一九八五年の夏、南カリフォルニアの家々から、ある習慣が消えた。窓を開けて寝る、というだけの、当たり前すぎて誰も意識していなかった習慣だ。
エアコンなんて贅沢品だった時代の話じゃない。あの年の八月、ロサンゼルスの一部は華氏一〇八度まで上がった。摂氏に直せば四二度前後。夜になっても家の中は蒸し風呂で、それでも人々は窓を釘で打ちつけ、サッシの溝に木の棒を差し込み、鍵をかけた。汗だくで眠れない夜を選んだ。当時、ある警官がぶっきらぼうにこう言っている。汗の海で目を覚ますほうが、血の海で目を覚ますよりましだろう、と。
その夏、街が恐れていたのは一人の男だった。新聞は彼を「ナイト・ストーカー」と呼んだ。まだ名前も顔も分かっていなかった。分かっていたのは、そいつが深夜に鍵のかかっていない窓や戸から入ってくること、そして寝ている人間を襲うことだけ。狙われる人に共通点はなかった。金持ちも、年金暮らしも、移民の家族も、子どももいた。共通点があるとすれば、その夜たまたま戸締まりが甘かった、それだけだった。
これは、その男が街をどう変えたかの話だ。
- 一九八四年六月、まだ誰も気づいていなかった最初の一件
- 九か月の沈黙、そして三月十七日の夜
- 郡境が捜査を切り刻んでいた
- 「笑われた若造」と「伝説の刑事」
- 「バレー・インベーダー」から「ナイト・ストーカー」へ
- 五芒星、悪魔、そして時代の空気
- 七月、最悪の月
- 錠前が消えた夏
- サンフランシスコ、そして市長の失言
- 十三歳の少年が書き留めた数字
- 三分間で名前が出た
- 「お前が誰だか、もう分かっている」
- 八月三十一日、ハバード・ストリート
- 証言――ミッション・ビエホの女性
- 証言――六歳だった少女
- 証言――ハバード・ストリートの人たち
- 証言――追いかけた側の代償
- 十五か月の裁判
- 評決の日
- 獄中結婚という後日談
- 誤報、噂、そして語り継がれた「別バージョン」
- 世論と、その後の議論
- 一九八〇年代カリフォルニアという舞台
- 数十年後に生きている街の記憶
- この事件が、いまも夏になると思い出される理由
一九八四年六月、まだ誰も気づいていなかった最初の一件
始まりは、誰も事件だと結びつけなかった一件だった。
一九八四年六月二十八日の午後、ロサンゼルス北東部グラッセルパークの集合住宅で、一人の息子が母親の部屋を訪ねた。玄関の鍵が開いている。居間の窓の網戸が外れて、床に落ちている。部屋の中は荒らされていた。奥の寝室で、七十九歳の母親が死んでいた。喉が耳から耳まで切り裂かれていた。
その年のロサンゼルスは、夏季オリンピックを目前に控えて浮かれていた。街じゅうに旗が並び、世界中から人が来る準備で忙しかった。高齢の女性が自宅で殺される事件は、この街では悲しいことに珍しくもなかった。捜査員は外された網戸から指紋を採取した。だが照合する相手がいなかった。当時のアメリカで、犯人の当たりがついていない状態で採った指紋一枚から人物を割り出すのは、ほぼ不可能に近い作業だったからだ。
何百万枚ものカードを人間の目で一枚ずつ見比べるしかない。事実上、その指紋はただの紙切れとして保管庫に眠った。
一年二か月後、この指紋が持つ意味を捜査員たちは思い知ることになる。だがこのときは、ただの未解決事件の一つだった。
九か月の沈黙、そして三月十七日の夜
奇妙なことに、その後しばらく何も起きなかった。九か月近い空白がある。
再開したのは一九八五年三月十七日、日曜の夜だった。ロサンゼルス郡東部のローズミードで、二十二歳の女性が自宅のガレージに車を入れたところを撃たれた。彼女はとっさに手にした鍵束を顔の前にかざした。弾はその鍵に当たって逸れた。文字通り、鍵束が命を救った。彼女は死んだふりをしてやり過ごし、生き延びた。家の中にいた三十四歳の同居人は助からなかった。
そして同じ夜、そこから車で十数分のモンテレーパークで、三十歳の女性が自分の車から引きずり出されて路上で撃たれた。通りかかった警官が発見したときはまだ息があったが、救急車の到着前に亡くなった。
一晩に二人が死に、一人が生き延びた。しかも一件は住宅侵入、もう一件は路上での襲撃。手口がまるで違う。だからこそ、当時の捜査は混乱した。だが生き延びた女性の証言から、初めて犯人の人相が浮かび上がった。長い巻き毛、飛び出た目、隙間の空いた歯。この人相書きが、以後一年近くカリフォルニアじゅうに貼り出されることになる。
ここから三月二十七日にはウィッティアの一軒家で夫婦が殺され、五月十四日にはモンテレーパークで六十五歳の男性が撃たれた。この男性は瀕死の状態で電話までたどり着き、緊急通報番号をダイヤルした。その一本の電話が、隣の部屋にいた妻の命を救ったと後に報じられている。五月二十九日にはモンロビアで八十代の姉妹が鈍器で襲われ、一人は生き延び、一人は七月に亡くなった。この現場に、口紅で描かれた五芒星が残されていた。
被害者の太ももに一つ、寝室の壁にもう一つ。
郡境が捜査を切り刻んでいた
ここで一つ、この事件を長引かせた構造的な問題に触れておきたい。
犯行現場は、ローズミード、モンテレーパーク、ウィッティア、モンロビア、アーケイディア、グレンデール、サンバレー、ノースリッジ、ダイヤモンドバー。地図上ではどれもロサンゼルス都市圏だが、警察の管轄で言えばバラバラだ。市警がある街もあれば、郡保安官事務所が受け持つ地域もある。さらに後にはオレンジ郡、そしてサンフランシスコまで広がった。
一九八〇年代半ばのアメリカには、事件情報を横断的に照合する仕組みがまだ十分になかった。同じ犯人の仕業かもしれない、と誰かが気づいて電話をかけない限り、隣の街の殺人は隣の街の事件のままだ。しかもこの犯人は、撃つこともあれば刺すこともあり、鈍器で殴ることもあった。強姦することもあれば、金品だけ持って出ていくこともあった。子どもを連れ去って解放したこともある。
専門家の言葉を借りれば「どのプロファイルにも当てはまらない」。連続犯の典型からあまりにも外れていた。
だから、一人の若い刑事が「これは全部同じ男だ」と言い出したとき、周りは本気にしなかった。
「笑われた若造」と「伝説の刑事」
ロサンゼルス郡保安官事務所殺人課のジル・カリーヨは、当時、部署で最年少の刑事だった。イーストロサンゼルス育ち。人当たりがよく、記者にも気さくに応じるので報道陣には評判がよかったが、殺人課では四年目の新人扱いだ。
そのカリーヨが、一九八五年四月の時点で「これは一人の性犯罪者による連続犯行だ」と主張し始めた。根拠は、大学で受けた性犯罪の講義だった。彼はカリフォルニア州立大学ロサンゼルス校で、ある教授の性犯罪論のクラスを取っていた。そこで学んだ知識と、手元にある人相書きを突き合わせて、彼は子どもの誘拐事件と住宅侵入殺人が同じ線の上に並ぶと考えた。
言うまでもなく、笑われた。当時の常識では、連続殺人犯というのはもっと一貫した「型」を持っているものだった。同じ凶器、同じタイプの被害者、同じ流儀。カリーヨが言っているのはその常識の真逆だ。
