大阪の住宅街のど真ん中で、銀行がまるごと人質になり、しかも四十二時間。中で何が起きていたかを知ると、たいていの人は言葉を失う。四人が撃ち殺され、女性行員が全裸で窓辺に並ばされ、行員が同僚の耳を削がされた。これは都市伝説でも実話怪談でもない。1979年1月26日から28日にかけて、実際に起きたことだ。
しかもこの事件、ただ残酷なだけじゃない。日本の警察が「犯人を撃つ部隊」を本気で作りはじめた分岐点でもある。テレビが事件現場を生中継し続けることの是非を、最初期に突きつけた事例でもある。そしていまだに、小説や映画の題材にされ続けている。要するに、昭和という時代の内臓みたいな事件なのだ。
順番に、細かく行く。長くなるけど、細部を飛ばすとこの事件は何も分からない。先に言っておく。
昼下がりの支店に、男が二発撃った
現場は大阪市住吉区、三菱銀行北畠支店。いまでいう阿倍野区の東側、帝塚山からほど近い、上品な住宅地の一角だ。派手な繁華街ではない。近所の主婦が通帳を持って歩いてくるような、静かな支店である。当時の建物はいまも残っていて、看板を掛け替えて銀行として使われ続けている。
あの場所で四人が死んだと知って通っている客が、どれだけいるだろう。1979年1月26日は金曜日。梅川昭美、三十歳だ。無職。この日、午前十時ごろに自宅を出ており、すぐ銀行に向かったわけではない。
喫茶店に入り、スナックに顔を出し、時間を潰した。後から見ればアリバイ工作のつもりだったとされるが、実際のところは踏ん切りがつかなかったようにも見える。彼は当初、決行日を1月18日か19日に置いていたという。二度、延ばしており、午後二時三十分すぎ。帽子、サングラス、マスク。
冬なのでそれほど不自然でもない格好で、彼は支店の自動ドアをくぐった。カウンターの内側にナップザックを放り込み、猟銃を天井に向けて二発撃った。ホールの照明の下で漆喰の粉が落ちる。悲鳴。そして「早く出せ。
出さんと殺すぞ」。要求額は五千万円。彼の計算では、ここから三分で終わるはずだった。最寄りの警察署から車で三分以上かかる支店をわざわざ選んでいる。金を受け取り、コートを脱いで客に紛れ、人混みに混じって出ていく。
そういう絵を描いており、その絵は、最初の一分で崩れた。
最初の十五分で、四人が死んだ
受話器に手を伸ばした二十歳
行内には行員が三十人以上、客が十数人いたのだ。梅川が金を要求している最中、営業係の二十歳の男性行員が、机の下の非常電話に手を伸ばした。銀行の防犯訓練どおりの動きだ。訓練は正しかった。ただ、目の前の男が想定より遥かに躊躇のない人間で、梅川は振り向いて撃った。
至近距離であり、この行員は搬送されたが助からず、事件の最初の犠牲者だ。二十歳。入行して間もない。ここで初めて、銀行強盗は殺人事件になった。そして皮肉なことに、彼の通報は届いており、というより、複数の通報が入っていた。
梅川が「三分」と読んでいた警察の到着は、まったく別の理由で早まる。たまたま管内を巡回中の警察官が近くにいたのだ。計画は、彼が最も嫌う形で裏切られた。
制服のまま倒れた二人
住吉署の楠本正己警部補、五十二歳。ベテランであり、彼は通報を受けて現場に急行し、支店に踏み込んだ。装備は拳銃だけ。相手は散弾銃を持っている。この非対称は、当時の日本の警察が抱えていた構造そのものだった。
楠本警部補は撃たれ、倒れた。続いて、応援に入った阿倍野署の前畑和明巡査、二十九歳。彼も撃たれ、二人とも殉職している。のちに二階級特進で、それぞれ警視、警部補となった。梅川はここで、倒れた警察官の拳銃を奪っており、散弾銃と拳銃。
この時点で、支店の中と外の力関係は完全にひっくり返った。外には最終的に千人を超える警察官が集まるのだが、ドアを開けて入っていける人間は一人もいなくなる。
「金を出さんからこうなるんや」
梅川は行員を並ばせて言い、「責任者は誰や」。森岡浩司支店長、四十七歳が前に出た。「私です」。彼は二メートルほどの距離から撃たれ、梅川は撃つ前にこう言ったとされる。「金を出さないからこうなるんや。
お前の責任や」。名乗り出ることが、そのまま死につながった。あの瞬間に一歩前に出た人間がどういう気持ちだったのか、想像するとしんどくなる。事件発生から十五分ほどで、四人が死に、銀行員二人、警察官二人。日本の人質立てこもり事件で、人質側に死者が出たのはこれが初めてだった。
「脱げ」――肉の盾という思いつき
午後二時四十五分ごろ、梅川は残った人質を支店長席の周辺に集めた。当初の人質は四十人を超えていたとされる。シャッターを下ろさせ、机と椅子でバリケードを組ませた。ここまでは、まあ、立てこもりの定石だ。異常はここから始まる。
梅川は女性行員たちに、服を脱げと命じた。全裸であり、しかも脱ぐ順番まで指示し、電話番として使う一人を除いて、十九人。男性行員には上半身裸になって机の上に座れと命じ、窓際に配置した。つまり、外から狙撃されるかもしれない位置に、裸の人間を並べたのだ。「肉の盾」「人間バリケード」と呼ばれるのは、この配置のことだ。
彼はこの行為の意味を、人質に向かって自分から説明している。「俺は遊び人やからオナゴの裸はようけ見てきとる。いまさら、ヌードの女が見とうて脱がせたんやないで」。性的な目的ではない、という否定だ。では何のためか。
「殿様の言うことはなんでもきくんや。証明のためや」。要するに、支配の証明であり、裸にされた人間は逃げない。走って逃げようという発想そのものが出てこなくなる。外から見た警察も撃てなくなる。
