霧の荒野に、まだ帰れない子どもがいる
マンチェスターの東に、サドルワース・ムーアという高地がある。泥炭とヒースに覆われた、風ばかり強い場所だ。晴れた日はちゃんと美しい。ただ、地元の人間はここを「美しい」とだけでは呼ばない。1965年の秋から、この荒野はずっと墓場としても記憶されてきたからだ。イアン・ブレイディとマイラ・ヒンドリー。1963年7月から1965年10月にかけて、10歳から17歳までの5人を殺した二人組。
うち4人の遺体は見つかった。だが12歳のキース・ベネットだけは、60年以上たった今も帰ってきていない。母親は待ちきれずに亡くなった。この記事は「まだ終わっていない」という一点を軸に、事件の最初から今日までを全部たどる。
マンチェスターの東、泥炭の海が広がる場所
サドルワース・ムーアはペナイン山脈の西の縁にあたる。標高はそこまで高くないのに、天気が急に変わる。霧が出ると10メートル先が見えなくなる。土は泥炭で、スコップを入れれば黒い水がにじむ。1960年代当時、この荒野を横切る幹線道路はあったが、その脇に車を停めて数十メートル入り込めば、もう誰の目にも入らない。マンチェスターの工業地帯からは車で30分ちょっと。都市のすぐ隣に、完全な無人地帯があった。
この地理が事件の性格を決めている。犯人たちは遠くへ行く必要がなかったんだよな。日常の生活圏から少しはみ出すだけで、そこに何もかも飲み込む土地があった。
事務所の隅で始まった、最悪の出会い
イアン・ブレイディは1938年1月2日、グラスゴーのゴーバルズ生まれ。ゴーバルズは当時のヨーロッパでも有数のスラムとして知られた地区で、彼は生後まもなく別の家庭に預けられて育った。10代で窃盗を繰り返し、保護観察の条件としてマンチェスターの母のもとに移る。1959年1月、ミルワーズ・マーチャンダイジングという化学薬品卸の会社に事務員として入った。
無口で、通勤鞄にドイツ語の本を入れて持ち歩く男だったと同僚は語っている。
マイラ・ヒンドリーは1942年7月23日、マンチェスター北部のクランプソール生まれ。育ったのはゴートン。1961年1月、同じミルワーズにタイピストとして入社した。二人が初めてまともに口をきいたのが1961年7月27日、初デートが同年12月22日。ここまでは、どこの職場にもある話だ。だがヒンドリーは日記に、この無愛想な同僚のことばかり書くようになる。
荒野へのドライブが習慣になるまで
二人の関係が固まっていく過程で、ブレイディはヒンドリーに本を読ませ、思想じみたものを吹き込んだ。ヒンドリーは髪を金髪に染め、服装を変え、オートバイの免許を取り、やがて中古の車を運転するようになる。この「女が運転できる」という一点が、後の犯行で決定的に効いてくる。1960年代前半のイギリスで、若い女性が自分で車を出して荒野へドライブに行くのは、そこまで珍しくはないが目立ちもしない。
二人はカメラを持って何度もムーアへ通い、写真を撮っている。この写真の束が、後に警察にとって最重要の資料になるとは、本人たちも思っていなかったはずだ。
1963年7月12日、ダンスホールへ向かった16歳
最初の被害者はポーリン・リード、16歳。1963年7月12日の夕方、ゴートンの英国鉄道クラブで開かれるダンスに行くと言って家を出た。ピンクがかった薄い色のドレスを着ていた。母親は玄関で見送っている。彼女はダンスホールに着かなかった。
当時の警察の見立ては「家出」だった。16歳の少女が夜に消えれば、まず疑われるのは駆け落ちや家出だ。捜索はされたが、事件性の高い扱いにはならなかった。母親のジョーン・リードは以後、娘が帰ってくると信じて生活を続けることになる。ポーリンの遺体が見つかるまで、そこから24年かかった。
11月の市場から消えた12歳
1963年11月23日、ジョン・キルブライド、12歳。アシュトン・アンダー・ラインの市場で、友達と一緒に露天商の手伝いをして小遣いを稼いでいた。夕方、暗くなってきたので帰ろうという話になり、友達と別れたところまでは分かっている。そこから先が途切れる。
失踪したのは、ケネディ大統領暗殺の翌日だった。世界中の新聞の一面はそちらで埋まっていた。地元紙は少年失踪を報じたが、扱いは大きくなかった。約2000人の住民と警察官が捜索に加わり、市場周辺から荒れ地まで探した。何も出なかった。ジョンの父パトリックと母シーラは、息子の写真を持って何年も歩き回ることになる。
12歳の誕生日から4日後
