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雪解けの歩道で消えた男――オロフ・パルメ首相暗殺、40年たっても誰ひとり犯人と呼べない国の話

その夜、ストックホルムの歩道には雪解けのぬかるみが残っていた。2月の終わりの、いかにも北欧らしい湿った寒さ。時刻は23時21分30秒。一国の首相が、護衛もつけずに妻と並んで歩いていた。映画の帰りだった。

背後から男が近づき、至近距離で一発。首相は前のめりに倒れ、もう一発が妻の背中をかすめた。男は横道に消えた。それだけだ。それだけのことが、40年たっても解けていない。

護衛を帰した男が、いつもの週末をはじめた

1986年2月28日は金曜日だった。オロフ・パルメは午後の遅い時間に、その日の護衛官たちを帰している。これは彼にとって特別なことではなかった。首相在任中、彼はしょっちゅうそうしていた。ストックホルム旧市街ガムラスタンのヴェステルロングガータン31番地に住み、毎朝そこから歩いて首相府に通う。

近所の菓子屋でナッツ入りの板チョコを買い、薬局にも書店にも床屋にも一人で行く。取材でこの街を訪れた日本人記者が驚いたのは、権力者らしさが徹底的に欠けていたその日常だった。世界一安全な国、という自負がスウェーデンにはあったのだ。首相が丸腰で街を歩けることは、その自負の一番わかりやすい表現で、18時30分ごろ、パルメは帰宅した。ごく普通の一日を終えて、妻リスベットと夕食をとり、電話を数本かけている。

社会民主党の関係者への事務的な電話だ。妻はその日の午後、職場で映画に行く話をしていた。息子のマルテンの婚約者とも17時ごろに電話で話し、グランド映画館に行こうかという話が出ていた。パルメが帰宅してからその計画を聞き、息子と電話でやりとりする。マルテンはすでにグランドのチケットを買っていた。

パルメ夫妻がどの映画館に行くかは、この時点でまだ決まっていない。グランドか、あるいは『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』をやっているスペーゲルンか。夫婦が「グランドに行こう」と決めたのは、20時ごろだったとされる。ここが重要なところだ。この夜の首相の行き先は、当日の夜8時まで、本人たちすら決めていなかった。

もし誰かが待ち伏せしていたのだとしたら、その誰かはどうやってそれを知ったのか。捜査当局は後に、リスベットの職場や自宅の電話が盗聴されていた形跡を調べている。何も出なかった。

20時42分の地下鉄と、映画館の前に立っていた男

夫婦が家を出たのは20時30分すぎ。徒歩でガムラスタン駅まで歩き、20時42分発の地下鉄に乗った。20時47分、ロードマンスガータン駅着。そこからスヴェアヴェーゲンのグランド映画館まで歩いた。21時少し前、息子夫婦と合流している。

チケットはパルメ自身が窓口で買った。窓口の係員と顔見知りだったという話も残っている。上映は21時15分開始。スサンネ・オステン監督の『モーツァルト兄弟』。オペラの稽古を舞台にした、どちらかといえば喜劇に近い作品だ。

一国の首相が、金曜の夜に息子夫婦と国産の芸術映画を観に行く。それがこの国の首相のやることだった。映画館の前では、複数の人間が「妙な男」を見ている。21時ごろにも、23時ごろにも。ある目撃者は「異様な目つきだった」と言い、別の目撃者は「行ったり来たりして、威圧的だった」と言った。

マルテン・パルメ自身も、両親をじっと見つめている男に気づいている。彼は後に、ドイツから来た技術者の協力で、その男のモンタージュ写真を作らせている。ところがそのモンタージュは、捜査のどこかで忘れ去られた。世に出たのは、まったく別の観察にもとづく、しかも時刻の食い違いから犯人像とは考えにくい別のモンタージュのほうだった。この一件だけでも、この捜査がどれだけ雑だったかがわかる。

上映後の状況は、警察が後に洗い出している。この回の『モーツァルト兄弟』には約202枚のチケットが売れ、招待券が4枚。同じ時間帯の他の上映も合わせれば、300人以上がこの映画館にいた。約198人の観客はほぼ全員が特定されたのに、公開されている捜査記録に出てくるのは37人分だけだ。残りは今も秘密のままである。

23時15分、四人は別れた

映画が終わったのは23時5分から10分のあいだ。四人はしばらく映画館の外で立ち話をして、23時15分に別れた。息子夫婦は地下鉄へ。パルメ夫妻はスヴェアヴェーゲンを南へ歩きだした。アドルフ・フレドリクス・シルコガータのあたりで通りを横断し、東側の歩道に移ったのだ。

そこからは、ゆっくりした歩みだった。少なくとも一度は、サリという衣料品店のショーウィンドウの前で立ち止まっている。急いでいない。夫婦の散歩だ。映画の話をしていたのか、政治の話をしていたのか、明日の予定の話をしていたのか。

そこはもう誰にもわからない。はっきり言って、わかっているのは一つだけだ。23時21分30秒、一人の男が背後から近づいた。場所はトゥンネルガータンとの交差点、デコリマという内装用品店の角にさしかかったところだったのだ。一発目は、パルメの左右の肩甲骨のちょうど中間、背骨から右に約1センチのところに入った。

体を貫通し、前面の大血管を断ち切ったのだ。パルメは即死に近い状態でぬかるんだ歩道に崩れ落ちた。二発目は振り向いたリスベットの背中を、コート越しにかすめ、彼女の傷はかすり傷だったのだ。撃った男はトゥンネルガータンに折れ、そのまま奥へ走り、マルムシルナードスガータンへ上がる階段を駆け上がった。階段を上りきったあたりが、犯人の姿が確認できる最後の地点である。

そこから先、おそらくダヴィッド・バガレス通りを下ったのだろうと推定されているが、証拠はない。人間ひとりが夜のストックホルムに溶けて消えた。弾丸は、ウィンチェスター・ウェスタン社の「メタル・ピアーシング」と呼ばれる特殊な型だった。鉛の芯を、銅と亜鉛の非常に硬い被甲が包んでいる。金属を貫くために作られた弾だ。

メーカーによれば、この型と重量の弾は.357マグナムの工場装填弾にしか使われていない。そして、その弾を撃つ銃はリボルバーだった。だから薬莢が現場に落ちていない。薬莢が残らないということは、その後の弾道照合の道が一本、はじめから閉ざされていたということでもある。

「見えないんですか、撃たれたのは私のオロフです」

現場の周辺には、この瞬間、40人前後の人間がいたとされる。にもかかわらず、犯人がどこから来たのか、どんな服装だったのか、どう動いたのか、証言はまるでそろわない。二人の目撃者は「長い銃身のリボルバー」を見たと言った。ある者は暗い青のキルティングジャケットだと言い、ある者は長い黒っぽいコートだと言い、ある者は帽子をかぶっていたと言った。走り方についてすら食い違う。

最初期の証言では「なめらかで、効率的で、力強い動き」とされていた。ところが後年、ある容疑者が浮上したあとになって「足を引きずっていた」という証言が出てくる。人間の記憶というのは、こういうふうに壊れる。倒れた男に最初に駆け寄ったのは、警官ではなく、17歳の少女だった。アンナ・ハーゲは、交差点で停まっていた車の中にいた。

音楽をかけていたので、銃声は聞こえていない。ただ、人が集まっていて、誰かが倒れているのが見えた。そして彼女が引っかかったのは、倒れた人を助けもせずにその場を離れていく男がいたことだったのだ。彼女は車から飛び出し、倒れている男の心臓マッサージをはじめ、別の男性が人工呼吸をし、「心臓を動かそうとした。もう一人が口移しで息を送っており、めまいがするような、ひどい感覚だった」。

彼女は自分の体についた血を見て、この人はもう助からない、と悟ったという。彼女はそのとき、自分が誰の胸を押しているのかを知らず、そのあと4年間、彼女はこの夜のことを誰にも話さなかった。裁判に呼ばれても、支えてくれる人はおらず、「裁判のあと、私は感情のスイッチを切ることにした。でも、あとから追いついてくるんです」。何十年もたってから、彼女はようやくテレビで語った。

番組の中で、パルメの息子マルテンは彼女にこう言っている。あなたのしたことは素晴らしい働きだった、ああいう場面で人はどうふるまうべきかのお手本だ、と。リスベット・パルメは、夫のそばを離れなかった。かすり傷だけだった彼女は、救急車に乗ることも拒んだ。かけつけた警官たちが最初、倒れているのが誰なのか把握できずにいたとき、彼女が叫んだと伝えられている。

