夏時間の九時二十分、七両の電車が車庫から動き出した
1949年7月15日の夜、国鉄中央線の三鷹電車区の一番線に、検査を終えた七両編成の電車が一本、留め置かれていた。運転台に、人はいなかった。場所は、いまの三鷹市。
電車は午後3時30分ごろまで、屋内の16番線で交番検査を受けていた。4時50分ごろ、運転士が一番線へ入れて、全車のパンタグラフを下ろした。事故調査報告書や当時の公判の証言から、2019年の高裁の決定がそう認めている。ここは、あとで効いてくる。
その電車が、動き出した。起訴状は、発進を夏時間の九時二十分ごろとする。いまの時計なら、午後八時二十分ごろだ。
判決の認定では、電車は発進から一分もたたないうちに、約六百六十メートル先の三鷹駅南口の改札口前にある、下り一番線の車止めに、時速六十キロを超えて衝突した。時刻は九時二十三分ごろ。事典は、二十四分と書く。
車止めを突き破った電車は、駅の脇の交番を壊した。道路を横切り、駅前の運送店に突っ込んで、やっと止まった。
死んだのは六人。いずれも男性で、年齢は十九歳から五十八歳までだった。負傷者は二十人とする資料が多いが、十二人とするものも、二十数人とするものもある。正直、どの数が正しいのかは確かめられなかった。
十一日前、国鉄は三万人に解雇を通告していた
背景にあるのは、人員整理だ。国鉄はこの年の6月1日に公共企業体として発足し、10万人近い職員を減らすよう迫られていた。
7月4日、第一次の解雇通告が始まる。人数は、年表が三万七百人と書き、報道は三万七千人と書く。出どころで数字が違うので、どちらかに決めるのはやめておく。
12日には、第二次として六万三千人への通告が発表された。組合は反対闘争に入ったが、15日の闘争委員会は左派と民同派が対立して、分裂状態にあったと事典は書く。
そのあいだに、下山事件が起きていた。総裁の下山定則が5日に姿を消し、6日、常磐線の線路上で轢死体になって見つかった。三鷹の事件は、その九日後。
8月17日には、東北本線で松川事件が起きる。ちなみに、この三つを、のちに国鉄三大ミステリーと呼ぶようになった。ここから先は、三鷹だけを追う。
三鷹電車区で電車運転士として働いていた竹内景助は、7月14日に、第二次整理で罷免されていた。確定判決の認定だ。その後は納豆と飴を売って、五人の子を養っていたと、支援団体は書く。
事件の日の朝は、線路の北側の畑で作物の手入れをして、山羊の世話をしていた。竹内が後に再審の書面でそう書いたと、弁護士のブログが引く。念のため言えば、本人の側の言い分なので、裏は取れていない。
人員整理を受け入れて、退職金を受け取ることも、竹内は決めていたらしい。消防署の面接も受けていた。労働運動から降りようとしていた人間に、動機はあったのか。この点は、のちの再審で争いになる。
一審は、組合の情勢が緊迫していたと認めていた。口述書は、十三人ぶん。再審に出されたそれは、当時の三鷹電車区の組合が閉塞状態で、過激なストを求める空気ではなかった、と述べる。高裁は、一審が想定した範囲の話として退けた。
首相の声明と、裁判長が後年語った一言
捜査は、最初から一つの方向に走った。電車区の共産党員による犯行、という方向だ。
17日に、三鷹電車区の分会長ら二人が逮捕された。二人とも共産党員で、6月の国電ストで免職になっていたと、年表サイトは書く。逮捕は、夕方の五時過ぎだった。
吉田茂首相は、逮捕の直後に長い声明を出した。社会不安は「主として共産主義者の煽動」から来ている、という内容だ。日付は、救援会の年表が16日、年表サイトが17日と食い違う。
8月には竹内も逮捕された。起訴されたのは、竹内と共産党員九人の、十人。党員のもう一人は、アリバイが認められて釈放された。偽証の罪で、さらに二人が起訴されている。
