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洗われた子どもが雪の上に置かれていた――五十年、オークランド郡の四人はなぜ帰ってこないのか

一九七六年から七七年にかけての十三か月、アメリカ・ミシガン州デトロイト北郊のオークランド郡で、四人の子どもが消えた。そして数日から十九日という「空白」ののち、道端や駐車場や雪の吹きだまりに、遺体となって戻ってきた。四人とも体をきれいに洗われ、服を洗濯して着せ直され、髪まで整えられていた。眠っているように仰向けに置かれ、持ち物までそばに添えられていた。半世紀が経ったいまも、誰ひとり起訴されていない。

有罪判決を受けた人間は一人もいない。この記事は、その五十年ぶんの話――四人の子どもと、一つの町と、いまだに開かない書類の話だ。

  1. 「一九七六年二月十五日、リージョン・ホールを出た十二歳」
  2. 「ビスケットが作りたくなくて家を出た十二歳――ジル・ロビンソンの四日間」
  3. 「十九日間、彼女はどこかで生かされていた」
  4. 「三十セント借りて、薬局の裏口から夜へ――ティモシー・キングの七日間」
  5. 「洗い、着替えさせ、寝かせるように置く。その几帳面さが意味したもの」
  6. 「牛乳パックに『知らない人について行かない』と刷られた冬」
  7. 「三百人の刑事、一万八千件の通報、そして何も出なかった」
  8. 「青いグレムリンという名の袋小路」
  9. 「『フランク』の同居人を名乗る手紙が、精神科医のもとに届いた」
  10. 「ワイオミングの墓を掘り返した男――デビッド・ノーバーグ」
  11. 「四回有罪判決を受けて、一日も服役しなかった男」
  12. 「一本の毛髪が指した、当時十六歳の少年」
  13. 「アーチ・スローンのポンティアックから出た毛髪」
  14. 「キャス回廊の男たちと、取引を蹴った男」
  15. 「アルペナの喫茶店で九か月間、男は何を話したのか」
  16. 「北フォックス島――『少年キャンプ』の看板の裏で」
  17. 「三千四百十一ページ。父親が一万二千ドル払って手に入れたもの」
  18. 「二〇一二年、検察は正面から反論した」
  19. 「毛髪は使い切られ、繊維は『色が似ているだけ』になった」
  20. 「掘り起こしたのはネットで、荒らしたのもネットだった」
  21. 「五十年目の二〇二六年に起きたこと」
  22. 「なぜミシガンはこの事件を手放せないのか」

「一九七六年二月十五日、リージョン・ホールを出た十二歳」

最初に消えたのはマーク・スティビンズという十二歳の少年だった。ファーンデールという、デトロイトの北にへばりつくように広がる小さな街に、離婚した母親と暮らしていた。リンカーン中学の七年生で、身長は百四十センチちょっと、体重は四十五キロほど。おとなしい子だった、というのが周囲の一致した記憶である。

一九七六年二月十五日、日曜の午後一時半、マークは母親に電話をかけている。地元のアメリカン・リージョン・ホール、つまり在郷軍人会の集会所にいて、これから歩いて家に帰るという連絡だった。距離にすればわずかなものだ。だが彼は帰らなかった。母親がファーンデール警察に届け出たのは、その日の夜十一時である。半日近く、家族は「そのうち帰ってくる」と自分に言い聞かせていたことになる。

四日後の二月十九日、午前十一時四十五分ごろ。サウスフィールドのショッピングモールに隣接する事務所ビルの駐車場で、ドラッグストアへ向かって歩いていた実業家のマーク・ボーティグハイマーという男性が、青いジャンパーとジーンズを着たマネキンが転がっていると思って足を止めた。近づいて、それが子どもの遺体だと分かった。マークは行方不明になった日と同じ服を着ていた。

木くずと土の山の上に、隠す気などまるでない置かれ方をしていた。

この現場には、当時からずっと引っかかったままの証言がある。同じ日の午前九時半ごろ、その駐車場で犬を散歩させていた男性がいた。六メートルほどのリードを付けて、遺体があったあたりを歩き回ったという。もしあの時間に遺体があったなら、犬が必ず気づいたはずだと彼は言った。この証言が正しいなら、遺体は九時半から十一時四十五分のあいだに置かれたことになる。

つまり犯人は、日曜の朝の郊外で、人目のある駐車場に子どもの遺体を運び込んで立ち去ったのだ。

検死は窒息死と判定した。首と手首と足首にロープの跡があり、拘束されていたことは明らかだった。性的暴行の痕跡も認められた。ただしこの遺体については、後年ずっと議論の種になる事情がある。当時のオークランド郡検事だったブルックス・パターソンが後に語ったところでは、マークの遺体は検死のチームによって洗われてしまい、そこにあったかもしれない指紋は流されたという。「犯人が洗った」のか「警察が洗った」のか。

四人ぶんの記録が公開されるまで、この区別は長いあいだ曖昧なまま流通していた。

「ビスケットが作りたくなくて家を出た十二歳――ジル・ロビンソンの四日間」

二人目までには十か月の間隔がある。ジル・ロビンソン、十二歳。ロイヤルオークに住んでいた。母親のキャロルと言い争ったのが、一九七六年十二月二十二日のことだ。夕食のビスケットを作りなさいと言われて、ジルは嫌だと答えた。母親は「家族の一員になる気になるまで出て行きなさい」と言い放った。どこの家庭にもある、その日のうちに忘れられるはずの類の口論である。

ジルは自分の部屋に上がって着替え、デニムのバッグに服と毛布を詰め、自転車で家を出た。バーミンガムに住む父親のところへ向かうつもりだったらしい。ウッドワード大通り沿いの模型店のあたりで、家族の知人が彼女を見かけている。家から四ブロック半の場所だ。父親のトム・ロビンソンが警察に行方不明を届け出たのは、その日の夜十一時半だった。

翌朝六時から七時のあいだ、メイプル通りのドーナツ店にジルがいたという目撃証言もある。自転車は後日、地元のホビーショップの裏で見つかった。

遺体が見つかったのはクリスマスの翌日、十二月二十六日の朝である。州間高速七五号線のビッグビーバー通りの北側、路肩。トロイ警察署の建物が見える位置だった。至近距離から十二番径の散弾銃で顔を撃たれていた。仰向けで、服は全部着たまま、家を出たときに背負っていたバッグまで身につけていた。性的暴行の痕跡はないと発表された。

そしてここが、この事件の異様さを最初に突きつけた点だ。検死の結果、ジルは殺される前の少なくとも三日間、食事を与えられ、世話をされていたことが分かった。四日間のうち三日、彼女は誰かの手で生かされていた。当時の捜査幹部は、散弾銃は犯人がパニックを起こした結果の「事故」ではないかと考えた。他の三人が窒息死であることを思えば、この一件だけが手順から外れている。

母親のキャロルが後にアメリカの週刊誌に語った話は、いま読んでも息が詰まる。殺される前の一年ほど、ジルはうまく説明のつかない恐怖に取りつかれていたという。「おかしいのは分かってるんだけど、誰かに撃たれるような気がするの」と娘は母に言った。児童心理の専門家のところへ連れて行ったが、不安は消えなかった。あの十二月の夜、泣きそうになっている娘を母親は抱きしめ、二人で泣いた。

その数日後に口論があり、娘は自転車で出て行き、散弾銃で撃たれて戻ってきた。父親のトムは警察の初動に強い怒りを残した。家出扱いされて四十八時間動いてもらえなかった、あの子は家出じゃない、腹を立てて飛び出しただけの子どもが、下衆な人間に拾われたんだ、と。

