までは、陸軍省の軍務局と兵務局が受け持った。工事に入ってからの統括は運輸通信省で、地下建設本部の第1地下建設隊が責任を負ったと伝わる。
請け負った建設会社は、当時の名で西松組と鹿島組。象山の地下壕の掘削は、鉄道建設工業会社を通して西松組に割り当てられた。機密の部分は鹿島組が直接請け負い、三種の神器を祀る賢所の建設は、熱海鉄道教習所の生徒が受け持ったという。
計画は、松代の3つの山だけでは終わらない。善光寺平の一帯に、地下施設を分散して作る構想で、須坂には送信施設、清野の妻女山には受信施設が計画された。長野市の茂菅では、善光寺温泉と善白鉄道のトンネルが、皇族の住居の候補に挙がる。範囲は、小布施や須坂の臥竜山にまで及ぶ予定だった。
縦に20本、横に50メートルおき
象山の壕は、碁盤の目のように掘られた。幅4メートル、中心の高さ2.7メートルの縦の坑道が、20メートルおきに20本。それらをつなぐ横の坑道が、50メートルおきに走る。
掘り出す土砂は、概算で約6万立方メートル。壕の中の床面積は、約2万3000平方メートルになり、東京ドームの建築面積の、およそ半分にあたる広さだ。
掘り出した土砂は「ズリ」と呼ばれた。象山のズリは、戦後、東京の道路工事に使われたという。山の腹の中身が、東京へ運ばれたわけだ。
岩は硬かった。崩れた土の量は、約850立方メートルしか記録されていない。掘った量の1.4%ほどで、記録はこれを、岩が硬く安定している証しだと説明する。
壕の底には、緩い勾配がつけられた。湧き水を出口へ逃がすためだ。測量は、天井に埋めた木片から重りの糸を垂らして行った。全部をつなげて歩けば、1時間以上かかる距離を、発破と削岩機と人の手で掘り進めたことになる。
発破を使う山岳トンネルの作業は、岩に孔を開け、火薬を詰め、爆破し、換気をして、崩れた岩を運び出す流れの繰り返しだ。地元の市民団体は、松代の工事との共通点として、この手順を紹介している。いちばん事故が起きやすいのは、掘り進める先端の切り羽に近づく作業だという。
舞鶴山に掘られた御座所
天皇の居場所は、舞鶴山に決まった。壕は約2.6キロ。象山より小ぶりだ。3つの山のなかでもっとも固い岩の側に置かれたと伝わる。
山の斜面には、鉄筋コンクリート3棟、約600坪の庁舎が造られた。廊下は地下壕へつながり、屋根は山に続いて、上空からは見えない。御座所には、寝室、居間、書斎、応接室、食堂、風呂、侍従と女官の部屋が予定された。
御座所の工事命令が出たのは、ずっと遅れた1945年3月。それでも敗戦までに、9割ほどまで進んだ。賢所は7月の初めに起工式が開かれ、9月の末に完成する予定だったが、敗戦によって、起工から2か月足らずで中止された。
昭和天皇は、当初、神器とともに帝都を動かない考えだったと伝わる。ところが木戸幸一の日記には、7月31日に信州行きの具体化を相談した記述がある。敗戦の直前には、移る心づもりを固めつつあったとみられる。
壕とは別に、山の側の建物は、いまも残る。見学案内によると、一番奥の御座所を外から見られるが、2016年4月から建物の中には入れない。象山から舞鶴山までは、歩いて30分ほど。
噂を抑えるための仕掛け
極秘の工事には、噂を抑える工夫がついた。1つは、秘密兵器の発射基地を造っているという話を、わざと流すことだ。大本営の名は、伏せられた。
地元の警察署長や町長には、大本営が来ればそちらの身分になる、と持ちかけたと伝わる。作業着姿の憲兵が、現場に紛れ込んだ話もある。
名目が倉庫でも、規模は倉庫の域を超えた。山の穴は、日がたつほど長くなる。隠し通すには、無理のある大きさだった。
昼夜、山がとどろいた
1944年10月、約100人の住民の山林や桑畑、田畑が、軍に買い上げられた。道路と飯場は、その土地に造られる。工事が動き出す前から、暮らしの場は削られていた。
11月に発破が本格化すると、爆破音は昼も夜も、松代の町とまわりの村々の一帯にとどろいた。記録された被害は、鶏が卵を産まなくなったこと、人も家畜も眠れなくなったこと。爆飛した岩が屋根に落ち、家の壁にはひびが入る。