風向きが変わったのは、フランク・サレルノがカリーヨの説に乗ったときだった。サレルノは一九六一年に保安官事務所に入り、殺人課で十年以上やっていたベテランだ。何より、一九七七年から七八年にかけて南カリフォルニアを恐怖に陥れた「ヒルサイド・ストラングラー」事件の主任捜査員の一人だった。あの事件を解いた男が言うなら、と周囲の空気が変わった。カリーヨは後年、こう振り返っている。
信じてもらうのは本当に大変で、サレルノが「これは連続殺人だ」と言うまで誰も納得しなかった。経験のある人間が言った途端、みんな信じ始めたんだ、と。
サレルノはヒルサイド・ストラングラー事件の反省も持ち込んだ。あの捜査の最大の欠陥は、情報が捜査員の間で共有されなかったことだ。だから今回は、複数の機関のあいだで情報を突き合わせ、ほぼ毎日連絡を取り、定期的に合同ブリーフィングを開く体制を作った。当時としてはかなり先進的なやり方だった。
七月十一日、モンテレーパーク市警のジョン・エルダー署長が、満員の市議会議場で市民に呼びかけている。この事件を解くには警察と市民の両方の力がいる。あなたたちが、外にいる我々の目になってほしい。同じ日、エルダーとロサンゼルス郡保安官シャーマン・ブロックが電話で緊迫したやりとりをし、複数機関による合同捜査本部の構想が固まった。ただしこの捜査本部には、中央の司令部も単一の指揮官も置かれなかった。
そこが後々まで尾を引く。
「バレー・インベーダー」から「ナイト・ストーカー」へ
犯人がまだ無名だった頃、報道各社はそれぞれ勝手な呼び名を使っていた。
ロサンゼルス・タイムズは「バレー・インベーダー」、つまり「谷間の侵入者」と呼んだ。犯行がサンフェルナンド・バレーとサンガブリエル・バレーに集中していたからだ。ブロック保安官自身も、暗い家に忍び込むという性質と発生地域から、この呼び名が適切だろうと早い段階で提案していた。
ほかにも「ウォークイン・キラー」、つまり「歩いて入ってくる殺人者」や、「スクリーンドア・イントルーダー」、「網戸の侵入者」といった呼び名が飛び交った。どれも、この犯人がいかに簡単に他人の家に入ってきたかを言い表そうとしたものだ。
呼び名が固まったのは、ロサンゼルス・ヘラルド・エグザミナー紙の編集局だった。一九八五年八月、当局が複数の殺人を一人の犯人によるものと結びつけた直後、同紙のデスクたちは会議室に集まって呼称を練った。いくつもの案が出た。「ウォークイン・キラー」も「スクリーンドア・イントルーダー」も候補に上がった。「ナイト・ストーカー」という案も出たが、最初は却下されている。
それが議論の末に復活し、次の版の紙面に載った。
この呼び名は瞬く間に広がった。八月二十八日付のロサンゼルス・タイムズは、新しい似顔絵の記事のなかで、市民も報道機関も、そして特にロサンゼルス市警の関係者も、次第に犯人を「ナイト・ストーカー」と呼ぶようになったと書いている。市警のダン・クック警部補の言葉が引かれている。いつもバレーでやっているわけじゃないんだから、バレー・インベーダーとは呼べないだろう、と。
呼び名が「谷間の侵入者」から「夜に忍び寄る者」へ変わったことには、実務的な理由があった。犯人が実際に地理的な範囲を広げたからだ。だが同時に、この新しい呼び名は事件の性質そのものを言い当てていた。地域の問題ではなく、夜そのものが危険になったのだ、と。名前が変わった瞬間、恐怖の対象は「あそこの谷間」から「あなたの寝室の窓」に変わった。
そしてもう一つ。この「ナイト・ストーカー」という呼称は、実は南カリフォルニアで二度目の使用だった。一九七九年から八一年にかけて、同じ地域で別の連続犯が同じあだ名で呼ばれていた時期がある。だが一九八五年の事件があまりに大きくなったため、先にそう呼ばれていたほうが後から「オリジナル・ナイト・ストーカー」と改称された。この先行事件の犯人は、二〇一八年になってようやく特定される。
事件史に詳しい人ほど混同しやすい、ややこしい話だ。
五芒星、悪魔、そして時代の空気
犯行現場に残された五芒星は、この事件を単なる連続強盗殺人から、時代を象徴する怪物譚に変えた。
円の中に描かれた逆さの五芒星。モンロビアの現場では口紅で、ほかの現場では壁に。後に犯人が乗っていた車のダッシュボードからも、そして本人の腕からも見つかっている。拘置所の独房の床にも、自分の血らしきもので同じ図形を描いていた。
ここで押さえておかないといけないのが、一九八〇年代アメリカの「サタニック・パニック」という空気だ。この時期のアメリカでは、悪魔崇拝の秘密結社が全国に張り巡らされていて、子どもをさらい、儀式で虐待しているという話が、真剣に信じられていた。保育園で集団的な儀式虐待があったという告発が相次ぎ、そのほとんどが後年になって根拠を欠くと判明した。
ヘビーメタルのレコードを逆再生すると悪魔のメッセージが入っている、という主張が議会の公聴会レベルで扱われた。ロサンゼルス周辺は、その震源地の一つだった。
そこにこの事件が落ちてきた。八月末、KABCの記者ウェイン・サッツが、犯行の背後に悪魔崇拝の要素があると報じた。複数の現場に五芒星が描かれていたこと。犯人が「AC-DC」と刺繍された黒い野球帽をかぶっていたとされること。そのAC/DCというオーストラリアのロックバンドの一九七九年のアルバムに、「ナイト・プラウラー」という曲があり、その歌詞が犯行の様態と不気味なほど一致すること。
窓の外の物音、ブラインドに映る影、そして「お前が横たわっているあいだに、俺は部屋に滑り込む」。
翌日から、この話は全米に広がった。エルパソ時代の同級生が新聞の取材に応じ、彼はこの曲に取り憑かれていたと語った。「AC/DCとは、アンチ・クライスト・デビルズ・チルドレンの略だ」という説が真顔で流通した。バンド側は当然否定した。ギタリストのアンガス・ヤングは、バンド名は姉のミシンの裏に書いてあった表示から取ったもので、意味は「パワー」だと繰り返し説明している。
オーストラリアの自宅でテレビを見ていて逮捕の報を知ったとき、悪魔崇拝という言葉が出た瞬間に「ああ、うちに来るな」と思った、とも語っている。
ロサンゼルス・タイムズの音楽評論家ロバート・ヒルバーンは、九月八日付の記事でこの騒動を冷静に叩いている。AC/DCをこの事件で責めるなら、ビートルズをチャールズ・マンソンで責めなければならない、というのが要旨だ。実際、犯人がこの曲を「聴いていた」ことと、この曲が「殺人を引き起こした」ことのあいだには、埋めようのない距離がある。だが一九八五年の夏、その距離は多くの人にとって存在しなかった。
もう一つ重要な事実がある。検察は最後まで、この事件が悪魔崇拝の儀式として行われたとは主張しなかった。五芒星は証拠として法廷に出た。だが動機の説明としては使われなかった。州のどの機関も、これらの犯行が悪魔崇拝を動機とするものだったという公式の結論を出していない。悪魔の物語は、あくまで報道と世間が作り上げたものだ。
七月、最悪の月
一九八五年の七月は、この事件でもっとも密度の濃い一か月だった。
