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佐賀県「黒猫事件」(女性鍼灸師殺人事件)――「窓から黒猫が」という証言はなぜ都市伝説として広まったのか

先に言っておく。多くのネット記事は、この事件を「未解決事件」「謎の事件」として紹介する傾向がある。ただし、別々の資料を突き合わせた結果は違った。容疑者は2000年に逮捕・起訴され、2001年に懲役18年の判決が出ている。法的な状態でいえば有罪確定で、とっくに解決済みの事件なんだよ。

「黒猫事件」という通称と、ネット上での「未解決」という誤った位置づけ。それがどのように広まったのかも含めて、ここに記録しておく。

  1. その夜、佐賀市鍋島の民家で起きたこと
  2. 犯人逮捕と裁判――「未解決」ではない
  3. なぜ「未解決の都市伝説」として広まったのか
  4. 化け猫騒動の舞台と、同じ地名
  5. 三つの偶然が重なった
  6. はしごを掛けて二階へ上がった
  7. 朝日新聞の佐賀版に出た、たった数行
  8. 印鑑と保険証券を預かっていた男
  9. 契約者貸付という抜け道
  10. 逮捕は7月7日、起訴は7月28日
  11. 懲役18年、そのとき姓は変わっていた
  12. 娘の言葉は、二度ぶれている
  13. 「みたい」という一語が、途中で落ちた
  14. 9歳の記憶が、ねじれるとき
  15. 司法面接という言葉が、まだ無かった頃
  16. 鍼を打つ仕事と、弱視という条件
  17. 現場の地名が、よりによって鍋島だった
  18. 碁盤の前で斬られた男
  19. 白石には、まったく別の筋が伝わる
  20. 北川副に伝わる、鷹狩りの帰りの話
  21. 七つ尾の猫を彫った祠
  22. 史実の方には、猫が一匹も出てこない
  23. 中村座の幕が、一度だけ下ろされた
  24. 明治から大正へ、猫は毎年のように舞台へ出た
  25. 昭和の銀幕で、猫は屋敷に棲みついた
  26. 定家が書き留めた「猫胯」の八月
  27. 守り刀をくわえて逃げた猫
  28. 怖がっている人間が、怪異を作り出す
  29. 猫は何年飼うと化けるのか
  30. 行灯の油と、障子に映った影
  31. 棺を奪いに来るもの
  32. 黒猫は、もともと福猫の側にいた
  33. 不吉という値札は、あとから輸入された
  34. 黒い雲と、片目になったクロ
  35. 「黒猫事件」という呼び名は、どこから来たのか
  36. 「窓から大きな黒猫」が、検索語になるまで
  37. 弱視が、いつのまにか全盲になっていた
  38. 掲示板が、遺された娘を疑い始めた
  39. 反証は、ずっと転がっていた
  40. 未解決事件のリストへ紛れ込む
  41. 【解決済み】と頭に付けて回る人たち
  42. 動画になって、事件はもう一度ひとり歩きした
  43. 秀林寺の石の猫は、いまも七本の尾を立てている

その夜、佐賀市鍋島の民家で起きたこと

2000年(平成12年)3月21日午前2時ごろ、佐賀県佐賀市鍋島の民家から佐賀市消防本部西分署に119番通報が入った。通報したのは、この家に住む女性鍼灸師(当時35歳)の長女(当時9歳)で、「お母さんが血を流して倒れている。猫にかまれたみたいだ」という内容だった。

長女は恐怖のあまり、1階に降りて玄関の鍵を開けることができない。駆けつけた救急隊員がはしごを使って2階へ上がると、布団の上に仰向けに倒れ、首から血を流して死亡している女性が見つかった。首には切り傷があり、1階の勝手口は開いていたが物色された形跡はない。凶器も現場からは見つかっていない。女性は夫と死別した後、長女と2人で暮らしており、弱視ではあったが鍼灸師として生活していた。

長女は「窓から大きな黒猫が入って来て、お母さんを噛み殺した(刺し殺した)」という趣旨の証言をしたとされる。覚えておいてほしい。この一節がのちにインターネット上で独り歩きすることになる。

犯人逮捕と裁判――「未解決」ではない

2000年7月7日、佐賀県警察は、生命保険の契約社員をしていた手島哲也(当時34歳、詐欺・有印私文書偽造などの罪で起訴されていた)を殺人容疑で再逮捕した。手島は被害女性の生命保険契約を担当していた。預かっていた印鑑と保険証券を悪用して契約者貸付を申し込み、保険会社から約480万円を借りている。さらに保険契約を無断で解約するなどして、合計約700万円をだまし取っていたことが判明した。

この発覚を恐れた手島は、2000年3月21日午前1時50分ごろに被害者宅へ侵入した。長女の隣で寝ていた被害者の首を、刃渡り12.2センチのアウトドアナイフで刺したと供述している。凶器は近隣の川に捨てたとされる。

手島は、目が不自由な被害者の買い物への付き添いなど身の回りの世話をしており、被害者・長女双方と面識があった。

2000年7月28日、手島は佐賀地方検察庁により起訴された。検察が求めたのは無期懲役になる。ところが2001年5月、佐賀地方裁判所が言い渡したのは懲役18年だった。

検察・被告双方が控訴した2002年5月の福岡高等裁判所判決でも1審判決が支持され、控訴は棄却された。発生から2年あまりで、逮捕も起訴も有罪確定も済んでいる。法的にはとっくに片の付いた殺人事件だった。

