幼い少女が次々と消えた
1988年から1989年にかけて、埼玉県南部から東京都にかけての住宅地で、幼い少女たちが忽然と姿を消す事件が相次いだ。
最初の犠牲者が消えたのは1988年8月、埼玉県入間市でのことだった。
夕暮れ時に友人と別れて、一人で自宅に向かったはずの4歳の女児。そのまま帰ってこなかった。
同年10月には飯能市で7歳の女児が、12月には川越市で4歳の女児が、それぞれ同じように日常の中でふっと姿を消している。
当時、この地域では「神隠し」という言葉が皮肉交じりに囁かれた。母親たちは子供を一人で外に出すことを恐れるようになっていた。
玄関先に置かれた箱
1989年2月、事態は最悪の形で確定する。
消えた女児の一人の自宅の玄関先に、白い骨片が入った箱が置かれていたのだ。
添えられていた手紙には、稚拙な文字で挑発的な文言が記されていた。警察と社会に強い衝撃が走る。
これで、単なる行方不明ではなく悪質な誘拐・殺害事件であることが決定的になる。
ところが手がかりは乏しい。捜査は難航を極めた。
少女の父親が取り押さえた
事態が動いたのは同年6月だ。
東京都江東区で下校途中の5歳の女児が姿を消し、数日後、埼玉県飯能市の山中で遺体の一部が発見された。
この事件をきっかけに、7月23日、東京都八王子市で決定的な出来事が起きた。
少女に声をかけようとしていた男が、少女の父親に取り押さえられたのだ。捕らえられたのは、当時27歳の宮崎勤という男だった。
当初はわいせつ目的の声かけ事件として送致されたに過ぎない。
ところが取調べを進めるうちに、彼の自宅アパートの一室から夥しい数のビデオテープと、事件を想起させる遺留品が発見される。捜査本部は色めき立った。
8月に入り、宮崎は最後の事件について自供を始めた。続けて過去の3件についても関与を認めるに至る。
8月11日、未成年者略取・殺人・死体遺棄容疑で再逮捕。約10か月にわたって埼玉・東京の家庭を震撼させた連続事件は、ここでようやく終止符を打つ。
異例の長期裁判
逮捕後の宮崎は、取調べに対して支離滅裂とも取れる供述を繰り返した。
犯行を架空の別人格のせいにする。そうした言動から、精神状態を巡る疑問が捜査当初から浮上していた。
1990年3月に始まった第一審で、外形的な事実関係そのものは争点にならない。
争点は別のところにあった。計画性の有無。完全な責任能力があったかどうか。この二点を巡って、弁護側と検察側が激しく対立している。
裁判所は複数回にわたる精神鑑定を実施し、審理は長期間中断される。異例の長期裁判になった。
1997年4月、東京地裁は宮崎に死刑を言い渡す。
弁護側は責任能力の不十分さを理由に控訴する。ところが2001年6月、東京高裁は控訴を棄却し、一審の死刑判決を維持した。
弁護側は上告したものの、2006年1月に最高裁が棄却。同年2月に死刑が確定した。
20年という歳月
2008年6月17日、東京拘置所で死刑が執行される。
事件発生から死刑執行まで、およそ20年。その間に平成という時代がほぼまるごと過ぎ去ったことになる。
現在、この事件は法的には完全に決着した確定事案だ。捜査機関が継続して追っている案件でもない。
もっとも、核心部分は手つかずのまま残された。
犯行の動機は何だったのか。なぜ被害者らが狙われたのか。当時の精神鑑定でも見解が分かれ、今も心理学や犯罪学の研究対象として論じられている。
複数犯説という憶測
事件から30年以上が経過した現在も、インターネット上には異説が流れている。
ひとつは複数犯説だ。
宮崎ひとりの犯行にしては、現場ごとに手口や行動パターンに差があるように見える。だから実際には別の人物が関与していたのではないか。あるいは宮崎は末端の実行役にすぎず、背後に誰かがいたのではないか。
そういう憶測が根強く語られてきた。
とはいえ、この説を裏付ける客観的な証拠は公式には示されていない。あくまで事件の異様さから生まれた憶測の域を出ないと見られている。
別人格という供述
もうひとつよく語られるのが、宮崎の供述に登場した別人格を巡る解釈だ。
宮崎は取調べで、自分の内側にいる別人格が犯行を命じたという趣旨の供述をしたと伝えられている。
これが解離性同一性障害、いわゆる多重人格ではないかという臆測を呼んだ。
ところが専門家の見解は割れた。
精神鑑定では複数の専門家が異なる結論を示している。統合失調症説があった。人格障害説が出た。詐病を疑う説まで並立する経緯をたどっている。
この鑑定の食い違いそのものが、不信感を助長する結果になる。本当のところは何もわかっていないのではないか。そういう見方がネット上で広がっていった。
積み上げられたビデオテープ