そして何より、脱げと言われて脱いだという事実が、その後の四十二時間、人質全員の心を折り続ける。彼はそれを分かっており、ここが本当に怖い。狂ってるから脱がせたのではなく、効くから脱がせている。なお、この場面については後年、週刊誌や噂話の類で「人質同士に性行為をさせた」といった話が繰り返し流布した。これは当時の報道や関係書籍で確認できる内容ではなく、雑誌が話を盛った結果広まったものとする指摘が根強い。
事実として記録されているのは、全裸を強いて盾として配置したという行為であり、そこから先の尾ひれについては裏付けがない。ここは分けて書いておく。実際に起きたことだけで十分に地獄なので、盛る必要がない。
削がれた耳
夜になって、さらに悪いことが起きる。梅川は男性行員の一人に発砲し、右肩に当たった。倒れた同僚を前に、彼は別の行員に命じた。ナイフで心臓をえぐってとどめを刺してこい、と。その行員は動けず、当たり前だ。
すると梅川は要求を変え、「耳を切り取ってこいや」。命じられた行員は、泣きながら先輩の左耳の半分を切り落とした。梅川はそれを口に入れ、「不味いな」と吐き出したと伝えられている。この場面の前後で、彼は映画『ソドムの市』に出てくる儀式めいた場面の話をしたという記録もある。読書家で、映画も観ていた男が、自分の見た表現を密室の中で再現しようとした構図になる。
撃たれ、耳を削がれた行員は、一命を取り留めた。命じられて刃物を握った行員も生きて出た。この二人がその後どんな関係になったのか、どんな夜を過ごしたのか、公に語られたことはほとんどない。四十七年経っても、その沈黙のほうが事件そのものより重く感じられるときがある。
電話線一本でつながった四十二時間
外はどうなっていたか。大阪府警本部に第一報が入ったのが午後二時三十五分ごろ。緊急配備が敷かれ、支店の二階に現地本部が置かれた。最終的に警察車両百六十台以上、警察官千百人規模が周辺を固めた。銀行の建物一つを、一個大隊が包囲しているような絵面である。
問題は、中が見えないことで、シャッターは下りており、窓は塞がれている。警察はドリルでシャッターに穴を開けることにした。ただし、音を立てれば撃たれる。一つの穴を開けるのに二十分以上かけ、少しずつ、少しずつ削った。最終的に七か所の観察孔が開けられ、そこから交代で中を覗き続け、現金自動預払機の隙間からも中を窺った。
梅川は穴に気づくと「のぞきは罪になるんやで」と皮肉を飛ばしている。この男、こういうところがやたら軽い。交渉はホットラインでおこなわれた。館内放送用のスピーカー回線を逆に使って中の音を拾う工夫もされた。電話に出る梅川は、脅すときは容赦がない。
第一報の段階で「もう四人死んどる。警官が入ってきたら人質を殺すぞ」と告げている。かと思えば、まったく別の顔も出す。ラジオのニュースが彼の名前を「うめかわてるみ」と読んだとき、彼は激怒した。「俺の名前はテルミやない、アキヨシいうんや」。
四人を殺して立てこもっている男が、自分の名前の読み方に本気で怒る。この滑稽さと不気味さの同居が、この事件の空気をよく表している。
ステーキ四百グラムと、赤ワイン
差し入れの記録が、また異様だ。初日の夜、彼はサーロインステーキとぶどう酒を要求した。四百グラムのステーキと赤ワインが入れられている。銘柄まで指定してきて、最初に挙げた高級銘柄は用意できず、別のボルドーが差し入れられた。彼はそれを飲みながら「これが最後の晩餐会や」と言ったという。
深夜にはカップ麺二十個と熱湯。ビールは七回にわたって要求しており、ラジオ、朝刊、ビタミン剤。二日目の朝には豪華な朝食を注文し、惣菜が並び、メロンまで入った。警察はもちろん、睡眠薬を混ぜることを検討し、当然の発想だ。だが梅川は毎回、人質に先に食べさせ、毒見である。
彼は自分の予測どおりのことを警察がやると読んでいた。この読みの正確さが、四十二時間を長引かせた最大の要因の一つだ。人質は少しずつ解放されていった。定期預金の手続きに来ていた五十代の主婦。接客係の女性行員二人だ。
妊婦。二十七日午前二時四十分ごろには七十六歳の男性客が、年齢を聞かれた末に出された。午前四時四十分にはOL。午前七時四十分すぎには四十一歳の主婦。刑事のOBが大工だと偽って出たという話もある。
負傷した男性行員三人も出された。二十七日の夕方には、行内に隠れたまま息を潜めていた客五人が、錠前技術者の協力で脱出に成功している。最終的に残ったのは二十五人前後だった。解放と脱出が続いたのは、梅川に情があったからではない。彼は人質を管理可能な数まで減らしたかった。
三十九人の顔と名前を全部記憶していたと言われる男であり、管理の話なのだ。
借金を返しに行かせた男
二十七日の午後、この事件で最も理解しがたい行動が出る。梅川は業務係長を呼び、自分の借金の返済先を挙げていった。そして五百万円あまりを金庫から出させ、その係長を外に出して、指定した五件を回らせて返済させたのだ。四十歳のその係長は、支払いを済ませたあと、午後十時すぎに自分の足で銀行に戻ってきた。人質として。
なぜ戻ったのか。戻らなければ中の同僚がどうなるか分からないからだ。彼が扉の前に立った瞬間の重さを想像してほしい。あの二十四時間、あの建物に自分から入っていった人間が一人だけいた。梅川のほうも異様だ。
四人を撃ち殺しておいて、翌日には借金を返している。自分の分が五百万、愛人名義のものがさらに五百万といった話も伝わる。彼の頭の中では、この籠城は「金の始末をつける時間」でもあったらしい。逃げられないことは、たぶんもう分かっていた。だったらせめて借りを消してから終わろう、という筋の通し方をした。