キース・ベネットは1952年6月12日生まれ。1964年6月16日、12歳の誕生日から4日後の夜に消えた。母のウィニーがビンゴに出かけるので、キースは近くのロングサイトに住む祖母の家に泊まりに行くことになっていた。ウィニーは途中まで一緒に歩き、大通りを渡らせてから別れた。そこから祖母の家までは、子どもの足でも数分の距離だ。
キースは強い近視で、分厚い眼鏡をかけていた。眼鏡が見つかれば手がかりになるはずだった。見つからなかった。ウィニー・ジョンソンはこの日の別れ際を、亡くなるまで何百回も語り直すことになる。あと少し一緒に歩いていれば、と。
クリスマス翌日の移動遊園地
1964年12月26日、ボクシング・デー。レスリー・アン・ダウニー、10歳。マンチェスターのアンコーツに来ていた移動遊園地に出かけた。友達と一緒だったが、乗り物のそばで別れ、そのまま帰らなかった。クリスマスの翌日で、街は人であふれていた。目撃証言は集まったが、どれも噛み合わなかった。母アン・ウェストは以後、この事件の遺族としてもっとも激しく、もっとも公然と声を上げ続ける人物になる。
この時点で、マンチェスターの東側で1年半のうちに4人の子どもと若者が消えていた。だが警察は、それらを一つの事件として結びつけていない。年齢も性別も場所も、消え方もバラバラに見えたからだ。連続性が見えないというのは、後知恵で責めるのが簡単な話でもある。1960年代の捜査には、犯罪データベースも広域の照合体制も、ほとんど存在しなかった。
1965年10月6日、義弟が見てしまった夜
崩れ方は突然だった。1965年10月6日の夜、二人はハタスリー(ハイド地区の新興公営住宅地)のウォードル・ブルック・アヴェニュー16番地に、17歳のエドワード・エヴァンズを連れ帰る。マンチェスター中央駅で声をかけられた青年だった。
その場に、ヒンドリーの妹モリーンの夫であるデイヴィッド・スミス(当時17歳)が呼ばれていた。ブレイディはスミスを「仲間」として引き込もうとしていたらしい。スミスは居間で、目の前で起きたことを見てしまう。エヴァンズは斧で頭を殴られ、電気コードで絞められて死亡した。
そのあとが異様だ。血だらけの部屋を、三人で片付けた。遺体は毛布で包まれ、二階に運ばれた。スミスは「明日また来る」と言って、朝方ようやく家に帰された。帰り道、彼はドライバーを一本、上着に忍ばせていたという。もう一度あの家に呼ばれたら自分も殺されると思ったからだ。
夜明けの電話ボックス
家に着いたスミスは、妻のモリーンを起こして事情を話した。二人は近所の公衆電話ボックスまで行き、10月7日の午前6時10分に警察へ通報した。この通報がなければ、事件はさらに長く続いていた可能性が高い。
警察の動きも語り草になっている。ウォードル・ブルック・アヴェニュー16番地に最初に近づいたのはボブ・タルボット警視で、彼はパン屋の白い上着を借りて配達員のふりをして裏口に回った。ドアを開けたのはヒンドリーだった。二階の寝室には、鍵のかかった扉と、その向こうに毛布で包まれた遺体があった。ブレイディはその日のうちに逮捕され、ヒンドリーは10月11日に逮捕された。
彼女は当初「私は何も知らない、犬の世話をさせてほしい」という態度を崩さなかったという。
お祈りの本にはさまっていた鍵
家宅捜索で押収された物のなかに、写真のアルバムと、大量のスナップ写真があった。荒野で撮られたものが多い。ある一枚に、ヒンドリーが犬を連れてしゃがみ込んでいる構図があった。捜査員はこの写真の背景の地形に注目する。
決定打は別のところから出た。ヒンドリーの持ち物のなかにあった祈祷書の背に、手荷物一時預かり所の引換券が隠されていた。1965年10月15日、マンチェスター中央駅の預かり所から、二つのスーツケースが出てきた。中には犯行に関わる写真と、録音テープが入っていた。テープは約16分。レスリー・アン・ダウニーに関わるものだった。中身については、ここでは書かない。書くべきではない。
法廷でそれが再生されたとき、傍聴席で耐えられなくなった人間が何人も出たという事実だけで、性質は十分に伝わる。
荒野が返した二人
写真と証言をもとに、警察はサドルワース・ムーアの捜索に入った。10月の高地は寒く、風が強い。警察官が横一列に並び、棒で泥炭を突きながら進む地道な作業が続いた。
1965年10月10日、レスリー・アン・ダウニーの遺体が発見される。10月21日、ジョン・キルブライドの遺体が発見された。二人とも、写真に写っていた地形を手がかりに掘り当てられている。ポーリン・リードとキース・ベネットについては、この段階では二人が関与を認めなかったため、そもそも捜索の対象に入らなかった。ここが後々まで尾を引く。
首吊り台が消えた年に捕まった二人