起訴状は、竹内ともう一人の被告が運転台に上がり、二人で発進の操作をした、と描いた。検察は冒頭陳述で、手順と役割まで具体的に述べている。11月18日付の変更請求書で、共謀者に二人が加わった。
事件の当夜にまつわる証言も、いくつか伝わる。中野電車区に「今夜、三鷹で共産党が大事故を起こす」という噂が流れていた、という話がある。
駅前の交番にいた警察官四人が、そのとき全員留守で無事だった、という話もある。支援する会の研究者の論文や、1967年の書籍が拾った証言だ。確かめる材料は、筆者は見つけられていない。
一審の裁判長だった鈴木忠五は、後年こう語っている。「警察の方は、むしろ共産党だとは思っていなかったのではないか、というフシもありますね」。1981年の本に載った、判決を書いた本人の回想だ。
同じ回想で、米軍の二世が共産党を叩く使命を感じ、その意向が検察官の間にあったと思う、とも話している。「と思うんです」という推測で、裏は取れない。ただ、事件を裁いた本人が、筋書きの出どころに疑いを持っていたことは、この言葉から読み取れる。
裁判長は、竹内の目的についても語っている。全部の電車を車庫から出られないようにすることで、暴走させることではなかった、という。「どういうはずみか」電車が動き出し、竹内も予期しない大事故になった、と話した。
事故の夜の竹内の様子も、同じ回想にある。妻が「死人が出ているらしいから一緒に見にいこう」と誘った。途中で死者が何人も出たと聞いた竹内は、「オレはそんなの見るのはいやだから帰る」と言って、家に戻ったという。
判決は共同謀議を「空中楼閣」と書いた
一審は、1949年11月4日に始まった。公判は59回、判決は翌年の8月11日。
判決は、検察の描いた共同謀議を「空中楼閣」と退けた。九人の被告には明確なアリバイがあるとして、全員を無罪にしている。
竹内だけは、単独の犯行と認められた。刑は無期懲役。死刑を選ばなかった理由は、解雇への反発が動機であること、計画性がなかったこと、人が死ぬ結果までは考えていなかったことだ。
一審判決の認定を、2019年の高裁の決定が要約している。竹内は自分への解雇通知を思い浮かべ、電車事故を起こしてストライキの状態を作ろうと決意した。狙いは、構内出口の標識の地点で脱線させ、電車の出入りを止めること。ところが電車は、竹内の予期に反して、三鷹駅まで走った。
竹内の供述は、最高裁まで七回変わったとされる。逮捕から19日間は、関与を否定した。8月20日に単独犯行を認め、9月29日の調書では共同犯行に変わった。公判では、22回、24回、33回に否認し、54回、58回、59回には単独犯行を述べている。
当時の日本経済新聞は、1950年7月1日付で「また単独を主張」と報じている。公判の竹内は、何度も発言を求めたという。早口で、泣き叫びながら、単独犯行だと訴えたとも伝わる。
新聞の反応は割れた。読売、毎日、産経は、被害者や遺族の声を載せて、無期は軽いと批判した。肯定的だったのは朝日だけだったと、ネットの百科事典は伝える。
控訴趣意書は、争わない、と書き出していた
検察は、無罪になった九人を含む全員の有罪を求めて控訴した。竹内も、すぐに控訴した。
竹内の弁護人が出した控訴趣意書は、こう始まる。「犯罪事実の認定並びに情状酌量の点については原判決を至当とし、何ら争う処は見出さない」。再審請求書が引く一文だ。
争ったのは、罰条の適用の誤りと、量刑の不当だけだった。事実は争わない、という方針で、控訴審は進んだ。
東京高裁は、1950年12月18日に最初の公判を開いた。事実調べは、一度も行われていない。
翌年3月30日の第4回公判で、高裁は検察の控訴を九人については退けた。竹内については一審を破棄して、死刑を言い渡した。書面だけで無期を死刑に変えた点は、のちに最大の争点になる。