倫理は完全に壊れているのに、義理だけが残っており、この歪み方が薄気味悪い。
母が、ヘリで来た
二十七日の午前十時二十分ごろ、香川県から彼の母親がヘリコプターで現場に到着した。七十三歳。梅川が四十二歳のときの子で、彼が唯一まっすぐ愛着を向けていた相手だ。警察は説得を託した。午後一時すぎから三時ごろにかけて、電話と手紙で呼びかけがおこなわれた。
母の手紙は、たどたどしい字だったという。彼女は小学校を出ていない。「お母さんが来ていますのよ」「ゆるしてあげてください」。文面はそういうもので、梅川はそれを読んで、まず字のことを言った。「おふくろはそんな字しか書けへんのや」。
そして「おふくろは大好きや。一緒に暮らしたいんや」と涙ぐんだと伝えられる。「俺にはおふくろしかおらんのや」「子供の頃からおふくろと一緒に苦労したんや」。それでも彼は出なかった。母親を現場に降ろす話が出たときには「おふくろが来たら一緒に死んでもらう」と言い放ち、電話も途中で切っている。
「そらあかん」。母親のほうは、撃たれて死んでも構いませんから下へ降ろしてくださいと言ったと伝えられている。息子が死んだあと、彼女は「私だけは最後まであの子の味方でいてやりたかった」と語った。日本の人質事件で家族に説得させる手法は、この事件のあともたびたび使われる。だが、それが効くかどうかは犯人の側の家族観次第でしかない。
梅川の場合、母親への愛情は本物で、本物だったのに、出てこなかった。むしろ、母親を出せば自分が折れると分かっていたから拒んだようにも読める。
一九四八年、大竹の町に生まれた子ども
ここで時計を三十年巻き戻す。梅川昭美は1948年3月1日、広島県大竹市に生まれた。瀬戸内に面した、化学工業と製紙の町だ。父四十六歳、母四十二歳。当時としてもかなりの高齢出産であり、家は貧しかった。
父親は椎間板ヘルニアなど脊椎の病を得て、昭美が八歳のころに働けなくなる。おまけに女癖が悪く、愛人の家に泊まり歩いていたという話も残る。母親は小学校も出ていないが、しっかり者として近所に知られていた。昭美が小学五年のころ、両親は離婚する。彼は一度は父に引き取られたが、半年ほどで母のもとへ戻り、母は彼を溺愛した。
貧しいのに、彼の要求にはたいてい応じた。その結果どうなったか。中学に入るころ、彼は母に当たり散らすようになる。「なぜうちだけが貧乏なんじゃ」。刃物を突きつけたことも、首を絞めたこともあったという。
愛情の与え方が、そのまま暴力の許可証になってしまった典型のような育ち方だ。
十五歳の冬に、もう人を殺していた
公立高校の受験に失敗し、私立の工業高校に入ったが一学期で辞めた。そして1963年12月16日。十五歳の梅川は、大竹市で強盗殺人を犯す。勤め先関係の人妻を刺殺し、金を奪った。籠城中、彼はこの件を人質に向かって自分から喋っている。
「子どもの時、勤め先の人妻を刺し殺した」と。十六歳の誕生日まで二か月ちょっとという年齢だった。少年法が適用され、彼は刑務所ではなく少年院へ送られる。1964年1月に岡山の中等少年院に入り、四か月後に脱走。その後、山口県の特別少年院に移され、1965年6月に仮退院した。
人を一人殺して、身柄を拘束されたのは一年半ほどである。このときの記録が、後年もっとも重く読まれることになる。広島家庭裁判所の資料には、彼の人格について「少年の病質的人格は既に根深く形成されていて、容易に矯正し得ない段階」という趣旨の判断が残されていた。少年院側も「このような資質の少年を社会に放任することはきわめて危険」という趣旨の所見を書いていたとされる。
つまり、危ないと分かっており、分かっていて、制度は一年半で彼を外に出した。三菱銀行事件のあと、少年法をめぐる議論が一気に噴き出したのは、この一点があるからだ。もちろん、十五歳の少年を一生閉じ込めておけという話にはならない。ならないが、この事件の遺族にとってその理屈がどう聞こえるかは、また別の話である。
少年院を出た男が、大阪の夜に消える
仮退院後、彼は香川県の引田町にいた身内のもとへ引き取られた。だが1966年1月に家出して行方をくらます。翌1967年2月、大阪府西成区で見つかった。バーテンダーをやり、取り立ての仕事もしていた。1968年3月に保護観察が切れる。
以後、彼は制度の視界から完全に消える。出所後の十年ほどは、資料の上でも空白が多い。飲食店を転々とし、暴力団に近い界隈と接点を持ち、女がいて、借金が膨らんでいった。彼は「三十歳までに何かデカいことをしたる」という趣旨のことを周囲に漏らしていたという。この台詞は後年、映画のモチーフにもなった。
そして1973年7月26日。彼は猟銃の所持許可を取得しており、ここが制度の穴だ。十五歳での強盗殺人は少年審判で処理され、刑事罰の前科としては記録されていない。当時の許可要件の欠格事由に、彼のケースは引っかからなかった。人を殺した男が、合法的に銃を手にした。
事件後、この許可の経緯は徹底的に検証され、銃の所持許可をめぐる審査は段階的に厳しくなっていく。もう一つ、当時の空気の話をしておくと、この事件の一か月ほど前、1978年12月28日に俳優の田宮二郎が猟銃で自ら命を絶っている。世間が「猟銃」という単語に敏感になっていたところへ、この事件が来た。猟銃という道具が社会問題として一気に前面に出たのは、この二つが続いたせいでもある。
なぜ北畠だったのか
