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名古屋市親子3人行方不明事件――血痕、空港駐車場、消えた四国旅行

四国へ行くはずだった親子

1989年7月26日午後、名古屋市千種区に住む30歳の女性と3歳の長男の行方が分からなくなった。その後、親子と同居していた34歳の男性も姿を消した。消えたのは、合わせて3人だ。

女性と長男は同日、名古屋市東区にある父親の職場を訪れた。そこで、翌27日の夜から4、5日間、四国で開かれる自然食関係の催しへ行く予定だと話している。同居男性が女性のワゴン車を運転し、現地ではキャンプをするという説明だった。

ところが、3人はその催しには参加していなかった。家族へ伝えられた「四国旅行」は、最初から実行されなかったのか、途中で計画が変わったのか。それとも、失踪を説明するために使われたのか。事件の最初の謎は、まずここにある。

27日と28日に残った男性の動き

27日、同居男性は女性宅の大家へ電話し、家賃を振り込みたいと話した。大家は、すぐには口座番号を確認できないと答えている。すると男性は「親子は先に旅行へ出発した。自分もこれから追いかける」と説明したという。

一方で、男性は28日ごろまで女性宅に一人でいるところを近隣住民に目撃されていた。ここは覚えておいてほしい。親子が本当に先に出発したのか、その説明を裏づける目撃や移動記録は残っていない。

室内で見つかった血痕

女性宅の二階六畳間からは血痕が見つかった。畳には約20センチ四方、押し入れの布団には約2センチ四方の染みが残る。血液型はB型で女性と一致した。ただ試料の状態が悪く、本人の血だとは断定できなかった。

血痕は事件性を疑わせる手掛かりになる。ただ、量も、付着した経緯も、時期もはっきりしないから、血痕だけで何が起きたかを組み立て直せない。まして、特定の人物の関与を示す材料にはならない。

空港近くに残されたワゴン車

同年10月10日、女性のワゴン車が名古屋空港近くの駐車場に預けられたままになっていることが分かった。車内にはキャンプ用品、旅行用の食料を入れるために譲り受けた発泡スチロール、女性のサンダルなどが残されていた。

ガソリンはほぼ空。最後の給油は7月20日になる。女性は普段ほとんど運転しなかったため、燃料は失踪前後に消費された可能性がある。

移動範囲は最大約130キロ圏内と推定された。関係箇所の調査やタイヤに付いた土の分析も行われたが、決定的な手掛かりにはつながらなかった。線はそこで切れたわけだ。

駐車場の担当者は、こう証言した。7月29日に男性が一人で車を預け、8月10日までの料金9,000円を払い、「福岡へ行く」と話したという。ただし、この男性が同居男性本人だったかどうかは確認されていない。

飛行機と宗教団体の線

警察は国内線の旅客名簿も調べたが、3人とみられる搭乗者は確認できなかった。女性と同居男性が宗教的な神秘体験に関心を持ち、過去にオウム真理教と接触したことがあったため、その関連も調べられたが、手掛かりは得られなかった。

また、失踪前には女性と同居男性の考え方に違いが生じ、女性が両親に同居解消を考えていると話していたという。背景としては大きい。ただ、失踪との因果も、誰かの関与も、これだけでは証明できない。

三つの空白

この事件には、少なくとも三つの空白が残る。親子は7月26日のどこで、誰と行動したのか。ワゴン車は給油後、空港へ置かれるまでどこを走ったのか。そして7月29日に車を預けた男性は、一体誰だったのか。

室内の血痕、実行されなかった旅行、空港駐車場の車。どれも事件の輪郭を示しそうでいて、互いを一本の線で結ばない。確認できる事実と推測の間が広すぎて、特定の人物を犯人扱いする根拠にはならないんだよな。

手掛かりだけが多い

この事件の不気味さは、三人がただ消えたという一点だけにあるわけじゃない。旅行の説明、大家への電話、室内の血痕、使い切られた燃料、空港近くのワゴン車。具体的な痕跡が残りながら、それぞれの意味が確定しない点にある。

手掛かりは多い。なのに、三人の行方を直接示す証拠だけが抜け落ちている。その食い違いが、事件をここまで長引かせた。ここからが、細部の話になる。

隣の家は、朝になっても静かだった

城山町の借家の隣には、ニュージーランド人の夫婦が住んでいた。科乃さんとは親しかったらしい。七月二十六日の夜、科乃さんが顔を出して、明日から四国へ行くと告げている。塩の祭りという催しを見に行く。三歳のダライくんも連れていく。

ワゴン車は長尾さんが運転してくれるし、向こうではキャンプをする。玄関先での短い立ち話だ。夫婦の記憶では、科乃さんは旅支度の途中らしく、旅そのものを楽しみにしている口ぶりだったという。

翌二十七日の朝、夫婦は違和感を覚えている。隣から物音ひとつしない。三歳児のいる家というのは、朝がうるさいものだ。その音がまるごと消えていた。出発は二十七日の夜のはずなのに、家はもう空っぽになったように感じられたと夫婦は振り返っている。

二十八日の昼ごろ、夫婦は長尾さんを見かけた。一人で家にいる。夫婦は、あなたの運転で四国へ行ったんじゃないの、と声をかけている。男は、後で合流すると答えたそうだ。

この受け答えが、事件のなかで一番ねじれた場所にある。もともとは二十七日の夜に三人そろって出発する予定で、家族にも隣人にもその日程が伝えられていた。二十七日の電話では、親子は先に出たことになっている。二十八日の昼、男は一人で家にいて、後で合流すると言う。

三つの説明が、どれも噛み合わない。先に出たというなら、親子はどうやって四国へ向かったのか。ワゴン車は家の前にあり、運転できるのは同居していた男のほうだった。科乃さんはほとんど運転しない人だったから、この一点だけでも説明が要る。

隣人の証言が重いのは二人が外国人だったからでもあって、近所付き合いの薄い相手なら、隣の生活音を毎朝聞き分けたりはしない。夫婦は科乃さんの語学力を頼りにしていて、日常的な行き来があったとされている。だから朝の静けさを覚えていた。