タイミングの話をしておきたい。イギリスでは1965年11月8日、死刑廃止法(正確には殺人罪に対する死刑を5年間停止する法律)が成立した。ブレイディとヒンドリーが逮捕された、ちょうど一か月後だ。
つまりこの二人は、イギリスで最後に絞首刑になる可能性があった世代の、ぎりぎり外側に落ちた。この偶然が、事件の受け止められ方をゆがめた。死刑復活論者にとって、二人は格好の象徴になった。「こういう連中がいるから死刑が必要なんだ」という主張の顔として、その後何十年も引き合いに出され続ける。逆に廃止論者にとっては、避けて通れない最悪のケースになった。
事件が単なる犯罪報道を超えて、国全体の制度論に組み込まれていったのはこのせいだ。
チェスター、1966年春――防弾ガラスの向こうの二人
裁判は1966年4月19日、チェスター巡回裁判所で始まった。裁判長はフェントン・アトキンソン判事。訴追側は法務総裁のサー・エルウィン・ジョーンズが自ら率いた。弁護はブレイディにエムリン・フーソン勅選弁護士、ヒンドリーにゴッドフリー・ハイルパーン勅選弁護士。被告席は防弾の遮蔽で囲われた。傍聴希望者が押し寄せ、報道陣は国外からも集まった。
起訴されたのはエヴァンズ、ダウニー、キルブライドの3件。二人とも全面否認した。ブレイディは証言台に8時間以上立ち、エヴァンズを斧で殴ったことは認めたうえで、死因は絞殺だと言い張るような答え方をした。ヒンドリーは6時間立ち、被害者の埋葬場所については何も知らないと繰り返した。
検察側の主要証人が抱えていた爆弾
裁判の最大の弱点は、主要証人であるデイヴィッド・スミスだった。彼は公判前に日曜紙と契約を結んでいた。有罪判決が出れば1000ポンド、そこに至るまで週20ポンドと宿泊の手配。金額だけ見れば大きくないが、証人が判決の結果に経済的利害を持っていたことになる。
アトキンソン判事はこれを「司法の進行に対する重大な妨害」と厳しく批判した。弁護側は当然、スミスの信用性を徹底的に叩いた。それでも評決は覆らなかった。物証が多すぎたからだ。写真、テープ、遺体の発見場所、二人の筆跡による「計画」のメモ。証人一人の信用問題では埋まらない差があった。
5月6日、判決
1966年5月6日、陪審は2時間ほどで評決に達した。ブレイディはエヴァンズ、ダウニー、キルブライドの3件で有罪。ヒンドリーはエヴァンズとダウニーの2件で有罪、キルブライドについては殺害を知りながらブレイディをかくまった罪で有罪となった。
量刑は、ブレイディが3件の終身刑(併科)。ヒンドリーは2件の終身刑と、かくまいの罪で7年(併科)。死刑がなくなったばかりの国で、これが最も重い刑だった。アトキンソン判事は判決言い渡しで、二人を「きわめて堕落した加虐的な殺人者」と評している。裁判は14日間、実質的な審理としては短い部類だった。
なぜヒンドリーは「英国で最も憎まれた女」になったのか
判決後、注目はブレイディよりヒンドリーに集まった。これは冷静に見ると不均衡な現象だ。有罪となった件数はブレイディのほうが多い。にもかかわらず、大衆紙が一面に載せ続けたのはヒンドリーの顔だった。
理由はいくつか重なっている。まず、女性が子どもの殺害に関わったという事実が、当時のイギリス社会の「母性」観を正面から殴った。次に、彼女には母親の顔をした共犯者としての役割があった。子どもが警戒しない相手として、車を運転する女性がどれほど有効だったか、報道は繰り返し強調した。そして三つ目に、あの逮捕時のマグショットがある。金髪を膨らませ、無表情でカメラをまっすぐ見ている一枚。
あの写真は事件のロゴマークのように使い回された。事件を知らない世代でも、あの顔だけは知っている、という状態が作られた。
あのマグショットが一人歩きした
1995年、美術家のマーカス・ハーヴィーが、そのマグショットを幼児の手形の型で再現した縦横約2.7メートル×3.4メートルの巨大な絵を制作する。作品名は《マイラ》。1997年9月から12月にかけて、ロンドンの王立芸術院で開かれた「センセーション」展に出品された。
会場は荒れた。初日の9月18日、二人の芸術家がそれぞれインクと卵を投げつけた。作品は修復されアクリル板の背後に掛け直された。王立芸術院の会員4人が抗議して辞任した。キース・ベネットの母ウィニー・ジョンソンは撤去を求めた。皮肉なことに、ヒンドリー自身も獄中から展示に反対する手紙を書いている。展覧会には約30万人が入った。
この一件は「マグショットの引用は批評か消費か」という論争の教科書的な事例になった。ハーヴィー側の言い分は、あの写真の図像としての力そのものを主題にしたというもの。反対側の言い分は、遺族が生きている事件を素材にした時点でアウトだというもの。どちらの理屈も筋は通っていて、だから30年近く決着していない。作品は現在も個人蔵として存在し、近年また公開の機会があった。
