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十九分の空白――モーラ・マレー失踪事件、雪のルート112で二十一歳の看護学生が消えた夜と、その後の二十二年

二〇〇四年二月九日の夜、アメリカ・ニューハンプシャー州の山あいの道で、二十一歳の看護学生が消えた。事故を起こした車の前に立っているところを、通りかかった近隣住民がはっきり見ている。会話もしている。そのおよそ十九分後、警官が現場に着いたときには、彼女はもういなかった。車は施錠されていた。雪の上に、森へ向かう足跡はなかった。

それから二十二年たった今も、彼女は見つかっていない。

この記事は、モーラ・マレー失踪事件の話だ――アメリカで最も執拗に掘り返され、最も多くのポッドキャストの題材になり、そして最も何も出てこない失踪事件のひとつ。正直に言うと、書いていて何度も気が滅入った。手がかりが少なすぎるからじゃない。手がかりだけは異様に多いのに、そのどれもが最後まで行かないからだ。

舞台になった道の話から始めたい――ヘイヴァヒルとウッズビル

ニューハンプシャー州ヘイヴァヒルという町がある。州の北西の端、コネチカット川をはさんで対岸はバーモント州、という位置だ。人口は二〇二〇年の国勢調査で四千五百八十五人。面積はおよそ五十二平方マイルあるので、密度で言えば一平方マイルあたり九十人しかいない。日本の感覚だと、町というより「集落がいくつか散らばっている行政区画」に近い。

一七六三年に植民地総督ベニング・ウェントワースによって法人化された古い町で、もとの名は「ロウアー・コーホス」といった。これはこのあたりを農耕の拠点にしていたアベナキの人々の言葉に由来する。

ヘイヴァヒルの中にはいくつもの村がある。ウッズビル、ノースヘイヴァヒル、パイク、イーストヘイヴァヒル、ヘイヴァヒルコーナー、マウンテンレイクス。事件の現場になったのはウッズビルの外れだ。ウッズビルはアモノーサック川がコネチカット川に流れ込む地点にできた村で、人口は千四百三十一人。もとは製材と鉄道の町だった。

一八二九年にバーモント州ウェルズリバーから来たジョン・エル・ウッズが製材所を買い、一八五三年にボストン・コンコード・アンド・モントリオール鉄道が通ってから一気に栄えた。丸太を川に流す春の流送作業が名物で、流送人夫たちが集まる酒場や色街まであったという。今はその面影はほとんどない。グラフトン郡の裁判所も一九七二年に南のノースヘイヴァヒル寄りへ移った。

残っているのは、地域の命綱になっている小さな救急病院と、商店がいくつかと、静かな冬だ。

問題のルート112は、ここから東へ、ホワイトマウンテンの山塊へ向かって伸びていく州道だ。別名をワイルド・アモノーサック・ロードという。名前のとおり、川に沿って曲がりくねる。片側一車線。ガードレールは頼りない。街灯はほぼない。東へ走り続ければキンズマン・ノッチという峠を越えてリンカーンに出て、そこからはあの有名なカンカマガス・ハイウェイにつながる。夏は紅葉狩りとハイキングの車が通る。

冬は、スキー客と地元の人と、除雪車しか通らない。

そして決定的なのが、二〇〇四年当時、このあたりは携帯電話の圏外だったということだ。まったく入らない。これは後で何度も効いてくる。

モーラ・マレーという人

モーラ・マレーは一九八二年五月四日、マサチューセッツ州ブロックトンで生まれた。父フレッド・マレーは医療技師、母ローリーは看護師。アイルランド系カトリックの家庭で、きょうだいは五人。上に兄フレッド・ジュニア、姉キャスリーン、姉ジュリー、下に弟のカーティスがいる。モーラは四番目だ。両親は彼女が六歳のときに離婚し、その後は主に母と暮らした。育ったのはマサチューセッツ州ハンソン。

学校では何をやってもできる子だった。ウィットマン・ハンソン地区高校では陸上部で、高校二年だった一九九八年には二マイル種目で全国大会に出場して三十三位に入っている。成績も良く、卒業後はニューヨーク州のアメリカ陸軍士官学校、通称ウエストポイントに進んだ。専攻は化学工学。ここで、後に婚約者になるビル・ラウシュと出会っている。

ただ、ウエストポイントは三学期で辞めている。フォートノックスの売店での窃盗をめぐって名誉委員会にかけられそうになった、という話が残っているが、姉ジュリーによれば、委員会が開かれる前にモーラ自身が自分の意思で去ったという。その後マサチューセッツ大学アマースト校に編入し、看護学科に入った。実家のある町にぐっと近づいた形だ。

姉ジュリーが後年、あるテレビ番組の取材にこう話している。「あの子は、こういう実績の話をされると赤くなるんです。注目されたくてやってたわけじゃない」。看護を選んだのも、人の世話を焼くのが好きだったからだった。「高校のとき、母が働いていた老人ホームでボランティアをしていて、お年寄りとおしゃべりするのが大好きだった。話をして、笑わせて」。家族の中では冗談を言う役回りで、誰にでも礼状を書く子だったという。

一方で、二〇〇三年の秋から冬にかけて、彼女の生活には小さなひび割れが増えていた。同年十一月、盗まれたクレジットカードを使って飲食店に出前を頼んだことが発覚している。被害額は七十九ドル二セント。十二月に「三か月間問題を起こさなければ不起訴」という形で処分が保留になった。つまり二〇〇四年二月というのは、その三か月がちょうど明けようとしていた時期だった。

姉ジュリーは後に、この件を摂食障害と結びつけて語っている。深夜に食べ物を注文しつづける行動そのものが、コントロールを失っている兆候だった、と。「あの子が唯一コントロールできると感じていたのが食べ方だった。あの夜、絶対に過食していたと思う」。断定はできない話だが、家族が二十年かけてたどり着いた読み方として、記録しておくべきだと思う。

失踪までの四日間――二月五日から二月八日まで

ここからが、この事件で最も語られる部分だ――崩れていく四日間の話。二月五日から九日にかけて、モーラの行動は明らかにおかしくなっていく。

二〇〇四年二月五日木曜日の夜、彼女はアマースト校のキャンパスで警備のアルバイト中だった。二十二時半ごろ、姉キャスリーンと電話をしている。話題はキャスリーンの婚約者との関係のことだった。通話のあと、モーラは泣き崩れた。上司が机まで来たときの様子について、その上司は後にこう語っている。「完全に放心していた。何の反応もなかった」。一時二十分ごろ、上司が彼女を寮の部屋まで送り届けた。

何があったのかと聞かれ、モーラが返した言葉はふたつだけだった。「姉のことで」。

この通話の中身は十三年間わからないままだった。二〇一七年十月になって、キャスリーン本人が公にしている。彼女はアルコール依存の治療施設からその晩に退所したばかりで、帰り道に婚約者が酒屋に寄ったせいで再飲酒してしまった。それをモーラに打ち明けたのだった。姉の再発。この一本の電話が、四日後の失踪の始点になったと考える人は多い。

二月七日土曜日、父フレッドがアマーストを訪ねてきた。中古車を見に行き、モーラの友人を交えて夕食をとった。モーラは父をモーテルまで送り届け、そのまま父の借りたトヨタ・カローラを借りて寮のパーティーに戻った。到着が二十二時半。パーティーを出たのが日付が変わって二月八日の二時半。そして三時半、父のモーテルへ向かう途中のマサチューセッツ州道9号線、ハドリーでガードレールに接触した。損害額はおよそ一万ドル。

