2024年9月2日の夜、熊本県宇城市の永尾剱神社の観望所に人が集まった。新月で、八代海は真っ暗。午後11時ごろ、神社では観測の成功を祈る参拝があり、その輪の中に、県立宇土高校の科学部地学班の生徒たちがいる。
狙いは不知火。旧暦8月1日、八朔のころに八代海の沖へ現れるという怪火のことだ。最初に海岸から数キロメートル沖へ灯るのは、ひとつかふたつ。その火が左右へ割れて数を増やし、やがて数百から数千の火が横一列に並ぶと、昔から語られてきた。並んだ列の長さは、4キロメートルから8キロメートルにも及ぶという。
生徒たちはそれまでの6年間に、八朔のころの夜通しの観測を23回重ねたが、不知火は一度も現れなかった。研究が始まったのは、約6年前。きっかけは、不知火町出身の生徒の提案だった。
研究を始めて7年目のこの夜は、地元の漁協が漁船を出し、沖で灯りをともして、不知火の光源になってくれる手はずだ。灯りは、八代海へ注ぐ3つの河口の沖に、それぞれ置かれる。街明かりではなく漁火を使う、これが今回の作戦だった。
海の上の光が、ふたつに割れた
撮影された光源は、永尾から約8.5キロメートル沖、大鞘川の河口で干潟の中の澪を抜けて沖の海に出る境目のあたりの漁船にあった。照明は、500ワットの発光ダイオードだ。見つめる側は、高さ9メートルの観望所に立つ。観測は、八代市の大島の方角へ向けて行われた。
午前3時を前に、撮影した動画に変化が映った。光源はひとつしかないのに、ふたつの光が左右に並んで見えたのだ。のちの発表資料によると、光はふたつから3つ、またふたつへと変わり、数が替わるのに30秒ほどかかった。横への変化は10分ほど続いたという。
光は、火の海と呼ぶほど派手ではない。聞いただけでは、拍子抜けするかもしれない。それでも、宇城市が画像でとらえた最後の不知火は、1988年9月。そこから36年ぶりの撮影には、日本放送協会も協力した。
成功しても、生徒たちは満足しない。班長は「次は肉眼でも見られるような、明瞭な不知火現象を撮影したい」と話した。観測の10日後、一行は八代漁協を訪ね、次の光源を相談する。漁師からは、昔の船の灯りは作業のための光だったから、昔の電球のほうがいいんじゃないか、という声が出た。
日が暮れて、岸の場所が分からなくなった
話のいちばん古い根は、日本書紀にある。景行天皇18年の5月1日、天皇は葦北から船を出し、火の国へ向かった。やがて日が沈んで夜は暗くなり、どこに岸があるのか、船の上の誰にも分からなくなる。闇の海の上で、船は行き先を失った。
遠くに、火の光が見える。天皇は舵取りに向かって、まっすぐ火のある所を目指せ、と命じる。船は、天皇が命じたとおりに火だけを目印にして進み、まもなく無事に岸へ着いた。
天皇は土地の人に、ここは何という村かと尋ねた。答えは、八代県の豊村。続けて、あの火は誰の火かと問うたが、探しても火の主は見つからない。人が灯した火とは違うと天皇は悟り、それでこの国に、火国という名がついた。
ここに、ひとつ引っかかる点がある。この一節に、不知火という文字は出てこず、書かれているのは、火国という国名の由来だけだ。ちなみに日付の5月1日は、いまの6月か7月の初めごろにあたり、旧暦8月1日の八朔とは別の日だ。
豊村は、いまのどこにあたるのか
豊村は宇城市松橋町の豊福にあたり、出発した葦北は日奈久のあたりと思われると、地元の資料は書く。豊福には「景行天皇之御遺趾」と記された石碑が立ち、高台の石の祠には、天皇と皇后の像がまつられている。場所は、国道3号から入る市道の二股の付け根、高台の上だ。
地元の案内板には、こんな話が書かれている。船が着いたのは豊福村の江口で、上陸した軍が東へ1キロメートルほど進むと、短い夏の夜が白みはじめた。そこを白明隈と呼び、いまの小字は白毛熊だという。
風にのって、北から微かな時雨が通り過ぎ、その場所は「微雨」と呼ばれるようになる。南へ移って大休止すると、朝日が東の山から昇り、さわやかな朝の海風が、広い海の上から吹いてきた。天皇は思わず「快し」と言い、一帯は心吉と呼ばれるようになった。
夜の闇のあとの、朝の話。書紀の暗い海の場面にくらべると、ずいぶん穏やかな後日談で、正直、火の話より朝の海風のほうが気持ちよさそうだ。どちらも、天皇の足跡として土地に伝わる話だ。
空から山に降りてきた火
火の国の由来には、別の話もある。風土記に残る、空から火が降りてくる型。崇神天皇の世、肥君の祖の健緒組が土蜘蛛を討ち、国を見て回るうちに日が暮れて、八代郡の白髪山で宿をとる。
