1971年春、群馬で八人
1971年、昭和46年の3月から5月にかけて。約二か月のあいだに、群馬県内で女性八人が相次いで殺害された。
戦後日本の犯罪史に残る連続殺人になる。加害者は当時35歳の大久保清という男だった。
大久保が乗り回していたのは、白いマツダ・ファミリアロータリークーペ。道を歩く若い女性に次々と声をかけ、車に乗せ、人気のない場所へ連れ込んでいく。
遺体はいずれも群馬県内の造成地や田畑などに埋められた。八人。二か月。
声をかけた相手は百五十人前後
数字が異様だ。被害の規模より先に、接触した人数のほうが目を引く。
声をかけた相手は、のべ150人前後にのぼる。そのうち実際に車へ同乗した女性は30人程度だった。
多くは言葉巧みな誘いに一時は応じてしまったものの、車の中で漂う空気に途中から不審を感じ取り、間一髪のところで難を逃れている。最終的に八人が殺害されるという痛ましい結果になった。
犯行に用いた口実についても、興味本位の脚色を伴って語られがちだけどね。有名な壁画や公共施設の装飾に使うモデルを探している。そういう趣旨の誘い文句が広く知られている。
ただ、この種の文句を再現して詳述すると模倣を助長しかねない。本稿はこれ以上、具体的な手口へ立ち入らない。
父は刃物を持ち出す人だった
伝記的な報道によれば、大久保は幼少期から複雑な家庭環境で育っている。
父親は感情の起伏が激しく、家庭内でも刃物を持ち出すことがあるような人物だったと伝わる。大久保自身も、周囲から心無いいじめを受けて育ったという証言が残る。
小学生の頃にはすでに幼い女児への性的な問題行動を起こしていた。その後も少年期から成人後にかけて、窃盗や強盗、婦女暴行などの罪で複数回の服役を重ねた。
1962年には結婚している。自身の犯罪歴や経歴を偽っていたとも伝えられてきた。
1971年の事件直前には仮出所していた。妻が同居を拒んだことに絶望し、犯行に及んだのではないかとする見方もある。
ただし動機については、裁判の過程でも十分に解明されたとは言えない。犯罪史上類を見ない凶悪事件でありながら、動機が未解明のまま幕を閉じた。そう評されている。
兄が組んだ捜索隊
一連の犯行が発覚する決定的な転機は、5月14日に訪れた。
藤岡市内の女子高校生が行方不明になる。この生徒の兄が、警察の捜査を待つだけでなく独自に捜索隊を組織し、周辺の聞き込みを続けた。それが功を奏す。
兄らは、生徒の自転車が放置されていた現場付近で不審な白い乗用車を目撃したという情報を、地道な聞き込みの積み重ねの末にようやくつかみ取った。車種とナンバーから、大久保の身元を割り出すに至る。
警察はこの情報をもとに追跡へ動いた。カーチェイスの末に取り押さえ、5月14日にわいせつ目的誘拐容疑で逮捕。翌15日には強姦致傷容疑で再逮捕している。行方不明の届けが出てから、ほとんど間がない。
八十日かけて掘り出された
事件発覚当初、群馬県内は騒然となった。
若い女性が次々と行方不明になっている。そういう噂が先行して広まっていたところへ逮捕の報が届き、噂の中身が一気に実態として裏付けられてしまう形になった。地元紙も全国紙も、連日大きく報じた。
言葉巧みに女性を誘い出す手口への恐怖と警戒が、一気に広がっていく。多くの家庭で若い女性の一人歩きを控えさせるといった自衛策がとられたと伝わる。
大久保は逮捕後も、遺体の埋設場所について長らく口を割らなかった。警察への意趣返し。そういう理由だったという。
遺棄された場所を一つずつ特定していく作業は難航し、警察は約80日をかけて、ようやく八人全員の遺体を発見するに至った。この長期化した捜索の様子も連日報道され、社会の関心を集め続けている。掘り返される造成地の映像が、毎日のようにテレビへ流れた。
「なにもいうことはありません」
1971年10月25日、前橋地方裁判所で初公判が開かれた。