七月二日、アーケイディアで七十七歳の女性が喉を切られて殺された。七月五日、シエラマドレで十六歳の少女が寝室でタイヤレバーで殴られた。彼女は生き延びた。犯人は電話コードで首を絞めようとしたが、コードから火花が散ったので、それを何かの合図と受け取ってやめた、と後に語っている。七月七日、モンテレーパークで六十一歳の女性が撲殺された。その頭部と、玄関前のコンクリートに、独特のスニーカーの足跡が残っていた。
七月二十日は最悪の一日だった。この日、グレンデールで六十代の夫婦が寝ているところを撃たれた。そして同じ日、サンバレーで三十二歳の男性が撃たれ、妻が暴行を受け、八歳の息子が殴られた。犯人は三万ドル相当の現金と宝石を持ち去っている。
八月に入ると、六日にノースリッジで夫婦が二人とも頭を撃たれた。奇跡的に二人とも生き延びた。この二人が犯人の人相を証言できたことが、捜査を一気に進める。そして八月八日、ダイヤモンドバーで三十五歳の男性が午前四時頃に頭を撃たれた。妻と、三歳と生後八週間の息子が家にいた。犯人は子どもを殺すと脅して金品を要求した。事件の後、三歳の息子が隣家まで歩いていって「パパの具合がよくないの」と告げている。
この日、ブロック保安官が記者会見を開いた。少なくとも六件の殺人が同一犯によるものと見られる、と。連続殺人犯が南カリフォルニアにいることが公式に発表された、最初の日だった。
錠前が消えた夏
八月八日を境に、街の空気が物理的に変わった。
まず、緊急通報が跳ね上がった。八月十日から十一日の週末、ロサンゼルス市警の通信部門が受けた市民からの通報件数は、平常より一五パーセント以上増えた。単なる不安が数字になって表れた形だ。
ホームセンターと錠前屋と銃砲店に人が押し寄せた。ウィッティアの錠前店の店長は、デッドボルト錠と引き違い窓用の補助錠の売上が、この二週間で通常の四割増しになったと語っている。サンディエゴの警備会社の支店長は、「ナイト・ストーカーが暴れていた期間、うちの売上は三倍になった」と証言した。今すぐ設置してくれるなら定価の倍払う、と言ってくる客が何人もいたという。
別の警備会社の経営者は、こういう事件がないと人は防犯設備の必要性に気づかない、だが正直こんな形で需要が来るのは困る、と複雑な胸中を明かしている。
ロサンゼルス・タイムズの一九八九年の記事は、当時の光景をこう記録している。銃、弾薬、錠前、窓の鉄格子の売上が郡全域で急増した。八月三十一日に至るまでの数週間、銃砲店や防犯用品店の従業員は、朝出勤すると店の前に客が列を作って待っているのを何度も目にした。
人々の行動も変わった。単身の女性がベッドの脇にハンマーや包丁を置いて寝るようになった。恋人の家に転がり込む人が増えた。警察が市民に銃の購入を勧めるという、今から見るとちょっと異様な光景もあった。番犬の需要が跳ね上がった。ある三十五歳のシングルマザーは記者にこう言っている。怖い、本当に怖い。銃はないけど、ベッドの横にハンマーと野球バットを置いてる。バットなら私、けっこう上手いのよ。
家そのものも変わった。窓のサッシを釘で打ちつける。引き違いのガラス戸のレールに木の棒をはめ込む。玄関灯の電球をより明るいものに替える。家の周囲に砂利を敷いて、誰かが歩けば音がするようにする。庭にフラッドライトを設置する。ある新聞記者は、夜の自分の住宅街がまるで映画の撮影現場のように煌々と照らされていた、と書いている。
そしてもちろん、路上でも警戒された。この犯人は路上で女性を車から引きずり出して撃った前歴がある。だから人々は窓を閉め切り、ドアをロックして運転し、店との往復を小走りで済ませた。レストランやバーは、夜には開けても意味がないくらい客が来なかった。
一つ、忘れがたい細部がある。あの夏の南カリフォルニアは記録的な猛暑だった。にもかかわらず、人々は窓を閉め切った。犯人が「開いた窓」から入ってくると知っていたからだ。快適さと安全を天秤にかけて、街全体が安全を選んだ。その選択の重さが、あの夏の異常さを何よりよく表している。
サンフランシスコ、そして市長の失言
八月十七日、犯行がロサンゼルス圏を飛び出した。サンフランシスコのレイクサイド地区で、六十六歳の会計士が自宅で撃たれて死亡し、妻も撃たれて重傷を負った。妻は生き延び、人相書きの人物として犯人を特定した。
この現場と南カリフォルニアの事件を結ぶ証拠は複数あった。壁に描かれた記号。そして何より、弾道検査だ。サンフランシスコで使われた銃と、ロサンゼルス郡の複数の現場で使われた銃が一致した。
八月二十二日、捜査当局は十七日の殺人がナイト・ストーカーによるものと発表した。翌日にはさらに七件の殺人を追加で結びつけ、合計十四件とした。当局は、弾道検査、壁に書かれたメッセージ、そして「独特だが内容は明かせない」証拠の三種類が事件を結んでいる、とだけ説明した。この三つ目こそが、現場に残されていたスニーカーの足跡だった。
同じ八月二十三日、サンフランシスコ市長のダイアン・ファインスタインが記者会見を開いた。市として一万ドルの懸賞金を出す、という発表だ。市民を安心させるための会見だった。
ところが彼女は、そこで止まらなかった。ファインスタインは、サンフランシスコの殺人に使われた銃の弾道が、南カリフォルニアで起きた十件以上の殺人と一致すると理解している、と述べた。さらに、現場に残されていた靴の足跡についても言及した。
捜査員たちは凍りついた。翌日のサンフランシスコ・クロニクル紙は「警官たちはファインスタインの発言に顔をしかめた」という見出しを掲げた。匿名の警官の一人は「あれは道化の発言だ」と吐き捨て、別の一人は「これで銃は湾に沈むな」と言った。ブロック保安官はテレビの前で公然と不快感を表明した。あの情報の公開は、この地域を危険にさらす。捜査を前に進める我々の能力を損なうからだ、と。
この靴の足跡というのは、捜査班が地道に積み上げた宝物だった。三月のウィッティアの現場の花壇に残された一つの足跡から始まって、以後四か月のあいだに郡内の五か所以上で同じ靴跡が見つかった。捜査員はメーカーまでたどり着き、流通記録を洗った。当時としてはまだ珍しいブランドで、犯人が履いていたサイズと色の組み合わせは、全米でもごく限られた数しか出回っていなかった。
そのうちアリゾナに五足、ロサンゼルスで一足が売れていた。サレルノ刑事に言わせれば、犯人は自筆のサインを残したようなものだった。
報道機関はこの足跡の情報を掴んでいたが、捜査を妨げないようにと説得され、公表を控えていた。ところがその配慮は、市長の口から一瞬で吹き飛んだ。後年サレルノは、我々は激怒した、本気で腹が立った、と語っている。
そして問題の靴は、二度と見つからなかった。犯人の伝記を書いた作家によれば、会見の報道を見た犯人はゴールデンゲートブリッジの中央まで歩いていき、そのスニーカーを海に落とした。銃のほうは捨てなかったという。
これは、報道と捜査の関係を考えるうえで、いまも語り継がれる事例になっている。市民を安心させたい政治家の善意と、証拠を守りたい捜査機関の必要性が、正面からぶつかった。しかも当時、サンフランシスコ市警の側から市長に「これは伏せてほしい」と明示的に伝えていなかった、という指摘もある。