見えないんですか、撃たれたのは私のオロフです、と。この一言は、その後の彼女の人生の輪郭をほとんど決めてしまった。彼女はこの事件のたった一人の「犯人の顔を見た証人」になり、そしてその証言をめぐって、国じゅうから疑われることになる。

交換手は「そんな通報は知らない」と答えた

ここから先は、この事件を語るときにいちばん腹が立つ部分だ。緊急通報センターの通話は自動録音されており、しかも録音には時報が入っている。だから最初の数分は、秒単位で復元できてしまう。復元できるからこそ、何が起きなかったかがはっきり見えてしまう。23時22分20秒、緊急通報センターへの一本目の通報の記録がはじまる。

スヴェアヴェーゲンに停まっていた車の中にいた目撃者が、交換手に「スヴェアヴェーゲンで殺人だ」と告げた。警察につながれた。ところが警察側が出ない。この目撃者は1分30秒待たされ、そのまま切った。一国の首相が撃たれた直後の90秒が、保留音で消えている。

23時23分40秒、イェルフェラ・タクシーの交換手が緊急通報センターに電話をかけている。同社の運転手の一人が現場を目撃し、無線で「警察を呼んでくれ」と交換手に頼んだからだ。彼女は救急車が手配されたかを確認しようとした。この通話は23時24分20秒まで続く。そして23時24分40秒。

緊急通報センターのオペレーターが、警察の通信指令室に電話をかけて確認する。スヴェアヴェーゲンで発砲があったという通報の件、そちらは把握していますか。警察の無線オペレーターはこう答えた。そんな通報は知りません。この通話は23時25分10秒まで続いた。

指令室が「あ、知っています」と折り返してきたのは、23時26分ちょうどである。首相が撃たれてから4分半、警察の通信指令室の中では、まだ何も起きていなかった。現場に最初に着いたのは、23時24分ごろのパトカーだった。イェルフェラ・タクシーのもう一人の運転手が、クングスガータンで近くのパトカーを呼び止めたのだ。無線ではなく、道端で手を振って止めた。

その車に乗っていたのが警視ゴスタ・セーデルストロームで、彼が現場の指揮をとることになる。ほぼ同時に、マルムシルナードスガータンの階段の上を通過したばかりの機動隊車両が指令を受けて到着した。犯人が駆け上がったその階段の、まさに上を、犯行から数分のうちにパトロールが通っていたのである。セーデルストロームは、その部隊に階段を上がって追跡しろと命じた。

だが、犯人の人相風体を一言も伝えず、誰を追えばいいのかわからないまま、警官たちは夜の中を走ったのだ。その30秒から60秒後、たまたま通りかかったソレンチュナの救急車が停まった。出動指令を受けていたわけではない。偶然だった。そのあとサバツベリ病院から救急車が直行してくる。

23時28分ちょうど、パルメを乗せた救急車が現場を出た。23時31分40秒、病院着。そして0時6分、オロフ・パルメの死亡が確認された。彼はあと2か月ほどで59歳になるはずだった。

非常線は張られなかった。国家非常警報は2時間半後に出た

事件後、スウェーデンは三つの公的な調査委員会にこの夜の警察の動きを検証させている。出てきた結論は、身も蓋もない。現場周辺の封鎖はあまりに狭く、しかも夜のあいだ、その封鎖すら十分に守られていなかった。市民が現場に花を投げ入れることができるほどの警備だったのだ。だから翌朝、本格的な現場検証をはじめようとしたとき、そこはもう「手つかずの現場」ではなくなっていた。

雪の上の足跡は踏み荒らされていた。実際の現場検証が始まったのは翌日の10時である。約11時間、首相が撃たれた場所は事実上開けっぱなしだった。街全体の封鎖も、道路の遮断も、出入口での車両検問も、何一つ組織的に行われなかったのだ。近隣の警察管区にも、県内の他の管区にも、全国の他の管区にも、初動段階では何の通報も行かなかった。

ストックホルム市内の各所で勤務していた多くの警官は、何時間ものあいだ何も知らなかった。首相が路上で撃たれ、武装した犯人が逃走中だという事実をである。国家非常警報が出たのは、翌3月1日の2時5分。犯行から2時間44分後である。指令室の中も混乱しており、当直の警視は他の業務を大量に抱えていて、必要な直接指揮をとれる状態になかった。

警察上層部が指令室に到着してからも、誰が何の責任を持つのかが不明確なまま、手続きが守られているかの確認すら行われなかったのだ。ロセンバードの政府庁舎は、すぐには警護下に置かれなかった。夜のあいだに集まってきた閣僚たちの保護についても、まともな体制は組まれなかった。当時の国家犯罪捜査局トップは後にこう語っている。誰も我々に連絡してこなかった、うちの連中は警察無線で事件を知ったんだ、と。

公的委員会は、この夜の指令室の働きぶりを「驚くべき無為と混乱」と表現した。役所の文書としては、かなり強い言葉である。なお、この事件が最初にスウェーデン国民に伝わったのも、警察経由ではなかった。1986年の公共放送は深夜にニュースを流していない。3月1日1時10分、ラジオ第3チャンネルではアレサ・フランクリンの『フーズ・ズーミン・フー』が流れていた。

それが唐突に途切れ、進行役のスタファン・シュミットが「放送を中断します、緊急ニュースです」と言ったのだ。そして記者が読み上げた。スウェーデンの首相オロフ・パルメが死亡しました、と。原稿の中で犯行時刻は「23時30分」と読み上げられている。この時点では、正確な時刻すら固まっていなかった。

弾丸は、通りすがりの人間が拾って持ってきた

凶器は見つかっていない。今も見つかっていない。捜査当局は数百丁のマグナムリボルバーを試射し、最終的に700丁を超える銃を調べたが、すべて除外された。銃身の長さは少なくとも10センチはあったはずで、スミス・アンド・ウェッソン社の.357マグナムである可能性が高い、というところまでは言えた。それだけだ。

では、弾丸はどこから出てきたのか。ここが、この事件のグロテスクさをいちばんよく表している。一発目、つまりリスベットの背中をかすめた弾は、通りを越えて向かい側の建物の壁に当たり、歩道に落ちていた。それを拾ったのは警察ではない。3月1日の朝6時30分ごろ、スヴェアヴェーゲン29番地の前の歩道で、アルフレッド・デ・タヴァレスというインド人ジャーナリストが見つけた。

現場から約40メートル離れた場所だった。彼は後年、ストックホルムのアパートでコーヒーを飲みながら、こう説明したという。自分は現場に行き、自己催眠の状態に入って感覚を研ぎ澄まし、弾がどう飛んだかを分析して、雪解けのぬかるみの中から拾い上げたのだ、と。彼はその弾をラジオ局の取材記者に渡し、記者が現場の警官に渡した。つまり、この最重要の物証には、少なくとも三人の素手が触れている。

DNA鑑定という言葉が捜査の常識になるより、はるか前の話だ。二発目、つまりパルメを殺した弾は、体を貫通したあと歩道に叩きつけられ、地下鉄入口のシャッター格子のそばのぬかるみに転がっていた。撃たれた地点からわずか4メートル。これを見つけたのは3月2日の正午近く、エリサベート・ベリックという通行人である。

事件から丸一日半、首相を殺した弾丸は、現場から4メートルのところに落ちたまま誰にも気づかれずにいた。両方とも、金属を貫くための硬い被甲弾だ。一発目は建物にぶつかって激しくつぶれ、二発目は人体と歩道を通ってねじれていた。どちらも弾道照合には最悪のコンディションだった。犯罪学者たちが後年、この弾の照合の難しさを繰り返し説明することになるのは、そのせいである。

仮に凶器が見つかっていたとしても、決定的な結論が出た保証はない。それでも凶器は、この事件で唯一「答え」になりえたものだった。そしてそれは見つからなかったのだ。

ハンス・ホルメルという男が、捜査を一本の線に縛りつけた

事件直後から捜査の実権を握ったのは、ストックホルム県警本部長のハンス・ホルメルだった。彼は正式な捜査指揮官に任命されていたわけではない。自分でその座に座った。後にこの手続き無視は厳しく批判されることになる。ホルメルは当初から、この事件は政治的犯行だと考えた。

ただし国内政治とは無関係の政治だと考え、ここが決定的な分岐点で、彼は国内の憎悪ではなく、外国の集団に目を向けた。具体的には、クルド労働者党、つまりPKKである。なぜPKKだったのか。理由はいくつも挙げられているが、どれも弱い。1971年にパルメが「アナーキストや、髪の長い連中や、髭の連中」について言及したという古い発言。