彼は下見をしていた。最寄りの警察署から車で三分以上、という条件を自分で立て、それに合う支店を選んだ。住宅街で、人通りはそこそこ、逃走経路は複数あり、合理的な選定だ。ただし、彼の計算には二つ穴があった。一つは、署からの距離と警察官の到着時間は同じではないこと。
巡回中の警察官がすぐそばにいれば三分の余裕など消し飛ぶ。もう一つは、通報が一本ではないこと。銀行の防犯装置は、行員が受話器を取らなくても作動しうる。彼は下調べのできる男で、そのわりに、致命的なところで詰めが甘かった。三十歳の無職の男が一人で立てた計画としては上等でも、組織を相手にするには粗すぎたのだ。
その粗さの代償を、彼ではなく銀行にいた人たちが払わされた。
1月28日、午前八時四十一分
二日目の夜から、警察の側は明確に突入へ舵を切っていた。二十八日の午前二時三分ごろから、四人の遺体が搬出されはじめる。非常階段を使って、次々に運び出された。中に死体を置いたままでは人質の精神が保たない、という判断もあったし、突入時の障害を減らす意味もあったのだ。観察孔の向こうでは、監視班が梅川の行動を秒単位で記録し続けていた。
いつ猟銃から手が離れるか。何秒離れるか。彼らが探していたのは、一・五秒以上の隙で、一・五秒。カウンターを越えて拳銃を構えるのに必要な時間である。梅川のほうも疲れており、二日近く眠っていない。
時間の感覚が怪しくなり、午前四時には人質に体操をさせている。「お前ら、顔色が悪い」。真夜中の銀行で、裸の人間たちが号令に合わせて体を動かしている光景を思い浮かべてほしい。悪夢としか言いようがない。午前六時五十七分ごろ、注文どおりの食事が差し入れられ、八時三十分、彼はメロンを口にした。
そして新聞を自分で読みはじめ、それまで彼は、新聞を人質に読ませており、自分では持たなかった。両手が塞がるからだ。それが、この朝は自分で広げ、判断力が落ちている証拠だった。
掌が、上下に動いた
見張り役をさせられていた行員がいた。監視孔の側からは彼の姿が見える位置だ。彼は、梅川が新聞を読みながら舟を漕ぎ、猟銃から手が離れているのを確認した。そして掌を上下に動かし、合図である。四十二時間、誰も口にできなかった一言を、彼は手の動きだけで外に伝えた。
現地本部の管理官がそれを無線で流し、突入指令が出た。入ったのは大阪府警警備部第二機動隊の零中隊。当時、その名を知る人間はほとんどいなかった部隊だ。人数は七名。装備は拳銃のみ。
専用の突入服は着ていない。部隊の存在を秘匿するため、トレーニングウェア姿だった。松原警部が率いる隊員たちは、カウンターの外側を這って接近する動きを、この二日間で繰り返し訓練していたのだ。彼らは匍匐で入り、人質の間を抜けた。そして「伏せろ」と叫びながら立ち上がり、カウンター越しに撃った。
五名が計八発。うち三発が梅川の頭、首、胸に当たった。彼は「殺すぞ」と呻きながら椅子から崩れ落ちた。午前八時四十一分。四十二時間の籠城が終わった。
運び出す際、担架を持った刑事の一人が転倒したという記録が残っている。全員、限界だった。八時四十九分に救急車が出発し、九時十八分に大阪警察病院の災害救急センターに到着。十人の医師が執刀し、左側頭部から入った弾は頸部から、右肩から入った弾は右胸から摘出された。だが右頸部の貫通銃創が致命傷で、同日午後五時四十三分、死亡が確認され、遺体には刺青があった。
右胸に赤い牡丹、肩から左腕にかけて龍。1月29日に大阪大学で行政解剖がおこなわれ、1月31日、母親が暮らす香川県引田町のかまぼこ製造所で葬儀が営まれた。参列したのは母親、叔父、住職の三人だけだったという。この事件のために費やされた公費は総額で一億円を超えた。時間外手当だけで六千万円。
給食費に二百二十万円だ。そして、彼の入院治療費に九十万円。四人を殺した男を救おうとして、九十万円が使われている。この数字が妙に胸に残る。
生き残った人たちが、後に語ったこと
耳を削がれた行員の、その後の四十年
撃たれ、耳を半分削がれた男性行員は生還した。だが、その後の人生に何が乗ったかは想像するしかない。彼が公の場で語ったのは、事件から三十五年後の2014年、テレビ番組に出演したときだ。そこで彼が口にしたのは、犯人が射殺されたことへの、まったく整理のつかない感情だった。犯人にとってはあの終わり方でよかったのかもしれない、と彼は言う。
撃たれて死ねば、それで終わりだからだ。だが自分たちからすれば納得できない。きちんと法廷に立たせて、罪を明らかにして、そのうえで死刑になってほしかった。そういう趣旨のことを述べている。これは、この事件の被害者が置かれた立場を端的に示す言葉だ。
梅川は裁かれていない。裁判がないということは、公判記録がないということで、公判記録がないということは、何が起きたかを国家が確定しないということだ。だから四十七年経ってもネットには根拠不明の尾ひれが漂い続けるし、被害者はそれをいちいち訂正することもできない。撃たれて終わった事件は、被害者にとって「終わっていない」。そして忘れてはいけないのが、命じられて刃物を握った側の行員だ。
彼は加害の実行者ではなく、銃を突きつけられて強要された人間である。にもかかわらず、その手の記憶は本人のものとして残る。ネット上ではいまだに「その後どうなったのか」を興味本位で問う書き込みが立つ。それに対して「赤の他人がなぜ知りたがるのか」と返している人がいたが、まったくそのとおりだと思う。
銀行側は事件後、人質になった行員に対して形式的な退職ではなく長期の休職を認め、とくに女性についてはプライバシーを守る運用をしたという話が伝わっている。それが唯一まともな対応だった。