かなりの大事故だ。駆けつけた警官は事故報告書を書いたが、飲酒検査をしたという記録は残っていない。彼女は父のモーテルまで運ばれた。

そして四時四十九分、父の携帯からオクラホマ州フォートシルに駐屯していた恋人ビル・ラウシュへ電話がかけられている。誰が誰にどんな話をしたのか、いまだにわかっていない。

翌朝、父は保険で修理費がまかなえることを知り、代車を借り、モーラをキャンパスまで送ってコネチカット州の職場へ戻った。父はその晩、娘に電話をしている。マサチューセッツ州の陸運局で事故の書類をもらってくるように、という念押しだった。父は後に、事故のあとの娘の様子をこう表現している。「打ちのめされていた。ひどく打ちのめされていた」。

ジュリーの言葉を借りれば「父をがっかりさせるのが何より嫌いで、自分にいちばん厳しい子」だった。

もうひとつ、地味だが重要な事情がある。モーラ自身の車、一九九六年型の黒いサターンは調子が悪かった。看護学科は実習のために「信頼できる移動手段」を学生に求めていた。だから父の車を借りていた。その父の車を壊した。この二重の詰みが、彼女の頭の中でどう響いたのかは誰にもわからない。

二〇〇四年二月九日、月曜日

その日、アマースト校は吹雪で休講になっていた。

深夜零時を回ったころ、モーラは自分のパソコンでマップクエストを開き、バークシャー地方とバーモント州バーリントンへの道順を検索している。三時三十二分には課題を提出している。ここは後で家族が強調する点になる。課題を出すというのは、戻ってくるつもりだった人間の行動じゃないか、と。

十三時ちょうど、恋人にメールを送った。「あなたのほうが好きよ、色男。メッセージは受け取ったけど、正直、誰ともあんまり話したい気分じゃなかったの。今日は必ず電話する。愛してる、モーラ」。

同じ午後、ニューハンプシャー州バートレットのコンドミニアムに電話をかけている。マレー家が何年も家族旅行で使っていた、まさにその管理組合の物件だった。通話記録によれば三分。オーナーは彼女に貸さなかった。

十三時十三分、看護学科の同級生に電話。理由は今もわかっていない。私立探偵ジョン・ヒーリーは、実習着を渡す約束をしたのではないかと推測している。親族のヘレナ・マレーは、借りていた実習着を返そうとしたのではと見ている。どちらにせよ、身辺を整理する動きに見える。

十三時二十四分、これが決定的な一通だ。看護学科の教員でもある勤務先の上司に、モーラはメールを送った。身内に不幸があったので一週間町を離れる、戻ったら連絡します、と。家族に不幸などなかった。誰も死んでいない。この嘘が、後の二十二年間、あらゆる仮説の土台になる。

十四時五分、バーモント州ストウのホテル予約情報を流す自動音声の番号にかけている。通話はおよそ五分。十四時十八分、恋人に電話して留守番電話に「あとで話そう」と吹き込んだ。通話一分。

そのころ彼女は、部屋の荷物をほとんど箱に詰めていた。壁の絵も外していた。あとで大学警察が部屋を調べたときに見つかった状態だ。箱の上には、恋人あてに印刷されたメールが置かれていた。内容は、二人の関係にトラブルがあったことをうかがわせるものだった。捜査当局は当時、荷造りは日曜の夜から月曜の朝のあいだに行われたとみている。衣類、洗面用具、教科書、経口避妊薬。それらを車に積んだ。

十五時半ごろ、黒いサターンでキャンパスを出た。十五時四十分、現金自動預払機で二百八十ドルを引き出した。防犯カメラには彼女ひとりしか映っていない。口座はこれでほぼ空になった。数日後に給料が入る予定だった。その足で近くの酒屋に寄り、四十ドルほどの酒を買った。ベイリーズ、カルーア、ウォッカ、そしてフランジアの箱入り赤ワイン。ここでも防犯カメラには彼女ひとりだ。

この日のどこかで、陸運局にも寄って事故報告書の用紙と、免許停止の解除に関する書類を受け取っている。

十六時から十七時のあいだにアマーストを出た。おそらく州間高速91号線を北へ。十六時三十七分、留守番電話を確認している。これが彼女の携帯電話の最後の使用記録になった。

ここから先、彼女がどこをどう走ったのかは、記録上まったくの空白だ。三時間近く、証拠が何もない。

十九時二十七分、通報

十九時をいくらか過ぎたころ、ウッズビルの住民が家の外で大きな鈍い音を聞いた。窓から見ると、家のすぐ横の急カーブのところで、ルート112の雪の壁に一台の車が乗り上げていた。車は東行き車線にいるのに、西を向いていた。

彼女がグラフトン郡保安官事務所に電話したのが十九時二十七分。この通報の記録には妙な部分がある。緊急通報の記録には、車内でたばこを吸っている男を見た、と彼女が言ったことになっている。だが本人は後に、男もたばこも見ていない、車内で赤い光がぼんやり光っているのを見ただけだ、あれは携帯電話の光だったかもしれない、と訂正している。

この十九分間に、少なくとも四人の人間が現場のそばにいた。それぞれの語りを、順番に見ていきたい。

通報した住民、フェイス・ウェストマンの語り

現場のカーブに面した家に住んでいたのがフェイス・ウェストマンだった。夫のティムと一緒に、家の中の部屋を行き来しながら作業をしていた。そこへ、あの音が来た。彼女は窓に寄り、黒っぽいセダンが道を外れているのを見た。そして電話を取った。

彼女は現場に出ていかなかった。通報の音声の中で、彼女ははっきりとこう言っている。「外に出て確かめてはいません」。冬の夜、氷点下の田舎道、見知らぬ車。出ていかないのはまったく不自然じゃない。ただ、この「出ていかなかった」という一点が、後年のネット上の議論では執拗に蒸し返されることになる。もし彼女が外に出ていたら。もし懐中電灯を持って近づいていたら。

そういう「もし」を、二十年以上にわたって見ず知らずの他人から突きつけられ続ける人生を想像してほしい。

赤い光の話も同じだ。たばこの男という最初の記述と、携帯の光かもしれないという後の訂正。この食い違いだけで、掲示板には何百もの書き込みが積み上がった。同乗者がいた証拠だと言う人がいる。単に暗闇で見誤っただけだと言う人がいる。当のウェストマンは、自分が見たものを正直に言い直しただけだ。人間の記憶というのはそういうもので、夜間の遠目の目撃はとりわけあてにならない。

それでも記録に残った最初の一行は、消えずに残り続ける。

バス運転手、アーサー・「ブッチ」・アトウッドの語り

この事件で最も重要な証人が、アーサー・アトウッド、通称ブッチだ。地元のスクールバス運転手で、その日はワイルドキャット山へスキー遠足に行った生徒たちを送り届けた帰りだった。現場のすぐ近くに住んでいた。

彼はバスを停めて、車のそばを歩いている若い女性に声をかけた。彼の説明では、女性は肩までの暗い色の髪で、震えていて、動揺していたが、顔に血は見えなかった。

『トゥルー・クライム・アディクト』という本の記述によれば、二人のやりとりはこうだ。アトウッドが「大丈夫か」と聞く。彼女は「ちょっと動転してるだけ」と答える。「警察を呼んでやろうか」。返ってきたのは、「いえ、やめてください。もうトリプルエーに電話しました。レッカーが来ます」だった。警察の報告書のひとつには、彼女が「懇願した」という言い方で記録されている。

ここが問題だ。アトウッドはこのあたりに携帯の電波が来ないことを知っていた。だから彼女が電話をかけられたはずがないこともわかっていた。ついでに言えば、後の調べでロードサービス側にもそんな連絡の記録は一切なかった。それでも彼は、その場で無理やり事を荒立てなかった。ハザードランプをつけておくように言い、家まで走って、そこから通報した。通報が保安官事務所に届いたのが十九時四十三分。