誰か一人の悪意ではなく、複数の機関が並列で動いていて司令塔がなかったという、この捜査本部の構造的な弱点が露出した瞬間だった。
十三歳の少年が書き留めた数字
八月二十四日から二十五日にかけての夜、犯人はロサンゼルスから南へ約八十キロ、オレンジ郡のミッション・ビエホに現れた。
その夜、最初に彼が近づいたのは、ある一家の住宅だった。家には十三歳の少年がいた。少年は裏庭で物音を聞き、外に出た。不審者は逃げた。少年はその男が乗り込んだオレンジ色のトヨタのステーションワゴンを目で追い、ナンバープレートの数字を部分的に書き留めた。
その少しあと、同じ地区の平屋建ての家に、その男は裏口から入った。二十九歳のコンピューター技術者が頭を三発撃たれ、二十七歳の婚約者が襲われた。
ここで、犯人は自分から名乗った。「俺が誰だか分かるだろう。俺はナイト・ストーカーだ。新聞で読んだはずだ、テレビでも見ただろう」。そして、サタンを愛していると言え、と強要した。彼女がそう繰り返すと、男は笑った。「あいつが来ると伝えろ」と言った。
これが致命的だった。彼女は男の顔をはっきり見ていない。それでも、歩き方、姿勢、声を記憶していた。彼女は十一日後の面通しで、それらの特徴から犯人を特定している。そして彼女が縄を解いて隣家に助けを求めたことで、警察は詳細な人物像と、車の情報を手にした。
その頃、事件を報じるテレビを見ていた十三歳の少年は、両親から近所で連続殺人犯が出たらしいと聞かされた。自分が追い払った男と、ニュースの男が同一人物かもしれない。少年が書き留めたナンバーが警察に渡った。
八月二十八日、そのオレンジ色のトヨタが、ロサンゼルスの市街地で乗り捨てられているのが見つかった。犯人は車内を丁寧に拭いていた。捜査員は車をフラットベッドトラックに載せ、オレンジ郡へ運んだ。
三分間で名前が出た
オレンジ郡保安官事務所の鑑識課は、当時アメリカ西海岸の法執行機関では珍しい装備を持っていた。アルゴンイオンレーザーの手持ち式装置だ。肉眼では見えない指紋を浮かび上がらせる。鑑識課の主任と担当者がこの装置と瞬間接着剤の蒸気を使い、車を走査した。拭き取られたはずの車内から、バックミラーの一点に一つの指紋が残っているのが見つかった。
そこから先が、この事件が犯罪捜査史に残る理由になった。
カリフォルニア州は一九八五年一月、司法長官の記者発表で、新しいコンピューター指紋照合システムの導入を公表していた。カリフォルニア識別システム、通称キャルアイディー。サクラメントの州司法省に中央コンピューターを置き、最終的に五百万人分の指紋を収める計画だった。契約額は二二四〇万ドル。稼働開始は同年七月の予定だった。
つまり、この事件の最中に、システムはできたてほやほやだった。しかもデータ投入は途中で、この時点で入力済みだったのは三十八万人分。しかも投入の優先順位として、一九六〇年一月一日以降に生まれた者の記録から入れていた。
犯人は一九六〇年二月二十九日生まれだった。二か月違いで、データベースに入っていた。
照合をかけると、三分で十人の候補リストが出た。その筆頭に、二十五歳のテキサス州エルパソ出身の男の名前があった。ロサンゼルスでの逮捕歴は交通違反と薬物関係が中心で、前年十二月には盗難車運転の疑いで市警に逮捕されていた。そのときの顔写真が残っていた。
後に鑑識の専門家たちはこの特定を「奇跡に近い」と表現している。一年前だったら、捜査員は何千枚もの指紋カードを人力で漁るしかなかった。実際、ロサンゼルス市警の関係者は、一九八四年六月にあの最初の事件の網戸から指紋を採った時点で同じシステムがあれば、犯人はもっと早く逮捕され、何人かの命は助かっていた可能性が高い、と後に語っている。
この一件は、アメリカの指紋照合技術の歴史そのものを動かした。専門書にも記述がある。導入したばかりの州システムによる特定が世界中の見出しを飾り、その結果、カリフォルニアじゅうの自動指紋識別システムへの予算が確保された、と。州議会は九月の閉会前に、各地の警察署へ端末を配備する法案を可決した。オレンジ郡は十二月、二四六万ドルのシステム導入申請書を保安官補が手ずからサクラメントまで運んだ。
ナイト・ストーカー事件は、皮肉なことに、指紋データベースの営業マンとして最強の実績になった。
「お前が誰だか、もう分かっている」
一九八五年八月二十九日、当局は前年の逮捕時の顔写真を報道機関に公開する決断をした。この判断には、ブロック保安官、ロサンゼルス市警のダリル・ゲイツ本部長、オレンジ郡保安官のブラッド・ゲイツらのあいだで議論があった。顔を出せば逃走される。出さなければ、また誰かが襲われる。
記者会見での言葉は、明らかに犯人本人に向けられていた。「お前が誰だか、我々はもう分かっている。じきに、ほかの全員も分かる。お前に隠れる場所はない」。
捜査員たちは、犯人が自分の報道を熱心に追っていることを知っていた。ミッション・ビエホで被害者に自分から「俺はナイト・ストーカーだ」と名乗った男だ。ニュースを見ていないはずがない。
八月三十日金曜、顔写真がカリフォルニアじゅうの新聞とテレビに流れた。
八月三十一日、ハバード・ストリート
その頃、犯人本人はカリフォルニアにいなかった。彼は八月三十日、アリゾナ州ツーソンに住む兄を訪ねるためバスに乗っていた。自分の顔が州じゅうのトップニュースになっていることを知らないままだ。兄は不在だった。彼は同じ日の夜のバスで引き返した。
八月三十一日土曜の朝、ロサンゼルスのダウンタウンにあるグレイハウンドのバスターミナルに降り立った。ターミナルには、逃走を図る可能性を見越して張り込みの警官がいた。彼はその横をすり抜けた。ジャックダニエルのTシャツに、汚れたジーンズ。朝の時点でもう気温は三十七度を超えようとしていた。
彼はスキッドロウの端にある酒屋に入った。新聞を手に取った。
そこで初めて、自分の顔が一面に出ていることを知る。スペイン語紙ラ・オピニオンの一面。見出しは「インバソール・ノクトゥルノ」、夜の侵入者。店内には数人の高齢の女性たちがいて、彼のほうを見ながら小声で「エル・マタドール」とささやいていた。殺し屋、という意味だ。
彼は店を飛び出した。
そこから約四マイル、六キロあまりの逃走が始まる。ダウンタウンからイーストロサンゼルスへ。サンタアナ・フリーウェイを横切り、路地を抜け、他人の裏庭を通り抜けた。誰かが不審な男を見たと通報し、ロサンゼルス市警のパトカーが動き出した。最終的に七台のパトカーとヘリコプター一機が彼を追った。追跡はおよそ二十分続いた。
彼は車を盗もうとした。理髪店の前に停めてあった車の中の女性にナイフをちらつかせたが、理髪師が飛び出してきて追い払った。少し先で、ジャッキで持ち上げてトランスミッションを修理中だった赤いマスタングに乗り込んだ。エンジンをかけてバックさせ、ジャッキから車を落とした。車の持ち主が飛びついて鍵を抜こうとすると、彼は「銃を持ってるぞ」と叫んだ。持ち主は離さなかった。車は止まった。