交渉の電話を握り続けた側
外にいた警察官たちの証言は、それはそれで苦い。彼らは電話をつなぎ続け、飯を出し、酒を出し、ラジオを入れ、朝刊を差し入れた。人質が減るたびに小さく安堵し、そのたびに次の要求が来た。中で何が起きているかは、直径数ミリの穴からしか見えない。覗いた警察官が最初に見たのは、裸で座らされた人たちだったはずだ。
そこから四十二時間、彼らは撃てず、撃てば人質に当たる。当時の警察には、この種の突入を専門にやるための装備も、ノウハウも、法的な後ろ盾も、十分にはなかった。あさま山荘のときは相手が立てこもる建物に人質は一人。今回は数十人が犯人と同じ部屋にいる。まったく別種の難易度で、しかも外野がうるさかった。
事件がテレビで生中継されているものだから、府警には全国から電話が殺到した。催涙弾を撃ち込め。カレーに睡眠薬を混ぜろ。暴走族に決死隊をやらせろ。そういう提案と、なぜ早く助けないのかという抗議で、回線が埋まった。
指揮所の人間が、事件処理以外のことに時間を割かされた。中継されるということは、こういうことなのだ。
人質だった人たちが、外に向かって叫んだこと
もっとも語りにくい証言がこれだ。籠城中、警察が接近する気配を察したとき、人質の側が犯人にそれを知らせたという記録が複数ある。外に向かって「来るな」と叫んだ人もいたと伝えられる。来られたら自分たちが殺される、という理屈だ。これを後年、ストックホルム症候群の例として語る人は多い。
実際、事件解決後に一部の人質が府警に対して感情的な抗議の電話をかけたという話も残っている。教科書的にはたしかに典型例に見える。ただ、ここは慎重に扱いたい。ストックホルム症候群という概念自体、臨床的な裏付けが弱く、近年はむしろ「被害者の合理的な生存行動を病理化してきた枠組みだ」という批判のほうが強い。
銃を持った男と同じ部屋に四十二時間いて、目の前で四人が撃たれるのを見た。裸にされて、耳を削がれる場面まで見せられた。そんな人間が警察の突入を恐れるのは、症候群でもなんでもない。それは正しい状況判断だ。突入して人質に流れ弾が当たった例は、国内外にいくらでもある。
だから「人質が犯人に情を移した」という筋書きで消費するのは、たぶん間違っている。彼らは犯人を守ったのではなく、自分と隣の同僚の命を守ろうとしただけだ。
この区別は、四十七年経ったいまだからこそちゃんとしておきたい。
テレビは何を映し、何を映さなかったのか
この事件は、ほぼ丸二日、複数の局が現場から中継を出し続けた。NHK大阪、毎日放送、朝日放送、関西テレビ、読売テレビ。夕方のニュースが延々と銀行のシャッターを映し、アナウンサーが「動きはありません」と言い続けた。日本のテレビにとって、長時間の事件現場中継という形式が定着していく途中の出来事だった。ここで報道倫理の論点が三つ立つ。
一つ目は、中継が犯人に情報を与えていたこと。梅川はラジオを要求し、朝刊を要求していた。外の報道を、彼はリアルタイムで受け取っていたのだ。そして名前の読み間違いに激怒し、報道が犯人の情動を直接動かしていた。しかも、業務係長に借金を返させに行かせるという一連のやりとりを、報道側は解決まで把握していなかったとされる。
つまりメディアは、犯人に情報を与える一方で、肝心なことは知らなかった。この非対称は、その後の報道協定の議論に直結していく。二つ目は、人質の裸をどう扱うかという問題。翌日の新聞各紙は「女子行員が全裸にされている」と報じた。事実だから報じた。
だが映像として何を出すかは別の判断になる。当時も後年の検証番組でも、その場面が映像として流されたことはない。放送倫理と、被害者の人格への配慮からだ。この線引きは正しかったと思う。同時に、映像がないことがのちの噂の温床になったのも事実で、報道倫理というのはいつもこの二律背反の上に立っている。
三つ目は、あの有名な一枚の写真だ。毎日新聞が、府警がシャッターに開けた観察孔から撮影した写真をスクープとして掲載した。犯人が写っている。これは、警察が生命を懸けて確保した観察手段の産物を、報道が使ったということでもある。取材の勝利と見るか、捜査への便乗と見るか。
ここは今でも意見が割れる。余談だが、事件の影響で放送を差し替えたドラマもあった。銀行強盗と警官殺し、立てこもりを扱う予定だった刑事ドラマの回が延期され、別の話数に入れ替えられている。テレビ局が「これは今は出せない」と判断できた時代の記録として、地味に興味深い。
零中隊という、名前を持たない部隊
突入した零中隊とは何者だったのか。話は1972年のミュンヘンオリンピック事件にさかのぼる。イスラエル選手団が襲撃され、十一人が死亡した。あの惨事の翌日、日本の警察庁は全国の都道府県警察に対して、銃器を使った重大突発事案に対処できる部隊を作れという趣旨の通達を出している。反応は早かった。
だが、実際に部隊ができるのは五年後だ。1977年9月のダッカ日航機ハイジャック事件で、日本政府は機動隊の派遣を検討したが現地当局に断られ、超法規的措置で犯人の要求を呑む結果になった。その翌月、西ドイツの部隊がハイジャック機を強襲して人質を全員救出してみせた。この対比が決定打になる。1977年11月1日、警視庁第六機動隊に特科中隊が、大阪府警第二機動隊に零中隊が発足した。
前者はのちに特殊武装警察、後者は零中隊のまま、いずれも存在を公表せずに訓練を積んだ。そして発足からわずか一年三か月で、零中隊は実戦に投入される。それが三菱銀行北畠支店だった。彼らがトレーニングウェアで突入したのは、装備が無かったからではなく、部隊の正体を映像に残さないためだったとされる。
