- 日曜の夜10時半、ニューラテンクォーター
- 足を踏まれたと襟首をつかんだ
- 顎を殴られ、馬乗りになられた男
- 山王病院501号室
- 全治2週間という見立て
- 縫った腸が持ちこたえなかった日
- 穿孔性化膿性腹膜炎という診断
- 寿司と酒の話
- 医療ミスという噂の出どころ
- 事件の2週間前に起きていたこと
- 大相撲の関脇から、リングの人へ
- 正力松太郎と街頭テレビ
- ご成婚の年に増えたテレビ
- シャープ兄弟と蔵前国技館
- 木村政彦との一戦
- ルー・テーズを破った夜
- リキ・アパートとリキ・スポーツパレス
- 64パーセントの夜
- 覆面のデストロイヤー
- 12月20日、池上本門寺
- 残された事業と、割れた団体
- 弟子たちが選んだ道
- 刺した男のその後
- 生まれの年さえ定まらない人
- 池上本門寺に残る墓所
- 7日間の数え方
日曜の夜10時半、ニューラテンクォーター
1963年12月8日は日曜日だった。赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」の店内は、その夜も客の声でざわついていたはずだ。時刻は午後10時30分。フロアの片隅には、プロレスラーの力道山が座っていた。
力道山はすっかり酔っていて、女性と談笑していたと伝わる。会社の幹部が8人ほど付き添い、その中には若き日のアントニオ猪木や、グレート東郷の顔もあった。
猪木はこのとき20歳だった。のちに日本のプロレスを背負うことになる青年は、師匠と同じ店にいて、これから師匠の身に降りかかる出来事を、すぐ近くで目にすることになる。
この夜のことは、あとから何度も語り直されてきた。現場にいた人間の数は、それなりに多い。ただし細部になると、証言の食い違いが、あちこちから顔を出してくる。
時間を整理しておく。事件が起きたのは12月8日の午後10時30分で、力道山が亡くなったのは15日の午後9時50分ごろだから、そのあいだはちょうど7日になる。
入院は9日の未明、最初の手術は9日の早朝、再手術は15日の午後2時30分と、記録に残る時刻は意外なほど細かく分かっている。ただ、なぜそこまで悪化したのかという肝心の部分では、議論が長く続くことになった。
足を踏まれたと襟首をつかんだ
通りかかったのは、住吉一家の系列に連なる組員の男だった。事件の記録には本名が残っているが、ここでは書かない。「男」とだけ呼んでおく。
力道山は、その男に向かって「足を踏まれた」と言い、襟首をつかんだ。男のほうは、踏んでいないと言い返す。返した言葉まで、いまに伝わっている。
あんたみたいな図体の男がそんなところに立っていたら、ぶつかって当然だ。まあ、酔った大男に面と向かって言う台詞ではない。
力道山にしてみれば、相手が引かなかったこと自体が許せなかったのかもしれない。夜の赤坂を庭のように歩いてきた人間に、真正面から言い返す者が現れたのだから。
店の通路で、ひとりの男と力道山がぶつかる。大筋は、たったそれだけだ。ささいな出来事は、7日後のひとりの死へつながっていく。
原因は、それだけ。刃物が出てくる前の段階だけを切り取れば、これは足を踏んだか踏まないかという、ごく小さな言い合いにすぎなかった。
ところが力道山の側が先に手を出し、倒れた相手へ馬乗りになったことで、場の空気は取り返しのつかない方向へ傾いていく。
顎を殴られ、馬乗りになられた男
力道山は、男の顎を拳で突き飛ばした。倒れ込んだ男の上へそのまま馬乗りになり、殴りつける。殴っているのは、日本で一番名の知れた格闘家だった。
体格の差は、素人が逆立ちしても埋められない。下になった男は、このままでは殺されると思ったらしい。その手に握られていたのが、登山ナイフだった。
刃は、力道山の左下腹部に突き刺さる。一瞬の出来事だった。
奇妙なのは、直後の様子だ。出血は、力道山が着ていた衣服の上に染み出していなかったという。傷の深さは、見た目だけでは誰にも分からなかった。