なぜ「未解決の都市伝説」として広まったのか

手島逮捕後、事件そのものへのマスコミ報道は次第に沈静化していく。一方で、逮捕前に大きく報じられていた「黒猫」という証言の部分だけが強い印象を残した。2ちゃんねる(現5ちゃんねる)などの匿名掲示板が、これを「未解決事件」として繰り返し話題にした。

理由ははっきりしている。逮捕・判決確定のニュースが、事件発生当初の「黒猫」報道ほど大きく扱われなかった。「その後どうなったか知らない」まま記憶に残った利用者が多かったからだろう。

ネット上では「娘が証人を庇っているのではないか」「本当に猫だったのではないか」といった臆測が広まった。「検索してはいけない言葉」的な扱いで拡散していく。実際の捜査・裁判記録では、手島は被害者・長女と面識のある人物だった。長女による虚偽証言や隠蔽を示す証拠は確認されていない。

心理学的な説明はこうなる。9歳の子供は、目の前で保護者が襲われるという極度のショック状態にあった。恐怖と混乱の中で、加害者の姿を正確に認識できなかった。

「黒い影」のような視覚情報を、身近な「猫」という言葉へ置き換えて説明した可能性が高い。強いストレス下では、知覚も記憶も形を変える。子供の証言の信頼性を論じるとき、まっさきに持ち出される現象だ。

化け猫騒動の舞台と、同じ地名

事件現場となった佐賀市鍋島は、江戸時代から伝わる「鍋島の化け猫騒動」の舞台として知られる。伝承によれば、1582年(天正10年)、2代目藩主・鍋島光茂の碁の相手を務めていた家臣・龍造寺又七郎が主君の機嫌を損ねて惨殺され、母は恨みを口にしながら自害。その血をなめた飼い猫が化け猫となり、側室に取り憑いたとされる。

この伝説に史実の裏付けはない。近世の講談と芝居が広めた作り話ってやつだ。ところが偶然にも同じ土地で「猫」に関する証言を伴う殺人事件が起きたことで、両者を結びつける憶測がネット上で語られることになった。もちろん、化け猫伝説と2000年の事件をつなぐ証拠は一つもない。

三つの偶然が重なった

犯人は逮捕され、有罪判決も確定している。被害者の子供の証言は、都市伝説めいた「黒猫」という記号だけを残して独り歩きした。おまけに現場の地名が、猫の伝説で知られる土地と重なる。

この3つが噛み合った結果、事件は「未解決の怪事件」として誤ったまま覚えられ続けてきた。この話を載せる記事のタイトルも、たいてい「黒猫事件」という通称を使っている。だからここでは、法的な状態を「有罪確定」とはっきり書いておく。

はしごを掛けて二階へ上がった

2000年3月21日の午前2時ごろ、佐賀市消防本部西分署の受話器が鳴り、電話口から聞こえてきたのは子どもの声だった。お母さんが血を流して倒れている、猫にかまれたみたい。通報の中身はその一言に尽きる。

駆けつけた救急隊は玄関から入れなかった。鍵が内側から掛かったままで、9歳の子は恐ろしさのあまり一階まで降りられずにいたからだ。隊員ははしごを持ち出し、二階の窓へ掛けて上がった。

部屋の中央に敷かれた布団の上に、女性が仰向けで倒れている。首から流れた血が敷布へ広がっていたが、体の他の場所に目立つ外傷は見当たらなかった。すでに息はなかった。

一階の勝手口だけが開いていて、押し入れもたんすも触られた跡がない。金品が減った形跡もなく、首を切った刃物は屋内のどこを探しても出てこなかった。

その夜の現場に転がっていた手がかりは、首の切り傷と、開いたままの勝手口と、9歳の口から出た短い言葉。それだけ。捜査はここから始まる。手がかりは、ほとんど無い。

朝日新聞の佐賀版に出た、たった数行

事件が最初に活字になったのは翌22日の朝刊で、媒体は朝日新聞の西部地方版、佐賀のページだった。のちにネットで「黒猫事件」を追いかけた人たちが行き着く初出は、いまのところこの紙面になる。

記事そのものは長いものではない。発生時刻と場所、被害者の職業と年齢、通報した長女の年齢が並び、そこへ「猫にかまれたみたい」という通報の文言が添えられている。

紙面には、女性の捜査官が長女から事情を聴こうとしたものの動揺が激しく詳しい話まで届いていない、という趣旨の一節も入っていた。捜査本部は佐賀署に置かれた。

この数行が、その後の二十数年を決めてしまう。猫という単語が被害者の名前よりも先に記憶へ刺さり、事件の呼び名として定着したからだ。

読者の頭に残ったのは首の傷でも勝手口でもなかった。窓と猫。あとは全部こぼれ落ちる。この二語だけが歩き出した。

印鑑と保険証券を預かっていた男

捜査が最初に伸びていったのは猫の方角ではなく、金の方角だった。被害女性は生命保険に加入しており、その契約を担当した外交員が身の回りに出入りしていたからだ。

その男は契約の手続きのとき、女性から印鑑と保険証券を預かっている。弱視だった彼女は細かい書類仕事の一部を人に任せざるをえず、信用して渡した印鑑がそのまま悪用された。

男は預かった印鑑で契約者貸付を申し込み、保険会社からおよそ480万円を引き出す。さらに保険契約そのものを無断で解約するなどして、被害額は合計で約700万円にのぼった。