自宅からは事故車が見えなかったが、警察が来るまでのあいだに何台か車が通るのを彼は認めている。この「何台か」が、後の議論の中心になる。

アトウッドの語りは、年月とともに細部が揺れた。バスから降りたのか降りなかったのか。懐中電灯を使ったのか。車のボンネット越しに話したのか。回数を重ねるうちに版が増えていった。それを根拠に、ネット上では彼自身を疑う声がずっとくすぶり続けた。だがこれも冷静に見れば、二十年にわたって何十回もインタビューされ続けた七十近い男の記憶が、寸分たがわず同じであるほうがむしろ不自然だ。

彼は警察に対して、彼女は酔っているようには見えなかった、と一貫して述べている。アトウッドは二〇一二年に亡くなった。彼が最後まで抱えたのは、あの晩に彼女を無理やりでも車に乗せて帰らなかった、という後悔だったと伝えられている。

通りかかった女性、カレン・マクナマラの語り

三人目が、仕事帰りに現場を通ったカレン・マクナマラだ。彼女の証言は、この事件で最も厄介な爆弾のひとつになっている。

彼女が現場を通ったと述べているのは、十九時三十三分から三十七分ごろ。そこで彼女が見たのは、警察の四輪駆動車がモーラのサターンと「鼻先を突き合わせる」ように停まっている光景だった。彼女は一度車を停め、手を貸したほうがいいのか迷った。だが、どちらの車の中にも外にも人影はなかった。ハザードランプもついていなかった。彼女は結局そのまま帰った。

問題は時刻だ。警察の公式な記録では、ヘイヴァヒル警察の警官が現場に着いたのは十九時四十六分ということになっている。マクナマラの証言が正しければ、警察車両は記録より九分早く現場にいたことになる。

彼女はまた、こうも言っている。「あそこでは私の携帯はつながらなかった。どんな携帯もつながらなかった」。そして、その場の見た目は「事故というより、ただ道の反対側に停めてあるように見えた」と。

この証言をどう扱うかで、この事件の見え方はまるっきり変わる。彼女が日付か時刻を勘違いしている可能性はある。あるいは、彼女が見たのは別の車両だった可能性もある。逆に、彼女が正しいなら、公式記録の側に何かがある。

マレー家の側は後者に近い立場を取っていて、ジュリー・マレーは自身のポッドキャストで、その日の別の交通取り締まりが警察の記録から抜け落ちている点も含めて、初動の記録そのものに疑問を投げかけている。

現場に着いた警官、セシル・スミス巡査部長

公式記録上、十九時四十六分にヘイヴァヒル警察のセシル・スミス巡査部長が現場に到着した。運転していた女性はいなかった。車の中にも周りにも、誰もいなかった。

車は運転席側を木にぶつけていた。左のヘッドライトがつぶれ、ラジエーターがファンに押し込まれていた。もう自走できる状態ではなかった。運転席側のフロントガラスにはひび。エアバッグは前席の両方が開いていた。そして車は施錠されていた――これが後々まで引っかかる。

彼はウェストマン夫妻のところへ行き、こう聞いている。「女の子はどこだ」。

車の中と外に、赤ワインらしき赤い染みが散っていた。ドアの内側にも天井にも飛んでいた。後部座席の背後には、つぶれたフランジアの箱ワイン。路上にはコーラの瓶が落ちていて、酒のにおいがした。彼は現場の写真を少なくとも七枚撮り、周囲と近くの古い納屋の中をざっと調べた。十九時五十四分、身長五フィート七インチの女性を探す手配を出した。そして二十一時二十六分、彼女を見つけられないまま現場を離れた。

このおよそ一時間四十分のあいだに、州警察のジョン・モナハン巡査もリズボンから応援に来ている。ただし彼が捜索したのは西側だった。モーラの車が向いていた方向、そして彼女が向かっていたはずの方向は東だ。この「西を探した」という一点が、後にフレッド・マレーを何年も苦しめることになる。

車の中に残されていたもの――赤ワイン、事故証明書、そして一冊の本

残された車の中身は、この事件のいちばん奇妙な部分かもしれない。

まず、彼女名義のロードサービスの会員カード。使っていない。次に、白紙の事故報告書用紙。その日わざわざ陸運局まで取りに行ったやつだ。手袋。音楽の入ったコンパクトディスク。化粧品。ダイヤモンドの装身具。バーリントン行きとストウ行き、二種類の道順の印刷。空のビール瓶。そして、お気に入りだったぬいぐるみ。

極めつけが一冊の本だ。『ノット・ウィズアウト・ペリル』。ホワイトマウンテンでの登山と、そこで死んだ人々についてのノンフィクションだった。雪の山道で消えた女性の車から、ホワイトマウンテンの遭難史の本が出てくる。作り話ならできすぎている。この本の存在だけで、「山へ入るつもりだった説」を唱える人が今も絶えない。ただ、モーラは以前から本気の登山愛好家で、父と一緒に山を歩く人だった。

持っていて何の不思議もない本でもある。

もうひとつ、レッカー業者のマイク・ラボイが二十時四十九分に車を運び出したとき、彼はマフラーの排気口に布きれが押し込まれているのを見つけている。これも長く議論の的になった。故意に排気を塞いだのか、と。だがラボイ本人の後の説明では、フレッド・マレーに聞いたところ、車の調子が悪くて煙が出るのを抑えるために自分が娘にそうするよう言った、ということだった。

不気味な手がかりに見えたものが、聞いてみると生活の中のありふれた工夫だった、という例だ。この事件にはそういう「不気味に見えて実はそうでもない」ものが山ほど転がっている。

なお、二〇二四年に地元テレビ局の報道部門が入手した裁判資料には、衝突の専門家による車両の解析が含まれていた。専門家は、車に乗っていたのがモーラひとりだったと断定することはできない、と結論している。断定できない、というだけであって、同乗者がいた証拠ではない。だが、この一行がまた燃料になった。

姉ジュリー自身も、事故再現の専門家と組んで車の損傷を検証している。彼女の主張では、損傷は木に突っ込んだ衝撃とは一致せず、車はまだ走れる状態だった。さらに、車内からクライスラー製の部品が見つかったこと、サターンの後部バンパーに白い擦り傷があったことを挙げている。事故現場から七マイル離れた場所で、白いジープ・グランドチェロキーが現場を離れるのを見たという話があった。

ジープを作っているのはクライスラーだ。ここまで来ると、家族の側もまた、点と点を線でつなぐ作業をやっていることになる。それを責める気にはならない。二十二年待たされたら、誰だってそうする。

消えていたもの――カード、携帯、そして通話明細の空白

残されていたものより、なくなっていたもののほうが重い。

彼女の預金引き出し用のカード。クレジットカード。そして携帯電話。この三つは車になかった。そして二十二年間、一度も使われていない。一度もだ。カードは切られず、電話は電源が入らず、位置情報も残らなかった。

酒も一部が消えていた。捜査当局は後に、購入した瓶のいくつかが車内にないと報告している。ただしここは資料によって食い違う部分でもあって、ジェームズ・レナーは警察から、酒はすべて車内にあり目録に記録されている、と聞いたと書いている。どちらが正しいのか、外部からは確認しようがない。

黒いリュックもなかった。家族は彼女が黒いリュックを持っていたことを知っている。車の中にはなかった。翌日出された手配書にも「黒いリュック」が書かれている。今日まで見つかっていない。