「十九日間、彼女はどこかで生かされていた」

三人目は年が明けてすぐだった。クリスティン・ミヘリック、十歳。バークリーのパッテンギル小学校の五年生で、母親と暮らしていた。一九七七年一月二日、母親とクリスマスツリーを片づけたあと、二ブロック先のセブンイレブンに行きたいと言い出した。目当ては十代向けの芸能雑誌だ。母親は最初、十二マイル通りを渡るのは危ないと言って断っている。それでもクリスティンが食い下がるので、最後は折れた。

それが家族が彼女を見た最後になった。

母親は三十分経っても帰らないので警察に電話をかけた。そこから十九日間、母親はバークリーの自宅で二十四時間態勢の待機を続けた。テレビカメラの前に立ち、娘を返してほしいと訴えた。無理に食べ続けて体重が十三キロ増えた。近所の人たちが身代金用にと一万七千ドルを集め、家を抵当に入れると申し出た友人もいた。だが要求の電話は一度も鳴らなかった。

一月二十一日、フランクリン村の袋小路の突き当たりで、郵便配達員が雪の吹きだまりの中に彼女を見つけた。自宅から十キロ弱。周囲の家々から見える場所だった。遺体は仰向けで膝を軽く引き寄せた姿勢。着ていたのは失踪したときと同じ服。暴力の痕跡はなく、性的暴行も認められなかった。死因は窒息。そして決定的だったのは、死亡推定時刻が発見の二十四時間以内だったことだ。つまり彼女は十八日間、どこかで生きていた。

誰かが十八日間、十歳の子どもを近隣に気づかれずに閉じ込め、食べさせ、世話をしていたことになる。

遺体は完全に凍りついていて、その日のうちに解剖ができなかった。翌日まで待つしかなかった、と記録は淡々と書いている。この「十九日間」という数字が、その後の捜査の性格をほとんど決定づけた。犯人には、長期間子どもを隠しておける空間がある。同居人がいないか、いても黙っている。近所から苦情が出ない環境がある。そして日中に自由に動ける立場がある。

「三十セント借りて、薬局の裏口から夜へ――ティモシー・キングの七日間」

四人目、ティモシー・キング。十一歳。バーミンガムのヨークシャー通りに住み、父のバリーは弁護士、母のマリオン、上に三人のきょうだいがいる家の末っ子だった。野球とホッケーが好きで、スケートボードにいつも乗っていた。成績は良く、学校の劇にも出ていた。

一九七七年三月十六日の水曜の夜、両親は父の仕事の顧客と外で食事をしていた。兄二人は用があり、姉にも予定があった。ティムは近所の子のベビーシッターを引き受けたこともあったので、少しの時間なら一人で留守番できるだろうと親は判断した。八時十五分ごろ、ティムは姉から三十セント借りて、スケートボードを抱えて家を出た。行き先は三ブロック先のハンター・メイプル薬局。何十回も往復した道である。

姉には「ドアを少し開けておいて」と頼んでいた。

薬局の店員エイミー・ウォルターズは、八時半に彼にキャンディーを売ったと証言した。静かな子で、スケートボードを持って入ってきて、菓子を買って、裏口から暗い駐車場へ出て行った。両親が帰宅したのは九時。ドアは頼まれたとおり少し開いていて、ティムはいなかった。

翌朝九時十五分には、すでに捜査本部の招集がかかっていた。この十四か月で地域から消えた子どもは、これで七人目という数え方をされていた。警察はティムの家から数ブロックの場所に前線本部を置き、一軒ずつ回り、同級生を片っ端から聴き取った。父バリーは三月十八日、バーミンガム警察署の前でテレビカメラに向かってこう呼びかけた。「一緒にいるからな、坊主。愛してるぞ。神のご加護を。踏ん張れ」。

さらに犯人に向けて、「あなたに子どもがいるかどうか、欲しいと思っているかどうかは知らない。でもどうか、ティムを自分の子どもだと思って扱ってください」と語りかけた。母マリオンはデトロイトの日刊紙の一面に、犯人宛の公開書簡を書いた。身代金要求らしき連絡が入って一瞬だけ希望が生まれたが、悪質ないたずらだった。

三月二十三日の夜、リボニアのギル通り沿い、八マイル通りの三百フィートほど南の浅い側溝で、通りがかりの人がティムを見つけた。交通量の多い交差点のすぐ近くだ。家から十七、八キロ離れている。発見時、遺体はまだ温かかった。死後およそ六時間。着ていたのは薬局へ行ったときと同じ服で、スケートボードは体から四、五メートルのところにきちんと置かれていた。

解剖で分かったことが、この事件の名前を決定づけた。ティムは死ぬ直前にケンタッキーフライドチキンを食べていた。彼の好物だった。そして体は徹底的に洗われ、髪も爪も整えられ、服は洗濯されていた。手首と足首には拘束の跡があった。性的暴行を受けていた。七日間、誰かが彼を生かし、食べさせ、彼の好きなものを買ってきて、そして殺した。

その夜、キング家はテレビで深夜のトーク番組を見ていた。速報が入った。リボニアで少年の遺体が発見された、と。数時間後、警察署長と司祭が玄関に立った。葬儀の日、教会の駐車場には私服警官がいて、参列者を写真に撮っていた。犯人が来るかもしれないという判断だった。ティムは青いウォームアップスーツを着せられ、棺は野球のボールとバットをかたどった花で覆われた。

「洗い、着替えさせ、寝かせるように置く。その几帳面さが意味したもの」

四人の共通点を並べたとき、捜査員が最初に凍りついたのは殺し方ではなく、殺したあとの手つきだった。当時の週刊誌は「倒錯した優しさ」と書いた。犯人は子どもを三日から三週間近く手元に置き、風呂に入れ、あるいは入らせ、食事を与え、服を洗った。そして殺したあと、眠っている姿勢に整えて、必ず見つかる場所に置いた。冬だから、たいていは雪が毛布の役割をした。

バーミンガム警察署長ジェリー・トービンは一九七七年三月、記者団に向かってこう言っている。「我々はこの人物を、ホワイトカラー層か専門職の人間だと考えている。医師、警察官、聖職者のような、信用される立場の誰かだ」。では隣人を疑えというのか、と問われて、彼は短く「そうだ」と答えた。この一言が郊外住宅地に何をもたらしたかは、あとで書く。

捜査本部が作った犯人像は、白人男性、二十五歳から三十五歳、平均以上の知能、極端な清潔志向、権威を感じさせる雰囲気、子どもに信用される外見、地域に住んでいるか土地勘がある、そして時間の自由が利く仕事に就いている、というものだった。長期の監禁が可能な空間を持っているという条件も加わる。犯人像として見れば、ずいぶん具体的だ。だが具体的すぎる犯人像は、当てはまらない人間を除外する道具にはならない。

「洗われていた」という特徴が捜査に突きつけたのは、単純だが残酷な事実だった。証拠が、ない。指紋も、体液も、繊維も、ほとんどが流されている。一九七〇年代半ばのアメリカの警察は、微細証拠を集める技術も、それを保存する発想も、いまとは比較にならないほど貧弱だった。遺伝子鑑定は影も形もない。犯人が几帳面だったのか、それとも捜査側が几帳面でなかったのか。両方だった、というのがおそらく正しい。

マーク・スティビンズの遺体が検死チームに洗われたという当時の検事の証言は、後年、家族が公文書を掘り返すまで、ほとんど誰にも顧みられなかった。

もう一つ、この「洗う」という行為の意味をめぐっては、当時から二つの読みが対立していた。一つは、罪悪感と儀式性。子どもを清め、眠らせるように置くのは、殺した相手への一種の埋め合わせであり、犯人の内側では「面倒を見てやった」という物語になっている、という読み方だ。「ベビーシッター」という不快なあだ名は、この読みから生まれた。もう一つは、単純に、証拠隠滅。