外国人の証言という点も、当時の捜査では扱いが難しかったと思われる。細かいニュアンスを日本語の調書へ落とす作業には、必ず通訳が挟まる。それでも夫婦の話は日付も時間帯もぶれておらず、三十六年のあいだ記事から記事へ、ほぼ同じ形で引き継がれてきた。

朝の静けさに、玄関の前に停まったままの車。夫婦が覚えていた細部は、どれも派手さのない生活の断片ばかりで、作り話にしては地味すぎるぶん、証言としての値打ちがある。

隣人の証言がなければ、二十七日の朝から二十八日の昼までの家の様子は完全な空白になっていた。日本人の隣家ならここまで細かく覚えていたかどうかは分からない。異国で暮らす者どうしの、少し濃い付き合いが記録を残した格好になる。

証言は、ほかにもあった。近所の住人が、二十七日から二十八日にかけて家の前にワゴン車が停まったままだったと話していたという記録が、後年の紹介記事に出てくる。裏付けは弱い。ただ、車が二十九日まで家の近くにあったのなら、空港へ運ばれた時刻との辻褄は合ってしまう。

辻褄は合う。合うだけで、確かめる手立てがない。目撃した住人の名前も、話を聞いた記者の名前も、いまのネット上には一行も残されていないのが実情になる。

カレンダーの七月に、知らない字が並んでいた

捜索願が出たあと、警察は家のなかを見ている。壁に掛けてあったカレンダーが、この事件でいちばん薄気味の悪い遺留物になった。七月のページにだけ、アルファベットの走り書きが入っていた。

七月二十日の枠に、オランダ語らしき単語。七月二十六日の枠には、vluchtの綴り。オランダ語で「飛行」、文脈によっては「逃走」「脱出」も指す言葉になる。同じ枠に、VET、RWPといった、意味の取れない記号が並んでいた。

七月三十日の枠には、vertrekと書かれていた。出発、出港という意味だ。その横に「2・PM」、さらに「AiRPorT」。大文字と小文字が不規則に混ざった、妙な書き方だった。四国へキャンプに行くという家族向けの説明と、この三語の並びは、どうやっても同じ絵の上に重ならない。

さらに厄介なことが分かる。筆跡鑑定にかけたところ、カレンダーの文字は科乃さんの字ではなかった。元夫がオランダ人だから、この家にオランダ語が転がっていること自体は少しもおかしくない。書いたのが本人でないとなると、話は一段変わってくる。

では誰が書いたのか。何のために書いたのか。自分の予定を書いたのか、それとも誰かに見せるための書き置きだったのか。三十六年経っても、ここは一文字も埋まっていない。

日付のずれも引っかかる。カレンダーの「出発」は七月三十日で、ワゴン車が空港近くの駐車場に入ったのは七月二十九日。前日に車を置き、翌日の午後二時に空港へ現れるという段取りなら、二つの記録はぴたりと噛み合ってしまう。正直、通ってしまうから余計に気味が悪い。

ネット上では、VETとRWPの解読に挑んだ書き込みが山ほど積み上がった。空港コードだという読み、オランダ語の略語だという読み、地名のイニシャルだという読み。どれも決め手を欠いたまま、二十年以上のあいだ繰り返されてきた。

オランダ語のvluchtという語は、日常の会話では航空便そのものを指す使い方もする。空港の掲示板に並ぶ「便」の意味だ。だとすると七月二十六日の枠に書かれた一語と、三十日の枠に並んだ「出発」「午後二時」「空港」は、同じ一本の旅程表の断片として読めてしまう。

大家が受けた電話は、やけに急いでいた

家賃の件で電話をよこしたのは、長尾さんだった。二十七日か二十八日。大家は、口座番号がすぐには分からないと答えている。男は、明日また電話すると返している。

そのときのやり取りを、大家はよく覚えていた。声が急いでいる。落ち着いて世間話をするような相手ではなかった。二人は先に旅行へ出発した、自分もこれから追いかける。用件だけ押し込むようにそう言い残して、電話は切れたという。

家賃を払うために電話をかける。これ自体は、逃げる人間の行動として不自然に見える。踏み倒して消えたほうが楽なのに、わざわざ振込先を聞いてくる。この矛盾が、のちの考察をずっと二つに割ってきた。

きちんとした性格だから払おうとしたのか。それとも、しばらく誰にも家へ来てほしくなくて、催促の種になりそうな面倒を先に潰しておこうとしたのか。大家が口座番号を出せなかったせいで、振込は結局なされていないし、約束された「明日の電話」もかかってこなかった。

大家という立場の人間が証人になった点も、この事件の輪郭をはっきりさせた。借家の契約者は科乃さんで、同居人が家賃の話をしてくること自体が異例になる。だから大家は、この一本の電話を日付ごと記憶していた。

払おうとしていたのは八月分の家賃だ。翌月の家賃を前もって押さえようとする動きは、四、五日で帰る旅行の直前にとる行動としては少し早い。しばらく家を空ける前提で段取りを組んでいたようにも見えるし、単に律儀なだけにも見える。この一本の電話は、どちらの読みにも使えてしまう。

九千円を前払いした男は「福岡へ行く」と言った

名古屋空港の近くには、旅行者向けの民間駐車場がいくつも並んでいた。空港の敷地はそう広くない。長期で車を置きたい客は、周辺の業者に預けて送迎してもらうのが当たり前の手順だった。科乃さんのワゴン車が見つかったのも、そういう一軒になる。

係員の記憶はわりあい細かい。七月二十九日の午後三時ごろ、三十代とみられる男が一人で車を乗り入れ、八月十日までの料金を前払いしている。九千円。そのとき男は、福岡へ行くと話したという。

福岡。四国ではない。行き先の申告が、家族と隣人に伝えられた予定とまるきり食い違う。ただ、駐車場の係員に本当の目的地を告げる義務など誰にもないから、適当に答えただけという読みも成り立つ。