そして携帯電話の記録の話だ。この件は日本語圏でもよく「通話履歴が消されていた」という言い方で紹介されるが、正確に言うと少し違う。彼女の携帯電話の契約は恋人の母親シャロン・ラウシュ名義で、請求書はそちらに届いていた。二〇〇四年十月、シャロンがその明細を見返していて、失踪の三時間ほど前にかけられた最後の二件の番号に気づいた。ひとつはアマースト校の寮の番号。

もうひとつが、マサチューセッツ州ウェイクフィールドのドミニクとリンダ・サラモーネ夫妻の家だった。

シャロンが直接その番号にかけて話してみると、サラモーネ夫妻はニューハンプシャー州バートレットにコンドミニアムを持っていた。しかもそれは、マレー家が何年も家族旅行で使っていたのと同じ管理組合の物件だった。「言葉が出なかった」とシャロンは語っている。「私にはめったにないことなんだけど」。

問題はここからだ。失踪直前の最後の通話相手のひとりであるサラモーネ夫妻に、警察は一度も連絡していなかった。夫妻が自分たちがこの事件に関係していると知ったのは、失踪から八か月後、被害者の恋人の母親からの電話によってだった。

フレッド・マレーはこれを聞いて激怒した。彼にとって、これは娘に行き先があった証拠だった。「あの子には目的地があった」と彼は言っている。「ルート112はまっすぐそこへ通じている」。実際、ルート112を東へ行けばリンカーンに出て、そこからバートレットまでは遠くない。もしバートレットのコンドミニアムを目指していたなら、彼女はコースを外れていなかったことになる。

家族が長年、警察の初動を「手続きの逸脱と無能の連続」と呼んでいるのは、こういう積み重ねがあるからだ。ジュリーは自分のポッドキャストで、事故車のオーナーへの接触の遅れ、失踪の数日前にインスタントメッセンジャーでモーラとやりとりしていた同級生への未接触、そして東側を探さなかったこと、を並べて指摘している。

捜索の二十二年

翌二月十日火曜日の十二時三十六分、手配書が近隣の警察署に回った。十五時二十分、フレッドの自宅の留守番電話に、娘の車が乗り捨てられているという伝言が入った。彼は州外で仕事をしていて、この電話を受け取っていない。十七時、姉のひとりが父に電話して事態を伝えた。フレッドがヘイヴァヒル警察に連絡すると、明朝までに無事が確認されなければ州の漁業狩猟局が捜索を始める、と言われた。

十七時十七分、警察の記録上、彼女は初めて「行方不明者」と呼ばれた。事故から二十二時間近くたっていた。

二月十一日水曜日、夜明け前にフレッドがヘイヴァヒルに着いた。八時から、漁業狩猟局と家族と有志による捜索が始まった。追跡犬がモーラの手袋のにおいをたどり、車のあった地点から東へ百ヤードまで行った。そこでにおいが切れた。当局はこれを「彼女は別の車に乗って現場を離れた」ことの示唆と受け取った。この百ヤードは、二十二年間ずっと議論され続けている百ヤードだ。

十七時、恋人のビル・ラウシュと彼の両親が到着した。ラウシュは個別に事情を聴かれ、その後両親を交えて聴取を受けている。同日十九時、警察は家族に対し、モーラは自分から逃げ出したか、自死を図った可能性があると考えていると伝えた。家族は納得しなかった。

二月十二日の夜、ベツレヘムでフレッドと恋人が記者会見を開いた。翌十三日、初めて事件の報道が出た。同じ日の十五時五分、警察は彼女がカンカマガス・ハイウェイ方面へ向かった可能性があり、「危険な状態にあり、自死のおそれもある」との扱いにすると発表した。警察の報告書には、事故現場で彼女は酩酊していた、と書かれていた。彼女と実際に話したバス運転手は、酔っているようには見えなかったと述べているのに、だ。

ヘイヴァヒル警察署長は「動転しているか、自死を考えているのではないかというのが我々の懸念です」と述べた。二月十四日には、フレッドと恋人が全国ネットのテレビ番組の朝の情報番組に出演した。

行方不明者事件は通常、地元警察と州警察が扱う。だがこの件では失踪から十日後に連邦捜査局が加わった。マサチューセッツ州の親族への聞き取りが行われ、ヘイヴァヒル警察署長は捜索が全国規模になったと発表した。同じころ、漁業狩猟局が二度目の大規模捜索を行っている。今度は熱源感知カメラを積んだヘリコプター、追跡犬、そして遺体捜索犬が投入された。何も出なかった。

二月二十六日、姉のひとりがフレンチ・ポンド・ロード近くの人けのない小道の雪の上で、破れた白い女性用下着を見つけた。ルート112を東へ約三十マイル行ったあたりだ。遺伝子鑑定の結果、モーラのものではなかった。

二月末、警察は車から回収した品を家族に返した。三月二日、家族は疲れ切ってモーテルを引き払った。フレッドはほぼ毎週末、ヘイヴァヒルへ通い続けた。四月には、私有地に立ち入っているという苦情が来ていると警察から告げられている。娘を探して森を歩いていた父親が、不法侵入の警告を受ける。この事件の、いちばんやりきれない場面のひとつだ。

七月一日、警察は鑑定のために、いったん家族へ返した車内の品を回収し直した。七月十三日には、州警察と救助隊と有志を合わせて百人近くが、事故現場から半径一マイルの捜索を行った。現場周辺では四回目、そして雪のない状態では初めての捜索だった。当局が最も探していたのは、あの黒いリュックだ。結果は「決定的なものは何もなかった」。

二〇〇六年十月には、有志が二日間かけて事故現場から数マイル圏内を探している。ニューハンプシャー州調査員協会のドン・ネイソンによれば、遺体捜索犬は「いくつか反応はしたが、決定的なものはなかった」。ただしこのとき、事故現場から約一マイルのところに建つ三角屋根の家の、ある物置の中で、犬たちが激しく反応したと伝えられている。この家の当時の借り手が誰だったかという話は、後で書く。

そして二〇〇九年、事件はニューハンプシャー州の未解決事件班に移管された。扱いは「不審な行方不明者事案」。州の司法副長官ジェフリー・ストレルジンは二〇〇九年二月にこう述べている。「モーラが被害者かどうかはわからない。だが州としては、殺人の可能性がある事件として扱っている」。二〇一四年、失踪十年の節目には「あの夜以降、信頼できる目撃情報は一件もない」と語った。

二〇一九年四月三日、大きな動きがあった。ルート112沿いにあるあの家の地下室が、実際に掘り返されたのだ。有志が持ち込んだ地中レーダーが地下室の地面に撹乱の痕跡を示し、捜索犬も反応した。ただしストレルジンによれば、当局は捜索令状を取るに足るだけの信用ある証拠はないと判断していた。実現したのは、家が売却されて新しい所有者が捜索を許可したからだ。州警察と連邦捜査局の捜査官が地下室を掘った。

出てきたのは、彼の言葉によれば「まったくの無。陶器のかけらか古い配管らしきもの以外は何もない」。

二〇二二年七月十三日、ニューハンプシャー州司法長官室が大規模な地上捜索を発表した。場所はランダフとイーストンのルート112沿い、事故現場から東へ四マイルから五マイルほどのところ。ストレルジンは、通常こういう捜索は公表しないが今回は規模が大きく住民が不安がるだろうから発表した、と説明した。「これまでにも調べた場所を、もっと徹底的に調べるのが目的です」。ジュリーはこのニュースを歓迎した。