全国のテレビカメラが銀行を狙っている状況で、専用の突入服を着た集団が走り込めば、翌日には日本に特殊部隊があることが全国に知れ渡る。彼らはジャージで匍匐前進した。日本の対テロ部隊の初陣は、その程度には泥臭かった。この部隊が公式に「特殊急襲部隊」として体系化され、警視庁と大阪府警に加えて北海道、千葉、神奈川、愛知、福岡にも置かれるのは1996年のことだ。三菱銀行事件から十七年かかっている。
だが起点は間違いなくここにある。四十二時間、警察は撃てずに待ち続け、二度と同じ思いはしたくない、という組織の記憶が、その後の制度を作った。もう一つ、この事件は日本の警察史における「犯人射殺で解決した人質事件」の三例目でもあった。一例目が1970年の瀬戸内シージャック事件、二例目が1977年の長崎バスジャック事件、そして三例目がこれだ。
瀬戸内のときは、狙撃が正当だったかをめぐって法曹界や政界を巻き込む大論争になった。弁護士会は緊急避難として妥当だとし、社会党は見せしめだと抗議し、警察庁長官は国会で「例外中の例外」と繰り返した。撃った狙撃手は実名報道され、叩かれて警察を去ったと伝えられる。その記憶があったからこそ、大阪府警は三菱銀行で慎重にならざるをえなかった。
そして三菱銀行で四人が死んだからこそ、その後の日本の警察は「撃つ準備を常時しておく」方向に進んだ。1979年以降、日本国内で犯人射殺によって決着した人質事件は起きていない。四十七年、ゼロである。これを幸運と呼ぶか、成熟と呼ぶかは意見が分かれるだろうが、少なくともあの四十二時間が何かを変えたのは確かだ。
『破滅』、そして宇崎竜童が演じた男
この事件は、驚くほど早く作品になった。事件から半年後の1979年8月、毎日新聞社会部が『破滅 梅川昭美の三十年』を出した。事件そのものより、彼の三十年をたどることに重心を置いたノンフィクションだ。同じ年の10月には、当時の三菱銀行側の危機管理を検証した本も出ている。
銀行という組織が人質事件にどう向き合ったかを内側から書いた記録で、この事件が企業の危機管理論の教科書的題材になっていく最初の一歩になった。1984年には読売新聞の側から、記者たちの四十二時間を書いたドキュメントも出ている。事件を犯人側から、被害企業側から、報道側からそれぞれ書いた本が揃っているのは、日本の犯罪ノンフィクションでもかなり珍しい。ここで一つ、よくある記憶違いを訂正しておきたい。
この事件のノンフィクションといえば佐木隆三、と思っている人がそれなりにいる。佐木隆三は『復讐するは我にあり』で知られる、まさにこの時代を代表する犯罪ノンフィクションの書き手で、深川通り魔事件などを手掛けている。だから梅川昭美も彼が書いたと思い込まれやすい。だが、この事件の決定版とされ、のちの映画の原作になったのは毎日新聞社会部の『破滅』のほうだ。
佐木の名前と結びつけて語られがちなのは、当時の空気があまりに彼の作風と重なっていたからだろう。この取り違えそのものが、あの時代の記憶の作られ方を示していて面白い。映画は二本ある。一本目は事件のわずか四か月後、1979年5月に公開された若松孝二監督の作品だ。舞台を銀行から農家に置き換え、事件の構造だけを抜き出して撮っている。
事件から四か月で公開というスピードは、いま考えるとちょっと信じがたい。そして本命が、1982年公開の『TATTOO<刺青>あり』。監督は高橋伴明で、ピンク映画を五十本以上撮ってきた彼の一般映画デビュー作だった。プロデューサーは井筒和幸。配給は日本アート・シアター・ギルドだ。
原作は毎日新聞社会部の『破滅』であり、主演は宇崎竜童。ミュージシャンとしてすでに有名だった彼の初主演映画で、十年以上外したことがなかったというサングラスを外して現場に立った。母親役は渡辺美佐子、ヒロインは関根恵子。この映画の重要な点は、銀行の場面を描いていないことだ。物語は、母に溺愛されて育った男が、惚れた女に逃げられ、自暴自棄になっていく過程で終わる。
事件そのものは省かれている。監督は残虐の再現ではなく、そこに至る三十年を撮った。この選択が正解だったことは、評価が証明している。ヨコハマ映画祭で監督賞と主演男優賞、キネマ旬報ベストテンで六位、映画芸術で七位。宇崎竜童は「これ以上の適役はない」と言われる評価を得た。
なお、この映画化の着想には妙な補助線がある。当時、山口組の組長を銃撃したヒットマンの愛人と、梅川の愛人が同一人物だったという新聞記事が出た。二人の凶悪犯の間に一人の女がいた、という筋書きだ。劇中にもそのヒットマンをモデルにした人物が出てくる。この「魔性の女」説は後年テレビでも取り上げられたが、演出や誇張を疑う声も根強く、どこまで裏が取れているかは怪しい。
作品を面白くした要素であって、事実として断定できる話ではない。そして令和になっても、この事件は放置されなかった。2026年4月、桜木紫乃が長篇小説『異常に非ず』を出した。犯人の名前は花川清史に変えられ、視点人物は母、元恋人、そして新聞記者の三人。犯行の残虐さではなく、その三十年と、それを追う記者たちを描いている。
タイトルは、梅川が籠城中に口にしたとされる言葉から採られている。曰く、「俺は精神異常やない。道徳と善悪をわきまえんだけや」。この一行が、四十七年後の小説のタイトルになった。それだけの引力がある言葉だということだ。
「劇場型」という札が、いつ貼られたのか