問題は、この男が誰だったかが確定していないことだ。係員は人相をある程度覚えていた。それでも本人確認までは取れていない。同居していた男だったのか、まったくの別人だったのか。ここが埋まらない限り、追える足取りは二十九日の午後三時で切れたままになる。

十月十日まで、誰もこの車に気づかなかった。八月十日で契約は切れている。期限の切れた車が二か月近く置きっぱなしになっていたことを業者が不審に思い、照会したことで、ようやく警察の手元へつながった。九月十一日に捜索願が出てから、ひと月が過ぎていた。

車内の様子も、係員の言い分と合わない。福岡へ飛ぶ人間が、キャンプ用品と発泡スチロールの箱と女性用のサンダルを積んだまま空港へ乗りつける理由がない。荷物は四、五日の旅支度そのもので、置き去りにされた形だった。

当時の駐車場に、いまのような防犯カメラはほとんど付いていない。誰が車を置き、どこへ歩いていったかを映像で確かめる手段が、根本から存在していなかった時代になる。残ったのは係員の記憶だけで、その記憶は七月二十九日の午後三時で止まっている。

高速道路の料金所にも、ガソリンスタンドにも、行動を裏づける記録は残されていなかったようだ。最後の給油が七月二十日という一点だけを頼りに、警察は走行距離を逆算するしかなかった。百三十キロという推定値は、そうやって捻り出された数字になる。

燃費の見積もりも怪しい。同じワゴン車でも、荷物を積んで山道を走るのと、平坦な国道を流すのとでは、消費するガソリンの量がまるで違ってくる。百三十キロは上限の数字だ。実際の行動範囲は、その半分だった可能性も残る。

半分なら六十五キロ。その円のなかには、知多半島も渥美の入口も岐阜の山も収まってくる。まあ、捜索範囲が狭まったところで、掘るべき場所が減るわけでもなかった。

父親が異変に気づいたのは、生活費の日だった

科乃さんの生活は、父親の仕送りで回っていた。会社を経営していた父親が、家賃も暮らしの金もほぼ全部出していたという。娘は毎月、生活費を受け取りに来る習慣だった。

七月二十六日の午後三時半、科乃さんは名古屋市東区の父親の職場へ顔を出している。ダライくんも一緒だった。四国行きの話をしたのは、このときになる。明日の夜から四泊か五泊。父親にとっては、いつもの娘の顔だった。

八月の末、父親は不審に思いはじめる。生活費を取りに来ない。電話をかけても出ないし、家へ行っても人がいない。旅行は四、五日のはずで、日数はとっくに過ぎていた。

それでも警察へ行くまでに、さらに日数がかかっている。届け出を出したのは九月十一日だ。娘は三十歳の大人で、自然食だの環境問題だのに熱中していて、若い男と暮らしていた。ふらりと長旅に出たきり連絡を寄こさないことも、あり得ると思いたかったのかもしれない。

この十日ほどの空白は、事件を語るとき必ず引っかかる部分になる。八月末に届けが出ていたら。血痕の状態も、車が見つかる時期も、違っていた可能性はある。実際の血痕検出は十一月十八日まで下った。畳に染みてから、四か月近く経っている。

父親についてはもう一つ、地元でよく語られる話がある。テレビの未解決事件番組に出て、娘と孫の情報提供を訴えたことがあるという。司会だった板東英二と面識があったらしい。ただ、その放送回を特定できた人はまだいない。

父親はその後も、四国の自然食関係の集まりを自分の足で回っている。娘が口にした催しを突き止めれば、何か出てくるかもしれない。そう考えて動いた親の調査で、三人がどの会場にも現れていなかったことがはっきりした。

経営者としての蓄えを、娘と孫を探すために使ったという話も伝わっている。私立探偵を入れ、心当たりの土地をしらみつぶしに回り、写真を刷って配った。どこまでが事実か確かめる手立てはないものの、地元では長く語られてきた話になる。

台所に三十四万円、引き出しにパスポート

家のなかは、荒らされていなかった。争った形跡もない。物が倒れていたとか、ガラスが割れていたとか、そういう分かりやすい痕跡はゼロだった。

一方で、あるべきものが揃いすぎていた。まず現金が三十四万円。へそくりとして家に置いてあったものが、手つかずで残った。科乃さんのパスポートも家にあった。国際結婚をして、オランダから戻ってきたばかりの女性が、身分証の親玉にあたる書類を置いたまま消えている。

車のなかにも、生活の匂いが残った。キャンプ用品に、旅行の食料を冷やすために人から譲ってもらった発泡スチロールの箱、それに科乃さんのサンダル。四、五日の旅に出るつもりで積み込まれた荷物が、そのまま空港の隣で二か月以上も真夏の日に焼かれていたことになる。

自分の意思で消えた人間は、金を持っていく。子連れならなおさらだ。三歳児を抱えて三十四万円を置き去りにする理由を、うまく説明できた人はいない。ここが、自発的な失踪という読みがいつも折れる場所になっている。

家財も動いていなかった。引っ越しの気配もない。夜逃げなら真っ先に消えるはずの通帳や印鑑の類についても、持ち出された様子は伝わってこない。生活が途中で止まったまま、家だけが取り残されていた。

三十四万円という金額も、いまの感覚より重い。一九八九年の大卒初任給はおよそ十六万円で、二か月分の給料に当たる現金が家に残されていたことになる。三歳の子を抱えて身を隠すつもりなら、真っ先に握って出るはずの額だった。

三歳という年齢も、この事件をいっそう苦いものにしている。泣き声も足音も、人目を引かずに移動させるのが難しい年頃だ。生きてどこかへ連れていかれたのなら、三十六年のあいだに誰か一人くらい違和感を覚えて通報していてもおかしくない。

ダライくんは、今年で四十歳になる。生きていれば、という但し書きが必ず付く年齢だ。三歳で消えた子の顔を知っている人間が、年々減っていくという事情も、この事件を薄くしてきた要因になる。写真はもう古い。

三歳の顔は変わる。公開された写真は幼児のもので、成長した姿を推定した似顔絵が出回った形跡もない。行方不明の子の顔を年齢に合わせて描き直す取り組みが日本で広まるのは、ずっと後の話になる。