同じ男が、女性の買い物の送り迎えもしていた。長女の送迎まで引き受けていたというから、被害者にとっても娘にとっても顔と声をよく知っている相手だったわけだ。

窓の外から降ってきた見知らぬ影ではない。玄関の位置も二階の間取りも、親子が夜どこで寝ているかも把握している人物。捜査線はそこへ静かに収束していった。

契約者貸付という抜け道

生命保険には、解約したときに戻ってくる金を担保にして保険会社から現金を借りられる仕組みがある。契約者貸付と呼ばれる制度で、厳しい審査を通らずに金が動くところが特徴だ。

手続きに要るものは、契約者の印鑑と保険証券。当時は窓口や外交員を介した書面のやり取りが中心で、本人確認の壁はいまほど高くなかった。

だから印鑑と証券を手元へ預かっている外交員には、契約者の名義で金を引き出す余地が生まれてしまう。およそ480万円という額は、そうやって静かに積み上がった。

さらに契約そのものを無断で解約すれば、返戻金がまとまった形で動く。被害総額が約700万円まで膨らんだ経路は、おおむねこの二段構えだったとみられる。

穴は制度の設計そのものにあった。信用で回していた部分が、そっくり抜け道になる。

逮捕は7月7日、起訴は7月28日

男は事件の前から、詐欺と有印私文書偽造の罪ですでに起訴されていた。保険金の流用が先に表沙汰になっていたわけで、警察は身柄を押さえたまま殺人容疑での再逮捕に踏み切る。

日付は2000年7月7日、事件の発生から3か月半が経っていた。当時34歳、小城町の無職。元保険代理店経営という肩書も、逮捕を伝える記事には添えられている。

供述によれば、男は3月21日の午前1時50分ごろに被害者宅へ侵入したという。使った刃物は刃渡り12.2センチのアウトドアナイフで、犯行後に小城町の川へ捨てたと述べた。

語られた動機は二つあった。詐欺の発覚を恐れたこと。それと、買い物の付き添いや娘の送り迎えが煩わしくなったこと。後者の一言は当時の報道でも強い反発を呼んだ。

7月28日、佐賀地検が起訴する。ここで事件は捜査の段階を離れ、法廷という別の場所へ移された。猫の話は、もう出ない。

懲役18年、そのとき姓は変わっていた

一審の判決が出たのは2001年5月、佐賀地方裁判所だった。検察が求めたのは無期懲役で、言い渡されたのは懲役18年。求刑と判決のあいだに開いた差は、遺族の側にも検察の側にも納得のいくものではなかった。

双方が控訴し、舞台は福岡高等裁判所へ移る。2002年5月の高裁判決は、卑劣な犯行ではあるが反省しているという趣旨で一審を支持し、双方の控訴を棄却した。懲役18年が確定する。

地元紙や通信社が拾った細部に、奇妙な一行が混じっていた。被告は判決の前年12月、福岡県内の女性と養子縁組をして姓を変えており、報じられた新しい姓は「宮原」だったという。

犯行時に名乗っていた姓と、判決を受けたときの姓が違う。この食い違いはのちのネット上で、同じ事件を扱った記事が別人の話に見えるという混乱を生む一因にもなった。

続報はここで途切れる。そこで糸が切れた。刑期を終えたかどうかも、一般の記事では追えない。

娘の言葉は、二度ぶれている

ネットで流通した文面は、たいてい一文まで圧縮されている。窓から大きな黒猫が入ってきて、お母さんを噛み殺した。掲示板でも動画でも、繰り返されたのはこの形だった。

ところが当時の記録を丁寧に読むと、長女の説明は一種類ではない。噛み殺したという言い方と、包丁で刺し殺したという言い方が、同じ子どもの口から前後して出てきている。

噛むと刺すは動作として重ならない。まあ、そもそも猫は包丁を握らないんだけどね。この矛盾こそ、証言を字義どおりに受け取ってはいけないと教えてくれる最大の手がかりだった。

にもかかわらず、拡散した文面からは刺し殺したという方が落ちている。都合のいい半分だけが残り、怪談として成立する側だけが選ばれて生き延びた。

コピペの世界では、話を壊す細部は残らない。そこが恐ろしい。落ちた半分の方にこそ、事件の手触りがあったのに。

「みたい」という一語が、途中で落ちた

通報で娘が口にしたのは、猫にかまれたみたい、という言葉だった。断定していない。自分でも確信が持てないまま、いちばん近い言葉を手探りで当てはめた言い方になっている。

ところが拡散した文面では、この「みたい」がきれいに消える。黒猫が入ってきて母を噛み殺した。推量が断定へ変わった瞬間、証言は怪談の芯になった。

語尾ひとつの差は思いのほか大きい。みたい、と言った子どもは自分の見たものを疑っている。噛み殺した、と言い切った子どもは、はっきり目撃したことになる。

コピペは語尾を運ばない。運ばれるのは名詞と動詞だけで、話し手のためらいは途中で落ちる。黒猫事件が都市伝説へ転がった理由の半分は、この脱落にあった。

9歳の記憶が、ねじれるとき

目の前で保護者が襲われる瞬間、子どもの知覚は大人が想像するほど安定していない。部屋は暗く、時刻は午前2時で、光源と呼べるものはほとんどなかったはずだ。

見えたのは輪郭だけだったと考えるのが自然だろう。黒い塊が動き、物音がして、血のにおいが立った。そこへ言葉を当てはめようとしたとき、9歳が手持ちの語彙から選べるものは限られる。

黒くて、素早くて、窓の方から来るもの。子どもの生活圏で、その三つの条件に当てはまる生き物といえば猫しかいなかった。

心理学の分野では、強いストレス下で記憶が断片化し、あとから既知の枠組みで隙間が埋められる現象が繰り返し確認されてきた。自分が見たものと、自分が思い浮かべたものの境目が溶けてしまう。