刑務所の中の36年、鍵の型と脱走計画
ヒンドリーはホロウェイ刑務所に収監された。1970年代前半、彼女は刑務官パトリシア・ケアンズと関係を持ち、二人で脱走を計画する。鍵の型を石鹸に取り、複製を作るところまで進んだ。計画は非番の警察官が偶然、公園で石鹸の型を持った人物を見つけたことから発覚したと伝えられている。ケアンズは6年の実刑を受けた。
この脱走未遂は、後年の仮釈放論議に致命的な影を落とす。「更生した」という主張をするたびに、この件が持ち出されたからだ。一方でヒンドリーは獄中で学位を取り、カトリックに戻り、模範囚として振る舞った。この二面性をどう評価するかで、イギリスの世論は真っ二つに割れ続けた。
ロングフォード卿という、たった一人の擁護者
ヒンドリーの釈放をもっとも強く主張し続けたのが、貴族院議員のロングフォード卿だった。彼は刑務所を訪ね、彼女は変わったと公言し、そのたびに大衆紙から袋叩きにされた。街で罵倒され、卵を投げられたこともある。
ロングフォードの主張は、宗教的な赦しの思想と、量刑は政治家の人気取りで決めるべきではないという法哲学が混ざったものだった。実際、彼が突いていた制度上の問題は本物だ。当時のイギリスでは、終身刑の受刑者が最低何年服役するか(タリフ)を、最終的に内務大臣という政治家が決めていた。世論が沸騰すれば、刑期は伸びる。ロングフォードはそこを批判していた。
ただし世間は彼を「子ども殺しの味方をする変わり者の貴族」としか見なかった。彼の孤立ぶりは2006年のテレビドラマの題材にもなっている。
刑期はどこで決まるのか――タリフ引き上げの連鎖
ヒンドリーのタリフは段階的に引き上げられていった。当初は25年程度と伝えられていた。1982年に大法官府側が25年を追認。1985年、内務大臣レオン・ブリタンがこれを30年に引き上げる。この背景にはサッチャー首相の「この二人はどちらも釈放されるべきではないと思う」という意向があったとされる。
1990年、内務大臣デイヴィッド・ワディントンがついに「終身は終身」の全期間拘禁命令を出す。だがヒンドリー本人にそれが正式に伝えられたのは1994年、貴族院が「受刑者にタリフを通知しなければならない」と判断した後だった。自分がいつ出られるのか知らないまま何年も服役していたことになる。ヒンドリーは1997年から2000年にかけて三度、この決定を争った。
1997年の高等法院、1998年の控訴院、2000年3月の貴族院。いずれも敗れた。
1986年、荒野に戻った女
事態を動かしたのは、被害者の母親の手紙だった。1986年11月、ウィニー・ジョンソンはヒンドリーに宛てて手紙を書いた。息子がどこにいるのか教えてほしい、と。
1986年12月16日、ヒンドリーは警察の護衛付きで、21年ぶりにサドルワース・ムーアに戻った。ヘリコプターが飛び、報道陣が遠巻きに撮影した。彼女は場所を特定できなかった。そして1987年2月10日、ヒンドリーは5件すべてへの関与を正式に認める。これは判決から21年後の自白だ。同年、ブレイディも同様に認めた。
なぜこのタイミングだったのか。ヒンドリー側の説明は「良心」だった。批判者の説明は「仮釈放に有利になると考えたから」だった。1987年4月にはロングフォード卿が改めて釈放を訴えている。どちらが本当かは、本人にしか分からない。ただ結果として、この自白が一人の遺体を家族のもとに返した。
1987年7月1日、泥炭の90センチ下
1987年7月1日、ポーリン・リードの遺体がサドルワース・ムーアで発見された。地表から約3フィート、90センチほどの深さ。泥炭の土壌は酸素が少なく、遺体の保存状態は24年たっていたにしては良好だったと報告されている。母のジョーン・リードは娘の埋葬をようやく行うことができた。
同じ1987年12月8日、ブレイディも警察に伴われて荒野に出た。彼はキース・ベネットの埋葬地を示せると主張した。示さなかった。あるいは示せなかった。地形は20年以上で変わる。泥炭は動く。道路の付け替えもあった。本人が本当に覚えていなかった可能性も、覚えていて言わなかった可能性も、両方ある。
キース・ベネットだけが見つからない
1986年から1987年にかけての大規模捜索では、のべ数千時間が投入された。地中レーダー、遺体探索犬、地質学者の助言、衛星画像の解析。手は尽くされたと言っていい。それでも出てこなかった。