押収されたビデオコレクションの実態を巡る噂もある。
部屋の押入れに天井近くまでビデオが積み上げられていた。その報道写真が繰り返し使われた。
結果として、あたかも宮崎の部屋がアニメとホラー映像だけで埋め尽くされていたかのようなイメージが広まっていく。
ところが後年の検証記事は、別の数字を出している。
実際に性的な内容を含むビデオはごく一部にすぎなかった。大半は特撮やアニメの一般的な録画だったという指摘だ。
ここから、メディアが意図的におぞましいイメージを演出したのではないか、という報道不信が生まれた。軽い陰謀論的な語りにつながっている側面もある。
趣味叩きに走った報道
事件当時、テレビや週刊誌は宮崎の自宅から押収された大量のビデオや漫画を繰り返し映像化した。
同時に「おたく」という言葉を添えて、彼の人物像を伝えていく。
この報道の仕方は、後年になって厳しい批判を浴びる。事件の本質よりも趣味叩きに走った、という批判だ。
インターネット掲示板文化が本格化する2000年代に入ると、この事件はしばしば「おたく差別の原点」として言及されるようになる。
当時を知らない若い世代からも、驚きの声が繰り返し投稿されてきた。なぜアニメが好きというだけで犯罪者予備軍のように扱われたのか信じられない、という声だ。
置き去りにされた子どもたち
一方で、被害者遺族の心情を軽視するかのような掲示板上の発言には、強い反発も見られる。
趣味への偏見の議論ばかりが先行し、亡くなった子どもたちのことが置き去りにされている。
この指摘は、事件から数十年を経た今でも定期的に投稿板へ現れる。
SNS上でも、一定の周期で事件が呼び戻される。
死刑執行から数年ごとの命日や、事件発生日が近づくたびに、当時の報道映像の切り抜きとともに投稿が拡散する。昭和から平成にかけての日本社会の縮図として事件を振り返る、という切り口だ。
事件そのものの凄惨さと、それが後の文化・報道のあり方に与えた影響。その両面が、繰り返し語り直されている。
有害コミック規制論争へ
この事件が日本社会に与えた最大の影響は、「オタク」という言葉とサブカルチャー全体へのまなざしを一変させたことにある。
事件以前から、アニメ・漫画愛好家のコミュニティは存在していた。
それが事件後、メディアによって異常性愛と結びついた危険な存在であるかのように語られるようになる。
流れはやがて、いわゆる有害コミック規制論争へと発展していった。
1990年代に入ると、各地の自治体で青少年保護条例の改正論議が進む。性的表現を含む漫画・アニメへの規制強化が図られる契機のひとつになった。
過熱取材が残したもの
もうひとつ、あまり語られない影響がある。
埼玉県川越市・飯能市、東京都江東区・八王子市。事件の現場となった地域では、報道陣の過熱取材によって周辺住民の生活が長期間にわたり脅かされたことも記録に残っている。
これを教訓として、その後の重大事件報道におけるメディアスクラムのあり方が議論されるようになった。報道機関の自主的なガイドライン整備が進む一因にもなる。
犯罪被害者やその遺族への支援制度が国レベルで整備されていく1990年代後半以降の流れ。ここにも、この事件が投げかけた課題が影を落としているとされる。
理解できない他者
現在の視点で改めて眺めてみると、この事件には別の輪郭が見えてくる。
単なる猟奇犯罪としてではない。日本社会が「理解できない他者」をどう扱うかという、普遍的な問題を突きつけた出来事として捉え直すことができる。
事件当時のメディアは、宮崎の異常性を強調するために彼の趣味や生活様式を執拗に映し出した。
それは同時に、別の行為でもあった。
当時まだ社会的に十分な言葉を持たなかったサブカルチャー愛好者全体を、一括りに「危険な他者」として名指しする行為だ。
今日、アニメや漫画は日本の代表的な文化産業として国内外で広く受け入れられている。それを踏まえると、この事件が残した偏見が、いかに大きな代償を伴うものだったかがよくわかるよね。
わからなさが残り続ける
同時に、この事件は刑事司法制度の限界も示した。
精神鑑定を巡る専門家間の見解の相違。それは、犯罪者の内面をどこまで科学的に解明できるのかという根源的な問いを突きつけた事例でもあった。
死刑が執行され、法的には結審している。
それでも、なぜ宮崎がこのような犯行に及んだのかという問いに、完全な答えは示されていない。
この「わからなさ」こそが、事件から30年以上を経てもなお、この事件がミステリー系のコンテンツで扱われる最大の理由だろうね。
被害に遭った子どもたちの尊厳を忘れないこと。興味本位の消費に陥らないこと。社会がこの事件から何を学ぶべきかを問い直すこと。その姿勢こそが、今も求められている。