二人が出会ったのは、キャンプ場だった

長尾宣卓さんは、一九八九年の初め、キャンプ場で科乃さんと知り合ったとされている。偶然の出会いだったらしい。大学は中退していて、デザイン関係の仕事をしていた時期があった。失踪当時は無職。

意気投合したきっかけは自然食と環境保護で、当時の日本では、エコロジーという言葉がまだ新しかった。有機農法、無添加、自然塩、共同体。そういう話題を本気で語り合える相手に出会える場所は、八〇年代の日本ではかなり限られていた。

同居がはじまったのは三月になる。出会ってから二、三か月しか経っていない。三十歳の女性と三歳の子どもが暮らす家に、三十四歳の無職の男が転がり込んだ格好だった。生活費は父親が出している。傍から見れば、ずいぶん不安定な構図だよね。

七月の半ば、科乃さんは父親に相談を持ちかけている。長尾さんとうまくいっていない。プロポーズされたけれど受けるつもりはない。一週間くらいしたら出ていってもらう。そう話していたという。

この「一週間くらい」が失踪のちょうど十日ほど前に当たり、同居解消の期限と四国旅行の日程が、同じ週のなかで重なっていた。旅行そのものが、別れを切り出す前の最後の埋め合わせだったのではないか。そう読む人は多い。

長尾さんの側の事情は、ほとんど伝わっていない。実家や友人関係についての証言が表に出ていないため、人物像が輪郭だけで止まっている。無職で、デザインをやっていて、自然食に詳しい三十四歳。ネットで語られる長尾像は、この三行から一歩も進んでいない。

無職の三十四歳という肩書きが、当時どう見られたかも押さえておきたい。バブルの真っ只中で、働き口はいくらでもあった時期になる。そのなかで定職を持たずに他人の家に住んでいる男は、周囲の目には相当に浮いて映ったはずだ。科乃さんの父親が同居を歓迎しなかった理由も、そのあたりにある。

それでも科乃さんの側から見れば、話の合う相手が家にいる状態は心強かったはずだ。帰国したばかりで友人も少なく、三歳児を一人で抱えていた。自然食と環境の話を共通言語にできる人間が、そう簡単に見つかる時代でもなかった。

当時の科乃さんは、ひどく孤立している。帰国から一年と少し、父親の仕送りで暮らす別居中の母親という立場は、相談できる相手をずいぶん狭くしていたはずだ。長尾さんに出ていってもらうという決断を、父親にしか打ち明けていないのも引っかかる。

オランダから帰ってきた母子

科乃さんはオランダ人男性と結婚し、ダライくんを産んでいる。ルメイヤスという姓は、その婚姻によるものだ。夫婦仲が悪くなり、一九八八年四月に帰国した。正式な離婚は、まだ成立していなかった。

科乃さんは別居中の妻という立場のまま、子どもを連れて日本で暮らしていたことになる。いまなら国際的な子の連れ去りとして扱われかねない状況だ。日本がハーグ条約に加盟するのは二〇一四年で、一九八九年の時点では、子を連れ帰ったきり音信を絶つケースを縛る仕組みが事実上なかった。

捜査線のひとつとして、元夫側の関与を疑う声も出た。子を取り戻しに来たのではないか、という筋書きになる。ただ、出入国の記録にも、国内線の旅客名簿にも、それを裏づけるものは出ていない。パスポートが家に残っていた点も、この線を弱くした。

ダライという名前も、当時の空気をよく映している。チベット仏教への関心、東洋思想、自然回帰。八〇年代の日本にはそうした流れが確かにあって、科乃さんの本棚に宗教書が並んでいたのも、その延長線上にある。

帰国してからの一年あまりは、生活の基盤が父親の仕送りしかない状態だった。離婚の手続きは進まず、仕事もなく、子どもは三歳。そこへ、同じ価値観の言葉で話しかけてくる男が現れる。距離が縮むのが早かった理由を、そこに見る人もいる。

国際離婚の手続きが重かった点も見逃せない。相手国の法律と日本の戸籍の両方を通さなければ、紙の上の決着はつかない。弁護士費用も時間もかかる。別居のまま一年以上宙ぶらりんになっていた状態が、この母子の暮らしを不安定にしていた。

「塩の祭り」を、誰も特定できなかった

科乃さんが口にした行き先は「四国の塩の祭り」だった。自然食関係の催しだという説明もついている。父親も隣人も、そう聞いていた。ところが警察と家族がいくら当たっても、その催しの会場に三人は現れていない。

そもそも、どの催しを指していたのかすら分からない。四国で塩にまつわる行事といえば、香川県坂出市の塩まつりがよく知られている。ただし坂出の祭りは例年五月で、七月末の日程とは季節が合わない。

ちなみに、背景を知っておくとこの一語の重みが変わる。一九七二年、塩業近代化臨時措置法によって日本の塩田は全廃された。以後、市販の塩はイオン交換膜でつくった精製塩に一本化される。これに反発した消費者団体が食用塩調査会をつくり、自然塩復活運動が始まった。

伊豆大島に製塩研究所ができ、一九七七年には国産の天日海塩が形になる。一九八五年には塩専売法が改正されて、試験塩を使った加工食品の販売が解禁された。運動の事業部門が法人化されたのが一九八九年。科乃さんが消えた年だ。

だから「塩の祭り」は、荒唐無稽な作り話ではない。自然食の世界にいる人間にとって、塩は運動の看板そのものだった。生産者と消費者が顔を合わせる小さな集まりが、全国のあちこちで開かれていた時期にも重なっている。名前も日程も記録に残らない規模の会合なら、いくらでもあった。

この行き先は、二通りに読める。本当に行くつもりだった小さな集まりが、記録に残らないまま歴史から消えた。あるいは、誰かが家族を納得させるために、それらしい単語をどこかから借りてきた。どちらの読みも、いまだに潰しきれていない。