傍受された通信の中の「結婚式」という言葉が、殺しを意味するPKKの隠語だという解釈だ。そして外部からもたらされた、出どころの怪しい情報。ホルメルはそこに全体重をかけ、1986年の秋には大量の捜索令状が出され、クルド系住民が次々に拘束された。全員が短期間で釈放された。証拠が何もなかったからだ。

同じ1986年の春、公安警察の中の、きわめて真面目に仕事をしていた作業班が、ホルメルに一本の報告書を上げている。パルメが事件前に監視されていた形跡があるかを調べたものだ。班の結論はこうだった。分析はパルメが2月27日の午後と、28日の夜に自宅を出てから23時21分に殺害されるまでのあいだ。監視下にあったことを示している。

犯行が組織的なものである可能性を示す、捜査当局自身が作った文書である。だがそこに出てくる人物はクルド人ではなかった。ホルメルはこの報告に興味を示さなかった。彼が興味を示さなかったものは他にもある。南アフリカ路線と、スウェーデンの大規模武器輸出をめぐるあらゆる情報だ。

後年の捜査幹部たちは、前任者たちの金庫の中に何年も放置されたままだった資料の存在を証言している。作家ペール・ヴェストベリからの、南アフリカの大物工作員に関する情報提供。外交官スヴェルケル・オーストレムからの、事件のわずか6日後の情報提供だ。国連大使アンデシュ・フェルムからの3月12日の情報提供。

それらは、1990年代のはじめまで誰も開かない引き出しの中にあり、ホルメルは1987年2月に捜査から離れた。検察側は、彼が法的手続きを無視していると激しく批判していた。彼はその後もクルド路線を個人的に追い続け、犯罪小説を書き、ウィーンで国連関係の職に就き、2002年に死んだ。後の各種委員会は、彼の四つの振る舞いを名指しした。

「クルド路線への一点張り」「他の手がかりの放置」「疑わしいモンタージュ写真の公表」、そして「特定の銃種への固執」である。それが捜査を長期にわたって身動きの取れない状態にした、という結論だった。捜査責任者はその後も入れ替わり続けた。1987年から88年、1988年から97年、1997年から2012年、2012年から13年、2013年から16年、2016年から20年。

主任検察官にいたっては、1986年の春から2020年までのあいだに8人が交代している。34年間、この事件の記憶は誰か一人の頭の中にまとまって存在したことがなかった。捜査記録は約70万ページに膨れ上がり、聴取された人間は1万人を超えた。134人が「自分がやった」と名乗り出て、そのうち29人はわざわざ警察に自首してきたのだ。費用は3億5千万クローナを超えた。

犯罪学者たちが「警察史上最大級」と呼ぶのは誇張ではない。

33歳の男――最初に潰れた線

事件の翌日、警察に一本の情報提供が入った。二人の女性が、ある33歳の男の名前を挙げたのだ。ヴィクトル・グンナーション。彼は欧州労働者党というスウェーデンの小さな党派の元メンバーだった。この党は米国のある陰謀論的政治運動のスウェーデン支部で、パルメがKGBとCIAの両方から金をもらっていると主張していた。

政府報告書がのちに「オロフ・パルメへの極端な憎悪」と表現したほど、パルメ攻撃に特化した集団である。グンナーションは1985年にそこを追い出されていた。3月8日に事情聴取され同日釈放、3月12日に再び連行、3月17日に勾留。自宅からは反パルメ色の濃い党のパンフレットが出てきた。上着の付着物の検査では、最近発砲した形跡を示す結果が出たとも報じられている。

ただし、それが凶器によるものだという証明はできなかった。決め手は、現場付近での一人の目撃者による同定だったが、その信用性が揺らいだ。4月11日、釈放。1987年5月16日、彼に関する捜査は正式に打ち切られた。その後の彼の人生は、この事件が周辺の人間に何をするかを示す典型例になったのだ。

「あのパルメの容疑者」という肩書きから逃れられず、嫌がらせに耐えかね、彼はアメリカに移住した。ノースカロライナで女性と交際し、その女性の元婚約者だった元警官に殺されたのだ。1993年12月、遺体は森の中で見つかった。頭に2発。犯人は1997年に有罪判決を受けている。

パルメ事件とは何の関係もない死に方だった。それでも、彼の名前は今もパルメ事件の年表の中にある。

クルド、南アフリカ、警察内部、武器商人――四つの巨大な影

PKK説については、ホルメルの退場後も細々と続いた。1998年にはPKKの元幹部が、指導者アブドラ・オジャランが命じたと証言したのだ。1999年の裁判でも2001年のスウェーデン警察による獄中聴取でも、オジャランは否定した。彼はスウェーデンの捜査官に対し、自分の元妻が率いる分派の可能性を示唆したが、それを裏づけるものは何も出てこなかった。

PKK側は一貫して、これはトルコ政府による情報操作だと主張し続けている。物証はゼロ、犯人像に一致するメンバーもゼロ、凶器の出どころもゼロ。1987年の段階でこの線はすでに死んでいた。南アフリカ説は、10年後の1996年9月26日に突然火を噴いた。プレトリアの法廷でのことだ。

アパルトヘイト政権の暗殺部隊を率いた元大佐ユージン・デ・コックが、量刑審理の場で、質問もされていないのにこう言った。彼らはオロフ・パルメと同じ死に方をした、と。そして続けた。自分はクレイグ・ウィリアムソンがパルメ殺害を計画し実行したという第一次情報を持っている、と。ウィリアムソンは「スーパースパイ」と呼ばれた男で、1982年のロンドンのアフリカ民族会議事務所爆破を計画した人物とされる。

事件当時、彼は南アフリカ治安機関とつながりのあるロングリーチという会社を経営していた。デ・コックの言うところの「オペレーション・ロングリーチ」は、国外のアパルトヘイト反対派を沈黙させるための計画だったのだ。パルメはアパルトヘイトの最も声の大きな敵の一人であり、アフリカ民族会議への実質的な資金支援を主導していた。動機としては、これ以上ないほど筋が通る。

数日後には、デ・コックの同僚だった元大尉ディルク・クッツェーが、実行犯として元ローデシア特殊部隊の男アンソニー・ホワイトの名を挙げた。さらに別の線では、北キプロスに住むスウェーデン人ベルティル・ヴェディンの名前が出た。ヴェディンは1996年に容疑者として名指しされ、「私は殺人者ではない」と述べ、2022年に北キプロスで81歳で死んだ。

彼は生涯、いかなる犯罪への関与も否定し続け、有罪となったことは一度もない。1996年10月10日、ようやくスウェーデンの捜査陣が南アフリカに飛んだ。4週間で10件ほどの聴取を行い、デ・コック、ウィリアムソン、クッツェー、ホワイトらから話を聞き、警察記録にもアクセスした。デ・コックは捜査官にこう言った。実行犯はスウェーデンの情報将校で、今はトルコに住んでいる、と。

ウィリアムソンは「潔白を証明するために110パーセント協力する」と述べ、1970年代末以降スウェーデンには行っていないと繰り返した。彼は今も、自分がパルメを殺したという説を「苦痛で、グロテスクだ」と呼んでいる。裏づけとなる文書も作戦記録も、ついに一枚も出てこなかった。南アフリカの真実和解委員会の膨大な資料からも、政権崩壊後の機密解除の山からもである。

当時の国家犯罪捜査局トップは2010年になってもテレビ番組で「私の第一容疑はアパルトヘイト下の南アフリカだ」と言い続けた。だが、それは確信であって証拠ではない。「ポリス・トラック」――警察内部説は、スウェーデン国内でもっとも根強く、そしてもっとも語るのが気まずい説である。

1999年の調査委員会は、警察官個人に関するおびただしい数の情報提供を検証し、12人の警察官をアルファベットの記号で呼んで調べ上げた。背景には、1982年の3月から12月にかけてストックホルム北部管区に存在した街頭暴力対策の特別班がある。野球帽をかぶっていたことから「野球団」と呼ばれ、薬物使用者への手荒な扱いで悪名を残した。拘束後に内出血で死亡した男の事件、手錠をかけたまま島に置き去りにした事件。