手際のいい犯罪者が、指紋と体液と毛髪を落としただけだ、という読み方である。前者はメディアと世間を惹きつけ、後者は捜査員の現実だった。五十年経っても、どちらが正しいかは決まっていない。

「牛乳パックに『知らない人について行かない』と刷られた冬」

一九七七年の春、オークランド郡は完全に別の場所になっていた。ニューヨークの新聞は三月二十四日付でこう書き出している。バーミンガムの中心部近くにあるハンター・メイプル薬局に、子どもたちはもう小遣いを使いに来ない。裏の駐車場でスケートボードに乗る子もいない。少なくとも夜は。少なくとも一人では。

親たちは子どもを学校まで車で送るようになった。図書館へも、遊び場へも、車で送り迎えした。スクールバスの運転手は、停留所に親か、親が指定した大人が立っていない限り子どもを降ろさなくなった。歩いて通う子は、必ず集団で歩き、近所の大人が窓から見ていた。日が暮れると通りから人影が消えた。三人の子を持つ母親は取材にこう答えている。「私たち、怯えきってるの。

この一帯の決まりとして、どの子も一人では学校に行かないし帰らない」

学校で、牛乳パックで、バンパーステッカーで、アイロンプリントのシャツで、そしてラジオのジングルで、同じ言葉が繰り返された。知らない人について行かない。懸賞金は総額七万ドルに達し、その空気の中で、妻が夫を通報し、母親が息子を通報し、学校が教職員を洗い直した。地元のソーシャルワーカーが漏らした言葉が、当時の異様さを一番よく表している。

「犯人が捕まったら、うちの子どもたちは恐怖を解除してやらないといけない。普通なら、こんな恐怖を教え込むのは子どもに害だ」

警察に「見知らぬ男が子どもを無理やり車に乗せている」という通報が相次いだ。駆けつけてみると、その男はその子の父親だった、という笑えない話が何件もあった。歯医者へ行くのが嫌で車に乗るまいと抵抗していた子どももいた。誤報が笑い話で済むうちは、まだよかった。

そして重要なのは、これがどういう場所で起きたかということだ。オークランド郡はデトロイトの北西二十八マイル、白人中産階級と専門職が、荒れていく都市から逃れてきて作った郊外である。バーミンガムは特にその象徴だった。芝生と街路樹、自転車で回れる範囲に薬局と図書館とリトルリーグの球場がある。そこは「そういうことが起きない場所」であるという合意そのものが商品だった。

事件が壊したのは四つの家庭だけではなく、その合意だった。地元の記者や研究者がしばしば書くように、アメリカ郊外の「知らない人に気をつけろ」という育児文化が制度として固まった時期と、この事件は正確に重なっている。

「三百人の刑事、一万八千件の通報、そして何も出なかった」

捜査本部の構想が生まれたのは、クリスティン・ミヘリックが行方不明になった時点である。サウスフィールド警察のジェリー・シモンズという警部補が、ジル・ロビンソン事件とミヘリック失踪に関係する各署を集めた会議を設定した。実際に予算と人員が付いたのは、ティモシー・キングが消えてからだ。

規模は当時のアメリカでは前例がなかった。ミシガン州警察が主導し、十三の自治体の警察、郡保安官事務所、郡検事局、連邦捜査局が加わった。ピーク時の人員は三百人と伝えられ、一九七七年末の時点でも三十五人の刑事が常駐していた。本部はオークランド郡の学校の別棟に置かれた。連邦の法執行支援機関から六十七万一千ドルの補助金が付き、最終的な総経費は二百万ドル規模に膨らんだ。

そこに、通報が雪崩れ込んだ。ピーク時には一日三百件。一九七七年末までに電話と手紙で一万三千五百件、最終的には一万八千件を超えたとされる。数字は資料によって一万一千件、一万六千件、二万件と揺れるが、どれを取っても当時としては桁外れだ。ボランティアが受け付け、コンピューターで相互索引を作った。七千四百人が容疑者として一度は俎上に載り、七十九人にポリグラフ検査が実施された。

既知の性犯罪者一万人分のファイルが読み返され、児童ポルノのフィルムが何十本も上映された。四人のうちの誰かが写っていないかを確かめるためだ。捜査員は性的嗜好の専門誌に囮の広告を出し、それに食いついた人間を割り出した。同性愛者が集まる店の張り込みもした。いま読めば人権感覚の面で問題含みの手法が並ぶが、当時はそれが「あらゆる手を尽くした」ということだった。

そして結果は、ゼロである。逮捕は二十数件出たが、いずれも本件とは無関係の別件だった。捜査を率いた州警察のジョセフ・クリース巡査部長は、率直にこう言っている。「普通の誘拐なら、こちらにも手がかりがある。だがここでは子どもが空気に溶けるように消える。見つけるには郡じゅうの家に一軒ずつ入るしかない」。捜査本部は一九七八年十二月に解散し、事件は州警察に引き継がれた。予算を使い切って、何も出さずに、である。

「青いグレムリンという名の袋小路」

この捜査を象徴する一本の線が、青いエーエムシー・グレムリンだ。ティモシーの失踪後、ある女性が、薬局の駐車場でスケートボードを持った少年が男と話しているのを見た、その近くに白いストライプの入った青いグレムリンが停まっていた、と証言した。証言は催眠下の聴取でさらに詳しくなり、もみあげの濃い、シャギーカットの若い男という似顔絵が公開された。

そこから先は総力戦だった。州内で一九七三年から七七年に登録されたグレムリン八千台のうち三千台が追跡され、オークランド郡のグレムリン所有者は片っ端から事情を聴かれた。警官は道路で青いグレムリンを見るたびに停めた。当時二十歳の新米警官だったマイク・ブシャード、いまのオークランド郡保安官は、ティムが消えた夜のことをこう振り返る。「あの晩の記憶がいちばん鮮明だ。

願っていたのは、あの子がトランクか後部座席で縛られたまま運ばれている車を、動いているうちに捕まえられないか、ということだった」

ところが、この車の線は年月とともに崩れていく。ティモシーの兄クリスは二〇一七年の取材で、弟を探して現場に駆けつけた数時間後にも、その青いグレムリンは駐車場に停まったままだった、と述べている。当時の捜査記録を読み直すと、捜査員はむしろ青か濃色のポンティアック・ルマンかテンペストを重視していた形跡がある。

二〇一三年にはグランドブランクの農地跡から青いグレムリンが掘り出されるという珍事もあり、警察が調べたが、事件との接点は出なかった。二〇二〇年、当時のオークランド郡首席次席検事ポール・ウォルトンは、あの有名な似顔絵は一人の人物を描いたものではなく、複数の目撃情報の特徴を合成したものだと明言している。半世紀にわたって「犯人の顔」として流通してきた絵は、そもそも誰の顔でもなかった。

一つの車種と一枚の絵に膨大な人員が吸い込まれ、その裏で別の線が細っていく。捜査本部の最大の失敗は、情報が足りなかったことではなく、多すぎる情報の重みづけを誤ったことだった、という評価は、いまではかなり広く共有されている。

「『フランク』の同居人を名乗る手紙が、精神科医のもとに届いた」

ティモシー殺害の数週間後、捜査本部に協力していたデトロイトの精神科医ブルース・ダントーのもとに、長い手紙が届いた。差出人は自らを「アレン」と名乗った。綴りも句読点もめちゃくちゃな文面で、彼はこう書いていた。自分は犯人と同居している。犯人の名は「フランク」だ。