山王病院501号室
力道山は、赤坂の山王病院へ運ばれた。12月8日の夜のうちに応急の手当てを受け、日付が変わった9日の未明に入院する。部屋は501号室だった。
9日の早朝には、最初の手術が行われる。切れていたのは小腸の4か所で、医師はそれを十数針で縫い合わせた。診断は全治2週間。
この数字が、あとの経過を知る者には苦く響く。担当の医師たちは、時間はかかっても回復する傷だと診ていた。プロレス界の看板は、ひとまず命を拾ったのだ。
傷の数は4か所。縫った針は十数針で、手術の直後に医師が口にした見通しは、どこから見ても軽い怪我に対するものだった。それが7日後には、再手術から昏睡、そして死去へと、あっという間に塗り替えられていく。
全治2週間という見立て
刺された直後の力道山は、出血が衣服の上に出ていないほど、外から見て穏やかな状態だった。医師たちが回復を見込んだのは、当時の判断としては自然な流れに思える。
小腸の傷は4か所あったが、縫い合わせる手術は予定どおりに終わった。診断の数字も、その手応えに沿って出されたのだろう。
腹の中で何が進んでいるのかは、切り開いてみなければ分からない。見た目と中身のずれこそが、この事件のいちばん厄介な部分だった。
縫った腸が持ちこたえなかった日
12月15日、刺されてから7日目。力道山の腹に異変が起きる。腹膜炎から腸閉塞を起こしていた。
腸は、縫い合わせたあとも安心できない臓器だ。一般に、傷んだ腸の中身が腹の内側へ漏れ出せば、そこから細菌が広がって腹膜に炎症が起きる。腹膜炎とは、そういう病気を指す。
午後2時30分、力道山はもう一度手術台に載った。最初の手術で縫ったはずの腸が、持ちこたえられなくなっていたのだ。
手術のあと、力道山は昏睡状態に陥る。そのまま、およそ6時間が過ぎた。午後9時50分ごろ、息を引き取った。公称39歳。
穿孔性化膿性腹膜炎という診断
翌16日、遺体は慶應大学病院へ移され、ここで司法解剖が行われた。死因は穿孔性化膿性腹膜炎。そこから敗血症性ショックに至ったと判断された。
聞き慣れない言葉が並ぶが、要するに腸の穴から広がった膿の炎症が、全身に回ったということになる。理屈としては、これで通る。
執刀した医師の説明では、腹の中に200から300ccの血が流れ込んでいた。さらに、錆びたナイフから入った細菌が、最初の手術で取りきれなかったという。
全治2週間と言われた傷が、細菌の影響で命取りになる。ただ、世間はそれで納得しなかった。
言葉を分解しておく。穿孔は穴が開くこと、化膿性は膿を伴うこと、腹膜炎は腹の内側を覆う膜の炎症を指す。この三つを重ねれば、腸に空いた穴のまわりで炎症が膿み、それが腹全体へ広がった状態だと読み取れる。
診断名の字面だけでも、事態がどれほど深刻だったかは伝わってくる。
寿司と酒の話
病院での過ごし方について、後年になって出てきた話がある。食事を制限されていたはずの力道山が、寿司を食べ、酒まで口にしていたという説だ。
これには、はっきりした反論がある。妻は、自分たちが昼夜交代で付き添っていたのだから、そんなことは絶対にないと否定した。
一方で付け人だった人物は、のちにウイスキーを買いに行かされたと証言している。同じ病室の出来事について、ふたつの話が正面からぶつかる形だ。
どちらが正しいのか、いまから確かめる手段はない。正直なところ、死因を食べ物や酒に結びつける材料は、公式に発表された説明には見当たらない。
水掛け論に近い。妻の否定も付け人の証言も、どちらも当事者の口から出たものであり、いまさら記録で裏づけられる性質のものではない。
記録として確定している死因は、腹膜炎による敗血症性ショックだ。飲食の有無が結論を左右したと断じる根拠は、どこにも見つからない。
医療ミスという噂の出どころ
最初の手術で、何か手違いがあったのではないか。そうした噂は、長いあいだ消えなかった。よく知られた話に、麻酔のための気管挿管が失敗したというものがある。