サドルワース・ムーアの泥炭は、深いところでは数メートルに達する。水を含んで流動し、季節ごとに表面の形が変わる。小さな骨は移動する。掘る範囲は数平方キロメートル単位になる。物理的に、これはとんでもなく難しい捜索なんだよな。グレーター・マンチェスター警察は正式な地上捜索を2009年に打ち切ったが、事件そのものは今も未解決の殺人事件として扱われ、有力な情報が出れば動く体制は維持されている。
ウィニー・ジョンソンという母の半世紀
ウィニー・ジョンソンは1933年生まれ。息子が消えた1964年から、亡くなる2012年まで、48年間ずっと探し続けた。荒野に自分で通った。ブレイディに何十通も手紙を書いた。返事はほとんど来なかった。DVDに自分のメッセージを吹き込んで送ったこともある。
彼女は「キリスト教式の埋葬をしてやりたいだけだ」と言い続けた。復讐でも真相究明でもなく、埋葬。その一点だった。2012年8月、彼女はがんのためホスピスで亡くなった。78歳。家族に看取られたと報じられている。彼女の弁護士ジョン・エインリーは「ウィニーは何十年も休まず戦った。キースが見つかるという希望を最後まで捨てなかった」と語った。
皮肉なことに、彼女の死の直後、ブレイディが自身の精神保健アドボケイトに埋葬地の手がかりを伝えたのではないかという疑いが浮上し、警察が捜査に入った。決定的なものは出なかった。彼女には間に合わなかった。
弟アランが引き継いだもの
キースの弟アラン・ベネットは、兄の失踪当時まだ幼児だった。彼は成人してから兄の捜索を引き継いだ。荒野の地形図を読み込み、当時の航空写真を集め、独自に踏査を続けている。母の死後、彼は「母のために、そして兄のために、この戦いを続ける」と述べた。
遺族が捜査の主体にならざるを得ないというのは、それ自体が異様な状況だ。だがイギリスでは、この構図が半世紀続いている。アラン・ベネットの活動は、単なる私的な執念というより、公的機関が撤退したあとに残された穴を埋める作業になってしまっている。
2002年11月と2017年5月、二つの死
マイラ・ヒンドリーは2002年11月15日、ウエスト・サフォーク病院で死亡した。60歳。死因は気管支肺炎。獄中36年だった。火葬をめぐって騒動が起きる。地元の葬儀業者が次々に引き受けを拒否し、20社以上が断ったと報じられた。最終的に火葬は行われたが、遺灰の扱いも揉め、公表されるまでに時間がかかった。
イアン・ブレイディは2017年5月15日、リヴァプール近郊のアッシュワース病院で死亡した。79歳。慢性の肺疾患だった。彼は1985年に精神科の高度保安病院に移送されて以降、そこで生涯を終えている。1999年からは食事を拒否し、経管栄養を受けながら「死なせてほしい」と法廷で争ったが、認められなかった。
死後も揉めた。彼は遺灰をサドルワース・ムーアに撒くことを望んだとされ、裁判所はこれを明確に禁じた。葬儀で流す音楽の希望も退けられた。最終的に、2017年10月下旬に極秘裏に火葬が行われ、遺灰は海に投棄された。誰も墓を作らせなかった。二人とも、この国に痕跡を残すことを許されなかったんだよな。
2022年秋、「見つかった」という報せ
2022年9月末、話が急に動いた。著述家で独自調査を続けていたラッセル・エドワーズが、地質学者と組んでサドルワース・ムーアで土壌調査を行い、ある地点から人骨とみられるものを発見したと発表したのだ。彼の説明では、上顎の一部、複数の歯(正しい位置関係で並んだ臼歯を含む)、脂肪組織、布片が見つかったという。カルシウム濃度が異常に高い地点だった、とも語られた。
10月1日、グレーター・マンチェスター警察が現場に入った。テントが張られ、法人類学者が投入された。ニュースは世界中に流れた。日本語のブログやニュースサイトでもこの件は大きく取り上げられ、ロンドン在住のライターが現地の空気を伝える記事を書いたりもしている。
そして10月7日、警察は捜索の終了を発表する。担当のシェリル・ヒューズ主任警部の言葉は短かった。「ここがキース・ベネットの埋葬地であるという証拠は見つからなかった」。人骨は確認されなかった。エドワーズは自説を撤回しなかったが、警察の結論は変わっていない。その後、警察の判断に対する批判も出て、警察側は捜索の妥当性を説明する場面もあった。
なお、エドワーズという人物は以前、切り裂きジャック事件で「ショールのDNAから犯人を特定した」と主張して大きな論争を呼んだ経歴がある。この経歴が、彼の主張への評価を最初から二分させた。「熱意ある独立研究者」と見るか、「センセーショナルな主張を繰り返す人物」と見るか。この分裂自体が、事件をめぐる情報環境の縮図でもある。
作品化をめぐる、終わらない揉め事