「おれは絶望していて頭がおかしくなりそうで、もうどこにも行くところがない。お願いだから犯人を警察に渡さないでくれ。あんたが助けてくれないと、他に頼れる人がいない。これは本当のことだ。おれは犯人を知っている。一緒に住んでいる。おれは奴の奴隷だ」

アレンによれば、二人はベトナムで出会い、戦争がフランクの頭を壊した。「あいつは当時、小さい子どもを大勢殺して、そのことで勲章をもらった。焼き殺して、ナパームで爆撃して。あいつはバーミンガムみたいな金持ちどもに、おれたちが国のために尽くして何ももらえなかったのと同じ苦しみを味わわせたいんだ」。そして続ける。「あんたが思ってるような怪物じゃない。あいつは本当に子どもが好きなんだ。

特にあの女の子は三週間もいた。子どもが憎いからやってるんじゃなくて、外にいる他の全部が憎いからやってるんだ」。アレンは、フランクが仕事に出ているあいだ、自分がデトロイトのアパートで子どもたちと一緒にいた、他の住人に聞こえないよう猿ぐつわをしていた、とも書いていた。

ダントーへの連絡方法として、アレンは新聞に暗号を載せることを求めた。日曜版に「気象台によれば三週間で木々が花をつける」と印刷しろ、というのだ。合図は出された。四月十日、アレンから電話が入り、翌十一日の夜にバーで会う約束が成立した。アレンは、フランクが四人を殺した証拠になるポラロイド写真を持って行く、その代わり当時のミリケン州知事名義の免責状を持ってきてくれ、と要求した。

アレンはバーに現れなかった。それきり二度と連絡はなかった。ダントーは「あの男の声は本当に怯えていた。冷静に取り繕っている感じではなかった。いたずらだとは思わない」と語り、後年には、アレンは罪悪感で自殺したか、口封じに殺されたかのどちらかだろうという見方を示した。

この手紙は、いまも解けていない。筆跡も封筒も切手も残っている。にもかかわらず、遺族が繰り返し求めてきた「アレンの手紙と封筒と切手の遺伝子鑑定」は、二〇二〇年代に入っても実施されていないと遺族側は主張している。四十年以上前の唾液の痕跡から何が出るかは分からない。ただ、やっていないという事実だけは動かない。

「ワイオミングの墓を掘り返した男――デビッド・ノーバーグ」

浮かんでは消えた男たちを、順番に見ていく。まず一九九九年まで有力視されていたのがデビッド・ノーバーグである。一九八一年に死亡した人物で、彼の遺品の中から、被害者の持ち物ではないかと一部の捜査員が考えた装身具が見つかっていた。一九九九年、当時オークランド郡の首長になっていたブルックス・パターソンらが動き、ワイオミング州レクルースの墓が掘り返された。遺骨から採取された試料が鑑定に回され、結果は不一致。

ティモシー・キングとクリスティン・ミヘリックの遺族は、問題の装身具に見覚えはないと明言している。

この掘り起こしについて、遺族側は後年かなり辛辣な評価をしている。遺伝子鑑定が犯罪捜査で実用段階に入った時期に、警察は「やることはやった」という体裁を作るためにこの一件を使ったのではないか、という見方だ。私設機で飛んで、死人の骨を掘って、連邦捜査局に出して、不一致でした、以上。そういう「一発勝負」の構図で幕を引かれた、と。

もちろんこれは遺族側の解釈であって、当時の関係者は事件解決への真剣な試みだったと主張している。ただ、一九九九年の時点で保管されていた証拠が本当に「毛髪一本だけ」だったのか、という疑問は、後に思わぬ形で蒸し返されることになる。

「四回有罪判決を受けて、一日も服役しなかった男」

この事件を語るときに避けて通れないのが、クリストファー・ブライアン・ブッシュという名前だ。ブルームフィールドヒルズに住み、ゼネラルモーターズの財務担当重役ハロルド・リー・ブッシュの息子だった。

一九七七年一月末、グレゴリー・グリーンという男が児童への性的暴行容疑で逮捕される。取り調べの中でグリーンは、ブッシュがマーク・スティビンズを殺したと供述した。捜査本部の幹部がフリントまで飛んで、ブッシュを取り調べた。ところが数時間のうちにブッシュはポリグラフを通過し、釈放される。グリーンも同じくポリグラフを通過している。グリーンは児童への性的暴行で有罪となり終身刑。

ブッシュは、当時十六歳だったジェームズ・ビンセント・ガネルズへの性的暴行を認めながら、司法取引で保護観察処分になった。彼は生涯で四度、未成年に対する性犯罪で有罪判決を受けたが、一晩も刑務所で過ごしていない。

一月末に取り調べを受け、釈放されたブッシュ。その一か月半後、三月十六日にティモシー・キングが消える。時系列だけを並べると、これは相当に嫌な並びだ。しかも、ティムが行方不明になった三日後の三月十九日、ミシガン州北部モンモランシー郡の警察に、ブッシュがエス湖の別荘に十三歳から十五歳の少年三人と一緒にいる、という通報が入っている。その三日後、ティムの遺体はリボニアに置かれた。

一九七八年十一月、ブッシュはブルームフィールドヒルズの自宅の寝室で、眉間を撃たれた状態で発見された。自殺と処理された。二十七歳だった。現場の写真には、壁に画鋲で留められた一枚の絵が写っている。恐怖に叫ぶ少年の絵だ。フード付きジャンパーを着ていて、捜査員はすぐにマーク・スティビンズに似ていることに気づいた。クローゼットの床には、暗赤色に染まったロープがあった。

この写真と絵の存在が公になったのは、二〇一一年である。事件から三十四年後だ。

遺族が納得していないのは、この自殺そのものについてもだ。複数の警察関係者が地元局に、現場の状況は自殺としては不自然で、他殺の可能性がある、と語っている。そして問題のロープは、長年証拠保管庫にあったのち、行方不明になった。

ここは慎重に書く必要がある。ブッシュが犯人だと立証されたことは一度もない。二〇一二年、オークランド郡検察は正式に、ブッシュを指し示す証拠は一つもない、彼の遺伝子型は保管されている物証と一致しない、と発表している。彼は死者であり、反論できない。だからこの記事も「疑いが濃い人物の一人として長く扱われてきた」以上のことは書かない。

ただ、なぜ彼が一九七七年一月に釈放され、なぜその情報が三十年間遺族に伝えられなかったのか、という問いは、いまも答えが出ていない。

「一本の毛髪が指した、当時十六歳の少年」

二〇一一年五月、地元テレビ局の調査報道班が、警察内部の文書をもとに一つの事実を報じた。クリスティン・ミヘリックの上着から採取された毛髪が、ミトコンドリアディーエヌエー型で、カラマズーに住むある男性と一致する、というものだ。文書は、これを「本事件史上初の物証の一致」と記していた。

その人物が、ジェームズ・ビンセント・ガネルズである。事件当時十六歳。前述のとおり、クリストファー・ブッシュに性的暴行を受けた被害少年であり、ブッシュはその件で有罪判決を受けている。捜査文書は、ガネルズが犯行グループの一員だったか、あるいは子どもを近づけるための「誘い役」だった可能性を検討していた。

ガネルズはエス湖の別荘でブッシュから十二番径の散弾銃の撃ち方を教わったと供述しており、ジル・ロビンソンが十二番径で撃たれていることと重なる。

ただし、ミトコンドリア型の一致というのは、そのままでは決定打にならない。母系を共有する人間全員が同じ型になるからだ。母、母の兄弟姉妹、母の子ども、その全員が一致する。しかも毛髪の状態が悪く、核ディーエヌエーは取れなかった。集団の一パーセント程度まで絞れる、という程度の証拠である。ガネルズは逮捕も起訴もされず、二〇一二年に地元局の取材にこう答えている。「私は無実だ。

