たった3分で、日本の犯罪史に残った
1968年12月10日、東京都府中市。師走のよく晴れた朝に、たった3分の出来事が起きた。奪われたのは当時の金額で約2億9430万7500円になる。
誰も殺されていない。誰も殴られていない。拳銃は一発も撃たれなかった。それなのに、この事件は半世紀以上たった今も語り継がれている。
書籍になり、ドラマになり、映画にもなった。掲示板やブログでは、今日も新しい犯人考が書き込まれ続けている。
なぜこの事件だけが、これほど国民的な人気を保っているのか。まずは当日の現場を丁寧に追ってみたい。そのうえで捜査が空回りした理由、モンタージュ写真をめぐる悲劇、時効までの経緯、そして今も回り続ける諸説を見ていく。
先に断っておく。この事件は1975年に公訴時効が完成しており、犯人は公的に一切確定していない。ここで紹介する人物像や説は、どれも確定した事実ではない。そういう説がある、という紹介にとどまる。
午前9時25分、学園通りで白バイが並んだ
その日、日本信託銀行国分寺支店は東芝府中工場の従業員およそ4500人分のボーナスを準備していた。現在の三菱UFJ信託銀行にあたる支店である。
総額は約2億9430万円。この現金を積んだセドリックの現金輸送車が、午前9時15分ごろ支店を出発した。行き先は東芝府中工場だ。運転手と、警備を兼ねた行員たち、合わせて4人が乗っている。
車が府中刑務所の塀沿いの通り、通称の学園通りに差しかかったころ、後ろから一台の白バイが追いついてきた。白バイは輸送車の横に並び、乗っていた警察官が手を挙げて停止を指示する。
制服も、ヘルメットも、白い車体も、疑う隙がないほど本物に見えた。行員たちは素直に車を止める。ここから、犯人の演技が始まった。
「ダイナマイトがあった、早く逃げろ」
偽の警官は、緊迫した口調でこう告げたという。いま本店から連絡があった。支店長の自宅が爆破された。この車にも爆弾が仕掛けられているかもしれないという情報がある。すぐシートの下を調べてくれ。
行員たちは驚いて車の外へ飛び出し、言われたとおり車体の下をのぞき込んだ。まさにそのタイミングで、車の下から白い煙がもうもうと立ちのぼる。犯人が事前に滑り込ませておいた発煙筒に、離れた場所から着火したのだ。
煙を見た偽警官は、さらに声を張り上げる。ダイナマイトがあった。火が回る前に車から離れろ。早く逃げろ。
パニックになった行員たちは、輸送車から距離を取ろうと夢中で走り去った。その一瞬の隙に、偽警官はためらいもなく運転席へ飛び込む。エンジンをかけ、そのまま急発進して消えた。
行員たちが煙の正体に気づいたときには、輸送車も白バイも視界から消えていた。犯行に要した時間は、わずか3分ほどだったとされる。
銃も刃物も使っていない。心理的な誤導と、小道具だけ。行員たち自身の手で現場を放棄させるという、驚くほど巧妙な段取りだった。
警視庁が緊急配備を敷いたのは、事件発生からおよそ30分後の午前9時50分ごろになる。ただ配備の重点は現金輸送車そのものの発見に置かれていた。犯人が別の車へ乗り換える可能性への対応は、後手に回ったと指摘されている。輸送車は後日、国分寺市の武蔵国分寺跡の付近で乗り捨てられた状態で見つかった。
遺留品が多すぎて、かえって追えなくなった
この事件の捜査を異様なものにしているのが、遺留品の量である。現場と、その後乗り捨てられた複数の車から、大量の品が出てきた。
改造された白バイ本体に、偽の警視庁腕章。拳銃型のライターと、変装用のつけまつげ。使われた発煙筒、磁石、レインコート。さらに指紋まで残っていた。
最終的に150点前後、一説には157点まで積み上がったと言われている。
犯罪捜査でこれだけの物証が残れば、普通なら詰みに近い。ところが実際の捜査は、この多さのせいで空転しはじめる。
出てきた品は、どれも当時大量生産され、大量に流通していた市販品ばかりだった。発煙筒だけで4000本以上、別の部品にいたっては3万個以上が市場に出回っていたことが判明する。つまり誰でも買えるものしかない。そこから単一の購入者を割り出すのは、ほぼ不可能だった。
指紋も決め手にならなかった。当時の鑑識体制では、大量の遺留品を一つずつ丁寧に照合するだけの人手が足りなかったとされている。
警視庁が投入した警察官は延べ17万人を超える。事件関係者や重要参考人として、のべ11万人以上を取り調べた。捜査費用は7年間で9億円を超えたと伝えられる。捜査史上でも類を見ない規模だ。
それでも、犯人の実像には一歩も近づけなかった。この不気味さが、犯人は警察の捜査手法を熟知していたのではないかという疑惑を生む。のちの警察関係者犯行説の土台になっていく。