この事件は何度も映像化・書籍化されてきた。1967年、劇作家のエムリン・ウィリアムズが『ビヨンド・ビリーフ』を発表。裁判記録と取材をもとに小説的な手法で再構成したノンフィクションで、当時から「読み物にしていいのか」という批判を浴びた。この批判の構図は、以後ずっと繰り返される。
2006年5月14日と15日、ITVが2部構成のドラマ『シー・ノー・イーヴル ムーアズ殺人事件』を放送した。ショーン・ハリスがブレイディ、マキシン・ピークがヒンドリーを演じ、物語の視点は妹夫婦であるモリーンとデイヴィッド・スミスに置かれた。加害者の内面を描かず、巻き込まれた側から見るという選択だ。遺族の協力を得て制作されたが、ブレイディは放送前に法的措置をちらつかせて抗議した。
初回の視聴者は約530万人。翌2007年、英国アカデミー賞テレビ部門の最優秀ドラマ・シリーズを受賞した。
同じ2006年には、ロングフォード卿とヒンドリーの関係を描いたテレビ映画も作られている。加害者本人ではなく、その周囲にいた人間を主役に据える。これがこの事件の作品化における、ほぼ唯一の許容ラインになっている。
デイヴィッド・スミスという、もう一人の被害者
通報者のデイヴィッド・スミスの人生は、この事件で完全に壊れた。彼は裁判で主要証人になったが、日曜紙との契約が明るみに出たことで「金で証言した男」という評判がついた。世間は彼を共犯者だと決めつけ、家族は近所から石を投げられ、引っ越しを繰り返した。妻モリーンとは後に離婚している。
彼は1969年に別の男を刺す事件を起こし、3年の実刑を受けた。この件が「やっぱりあいつも同類だ」という偏見をさらに強化した。だが冷静に見れば、彼の通報がなければ捜査は始まっていない。エヴァンズの死が発覚しなければ、家宅捜索も、写真も、預かり所の券も出てこなかった。5人の被害者のうち3人が見つからないままだった可能性すらある。
彼は晩年、自分の側から見た事件の記録を残そうとした。2012年に亡くなっている。加害者でも遺族でもない立場の人間が、事件によってどれだけ削られるか。この事件は、その見本のような例を残した。
遺族たちが背負わされたもの
レスリー・アン・ダウニーの母アン・ウェストは、遺族のなかでもっとも激しく戦った人物だ。彼女はヒンドリーの仮釈放に反対する運動の先頭に立ち、テレビに出て、議員に手紙を書き、自分の言葉で本も出した。「レスリーのために」と題されたその本は、遺族が自ら語ることの重さを示した記録として読まれている。彼女は最期まで、ヒンドリーが自分より先に死ぬことを望んでいたと語っていた。
ジョン・キルブライドの家族は、逆にほとんど公の場に出なかった。父パトリックは息子の死後、酒に溺れたと伝えられる。弟のダニーは大人になってから発言するようになったが、家族全体としては沈黙を選んだ。
ポーリン・リードの母ジョーンは、娘が見つかった1987年まで、家出だと言われ続けた24年間を生きた。彼女は遺体確認の際、24年前に見送ったときの服の切れ端を見せられている。この三つの家族の対応の違い、戦う、黙る、待つ、というそれぞれの選び方は、同じ事件の遺族でも背負い方はまったく違うということを示している。どれが正しいという話ではない。
掲示板と考察界隈が繰り返してきた議論
日本語圏でもこの事件は根強く語られてきた。海外事件を扱うまとめサイト、匿名掲示板の過去ログ、動画の考察チャンネル、個人ブログの長文記事。だいたい同じ論点が周回している。
一つ目、「ヒンドリーは支配されていたのか、対等だったのか」。彼女の弁護側は一貫して「ブレイディに心理的に支配されていた」という筋を主張した。ネット上でもこの説を支持する声は多い。ただし反証は強い。1987年の自白内容、被害者を車に乗せる役割、荒野への往復を運転していたという事実。「支配されていた」だけでは説明できない主体性が記録に残っている。判決はその点を明確に否定した。
二つ目、「デイヴィッド・スミスは本当に無関係だったのか」。これは今もくすぶる。彼は現場にいたし、片付けを手伝った。だが彼を訴追しないという判断は当時の検察が下したもので、その後の再検討でも覆っていない。掲示板ではしばしば「司法取引だ」と語られるが、当時のイギリスにアメリカ型の司法取引制度はない。制度の違いを踏まえずに語られている典型例だ。
三つ目、「被害者はもっと多いのではないか」。5人以外にも該当しそうな未解決失踪がある、という説はずっとある。警察は複数の未解決事件について照合を行ったが、立件に足る証拠は出ていない。ブレイディ自身がほのめかしたこともあるが、彼のほのめかしは注目を集めるための道具だった可能性が高い、というのが捜査関係者の見方だ。