自然食の運動と宗教的な共同体は、当時かなり近い場所にあった。食べ物を変えることが生き方を変えることと結びつき、その先に修行や共同生活が置かれる。科乃さんの本棚に宗教書が並び、キャンプ場で同好の士と出会い、四国の催しへ向かおうとしていた流れは、その地続きの世界で起きている。

畳の二十センチは、鑑定に一年早かった

血痕が見つかったのは十一月十八日。二階の六畳間、畳に二十センチ四方。押し入れの布団には二センチ四方の染みがあった。量にして牛乳瓶一本ぶん、およそ二百ミリリットルと見積もられている。

二百ミリという数字は、微妙な線だ。致命傷から流れる量としては少ないし、鼻血や切り傷で出る量としては多い。成人の全血量は四リットルを超えるから、二百ミリ抜けただけでは、普通は命に関わらない。

ただし、床に染みた量は流れた量ではない。畳は吸う。拭き取った分、布団に移った分、乾いて飛んだ分がある。実際に流れた血がどれだけだったかは、染みの大きさからは逆算できない。だから警察も、事件性の断定には踏み切れなかった。

鑑定の壁は、もっと根本的なところにあった。血液型はB型で、科乃さんと一致する。日本人のB型はおよそ五人に一人だから、母集団を二割に絞る程度の情報にしかならない。しかも血痕は四か月近く経っていて、試料の状態が悪かった。

この年、日本の警察はちょうどDNA型鑑定の入口に立っていた。科学警察研究所で実用化の研究が進んだのが一九八九年。全国の科捜研へ機材を配備するよう指示が出たのは一九九二年四月で、宮城、東京、大阪、広島、福岡から順に入っている。

あの畳が採取された時期は、技術のほんの手前だった。採取が二、三年ずれていれば、誰の血かを特定できた可能性はある。二十センチ四方の染みは、日本の捜査技術が切り替わる直前に間に合わなかった証拠として、記録だけが残った形になる。

血痕がどう見つかったかも押さえておきたい。畳の表面を見ただけで分かる大きさの染みが残っていたのなら、拭き取りは徹底されていなかったことになる。逆に、拭いたうえで畳の内部へ染みたぶんが出てきたのなら、見た目の二十センチは実際より控えめな数字になる。どちらだったかは公表されていない。

当時の血液型鑑定は、血痕の劣化にきわめて弱い性質を持っていた。時間が経つほど型の判定が曖昧になり、微量の試料では結果そのものが出ないことも珍しくない。四か月放置された畳の染みから型が取れただけでも、当時としては上出来だった。

型が取れた意味は小さくない。少なくとも、その血が人間のものであり、B型の人物から出たものだという二点は押さえられたことになる。畳の下や壁面まで調べたかどうかは、公表された資料からは読み取れない。そこも空白のままだ。

報告されたのは二か所だけ。畳と、押し入れの布団。家具や壁や階段について何が調べられたのかは、三十六年経っても外へ出てきていない。分かっているのは、争った跡がなかったという一行だけになる。

一九九〇年一月二十六日、警察が名前を出した

事件が外へ出たのは、失踪からちょうど半年後だった。一九九〇年一月二十六日、警察が三人の失踪を発表する。氏名も年齢も公表された。単なる家出ではなく、事件の疑いがあると判断された証しになる。

当時の新聞記事は、宗教の部分を慎重に扱った。科乃さんと長尾さんが出入りしていた先は「宗教関係の団体」とだけ書かれ、教団名は伏せられている。まだ書ける段階ではなかった。

教団名が事実上の共通認識になるのは、もっと後の話になる。科乃さんの本棚には、オウム真理教の書籍とポスターが複数あった。三人が名古屋の道場へ出入りしていた点を警察が掴んでいたことも含め、のちの取材記事で明かされている。裏づけそのものは取れなかった。

その年、雑誌がこの事件を取り上げた。見出しに「第二の坂本弁護士事件か」と打たれていたという。坂本堤弁護士一家が消えたのは一九八九年十一月四日で、名古屋の三人が消えた三か月後に当たる。

順序を並べ直すと、当時の空気が分かる。七月、名古屋で母子と同居男性が消える。十一月、横浜で弁護士一家三人が消える。翌年一月、名古屋の件が公表される。一家がまるごと消えるという同じ形の失踪が、半年のうちに二度起きていた。

テレビが本格的に扱ったのは一九九五年らしい。テレビ朝日の『緊急生放送!謎の未解決事件大追跡』で、カレンダーのオランダ語と筆跡鑑定の件が紹介されたと伝わっている。地下鉄サリン事件の年。オウムという固有名詞が、全国の茶の間へ一気に入り込んだ年でもある。

この放送が、事件の語られ方を決めてしまった側面はある。カレンダーという絵になる小道具が全国に流れたことで、以後の紹介はほぼ必ずそこから入るようになった。血痕や駐車場よりも、オランダ語の三語のほうが人の記憶に残る。

警察が半年も公表を待った理由も、考えてみる値打ちがある。失踪した三人のうち一人が、事情を知っていそうな立場にいた。名前と顔を出せば、その一人に逃げる時間を与えかねない。裏取りが済むまで伏せたという読み方は、それなりに筋が通る。

同じ構図の失踪が、この国では何度か起きてきた。一九八七年には名古屋市港区で女子中学生が消え、二〇〇一年には広島県の世羅町で一家四人が姿を消している。どちらも家のなかに生活の痕跡が残ったまま、住人だけが抜き取られたような形になった。

共通点はもう一つある。どの事件も、失踪から捜索願が出るまでに日数が空き、現場が手つかずで保存されていなかった点だ。最初の数日が消えると、残るのは物証の残りかすだけになる。そこから先は、推理の領分になってしまう。

結局、時間が全部を食うわけだ。人の記憶も、畳の血も、タイヤの土も、日が経つほど値打ちが落ちていくのは同じだ。名古屋の件で言えば、届けが出た時点ですでに四十七日が過ぎていた。