竹内は後年、単独犯行を認めたのは弁護士に説得されたからだと主張した。罪を認めても大した刑にならない、ひとりで認めて党員を助ければ英雄になる、と言われたという。再審請求の補充書に、そう書いている。
精神科医でもある作家の加賀乙彦は、面会した竹内がこう言ったと記している。「けっきょく、党によって死刑にされたようなもんです」。
獄中の竹内と対話を重ねた教誨師の僧侶もいた。ノンフィクションの『教誨師』を紹介する書評によると、竹内は独房の仕事で得た報酬を、妻に直接渡さず僧侶に託した。妻に付き添う党の関係者が、その金を支援費として取るのではないかと疑ったからだ、という。書評の紹介で、原典は確かめていない。
反対の見方も残っている。主任弁護人だった林百郎は、後年、竹内がシロだと考えると証拠の間に矛盾が出るが、クロならつじつまが合う、と述べたという。のちの著作が伝える言葉で、本人の文章は確かめていない。
八対七と呼ばれた判決の、数え方
上告を受けた最高裁は、事件を大法廷に回した。弁論は、一度も開かれていない。1954年12月22日に判決を言い渡そうとしたが、弁護人が反対し、裁判長は期日の変更を告げて閉廷した。
判決の日は、1955年6月22日。上告は棄却され、死刑が確定した。十五人の裁判官のうち、棄却が八人、破棄が七人。これが、一票差と呼ばれるゆえんだ。
破棄を主張した七人の理由は、二つに分かれた。結果が二重に重なった場合まで刑法の規定を当てはめ、死刑を選べるとするのは、罪刑のつり合いを欠く、というのが一つ。高裁が書面審理だけで無期を死刑にしたのは、刑事訴訟法の趣旨に反する、というのがもう一つだ。
ここからが数え方の話だ。判決の半年後、最高裁は弁護側の訂正の申立てを退けた。決定は1955年12月23日付で、結論は全員一致だった。ただし、裁判官一人の意見と、もう一人の補足意見が付いている。
決定に名を連ねた裁判官は十三人。うち七人は、元の判決で破棄を主張した側だった。それでも結論は、申立ての棄却で一致している。
意見を書いた真野毅は、結論の数で数えれば八対七で一票差だと書いた。理屈は、二つある。一つは、僅差の事件を、「上告の理由がないことが明らか」として弁論なしで棄却するのは違法だ、というものだ。
もう一つは、決定の構成への批判だ。棄却に回った二人が退官し、残った裁判官で決定を出せば、反対した側が多数になる。規則はそれを禁じている、というのが真野の主張で、最高裁で最初の例だとも書く。
補足意見を書いた岩松三郎は、論点ごとに数えた。刑法の解釈と合憲性は十対五、書面審理で死刑にする点は十一対四で、どちらも棄却が多数だったという。同じ判決が、二通りに数えられたわけだ。
筆者の見立てを書く。八対七のほうが世間に残ったのは、それが一人の命を決めた票だったからだと思う。論点ごとの数え方が間違いだとは言えない。ただ、弁論を開かずに死刑を確定させる根拠としては、一票差のほうが重く響く。
この判決のあと、最高裁は死刑事件の上告審で、口頭弁論を開く慣行をつくった。事典類は、そう書いている。
針金と紐と、二つ目のパンタグラフ
確定判決が認めた手順は、こうだ。竹内は拾った針金で運転台の錠を開け、速度を決める装置のハンドルを、紙の紐で縛って固定した。パンタグラフを上げ、発車の直前に飛び降りた。
ところが、弁護団は、この手順に合わない物を四つ挙げている。二両目のパンタグラフが上がっていたこと。最後尾の手ブレーキが緩められていたこと。最後尾の前照灯が点いていたこと。最後尾のドアの連動スイッチが切り替えられていたことだ。
どれも、先頭の運転台にいる一人では操作できない、と弁護団は言う。竹内の自白には、最後尾での操作が一度も出てこない。運転士の経験がある者が、鍵に代わる道具も用意せず、現場で拾った針金で錠を開けるだろうか、という指摘もある。