四つ目、「キースはそもそもムーアにいないのでは」。これは近年増えている説だ。埋葬地が別の場所である、あるいは道路工事で移動させられた、という主張。ただしこれを裏づける物証は今のところない。二人の自白と写真は一貫してムーアを指している。
なぜ半世紀以上、この事件は語られ続けるのか
理由を分解すると、たぶん四つある。
一つは、終わっていないこと。物語には結末が要る。この事件には、一人分の結末がない。人間の脳は未完了のものを忘れられないようにできている。
二つは、加害者の組み合わせの異常さ。男女のペア、しかも片方が若い女性という構図は、当時のイギリス社会の想像力の外にあった。想像の外にあるものは、繰り返し語ることでしか処理できない。
三つは、景観。サドルワース・ムーアという場所そのものが、この事件の登場人物になってしまった。荒野、霧、泥炭。イギリスのゴシック文学が何百年もかけて作ってきた「荒れ地」のイメージに、現実の事件がぴったりはまってしまった。だから語りやすいし、絵になる。ここは、事件の消費されやすさの原因でもある。
四つは、制度との絡み。死刑廃止の直後に起き、終身刑のタリフ制度を揺さぶり、精神保健法の運用を問い、報道倫理と芸術表現の境界を問うた。イギリスの刑事司法が何かを変えるたびに、この事件が引き合いに出される。事件が制度の記憶装置になってしまっている。
荒野は、まだ答えを返していない
今年で、キース・ベネットが消えてから62年になる。母は帰ってこないまま亡くなり、加害者二人も死んだ。荒野だけが残っている。
グレーター・マンチェスター警察は、今も情報提供を受け付けている。地形は変わり続け、掘るべき場所は特定できていない。だが「もう探さない」とは誰も言っていない。弟のアランは今日も地図を広げている。それがこの事件の、いちばん正確な現在地なんだと思う。
「連続殺人」という言葉が生まれる前に起きた連続殺人
ここからは、事実の並べ直しではなく、この事件を今の目で見たときに何が見えるかを書いておきたい。
まず、捜査史としての評価から。1963年から1964年にかけて、マンチェスターの東側で4人の子どもと若者が消えた。これが連続事件として認識されなかったことを、当時の警察の怠慢と切り捨てるのは簡単だ。だが実際に難しかった。当時のイギリスの警察組織は自治体ごとに分断されていて、隣接する管轄をまたぐ失踪の照合は事実上できなかった。全国的な行方不明者データベースが整備されるのは、ずっと後の話だ。
加えて、被害者の年齢も性別も背景もバラバラで、犯人像を絞る手がかりにならなかった。10歳の女児、12歳の男児二人、16歳の少女、17歳の青年。これを一本の線でつなぐ発想が、そもそも当時の犯罪学の語彙になかった。「連続殺人」という概念が英語圏で一般化するのは1970年代以降だ。この事件は、その概念が生まれる前に起きた連続殺人だった、という言い方ができる。
だからこそ、事件の解決が「捜査の成果」ではなく「一人の若者の通報」によってもたらされたことの意味は大きい。デイヴィッド・スミスが夜明けに公衆電話まで走らなければ、二人はおそらく捕まっていない。1965年10月6日の夜、ブレイディがスミスを引き込もうとしたことが、唯一にして最大の失策だった。犯罪が破綻するのは、たいてい共犯者を増やそうとしたときだ。この事件はその教科書でもある。
加害者の訴えが、制度を良くしてしまうことがある
次に、司法制度の側から。ヒンドリーのタリフが25年から30年、そして全期間拘禁へと引き上げられていった経緯は、イギリスの量刑制度の弱点をむき出しにした。刑期の実質的な決定権を政治家が握っていれば、世論の温度が刑期を決めることになる。同じ罪でも、話題になった事件のほうが長く服役する。これは法の下の平等という原則から見て、かなり具合が悪い。
実際この構造は後に見直され、終身刑の最低服役期間の決定は司法の手に移された。ヒンドリーの訴訟は全部負けたが、彼女が突いた問題は制度を動かした。加害者の訴えが制度を良くすることがある、という居心地の悪い事実は、飲み込んでおいたほうがいい。
ロングフォード卿についても、もう少し公平に見ておきたい。彼は世間から嘲笑され、事件の道化のように扱われた。だが彼が言っていたのは「彼女は無実だ」ではなく「刑期は感情で決めるべきではない」だった。この二つは全然違う。前者なら遺族への冒涜だが、後者は法治国家の原則そのものだ。ただし彼は、その原則を主張する相手として最悪のケースを選んでしまった。原則論は、いちばん共感されない事例で試されると負ける。
ここには、社会運動全般に通じる苦い教訓がある。