子どもは嘘をついていない。見たままを、持っている言葉で言っただけ。そこへ悪意を読み込んだのは、後から来た大人たちの方だった。

司法面接という言葉が、まだ無かった頃

いまの日本では、警察や児童相談所が子どもから話を聞くときの手順がある程度決まっている。誘導しない、同じ質問を繰り返さない、自由に語らせる報告を先に取る。こうした技法をまとめて司法面接と呼ぶ。

下敷きになっているのはアメリカの国立機関が整備した面接の手順で、日本語圏へ本格的に紹介され実務研修として広がり始めたのは2000年代の後半からだった。

2000年3月の佐賀で、その訓練を受けた聞き手が現場にいた可能性は低い。記録に残っているのは、女性捜査官が事情を聴こうとして動揺のため断念した、という一行だけだ。

子どもの証言は聞き方ひとつで形を変える。大人が猫について何度も尋ねれば、子どもの記憶のなかで猫の輪郭はそのたびに濃くなっていき、やがて本人にも区別がつかなくなる。

正直、怖いのは子どもが嘘をつくことではない。大人が、自分の聞きたい話を作り上げてしまうこと。それだけ。

鍼を打つ仕事と、弱視という条件

被害女性の職業は報道では鍼灸師と書かれた。正確には、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師という三つの国家資格があり、まとめて「あはき」と略される。

日本でこの職業と視覚障害の結びつきは古い。江戸期には杉山和一が管鍼法を広め、幕府の後押しのもとで盲人の職として制度化が進み、当道座という組織がその受け皿になった。

明治以降は盲学校の理療科がその役割を引き継ぐ。戦後も、視覚障害のある人が手に職を持って独り立ちするための現実的な道として、あはきは生き続けてきた。

弱視の女性が佐賀の住宅地で鍼灸の仕事をしながら娘と二人で暮らす。この構図は特別でも何でもなく、全国どこの町にもある生活の形だった。

そしてその生活の形が、加害の側に隙を与えてしまう。印鑑を人に預けざるをえないこと、送り迎えを頼らざるをえないこと。信頼の経路が、そのまま侵入の経路に変わった。

現場の地名が、よりによって鍋島だった

事件現場は佐賀市鍋島。佐賀大学の医学部や附属病院がある一帯で、ごく普通の住宅地が広がっている。地名としての鍋島は、佐賀藩主の家名とそっくり重なる。

ここが厄介だった。佐賀と猫を並べただけで、多くの日本人の頭にはひとつの言葉が自動的に浮かぶからだ。鍋島の化け猫騒動。日本の怪談のなかでも知名度は上位に入る。

報道に「鍋島」という地名が出た瞬間、読者の側にあらかじめ用意されていた連想が発火する。猫、佐賀、鍋島。役者が三人とも揃ってしまった。

掲示板の書き込みにも、単なる偶然なのだろうか、という一行が何度も現れる。事件を追ったまとめページの管理人ですら、その一言を書かずにいられなかった。

念のため言っておくと、偶然なのは事実だ。ただ、偶然が意味ありげに見えてしまう土壌が、この土地には四百年分も積み上がっていた。

碁盤の前で斬られた男

化け猫騒動の筋は語り手によって微妙に違う。佐賀市に伝わる型ではこうなる。藩主が家臣と碁を打っていて負けが込み、あるいは言葉の行き違いから激昂して、その家臣を斬った。

斬られたのは龍造寺又七郎、かつての主家筋にあたる男だった。知らせを受けた又七郎の老母は、鍋島の家へ恨みの言葉を残して自ら命を絶つ。

流れた血を、飼い猫が舐めた。猫は姿を変えて城へ忍び込み、夜ごと藩主を苦しめ始める。藩主の側室お豊の方に取り憑いて人間の顔で振る舞ったという筋もある。

退治役として名が挙がるのは小森半左衛門と伊藤惣太の二人。佐賀市の郷土資料によれば、小森半左衛門の墓は水ヶ江の宗龍寺にあり、龍造寺高房は泰長院に葬られ、その霊を弔うために多布施へ天祐寺が建てられた。

物語の登場人物に、実在の墓所が割り当てられている。この伝承が厄介なのは、まさにそこだった。

白石には、まったく別の筋が伝わる

同じ騒動を白石町の側から語ると、登場人物が入れ替わる。藩主は二代目の光茂ではなく初代の勝茂になり、舞台も佐賀城ではなく白石の秀屋形へ移る。

勝茂の愛妾だったお豊の方が、実は怪猫の化身だった。夜ごと藩主を苦しめるその正体を見破ったのが、家臣の千布本右衛門邦行だと白石では伝わる。重松という武士と組み、寝ずの番に立った。

眠気に負けそうになった本右衛門は、自分の腿へ短刀を突き立てて意識を保ち続けたという。夜半に正体を現した怪猫を槍で突き殺すと、そこに倒れていたのは「物すごい大三毛猫の死がい」だったと郷土の記録は書く。