医学生が手術に関わっていたという尾ひれまで、後からつけ加わった。ところが、その根拠は意外なほど薄い。力道山の死から30年ほど経って出た書籍の中の、医学生からの伝聞にすぎなかった。
2019年に出た報告は、この説を否定している。当時の市中病院で、医学生が麻酔に関わる状況は考えにくい。手術を担ったのは熟練した医師だったと見られている。
死因は発表どおり、敗血症性ショックと見るのが妥当だとされた。
噂は強かった。全治2週間と聞かされていた大スターが、わずか1週間で亡くなったのだから、誰かの責任を探したくなるのも無理はない。
疑いの目は手術に向き、それが書籍の伝聞という形で長く生き残った。検証の報告が出るまでには、半世紀以上の時間がかかっている。
事件の2週間前に起きていたこと
力道山が刺される16日前の1963年11月22日、アメリカでケネディ大統領が暗殺された。翌日には、日米間で初めての衛星中継を通じて、そのニュースが日本のテレビに流れる。
衛星を使った中継は、まだ珍しい技術だった。海の向こうの出来事が、その日のうちに茶の間の画面へ届く時代が、始まったばかりだったのだ。
力道山の人気を作ったのも、テレビという新しい道具だった。画面の向こうの英雄が、画面の外の夜の街で命を落とす。報道を受け取った側にとっては、現実感を失うような取り合わせだったと思う。
同じ年の暮れの話だ。ケネディ暗殺の衝撃が冷めきらないうちに、国内で一番有名なプロレスラーが刃物で刺されたという知らせが、ふたたび日本中のテレビとラジオを駆けめぐった。
大相撲の関脇から、リングの人へ
力道山は、もともと大相撲の力士だった。二所ノ関部屋に入り、初土俵は1940年5月場所。戦争の最中に土俵へ上がった人だ。
1946年11月場所で入幕し、1947年6月場所には前頭8枚目で優勝旗手を務めている。出世は順調に見えた。ところが1950年9月場所の前に、自分の手で髷を切って廃業する。
表向きの理由は病気だった。実際には、本人の素行をめぐる揉め事と、お金の苦しさがあったと見られている。
相撲のあとに選んだのが、プロレスだ。1952年にハワイで修行を積み、翌1953年に日本プロレス協会を旗揚げした。
土俵の上の記録は立派だ。関脇まで上がった番付と、前頭8枚目で務めた優勝旗手という経歴は、力道山が相撲界で確かな実績を残していたことをはっきり示している。
正力松太郎と街頭テレビ
1953年は、日本でテレビ放送が始まった年でもある。2月にNHKが、8月に日本テレビが電波を出した。日本テレビを興したのが、のちに力道山の葬儀へ姿を見せる正力松太郎だ。
放送局は、視聴者を集める看板番組を探していた。街頭に置かれた小さな画面の前に大勢の人を集めるには、ルールを知らなくても誰にでも分かる勝負が必要になる。そこに、プロレスがはまった。
大きな外国人の選手に殴られ、蹴られ、耐えに耐える。そこから一気に反撃に出て、空手チョップを叩き込む。見ている側の胸がすく展開だった。
力道山は、全国民の支持を受ける存在になっていく。リングの上の姿が、敗戦から立ち上がろうとする国の気分と重なった。
ご成婚の年に増えたテレビ
テレビが一般の家庭に入り始めたのは、1959年の皇太子ご成婚のころだと言われる。パレードを自分の家で見たいという人が、こぞって受像機を買い求めた。
街頭の画面にしがみついていたプロレスの観客は、やがて家の居間に座って、試合を見るようになる。
力道山は、画面の中で戦う姿を、日本中の家庭へ届ける役を担っていた。顔も声も体つきも、知らない人はほとんどいない。
だからこそ、力道山の死は、ひとりの有名人の死にとどまらなかった。毎週のように画面で見ていた人間が、突然いなくなったのだ。
シャープ兄弟と蔵前国技館
1954年2月19日から、力道山はシャープ兄弟を日本へ呼んで初めての興行を打った。会場は蔵前国技館だったと伝わる。これが大当たりになる。