1945年4月、舞鶴山のまわりの西条村の住民に、立ち退きが命じられた。目的は知らされない。当時の住民の証言では、期限は段階に分けられ、最初は4月5日から1週間以内だった。対象は、入筒井が90戸、中村が9戸、鹿島が5戸。
持ち出せる荷物にも、制限がついた。1人あたり畳は3枚まで、あとは置いていけと言われたという。瓦もだめだった。昼間は軍用トラックの邪魔になるので、朝と晩に親戚の手を借り、大八車で運んだ。
空いた家は、軍が使う。大きな家は大工や左官、勤労報国隊の宿舎に、小さな家はコンクリートやベニヤの資材置き場になった。立ち退いた地区の田畑を耕すには、「門鑑」という通行証が要った。
国民学校の児童も、動員の対象になる。清野と西条の学校の3、4年生以上は、アメリカ軍機から工事場を隠すための、カモフラージュの作業をした。地元の大人は勤労報国隊として、資材運びやトロッコの操作に就いた。
ぬかるみの飯場、昼夜2交替
山のふもとには、働き手を寝かせる飯場が並ぶ。象山のイ地区に129棟、舞鶴山のロ地区に78棟、皆神山のハ地区に30棟。建物は、三角の屋根をかけた粗い兵舎の形をしていた。
象山の飯場には、3000人から3500人が暮らした。土地は、蓮がよく育つような湿地だ。小雨が降っただけで足もとはどろどろになり、冬は、雪が舞い込む粗末なバラックで眠った。
食事は粗かった。雑穀が中心で、量も少ない。朝鮮人の労働者に出た食事は、コーリャンが7分、米が3分だったと伝わる。昼夜を分け、2交替で働いた。
働き手の多くは、朝鮮人だった。徴用で連れてこられた人も含まれる。人数は4000人から7000人以上と幅があり、正確な数字は、いまも分かっていない。
穴の先端は、最も危険な場所だった。そこで働かされたのは朝鮮の人たちだったと、地元の記念館の資料は書く。固い岩を発破で砕く現場だ。ダイナマイトに使ってあるもち米を食べた人がいた、という証言も残る。
働き手は朝鮮人だけではない。残っていた大人で組まれた勤労報国隊や、学童、生徒も、工事に動員された。工事にともなって「慰安所」が置かれたという記録も、地元の市民団体の資料にある。
最盛期は1945年4月ごろで、日本人と朝鮮人あわせて1万人ほどが作業に就いたという。のべ人数の集計には、朝鮮人労務者が約25万人、勤労奉仕隊が約8万人、全体で約61万人という数字がある。
定説のように語られる7000人は、吉田栄一の回顧にもとづく。内訳は、富山から3000人、西松組が1945年2月に集めた2000人、東北から2000人。熱海の鉄道教習所から来た少年たちには、1日6合の白米が出たという記述もある。同じ現場でも、食事には差があった。
犠牲者の数は、確定していない。確認できる下限は35人から40人ほどという調べがある。一方で、多い日には5、6人が死んだという証言が出ている。
象山の働き手が、敗戦のころには3500人から3000人に減っていたことから、実際は100人以上とみる見方もある。韓国に住む元工務員の証言には、象山だけで500人から600人という数字もある。
死亡診断書も埋葬許可書も出されなかった、という記述がある。埋葬の場所さえ、分からない。不発の発破の事故で仲間が死傷した、という証言も残る。
東京が焼けていた10か月
工事の10か月は、日本中の都市が焼かれた時期と重なる。1944年11月24日、マリアナの基地から飛んできた爆撃機が、東京への本格的な空襲を始めた。着工のわずか13日後だ。1945年3月10日の東京大空襲では、一夜で約10万人が亡くなったと推計される。
4月には、沖縄にアメリカ軍が上陸した。8月6日には広島、9日には長崎に原子爆弾が落ちる。松代では、その間も命令が増え続けた。
1945年6月、海軍も長野への移転を決め、長野市の安茂里で壕を掘り始めた。この壕は、2021年12月に、「大本営海軍部壕」として資料館とともに公開されている。
完成率75パーセントで迎えた8月15日
1945年8月15日、工事は終わっていなかった。完成の割合は地区によって違い、全体では75パーセントの段階で、工事は中止されたと伝わる。象山は、8割ほど出来上がっていた。