ちなみに、白石版の怪猫は黒くない。大きな三毛。ここは押さえておきたいところで、佐賀の化け猫はもともと必ずしも黒い猫ではなかった。

黒に固定されるのは、ずっと後の話になる。

北川副に伝わる、鷹狩りの帰りの話

佐賀市の北川副町にも、化猫騒動の記録が書き残されている。郷土史『わが郷土北川副町の歴史』の百五十ページあたりに、白石館での一夜が収められた。

勝茂公が白石へ逗留していたころ、須古山や杵島山の一帯は格好の鷹狩り場だった。太原と呼ばれる原へ通ううち、藩主は次第に体の調子を崩していく。

原因は愛妾のお豊の方にあったという。千布本右衛門邦行が重松という武士と夜通し見張り、真夜中に槍をひと突きすると、ついに正体が現れる。

倒れていたのは「物すごい大三毛猫の死がい」。郷土史はそう書いている。有明海の干拓地が広がるこの一帯には、猫をめぐる細かい話がいくつも転がっていた。

七つ尾の猫を彫った祠

怪猫を退治した千布家には、その後、男子が育たなくなったという言い伝えが残る。跡継ぎが続かず、他家から養子を取って家名をつなぐしかなかった。土地の人はこれを猫の祟りと受け取った。

七代目の当主は、七つの尾を持つ猫を描いた掛け軸を菩提寺の秀林寺へ納め、供養を始める。するとその後、千布の家にふたたび男子が生まれるようになったと伝わる。

明治4年、七つ尾の猫を石に彫った祠が建て直された。猫大明神と呼ばれるその祠は、佐賀県杵島郡白石町福田、佐賀農業高校のすぐそばにいまも据えられている。

訪ねた人が口を揃えるのは、その祠の小ささだ。参道らしい参道もなく、寺の一角に屋根付きの石組みがぽつんと置かれ、中の猫は風化して顔立ちも定かでない。

祟りを鎮めた側の家が、祟られた側を祀り続けている。供養の構図としては、ずいぶん倒錯した形をしていた。

史実の方には、猫が一匹も出てこない

伝承の下敷きになった権力の入れ替わりは、実際にあった出来事だ。1584年の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち死にし、家中の実権は重臣だった鍋島直茂の手へ移り始める。

1591年、当主の政家が隠居して5歳の高房が跡を継いだ。高房は直茂の養子という形を取らされ、政治の実質は直茂が握る。豊臣秀吉も徳川家康も、鍋島の側を統治の当事者として扱った。

1607年、龍造寺高房は江戸で妻を殺めたうえ自らも命を絶ち、出血多量で死んだと記録に残る。父の政家も間もなく病死して、龍造寺の嫡流はここで絶えた。

家臣が主家を乗り越え、血を流して終わった。この後味の悪さが、猫の物語を呼び込むための空白になる。

直茂自身は1618年に81歳で没した。耳にできた腫瘍の激痛で、半ば悶えながら死んだと伝わる。その最期の様子もまた、祟りの噂に薪をくべた。

中村座の幕が、一度だけ下ろされた

猫の騒動が全国区の演目になった時期は、はっきりしている。嘉永6年、つまり1853年のこと。江戸の中村座が「花嵯峨野猫魔碑史」という外題で舞台に掛けようとした。

鍋島家が黙っていなかった。藩から苦情が入り、興行は中止へ追い込まれる。ところが、この横槍が完全に逆効果になった。

上演禁止という話題そのものが、江戸じゅうへ広まってしまったからだ。見られない芝居ほど人は見たがる。結果として化け猫騒動の知名度は、素直に上演した場合よりも上がった。

講談では『佐賀の夜桜』として語られ、実録本の『佐賀怪猫伝』も出回る。舞台に掛けられなかったぶんを、活字と話芸がそっくり引き受けた。

権力が止めようとした物語が、止めようとしたせいで残る。この経路は、二十一世紀のネット上でも何度となく繰り返される。

明治から大正へ、猫は毎年のように舞台へ出た

禁じられた演目は、鍋島家の力が及ばなくなったとたんに解禁された。明治13年10月に市村座で「嵯峨奥妖猫奇談」が掛かり、明治33年には浅草座で「朧影嵯峨猫」、明治43年には「嵯峨の夜桜」が出る。

大正に入ると数が跳ね上がる。大正元年「鍋島の猫」、大正5年「佐賀の化猫」、大正6年「鍋島怪猫」、大正8年「鍋島猫騒動」。大正10年には日活版と松竹版の「鍋島猫騒動」が同じ年に並んだ。

大正11年にも12年にも、それぞれ「鍋島の猫」が作られている。ほぼ毎年、どこかの座か撮影所が佐賀の猫を掛けていた計算になる。

昭和4年には「鍋島怪猫傳」、昭和11年には「怪猫佐賀の夜櫻」。昭和24年に「鍋島怪猫傳」が再び作られ、昭和28年には大映が「怪談佐賀屋敷」を公開した。

荒井良平が監督し、主演は入江たか子。この人と鈴木澄子は、化け猫女優と呼ばれるほど同じ役を演じ続けた。

昭和の銀幕で、猫は屋敷に棲みついた

戦後の化け猫映画は、佐賀の型を離れて勝手に増殖していく。昭和31年に「鍋島の猫」が再公開され、昭和32年「怪猫夜泣き沼」、昭和33年「亡霊怪猫屋敷」と続いた。

昭和43年には「呪いの沼」、昭和44年には「秘録怪猫伝」。沼、屋敷、行灯、女の顔が猫へ変わる瞬間。定番の絵が繰り返し観客へ刷り込まれていった。

この蓄積が効いてくる。戦後の日本人は、猫の怪異を語るための文法を映画館で習得している。障子に映る影、二本足で立つ猫、行灯の油を舐める舌。

だから2000年に「窓から大きな黒猫が」という一文を読んだとき、読者の側にはすでに映像が用意されていた。想像する手間がいらない。頭のなかで勝手に再生される。

怪談が強いのは、新しいからではなかった。見慣れているからだ。

定家が書き留めた「猫胯」の八月

猫の怪異を記した最も古い部類の文章は、鎌倉時代までさかのぼる。藤原定家の日記『明月記』の天福元年8月2日の条、つまり1233年の記録になる。

南都、いまの奈良に猫胯が出て、一晩のうちに数人を食い殺したという。定家が書きつけたその姿は、目は猫のようで体は大きな犬ほどというもので、家で飼う猫の描写ではない。