大久保は起訴事実の全てを認めている。法廷では「なにもいうことはありません」。そういう態度に終始したと伝えられる。
精神鑑定では精神病質との判定が出た。これは責任能力を否定するものではない。
公判中の態度も一貫していた。担当裁判官を職権乱用で告訴するなど、終始反抗的な姿勢を貫いている。弁護人が被害者や遺族への謝罪の言葉を引き出そうと試みたものの、実現しなかった。
死刑確定から二年十か月
1973年2月22日、前橋地方裁判所は検察の求刑通り死刑を言い渡した。
判決理由で厳しく断罪されたのは二点。大久保の著しい反人間性と、まったく反省の情を示さない態度だ。
大久保は控訴しなかった。同年3月9日、判決が確定。同年10月には獄中手記『訣別の章』を出版している。
そして1976年1月22日、東京拘置所で死刑が執行された。41歳だった。
死刑確定からわずか二年十か月というスピード執行になる。当時としても異例の早さだった。
余罪説はどこから来たか
ネットではこう語られている。大久保には裁判で立件された八人以外にも、明らかにされていない被害者がいたのではないか。いわゆる余罪説だ。
出どころは数字だろうね。声をかけられた女性が150人前後、車に同乗した女性が30人前後。その中には行方不明のまま処理された女性が他にもいるはずだ、という憶測が広がった。
これを裏付ける公的な捜査資料も、判決文の記載も確認されていない。数字の大きさから生まれた想像の域を出ないわけだ。そこは押さえておきたい。
敷島公園の霊と、お艶が岩
もう一つ、地元の群馬県内に残ってきた噂がある。事件現場となった造成地や、大久保にゆかりのある土地が心霊スポット化したというものだ。
敷島公園では血だらけの女性の霊や、ずぶ濡れの女性の霊が目撃されている。ネットにはそう書かれている。
ところが出どころを調べたブログ記事などでは、慎重な見解が並ぶ。大久保清が敷島公園で人を殺したり遺体を捨てたりした記録は、確認されていない。目撃談の多くは、事件とは別に伝わるお艶が岩という地域の古い伝説と混同されているのではないか。
つまりこの心霊スポットの噂は、事件そのものというより、地域に伝わる別の言い伝えと結びついて増幅されてしまったらしい。史実と土地の伝承が混ざり合い、新しい都市伝説を生み出してしまう典型例として、この一件はしばしば考察の対象にされている。
造成地だらけの県
事件の舞台となった群馬県は、1971年当時、高度経済成長の余波を受けて宅地造成が各地で進んでいた。
発覚の端緒となった藤岡市をはじめ、多野郡、榛名町、現在の高崎市。県内各地に被害が及んだことも、この事件の異例な広がりを示している。
造成中の空き地や人気のない農地が各地に点在していた。当時の土地利用の状況が、遺体の隠匿を許した一因になっている。
事件が残したもの
この事件は、その凶悪さと大久保の特異な人物像から、後年になって複数回にわたり映画化・ドラマ化されている。作家の曽野綾子による小説『天上の青』の題材にもなった。
精神医学の分野では、後年になって分析が加えられた。大久保は反社会性パーソナリティ障害の特徴を持つ人物だったとする見方だ。虚栄心の強さ、巧みな言語操作、被害者選定のパターン。虚栄心、言葉の使い方、被害者の選び方。その後の連続殺人犯研究における比較対象の一つとして参照されるようになった。
若い女性を狙った通り魔的な犯罪への社会的警戒を強める契機にもなり、防犯教育の文脈でもたびたび言及されてきた。
加害者は裁判で有罪が確定し、刑も執行済みで、法的には完全に決着している。それでも余罪の有無や心霊スポット化した現場の噂など、ネット上では尾ひれが今も付け加えられ続けている。
史実の凄惨さそのものが十分に衝撃的だ。だからこそ、後から足された噂と、記録に残る事実とを冷静に切り分けて向き合う姿勢が要る。