当時のテレビは高価な品で、一般の家庭にはまだ行き渡っていなかった。人々は街頭に集まり、立ったままプロレスを見る。
試合のたびに、画面の前は黒山の人だかりになる。ちなみに、そのころの街頭テレビは、前の人の背中しか見えない光景だったらしい。
プロレスという言葉が、日本の暮らしに入り込んでいく。その先頭に立っていたのが、元関脇の力道山だった。
画面の前は黒山の人だかりだった。テレビを持たない人々が街頭の画面に集まり、外国人レスラーを倒す力道山の姿に拍手を送る光景は、敗戦から10年足らずの日本の場面としてよく紹介される。
木村政彦との一戦
1954年12月22日には、プロレス日本ヘビー級王座をかけた試合が組まれた。相手は、柔道界で無敵と呼ばれた木村政彦だ。
力道山は、張り手と蹴りで木村をKOした。決着はあまりにも一方的で、観客の目にも尋常な試合には映らなかったという。
のちに、この一戦は八百長が崩れたものだと議論されるようになる。事前の取り決めがあったのに、力道山が約束を破ったのではないか。そう論じる人たちがいる。
真偽は、いまも定まっていない。力道山という人物は、勝ち方の部分まで、こうして語り直され続けているわけだ。
ルー・テーズを破った夜
1958年8月27日、力道山はルー・テーズを破って、インターナショナル・ヘビー級王座を獲得した。世界に名の通った王者を倒した日本人。これ以上ない宣伝文句になった。
力道山のもとには、弟子が集まっていた。ジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎。のちの日本のプロレスを背負う面々が、みなその門下から出ている。
リングの外でも、周りには人が絶えない。夜になれば赤坂の店へ繰り出す。それが日課のようになっていたと伝わる。
リキ・アパートとリキ・スポーツパレス
力道山は事業にも手を伸ばした。赤坂にはリキ・アパートを、渋谷にはリキ・スポーツパレスを建てている。
リキ・スポーツパレスは地上9階建てだった。プロレスの常設会場として使われ、トルコ風呂、ビリヤード場、ボウリング場、レストランまで入っていた。
赤坂のリキ・アパートは、高級賃貸住宅の先駆けとされる。俳優の大辻伺郎が、晩年にそこへ住んでいた。
相模湖のほとりでは、レークサイド・カントリークラブの建設が進んでいた。完成を見ることなく、力道山は世を去る。
渋谷には9階建ての拠点があり、赤坂にはリキ・アパートがあった。ボウリング場やビリヤード場まで備えた複合施設は、試合の会場にとどまらず、遊びの場としても使えるつくりになっていた。
64パーセントの夜
1963年5月24日、東京体育館。力道山はデストロイヤーと戦った。この試合の平均視聴率は、64.0パーセントに達する。
歴代の視聴率の中でも4位に入る数字として、いまもテレビの歴史を語る場面でよく引き合いに出される。日本中の居間が、同じ画面に向いていた計算になる。
その夜から数えると、刺された日はわずか半年あまり先だった。日本中を釘付けにした男が、半年後の赤坂で、ナイフの前に倒れる。
頂点にいる人間ほど、足元の穴は見えにくいのかもしれない。そう思わせるだけの落差が、この数字と事件のあいだにはある。
覆面のデストロイヤー
デストロイヤーは、覆面をかぶった外国人レスラーだった。素顔の見えない相手と戦う力道山の姿を、日本中が画面で見つめていた。
64パーセントという数字の中には、勝負の行方を固唾をのんで見守る、数え切れない目がある。力道山は、その視線をまとったまま、1963年の秋を迎えた。
あとの半年に起きたことを考えると、この試合の記録は、ひとつの絶頂の証拠に見えてくる。
12月20日、池上本門寺
葬儀は12月20日、池上本門寺で営まれた。参列者は1万人を超える。
児玉誉士夫が弔問に訪れた。正力松太郎の名も並ぶ。美空ひばりも来ていた。政界、財界、芸能界の顔が、ひとつの境内に集まる。
事件の夜から数えて、わずか12日。夜の店の口論が、国中が見送る葬儀にまでつながっていた。