研究者のなかには、狂犬病にかかった獣だったのではないかと見る人もいる。ただ、名前として「猫胯」が選ばれた点が大きい。得体の知れない獣を呼ぶとき、日本人は最初に猫の名を当てた。

鎌倉末の『徒然草』第89段にも、奥山に猫またというものがいて人を食うらしい、という噂話が出てくる。伝聞の形でしか語られないところが、いかにも噂らしい。

その先の落ちが、また良いんだよな。

守り刀をくわえて逃げた猫

鎌倉時代の説話集『古今著聞集』には、猫またという語こそ出てこないものの、猫の不審な振る舞いを書き留めた一話がある。飼っていた猫が家の守り刀をくわえ、そのまま姿を消したという。

刀を持ち去る猫。用途はまるで分からない。分からないからこそ、読んだ側の想像が勝手に走り出す。

時代が下って1749年に刊行された『新著聞集』には、猪ほどの大きさの猫またが捕らえられたという記録が載る。山から出てきたものなのか、飼い猫が育った果てなのか、そこも曖昧なままだ。

もともと猫または山の獣だった。江戸期に入って、家で飼う老猫が化けるという説が広まり、やがて両者が合流する。老いた家猫が山へ移り住んだものが山の猫まただ、という解釈へ落ち着いた。

怖がっている人間が、怪異を作り出す

徒然草の法師は、猫またの噂を真に受けて夜道をびくびく歩いていた。そこへ何かが飛びかかってきて、法師は悲鳴を上げながら川へ転げ落ちる。正体は、主人を出迎えに来た自分の飼い犬だった。

この一段は、黒猫事件のネット拡散を考えるうえで妙に示唆的だ。法師は本気で猫またに襲われたと思った。暗闇と恐怖が、見慣れた飼い犬を妖怪へ変換してしまったわけだ。

順序が逆なのが肝になる。猫またがいたから怖がったのではない。怖がっていたから猫またが出た。

佐賀の9歳が見たものも、構造としては近い。暗い部屋で、恐怖の只中で、動く黒い塊へ名前を与えた。ただ決定的に違うのは、そこに本物の加害者がいたことだった。

掲示板でこの話を読んだ人々も、同じ道をたどっている。猫が出るはずだという期待が先にあり、そこへ事件の断片が吸い寄せられていった。

七百年前の法師と、二十一世紀の書き込み。やっていることは変わらない。

猫は何年飼うと化けるのか

化け猫の俗信で面白いのは、化けるまでの年数が地域ごとに決まっていた点だ。茨城や長野では十二年、沖縄の国頭郡では十三年。広島の山県郡には、七年を超えて飼うと猫が飼い主を殺すという言い伝えまであった。

だから猫を飼い始めるとき、あらかじめ何年飼うかを口に出して決めておく土地も多かった。期限さえ切っておけば猫の側もそれを守る、という理屈になる。まあ、妙な契約だ。

江戸中期の伊勢貞丈は『安斎随筆』へ、数年を経た猫は尾が二股に裂けて猫またという妖怪になる、と書いた。新井白石も、老いた猫は猫股となって人を惑わすという趣旨を書き残している。

一方で「猫を殺せば七代祟る」という言い回しも古くから使われてきた。長く飼えば化け、殺せば祟る。猫は、どちらへ転んでも人間の手に余る生き物だった。

行灯の油と、障子に映った影

江戸の化け猫が必ず舐めるもの。行灯の油だ。浮世絵にも芝居にも繰り返し出てくる絵だが、種明かしをすると、これがあっけない話なんだよ。

当時の行灯には高価なろうそくではなく安い魚油が使われていた。鰯を絞った油で、においが強い。一方で当時の猫が食べていたのは人間の残り物が中心で、おからのようなものばかりだった。

脂質がまるで足りない猫は、魚油の皿へ吸い寄せられる。妖しい振る舞いに見えたものの正体は、栄養不足の猫が必死で油を舐めていた姿だった。

問題はその姿勢にある。皿へ舌を届かせるため、猫は後ろ足で立ち上がった。その影が障子へ大きく映ると、人の形をした獣がぬっと立っているように見えてしまう。

『和漢三才図会』にも、猫が油を舐めるのは怪異の兆しだと書かれた。歌舞伎はこの影絵を舞台装置として採用し、化け猫の定番演出へ仕立て上げる。空腹が、そのまま芸能になった。

棺を奪いに来るもの

猫と死体を結びつける言い伝えは、全国に散らばっている。棺の上を猫が飛び越えると中の遺体が起き上がる、通夜の席へ猫を入れるな、棺の上に刃物を載せておけ。

この禁忌の背後にいるのが火車という妖怪だ。葬列を襲って死人をさらっていくもので、その正体は年を経た猫、あるいは猫まただという説が根強い。

越後の記録には、激しい雷雨とともに現れて棺をつかんでいったという話が残る。『北越雪譜』には、尾が二股に裂けた巨大な猫が棺を奪おうとした場面まで書き込まれた。

対策が地域ごとに違うところも面白い。愛媛県八幡浜市では棺の上に剃刀を置き、岡山では妙八という楽器を叩き、山梨の上九一色村では葬式を二度に分けて片方の棺へ石を詰めたという。