そこが東ハバード・ストリートだった。イーストロサンゼルスのボイルハイツ地区。労働者階級の住宅が並ぶ、静かなブロックだ。
追われた男は道路の反対側へ走り、買い物に行こうと車に乗り込もうとしていた二十八歳の女性を襲い、腹を殴って鍵を奪おうとした。妻の悲鳴を聞いた三十二歳の夫が、鉄の柵の支柱を掴んで飛び出した。彼はその鉄棒で殴りながら男を追った。
道の向かいの家から、五十五歳のメキシコ移民の男性と、その二十一歳と十七歳の息子たちが走り出てきた。隣家の五十六歳の男性も加わった。この男性は少し前、自分の娘の車を盗まれかけて格闘したばかりだった。
ハバード・ストリートを二十秒。それが逃走の全長だった。四人が男を取り押さえ、押し倒した。一人が鞭のようにしなる鉄棒で殴り続けた。集まってきた人数は十人を超えた。
「放してくれ、放してくれ」と男は言った。二十一歳の息子は後にこう証言している。だが俺たちは、お前はどこにも行かない、と言ってやった。
保安官事務所イーストロサンゼルス署の若い巡査、アンドレス・ラミレスは、その日の午後、通報を受けて現場に向かった。「四一五番」、つまり口論、喧嘩の可能性あり、という程度の内容だ。ごく普通の通報だと思って向かった。彼は現場から角を一つ曲がったところにいた。
着いてみると、歩道に一人の男が座り込んで、フェンスに寄りかかっていた。周りを数人の男たちが囲んでいる。一人は大きな金属パイプを持っていた。全員が一斉に喋り出した。何が起きたのか整理しようとしているあいだに、人が集まってきた。一分もしないうちに四十人になった。みんな新聞を持っていた。ラ・オピニオンの一面に、保安官事務所が公開した顔写真が載っていた。群衆は叫び始めた。捕まえたぞ、と。
拘束された男は警官に向かってスペイン語でこう言ったと報じられている。警察が来てくれてよかった。俺だ。俺だよ。俺なんだ。
近くの警察署の外で取材に応じた六十二歳の男性は、記者にこう言った。イーストLAでちょっかい出したのが間違いだったな。あいつは相手にする街を間違えたんだよ。
証言――ミッション・ビエホの女性
一九八七年九月、オレンジ郡の予備審問の法廷で、ミッション・ビエホの女性が証言台に立った。三十一歳になっていた。事件から二年、被告と顔を合わせるのは、一九八五年九月五日の面通し以来だった。
彼女は明瞭な、しっかりした声で話した。傍聴席の記者たちが「終始落ち着いていた」と書いている。
証言はこうだ。一九八五年八月二十五日の未明、彼女は銃声で目を覚ました。三発。隣で寝ていた婚約者の体が跳ねて、彼女の腕の上に落ちてきた。次の瞬間、男が彼女の髪を掴んでベッドから引きずり出した。男は婚約者のネクタイで彼女を縛った。
そして名乗った。俺が誰か分かるだろう。俺はナイト・ストーカーだ。新聞で読んだはずだ、テレビでも見ただろう。もし一人殺したら、もう一人は生かしておくかもしれないぞ。
男は家じゅうを漁った。金と宝石を探した。見つからないと戻ってきて、彼女が嘘をついていると責めた。彼女は「神に誓って、ここにあるのよ」と言った。男は「サタンに誓え」と言った。彼女はサタンに誓わされた。
隠し場所を教えると、男は現金を掴んで彼女の目の前で振った。「これがお前を助けたんだ。お前の価値はこれだけだ」。
出ていく前に、男は言った。「『私はサタンを愛しています』と言え」。彼女が言うと、男は笑った。
法廷で被告は、頬杖をついたままそれを聞いていた。
婚約者は生き延びた。三発のうち二発が手術で摘出された。一発は今も頭蓋骨の中にある。彼は左半身が麻痺し、記憶に障害が残った。撃たれてから二か月半のあいだ、彼は自分が頭を撃たれたことを認識していなかった。鏡を見て初めて、自分に何が起きたのかを尋ねたという。彼はロサンゼルス・タイムズにこう語っている。いちばんつらいのは、自分が傷ついたという事実を受け入れることだ。
今でも、これは全部悪い夢で、目が覚めたら終わっていて、人生の続きが始まるんじゃないかと思ってしまう。
二人は結婚するはずだった。彼女は二年間、彼の介護をしたのち、去った。彼の姉は後年、彼女は正しいことをした、私たちは弟にしてくれたことに本当に感謝している、と語っている。彼は二〇一三年、犯人の死を電話取材で聞いてこう答えた。ようやくか、と。ようやく正義が果たされた。終わってくれてよかった。
証言――六歳だった少女
一九八五年二月、六歳の少女が自宅から連れ去られた。彼女は窓が開く音で目を覚ました。眠くて頭が働かないまま、その男が家族の誰かに似ている気がして、言われるままについていった。車の中で、男はグローブボックスを開けさせた。念のため教えておく、という意味だった。連れて行かれた家は暗くて、じめじめしていて、ぬるぬるしている感じだった、と彼女は後に語っている。そこで彼女は性的暴行を受けた。
背景ではマドンナのアルバムが流れていた。そのあと男は彼女を車に乗せ、ガソリンスタンドに置いて、中に入って通報しろ、そうすれば家族が迎えに来る、と言った。
彼女はなぜ自分が生かされたのか、大人になった今も分からないという。
だが、彼女が生きていたことが決定的な意味を持つ。逮捕後の面通しで、六歳の彼女は犯人を特定した。サレルノ刑事は後年こう語っている。生存している六歳の被害者を連れてきた。六歳としては、信じられないほどしっかりしていた。彼女は証人待機席に座っていた。
面通しでは、並んだ男たちに同じ台詞を繰り返させた。黙れ、金はどこだ、宝石はどこだ。終わったあと、担当者が「何か質問はありますか」と尋ねた。カリーヨ刑事の回想。小さな手が挙がった。どうしたの、と聞いた。すると彼女は言った。「に」って、漢字で書くの、それとも数字で書くの、と。
自分の姿は向こうから見えないと分かっていたから怖くなかった、と彼女は後に説明している。
予備審問の前、検察官とサレルノ、カリーヨの三人が彼女の自宅を訪ねた。母親が手を握っていた。彼女が母親の耳元で何かささやいた。母親がカリーヨを見て言った。この子、あなたのことがいちばん記憶に残ってるって。テディベアみたいだから、って。
そして彼女はこう言った。あの人がほかの女の子を、私にしたみたいに傷つけられないように閉じ込めておけるなら、私、法廷で証言します。
カリーヨは涙が止まらなくなり、失礼と言って部屋を出た。自分は子どもに弱いんだ、と彼は後年語っている。
結局、彼女が法廷に立つことはなかった。十三件の殺人で死刑が争われる裁判だ。六歳の証人にもう一度あの男の前に立たせる必要はない、と判断された。彼女は成長し、結婚し、子どもを持った。二〇二一年のインタビューでこう語っている。六歳の、いちばん影響を受けやすい時期にさらわれて、ひどいことをされた。それでも私は大丈夫。学校に行って、結婚して、家族ができた。
あの経験を、あの人みたいなものに私を変えさせたりしない。
証言――ハバード・ストリートの人たち
逮捕から二十八年後の二〇一三年六月、犯人の死が報じられた日、ロサンゼルス・タイムズの記者がハバード・ストリートを歩いた。