針金と紐については、一審の段階で試されていた。検察官の検証では、竹内が似ていると選んだ針金で、錠が開いた。1950年5月2日には、裁判所が弁護人を立ち会わせて同じ針金を使い、ハンドルを全ノッチまで動かしている。紙紐も、ハンドルと回路の電線に結べば、竹内の供述どおりに固定できたという。構内には針金の断片が多数落ちていて、拾ったとされる場所は、高さ8メートルの300ワットの灯に照らされていた。
目撃した人も、いる。信号所の二階から電車を見ていた信号係は、公判で証言している。パンタグラフの火花が二回出たので、「二個のパンタでやったように思います」と。
高裁は、2019年7月31日にこの主張を退けた。二両目のパンタグラフは、脱線のときに折れた電柱や切れた架線の衝撃を受けて上がった、とみるのが自然だとした。信号係の証言は、火花が二回だったから二か所と思った、という推測にとどまるとも言う。
高裁が挙げたのは、事件の十六日後の検察官調書だ。電車運転士は、先頭のパンタグラフが一つだけ上がって、強い火花を出していた、他は上がっていなかった、と述べている。
最後尾の三つについても、高裁は退けた。そもそも第七車両は制御車で、運転台はあるが、モーターもパンタグラフも付いていない。手ブレーキは、前の運転士が降りるときに掛けたとは認められない。事故調査報告書が記すのは空気圧による常用制動で、手ブレーキではない、とみたからだ。
前照灯とドアのスイッチは、検査が終わったときの状態が、そのまま残っていた可能性がある。そもそも、最後尾でそんな操作をする意味が不明だ、とも書いた。
検察側が示した材料もある。事故直後の記録では、二両目の上げ紐は輪にして壁のフックに掛けたままで、引いた形跡がなかった。共犯者が引いたのなら、逃げるのを急ぐ者が紐を元に戻すとは考えにくい、という主張だ。
指紋の話も出る。先頭車両から採れたのは5個で、照合できたのは、運転台の左右の2個だけだった。運転室内の3個は、照合不能。確定判決は、現場の保存が不十分で、多数の人が運転台に入ったことなどから、犯人が複数いる証拠としては弱いとした。
最高裁は、2024年4月15日付で遺族側の特別抗告を棄却した。裁判官四人の全員一致で、詳しい理由は示していない。
物証の行方も、書いておく。先頭の車両は、証拠として検察の保全命令がかかり、鉄骨だけの姿で三鷹電車区に長く置かれて、1963年12月に廃車になり解体された。
二両目は西武鉄道に払い下げられ、所沢の工場で直されて、1953年に別の電車として走り始めた。パンタグラフが争点になった車両だ。再審の鑑定が頼ったのは、事故直後の検証調書に添えられた写真だった。
筆者の見立てを書く。まあ、二両目の実物は、再審が始まるずっと前に、別の電車に変わっていた。だから、争いの中心が写真に寄ったのは、自然な流れだったと思う。
停電の十分間と、正門前の街灯
竹内が最初に述べたアリバイは、自宅にいた、というものだった。逮捕の翌日の警察官調書で、夕食のあとに新聞や雑誌を読んでいると、電灯が二回ほど消えた、と語っている。消えていたのは一分か二分ほど。そのあと電車区の風呂へ行く途中で、また消えた。
構内の停電の記録は、はっきりしている。停電は、二度あった。最初は、事件の時刻の午後9時23分ごろ。短いものが二回続いた。弁護団の図解は、17秒の停電、10秒の通電、19秒の停電と刻む。
そのあと、9時58分から10時5分ごろまで、約7分の停電があった。一審では、配電の係長らが、10時少し前から約10分間だったと証言している。妻の調書も、最初の停電のときは自宅にいて、そのあと風呂に出かけた、という趣旨だ。
高裁は、この主張も退けた。自宅にいたという供述は、一審でも、検察官調書や妻の証言の形で調べられていたからだ。竹内自身が第33回公判で、当夜に外へ出たと言うと疑われると思い、家にいたと通した、と述べている。散歩に出たことを事件と結びつけられると困る、というのが理由だった。