「事故現場から約五マイル、しかも彼女が向かっていた東の方向です。そのうえ、ここは二〇〇四年五月の初期の捜索で焦点になった場所でもある。地元の人が『若い人が走るように動いていた』のを見たという情報があったところなんです」。この捜索でも、公表されるような発見はなかった。

二〇二二年一月には連邦捜査局が全国向けの照会を出し、暴力犯罪検挙プログラムのプロファイルを作成している。二〇二四年二月九日、失踪から二十年の日に、州司法長官ジョン・フォーメラは連邦捜査局が作成した年齢推定画像を公表した。フォーメラはこう述べている。「連邦捜査局を含む地元、州、連邦のパートナーと協力を続け、この事件を前進させるための資源を探しています。

二十年という節目が事件への関心をあらためて集め、それがマレー家にとっての正義と区切りにつながることを願っています」。同時に、これは捜査方針の変更や新情報に基づくものではない、とも明記された。

二〇二一年九月――ルーン山の骨片

二〇二一年九月十四日、ニューハンプシャー州警察が発表した。リンカーンのルーン山の工事現場で、人骨の破片が見つかった、と。

場所は事故現場から東へおよそ二十五マイル。ルーン山はホワイトマウンテンの中でも有数のスキー場で、姉のジュリーによれば、モーラはこの山に来たことがあり、周辺の地形も知っていた。方向も、彼女が向かっていたとされる東だ。

骨片は「かなり小さい」ものだった。鑑定にはどんなに早くても二か月はかかる、と当局は言った。

家族は慎重に、しかしはっきりと希望を口にした。ジュリーは言った。「もし本当にモーラなら、責任のある人間を裁きにかけることができる」。弟のカーティスは「捜索をやめるわけにはいかない。絶対にやめない」と述べた。ある報道は、この二か月の待ち時間について「はらわたがよじれるようだ」という家族の言葉を見出しに取った。

そして二〇二一年十一月十日、結果が出た。放射性炭素年代測定によれば、その骨の持ち主が死亡したのはおよそ一七七四年から一九四二年のあいだ。つまり、最も新しく見積もっても、モーラが生まれる四十年前だ。最近掘り返された形跡もなく、外傷の痕跡もなく、現在の行方不明者事案とも犯罪とも関係がない。骨格は成人女性か小柄な男性のもの、と見立てられた。

二か月待って、返ってきたのがこれだった。しかも、その二週間後の十一月二十五日、感謝祭の日に、姉のキャスリーンが四十四歳で亡くなっている。長いがんとの闘いの末だった。母ローリーを奪ったのと同じがんだった。母は、モーラの誕生日である五月四日に亡くなっている。医師が「あと数時間」と言ってからずっと持ちこたえて、その日まで生きた。ジュリーはこう語っている。「うちの家族はこの死に方に何かあるんですかね」。

二〇二四年十一月十八日には、兄のフレッド・ジュニアも五十四歳で亡くなった。

語られてきた仮説と、そのほころび

ここからは、二十二年間に立てられてきた説を、ひとつずつ見ていく。どれにも致命的でないまでも、無視できない弱点がある。それがこの事件の本質だ。

自らの意思で姿を消したという説

最初に警察が採ったのがこの見方だった。根拠はわかりやすい。行き先を誰にも告げていない。上司と教員に嘘のメールを送っている。荷物を箱に詰め、壁の絵まで外している。衣類、洗面用具、教科書、経口避妊薬を車に積んでいる。二百八十ドルを引き出して口座をほぼ空にしている。バーリントンとストウの情報を調べている。どう見ても、しばらく戻らないつもりの人間の準備だ。

ジェームズ・レナーは著書『トゥルー・クライム・アディクト』で、さらに踏み込んだ説を出した。彼女は誰かと二台に分乗してニューハンプシャーへ入り、自分の意思で消えて別の人生を始めた可能性がある、と。動機として、係属中のクレジットカードの件が看護師としての就職を妨げるのではないかという恐れを挙げている。

だが、この説にはいくつも穴がある。まず、彼女は本当に新生活を始める人間が持っていくはずのものを、山ほど車に置いていった。装身具も、化粧品も、教科書も、ロードサービスの会員カードも。次に、当時二十一歳で、口座はほぼ空、パスポートも持っていない。逃亡生活には新しい身分証と社会保障番号が要る。それには金がかかる。彼女に金はなかった。

そして最大の壁は、二十二年間、確認された目撃情報がただの一件もないことだ。年齢推定画像まで作られて全国に流れているのに、誰も彼女を見ていない。

家族はこの説を全否定している。ジュリーの言葉が重い。「私はモーラと一緒に育ったんです。あの子がどういう人間かを知っている。もし手を伸ばせる状態だったら、母と姉ががんで長く苦しんで亡くなったときに、連絡してこないわけがないでしょう」。

森に入って力尽きたという説

いちばん救いのある、そしていちばん平凡な説だ。事故で頭を打って混乱し、あるいは酒が入っていて、道を外れ、暗闇の中で方向を失い、寒さで倒れた。捜索から漏れる場所は森にいくらでもある。

弱点も多い。まず、雪の上に森へ向かう足跡がなかった。追跡犬はにおいを百ヤードでしか追えず、しかもその先は道路上だった。捜索は二〇〇四年二月だけで複数回、その後二十二年にわたって、州の機関、有志、遺体捜索犬、地中レーダー、熱源感知カメラを積んだヘリコプターまで動員されている。骨のかけらひとつ、布きれひとつ、あの黒いリュックひとつ出ていない。

家族が雇った私立探偵、元マサチューセッツ州グランビー警察署長のルー・バリーは、最初この説を有力視していたが、後に考えを変えた。「あの一帯は何度も何度も捜索されている。あの近くにいたなら、とっくに見つかっているはずです」。

ジュリーの整理も明快だ。「まず雪の中に足跡がなかった。熱源感知装置を積んだヘリコプターも飛んだ。あの場所には大勢の人が入って、周辺を徹底的に探した。それで何も出ていない。そのうえ二十年、信頼できる目撃情報がゼロ」。

なお、当時の天候が例年より暖かかったという指摘もあって、これは両刃だ。低体温症で死ぬ確率は下がるが、それは同時に「森で死んだ」説の説得力も下げる。

ひき逃げ、あるいは車両接触という説

ネット上で根強い説がある。事故現場付近を歩いていた彼女が別の車にはねられ、運転手が恐怖から遺体を隠した、という筋書きだ。時間帯も条件もそろっている。街灯のない冬の田舎道。暗い上着。舞い上がる雪。飲酒運転の可能性。しかも田舎では、通報すれば自分の人生が終わることを運転手はよく知っている。

この説を支える具体的な材料もある。姉ジュリーの再現分析による、サターンの後部バンパーの白い擦り傷と、車内で見つかったというクライスラー製の部品。そして事故現場から七マイル離れた地点で、白いジープ・グランドチェロキーが現場を離れるのを見たという話。

ただし、これらはどれも公式の捜査結果として確認されたものではない。家族側の主張と、当局の沈黙が並んでいるだけだ。それにこの説は、致命的な難点を抱えている。もしひき逃げなら、遺体をどこかへ運んで隠したことになる。凍った地面の二月に、一人でそれをやるのはかなり難しい。しかも遺留品も、リュックも、携帯も一切出ていない。慌てた運転手の犯行にしては、後始末が完璧すぎる。

通りかかった誰かの車に乗った、という説

現在、家族と多くの捜査関係者が最も可能性が高いと考えているのがこれだ。

支えているのは、あの追跡犬の百ヤードだ。においが道路上で途切れる。これは「彼女がそこで車に乗った」ことの、かなり素直な説明になる。加えて、アトウッドは警察が来るまでに何台か車が通ったと述べている。そして、二十時から二十時半のあいだに、フランコニアから帰る途中の請負業者が、事故現場から東へ四マイルから五マイルの地点で、若い人物が東へ向かって足早に移動しているのを見たと後に証言している。