いまこの事件を語るとき、ほぼ必ず「劇場型犯罪の走り」という言い方が出てくる。だが、この言葉が事件と同時に生まれたわけではない。「劇場型犯罪」という日本語は、1984年から翌年にかけてのグリコ・森永事件を評して、評論家の赤塚行雄が使いはじめたとされる。犯人が主役、被害者が脇役、警察が敵役、そしてメディアと視聴者が観客。
犯罪が進行しているのに、それを人々が見世物として楽しんでしまうという構造を指す言葉だ。つまりこの言葉は、三菱銀行事件の五年後に生まれた。にもかかわらず、後から遡って貼られ、なぜか。理由ははっきりしている。三菱銀行事件が、テレビが事件をライブで垂れ流した最初期の大型事案だったからだ。
日本中が二日間、シャッターの映った画面を見つめていた。その間、中では四人の遺体が転がり、裸の人たちが窓辺に立たされていたのだ。視聴者は何も知らずに、しかし固唾を呑んで見ていた。そして犯人自身が、外の報道を聴いており、自分の名前がどう読まれたかに怒った。彼は観客の存在を知っていて、観客に向かって怒ったのだ。
グリコ・森永の犯人がやったような、メディアへの挑戦状という能動的な演出はない。梅川は劇場を作ろうとしたのではなく、逃げ場を失って建物に閉じ込められただけだ。それでも結果として、日本で最初に「全国が同時に見ている密室」ができてしまった。この事件を劇場型の先駆けと呼ぶのは、犯人の意図の話ではなく、メディア環境の話なのだ。ここを混ぜて語ると、梅川という男を実際より知能犯めいた存在に見せてしまう。
彼はそこまで計算していない。三分で逃げるつもりだった男である。
なぜこの事件だけが、四十七年経っても薄れないのか
日本の犯罪史には、もっと死者の多い事件も、もっと猟奇的な事件もある。それでもこの事件が別格の位置に居座り続けるのはなぜか。一つは、密室と公開性の同居だ。全国が見ているのに、誰も中を見られない。人は見えないものに最も強く想像力を働かせる。
あの四十二時間、日本中の茶の間が、あのシャッターの向こうを想像し続けた。事件が終わって、想像より酷かったと知り、この落差が記憶に焼きつく。二つ目は、犯人が説明可能だったことだ。梅川昭美は精神を病んだ理解不能な怪物ではない。生い立ちがあり、動機があり、借金があり、母を愛していて、名前を読み間違えられれば怒る。
六百冊の本を読み、ヒトラーの伝記もドストエフスキーも六法全書も読んでいた。人質三十九人の顔と名前を記憶する頭があり、理解できてしまうのだ。理解できるからこそ、その男が耳を削がせたという事実が耐えがたい。人間離れした化け物なら、まだ心の整理がつく。三つ目は、裁かれなかったこと。
彼は法廷に立たず、供述調書も判決文も残らないまま死んだ。だから公式の結論がない。結論のない事件は語り続けられる。生き残った人が「死刑になってほしかった」と語ったのは、報復感情の話であると同時に、確定された記録がほしいという話でもある。四つ目は、これがどうしようもなく「昭和の内臓」だったことだ。
高度成長が終わり、サラ金が街に溢れ、猟銃が家庭にあり、少年法の運用が緩く、テレビが力を持ちはじめ、警察はまだ特殊部隊を隠していた。あの時代でなければ起きなかった、あるいはあの形にはならなかった事件だ。だから昭和を振り返るたびに、必ずこの事件が掘り返される。そして最後に、これは怪談ではないのに怪談のように語られる、ということ。肉の盾。
削がれた耳だ。裸の行列。密室だ。四十二時間。要素だけ並べれば創作にしか見えない。
だが全部、記録に残っている。実話が創作の様式を追い越してしまったとき、人はそれを何度でも語り直す。この記事もその一つだ。ここからは、いま改めてこの事件を眺めたときに見えてくるものを、もう少し掘り下げておきたい。まず、四十二時間という長さについて。
人質立てこもり事案の教科書では、時間が経つことは基本的に良いこととされる。犯人の緊張が落ち、疲労が判断力を鈍らせ、人質との間に会話が生まれ、要求が現実的になっていく。だから交渉人は時間を稼ぐ。三菱銀行の事件でも、その理屈自体は機能している。実際、最後に突入できたのは彼が二日近く眠らずに消耗し、新聞を自分で読むという致命的な油断をしたからだ。
だが同時に、この事件は時間稼ぎの負の側面をこれ以上ないほど露骨に見せている。時間が経てば犯人が緩むというのは、犯人が普通に疲れる人間である場合の話だ。梅川は疲れながら、同時に密室の内部で支配を深化させていった。初日に裸にし、夜に耳を削がせ、二日目には体操をさせている。時間が経つほど、人質にとっての地獄は悪化していた。
外の警察が「まだ待とう」と判断していたその同じ時間に、中では新しい虐待が発明され続けていた。これは交渉という手法の限界を示している。外から見た犯人の状態と、中の人質の消耗は、必ずしも同じ曲線を描かない。しかも外側の人間は、中の悪化を直径数ミリの穴からしか観測できない。この情報の非対称こそが、日本の警察が突入部隊を持たざるをえなかった本当の理由だ。
交渉を続けるためにも、いつでも入れる能力が要る。入れないまま交渉するのは、交渉ではなくただの祈りになる。次に、装備と権限の話をしておきたい。零中隊が持っていたのは拳銃だけだった。ジャージ姿で這って入り、カウンター越しに撃った。
この事実は、勇敢さの物語として語られがちだが、むしろ当時の日本がどれだけ準備不足だったかの証拠として読むべきだ。彼らは訓練された精鋭ではあったが、発足から一年三か月しか経っていない。実戦経験はゼロ。装備は最小限。にもかかわらず、四十二時間耐えた末に投入された。