一枚のマグショットが「悪」の抽象画になるまで
報道と表現の問題も、整理しておく。この事件は「マグショットが事件の記号になる」現象の最初期の例だ。ヒンドリーのあの一枚は、60年間、事件を語るたびに使われ続けた。使われるたびに、写真は事件から少しずつ離れて、「悪」の抽象的な図像になっていった。マーカス・ハーヴィーの絵が刺さったのは、まさにその抽象化のプロセスを可視化してしまったからだ。彼はあの写真を幼児の手形で描いた。
つまり「あなたたちが消費しているこのアイコンは、子どもの死でできている」と示した。批判者が怒ったのは、その指摘が正しすぎたからかもしれない。同時に、遺族にとっては指摘の正しさなど何の慰めにもならない。この二つは両立する。芸術が社会に届く瞬間と、遺族が傷つく瞬間は、しばしば同じ瞬間だ。
日本語圏での受容についても触れておきたい。日本でこの事件が語られるとき、ほぼ必ず「英国で最も憎まれた女」という枕詞がつく。この枕詞は便利だが、事件の実像を歪める。ヒンドリーに注目が集中する語り方は、イギリスの大衆紙が半世紀かけて作った枠組みをそのまま輸入したものだ。有罪件数で言えばブレイディのほうが多く、主導していたのも彼だという認定が判決の前提にある。
にもかかわらず、日本語のまとめ記事の多くはヒンドリー中心で書かれる。海外事件の紹介記事が、現地メディアのバイアスごと翻訳されてしまう典型例だと思う。事件を追いかけるなら、この構造は意識しておいたほうがいい。
2022年の騒動が残したものについても、はっきりさせておきたい。あの一週間、世界中のメディアが「ついにキース・ベネットが見つかった」と報じた。結果は空振りだった。振り回されたのは遺族だ。弟のアランは、報道が先行したことに戸惑いを表明している。独立した調査者が動くこと自体は否定されるべきではない。だが、警察の検証を経る前に大々的に発表することの代償を、誰が払うのか。
この事件では、その代償はいつも家族が払っている。次に同じことが起きたとき、メディアが同じ動き方をしないという保証はない。むしろSNSの速度を考えれば、状況は悪化している可能性が高い。
泥炭が希望を保たせ、同じ泥炭が捜索を阻む
泥炭という土壌についても、一度きちんと押さえておきたい。サドルワース・ムーアの地下は、数千年かけて堆積した植物遺体の層だ。強い酸性で酸素が乏しく、微生物の活動が鈍い。だから有機物が腐りにくい。北欧の湿地から二千年前の人体が原形をとどめて出てくるのは、これと同じ仕組みだ。1987年にポーリン・リードが発見されたとき、24年たっていたのに衣服も遺体も想定より保存されていたのは、この土壌のおかげだった。
つまり、キース・ベネットが同じ荒野にいるなら、彼もまだそこに「ある」可能性が高い。これが希望を保たせる根拠であり、同時にいちばん残酷な部分でもある。腐って消えたわけではないのに、見つけられない。捜索が半世紀続いたのは、単なる感情の問題ではなく、地質学的に「まだ見つかるはず」だからなんだよな。
一方で、同じ泥炭が捜索を阻んでもいる。水を大量に含んだ層はゆっくり流れる。地表の起伏は数十年で変わる。1960年代に目印にした岩や小川の位置が、今も同じとは限らない。埋められた対象が小さければ小さいほど、層のなかで沈み、横にずれる。地中レーダーは泥炭のような含水層では反射がぼやけて、深いところの判別が難しい。捜索範囲は数平方キロメートル。総当たりで掘れば環境破壊になるし、そもそも人手が足りない。
技術が進歩すれば解決する、という話でもない。ここ数十年で探索技術は確実に上がったのに、結果が出ていないという事実がそれを示している。
事件が終わるとは、最後の一人が家に帰ることだ
最後に、なぜ「見つからない」ということがこれほど重いのかを考えたい。遺体が見つからないと、法的には死亡が確定していても、家族の側では時間が止まる。心理学では曖昧な喪失と呼ばれる状態だ。葬式ができない、墓がない、命日が確定しない。喪の作業には手続きが要るのに、その手続きに必要な物がない。ウィニー・ジョンソンが48年間求め続けたのは、真相でも復讐でもなく「埋葬」だった。
この一点に、この事件の本質が全部詰まっていると思う。
サドルワース・ムーアは、今日も同じように風が吹いている。ハイカーが歩き、羊が草を食んでいる。地図の上では、ただの美しい高地だ。ただ、その泥炭のどこかに、12歳の少年が眠っている。それが分かっていて、場所だけが分からない。60年以上、イギリスはその状態と一緒に暮らしてきた。事件が終わるというのは、犯人が捕まることでも、死ぬことでもない。最後の一人が家に帰ることだ。まだ、その日は来ていない。