ジーンズ、黒っぽいコート、明るい色のフード。見られたことに気づいたその人物は、脇の未舗装路へ走り込んだという。この業者はすぐに通報していない。三か月後、自分の作業記録を見返していて、その日がモーラの失踪の夜と同じ日だったことに気づいたのだ。

元署長のルー・バリーはこう整理する。「確率が高いのは、彼女が連れ去られたということ。最初から意思に反して、という意味ではありません。乗ってはいけない相手の車に乗ってしまったんだと思います」。ロードサービスの嘘についても、彼はこう説明する。「警察を呼ばれたくなかったんでしょう。ニューハンプシャー州での運転免許はスピード違反で停止されていた。そのうえ飲んでいたなら、これ以上面倒を増やしたくない。

だから咄嗟に作り話をした」。

弟のカーティスの言葉。「モーラは連れ去られたんだと思う。乗ってはいけない車に乗って、ろくなことにならなかった。もう生きてはいないだろうと思う」。兄のフレッド・ジュニアも生前こう語っている。「そこは疑問の余地がない。誰かに拾われたんだ。モーラは人を疑わないところがあって、場面によっては世間知らずだった。そういう性格だから、あの状況から助かろうとして、間違った相手の車に乗ってしまったんだと思う」。

この説の弱点はひとつだけ、しかし大きい。確率だ。あの晩、あの十数分のあいだに、あの人けのない道を、たまたま暴力的な人間が通りかかる確率はどれくらいか。ゼロではない。だが、それを前提にしないと成り立たない説でもある。バリーはこうも言っている。「人身売買という線も考えましたが、可能性は低い。二月の真ん中のウッズビルですよ。人買いが獲物を探しに来る場所じゃない」。

自死をめぐる議論について

失踪から数日で、警察は自死の可能性を口にした。二月十三日の発表では、彼女は「危険な状態にあり、自死のおそれもある」と分類されている。ヘイヴァヒル警察署長は「動転しているか、自死を考えているのではないかというのが我々の懸念です」と述べた。

家族はこの見方を、当時から今日まで一貫して否定している。ジュリーが挙げる根拠のひとつが、あの日の彼女の行動だ。三時三十二分に課題を提出している。バートレットのコンドミニアムに電話をして、借りようとしている。ストウのホテル予約情報を調べている。父の車の事故の書類と、免許停止解除の書類を陸運局まで取りに行っている。どれも「戻ってきて続きをやるつもりの人間」の行動だ、というのが家族の読み方だ。

そして事実として、二十二年の捜索でも遺体は見つかっていない。この記事では、この説はここまでにしておく。報道と捜査の記録として存在した議論であること、そして家族がそれを否定していること。それ以上に踏み込む材料は、公開された記録の中にはない。

名前を出されてきた人々

この事件のもうひとつの側面が、実際の人間が疑いの的にされ続けてきたという事実だ。ここは慎重に書く。誰も起訴されていない。誰も犯人とは認定されていない。

まず、事故現場から約一マイルの家を借りていた男性の話がある。二〇〇四年後半、その男性の兄弟がフレッド・マレーのところへ来て、錆びて汚れたナイフを渡した。兄弟の車のダッシュボードの物入れから見つけたもので、これがモーラの件に関係しているかもしれない、と言った。渡した側の家族は後に、その話は報奨金目当ての作り話で、彼には薬物の問題があったと述べている。

ジュリーによれば、このナイフはモーラの遺伝子との照合にかけられたが、結果は明らかにしていない。この家の物置で、二〇〇六年に遺体捜索犬が強く反応したと言われている。そして二〇一九年、地下室が掘られ、何も出なかった。ジュリーは、その借り手がポリグラフ検査を拒否したとも述べている。フレッドは二〇一九年、失踪十五年の日に、この家についての疑いをこう表現した。「あれは私の娘だ。私はそう信じている」。

次に、モーラの当時の恋人だ。彼は失踪当時、千マイル以上離れたオクラホマ州の陸軍基地にいた。この不在証明は今も崩れていない。それでもネット上では何年ものあいだ、彼は疑いの対象にされ、分析され、嫌がらせを受け続けた。彼が二〇一九年に別件の性的暴行の容疑で起訴され、二〇二二年に軽い暴行罪で有罪を認めたこと、元交際相手が保護命令を得たことは事実として報じられている。ただし、それとモーラの失踪は別の話だ。

マレー家自身が、彼がモーラに暴力を振るったとは考えていないと述べている。

そして二〇二五年、ウエストポイント時代のモーラの知人だった男性の名前が浮上した。オハイオ州で動物保護団体をめぐる詐欺と動物虐待により三十件以上の重罪で有罪となり、同州の動物虐待事件としては最長の十五年を超える刑を言い渡された人物だ。

オハイオ州キャンベル市の警官ジム・コンロイによれば、二〇二〇年にこの男性が逮捕された際、指紋が全国的な自動指紋識別システムに登録され、モーラの車内から採取されていたコンパクトディスクかそのケースの指紋と一致した。ニューハンプシャー州警察から自分に電話が来た、とコンロイは述べている。この男性は失踪への関与を否定している。

指紋がひとつ。それだけだ。ウエストポイント時代に交流があった相手のコンパクトディスクが彼女の車に入っていた、という説明でも十分に成り立つ。それでもレナーは「これまでに特定された中では最も興味深い人物だ」と語っている。ここは、指紋の一致という事実と、それが何も証明していないという事実を、両方きちんと置いておきたい。この事件では、そこを混ぜてしまった人が多すぎた。

ネット探偵たちの二十年

この事件が「ソーシャルメディア時代最初の犯罪ミステリー」と呼ばれるのには、はっきりした理由がある。

フェイスブックが公開されたのは二〇〇四年二月四日。モーラが消えたのは二月九日。五日違いだ。

つまりこの事件は、ちょうど蝶番の位置で起きた。インターネットはもう誰の家にもあったが、スマートフォンはまだない。ポッドキャストもない。動画共有サイトもない。事故現場に監視カメラはない。位置情報の履歴もない。あるのは、通話明細の紙と、警察の記録と、証言の食い違いだけだった。

インターネットには、事件を追いかける人間を大量に集めるだけの力がすでにあった。だが、事件を解くための技術はまだなかった。この落差に、ちょうどはまり込んだ。もし十年後だったら、彼女の携帯の基地局記録だけで居場所はかなり絞れただろう。もし十年前だったら、ニューハンプシャーの小さな町の悲しい話として、地元紙の記事数本で終わっていたかもしれない。

実際に起きたのは、その中間だった。二〇〇五年にはすでに大手の犯罪掲示板で活発な議論が始まっていた。二〇〇七年にはフェイスブックとマイスペースに専用のページができた。個人ブログが立ち上がり、通話明細を一行ずつ突き合わせ、最後の走行ルートを地図に落とし、すべての時刻を疑う人たちが現れた。

掲示板の書き込みを追っていくと、この共同体の性格がよくわかる。たとえば二〇二四年三月の書き込みには、こんなやりとりがある。フレッドの情報公開請求訴訟の過程で明らかになったこととして、四回のポリグラフ検査が行われ、一件の通信傍受が申請され、大陪審の召喚状が出されていたこと、そして警察の記録と無線記録が「容疑者を特定しうる」という理由で非開示にされたこと。これに対して別の書き込みが噛みつく。