捜査線上に浮かび、そして消えた少年
事件発生からわずか11日後の12月21日、警視庁は目撃証言に基づくモンタージュ写真を公表した。ここで語られる有名な話が、多摩地区に住んでいたとされる少年のエピソードになる。ここでは少年Sと呼んでおく。
少年Sの父親は現職の白バイ隊員だったとされる。本人には自動車窃盗の経験があり、現場周辺の地理にも詳しかった。しかも事件の前に、現金輸送車を襲うという趣旨の発言をしていたという証言まであった。状況証拠が重なり、彼は一気に捜査線上へ浮上する。
捜査員が自宅を訪ねて事情を聴いたのは12月15日だった。その後、父親が帰宅してから激しい口論になったと伝えられている。そして同じ日の深夜、少年は青酸化合物を用いて自ら命を絶った。妹に宛てた遺書などが残されていたという。
あまりに急な結末で、事件はいっそう深い霧に包まれた。ただ、その後の捜査で分かったことがある。少年の血液型は脅迫状から検出された血液型と一致しなかった。筆跡も一致しない。事件発生の時刻には、別の場所にいたとみられる事情もあった。
こうして少年は、最終的に容疑者ではないと公式に判断されている。担当刑事として知られる平塚八兵衛らも、早い段階で彼を対象から外したと後年語った。
つまり、彼が真犯人なのに闇に葬られた、という都市伝説的な語られ方は正確ではない。警察の整理としては、容疑を否定された人物になる。
それでも、この一件は事件全体に暗い影を落とした。無関係と判断された少年と、その遺族が、モンタージュ写真とともに長く語られ続けたからだ。以後の報道や捜査資料の扱いには、より慎重さが求められるようになったとも言われている。
なお作家の松本清張は、この少年の存在をヒントに短編『小説三億円事件』を書いた。ただ清張自身、実際の事実関係にあえて変更を加えたと説明している。特定の実在人物を直接指さないための、創作上の配慮だったと考えられている。
誰も損をしなかった、という不思議な構図
この事件が完全犯罪として記憶されている背景には、被害を受けた側の事情も大きく関わっている。
奪われた約2億9430万円は、日本信託銀行が加入していた保険によって全額が補填された。東芝府中工場の従業員たちは、事件の翌日には予定通りボーナスを受け取っている。
つまりこの事件には、泣いた人がほとんど存在しない。かなり特殊な構図だ。
銀行にとっても東芝にとっても、直接の資金的な損失は出ていない。それが、事件への追及の熱量を長い目で見て下げた面はあるだろう。もちろん警視庁は威信をかけて大規模な捜査を続けた。ただ、被害企業から一刻も早く犯人を、という圧力がかかり続ける構図にはならなかった。
人が死傷していない。金銭的な実害は保険が吸収した。この二つが組み合わさって、事件は次第に緻密な知恵比べとして消費されやすくなっていく。
誰が奪ったのか、という終わらない話
犯人が確定していない以上、誰がやったのかという問いは仮説の域を出ない。それでも半世紀のあいだに、実に多様な説が出てきた。
まず有力とされてきたのが、警察関係者、あるいは元警察関係者による犯行説になる。ノンフィクション作家の一橋文哉は自著『三億円事件』のなかで、独自の取材をもとに仮名を用いた人物像を描いた。元警察官とされる主犯格、非行グループのリーダー、そして運転技術に長けた若者による組織的な犯行だという推理だ。
この説の強みは、状況の説明力にある。遺留品が量産品ばかりで指紋照合も空振りに終わったこと。偽の白バイと腕章の出来。警察の初動を見透かしたような犯行のタイミング。どれも警察の内部事情に通じた人物の存在を感じさせる。
弱点もはっきりしている。決定的な物証も自供も存在しない。著者自身が実名を明かしていないため、検証可能性にも限界がある。
次に語られてきたのが、複数犯やグループによる犯行説だ。一人で発煙筒を仕掛け、白バイを乗りこなし、正確なタイミングで輸送車を奪う。単独犯には難易度が高すぎるのではないか、という発想である。
これにも根強い反論がある。現場では対向車を排除する仲間の動きが確認されていない。逃走後の資金分配をめぐるトラブルの痕跡も、一切浮かんでこない。遺留品に残された行動の細かなミスが、統制されたチームというより、単独犯の切迫した判断の積み重ねに見える。実際、警視庁の捜査でも単独犯行説が有力視された時期がある。
三つ目は学生運動関係者による犯行説になる。1968年当時は学生運動が全国的に激化しており、資金を必要とする活動家が関与したのではないか、という見方だ。
この系譜でいちばん有名な派生が、2018年にウェブ小説として発表され、のちに書籍化された作品になる。題名は『府中三億円事件を計画・実行したのは私です。』という。