もう一つの柱は、目撃証言だ。証人は一人。竹内の職場の後輩が、事件の夜、電車区の正門前の道を歩く竹内を見て、声をかけたと一審で話した。高裁の決定は、判決がこの証言を自白の裏付けにしたと書く。
弁護団は、月が出ていなかったことと、門の灯りの暗さを挙げた。月の出は、天文台の回答で午後10時4分。ただ、一審にも、中央気象台の書面が出ていた。月の出は、ほぼ同じ時刻。
門の脇の電柱の灯は、高さ5メートルにあった。60ワットだと、弁護団は言う。一審の検証は、この灯で付近一帯は明るい、と記録している。
認知心理学者の鑑定は、顔に光が当たらない横顔を、数秒見ただけの目撃だとして、識別は極めて困難だとした。高裁は、灯の位置を踏まえていないと退けた。実験でも、光を背中側からだけ当てていて、現場の条件と大きく違う、という。
支援団体のちらしは、この証人が「警察に言わされた」と知人に打ち明けた供述書も出したと書く。高裁は、証人が事件の夜のうちに同居の叔父へ話したことと、7月29日の調書から供述が変わらないことを挙げて、これも退けた。
十人起訴で九人無罪、二十人起訴で全員無罪
結末は、三つとも違う。下山事件は、捜査が迷宮入りし、自殺か他殺かさえ決まらないまま、いまに至る。三鷹では、十人が起訴されて九人が無罪になった。
松川事件で起訴されたのは、国鉄と東芝の組合員二十人。一審と二審は死刑を含む有罪としたが、最高裁が破棄して差し戻し、1963年に全員の無罪が確定した。
三鷹の事件のあとで、国鉄当局は国労の中央闘争委員のうち共産党員ら十七人を解雇した。国労の中央委員会は、ストを含む実力行使の方針を撤回し、解雇は順調に進んだと事典は書く。
有罪の直接の証拠は本人の自白だけだったと、産経は書く。一審が動機に置いたのは、解雇への反発という一点だった。
筆者の見立てを書く。三つを並べると、最初に置かれた組織犯行の筋書きが、裁判で残らなかった点は共通する。三鷹だけが違うのは、筋書きが崩れたあとに、一人の自白が残ったことだ。
共同謀議が消えた時点で、動機は組織から個人に移った。移った先の動機は、解雇への反発の一点で足りたことになる。書面だけで無期を死刑に変えた高裁も、その延長にいたのだと思う。
禅林寺の墓地にある碑と、四度目の請求書
三鷹市の下連雀にある禅林寺の墓地に、事件の遭難者の慰霊碑が立つ。高さは210センチ。建てたのは有志や篤志家で、日付は1955年9月25日だ。
最高裁の判決から、三か月後のことになる。碑は、六人の死者のためのものだ。
竹内は、1956年2月3日に東京高裁へ再審を申し立てた。再審請求書によると、高裁の担当部は約十年のあいだ判断を出さなかった。署名は80万に達したと、支援する会は書く。
竹内は獄中から、妻と子に手紙を書き続けた。1956年には『春を待ついのち』という本になっている。1958年には、亀井勝一郎らの名で『竹内景助の助命嘆願について』という文書が出ている。
1966年になって、裁判官は書面審理を始め、竹内の妻とも会ったが、竹内の体調は異常をきたした。1967年1月18日、東京拘置所で脳腫瘍のため死去した。45歳。最後の言葉は「くやしいよ!」だったと、支援する会は伝える。
高裁は、同じ年の6月に再審の手続きの終了を決めた。理由は、竹内の死だった。末尾に、こう付け加えている。「本件は、実質上、これで終止符がうたれたものではない」。
44年後の2011年11月10日に、長男が第二次の再審を申し立てた。2019年7月31日に棄却、2022年3月1日に異議も棄却。2024年4月15日には、最高裁も退けた。
2024年9月5日に出された第三次の請求は、2025年5月に長男が亡くなったため、同年10月21日付で審理が終わった。2026年2月4日には、竹内の孫が第四次を申し立てている。弁護団は、第三次で初めて実施される予定だった鉄道設備の専門家の証人尋問を、今回も求めている。