岩手の遠野では「キャシャ」と呼ばれ、峠の山に女の姿で棲むと伝わる。猫であり、女であり、火でもある。輪郭のはっきりしない怪だった。

黒猫は、もともと福猫の側にいた

ここで大きな行き違いをひとつ押さえておきたい。日本の伝統のなかで、黒猫は不吉な生き物ではない。むしろ縁起のいいものとして扱われてきた。

夜でも目が利くという性質から、黒猫は魔除けと結びつく。黒い招き猫はいまも厄除けの意味を込めて売られているし、商売繁盛の守りとして店先へ黒猫を置く習慣もあった。

古い記録では宇多天皇が有名だ。889年ごろの日記に、墨のように黒い猫を五年ほど大事に飼っていたと書き残している。天皇が愛でた黒猫。不吉どころの話ではない。

江戸期には、黒猫を飼えば労咳が治る、恋煩いが治るという俗信まで広まった。結核で臥せった沖田総司が黒猫を飼っていたのも、この言い伝えを信じてのことだという。

1697年の『本朝食鑑』は、黒猫の毛が光る様子を珍しいものとして書き留めた。怖いものとしては、まるで扱っていない。

不吉という値札は、あとから輸入された

では、黒猫が横切ると縁起が悪いという話はどこから来たのか。ヨーロッパだ。中世の魔女狩りの過程で、黒猫は魔女の使い魔と見なされて大量に殺された。

この観念が日本へ入ってきたのは明治以降になる。翻訳小説、映画、西洋の迷信を紹介する読み物。そうした経路でじわじわ浸透し、一般に定着したのは1970年代あたりからと見る整理が多い。

夏目漱石の『吾輩は猫である』のモデルになった黒っぽい野良猫も、妻の鏡子からは福猫として可愛がられていたという。1904年の時点では、猫はまだ福の側に立っていた。

つまり2000年の日本では、黒猫に二つの意味が重なっていた。古い層では福猫、新しい層では不吉の前触れ。事件の証言に出てきた黒猫は、迷わず後者の層で受け取られた。

もし証言が「白い猫」だったら、ここまで広まったかどうか。正直、かなりあやしい。

黒い雲と、片目になったクロ

猫の怪異が黒と結びついた記録も、まったく無いわけではない。茨城県那珂郡の額田あたりには、猫が黒い雲に乗って遺体へ悪さをしに来るという伝承がある。

ある家の葬儀の最中、空に黒い雲がわいて棺の方へ近づいてきた。居合わせた者が棒を持ち出し、雲をめがけて力任せに打ちすえる。

雲は悲鳴のような音を立てて去っていったという。家へ戻ってみると、飼っていた黒猫のクロが片方の目を潰していた。

火車の伝承と黒猫の伝承が、一つの話のなかで完全に溶け合っている。語り手にとっては区別する必要もなかったのだろう。黒い、猫、死体、空から来る。条件が揃えば、それは怪になる。

佐賀の事件で使われた材料と並べてみると、驚くほど近い。黒い。猫。死体。そして、窓から来る。

「黒猫事件」という呼び名は、どこから来たのか

当時の新聞は、この事件を黒猫事件とは呼んでいない。佐賀市の民家で女性が殺された、という書き方が普通だった。通称が生まれたのは、ネット上で語り直されていく過程でのことになる。

命名者は特定できない。未解決事件をまとめる個人サイトや掲示板のスレッドで、便宜的に付けられた見出しがそのまま定着したとみるのが自然だろう。

ややこしいのは、横溝正史に『黒猫亭事件』という有名な作品があることだ。戦後まもなく発表された金田一耕助ものの一編で、映像化も何度かされている。

検索窓へ黒猫と事件を並べて打ち込むと、小説の方が上位に出てくる時期もあった。実在の殺人と、横溝の探偵小説。この二つが同じ検索結果に並ぶ気味の悪さも、事件の空気を作っている。

「窓から大きな黒猫」が、検索語になるまで

事件そのものの報道は、2002年の判決確定でほぼ止まった。ところが数年後、事件の名前はまったく別の場所で再起動する。匿名掲示板だ。

2000年代の初頭から、2ちゃんねるの各板では、開いてはいけないリンクや検索語を注意喚起の形で共有する書き込みが増えていた。これがやがて「検索してはいけない言葉」というジャンルへまとまっていく。

ジャンル名が固まった時期には、いくつか目安がある。2008年5月にコピペ系のサイトとパロディ百科へ該当する項目が立ち、2009年2月ごろには専用のまとめwikiが開設された。

そのリストへ「窓から大きな黒猫」という一語が載る。危険度の表示は1。グロ画像でも違法サイトでもなく、実話の事件として分類された項目だった。

検索語として登録された瞬間、事件は事件でなくなる。ネタとして消費されるための単位へ姿を変えた。

弱視が、いつのまにか全盲になっていた

拡散の過程では、事実のほうも少しずつ形を変えていった。報道が使ったのは弱視という言葉だ。視力に不自由はあっても、鍼灸の仕事も家事も自分でこなしていた。

ところがネットの文面では、しばしば盲目や全盲へ置き換えられる。母親が何も見えなかったことにすれば、娘だけが唯一の目撃者という構図がきれいに立つからだ。

娘の年齢も、九歳が七歳や八歳へずれて書かれる例がある。幼ければ幼いほど、証言は不気味さを増す。話を怖くする方向へ、数字が勝手に動いていった。

通報先まで変わった。実際には消防への119番だが、110番だったと書く文面が混ざり込む。警察へ掛けたことにしておくと、その後の捜査が隠されたという筋を立てやすい。