名古屋空港は、当時まだ中部の玄関だった

いま名古屋空港と聞いて小牧を思い浮かべる人は、ずいぶん減った。中部国際空港が二〇〇五年二月に開港して以降、定期旅客便のほとんどは南の海上へ移っている。国際線は全廃。名称も「県営名古屋空港」に変わり、空港の種別まで格下げされた。

一九八九年は事情がまるで違う。あそこが中部圏の玄関だった。一九八六年七月に国内線の新ターミナルが完成したばかりで、旧ターミナルは国際線専用へ回されている。北海道から沖縄まで便が飛び、福岡行きも当然のように並んでいた。

敷地は名古屋市北区、小牧市、豊山町、春日井市の三市一町にまたがる。市街地のすぐ北側だ。千種区の城山町から車を出せば、混まない時間なら一時間かからずに着く。深夜なら、もっと短く済む。

空港側の駐車場が手狭だったため、周辺には民間の預かり業者が何軒も張りついていた。旅行者が長期で車を置き、帰りに引き取る。前払い制で、日数を申告して金を払うだけ。身分証の確認は緩かった。車を一台きれいに消すには、都合のいい仕組みでもある。

ガソリンの残りから、車の行動範囲は最大で百三十キロ圏内と推定された。名古屋を中心に百三十キロというと、東は浜松の先、西は琵琶湖を越えたあたり、北は白川郷の手前、南は志摩半島の突端まで入ってしまう。山も海も、隠せる場所は無数にある。

警察はタイヤに付着した土も調べている。土壌の成分から走った場所を絞り込む手法だ。関係しそうな場所を順に当たったものの、公表されている限り、決定的な一致は出ていない。百三十キロの円は、円のまま残った。

空港周辺の業者は、たいてい送迎の車を出していた。客を預かってターミナルまで送り、帰りは到着ロビーで拾う。その送迎に乗った記録が残っていれば話は早かったはずだが、当時の帳簿はそこまで細かくない。福岡行きの便は朝から夕方まで何本も飛んでいた。

旅客名簿を当たる作業も、当時は紙と電話が頼りだった。航空会社ごとに保管の仕方が違い、期間が過ぎれば処分されてしまう資料もある。三人らしき搭乗者が見つからなかったという結果を、名簿が完全だった前提で受け取るのは危うい。

偽名を使えば済む話でもある。当時の国内線に、身分証の提示を求める仕組みはなかった。名前を告げて金を払えば搭乗できた時代だから、名簿に三人の本名が載っていないこと自体は、何の証明にもならない。

偽名は使える。ただし三歳児を連れた大人二人という組み合わせは、地上職員の記憶に残りやすい。名簿に出なくても、人の目には引っかかったはずだという指摘は、当時から出ていた。

平成元年の夏に、ほかに何が起きていたか

一九八九年という年は、日本の空気がまるごと入れ替わった年だった。一月七日に昭和天皇が亡くなり、元号が平成に変わる。四月には消費税が三パーセントで導入された。世間の関心は、そちらに引っ張られていた。

夏はさらに慌ただしい。七月二十三日の参議院選挙で自民党が大敗し、社会党が第一党になる。宇野首相が辞意を表明した。三人が消えた七月二十六日は、その直後に当たる。新聞の一面は、連日の政局で埋まっていた。

同じ夏、世間を本当に震え上がらせていたのは別の事件だった。東京と埼玉の連続幼女誘拐殺人。八月に容疑者が浮上し、九月には自供が報じられる。幼い子どもが消えるという恐怖が、全国に広がっていた時期になる。

八月十七日には、容疑者のアジトを発見したという読売新聞の報道が出て、のちに誤報と分かった。報道の過熱ぶりを示す出来事だ。この年の十一月から、報道各社は被疑者を呼び捨てにするのをやめ、「容疑者」という呼称を使いはじめている。

経済はまだ上り坂に見えていた。十二月二十九日、日経平均が三万八千九百五十七円をつけて史上最高値になる。誰も、翌年からの転落を予想していなかった。地価も株価も上がり続ける前提で、世の中が回っていた。

そういう年の夏に、名古屋の片隅で三人が消えている。情報量の多すぎる年だ。全国紙の扱いが小さかったのも、半年後の公表まで表に出てこなかったのも、この騒がしさと無関係ではない。

地方紙の紙面事情も効いている。当時の愛知の新聞は、参院選と幼女殺害事件の続報で埋まっていた。行方不明者の記事は、事件性が確定していない段階では扱いが小さくなる。三人の名前が載ったのは、社会面の下のほうだった。

その夏、名古屋の街そのものが祭りの最中にあった。市制施行百周年を記念する世界デザイン博覧会が、七月十五日から十一月二十六日まで市内三会場で開かれている。最終的な入場者は約千五百十八万人。三人が消えた七月二十六日は、その開幕から十一日目に当たる。

デザイン関係の仕事をしていた男が同居していた家で、デザイン博の会期中に三人が消えた。偶然だとしても、出来すぎた並びではある。名古屋中が白鳥会場と名古屋城会場の話題で持ちきりだった時期に、千種区の一軒家から人が三人いなくなっていた。

博覧会の会期中、名古屋には全国から人が流れ込んでいた。宿も交通も混み合い、見慣れない顔が街を歩いていても誰も気に留めない時期になる。人が一人増えても減っても目立たない条件が、あの夏の名古屋には揃っていた。

教団の側にも動きがあった。オウム真理教が宗教法人の認証を受けたのは一九八九年八月で、三人が消えたひと月後に当たる。信者を増やすために各地で説明会を開き、道場を広げていた時期と、この事件の時期はきれいに重なってしまう。

ただ、重なるだけなんだよな。重なりを因果に変える材料が、三十六年経っても一枚も出てきていない。本棚の書籍と道場への出入り、そこから先へ踏み込んだ報道は結局現れなかった。

説は何本も立ったが、どれも途中で切れる

ここからが、説の話だ。まず語られてきたのが、同居していた男が関わっているという見方になる。ネット上ではこれが圧倒的に多い。プロポーズを断られ、一週間後には家を出ろと言われていた。動機があると読まれてきた。