でも同時に、州警察が自分たちに都合よく言葉をねじ曲げるやり方も知っている。あの家族たちには心から同情する。本当に、本当に。あの人たちは、この一連のことで正義を受け取っていないと思う」

同じ年の秋、ガネルズは自分からバリー・キングに連絡を取り、カラマズーで会いたいと申し出た。十月、バリーと息子のクリスが、ガネルズの断酒会のスポンサーの家を訪ねている。ガネルズは、ブッシュに性的暴行を受けたことは認めたが、殺害については何も知らない、ブッシュと殺害を結びつける材料も持っていない、と語った。会談は、それだけだった。

「アーチ・スローンのポンティアックから出た毛髪」

もう一人、二〇一二年以降ずっと名前の挙がってきた人物がいる。アーチボルド・エドワード・スローン。少年への性犯罪を繰り返してきた男で、一九七六年当時、遺体発見現場から十一キロほどのところに住んでいた。マーク・スティビンズの遺体が十マイル通りとグリーンフィールド通りの交差点付近で見つかったとき、彼の保護観察官がサウスフィールド警察に「この男を調べたほうがいい」と伝えている。

スローンは任意で、自分の一九六六年型ポンティアック・ボンネビルの車内を調べさせた。捜査員は座席から粘着テープで微細物を採取した。逮捕はされなかった。それから三十六年後、連邦捜査局の研究所で行われた鑑定が、この採取物とマーク・スティビンズ、ティモシー・キング両方の遺体に付着していた毛髪が、同一の男性に由来することを示した。二人の男の子をつなぐ、初めての物的な線である。

だが、その毛髪はスローンのものではない。二〇一二年七月十七日の記者会見で、当時のオークランド郡検事ジェシカ・クーパーはこう述べた。「捜査員は車内から粘着採取を行い、そこには細かい毛髪、繊維、獣毛が付いていた。しかし鑑定の結果、この毛髪は車の運転者のものではなかった。運転者は、ボンネビルから出た毛髪の提供者でも、少年たちから出た毛髪の提供者でもない」。

つまりこの毛髪は、スローンの車に乗ったことのある誰か、あるいは彼が車を貸した誰かのものだ。

スローンは一九八四年から服役している。デトロイトのパッカード工場跡に停めたキャンピングカーの中で十歳の少年を暴行した罪で、有罪を認めた。それは、ペンシルベニアとミシガンにまたがる十四年ぶんの性犯罪歴の終着点だった。二〇一〇年と二〇一二年に捜査本部の聴取を受け、地元局の報道によれば、ティモシー・キングに関する質問でポリグラフに不合格になっている。

ただし本人が事件への関与を認めたことは一度もなく、公に立証もされていない。

二〇二六年八月、彼と二年ほど同房だったという男性がテレビの取材に応じた。刑務所の中でスローンは「オークランド郡児童殺しの男」として扱われていた、と彼は言う。房にはあのボンネビルの写真を飾っていた。金を送ってくる古い知り合いがいて、その男についてスローンはこう言ったという。「あいつはいつもおれの車に乗ってた連中の一人だ。おれより二つ三つ年上で、いまもディーゼルのトラックに乗ってる。

おれにできるのは電話することだけで、そうすると金を送ってくる」。事件の話を振ると、スローンはいつも同じ返事をした。「言うことは何もない。それは自分の事件じゃないんだ」

「キャス回廊の男たちと、取引を蹴った男」

二〇〇六年十二月、オハイオ州パーマハイツで、デトロイトのキャス回廊で一九七〇年代に少年を食い物にしていた集団の生き残り二人が逮捕された。元自動車工のテッド・ラムボージンと、リチャード・ローソンである。五人組のうち、そのとき生きていたのはこの二人だけだった。ラムボージンは児童への性的暴行十九件、ローソンは二十八件で起訴された。

二〇〇七年三月、捜査関係者は地元局に、ラムボージンが本件の最有力容疑者だと語った。ここで異様なことが起きる。検察はラムボージンに、オークランド郡の児童殺害についてポリグラフ検査を受けることを条件とした司法取引を提示した。減刑と引き換えの提案もあった。彼はそれを断り、少年に対する性犯罪十五件について有罪を認めて、終身刑相当の刑を受け入れた。

ポリグラフを受けるくらいなら残りの人生を刑務所で過ごす、という選択である。この一点だけで彼を犯人と決めつけることはできない。だが、多くの人がこの選択に引っかかり続けているのは事実だ。

二〇〇七年十月には、マーク・スティビンズの遺族がラムボージンを相手取り、二万五千ドルの損害賠償を求める民事訴訟を起こしている。訴状は、ラムボージンが一九七六年二月にマークを連れ去り、ロイヤルオークの家に四日間監禁した末に殺害した、と主張した。彼が本件で刑事訴追されたことは一度もない。遺族側の弁護士は、金額は問題ではないと強調していた。

一方のローソンは、別の殺人で終身刑に服していた二〇〇六年、地元局に「オークランド郡児童殺しの犯人を知っている」と語り、すでに死んでいた仲間の一人、ボビー・ムーアの名前を挙げた。ローソンは長年、デトロイト市警の情報提供者でもあった人物で、その供述は半分本当で半分嘘だという評価が付いて回る。

捜査当局は、ラムボージンもローソンも犯人ではないと考えているが、価値のある情報を持っているとは考えている、という立場を取り続けてきた。

「アルペナの喫茶店で九か月間、男は何を話したのか」

一九七八年末に捜査本部が解散したあと、捜査幹部が公然と口にした見立てが二つある。犯人は死んだか、精神科の施設に入れられたか、というものだ。一九七八年三月の地元紙は、犯人は裕福な家族の手で精神病院に入れられたのではないか、治療を受けているから通報する必要はないと身内が考えているのではないか、という説を紹介している。

同年十二月、州警察のロバートソン警部補は「絞り込めと言われれば、施設にいるか死んでいるかだと思う。ただ十セントも賭ける気はない」と語った。一九八〇年には後任の調整官が、犯人は裕福な家の息子で、両親が息子の正体に気づいてヨーロッパで精神科治療を受けさせているのではないか、という説まで口にしている。警察が公式に「犯人は死んだか精神病院にいる」と言い出す事件というのは、そう多くない。

この「施設」の話と、告白めいた証言が交差する場所に、ジョン・ヘイスティングスという名前がある。一九九一年九月、ミシガン州北部アルペナで、ヘレン・ダグナーという女性が知人の紹介でこの男と知り合った。夫は元警官で、彼女自身は小さな新聞の仕事をしていた。初対面の席で、彼女が連続殺人犯について書きたいと言うと、男は驚いて、オークランド郡の児童殺害を知っているかと尋ねてきた。彼女は知らないと答えた。

そこから九か月、二人はアルペナのファミリーレストランで毎日コーヒーを飲みながら会い続けた。ダグナーによれば、男は最初の一杯を飲み終わる前に四件の殺害をすべて描写し、犯人はどんな人間で、なぜやったのかを論じてみせた。犯人は子どもをかわいがり、食べさせ、風呂に入れたのだ、と。三週間もすると、男はそれを一人称で語り始めたという。冬が来て日が短くなると、彼女は帰りに彼を車で送るようになった。

雪の降る夜道で男は黙り込み、遺体を置いた場面を追体験しているように見えた、とダグナーは書いている。

これがどこまで信用できるかは、まったく別の話だ。ダグナーは警察に相手にされず、二〇〇一年から自前のサイトで情報を公開し続け、そのうち事実の誇張や創作が混じるようになった。後年、ウェイン郡のコリー・ウィリアムズ刑事に問い詰められて、いくつも嘘をついたと認めている。彼女の暴走が、この線そのものの信用を焼き払ってしまった、と考える人は多い。