学生運動に関わった青年が、恋人とともに犯行を計画し実行したという告白形式の物語で、13万部を記録した。ただし作品の奥付には「この作品はフィクションです」と明記されている。
著者も出版社も、実際の犯人による告白だとは主張していない。物証の欠如や文体の不自然さから、いまでは創作物として受け止められているらしい。
四つ目が、政治的な隠蔽説だ。捜査が意図的に遅らされた、あるいは在日米軍関係の事情が絡んでいて深追いできなかった、という語りになる。遺留品の一部が米軍基地周辺で流通していた品と関連づけられたことなどが根拠とされるが、直接の証拠が示されたことはない。
どの説も、単独では事件の全体像を説明しきれない。むしろ決定的な証拠が最後まで一つも出なかったからこそ、複数の説が並び立つ余地が生まれた。そう見るべきだろう。
1975年12月10日、答えのない結末
事件発生からちょうど7年後の1975年12月10日午前9時25分、公訴時効が成立した。当時の刑事訴訟法で強盗罪の公訴時効は7年である。この瞬間をもって、たとえ犯人が名乗り出ても刑事罰に問えなくなった。
さらに1988年12月10日には、民事上の請求権に関する20年の時効も成立している。法的な意味で、この事件は完全に終わった。
ただ、この終わり方こそが事件を特異にしている。普通、未解決事件が時効を迎えるときには無念や悔しさが残るものだ。ところが三億円事件は違った。
被害が保険で補填されていた。死傷者が一人も出ていない。犯人像は最後まで輪郭を結ばなかった。結果として、時効の成立は悲劇の終幕というより、壮大な謎がそのまま封印されたという感覚を残した。
答え合わせのないまま幕が引かれる。だからこの事件は、誰でも自由に推理していい余白を持ち続けることになった。
なぜ、日本人はこの事件を愛してしまうのか
未解決だから、というだけでは説明がつかない。国内には他にも未解決事件が数多くある。三億円事件だけが持つ独特の愛され方には、いくつかの要素が絡んでいる。
まず、誰も傷つけなかったという事実そのものが大きい。凄惨な暴力を伴わず、心理的な演出と小道具だけで大金を持ち去った。犠牲者への同情より先に、その頭脳と胆力への驚きが来てしまう。
次に、犯行の緻密さがある。事前に銀行へ脅迫状を送り、受け渡しを試みた予行演習。偽の白バイと腕章の精度も高い。発煙筒でパニックを誘い、車を乗り換えて追跡網をかいくぐる逃走経路。正直、フィクションの犯罪ドラマ並みの完成度だ。
そして、カタルシスの欠如が逆に効いている。犯人が逮捕され法廷で裁かれるという答えが用意されなかった。だから事件は永遠に開いたままの物語として残り、誰もがそこに自分なりの結末を書き込める。
こうして三億円事件は、日本の犯罪史における国民的ミステリーとして定着した。書籍、ドラマ、映画、漫画と、何度もフィクション化されてきたのがその証拠になる。
いまも個人ブログやまとめサイト、かつての掲示板の過去ログでは、書き込みが途切れない。遺留品リストを一つずつ検証する人がいる。少年Sをめぐる感情的な議論を蒸し返す人がいる。一橋文哉の著作と、あの告白形式の小説を比較検討する人がいる。当事者も物証も出てこないまま、ネット上の捜査本部だけが半永久的に稼働し続けている。
3分間と、157点の空振り
改めて時系列で追い直すと、驚くほど短い時間軸のなかに、緻密な計算と、行員たちの善意を利用した心理誘導が凝縮されている。
3分の犯行と、150点を超える遺留品。そのどれもが量産品であるがゆえに、決め手にならなかった。ここから見えてくることがある。犯罪捜査は物証の有無だけでなく、その物証をどこまで追跡できるかという流通経路の透明性にも左右される。
同時に、少年Sをめぐる悲劇を忘れてはいけない。痛快な知恵比べとして語られがちなこの事件が、実際には無関係な一人の若者と、その家族に深い傷を残した。そこは笑い話では済まない。
諸説を並べてみても、警察関係者説、複数犯説、学生運動関係者説、政治的隠蔽説、どれも単体では全体を説明しきれない。だからこそ、互いに矛盾しながら半世紀以上も共存してきた。決定的な証拠が一つも現れなかったという不在の事実こそが、この事件最大の遺産であり、最大の魅力でもあるのだと思う。
法的にはとうに終わった事件なのに、ネット上の考察はむしろ年々活発になっているように見える。デジタル世代の考察者たちは、当時の新聞紙面や地図、遺留品の写真を照らし合わせている。令和の視点から、あの3分間を組み直そうというわけだ。犯人が誰だったかに確定した答えが出ないとしても、その問いを問い続けること自体が、この事件が愛され続ける理由なのだろう。