この筋で語られるのは、二十六日の夜から二十七日の未明にかけて家のなかで何かが起き、二十八日から二十九日にかけて後始末が行われたという流れになる。車が空港近くに置かれたのは、その仕上げだった。血痕の位置も、男が一人で家に残っていたことも、この並びなら説明がつく。

ただし穴がある。男自身も三十六年、見つかっていない。逃げたなら、どこかで生活しなければならない。戸籍も保険も年金も使えない人間が、平成から令和にかけての日本で数十年生き延びるのは簡単な話ではない。遺体も一体として出ていない。

もう一つ、カレンダーの説明がつかない。筆跡が科乃さんのものでないなら、書いたのは同居していた男か、第三者ということになる。仮に男が書いたとして、出発の日付を三十日、場所を空港と書き残す意味が分からない。処分したければ、破って捨てれば済む。

二本目が、宗教団体の関与を疑う説になる。三人が道場へ出入りしていた点が確かめられている以上、避けて通れない線ではある。一九八九年のオウム真理教は、すでに坂本弁護士一家の件を起こす段階まで来ていた。

ただ、名古屋の三人が消えたのは七月で、坂本弁護士一家の件は十一月。時期が逆になる。組織として人を消す手口が固まる前の段階だったという反論が、そこで立つ。脱退を巡るトラブルがあったという証言も出ていない。

宗教の線では、ほかの共同体を挙げる声もあった。ヤマギシ会のように、農業と共同生活を掲げて全国に拠点を持つ組織の名前が出たこともある。自然食への関心が強い人間は、そういう場所にも足を運ぶからだ。こちらも裏づけはない。

三本目が、三人が自分の意思で消えたという説だ。どこかの共同体に入った、あるいは名前を捨てて生き直した。カレンダーの「出発」「空港」を、文字どおり計画の記録として読む立場になる。

これは金の一点で崩れる。三十四万円が家にあった。パスポートも家にあった。三歳児を抱えて、現金も身分証も置いたまま出ていく計画というのは、どう考えても成立しにくい。旅客名簿にも三人らしき名前はなかった。

四本目に、第三者が家に入ったという見方がある。三人とも被害者だったという筋だ。同居男性を犯人扱いする説がどれも途中で詰まるので、その裏返しとして出てきた読み方になる。

この説の弱いところは、二十八日の目撃だ。隣人は、二十八日の昼に長尾さんが一人でいるところを見ている。三人まとめて襲われたのなら、その時点で男が生きて家にいる理由がない。大家への電話も、二十七日に本人の声でかかっていた。

五本目が、金銭目的という見方になる。会社経営者の娘で、生活費は親が出している。結婚詐欺の類だったのではないか、という説だ。ただ、これも実際に動いた金が確認されていない。家の現金すら持ち出されていない。

どの説も、二つか三つの事実をきれいに説明したあとで、別の事実にぶつかって止まる。血痕とカレンダーと空港の車。この三つを同時に説明しきれた説は、いまだに出ていない。

遺体が一体も出ていないという一点が、すべての説を縛っている。百三十キロ圏内の山と海を全部掘り返すのは、現実には不可能だ。三十六年のあいだに土地の造成や道路工事は無数に行われてきたのに、それでも何も出てこなかった。

海という選択肢も残る。名古屋から百三十キロの円には、伊勢湾も三河湾も熊野灘の入口も入ってくる。車で運んで沖へ出せる港は、当時いくらでもあった。陸を掘り返しても出てこない理由を、そこに求める人は多い。

海は、痕跡を消す。漁協の関係者や船を持つ人間の協力がなければ難しいという反論もあるものの、真夏の深夜に小さな漁港から出る船を、誰かが見ているとも限らない。

七年経つと、書類の上では死んだことになる

日本の民法には、失踪宣告という仕組みがある。生死が七年分からない場合、利害関係人が家庭裁判所へ申し立てて、法律上は死んだものとして扱う手続きだ。普通失踪と呼ばれている。

申し立てられるのは配偶者や相続人など、利害関係のある人に限られる。不在者が最後に住んでいた場所を管轄する家裁へ出す。戸籍謄本、戸籍の附票、失踪を証する資料を添える。費用は収入印紙が八百円、官報の公告料が四千八百十六円ほど。

手続きには時間がかかる。裁判所の調査官が調べたうえで、官報に三か月以上公告して、生きているなら届け出るようにと呼びかける。それでも出てこなければ宣告が出る。全体で半年以上は見ておく必要がある。

普通失踪の場合、死亡とみなされる日は、生死が分からなくなってから七年が経った時点になる。この事件で言えば一九九六年の夏だ。相続が動き、戸籍が閉じられ、帳簿の上では話が終わる。

ただし、宣告は取り消せる。本人が生きて現れれば、申し立てによって宣告そのものが消える。相続された財産は原状回復が必要になり、使ってしまった分は現に残っている範囲で返すことになる。制度としては、戻ってくる前提もちゃんと残されている。

この事件で実際に失踪宣告が申し立てられたかどうかは、公表されていない。申立ては家族の判断にかかっていて、外から知りようがない。娘と孫を法律上死んだことにする書類に判を押せるかどうかは、制度の話というより気持ちの話になる。

同居していた男の側にも、当然ながら家族がいる。犯人扱いされ続ける息子を持った親が、どんな三十六年を過ごしたのかを書いた記事は見当たらない。三人とも行方不明者として届けが出ている以上、法律上の立場は同じはずだった。

名前の扱いも揺れてきた。記事によって表記が変わり、同居男性の名の読みすら定まっていない。事件そのものの呼び名も、親子三人行方不明事件だったり、母子と同居男性の失踪事件だったりする。検索に引っかかりにくい理由の一つだ。

呼び名がぶれると、情報も集まらない。同じ事件を追っている人間どうしが、別々の言葉で検索していれば出会えないからだ。三十六年ぶんの断片が一か所にまとまらない原因を、ここに見る人もいる。

行方不明者の扱い方も、この三十六年で変わった。警察は犯罪に巻き込まれた疑いのある人を特異行方不明者として区分し、一般の家出とは別枠で追う。届け出の名称自体も、かつての捜索願から行方不明者届へ改められた。