班は解散したが、メンバーの何人かはその後も地域警察に残り、そのうち数名にはナチス的な傾向があったと指摘されている。2013年には、ある実業家が、事件の5か月前に極右的な元警部から「パルメを撃ってくれ」と持ちかけられたと証言した。ノルショーピングのあるグループが事件の数週間前に「排除」について話し合ったという情報もある。事件当夜の一部の警察官の不可解な行動についても、繰り返し指摘がなされている。

だが公式の調査は、いずれについても組織的関与を裏づける証拠は不十分だと結論した。1999年の委員会は、この夜の失態は陰謀ではなく無能によるものだ、と整理している。この結論に納得していない人間が、スウェーデンには今も大量にいる。先に言っておくと、武器輸出説、いわゆるボフォース説の出発点は一つの事実だ。パルメがインドのラジブ・ガンジー首相との個人的な信頼関係を使った。

そしてボフォース社の榴弾砲をインド陸軍に売る、84億クローナの大型商談をまとめた。それが出発点だ。この商談には、後に大スキャンダルになる仲介と裏金の構造がついていた。パルメ本人はそれを知らなかった、というのが通説である。ある研究者は、暗殺当日の朝にパルメがイラク大使と会い、ボフォース関連の話が出たことを重視している。

もしパルメが真相に気づいたら黙らせる段取りが用意されていた、という筋書きだ。まあ、話としては筋が通っている。魅力的な筋書きではある。ただし、スキャンダルが表面化したのは事件の1年以上あとであり、パルメがこの取引を止めようとしていたことを示す同時代の記録は存在しない。このほかにも、この事件には信じられないほど多くの説が生えた。

ユーゴスラビアの治安機関が、スウェーデンに亡命していたクロアチア民族主義者との絡みで実行したという説。イタリアの秘密結社と米国情報機関が組んだという説――「スウェーデンの樹は倒される」という電報の文言が根拠として持ち出される。チリの極右が、アジェンデ政権崩壊後の亡命者受け入れへの報復として実行したという説。ソ連関与説だ。そして単独犯説。

どの説にも本を書いた人がいて、どの説にも信奉者がいて、どの説にも決定打がない。

クリステル・ペテション――壊れた面通しの上に立った有罪判決

1988年12月14日、クリステル・ペテションという当時41歳の男が逮捕された。事件から2年9か月が経っていた。彼は1947年ソルナ生まれ。中流家庭の育ちで、若い頃は演劇の道を志していたが、頭部の負傷をきっかけに人生が狂った。学校をやめ、アルコールと薬物に沈んだ。

1970年にはストックホルム中心部の路上の喧嘩で、男を刺殺している。のちにパルメが撃たれる場所から、そう遠くない街区だった。精神科医療を伴う処分を受け、2年足らずで社会に戻り、以後は軽微な犯罪を繰り返す暮らしをしていた。彼が浮上したのは、薬物使用者や前科者のあいだで流れていた噂からだったのだ。警察は彼を捕まえ、逮捕当日の18時、検事総長室でリスベット・パルメにビデオによる面通しを行わせた。

この面通しが、この事件の暗部の中でも特に見るに堪えない部分である。12人が並んだビデオを、リスベットが見る。冒頭、全員が並んで立っている映像を見ただけで、彼女はこう言った。誰がアルコール依存症かなんて、見ればわかりますね。8番です。

テープを最後まで見終えてから、こう言った。ええ、8番です、私の説明に合っています、顔のかたち、目、それにあの荒れた見た目。9番と11番にも私の説明に合う特徴はあるけれど、8番ほどではないし、8番のようなひどい見た目ではない、と。問題はいくつもある。彼女は面通しの前に、容疑者が依存症者であるという情報を与えられていた。

12人のうち、白い靴を履いていたのはペテションだけだったとも報じられている。ペテションの弁護人アルネ・リリェロースは同席を許されず、質問することもできなかった。1989年1月26日に行われた二度目のビデオ面通しでは、彼女の希望により、ペテションが映っている部分だけが上映された。これも弁護人抜きである。裁判の本番でも、彼女は自分の立ち会いのもとでその面通しビデオを上映することに同意しなかった。

つまり弁護側は、一度も、映像を前にして彼女に質問する機会を得ていない。さらに、この面通しについて作成された記録には二種類が存在した。一方には最後にこういう一段落がある。リスベット・パルメは上映、とくに8番が映ったときに目に見えて動揺していた。何度か目をそらしたが、それは見るのが怖いという様子だった。

もう一方の記録には、この段落がない。捜査資料に綴じられたのは、段落のない短いほうだった。この一段落は付属文書として別に作られ、捜査指揮部によれば裁判所には提供されず、公にもされなかった。1999年の調査委員会が掘り起こすまで、誰も知らなかったのである。1989年6月19日、法廷で彼女はペテションを指し示し、検察官が「これがあなたが街角で見た男ですか」と尋ねた。

彼女はうなずいたのだ。ペテションは彼女の証言のあいだ法廷にいることを許されず、隣室の内部無線で聞いていた。同定のための2分間だけ法廷に入れられ、終わったあとにこう言った。天国でオロフ・パルメはこれを喜ばないだろう。あなたが自分の言うことを信じているならそれでいい。

信じていないなら、それはよくない。そして連れ出された。ここは押さえておきたい。彼女の証言は「この男が撃った」というものではなかった。彼女が言ったのは、夫が倒れ自分がかすめられた直後に、5メートルほど先に立っていた人物がこの男だ、ということだった。

彼女はその男に助けを求めようとして目を見たのだ。そこに敵意を感じた。だから他の人のほうを向き、そのあと、その男が走り出すのを横目で見た。それが証言のすべてである。

一審有罪、二審全員一致の無罪。そして無罪は今も揺らいでいない

1989年7月27日、ストックホルム地方裁判所はペテションに終身刑を言い渡した。評決は割れていた。参審員6人が有罪、職業裁判官2人が無罪。スウェーデンの制度では単純多数で足りた。無罪に投じた裁判官の一人は、こう述べている。

私の見るところ、ペテションに対する技術的証拠は十分ではなかった。ペテション自身は法廷で言った。私の名前はクリステル・ペテション、私はオロフ・パルメを殺していない。3か月足らずでひっくり返る。1989年10月12日、スヴェア高裁は有罪判決を破棄し、ペテションはその日のうちに釈放された。

11月2日に出た42ページの判決文で、裁判長ビルギッタ・ブルムはこう述べている。ペテションが首相を殺したという証拠は不十分である。犯行現場からの確実な同定は存在しない。リスベット・パルメの証言を分析したが、いくつもの弱点があるため、これに依拠することはできない。彼女が犯行現場でその男を見たのは短時間で、しかも暗い照明のもとだった。

彼女はそのとき、自分が見ているのが犯人だとは理解していなかった。記憶像をよりはっきり説明できるようになったのは、捜査が進んだ後になってからである。同定までにほぼ3年が経過しており、それは誤りの危険を大きくする。裁判所はさらに、ペテションに首相を殺す動機があったと信じるに足る根拠は見出せなかった、と明言した。判決は7人の裁判官の全員一致で、ペテションは30万クローナの補償を受けたのだ。

1997年12月、検事総長が再審を請求し、1998年5月28日、最高裁は却下した。彼はその後、テレビに出るたびに、自白とも冗談ともつかない曖昧な言葉を吐いて世間を騒がせた。2004年9月29日、脳出血で死亡。57歳だった。ここは何度でも書いておかなければならない。

クリステル・ペテションは無罪である。それは疑わしいとか証拠不十分だからという話ではなく、上級審が全員一致で認定した法的な結論だ。2006年にはテレビ番組が「関係者によれば彼は自白していた」「本当は麻薬の売人を狙って人違いしたのだ」と報じた。だが、大手紙の記者たちがこの番組を厳しく検証し、発言の捏造と、都合の悪い事実の省略を指摘した。

近年になって捜査当局自身が、ペテションが犯人だとは考えていないと明言するようになっている。彼を有罪にした唯一の柱は、警察が壊してしまった面通しだった。そして、その面通しの犠牲者はもう一人いる。リスベット・パルメだ。彼女は最後まで、自分が正しかったと確信していた。

信じてもらえなかったことに、深く傷ついていた。息子のマルテンは後年、母は怒っていたし打ちのめされていた、と語っている。彼女は高裁の裁判官たちが政治的に偏っていると公に批判し、その結果さらに叩かれた。冷静に見れば、この件で責められるべきは彼女ではない。粗雑な面通しを組んだ警察である。