ただ、公文書には別の顔もある。ヘイスティングスは一九九二年にティモシー・キングの件でポリグラフを受け、二〇〇九年八月にジョージア州で聴取を、十月に同州捜査当局のポリグラフ専門官によるポリグラフを受けている。対象はマーク、ジル、クリスティンの三件。ティモシーの件は一九九二年に済んでいるという理由で外された。

ジョージア側の専門官は、この男は事件に何らかの形で関与しているか、少なくとも知識を持っている、という所見を残し、ブッシュを知っていたことは確実だと述べたと文書は記す。設問と結果そのものは黒塗りだ。そしてこの情報は、ミシガン州警察の内部に留め置かれ、遺族が情報公開請求で掘り出すまで表に出なかった。遺族が繰り返し「この録画と報告書を出せ」と要求しても、応じられていない。

彼が犯人だという証明は、どこにもない。だが「調べ切っていない」という感触だけが、生々しく残る。

「北フォックス島――『少年キャンプ』の看板の裏で」

捜査本部が唯一、大きな成果と呼べるものを掘り当てたのは、皮肉なことに殺人事件そのものではなかった。一万八千件の通報を潰していく過程で、ミシガン湖に浮かぶ北フォックス島を拠点にした多州にまたがる児童ポルノ組織が浮上したのである。名前は「ブラザー・ポールズ・チルドレンズ・ミッション」。

一九七五年六月に法人登記され、読み書きに困難のある子どもへの支援、軽度の心理カウンセリング、体力づくりの講座を提供する慈善団体、と称していた。

島の持ち主はフランシス・シェルデン。名門の出で、イェール大学を出て地質学の修士号を持ち、慈善家として通っていたデトロイトの資産家である。一九六〇年に兄弟と二万ドルで島を買い、滑走路と桟橋と小屋を作った。地元紙は一九七五年十二月、彼を子どもや友人を自分の隠れ家に飛行機で連れて行く「ビッグブラザー」として好意的に紹介している。

実態は違った。親や保護者から八十五ドルを受け取り、六日間の滞在という名目で少年たちを自家用機で島へ運ぶ。島では裸で過ごすよう仕向け、性的行為を撮影する。その素材を載せた会報の購読者のうち、金を出す者は島に招かれた。共同経営者のジェラルド・リチャーズはポートヒューロンのカトリック校の体育教師でマジシャンでもあり、自分の教え子を含む少年を勧誘していた。

組織の親会社にあたる団体の代表にはアダム・スターチャイルドという白襟犯罪の常習者が名を連ねていた。

一九七六年七月、リチャーズが逮捕される。車と事務所からは大量の児童ポルノが押収され、そこには顧客の氏名と住所のリスト、そして他の児童ポルノ・売春組織の関係者の連絡先が含まれていた。三日後に州警察がシェルデンのアナーバーの自宅を捜索したときには、彼は姿を消し、引き出しも戸棚も空になっていた。

逮捕状の請求は郡と郡のあいだで押し付け合いになり、十二月にようやく発付されたときには、シェルデンは国外に出ていた。当時アメリカと犯罪人引渡条約を結んでいなかったオランダに渡ったとされる。彼は一度も裁かれず、一九九六年に死んだ。この事件で刑事責任を問われたのは、リチャーズ一人である。

北フォックス島とオークランド郡の四件をつなぐ「証明された線」は、いまもない。だが、投資家的な立場でこの組織の顧客だったとされる人物の中にクリストファー・ブッシュがいた、と捜査関係者は述べている。

元ウェイン郡刑事のコリー・ウィリアムズは、自分たちがこの事件でポルノ組織と小児性愛を動機として最初に見に行った、子どもたちが撮影されたのか、写真を撮られて回されたのかを調べるために相当な時間を割いた、と語っている。二〇二〇年代に入って、連邦捜査局がシェルデン関連で数千ページの文書を保有していることが報じられ、この島は「元祖エプスタイン島」として全国的な話題になった。

八歳のときに島に連れて行かれたという男性は取材に、大人たちが泳いだり遊んだりする自分たちを撮影していた、全員が裸だった、と語っている。

ここで押さえておきたいのは、可能性の構造だ。捜査当局は、シェルデンもリチャーズも児童殺害の犯人ではないと見ている。有力な仮説の一つは、犯人はこの島で被害に遭った側の人間ではないか、というものだ。加害の連鎖の末端にいた誰か。もう一つは、この種の組織があったからこそ、子どもを長期間隠しておける場所と、口をつぐむ人間のネットワークが地域に存在した、という見方である。どちらも証明されていない。

ただ、四人の子どもが消えた同じ時期の同じ州に、子どもを飛行機で運んで撮影する仕組みが実在していたことだけは、記録として動かない。

「三千四百十一ページ。父親が一万二千ドル払って手に入れたもの」

ここから先は、事件そのものではなく、事件の記録をめぐる三十年の戦争の話になる。

きっかけは二〇〇六年の一本の電話だった。キング家の子どもたちの幼なじみで、ポリグラフ検査官になっていたパトリック・コフィーが、ラスベガスの学会で同業のローレンス・ワッサーと会った。コフィーが、自分がこの仕事に就いた理由の一つはティム・キングの事件だと話すと、ワッサーの顔色が変わった。

三十年前、オークランド郡の児童殺害の容疑者を自分が検査した、その男は子どものうち一人を殺したと認めたのに、警察は彼を放免した、と彼は言った。容疑者もその弁護士もすでに死んでいる。名前は職業倫理上言えない。

キャシー・ブロード、旧姓キャシー・キングはこの話を数年抱えたのち、ウェイン郡側で捜査していたコリー・ウィリアムズ刑事に伝えた。ウェイン郡検察が捜査上の召喚状を出し、ワッサーに人物の特定を求めた。ワッサーは机に広げた複数のファイルのうち、どれに名前があるかを「ほのめかす」という形で協力した。自分の口からは名前を言わない、という職業上の建前を守るための方法である。

そこにあったのがクリストファー・ブッシュの名前だった。なお、ワッサーは後にコフィーとのやり取り自体を否定し、彼が本を書いて名を売りたいのだと主張した。コフィーは名誉毀損で提訴し、ワッサーが主張を撤回したことで訴えを取り下げている。

ここからバリー・キングの闘いが始まる。彼は弁護士だった。二〇一〇年、家族の友人の弁護士に依頼して、ミシガン州警察を相手に捜査記録の開示を求める訴訟を起こした。彼は勝った。州警察は三千四百十一ページの文書を引き渡した。手数料と複写代でおよそ一万二千ドル、遺族が自腹で払った金額である。

その山を読み込んだバリーの結論は、「ブッシュを白とする材料は一枚も入っていなかった」というものだった。同時に、遺族が三十年間知らされていなかった事実が次々に出てきた。四人全員の衣類から、同一の犬のものと思われる白い獣毛が見つかっていたこと。クリスティンの遺体から採取された毛髪でミトコンドリア型の一致が出ていたこと。ブッシュの自殺現場にあった絵とロープのこと。

そのどれも、遺族には伝えられていなかった。

オークランド郡検察に対する開示請求は、そう簡単にはいかなかった。検事ジェシカ・クーパーと首席次席検事ポール・ウォルトンは、捜査が継続中であることを理由に徹底的に争い、郡の裁判所でも州の上訴審でも勝った。バリー・キングは、ミシガン州憲法が犯罪被害者に与えている権利を根拠に、せめて検事と協議させろと求め続けた。

「私が誰かに求めてきたのはただ一つ、なぜブッシュを容疑者として追うのをやめたのか、その理由だ」と彼は語っている。「正当な理由があるなら、それを言ってくれればいい」