力道山という看板は、それだけ大きかった。その看板が突然倒れたとき、周りにいた人間たちは行き場を失う。
顔ぶれが広い。児玉誉士夫、正力松太郎、美空ひばりと並ぶ名前を見るだけで、力道山の交友がスポーツの枠をはるかに超えて広がっていたことが分かる。
残された事業と、割れた団体
力道山の事業は、本人ひとりの才覚と人脈で回るワンマン経営で成り立っていた。当人が急にいなくなったのだから、関連の会社は大混乱に陥る。
リキ・スポーツパレスは、力道山の死から4年後の1967年に、近畿観光へ売却された。額は5億円と伝わる。
この売却がこじれて、吉原功と遠藤幸吉が対立した。吉原は日本プロレスを離れ、国際プロレスを旗揚げすることになる。
力道山が築いた世界は、本人の死から数年のうちに、いくつもの流れへ分かれていった。
弟子たちが選んだ道
力道山の死から1年もしないうちに、東京でオリンピックが開かれた。1964年10月のことだ。東海道新幹線が開業したのも、同じ10月になる。
日本が戦後の復興を世界へ示した祭典を、力道山は一度も目にすることなく、この世を去っていた。街が新しく作り替えられていく光景も、本人には届かなかった。
門下の馬場と猪木は、のちに別々の団体を立ち上げる。1972年、馬場は全日本プロレスを、猪木は新日本プロレスを旗揚げした。
力道山が作った日本プロレスは、1973年に活動を終えた。それでも、日本のプロレスはふたつの大きな流れとして続いていく。源流には、赤坂で刺された男がいる。
行き先は別々だった。1972年に馬場が全日本プロレスを、猪木が新日本プロレスを作ったとき、日本のプロレスは、力道山が敷いた一本の道から、はっきり二本に分かれた。
刺した男のその後
刺した男には、逮捕状が出ている。ところが当人にも、思わぬ展開が待っていた。報復を受け、右目に重い傷を負う。
そのため男は、前田外科に1年近く入院することになった。事件の当事者のどちらもが、病院のベッドの上で長い時間を過ごしている。
酒場の口論の勝ち負けだけを見れば、勝負は殴り合いが始まった早い段階で、すでに決していたように見える。馬乗りになって殴っていたのは力道山で、下にいたのは男だった。
ところが最後に残った傷の重さは、まるで違う形で釣り合う。ひとりが命を失い、もうひとりが片目を傷めた。
生まれの年さえ定まらない人
力道山は、朝鮮半島の咸鏡南道、洪原郡の出身とされる。本名は金信洛。のちに養子縁組で百田光浩の名になった。
生前の力道山は、長崎県の出身として世間に知られていて、朝鮮半島の生まれだということは、表に出ていなかった。出自を表に出さないまま、力道山は日本のヒーローになったことになる。
生年月日は1924年11月14日と伝えられるが、諸説がある。実際には1年から2年ほど早く生まれていた可能性も指摘されている。
公称の39歳が、そのまま信じられるのかどうか。そこからして、はっきりしない。派手に名を売った人だったのに、自分の出自や年齢は、きれいな形で後世へ渡さなかった。
池上本門寺に残る墓所
葬儀が営まれた池上本門寺には、いまも力道山の墓がある。命日が近づくと、ファンが足を運ぶ場所として知られる。
ここに眠っているのは、相撲取りでもあり、プロレスラーでもあり、事業家でもあった人物だ。ひとりの男に、肩書きがいくつも貼りついている。
酒場の床で起きた事件は、数行で書けてしまうほど単純だ。しかし、その数行の裏には、戦後の日本が背負わせた期待がそっくり乗っていた。
7日間の数え方
12月8日の夜、ニューラテンクォーターで刺される。9日の早朝に、最初の手術を受ける。診断は全治2週間と出る。
15日の午後2時30分に、腸閉塞で再手術。同じ日の午後9時50分ごろ、死去。数えてみれば、刺されてからちょうど7日になる。
足を踏んだ踏まないの言い合いは、始まった時点では、誰の記録にも残らない程度の小さな騒ぎだった。それが1週間後には、ひとつの時代の幕引きになっていた。