二十歳の大学生が記者に言った。ここで捕まえたんですよ。俺の通りで。リチャード・ラミレス。俺の近所の人たちが捕まえたんだ。
彼が指差したのは、道の向かいにある質素なスタッコ塗りの家だった。あの日、八十二歳になっていたメキシコ移民の男性が住んでいた家だ。一九八五年当時、五十五歳だった彼は、隣家の男性の娘の車を盗まれかけた騒ぎを聞き、次に道の向かいで女性の悲鳴が上がったとき、通りを走って渡った。「彼女を守るために走ったんだ」と、彼は後にそう語っている。
一九八五年九月三日、ロサンゼルス郡監理委員会は、五人の住民と保安官事務所の巡査に感謝の楯を贈った。表彰されたのは、理髪店の前で最初に追跡を始めた二人、娘の車を守ろうとした男性、妻を殴られて鉄棒を掴んだ男性、そして加勢した父子だ。
新聞はこの一件を「英雄たちの街に迷い込んだ」と書いた。逃げ込む場所を間違えたのだ、と。だが後年の分析はもう少し踏み込んでいる。あの街区に住んでいたのは、ラテン系の労働者階級の人々だ。当時のロサンゼルスで、警察との関係が必ずしも良好ではなかった層でもある。その人たちが、朝刊の顔写真一枚を頼りに、自分たちの手で街を守った。二〇二一年のドキュメンタリーの監督はこの構図を指摘している。
ラテン系の刑事が捜査を主導し、ラテン系の犯人を、ラテン系の住民が取り押さえた、と。
証言――追いかけた側の代償
もう一つ、当事者の証言として重いのが、捜査員側の話だ。
カリーヨ刑事は後年、この事件が自分の人生をどう変えたかを繰り返し語っている。捜査は職場の中だけでは終わらなかった。彼は性格が変わり、酒量が増え、結婚生活が崩れかけた。犯人がまだ野放しだったある朝、彼の妻は子どもたちを起こし、荷物をまとめて家を出た。刑事の家族が狙われるかもしれない、という恐怖から、身を隠したのだ。彼は数十年後になって、そのことを妻に謝ったと語っている。
彼はまた、犯人が二度だけ「後悔らしきもの」を見せた瞬間があると証言している。一つは、シエラマドレで襲われて生き延びた十六歳の少女についてで、彼女のことを気にして、自分の代わりに謝っておいてくれと言った。もう一つは、被害者の家から逃げ出した子犬のことを気にしていた、というものだ。この二つが、四十年近く経っても彼の記憶に引っかかり続けている。
サレルノ刑事のほうは、もっと実務的な教訓を残している。殺人捜査で大事なのは、頭を開いたままにしておくことだ。ありえないと思っても、もっともらしくないと思っても、まず可能性として置いておく。この事件は、その姿勢がなければ解けなかった。
十五か月の裁判
逮捕から起訴、そして裁判の開始まで、三年近くかかった。被告は、その間にロサンゼルス郡拘置所の水色の小さな独房で三度の誕生日を迎えた。読書と運動をして過ごし、ときどき看守や同房者に事件を自慢げに話していた、と報じられている。
裁判が長引いた理由の一つは、被告本人が選んだ弁護人の資格問題だった。彼は当初の公選弁護人を退け、州の基準では死刑事件の国選弁護人になる最低資格を満たしていない二人の弁護士に依頼した。この二人は裁判の過程で何度も法廷侮辱に問われている。後の上訴審で、この人選そのものが争点になる。
裁判長はロサンゼルス郡上級裁判所のマイケル・タイナン判事。検察側の主任はフィリップ・ハルピン、副検事にアラン・ヨケルソン。陪審選任は一九八八年七月に始まった。候補者はおよそ千六百人が面接された。
初期の法廷で、被告は掌に描いた五芒星を掲げて「ハイル・サタン」と叫んだ。無罪を主張したあと、法廷から連れ出されながら叫んだ、と当時の記事は伝えている。一九八八年八月には、拘置所の職員が、被告が法廷に銃を持ち込ませて検察官を撃つ計画を話しているのを聞いた、と報じられた。以後、法廷の外に金属探知機が設置され、入廷者は徹底的に身体検査を受けることになった。
法廷は劇場になった。傍聴席には、被告に関心を持つ女性たちが通い詰めた。この現象は当時から批判され、後年のドキュメンタリー制作者は「彼のセレブリティ化」と表現している。裁判の見世物的な性格が、犯人を「奇妙な欲望の対象」にしてしまった、と。
証拠は膨大だった。百六十五人を超える証人が証言し、六百五十八点の証拠品が提出された。検察は十五の犯行現場の共通点を積み上げた。指紋、独特のスニーカーの足跡、弾道、生存者による特定、そして逮捕後の被告自身の発言。
裁判の途中、耐えがたい出来事が起きた。一九八九年八月十四日、陪審員の一人が法廷に現れなかった。その日のうちに、彼女は自宅アパートで射殺体で発見された。陪審は恐慌状態になった。被告が独房から何かを指示したのではないか。ほかの陪審員にも手が伸びるのではないか。
調べの結果、それは被告とは無関係の事件だった。交際相手による殺害で、犯人は翌日、同じ銃で自ら命を絶っていた。まったく別の悲劇が、最悪のタイミングで裁判に降ってきた形だ。だが陪審の受けた衝撃は残った。代わりに入った補充陪審員は、恐怖のあまり自宅に帰れなくなったと伝えられている。
審理はもう一度、別の理由でも仕切り直された。居眠りを理由に一人が解任され、補充陪審員が入った。カリフォルニアの手続きでは、陪審員が交代すると評議は最初からやり直しになる。二度のやり直しを経て、評議は合計二十二日に及んだ。
評決の日
一九八九年九月二十日、水曜日。評決が読み上げられる法廷は満員だった。
陪審は七人の女性と五人の男性。彼らは四十三の訴因すべてについて有罪と評決した。十三件の殺人、五件の殺人未遂、十一件の性的暴行、十四件の住居侵入。殺人のうち十二件が第一級、一件のみが第二級だった。この一件だけが検察にとって唯一の後退で、検察は十三件すべての第一級殺人を求めていた。
陪審はさらに、複数殺人、強盗、強姦、強制性交等にかかわる特別事情の主張を真実と認定した。これによりカリフォルニア州法上、死刑の適用が可能になった。
十月四日、陪審は死刑を勧告した。この報を受けて、彼は記者たちに向かってこう言い放った。「大したことじゃない。死ぬのは最初から仕事のうちだ。ディズニーランドで会おうぜ」。
一九八九年十一月七日、判決の日。法廷には彼の家族、生き延びた被害者たち、殺された人の遺族が詰めかけていた。
タイナン判事は死刑を言い渡した。陪審は死を相応かつ正当な罰と判断した。当法廷はその判断を追認する、と述べた。ガス室での執行。カリフォルニア州法により、自動的に上訴される。
判決を受けた被告は法廷でこう述べた。あなたたちは私を理解しない。理解できるとも思っていない。あなたたちにその能力はない。私はあなたたちの経験の外側にいる。私は善悪を超えている。私は復讐されるだろう。ルシファーは我々全員の中に住んでいる。以上だ。
このとき彼は二十九歳だった。逮捕時から数えて四年二か月が過ぎていた。裁判にかかった費用はおよそ百八十万ドル。当時としてはカリフォルニア州史上最も高額な殺人裁判で、この記録は一九九四年の別の事件まで破られなかった。
獄中結婚という後日談
サンクエンティン州立刑務所の死刑囚棟に移されたあと、彼のもとには手紙が届き続けた。面会に来る女性もいた。