クーパーの側にも言い分はある。彼女は取材に対し、悲しみの中にいる父親の請求を断り続けるという難しい立場に置かれた、彼とは実際に会ったし、次席検事は彼の自宅まで行って話をした、と述べている。「彼にとっては非常にもどかしいことでしょう。子どもを失った人には深い同情があります。でも私の時間も資源も無限ではない。誰も投げ出す気はないけれど、答えが出る日が来るかどうかは分からない」

バリー・キングは二〇二〇年、答えを得られないまま亡くなった。妻マリオンは二〇〇四年に、やはり答えを知らないまま亡くなっている。「母は二度と元には戻らなかった」と、バリーは生前そう言っていた。娘のキャシー・ブロードは、父が死んだあとも文書の公開を求め続け、自ら手に入れた資料をすべて自分のブログに載せて公開している。

二〇二五年八月の投稿で彼女は、二〇二〇年の選挙のあとにクーパーの事務所で書類の裁断が行われ、その中に本件の文書が含まれていたと信じた内部告発者が二人の検察官に通報し、州司法長官事務所にも相談が行った、と書いている。捜査は行われなかった、とも。この主張は当局によって確認されていない。だが、遺族がこの種の疑いを抱くに至った経緯そのものが、この事件の四十年を要約している。

「二〇一二年、検察は正面から反論した」

公平を期すために、当局側の反論を独立した話として書いておく必要がある。二〇一二年六月から七月にかけて、オークランド郡検察は異例の形で記者会見と資料公開を行い、それまで流通していた「事実」の多くを否定した。

第一に、ブッシュについて。「ブッシュ氏がティモシー・キング、ジル・ロビンソン、クリスティン・ミヘリック、マーク・スティビンズを殺したと指し示せる証拠は、一つもない」とウォルトンは述べた。彼の遺伝子型は保管されている物証と一致しない。第二に、自殺現場のロープについて。

当時の州の法科学担当者をシカゴで見つけ出して聴取したところ、報告書には血液は付いていなかったと明記されており、本人も、もし血が付いていれば証拠課に回していたと証言した。「血染めのロープ」という描写自体が、後年の解釈だったという主張である。第三に、白い獣毛について。四人全員から白い獣毛が出たのは事実だが、それらは同一の動物のものではない。

第四に、カーペット繊維についても、同一のカーペット由来と断定できるものではなく、「色が似ている」「同じ光学的な平面にある」という程度のものだった。第五に、ブッシュの部屋にあった散弾の薬莢は、ジル・ロビンソンを撃った銃の口径と結びつけられなかった。航空宇宙局にまで持ち込んで調べたが、特定できなかったという。第六に、あの有名な似顔絵は一人の人物の顔ではない。

そしてクーパーはこう言った。「一人の犯人だったのか、二人が組んでいたのか、それとも別々なのか、我々には分からない。ただ分かっているのは、この事件を解決するのは科学だということです」。彼女は四件が同一犯によるものかどうかにすら留保を付けた。二〇一二年の時点で当局が示した見立ては、犯人はまだ生きている、というものだった。

ウォルトンは、法廷に持ち込むには常染色体の遺伝子型が要る、千兆分の一というレベルの数字が要るのだ、と説明した。ミトコンドリア型では足りない。

この反論には、無視できない重みがある。遺族と一部の報道が積み上げてきた物語の細部が、実際には推論の上に推論を重ねたものであった可能性は、十分にある。同時に、この反論が納得されなかった理由もはっきりしている。当局は「これは違う」とだけ言い、「では何なのか」を一度も言わなかったからだ。二〇一二年に「まもなく新しい容疑者を名乗り出させる」と示唆されたその人物は、十四年経ったいまも公表されていない。

「毛髪は使い切られ、繊維は『色が似ているだけ』になった」

この事件の最後の望みは物証であり、その物証の状態こそが、いちばん救いのない部分だ。

証拠の扱いは、当初から今日の基準では考えられないものだった。マーク・スティビンズの遺体は、解剖の前に警察官が最初の観察を行うことを許されている。州警察の科学捜査担当者と複数の刑事が、マーク、ジル、クリスティンの衣類を持ち出して犯罪心理の専門家のところへ運び、その場にいた全員が衣類を手で触った。

手を触れて大丈夫かと専門家が心配したのに対し、担当者は「取れるものはもう全部取ってあります」と請け合った、という記録が残っている。ブッシュの自殺現場の証拠も、適切に扱われなかったと遺族側は指摘する。霊能者が捜査に呼ばれ、ティモシーの衣類を手に持ったまま遺体発見現場へ連れて行かれたという記述もある。一九七〇年代とはそういう時代だった、と言うのは簡単だ。

だが、そういう時代の扱いを受けた物が、そのまま半世紀後の唯一の頼みになっている。

二〇〇七年、ウェイン郡側の押しで再検査が行われた際、人間の毛髪が獣毛のファイルに紛れ込んでいたことが判明した。三十年間、誰も気づいていなかった。二〇〇八年から〇九年にかけては、七六年と七七年に採取されたスライド標本が「新たに」見つかっている。一九九九年にノーバーグの遺骨と比較できる毛髪は一本しかないとされていたはずなのに、である。

そして皮肉なことに、その後の州の研究所と連邦捜査局による鑑定で、貴重な毛髪証拠の一部は検査に使い切られて消滅した。

現在、当局が扱えると認めている材料は二種類しかない。使い切られずに残っている毛髪のミトコンドリア型と、少女の一人から採取された不完全なワイ染色体型の試料である。後者は外部の研究所で系譜解析にかけられ、「ハント」という姓の可能性が浮かんだが、そこから先へ絞り込むための追加鑑定を州側は二〇二二年に断った、と遺族側は主張している。性犯罪歴のある「ハント」姓の男性が何人か検査され、いずれも除外された。

連邦捜査局が引き取って詳しく見るという話もあったが、数か月後に立ち消えになったという。

遺族が求めているのは、要するに三つだ。事件記録を全部電子化すること。劣化した試料に強い第三者機関の研究所に、四人ぶんの衣類も含めた全証拠を出すこと。そして、もし本当に何もできないのなら、これまでどの証拠にいつどんな検査をして、なぜもう無理なのかを公表すること。二〇一九年以降、根の付いていない毛髪から極端に短い断片を回収する技術は実用段階にある。

他州では同じ「年代物」の証拠から犯人が特定された例がいくつもある。それでも動かないのはなぜか、という問いに、当局は答えていない。州の研究所は、家族とは話さない、質問には答えない、報道にも応じない、という運用方針を崩していない。

「掘り起こしたのはネットで、荒らしたのもネットだった」

この事件は、インターネット時代の未解決事件の教科書のような経過をたどっている。二〇〇一年、行方不明者データベースの運営に関わっていた人物が、ヘレン・ダグナーとのやり取りをネット上に投稿した。そこから掲示板の長大なスレッドが生まれ、二〇〇七年には「この事件のネット掲示板は、有名なあの事件やあの事件の掲示板よりも敵意に満ちていて容赦がない」と書き込まれるほど荒れた。

名前を挙げられた人物の犯歴が晒され、公開情報と推測が混ざり、遺族が読むに耐えない書き込みが積み上がった。キャシー・ブロードが最初にダグナーのサイトを見たのも、兄から「うっかり目にする前に知っておいたほうがいい」と電話をもらったからだった。

一方で、ネットがなければ表に出なかったものも多い。バリー・キングが訴訟で勝ち取った三千ページ余りは、娘のブログにすべて上がっている。そして重要なのは、その文書から二件の「明らかな司法妨害の痕跡」を最初に見つけたのが、警察でも遺族でもなく、ブログの読者二人だったという事実だ。