一九八九年当時、九月十一日に父親が出した書類は、あくまで捜索願にすぎない。三十歳の女性が子連れで長旅に出たという届け出を、その場で事件として立てる空気は薄かった。いまの制度なら、初動の重さが違っていた可能性はある。

当時の警察が抱えていた事情もある。愛知県警はこの年、幼女殺害事件の続報と参院選の警備に人を取られていた。家出の可能性が残る届け出に、初動から大人数を割くのは簡単ではない。血痕の検出が十一月までずれ込んだのも、その延長線上にある。

掲示板からYouTubeへ

この事件が全国区になったのは、新聞やテレビよりネットの力が大きい。二〇〇〇年代に入り、匿名掲示板の未解決事件スレッドで、日本各地の古い失踪事件が次々と掘り返されるようになった。名古屋の三人も、その流れのなかで再発見されている。

掲示板で好まれたのは、やはりカレンダーだった。オランダ語で書かれた「飛行」と「出発」。本人の字ではないという鑑定結果も出ている。暗号めいた「VET,RWP」。読み解こうとする書き込みが、何年にもわたって繰り返された。

そこからまとめサイトへ転載され、個人のブログで整理され、未解決事件を集めたデータベース系のサイトに項目が立つ。原典が何かを誰も書かないまま、細部だけが増殖していく。血痕の量が「大量の血痕」に膨らんだのも、この過程で起きたことだ。

二〇二〇年前後からは、動画の時代に入った。いわゆるゆっくり解説の形式で、この事件を扱った動画が何本も上がっている。「残されたメッセージの意味と犯人の正体」といった題がつき、数十万回再生されたものもある。

二〇二五年八月、弁護士向けのニュース媒体が、失踪から三十六年という切り口で長めの記事を出した。カレンダーの記述、オウム真理教への出入り、駐車場の証言まで一通り整理されていて、ネット上に散らばった断片を一度まとめ直した格好になる。テレビ局系のニュースサイトにも転載された。

増補されるたびに「宗教」の比重が上がってきたのも面白い。当時の新聞は団体名を伏せていた。ネットでは教団名のほうが先に来る。事件の顔つきが、三十年かけてじわじわ変わってきた。

その反面、原典に近い情報は減った。一九九〇年一月の発表記事を実際に読んだ人はほとんどいない。孫引きの孫引きが積み重なり、数字や日付が少しずつずれていく。この事件が「大量の血痕」で語られがちなのも、その結果になる。

失踪者三人の実名が、いまも検索でそのまま出てくる点にも触れておきたい。公開捜査として警察が氏名を出した以上、記録としては当然のことになる。ただ、同居していた男については、断定を避ける文言が付かないまま犯人扱いで書かれた記事も少なくない。念のため書いておくと、裁かれた人は一人もいない。

城山町の坂と、いまの駐車場

城山町は、千種区のなかでも古い住宅地にあたる。末森城の跡地に城山八幡宮が建ち、昭和初期の昭和塾堂が丘の上に残った。坂が多く、木が多い。名古屋の中心から地下鉄で十分ほどの距離にありながら、妙に静かな一帯だ。

現行の町名は一丁目から三丁目まで。住居表示は今も実施されていない。戦前からの区画がそのまま生き残っている場所で、道は細く、あちこちで曲がっている。一軒家の借家が点在するような環境だった。

あの借家がどうなったかは、公にされていない。三十六年のあいだに建て替えも進んでいて、場所を特定して見に行けるような状態ではないと考えたほうがいい。心霊スポット扱いの人間が押しかけずに済んでいるのは、そのおかげでもある。

坂の途中に立つと、この一帯が捜索に向かない土地だと分かる。塀と生垣で視界が切れ、どの家も敷地のなかが見えない。夜になれば人通りは絶える。真夏の深夜に車へ何かを積み込んだとしても、誰の目にも留まらなかった可能性は十分にある。

城山八幡宮の境内を抜けると、末森城の空堀の跡がそのまま残っているのが分かる。戦国期の土塁を削って住宅が建ち、その隙間に借家が挟まっていた土地だ。事件を知らずに歩けば、名古屋でいちばん落ち着いた住宅地にしか見えない。

最寄りは地下鉄東山線の覚王山か池下になる。どちらの駅からも坂を上がっていく道筋で、栄までは十分そこそこという便利さだ。都心から近いのに人の目が届かないという性格は、一九八九年のころから変わっていない。

坂を下れば繁華街。上がれば静寂。この落差が、城山という土地の性格をそのまま表していて、事件を語るときの背景としてもよく引かれてきた。

名古屋空港のほうは、行けば分かる。旅客ターミナルは小さくなり、いまはフジドリームエアラインズの便が発着するだけになった。航空自衛隊の基地と三菱重工の工場が隣接し、あいち航空ミュージアムも建っている。観光で来る人のほうが多い。

ターミナルの前に立つと、規模の落差に驚く。一九八九年には国際線まで抱えていた空港が、いまは一日の発着を数えられるほどになった。あの夏、旅客名簿を一枚ずつめくって三人の名前を探した捜査員がいたことを思い出させるものは、建物のどこにも残っていない。

届け出は、まだ生きている。愛知県警は行方不明者の情報提供をいまも受け付けていて、三十六年前の三人分の届けが取り下げられた話は伝わっていない。書類の上では、三人はまだ探されている途中の人になる。

探されている。その一語だけが、三十六年のあいだ動かずに残った。畳の染みも、空港の車も、カレンダーの三語も、どれも答えへは届かないまま、記録の棚に並んでいる。

周辺の民間駐車場も、かつての規模ではない。中部国際空港へ客が移ったのだから当然だ。一九八九年の夏、旅行者の車が何十台も並んでいた場所には、いま別の建物が建っていたり、月極の区画になっていたりする。

七月二十九日の午後三時。三十代の男が九千円を払って、福岡へ行くと言い残した場所。その舗装は、とっくに張り替えられている。

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