犯人だと告げられた人物を見せられ、その情報を信じてしまう。すると、その人物の顔は自分の記憶の中に入り込む。誤同定研究がずっと前から言い続けてきたことだ。彼女は2018年10月、87歳で亡くなった。児童心理学者として、また国連児童基金スウェーデン委員会の長として、長く子どもの権利のために働いた人だった。

彼女が生涯抱えた「信じてもらえなかった」という感覚は、彼女個人の失敗ではなく、この国の捜査機構の失敗の副産物である。

スカンディア・マン――「ありえない殺人者」

事件現場の道路を挟んだ向かいには、大手保険会社スカンディアの本社ビルがあった。犯行翌日の3月1日12時20分、そのビルで働くグラフィックデザイナーが警察に電話をかけてきて、用件はこうだった。自分は犯人と間違えられている。彼の名はスティーグ・エングストルム。当時52歳。

のちに「スカンディア・マン」と呼ばれることになる人物である。彼は自分こそが現場に最初に到達した目撃者の一人であり、パルメの蘇生を手伝ったと主張した。10日後、休暇から戻った彼は刑事の聴取を受け、二つのことを強調し、自分のコートはボタンを留めていたのだ。自分がかぶっていた帽子には耳当ても、つばの留め具もなかった。

目撃者たちはコートの前をはだけて走る犯人を見ており、また映画館の外では耳当てと留め具のついた帽子の男が目撃されていたのだ。つまり彼は、自分を犯人像から遠ざける方向に、自ら細かく証言していた。1986年4月6日、彼はテレビのニュース番組に出演した。ここでホルメルの捜査本部の何人かが、この男は妙だと感じはじめる。

市民からの情報提供も入りはじめ、捜査本部の活動リストに、彼の名前は独立した項目として書き込まれた。技術捜査の担当部署は、彼を現場の再現実験に呼ばないことに決めたのだ。すると彼は、公共放送に頼んで自分が主役の「もう一つの再現」を作らせ、派手で、目立ちたがりだった。そして1987年2月、彼は容疑者リストから外されたのだ。ホルメルにとって彼は、クルド路線の邪魔をする苛立たしい雑音でしかなかった。

近年になって公開された当時の音声記録には、捜査官たちがテレビ出演後の彼を笑い物にしている場面が残っている。「どうしてエングストルムを見逃せた?」という言葉や、彼の外見や、再現実験から外されたことに動揺している様子を茶化す発言。番組の制作者はこれを「更衣室の雑談」と表現した。厳密な容疑者評価に必要な緊張感が、まったくなかった。同じ録音の中で、刑事の一人はこうも言っている。

もしこいつが嘘をついていないなら、こいつは犯行現場にいたことになる。だとしたらこいつが犯人だ。そこまで言っておいて、彼は落とされた。2018年5月、雑誌『フィルテル』にジャーナリストのトーマス・ペテションによる長大な調査記事が載る。同年8月には『ありえない殺人者――スカンディア・マンとオロフ・パルメ暗殺』という本になり、スウェーデンの調査報道賞を受けた。

彼の主張の骨格はこうだ。逃げる犯人についての複数の証言はエングストルムによく一致する。彼が自分で語る「現場での役割」を裏づける目撃者が一人もいない。彼が名前を挙げられる人物は、犯人が接触したはずの人間ばかりで、後から到着した人間は識別できていない。その夜の自分の行動についての説明は変転しており、しかも変転の方向には一貫性がある。

彼は打刻時刻を裁判のたびに1分ずつずらしていった――地裁では23時21分に出たと言い、高裁では23時23分だったと言った。そして彼はメディアに出るたびに、自分の関与を細かく、劇的にしていったのだ。2020年6月10日、主任検察官クリステル・ペーテションが記者会見を開いた。逮捕された男とほぼ同姓同名という、この事件らしい偶然である。34年の捜査に終止符が打たれた。

エングストルムを「最も可能性の高い容疑者」として名指しし、本人が死亡しているため刑事責任を問えないとして捜査を打ち切ったのである。エングストルムは2000年6月26日に自宅で死亡していた。自ら命を絶ったと伝えられている。

失望という言葉が、そのまま国の空気になった

会見のあとスウェーデンで行われた世論調査の結果は、この国の反応を残酷なまでに正確に示している。エングストルムが犯人だと納得した人は5人に1人に満たず、犯人ではないと確信した人も同じくらいいた。そして5人に3人が「わからない」「疑わしい」と答えた。34年、70万ページ、3億5千万クローナ。その果てに国民の大半が納得しなかった。

批判は具体的だった。物的証拠が何一つない。指紋もDNAも弾道の一致もない。凶器は見つかっていない。動機は「パルメの政策が嫌いだった」という以上のものが示されず、身長の食い違いを指摘する声もあった。

彼の元妻は、彼は根が臆病な人だったと語った。何より、彼は死んでいて、反論できない。そして報告書とその証拠は全文が公表されなかった。そして最も痛烈な反証は、事件当夜の緊急通報の録音そのものから出てきた。23時22分35秒の音声に「撃たれたんだ」という男の声が入っており、複数の専門家がこれをエングストルムの声と判定している。

正直に言えば、もしそれが本当なら、彼は発砲から75秒でとんでもない移動をしたことになる。トゥンネルガータンに走り込み、ルントマカルガータンに左折し、スカンディアビルの裏口から中に入り、受付を抜けて現場に戻ってきたわけだ。物理的にほぼ不可能だ、というのがこの反証の核心である。2021年6月、国会オンブズマンが動いた。

オンブズマンは、故人となった被疑者の権利をどう扱ったか、検察官が客観性を保っていたかを審査し、厳しい批判を出した。裁判所の判断を経ずに人を有罪であるかのように提示したことは、無罪推定という基本的人権を侵害するものだ、と。加えて、死者が自らを弁護できないという点への配慮が足りない。証人の実名を必要もなく出した、打ち切り理由の文書化が不十分だ、という三点も指摘された。

ペーテション検察官は、この事件は特殊であり、沈黙していればもっと大きな世論の反応を招いただろう、と反論した。そして2025年12月18日。上級検察官レンナート・グネーが記者会見を開き、こう述べた。スティーグ・エングストルムはもはや犯人として名指しされない。理由は三つ挙げられた。

目撃証言に照らすと、彼には犯行に必要な時間がなかった可能性が高いこと。パルメの居場所を彼がどうやって知りえたのかについて、信用できる説明がないこと。凶器を彼がどうやって入手しえたのかについても説明がないこと。ただし捜査は再開されない。理由は「エングストルムが死んでいるから」ではなく、「さらに捜査を続けても証拠状況が決定的に変わるとは考えられないから」に書き換えられた。

グネーは会見でこう認めている。多くの人が抱いていた、この殺人が解決されうるという希望に、私は応えることができなかった。つまり、2020年6月10日から2025年12月18日までの5年半だけ、スウェーデンには「公式の犯人」がいた。そして今はもういない。この事実だけで、この事件が何なのかがだいたいわかる。

なお、記事の書き手であるトーマス・ペテション自身は、この決定を歓迎している。エングストルムの名指しはブレーキになっていた、他の線を追いたい人間にとっては外れたほうがいい、と。ただし彼は同時にこう強調する。これは無罪判決ではない。エングストルムを犯行に結びつける新事実が出たわけでもないし、彼を犯行から切り離す新事実が出たわけでもない。

彼は宙に浮いたままだ、と。そして彼自身は、この件の追跡をやめると表明した。繰り返すが、スティーグ・エングストルムは一度も起訴されておらず、一度も裁判にかけられていない。検察が「そう考える」と発表し、5年半後に別の検察官が「その根拠は足りない」と撤回した。それだけである。

彼を犯人と呼ぶことは、事実としても法的にも間違っている。ネットフリックスのドラマがこの説にもとづいて実名で作られたとき、彼の元妻は「これは私に対する個人攻撃だ」と憤り、弁護士に相談した。別の登場人物の遺族も、父親を「意地の悪い暴君」として描かれたことに抗議し、厳格であることと意地が悪いことは同じではない、と反論した。

作り手には作り手の言い分があるだろうが、名前を出された側の家族は、40年たっても普通に生活している人間なのだ。

取り逃がされた線――「株屋」と呼ばれた男

2020年の会見で最も落胆したのは、実は別の線を追っていた人たちだった。事件のあと、警察はストックホルム圏内にあるスミス・アンド・ウェッソン.357マグナムの合法登録銃をすべて試射する方針を立てたのだ。所持許可を持つ全員に呼出状が送られた。狙いのひとつは、呼出しに応じない人間こそ最も興味深い、という発想である。何年もかけて試射を積み重ね、最終的にリストから消せなかった人物がただ一人残った。