掘り進んだ長さを11キロ近くとする数字があり、総工費も、6000万円という数字と、1億円から2億円という数字に分かれる。巨大な穴は、使われないまま不要になった。
御座所に天皇が入ることは、一度もなかった。政府も、日本放送協会も、中央電話局も、象山へ移ってくることはない。
強制的に連れてこられた人たちは、敗戦のあと本国へ帰されたが、自分の意思で海を渡ってきた人の家族は、飯場にそのまま残る。そのうち帰国を望んだ一部は、1958年から1959年にかけての北朝鮮への帰国運動に加わった。
壕は、放り出された。戦後しばらくは、子供の遊び場。キノコの栽培にも使われた。
御座所の跡で、針が振れた
1946年、地元の仏教会が舞鶴山の建物の1つの払い下げを受け、戦災孤児を受け入れる施設を開いた。翌1947年には、児童養護施設の恵愛学園になる。天皇のために造られた山の建物が、行き場のない子供たちの家になった。
同じ1947年、舞鶴山の庁舎に、中央気象台の松代分室が置かれた。これが、いまの気象庁松代地震観測所だ。壕の中には各種の地震計が据えられ、日本でも最大級の観測施設といわれる。大本営の移転予定地の跡が、地面の揺れを測る場所に変わった。
1965年8月3日、その松代で、小さな地震が起き始めた。揺れは止まらない。活動は約5年続き、1970年6月に、長野県が終息を宣言した。
震度1以上の地震は、6万回を超えた。最大のマグニチュードは5.4で、2回。最大の震度は5で、10回を数える。最盛期の1966年4月17日には、1日に6704回。約13秒に1回、地面が揺れた計算だ。
地盤の隆起、地割れ、湧き水、液状化。変化は目に見える形で現れた。すべての地震のエネルギーを足し合わせると、マグニチュード6.4の地震1つに相当する。松代の観測所は、のちに外国の地下核実験を探る役目も負ったという。
皆神山の頂にある石碑
皆神山は、松代の南に座る里山だ。最高地点は標高659メートル。溶岩ドームの形をしている。大本営の工事では、倉庫の壕が掘られた山だった。
この山には、まったく別の話が乗っている。太古に作られた世界最大のピラミッドだ、という説である。旧石器時代に神々が、宇宙へ向かう基地として、重力を操る技法で築いたという筋書きで、書籍にもなった。
山頂には、「世界最大最古のピラミッド」と記した石碑が立つ。登山口から1時間もかからない山で、軍の穴とピラミッドの伝説が、同じ斜面に同居する。
倉庫に使われた壕のほうは、落盤が激しく、いまは立ち入り禁止だ。見学できるのは、象山のほうだけになる。
70メートルから500メートルへ
公開区間は、もとは70メートルほど。1990年代の初めに整備が入り、約500メートルまで延びた。管理するのは長野市で、総延長約6キロのうち、住宅街の端にある西条口から入る約500メートルだけが、一般に公開されている。
入れる時間は、9時から15時半まで。第3火曜と年末年始は休みになる。入場は無料だ。壕の中の気温は、1年を通して15度ほどだと案内にある。夏でも上着が要るかもしれない。
象山の1番壕には、信州大学の宇宙線の観測施設が置かれている。大本営のために掘った穴で、いまは宇宙から降る粒を数える。
入口のすぐそばには、1998年2月に開かれた「もうひとつの歴史館・松代」がある。地下壕の全体図や写真のパネル、トロッコと「もっこ」の実物大の模型、削岩機が並び、当時の工事の道具を目で確かめられる。壕の近くの恵明禅寺には、強制労働で亡くなった人たちの供養塔もある。
撮影について、長野市は目的を基本的にノンフィクションに限っている。入口の周りが住宅街で、大型の機材は運び込みにくい。
延長の数字は、資料によってばらつく。象山の全長を5854メートルとするものがある。約6キロとするものがある。3つの山を合わせて11キロ近くとするものもあれば、約10キロと書くものもある。
壁の穴は、いまも並ぶ。ロッドの跡、発破の穴。そこから奥は、立ち入れない暗がりに続く。