細部が一つ動くたび、事件は都市伝説の側へ半歩ずつ寄っていった。

掲示板が、遺された娘を疑い始めた

拡散した書き込みを追っていくと、論点はいくつかの型へ収束している。まっさきに出るのが、幼い子どもが人間と猫を見間違えるはずがない、という直感的な引っかかりだ。

次に来るのが、金品が盗られていないのに首だけを切っている残忍さ。怨恨だろうという推測が立つ。ところが、怨恨なら目撃者である娘を生かしておく理由がない、という反論がすぐぶつかる。

この行き詰まりから、最悪の飛躍が出てきた。犯人は娘ではないか。年齢的に罪へ問えないから、どこかの組織が動いて報道を止めたのではないか。

2002年2月7日付や2005年8月29日付の書き込みとして、いまも引用され続ける文面がある。報道規制という言葉が、根拠らしい根拠もないまま何度も打ち込まれた。

被害者の遺児へ犯人の役を割り当てる。実際の捜査記録にも裁判記録にも、そんな証拠は一つとして出てこない。

反証は、ずっと転がっていた

ここが、この事件のいちばん救いのない部分になる。掲示板が推理ごっこを重ねていた時期、答えはとっくに公開されていた。逮捕は2000年7月7日、有罪確定は2002年5月。

未解決ではない。犯人が分からないまま闇へ消えた事件でもない。捜査は3か月半で容疑者へ到達し、裁判所は懲役18年という具体的な数字まで言い渡している。

ではなぜ誰も気づかなかったのか。考えてみてほしい。理由はニュースの扱いの差だ。「黒猫が母を殺した」という異様な通報には全国へ配信する価値があり、地方裁判所の量刑にはそれがなかった。

発生の報道は大きく、決着の報道は小さい。この非対称が、人々の記憶へ穴を開ける。入口だけを覚え、出口を知らないまま解散していった。

未解決という言葉は、事件の性質を指していなかった。読者の情報が途切れた地点を指していただけだ。

未解決事件のリストへ紛れ込む

ネット上には、未解決事件や行方不明事件を一覧にまとめたサイトがいくつもある。黒猫事件が長く置かれていたのも、そうしたリストの一つだった。

リストは基本的に、発生時の報道をもとにして作られていく。決着まで追うには判決の記事を一件ずつ拾い直す手間がかかり、その作業を進んで引き受ける人はまずいない。

だから一度リストへ入った事件は、解決しても抜けにくい。項目を消して回るより、放置しておく方がはるかに楽だからだ。

佐賀の事件も、そのまま二十年近く未解決の棚へ並び続けた。棚に並んでいること自体が、未解決だという証拠のように読まれていく。誰も消さない。

【解決済み】と頭に付けて回る人たち

2010年代の後半から、訂正を試みる記事が少しずつ出始める。個人ブログやまとめサイトが、記事タイトルの頭へ【解決済み】と付けて公開するようになった。

未解決事件を集めたSeesaa系のwikiでも、黒猫事件の項目に逮捕と判決の経緯が書き足されている。管理人は、猫には噛まれていないが「黒猫事件」という呼称はこの事件で間違いないだろう、と結論づけた。

検索してはいけない言葉のwiki側も、分類を「真実」へ変えている。実際に起きた事件であり、しかも解決済みである、という但し書きが付け足された。

それでも、都市伝説の側の文面は消えない。訂正した記事より、元の怪談の方が読まれるからだ。

訂正は追いつかない。黒猫事件に限らず、ネット上の怪談すべてに共通する力学だった。

動画になって、事件はもう一度ひとり歩きした

2010年代の後半から2020年代にかけて、事件は動画という器へ移し替えられる。ゆっくり解説の形式で未解決事件を扱うチャンネルが一気に増え、黒猫事件はその常連になった。

タイトルの付け方は驚くほど似通っている。最も不気味な目撃証言。ガチで洒落にならない。永久保存版。サムネイルには決まって、光る猫の目が大きく置かれる。

動画の尺は十分前後が多い。発生の異様さに時間の大半を使い、逮捕と判決は最後の一分で軽く触れるか、まるごと省かれる。真相を先に言うと視聴が続かないからだ。構成は判で押したように似る。

日本語圏を越えた再流通も起きている。韓国語圏のウィキには「黒猫殺人事件」という項目が立ち、日本語のまとめを翻訳した内容が並んだ。

海を渡るたび、細部は削れていく。最後まで残るのは、窓と、黒い猫と、9歳の声だけだった。

秀林寺の石の猫は、いまも七本の尾を立てている

白石町福田の秀林寺へ行くと、祠はすぐに見つかる。参道と呼べるものはなく、寺の敷地の隅に屋根付きの小さな石組みが据えられているだけだ。静かなものだ。

中の石像は猫というより丸い塊に近い。風化して顔立ちもあいまいになっている。それでも背後へ回ってよく見ると、尾がきちんと七本に彫り分けられているのが分かる。

明治4年に千布家の七代目が建て直したもので、地元では猫大明神と呼ばれてきた。芝居から生まれた猫が石になり、いまも供養され続けている。

事件現場の佐賀市鍋島から、車でおよそ四十分。二つの場所のあいだに因果関係など一つもない。あるのは地名と、四百年分の芝居と、たまたま黒かった一匹の猫の記憶だけだ。

それだけで、人は線を引いてしまう。線を引かれた側の家では、あの夜の9歳がとっくに大人になっている。

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