捜査資料では「クリステル・A」あるいは「株屋」と呼ばれる男である。彼は現場から徒歩圏に住んでおり、射撃クラブの腕利きで、事件当夜のアリバイは「家にいた」というだけだった。そして繰り返しの呼出しを無視し、ようやく聴取に応じたときには、その銃はもうない。クングストレードゴーデンで見知らぬ相手に非合法で売った、と説明したのだ。捜査官はこの説明を嘘だと判断し、それでも彼への追及は、何年も放置された。

1995年、捜査陣はテレビの公開捜査番組に協力を求め、視聴者にこの銃の情報提供を呼びかけ、40件ほどの情報が来たのだ。ところが警察は、番組に伝えた製造番号を取り違えていた。まったく別の銃を捜していたのである。1999年の調査委員会は、彼が試射に応じていないという事実に捜査陣が気づくまで何年もかかったことを批判し、この線に何ページも割いた。

その後、警視と精神科医の二人がこの線を丸ごと洗い直し、親族の再聴取など具体的な追加捜査を提案した。だが、結局は動かなかったのだ。2008年、親族から「心配だ」という通報を受けた警察が彼の自宅を訪ねた。ドアを開けるよう呼びかけると、中から銃声が聞こえ、踏み込んだ警官が見つけたのは、彼の遺体だった。ここまではまだいい。

ひどいのはその先だ。パルメ捜査班は、これほど関心を持っていた人物に対して、警察内部システムの「フラグ」を立てていなかった。だから彼の死が捜査班に伝わるまで3か月かかり、そのころには彼の部屋はすでに片づけられ、遺品は処分されていた。近年、この線は再燃している。2024年8月、ジャーナリストのヨン・ヨルドースが『オロフ・パルメ暗殺についての最後の本』を出した。

2025年には大手紙のポッドキャストが、4回シリーズでこの人物を掘り下げている。射撃クラブ内のパルメ憎悪についての新証言、当時の聴取音声、元捜査官たちのインタビュー。元捜査官の何人かは、この線こそ全容疑者の中で最も興味深かったと語っている。そして忘れられていたマルテン・パルメのモンタージュ写真が、40年ぶりに本人の目の前に出された。

この人物の写真と並べて見せられたマルテンは、「明らかな類似がある」と述べた。それでもなお、凶器は見つかっていないし、この人物を犯行現場に結びつける証拠は一つもない。彼もまた、起訴されたことがない。

目撃者たちの、その後の40年

この事件をただの政治謎解きとして消費するのは、たぶん間違っている。ここには、たまたまその場に居合わせただけの人間が何十人もいて、それぞれが自分の40年を背負わされた。17歳だったアンナ・ハーゲは、その夜、名前も知らない男の胸を押し続け、血まみれになって家に帰ったのだ。4年間黙り、裁判に呼ばれても誰も心のケアなどしてくれず、感情のスイッチを切ることで生き延びた。

切ったスイッチはやがて勝手に入り直し、彼女を苦しめ、彼女は後年になって本を書き、テレビで語ったのだ。番組の中で、あの夜自分が救おうとしたのが誰の父親だったのかを、その息子の口から労われた。それが起きるまでに30年以上かかった。彼女は今でも、あの夜「助けもせずに立ち去った男」の記憶をはっきり持っている。イェルフェラ・タクシーの運転手と、その無線交換手の女性の名前を覚えている人は少ない。

だが、この事件で最初にまともに機能した通信網は警察無線ではなくタクシー無線だった。ちなみに、動いたのは運転手だけではない。運転手が「警察を呼んでくれ」と無線に叫び、交換手が緊急通報センターに電話をかけて救急車の手配を確認した。そして指示を受け、運転手に折り返して「現場に残っていてください」と伝えたのだ。

もう一人の運転手は、無線でこれを聞き、100メートル先のクングスガータンで見かけたパトカーを手を振って止めた。この夜、首相のもとに最初の警官を届けたのは、通信指令システムではなく、タクシーの運転手たちだった。会社の交換台が犯人の人相を全車に流したことは、翌未明のラジオ原稿にも記されている。現場の指揮をとった警視ゴスタ・セーデルストロームは、この夜のスウェーデン警察の縮図のような人物になった。

彼は現場にいちばん早く着き、封鎖線を作り、機動隊に階段を追わせ、23時30分に指令室へ「撃たれたのは首相だ」と伝えたのだ。指令室は「知っている」と答えた。それでも彼は、追跡に向かう部下に人相を伝えていない。彼を責めるのは簡単だが、その数分前まで指令室ですら「そんな通報は知らない」と答えていたのだ。個人の判断ミスではなく、体制がその夜まるごと機能していなかった。

彼はその後、この夜のことを何度も語ることになる。そしてアルフレッド・デ・タヴァレス。インド人のジャーナリストで、事件の翌朝に現場へ来た男だ。自己催眠で感覚を研ぎ澄まし、弾がどう飛んだかを推理して、雪解けのぬかるみから証拠物件を拾い上げた。彼はそれをラジオ記者に渡し、記者が警官に渡した。

眉唾に聞こえるかもしれないが、これは捜査記録に残る事実だ。数年後、彼はストックホルムのアパートでコーヒーを飲みながら知人に「自分が首相を殺した弾を見つけた」と語ったという。実際には、それはリスベットをかすめたほうの弾だった。彼はもう亡くなっている。最後に息子たちのことも書いておきたい。

マルテン・パルメは、映画館の外で不審な男を見た当事者であり、モンタージュを作った当事者でもある。母の証言が信じられなかった時代を近くで見ていた人間であり、40年間ずっと「新しい説」を突きつけられ続けてきた人間でもある。彼は2020年の会見について、疑いには信憑性があると思う。しかし100パーセントの確度でこの人物が犯行を行ったとは言えない、と語った。

同時に、当時の捜査陣がエングストルムを早々に切り捨てたことを「唖然とする」と批判したのだ。長兄のヨアキムは、長年ペテション犯人説を信じていたが、次第に慎重になった。2018年の時点で彼はこう言っている。いろんな方向を指す説にさんざん振り回されてきたから、新しい情報には批判的に接することを学んだ。今いちばん必要なのは技術的証拠である。

誰が犯人であれ、銃こそが知識の水準を動かせるものだ。それが明らかに、この捜査の穴なのだ、と。

なぜスウェーデン人はこの事件を手放せないのか

インターネット上のパルメ事件界隈は、たぶん世界でもかなり特殊な生態系だ。まず、事件が打ち切られたことで捜査資料が公開の対象になった。市民は少額の手数料で文書を請求できる。ただし全部となると100万クローナかかるし、実際に公開されるのは年に1000ページ程度である。この速度で50万ページを全部出すには、数百年かかる計算になる。

しかも一部の人名は法律にもとづいて黒塗りされている。そこでネット上には、黒塗りを解読するためのグループが生まれた。使われているフォントと文字サイズを特定し、塗りつぶされた領域の幅から入る文字数を割り出し、候補を埋めていく。国家が伏せた名前を、市民が版面から逆算して復元する。この光景が健全かどうかはさておき、不信の深さの指標としては雄弁だ。

2023年には、公開資料をまとめたデータベースを使う専用の対話型検索ツールを、二人の技術者が作った。開発者たちの言い分がいい。このツールがパルメ暗殺を解決することはない、しかしこのツールを使う人間が解決する確率は上がる、と。2026年2月、事件40周年の週にも動きがあった。

あるクライムポッドキャストのチームが、スウェーデンとベルギーの会社に作らせたAIエンジンで主要な仮説を検証しはじめた、と発表したのだ。約3万件の公開デジタル文書を1秒足らずで走査できるという。警察の見立てでは、50万ページの資料を人間が読み通すだけで10年かかる。だが今のところ、AIから決定打は出ていない。そして別の市民調査グループの一人は、身も蓋もない指摘をしている。

文書は大量に黒塗りされているし、まだ公開されていない資料が膨大にある、と。上級検察官のグネー自身も同じことを言っている。存在しない情報を助ける技術は存在しない、情報に穴があること自体が問題の大きな部分なのだ、と。40周年当日の2026年2月28日、国会議事堂のそばの広場で集会が開かれた。