そのうちの一人が、フリーランスの雑誌編集者だったドリーン・リオイという女性だ。彼女はテレビで顔写真を見たとき、そこに「傷つきやすさ」を見たのだと語っている。二人はプレキシガラス越しに関係を深めた。
一九九六年十月三日、木曜日の正午前、サンクエンティンの面会ギャラリーで結婚式が行われた。指輪の交換、口づけ、そして「永遠に愛する」という誓い。花婿は式のあいだだけ拘束具を外された。式は十分で終わり、彼はすぐに死刑囚棟の房に戻された。夫婦の面会は認められない。花嫁は夫の姓を名乗った。
この結婚をどう受け止めるかは、人によって割れた。あの当時の南カリフォルニアで恐怖に眠れなかった人々にとっては、理解しがたい出来事だっただろう。ある新聞記者は、獄中の彼を面会室で見かけた印象を書き残している。永久に貼りついたような薄笑い、だらしなく揺れる歩き方、そして訪問者に差し出される、力の入らない湿った手。
彼が死んだとき、彼女は次の親族として登録されていなかった。所在も確認できなかった、と刑務所側は説明している。
誤報、噂、そして語り継がれた「別バージョン」
この事件は、報道が高速で回った分だけ、誤りと噂も大量に生んだ。いくつか整理しておきたい。
まず被害者数だ。一九八五年八月末から九月にかけての新聞は、殺人の件数を十六件と書いている。捜査当局がそう発表していたからだ。だが最終的に有罪となったのは十三件だった。当時の報道と確定判決のあいだにある三件の差は、立件できなかった事件、別の犯人による事件、あるいは管轄の違いで別に処理された事件が混ざっている。
今でも解説記事で「十六人を殺した」と書かれることがあるのは、この当時の数字が独り歩きしているせいだ。判決で確定したのは十三件、そして被害者総数は十五の事件で二十四人、というのが法的に正確な言い方になる。
被害者の氏名の誤報も多かった。逮捕直後の混乱の中で、いくつかの被害者の名前が実際とは異なる形で全国紙や通信社に流れた。そのまま数十年、二次的な記事に引き継がれてしまったケースもある。今でも古い記述をコピーした記事には、実在の被害者名と一致しない表記が残っている。事件の記述を読むときに、こういう継承された誤りがあることは知っておいたほうがいい。
次に、悪魔崇拝と音楽の話。犯行現場に五芒星が残されていたのは事実だ。逮捕時に落とした鞄からヘビーメタルのカセットが出たことも報じられている。だが、「AC/DCの曲が殺人をさせた」という筋書きは、当時のメディアが作ったものだ。「AC/DCとは、アンチ・クライスト・デビルズ・チルドレンの略だ」という説は完全な俗説で、バンド側は一貫して否定している。
「悪魔崇拝の集会所で同じ靴跡が見つかった」という一九八五年当時のテレビ報道も、後の裁判では動機の立証には使われていない。検察はそもそも儀式殺人という主張をしなかった。
セシルホテルの話もそうだ。ダウンタウンの安宿だったこのホテルに彼が滞在していたこと自体は、逮捕直後にロサンゼルス・タイムズが夜勤フロント係に取材して報じている。一泊十四ドル、十四階の部屋、大音量でロックをかけ、部屋から匂いが漏れていた、といった証言だ。だが「血まみれの下着姿で裏路地から階段を上がっていく姿が何度も目撃された」という有名な話には、証拠らしい証拠がない。
これはホテルの怪談ツアーの語りとして広まり、二〇二一年の別のドキュメンタリーで事実のように紹介されたことで、さらに定着した。事件の記憶が、観光資源としての「呪われたホテル」の物語に取り込まれた例だ。
そして最大級のややこしさが、「ナイト・ストーカー」という呼称そのものにある。前述の通り、南カリフォルニアではこの事件より前、一九七〇年代末から八〇年代初頭にかけて活動した別の連続犯が、同じあだ名で報じられていた時期がある。一九八五年の事件が圧倒的な注目を集めたため、先行するほうが「オリジナル・ナイト・ストーカー」と改称された。
その先行事件の犯人は、二〇一八年にDNA系図学によって特定され、二〇二〇年に有罪が確定している。事件の年表を追っていると、この二つの「ナイト・ストーカー」が混線する。ネット上の記述でも混同はよく起きる。
最後に、後年に出てきた事実を一つ。二〇〇九年十月、サンフランシスコ市警の捜査官が、一九八四年四月にテンダーロイン地区の集合住宅の地下で九歳の少女が殺害された未解決事件を再捜査し、現場の資料からDNAを抽出した。全米のDNAデータベースに照会すると、彼の記録と一致した。二十五年間、誰の仕業か分からなかった事件だ。ただし、彼はすでに十三件の殺人で死刑判決を受けており、検察は追加の起訴を行わなかった。
事件の「始まり」が、実際には報じられてきたよりさらに二か月早かった可能性が、こうして後から浮かび上がった。
世論と、その後の議論
一九八五年当時、この事件をめぐる世論は二つの方向に振れた。
一つは恐怖と自衛だ。武器を買い、鍵を替え、灯りを増やす。夜の外出を控える。それは実際に起きた。ただし興味深いのは、恐怖が萎縮ではなく「戦闘態勢」に転じたことだ。当時の記述には、市民が単なる怯えた個人の集まりから、待ち構える集団へと変わっていく様子が書かれている。家族連れも会社員も主婦も、銃を買って弾を込めた。あるいはシャベルやつるはし、包丁を手元に置いた。
アパートには警備員が立ち、夜の路地や公園を住民のパトロールが歩き回った。犯人にとって、標的だった街が突然、罠だらけの場所に変わった。
もう一つは、報道と警察への批判だ。捜査本部に中央司令部も単一の指揮官もなかったことは、当時から問題視された。逮捕直後、ロサンゼルス市警が独自に記者会見を開いたことに保安官事務所が内心で憤慨していた、という報道もある。手柄の取り合いだ。市長の記者会見が捜査を損なった件は言うまでもない。似顔絵が公開されたあとは毎日数百件の通報が寄せられ、その仕分けだけで捜査員は溺れかけた。
考察として今も繰り返されるのが、「なぜこれほど時間がかかったのか」という問いだ。答えは複数ある。手口が一貫していなかったこと。管轄が分断されていたこと。そして単純に、当時の技術では一枚の指紋から人を特定できなかったこと。この三つ目については、一九八五年九月の時点で既に議論になっていた。
ロサンゼルス市警の関係者は、一九八四年六月の時点で州の指紋照合システムが稼働していれば、逮捕はもっと早く、救われた命があったはずだと述べている。技術の導入時期がわずかにずれていたら、この事件の被害者の数は違っていた。それが分かってしまう構図だからこそ、この事件は制度論として語られ続けている。
反証として押さえておきたいのが、悪魔崇拝説だ。五芒星や「サタンを愛してると言え」という強要は、法廷で証言された事実だ。だが、それが動機だったという証明は誰もしていない。専門家は当時から慎重論を唱えていた。悪魔崇拝を名乗る殺人者は、それを免罪符や演出として使っているだけの場合がある。実際、一九七〇年代のニューヨークで犬に命令されたと主張した連続射殺犯は、後にその話を自分で作ったと認めている。