「特定しうる、という言い方が引っかかる。容疑者がいるのかいないのか、どっちなんだ」。また別の誰かが「通信傍受は簡単には取れない。犯罪の疑いに相当の根拠がなければ申請しない」と応じる。「あの警察車両を二度見たという女性の話、私はずっと引っかかっている。彼女に嘘をつく理由がない」。

そして、まったく別の色の書き込みも混じる。「これが私の沼案件です。たいていの穴には落ちました。いちばんありそうなのは寒さで力尽きた線。ただ、完全に身を隠して生きている線だけはない。新しい身分証と社会保障番号を手配できる人脈と金が必要で、彼女にはどっちもなかった」。

こういう議論が、二十年以上、途切れずに続いている。厚みは本物だ。実際、この人たちの執念が事件を風化させなかったという側面はまちがいなくある。名前が生き延び、圧力が続き、情報提供が集まった。当局は今も、週単位で情報提供が入ると言っている。

だが、代償も本物だった。

誰かの人生の上を歩く――家族が払った代償

暗い面のいちばんの被害者は、すでに悪夢の中にいた人たちだった。

ジュリー・マレーは、家に見知らぬ人が来るようになったと語っている。窓をのぞき込む人がいた。玄関で応答がないと裏口に回る人がいた。行方不明の姉が「公共物」になり、家族はその閲覧に応じる義務があるかのように扱われた。彼女は、事件を歪め、収益化し、娯楽として消費した人たちについても率直に語っている。ある番組で紹介された彼女の言葉が、この二十年を一行で言い表している。

姉は「愛されていた一人の人間であることをやめて、他人が解くパズルになってしまった」。

家族はまた、事実誤認との果てしない戦いも強いられた。手がかりの少ない事件では、噂は沈黙を埋めない。噂は、本物の声を聞こえなくする。ジュリーは何年も、繰り返されすぎて事実として定着してしまった主張を訂正する作業に時間を使ってきた。

家族の苛立ちには、もうひとつ理由があった。答えを持っているはずの側からも、答えが返ってこなかったのだ。フレッド・マレーは二〇〇五年後半、捜査記録の開示を求めて州を相手に訴訟を起こした。父親として娘に何が行われたかを知る権利がある、というのが彼の主張だった。この訴訟はニューハンプシャー州最高裁まで行き、最高裁はフレッドの側に立って事件を下級審に差し戻した。

だが差し戻し審で州側は、記録を出せば将来の訴追に支障が出ると主張した。捜査官が、この事件が将来的に起訴に至る可能性は相当にある、と証言した。記録は封じられたままになった。

結果として、モーラ本人の家族すらも、何年も暗闇に置かれた。そしてその暗闇を、憶測が埋めていった。

ジュリーがマイクを握るまで

長いあいだ、この事件を語ってきたのは外部の人間だった。二〇一〇年には全国ネットの行方不明者番組が一話を割いた。二〇一六年にはジェームズ・レナーの『トゥルー・クライム・アディクト』が出た。二〇一七年にはケーブル局が全六話のドキュメンタリーを制作し、ジャーナリストのマギー・フリーレングが進行を務めた。ボストン・グローブ、ピープル、ニューズウィーク、セブンティーン、ニューヨーカー、ローリング・ストーン。

ラジオ、テレビ、地方紙。数え切れない。

レナーの本については、マレー家が公式に反論を出している。家族は彼の仕事を「私たちの家族を犠牲にした、個人的かつ金銭的な利益のためのもの」と表現した。取材に応じない人間を「本質的に不誠実か怪しい」と分類する手法についても、名指しで批判している。分類された中には、モーラを見つけるために誰よりも動いてきた彼女たちの父親も含まれていた。家族はニューヨーカー誌の書評から一節を引いた。

レナーは「ネット上の執着者が探偵気取りの妄想に取り憑かれたときに生じる、あらゆる問題を体現している」と。家族の懸念は一貫している。歪んだ現実と、こしらえられた登場人物たちは、本来の目標から注意をそらす。目標はひとつ、モーラを見つけて連れて帰ることだ。

そして二〇二四年二月、失踪から二十年の週に、ジュリー・マレーが自分でポッドキャストを始めた。『メディア・プレッシャー』。全十話。家族と友人への聞き取り、初動の検証、私立探偵ルー・バリーとの作業、モーラが消える直前に彼女と接触した数少ない証人の話。番組の構成そのものが、家族が二十年間言えなかったことの目録になっている。

ジュリーは制作についてこう語っている。「父や兄弟にインタビューしていて、みんなで泣き崩れた場面が何度もありました。でも終わったあと、集団でほっと息をついたんです。ついにやった、モーラに自分の物語の中で声を与えられた、と」。彼女の動画投稿の口座は登録者が三十二万人を超えている。使い道は、事件の更新情報と、根も葉もない噂の訂正と、姉を人間として思い出すことだ。

そして彼女は、希望というものの残酷さについても正直に語っている。「希望は私たちみたいな家族の燃料です。でも同時に、希望は私たちを苦しめる。答えが出ない日が過ぎるたびに、おい希望、いつになったら結果を出してくれるんだ、と思う」。二〇二四年の二十周年に彼女が出したコメントは、こうだ。「モーラも答えもないまま二十年を過ごした家族の痛みと胸の張り裂ける思いは、途方もないものです。

喪失があいまいであることが、その痛みをさらに増幅させる」。

到達点は移り変わった。最初は「モーラを見つけて、連れて帰って、一緒に感謝祭の夕食を食べる」だった。今は違う。「私たちはもう、二度とモーラに会えないだろうという事実と折り合いをつけてきました。でも、答えがないままでいいと思ったことは一度もありません」。

日本語圏では、どう語られてきたか

日本語圏でこの事件が本格的に紹介され始めたのは、比較的最近だ。二〇二〇年前後から、未解決事件を扱うブログや動画、オカルト寄りのニュースサイトで取り上げられるようになった。

典型的な紹介の型は、だいたい決まっている。「雪道で消えた女子大生」という見出し。嘘のメール。事故車。バス運転手との会話。十九分後に到着した警察。そして「雪の上に足跡がひとつも残っていなかった」という一文で締める。実際、日本語の紹介記事の多くは、この「足跡がなかった」を最大の売りにしている。

二〇二二年二月九日、つまり失踪の日付に合わせて公開されたある記事は、「不気味な手がかりが残された失踪事件」の一例としてこの事件を挙げ、嘘のメール、直前の父の車の事故、そして失踪から二十四時間以内に恋人に届いたという、すすり泣く声だけの留守番電話を並べている。

そのすすり泣きの留守番電話は、日本語圏でとくに強く受け止められている要素だ。二〇二五年に公開されたある記事は「失踪直前に残された最後の声」という切り口で複数の事件を並べ、その一件としてこの事件を扱っている。恋人はその声をモーラのものだと信じていた。通話は、赤十字社名義のプリペイド式通話カードにたどり着いたところで途切れている。誰がかけたのかはわかっていない。

この、あと一歩で身元にたどり着けたのにたどり着けなかった、という手触りは、たしかに日本語の読者にも刺さる。

二〇二六年に公開された日本語の記事の中には、かなりきちんと組み立てられたものもある。時刻を追い、車内に残されたものと消えたものを並べ、三つの主要な仮説を提示し、そして「事故から警察到着までわずか約二十分」という時間の短さを強調して終わる。この記事は最後にこう書いている。これは事件なのか、事故なのか、それとも計画的な失踪だったのか、と。