二人のジャーナリストが呼びかけ、約1000人分の署名を集めて、政府と議会に「真実委員会」の設置を求める要望書が提出された。求められているのは、各官庁の守秘の壁を突き破り、宣誓のうえで裁判に準じる聴取を行える強い権限を持った委員会である。呼びかけ人たちの主張は明快だ。犯人が運よく逃げおおせただけという可能性は当然ある。だが、警察と検察が敏感な問いを避けてきたことは疑いようがない。

そして、ときにそれは政治の側からの合図によるものだった、と。彼らが挙げる「避けられた問い」の中には、事件当夜に中心部で行われていたとされる警察と軍がからむ何らかの活動がある。ウォーキートーキーを持った男たちの多数の目撃。警察の通常の通信ではない不可解な無線交信だ。発砲の通報に対する指令室のありえないほど鈍い反応――まるで担当者たちが、その銃声を訓練の一部だと思っていたかのようだった、という指摘。

二台の逃走用車両が通りの両側にいたという証言。パルメ検察の捜査陣も、後年になってこの方向を検討したことはある。だが公安機関からも軍情報部門からも具体的な協力は得られず、聴取された関係者たちは何も語らず、彼らはこの糸を手放した。こうした話をどこまで信じるかは人による。断っておくが、ここに挙げたどれ一つとして立証されていない。

ただ、この事件の考察界隈が数十年にわたって萎まない理由は、はっきりしている。捜査の失敗が、あまりにも具体的で、あまりにも検証可能だからだ。指令室の録音が残っていて、そこには「そんな通報は知らない」という声が入っている。国家非常警報が2時間44分後だったことは記録に残っている。弾丸を通行人が拾ったことは記録に残っている。

面通しの記録が二種類あって、片方が捜査資料から外されていたことも記録に残っている。陰謀論を信じるまでもなく、公式記録だけで十分に不気味なのだ。

オロフ・パルメという政治家が、なぜここまで憎まれたのか

ここまで読んで「なぜ首相が殺されるほど憎まれたのか」がピンとこない人もいるはずだ。ここは押さえておく価値がある。パルメは1927年生まれ、ストックホルムの裕福な家の出身である。若い頃にアメリカに留学し、そこで見たものが彼を民主社会主義に向かわせた。1969年に社会民主党の党首、同年に首相となり、1976年まで、そして1982年から死ぬまで首相を務めたのだ。

国内では1970年代前半に、この国の歴史上もっとも集中的な社会改革の時期を主導した。男女平等、家族政策、労働市場における女性の機会。しかし彼の名前を世界に轟かせたのは、外に向けた発言だった。1972年12月、彼はアメリカによるハノイとハイフォンへの爆撃を名指しで非難した。ゲルニカやリディツェ、シャープビルやトレブリンカと並べたのである。

西側の一国の首相が、公然とそれをやった。ニクソン政権は激怒し、外交接触を制限したのだ。パルメは南アフリカのアパルトヘイトに対しても最も厳しい批判者の一人であり、アフリカ民族会議への実質的支援を進めた。核軍縮を訴え、第三世界の側に立ち、小国の代弁者として振る舞ったのだ。その分だけ、彼は憎まれ、国内では「パルメ憎悪」という言葉が普通に使われるほどの空気があった。

保守層の一部にとって、彼は単に意見の合わない政治家ではなく、生理的に許せない存在だったのだ。彼を「ソ連の影響下にある」と決めつける言説が、国内外を循環した。その一部は、ユダヤ人であるという根拠のない主張とも結びついている。念のため書いておくが、彼はユダヤ人ではない。彼を狙い撃ちにした個人的な誹謗キャンペーンを何年も続けた人物もいた。

欧州労働者党のような小集団は、パルメ攻撃をほとんど存在理由にしていたのだ。1980年代に入って、スウェーデン国内でも福祉国家批判が強まる。すると外から輸入された「スウェーデン叩き」の語彙と、国内の反パルメ感情が混ざりあった。そして、この憎悪の総量に対して、彼の警備はあまりに薄かったのだ。というより、薄くあることが選択されていた。

護衛なしで映画館に行く首相。これはスウェーデンの誇りであり、同時に無防備さそのものだった。事件直後、ある政府関係者が漏らしたと伝えられる言葉ほど、この国の恐怖を的確に言い表したものはない。頼むから、頭のおかしいスウェーデン人であってくれ。外国のテロリストの仕業なら、国内にくすぶる排外感情に火がつく。

逆に、周到に計画された犯行にスウェーデン人が関与していたのなら、それはこの社会の中に誰も知らなかった病巣があるということになる。どちらもこの国が耐えられそうにない結論だった。3月15日、市庁舎の青の間で、宗教色のない告別式が行われた。125か国の要人。13人の大統領と19人の首相。

国王も、次の首相となるイングヴァル・カールソンも、国連事務総長も、インド首相も、西ドイツの元首相も弔辞を読んだ。ジャズの小編成が演奏し、フィンランドの歌手がチリの歌をスウェーデン語で歌った。白い棺は12人の子どもが引く手押しの霊柩台に載せられ、雪雲の下、15万人が並ぶ道を進んだ。人々は赤いバラを投げた。棺は現場のすぐ近くのアドルフ・フレドリク教会の墓地に埋葬された。

倒れた交差点が見える距離である。彼が撃たれた通りの一部は、のちにオロフ・パルメ通りと改名された。25年後にその場所に花を置きに来た66歳の女性の言葉が、この国の感覚をよく表している。今日ここに来るのが大事だと思った、ここで私たちは無垢さを失ったのだから。彼女は事件から数時間後、何も知らずに娘と地下鉄の出口を出て、血だまりと規制テープを見た。

そして言う。これはスウェーデンの開いたままの傷です。ここを通るたび、あの階段を見上げて思うんです。答えが消えたのはあそこだ、と。ここからは、事実の並べ直しではなく、40年ぶんの議論を踏まえて、この事件の何が本当に特異なのかを整理しておきたい。

まず押さえるべきは、この事件が「解けない」のではなく「解けなくされた」という点だ。両者はまったく違う。難事件というのは、証拠が乏しいか、犯人が異常に周到であるか、そのどちらかのことが多い。パルメ事件の場合、犯人が周到だった形跡はむしろ薄い。中心街の交差点で、40人前後の人間がいる場所で、逃走経路として選んだのは行き止まりに見える細い道と階段だ。

凶器を持ち去ったのは賢明だが、それ以外は行き当たりばったりに見える。にもかかわらず解けないのは、犯行が完璧だったからではなく、事件から最初の12時間で証拠が守られなかったからだ。その12時間の失敗を、もう一度並べてみる。犯行から4分半、警察の通信指令室は事件の存在を認識していなかった。現場に最初の警官を届けたのはタクシー会社の無線網で、追跡命令は出たが人相は伝えられなかったのだ。

封鎖は狭く、夜のあいだ守られず、市民が花を投げ込める状態が続いた。翌朝10時に現場検証を始めたときには足跡は消えており、街の封鎖も検問も行われなかったのだ。近隣管区にも全国にも通報が行かず、国家非常警報は2時間44分後に出た。二発の弾丸は警察ではなく通りすがりの一般人が拾ったのだ。この一つ一つが、後の34年間を規定した。

凶器がないのは、犯人が持ち去ったからだけではない。持ち去った男が包囲されなかったからだ。第二に、初動の失敗はやがて「性質の異なる失敗」に変わった。最初の失敗は無能で、次の失敗は独断だったのだ。ハンス・ホルメルが捜査を一本の外国の線に縛りつけた1年間に、他のすべての線が窒息した。

南アフリカ関連の初期情報が、幹部の金庫で数年眠っていたという証言がある。あれは行政の怠慢というより、当時の捜査本部が「見たいものしか見なかった」ことの帰結だ。公安警察の作業班が「パルメは監視されていた」と結論する報告書を上げても、そこにクルド人が出てこないという理由で無視される。こうなるともう捜査ではない。仮説の防衛である。

第三に、その次にやってきたのが「証人を作ってしまう失敗」だった。クリステル・ペテションの面通しは、心理学的にみて最悪の設計だったのだ。証人にあらかじめ容疑者の属性を教え、12人中1人だけ目立つ格好にした。弁護人を排除し、二度目は容疑者だけを見せる。法廷では、映像を前にした反対尋問すら許さなかった。

しかも、証人が動揺していたという記述を含む記録は、捜査資料から外れた形で存在した。この設計で得られた同定は、証拠ではなく、証拠の外観をした何かだ。高裁はそれを全員一致で退けた。この判断は現在も揺らいでいない。ペテションは法的に無罪であり、その後の捜査当局自身も彼が犯人だとは考えていないと明言してきた。