一九八五年の南カリフォルニアで、この慎重論は少数派だった。
一九八〇年代カリフォルニアという舞台
この事件の異常さを測るには、舞台がどんな場所だったかを知る必要がある。
一九八五年、ロサンゼルス市の殺人件数は七百七十七件だった。前年より十八件多い。郡全体では千三百二十六件。強盗は市内だけで二万七千九百三十八件、住居侵入を含む窃盗は膨大な数にのぼった。ギャング抗争が南ロサンゼルスを覆い、市内には百五十ほどの徒党が存在すると報じられていた。
そして連続殺人だ。一九六九年のマンソン・ファミリー事件から一九八九年のこの裁判までのあいだ、ロサンゼルスには「ヒルサイド・ストラングラー」、「フリーウェイ・キラー」、「スキッドロウ・スラッシャー」、「サンセットストリップ・キラー」、「ツールボックス・キラーズ」、「ウェストサイド・レイピスト」といった名前が並んだ。一時期は二十人以上の連続殺人犯が同時に活動していたという指摘もある。
この街は当時、アメリカの連続殺人の首都と呼ばれていた。
そんな街でも、この事件は特別だった。理由は、選ばれ方にある。ヒルサイド・ストラングラー事件の被害者は主に若い女性だった。フリーウェイ・キラーは若い男性を狙った。恐ろしい話だが、そこには線が引ける。自分は当てはまらない、と思える余地がある。
ところがこの犯人には、その線がなかった。高齢者も、若い夫婦も、子どもも、移民の家族も、裕福な地区も、労働者の住宅街も、区別なく襲われた。年齢は八歳から八十四歳まで。人種も職業も国籍もばらばら。つまり、誰も「自分は対象外だ」と思えなかった。あの夏、南カリフォルニアの数百万人が、自分は候補者の一人だと考えた。それが窓を釘で打ちつけさせた。
サタニック・パニックの空気は、この恐怖を増幅する燃料になった。ふつうの強盗殺人なら、動機がある。金だ。だが悪魔が絡むと、動機が理解の外に出る。理解できない相手は、どこにでも現れうる。八月の南カリフォルニアで人々が感じていたのは、統計的なリスクではなく、形而上的な無力感に近かった。
数十年後に生きている街の記憶
一九八五年八月三十一日から数十年が経った。
二〇〇六年八月七日、カリフォルニア州最高裁判所は自動上訴を退けた。記録は四万八千ページを超え、審理には二年半かかった。全員一致の判決で、弁護人の資格をめぐる主張も、精神鑑定を実施しなかったという主張も、残虐な現場写真が陪審に予断を与えたという主張も、すべて退けられた。写真については、犯行の衝撃的な性質を正確に描写した以上のものではない、と判断されている。
二〇一三年六月七日午前九時十分、彼はカリフォルニア州グリーンブレイのマリン総合病院で死亡した。五十三歳。サンクエンティンから数日前に搬送されていた。マリン郡検死官事務所の発表は、B細胞リンパ腫の合併症による死。慢性的な薬物乱用と慢性C型肝炎も併存していた。死刑判決から二十三年半、執行はされなかった。カリフォルニア州では一九七八年以降、死刑囚のうち自然死した者のほうが執行された者よりはるかに多い。
彼もその一人になった。
死亡が報じられた日、生き延びた人の一人はノースダコタの自宅から電話取材にこう答えた。ようやくだ、と。
そして二〇二一年一月十三日、この事件は再び全米の話題になった。四話構成のドキュメンタリー番組が配信されたのだ。制作者は明確な方針を持っていた。犯人を主役にしない。彼には奇妙な死後の生があり、裁判の見世物性ゆえにセレブリティ化してしまった。その神話に加担したくない、と。だからカメラは二人の刑事に向けられ、生き延びた人々と遺族の言葉が丁寧に置かれた。
このドキュメンタリーには批判もある。刑事二人を主人公に据えたことで、実際に犯人を止めた市民たちの役割が相対的に小さく描かれた、という指摘だ。四時間に十四か月を圧縮したことで、事件が実際より高頻度に見え、犯人が超人的に見えてしまう、という技術的な批判もある。実際には、犯行と犯行のあいだには何週間、何か月という空白があり、その間は行き詰まりと恐怖と地味な捜査で埋まっていた。
それでもこの番組は、四十年近く前の恐怖を、それを知らない世代に手渡した。二〇二一年、南カリフォルニアの人々は再び窓の鍵を確認した。今度は物語として。
この事件が、いまも夏になると思い出される理由
これだけの年月が経っても、この事件が語られ続ける理由は、たぶん三つある。
一つ目は、標的がなかったこと。どんな凶悪事件にも、たいてい「なぜその人だったのか」がある。因縁、金、性別、職業、場所。だがこの事件には、それがなかった。あるのはただ、その夜たまたま開いていた窓だ。
一九八九年のロサンゼルス・タイムズの記事は、被害者たちを「きちんと手入れされた家やマンションで平穏に暮らしていた中流の男女で、暖かく穏やかなカリフォルニアの夜に、窓か戸を一つ閉め忘れて寝ただけの人々」と表現した。この一文の残酷さが、この事件の核心を言い当てている。運と偶然だけで人が死ぬ、という感覚は、四十年経っても薄まらない。
二つ目は、街が自分で終わらせたこと。捜査は最先端の技術で犯人の名前を割り出した。だが名前が分かってから、その男を実際に路上で止めたのは、警察ではなく、そこに住んでいた人たちだった。理髪師、車を修理していた男、買い物に行こうとしていた女性、その夫、隣の家の親子。彼らは英雄になろうとしたわけじゃない。自分の通りで起きていることに反応しただけだ。
この結末は、事件の暗さに対する、あまりにも人間的な解毒剤として機能した。だから語り継がれる。あの街区の人たちは今も「ヒーローの通り」の住民として記憶されている。
三つ目は、この事件が制度を変えたこと。一枚の部分指紋から三分で名前が出た、という一件が、カリフォルニアじゅうの警察に自動指紋識別システムを導入させた。当時の専門書は、この特定が世界中の見出しを飾ったおかげでシステムの予算が確保された、と率直に書いている。今、どこの国の警察も当たり前に使っている技術の普及に、この事件が背中を押した。皮肉と言えば皮肉だ。
一つの事件が、次の事件を早く解くための道具を作った。
そして、たぶんもう一つある。この事件は、恐怖がどうやって作られ、どうやって共有され、どうやって形を変えるかの標本になっている。新聞社の会議室で決まった呼び名が、街の空気を変えた。テレビ記者が報じた五芒星が、ロックバンドを標的にした。市長の善意の会見が、証拠を海に沈めた。ホテルの怪談ツアーが、事実と伝説の境目を溶かした。ドキュメンタリーが、忘れかけていた記憶を新品同様にして返してきた。
一九八五年八月、南カリフォルニアの何百万人が、汗をかきながら閉め切った部屋で眠れない夜を過ごした。あれは一人の男が起こしたことだ。でも、あの窓を閉めさせたのは、その男だけじゃない。新聞と、テレビと、隣人の噂話と、時代の空気と、そして自分の想像力だった。
窓を開けて寝るという習慣は、その後ゆっくりと戻ってきた。でも完全には戻らなかったと、あの夏を知る人は言う。夜中に物音がしたとき、一瞬だけ体がこわばる。その一瞬は、四十年経ってもまだ消えていない。