ある読者は、ティモシーの衣類から出たとされる毛髪の検査データの塩基配列を一つずつ突き合わせ、検査対象の範囲の取り方によって特定の人物との一致がどう見えるかを指摘した。素人が公開資料を精査して、州の研究所が説明していない矛盾を掘り当てる、という光景が、この事件では珍しくない。

理論の側も、単一犯説から複数犯説へ、はっきり重心を移してきた。四件のうち二件は男児、二件は女児で、扱いは同じではない。ジルだけ殺害方法が違う。監禁期間は四日から十九日までばらつく。同一犯の作品として四件を束ねること自体が、そもそも当時の見立てに引きずられた思い込みではないか、という指摘は、いまではかなり真面目に検討されている。実際、二〇一二年に当局自身が「一人なのか二人なのか分からない」と言った。

遺族側は「グループによる犯行であることは、まともに議論の余地がない」とまで書いている。複数の人間が関わり、複数の人間が知っていて、誰も言わなかった。そう考えたほうが、五十年間何も出てこないことの説明がつく、という論法である。

反証もある。四件をつなぐ物証は、実のところ、二人の男児から出た同一人物由来の毛髪しかない。獣毛も繊維も、二〇一二年の検証で結びつきが薄いとされた。ならば、少なくとも二件は別件かもしれない。だとすれば、「オークランド郡児童殺害事件」という枠組み自体が、五十年間の捜査を歪め続けてきた最大の障害だったことになる。この可能性は、遺族にとってもいちばん受け入れがたいもののはずだ。

それでも真剣に検討されているところに、この事件の底なしの感じがある。

「五十年目の二〇二六年に起きたこと」

そして今年、二〇二六年である。二月十五日、マーク・スティビンズが消えてからちょうど五十年が経った。地元局も全国メディアも一斉に特集を組んだ。

オークランド郡保安官のマイク・ブシャードは、州警察が主管であることを認めつつ、自分の特別捜査班にもこの事件を割り当てていると語った。前年の夏から、事件ファイルの電子化と、人工知能を使った資料の再解析に着手しているという。「技術の変化やそういうものを踏まえて、まだ試せることはないか、他にできることはないかと、担当刑事に何度も何度も聞いている」。彼は同時に、こうも言い切った。

隠蔽の証拠を見たことは一度もない、もし見たなら自分が声を上げるし、押し通すし、絶対に許さない、と。そして「答えがあるなら、まず遺族に、次に地域社会に、一秒も遅らせずにテーブルの上に全部出す」とも。

その四か月後、六月十二日、アーチ・スローンが刑務所で死んだ。八十四歳。六月九日にホスピスケアに移されていた。報道によれば、その最後の数時間に捜査員が面会し、もう一度だけ事件について尋ねている。関係者の話として伝えられたのは、スローンが追跡すべき新しい情報を捜査当局に与えた、ということだけだ。中身は公表されていない。

クリスティン・ミヘリックの姉エリカ・アスクロフトのコメントが、この五十年の空気を最もよく表している。「彼がクリスや他の子どもたちを殺した人物だと結論づけられる証拠を、私は持っていません。ただ、彼の前科を見れば、この人が本当に大勢の人の人生を台無しにして生きてきたことは明らかで、それはただただ胸が悪くなる」。彼女は同じ取材でこうも言っている。「よく『区切りをつけたいでしょう』と言われます。

でも区切りは、あの子が見つかった日についたんです。だから私たちの目標は、あくまで子どもたちのための正義です」。そして、州警察から家族に連絡が来たのは二〇一六年か一七年が最後で、それ以来一度も何の連絡もない、と彼女は付け加えた。保安官の部下たちは、今後は遺族に連絡を取ると言っている。

「なぜミシガンはこの事件を手放せないのか」

五十年である。当時の刑事はほとんど死んだ。バリー・キングも、マリオン・キングも、マイケル・スティビンズも死んだ。ブッシュもシェルデンもリチャーズもグリーンもスローンも死んだ。証拠は劣化し、いくつかは検査で消え、いくつかは行方不明になった。常識的に考えれば、これは終わった事件だ。にもかかわらず、ミシガンの人々はこの話をやめない。理由は三つあると思う。

一つ目は、この事件が「知らない人に気をつけろ」というアメリカの子育て文化の起点の一つだからだ。牛乳パックの警告も、バスの停留所に親が立つ習慣も、集団下校も、この冬に大量生産された。いま四十代五十代のミシガン人には、親から「一人で歩くな」と言われた最初の記憶がこの事件と結びついている人が大勢いる。

当時の社会福祉関係者が「犯人が捕まったら、子どもたちの恐怖を解除してやらなければ」と言ったその解除は、ついに行われなかった。だからこの恐怖は、育児の常識として定着したまま、次の世代に引き渡された。地域が丸ごと当事者なのだ。

二つ目は、この事件が「解けない」のではなく「解かなかったのではないか」という疑いを、公文書という形で提示してしまったことだ。四回有罪判決を受けて一晩も服役しなかった男がいた。その男が三件目と四件目の殺害のあいだに取り調べられ、釈放されていた。ポリグラフ検査官が三十年後に、あの男は殺害を認めたのに放免された、と口を滑らせた。彼の自殺現場に、被害少年に似た絵が留めてあった。

物証のロープは保管庫から消えた。ジョージア州の別の捜査機関が出した所見は内部に留め置かれ、遺族が請求するまで表に出なかった。これらは陰謀論者の作り話ではなく、遺族が訴訟で勝ち取った文書から出てきた話である。当局側は一つひとつに反論を持っている。反論があること自体は健全だ。だが、反論が積み上がるほど、なぜ最初から説明しなかったのかという疑問だけが太っていく。

三つ目は、いちばん単純な理由だ。誰かが知っている、ということが、当時からずっと言われ続けているからである。一九七八年に州警察の捜査幹部はこう言った。「誰かが直接の知識を持っているか、少なくとも友人か身内が犯人ではないかと疑っていて、名乗り出ていない。その人物が電話してくれれば、日が暮れる前に片がつくのに」。二〇二六年、保安官はまったく同じことを言った。

「間違いなく、どこかに本物の情報を持っていた人間がいた。恐怖からか、関与していたからか、それを話さなかった」。半世紀にわたって、警察は同じ壁の同じ場所を叩き続けている。

物語としての引力もある。子どもを風呂に入れ、好物を食べさせ、服を洗って着せ、そして殺し、眠るように置いた。この矛盾の塊のような行動が、人間の理解の外側にあるからこそ、人は何度も説明を試みたくなる。倒錯した愛情なのか、証拠隠滅なのか、儀式なのか、それとも複数の人間の作業が重なった結果、そう見えているだけなのか。答えが出ないまま、五十年ぶんの仮説が地層のように積み重なった。

キャシー・ブロードはいま、警察に向かってこう言っている。「私が名乗り出てほしいのは、この捜査がどこでどう脱線したのか、それを知っていたか、疑っていた警官たちです。話してください。あとはあなたたちの問題です」。父の代から数えて二十年、彼女が要求している内容は変わっていない。記録を電子化しろ。証拠を外部の研究所に出せ。できないなら、できない理由を公表しろ。専従の未解決事件班に渡せ。それだけだ。

派手な告発でも、賠償金でもない。

四人の子どもは、それぞれ十歳、十一歳、十二歳、十二歳だった。日曜の午後に在郷軍人会の集会所を出て、母親と喧嘩して自転車に乗って、雑誌を買いに二ブロック歩いて、三十セント借りて飴を買いに行った。それだけのことをして、帰ってこなかった。彼らを殺した人間は、いまも名前を持たない。それが、ミシガンがこの話を手放せない、いちばん短い理由だと思う。

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