あの日、八発のうち三発しか当たっていない。裸の人質が至近にいる室内で、三発当てて他に一人も傷つけなかったのは、率直に言って幸運も混じっている。その後の十七年をかけて、日本は装備を揃え、部隊を全国に置き、名前を付けて公表した。あの朝のジャージから、正式な特殊部隊まで十七年。この時間差の中には、たぶん「あんな思いは二度としない」という組織の執念がある。
三つ目。少年法をめぐる論点は、この事件でいちばん扱いが難しい。十五歳で人を刺し殺し、一年半で社会に戻り、家庭裁判所の記録には矯正困難と書かれていた男が、二十九年後に四人を殺した。この事実の並べ方は、少年法批判にとってあまりに使いやすい。実際、事件当時から今日まで、この事件は繰り返しその文脈で持ち出されてきた。
ただ、慎重にならないといけない点がある。少年審判で処遇された少年のうち、その後に重大犯罪を犯す者はごく一部だ。一人の極端な事例から制度全体の是非を導くのは、統計の使い方として端的に間違っている。一方で、この事件が突きつけた具体的な穴は、制度の理念とは別のところにあった。少年審判の記録が刑事上の前科として扱われなかったために、猟銃の所持許可審査を通ってしまったという点だ。
これは少年法の理念の問題ではなく、制度間の情報連携の問題である。この区別をつけずに議論すると、いつまでも噛み合わない。事件後、銃の所持許可をめぐる審査は段階的に厳しくなり、精神面や周辺への調査も強化されていった。事件が制度を動かしたとすれば、こちらの筋が実質だ。四つ目に、被害者のその後という論点。
この事件では、加害者の物語だけが繰り返し語られてきた。母に溺愛された少年、三十歳までに何かをやると誓った男、破滅への三十年。映画も小説も、そこを描く。理解可能な悪という物語は、書き手にとって魅力的だからだ。その裏側で、生き残った二十数人の人生はほとんど語られていない。
裸にされた十九人の女性行員がその後どう生きたのか。刃物を握らされた行員がどう自分と折り合いをつけたのか。四十歳の業務係長が、なぜ戻ってきたのか、戻ったあとの二十四時間をどう耐えたのか。公になっている証言は数えるほどしかない。これは彼らが語りたくなかったからで、その選択は全面的に尊重されるべきだ。
ただ、結果として世の中に残ったのは加害者の物語だけになった。そして空白には噂が入り込む。週刊誌が盛り、掲示板が広げ、四十七年経ったいまでも根拠のない性的な尾ひれが検索結果に並ぶ。被害者が沈黙を選ぶと、その沈黙が別の被害を生むという、救いのない循環がここにある。だからこの手の記事を書くときには、線を引く責任がある。
確定していることと、報道されたこと、証言されたこと、そして誰かが言い出しただけのこと。この四つは違う。裸にされて盾にされたのは、当時の報道でも各種の記録でも一致している。耳の件も一致している。それ以上の話は、出所を辿ると必ず後年の雑誌記事に行き着く。
「もっと酷いことがあったが公開されていない」という言い方は、検証不能を装った誇張の常套句だ。梅川昭美は裁判を経ていない。だから何を主張しても反証されないという構造が、この事件の周りには常につきまとう。ここを自覚しないまま語ると、被害者を二度踏むことになる。五つ目。
組織としての銀行という視点も面白い。この事件は、日本企業の危機管理という分野が具体的な事例を持った最初期の出来事でもある。人質を取られた企業は何をすべきか。金庫の金を犯人の指示で外に出すことを許していいのか。従業員が犯人の使い走りをさせられた場合、その責任はどこにあるのか。
事件後に出た関係書籍は、まさにこの問いを扱っている。当時の銀行は、防犯装置の作動と警察への通報という手順は持っていたが、その後に何十時間も続く事態への手順は持っていなかった。持っている企業など、当時の日本にはなかった。いまの金融機関は、シャッターの構造も、通報の仕組みも、行員の訓練内容も、この事件の後に作り替えられたものを引き継いでいる。窓口の高さ、カウンター内側の死角、非常通報の押しやすさ。
そういう地味な設計の一つひとつに、1979年1月の四十二時間が入っている。最後に、この事件の芯にあるものについて。梅川昭美は、籠城中に自分でこう言った。俺は精神異常じゃない、道徳と善悪をわきまえていないだけだ、と。この言葉が四十七年後の小説のタイトルになるくらいだから、多くの人がここに引っかかってきたわけだ。
この一行は、自己弁護として読むこともできる。だが、たぶんもっと単純な自己認識でもある。彼は自分が何をしているか分かっていた。分かったうえで、それを止める内側の装置を持っていなかった。少年院の記録が矯正困難と書いたのは、まさにその欠落のことだ。
人格の病質は既に根深く形成されている。十五歳の時点で、大人たちはそう見抜いており、見抜いたうえで、社会に返し、返すしかなかった。そして三十歳の彼は、母を愛したまま、四人を撃ち殺した。母への愛情は演技ではなかったと思う。手紙の字を見て泣いたのも、たぶん本当だ。
人間の中では、そういうものが平気で同居する。愛と虐待、義理と殺意、几帳面な借金返済と耳を削ぐ命令が、同じ一人の頭の中で矛盾なく並ぶ。怖いのはそこだ。この事件は、人間が壊れると何が起きるかを見せた事件ではない。壊れていない部分をそっくり残したまま、人はここまでやれるという事実を見せた事件だ。
だから四十七年経っても、誰も忘れられない。忘れられるような話なら、とっくに忘れられている。大阪の静かな住宅街に、いまも同じ建物が建っており、看板だけが変わった。そこを毎日、何百人もの人が通り過ぎていく。