そして厄介なのは、この失敗が二重の被害を生んだことだ。ペテションは3年近く容疑者として全国に晒され、有罪判決を受け、釈放され、残りの人生をこの事件の亡霊として生きた。リスベット・パルメは、夫を殺した男の顔を見たと信じ、それを口にし、そして国じゅうから信用できない証人として扱われた。彼女に落ち度があったのではない。彼女は警察に用意された記憶を、正直に語っただけだ。

誤同定研究が繰り返し警告してきた通りのことが起きた。だが人間の感情はそんなふうには整理されない。彼女は最後まで、自分は正しかった、と言い続け、裁判官が政治的に偏っていると批判し、そのことでまた叩かれた。2018年に亡くなるまで、彼女の中ではこの事件は終わらなかった。第四に、2020年の打ち切り。

ここには制度的な問題が凝縮されている。検察は捜査を終わらせる権限を持っている。だが「誰が犯人か」を宣言する権限は持っていない。それは裁判所の仕事だ。ところが2020年6月10日の会見は、実質的にその越境をやってしまった。

国会オンブズマンが翌年に指摘したのは、まさにそこだった。裁判所の判断を経ずに人を有罪であるかのように提示したことは、無罪推定を侵害する。死者は反論できない。だから死者を名指しすることには、生者を名指しするよりも重い慎重さが要る。この理屈は、感情的にはわかりにくい。

もう死んでいるんだから誰も困らないだろう、と思う人もいるだろう。だが困る人はいた。エングストルムの元妻は、ドラマ化に際して「これは私への個人攻撃だ」と言った。名前は死んでも消えない。むしろ死んだあとのほうが、本人の反論なしに独り歩きする。

そのうえで、2025年12月18日の撤回が意味するところをきちんと見ておきたい。上級検察官が挙げた三つの理由――時間が足りない、居場所を知る手段がない。凶器を得る手段がない――は、実は2020年以前から言われていた反論とほぼ同じである。新しい発見があって覆ったのではない。同じ材料を別の人が評価し直したら、逆の答えが出た。

これは科学ではなく、判断の問題だ。だから、エングストルム説を支持する側は今も納得していない。専門家による検証記事が、上級検察官の各論点に反論を重ねている。逆に、彼を犯人とは考えない側は「ようやくまともになった」と受け止めている。国家がひとつの説に肩入れした5年半が終わり、事件は元の宙ぶらりんに戻った。

そしてそこには誰も名前がない。第五に、では他の説はどうなのか。冷静に見ると、ほとんどの外国関与説には共通の弱点がある。動機が強いのに、実行の痕跡がない。南アフリカ説は動機として最も説得力がある。

パルメはアパルトヘイト体制にとって、資金面でも国際世論の面でも実害を与える存在だった。ロングリーチという枠組みも実在した。しかし、政権崩壊後にあれだけの機密が開示され、真実和解委員会があれだけの自白を引き出している。それにもかかわらず、パルメ暗殺に関する作戦文書は一枚も出ていない。デ・コックの証言は「第一次情報を持っている」と言いながら、詳細を語らなかった。

後には「実行犯はトルコ在住のスウェーデン人情報将校だ」と別のことを言った。名指しされたウィリアムソンもヴェディンもホワイトも、いずれも起訴されていない。PKK説には動機すら弱い。武器輸出説は時系列が合わない。イタリアの秘密結社説や米国情報機関説は、電報の言葉遊びと真偽不明の文書に依存している。

ユーゴ説は亡命工作員の証言だけで、弾道の裏づけがない。ソ連説にいたっては、実行があまりに素人くさく、東側の手口として説明しにくいという逆説的な難点を抱える。一方で、警察内部説には別の性質がある。これは動機も機会も否定しにくい。当時のストックホルム警察には、暴力的で右傾した集団が実在した。

それは調査委員会が認定している。パルメへの敵意を公言する警察官がいたことも記録にある。事件当夜の一部の警官の行動に説明がつかない部分があることも指摘されている。だからこの説は消えない。ただし、消えないことと、証明されることは違う。

1999年の委員会が到達した結論は「陰謀ではなく無能」だった。この結論に納得しない人が多いのは、無能の度合いがあまりにも度を越していて、無能では説明しきれない気がするからだ。人間は、極端な失敗を見たとき、そこに意図を読み取りたくなる。これは認知の癖であって、証拠ではない。だが同時に、「無能だった」で全部を片づけるのも、それはそれで思考停止だ。

第六に、単独犯説について。これは一番退屈で、たぶん一番怖い説である。誰かがマグナムリボルバーを持って夜の街をうろついており、たまたま首相夫妻が歩いてきて、憎んでいた顔で、撃った。逃げ、誰にも言わなかった。死んだ。

動機は個人的な憎悪で、組織も指令もなく、証拠も残らなかった。この説が正しければ、40年の捜査も、無数の陰謀論も、真実委員会の要求も、全部が空振りということになる。そして見落とせないのは、この説を否定する材料もまた存在しない、という点だ。事件当夜の実行があまりに雑だったこと、逃走経路の選択が地元の人間らしくもプロらしくもなかったこと、こうした点はむしろ単独犯説と整合的である。

第七に、なぜこの事件が語られ続けるのか。理由は三つある。ひとつは、失敗の記録が異様に詳細に残っていることだ。この国は自分の失敗を三度も公的に調査し、その報告書を公開した。「驚くべき無為と混乱」という言葉が、国家の文書に印刷されている。

指令室の音声も、面通しの二種類の記録も、公になっている。だから素人でも検証できる。検証できるからこそ、議論が終わらない。皮肉な話だが、隠蔽が下手だから疑惑が続いているのではなく、記録が正直だから疑惑が続いている面がある。ふたつめは、逆に、まだ大量に隠されていることだ。

50万ページのうち、年に1000ページずつしか出てこない。黒塗りがある。だから市民はフォントの幅から名前を復元しようとする。この非対称が、不信を再生産し続ける。上級検察官の「存在しない情報を助ける技術は存在しない」という言葉は正しい。

だが市民の側から見れば、「存在するのに出てこない情報」のほうが問題なのだ。ここが噛み合っていない限り、真実委員会を求める声はなくならない。みっつめは、この事件が国の自己像そのものに刺さっていることだ。首相が護衛なしで映画に行ける国。それがスウェーデンの誇りで、その誇りが、そのまま殺害の条件になった。

そして、その国の警察は、首相が撃たれた夜に街を封鎖することすらできなかった。ここには、豊かで整った社会が自分の暴力について何も知らなかった、という残酷な発見がある。作家たちがその後の北欧犯罪小説で書き続けたのは、まさにこの「静かな国の底にあるもの」だった。事件現場に花を置きに来た人が「ここで私たちは無垢さを失った」と言うとき、それは比喩ではなく、かなり正確な社会学的記述である。

最後に、この事件を扱うときの作法について書いておきたい。この40年、あまりにも多くの人間が「犯人」として名前を挙げられてきた。33歳の男は、疑いを晴らしたあともその肩書きから逃れられず、国を出て、無関係な事情で殺されたのだ。クリステル・ペテションは全員一致で無罪となったのに、死ぬまで「あのペテション」だった。スティーグ・エングストルムは一度も起訴されず、一度も法廷に立たされていない。

死後20年たってから国家に名指しされ、5年半後に撤回されたのだ。「株屋」と呼ばれた男は、追及されるべきときに追及されず、死んだあと3か月放置され、部屋を片づけられた。誰一人として、有罪判決を受けていない。だから、この事件について書ける最も正直な文章は、たぶんこうなる。1986年2月28日23時21分30秒、一人の男がオロフ・パルメを撃ち殺した。

場所はストックホルムのスヴェアヴェーゲンとトゥンネルガータンの交差点である。その男が誰だったのかは、40年たった今もわかっていない。わかっているのは、その夜、彼を捕まえる機会が確かに存在し、そして失われたということだけだ。凶器は見つかっていない。目撃者たちは老い、多くはもう亡くなった。

妻は信じてもらえないまま死に、息子たちは新しい説が出るたびに呼び出され、意見を求められ続けている。そして今日も、ストックホルムのあの交差点の歩道には、地面に埋め込まれた小さな銘板がある。花を置いていく人がいる。階段を見上げて、あそこで答えが消えたのだと思う人がいる。この事件が終わるとしたら、それは誰かが犯人の名前を突き止めたときではないだろう。

たぶん、あそこに花を置く人がいなくなったときだ。今のところ、その気配はまったくない。

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