一方で、日本語圏の紹介にはいくつか共通の癖もある。まず、地理がほとんど描かれない。ヘイヴァヒルという町がどういう場所で、ルート112がどこへ通じていて、なぜ携帯が圏外だったのかが説明されないまま、「アメリカの雪道」という抽象的な絵で処理されがちだ。次に、家族が二十二年間何をしてきたかが抜け落ちやすい。父の訴訟も、姉の番組も、指紋の話も、ほとんど出てこない。

そして「足跡がなかった」という言い方が、しばしば超常的なニュアンスを帯びて紹介される。

実際には、この「足跡」の件は超常現象ではない。事故当夜の路面と路肩の状態、除雪した雪の壁、その後に現場を踏み荒らした大勢の人間。それらを踏まえたうえで、森へ向かう明瞭な足跡が確認されなかった、という話だ。そのほうがよほど怖い、と私は思う。人が消えるのに、超自然の力はいらないのだ。

二十二年目の道具――レーザー測距と顔認識

二〇二六年二月、失踪から二十二年の節目にあわせて、ニューハンプシャー州司法長官室は声明を出した。

未解決事件班の班長を務める上級司法次長補のクリス・ノウルズはこう述べた。「何十年たっても、モーラの家族と社会のために答えを見つけようという我々の決意が薄れることはありません」。班のメンバーは州と連邦の法執行機関と日々連携し、信用できる手がかりをすべて追っている、と。

そのうえで、こう続けた。「さらに我々は、モーラの失踪当時には存在しなかった新しい技術と高度な捜査手法を、実際に活用しています。既存の証拠と、新たに入ってくる情報に、こうした現代の道具を当てはめている。目的はただひとつ、この事件に決着をつけることです」。

同じ週、地元テレビ局への説明で当局は具体的な技術名を挙げた。顔認識と、レーザー測距技術だ。後者は地面の異常を検出できる。二十二年たった森や斜面は、当時とは姿が違う。藪は濃くなり、目印は消え、どこをどれだけ丁寧に探したかという記憶自体が不確かになる。地形の細かい凹凸を機械的に読み直すというのは、その不確かさに対する処方箋になりうる。

ノウルズは、探しているものについても具体的に語っている。「私たちが探しているのは、モーラに何が起きたかだけでなく、彼女がニューハンプシャーの非常に人里離れた地域まで車で来ることになった経緯についても、直接の見聞を持っている人です」。そして、「どんなに些細に思えることでも」情報を寄せてほしい、と呼びかけている。

ジュリーは、そこにいつもの慎重な希望を添える。「あの子はまだ行方不明のままで、私たちにはまだ答えがない。未解決事件は黙っていたら解決しないと知っているから、答えのない年でも、私たちは毎年ここに現れるんです」。二〇二五年八月に州が未解決事件班に常勤の捜査官を増員したときの彼女の反応は、こうだった。「たしかに正しい方向への一歩です。でも、象徴的な身振りで終わらないことを願っています。

私の家族は過去に何度も失望させられてきたので、このニュースにも懐疑的です。それでも希望はあるし、しっかり見ています」。

なぜ、この事件は怖いのか

ここまで書いてきて、あらためて考える。銃も、争った跡も、血だまりもない事件が、なぜこんなに怖いのか。

ひとつめは、時間の短さだ。十九時二十七分に通報があり、十九時四十三分にもう一件、十九時四十六分に警官が到着する。この十九分のあいだに人がひとり消えている。しかもその途中で、彼女は生きて、立って、しゃべっている。それが確認されている。世の中の失踪事件の多くは、「いつからいなくなったのか」が曖昧だ。この事件は違う。窓が狭すぎて、逆に説明がつかない。

ふたつめは、選択の重さだ。彼女は助けを断っている。目の前に、家に上がって暖まっていけと言ってくれる人がいた。彼女はそれを断って、警察を呼ばないでくれと頼んだ。理由はおそらく、停止中の免許と、飲んでいたかもしれないという不安と、その日までの数日の混乱だ。つまり、日常の中のごく普通のばつの悪さだ。誰にでもある種類の判断だ。その判断が、たぶん取り返しのつかない結果につながった。

この構図が、読む側の背筋を冷やす。

みっつめは、境界のなさだ。あの道には防犯カメラも、料金所も、目撃者を自動的に記録する仕組みも何もなかった。二〇〇四年二月九日のあの区間は、記録の空白地帯だった。私たちは普段、自分の移動が何かに記録されていることを前提に生きている。あの夜のルート112には、それがなかった。今でも、少し道を折れれば、そういう場所はいくらでもある。

よっつめは、探しても出てこないという事実そのものだ。ここまで探されて何も出ないという状態は、それ自体が異様だ。どの説を取っても、この「何も出ない」という壁に必ずぶつかる。森で死んだなら何かが出るはずだ。ひき逃げなら遺留品が残るはずだ。自ら消えたなら生活の痕跡が出るはずだ。全部が同じ壁で止まる。

そしていつつめ。この事件には、人間の側の失敗が随所に混じっている。飲酒検査の記録がない事故報告書。西を探した初動。最後の通話相手に八か月間連絡しなかった捜査。記録より九分早い警察車両を見たという証言と、公式記録の食い違い。封じられた捜査ファイル。どれも決定的ではないが、どれも「もし違っていたら」と思わせるには十分だ。事件の怖さの半分は、加害者が誰かわからないことじゃない。

手が届いたかもしれない場所に、届かなかったかもしれない、という感覚だ。

なぜ語られ続けるのか

最後に、この事件がなぜアメリカで最も語られる失踪事件のひとつになったのかを考えたい。

技術的な偶然が大きい。フェイスブック公開の五日後という時期。インターネットには群衆を集める力がすでにあり、事件を解く力はまだなかった。この落差がなければ、これほどの規模にはならなかった。

構造の問題もある。この事件には、議論を永久に続けさせるのにちょうどいい量の手がかりがある。多すぎない。少なすぎない。時刻表がある。証言の食い違いがある。車内の品目リストがある。通話明細がある。全部が検証可能に見えて、どれも結論に届かない。これは、終わらないパズルとして完璧な設計だ。だからこそ、二十年たっても新しい参加者が入ってこられる。

そして、たぶんいちばん大きいのが、彼女が「わかりやすい被害者」ではないことだ。優等生で、陸上の全国大会に出て、士官学校に進み、看護師になろうとしていた。同時に、窃盗の件を抱えていて、父の車を壊して、嘘のメールを送って、酒を買って、行き先を誰にも言わずに北へ走った。この矛盾が、人を引きつける。完璧な人間の悲劇でも、破滅した人間の当然の結末でもない。二十一歳の、うまくいっていない数日間だ。

多くの人が、そこに自分を見る。あるポッドキャストの司会者はこう言っていた。多くの人がモーラに自分を重ねる。あの重圧、あの完璧主義、そして自分を定義してしまうわけではないはずの失敗に。

だからこそ、書く側にも責任がある。姉のジュリーが求めているのは、たったひとつのことだ。自分の家族に対する、最低限の人としての礼儀。彼女に言わせれば「かなり低いハードル」なのに、ネット上の少なからぬ人がそれを越えられなかった。

二〇二六年の時点で、ニューハンプシャー州はこの件を、生きた捜査案件として扱っている。不審な行方不明者事案。情報提供は今も週単位で入ってくる。新しい機械が古い証拠を読み直している。年齢推定画像の中の四十代の女性は、誰にも見つけられていない。

彼女は、老人ホームでお年寄りを笑わせるのが好きな子だった。誰にでも礼状を書いた。褒められると赤くなった。それが、二〇〇四年二月九日の夜、雪の壁に乗り上げた車の前に立って、震えながら「大丈夫です」と言った人だ。

その十九分後に、いなくなった。

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