その夜、虚空に火が現れて、ひとりでに燃え上がり、だんだんと下りてきて山に燃え移った。驚いた健緒組が朝廷に復命して奏上すると、天皇は、火が下った国だから火国と名づけるのがよい、と勅した。火は空から来た、という筋書きだ。
海を渡る船を導いた灯りと、空から山へ降りた火。同じ国名の由来が、ふたつの形で伝わっているのに、どちらの話でも、火の正体は語られない。火の国は肥の国とも書き、のちに肥前と肥後に分かれた。
筑紫の綿は、まだ着ていないのに暖かそうだった
万葉集には「しらぬひ」の語が3例あり、どれも「筑紫」にかかる枕詞で、用例はすべて大宰府に関わる歌だ。歌のひとつがこれ。「しらぬひ筑紫の綿は身に着けていまだは着ねど暖けく見ゆ」。筑紫の綿は、まだ着ていないのに、見ただけで暖かそうに見える、という歌だ。
この「しらぬひ」に、景行紀の火の話を重ねて「不知火」の字をあてる読み方は、中世から近世まで広く行われた。ところが、上代特殊仮名遣いの研究が進むと、厄介なことが分かった。しらぬひの「ひ」は甲類の音、「火」は乙類の音で、別の音だから、万葉の「しらぬひ」を「火」と読むのは難しい。
語源の説は、ほかにもある。白い縫い物の「白縫」とする説と、都から遠くてどれだけ日数がかかるか分からない「知らぬ日」とする説がある。辞典にも、語源は定説を見ないとある。
日本国語大辞典が「しらぬひ」の最初の用例に挙げるのは、1470年の連歌集『河越千句』の1句だ。「しらぬ火見ゆる淀の舟つき」とある。日本大百科全書の項目は、万葉の枕詞と、いま言う不知火とは、いちおう別のことと見る。中世の『釈日本紀』や『謡抄』にも、近世の『古事記伝』にも、不知火の名や記述は見える。
提灯の火が、空でぶつかり合う
江戸時代の中ごろ、寛保3年、1743年に刊行された随筆『諸国里人談』にも、不知火の項がある。そこに書かれた火は、八朔の沖に並ぶ灯りとだいぶ様子が違う。提灯のような火が森から出て、別の山から出たもうひとつの火と空中で行き合い、戦うようにぶつかって、海へさっと落ちる。
海の上では、鶏の蹴り合いのようにしばらくねじり合い、やがて、出てきた山の森へ戻っていく。筆者は、4月と5月、8月と9月には必ず出ると書き、この火を日本第一の妙火と呼んだ。八朔の話とは、まるで別物だ。
鳥山石燕の妖怪画集『今昔画図続百鬼』にも、不知火の絵が収められている。千灯籠や竜灯の名でも呼ばれた火で、昔は、出現すると御神酒をあげ、三味線や太鼓でにぎわったという。不知火のよく出た年は、漁がよいという言い伝えもある。
別の解説書は、龍神の灯火と呼ばれ、見える日は漁に出ない決まりの漁村があった、と伝える。吉と見る土地もあれば、慎む土地もあったわけだ。火を前にした人の受け止め方は、ひとつではなかった。
出る時間にも、決まりがある。引き潮がいちばん深くなる午前3時ごろの、前後2時間ほどが見ごろで、月のない大潮の干潮時、旧暦の月初めか月末にあたる。とくに八朔と12月の末は、光源になる漁火の数が多く、目立った。
見る場所にも、約束事がある。水面近くからは見えず、海面から10メートルほどの高さが具合がよい。近づこうとすると、火のほうが遠ざかる。江戸時代の書物には、対岸の高台で見物する人の姿も描かれている。不知火町の松合郷土資料館の担当者は、地元の人が祭りのように、この火が出るのを待っていたのではないか、と話した。
夜光虫を疑った時代
近代に入っても、不知火の正体は分からなかった。気象学者の藤原咲平は、1933年の『大気中の光象』で、原因は分かっていないと書いている。可能性として挙げたのは、見物客を喜ばせて利益を得ることと、夜光虫の発光の2つだったらしい。答えは、まだ霧の中だった。
1937年の宮西通可の論文によれば、それ以前の説明は「不知火は漁火なり」「夜光虫なり」とひと言ですまされがちだった。第五高等学校の中川久知教授の一行は、不知火を海中の微生物とみて、海水を顕微鏡で調べる。結局、目的は果たせなかった。宮西は、不知火を見ないまま光源だけを探したからだろう、と書いている。
有明海の不知火も、昭和の初めにはすでに宣伝されていた。それでも古くから驚嘆の目で眺められてきたのは、八代海の不知火のほうだと、宮西は書く。論文の末尾には、新聞社2社や実験を手伝った人々、地元の県民への感謝が述べられている。
望遠鏡とアセチレンランプ
宮西通可は1892年に生まれ、1962年に亡くなった人で、熊本高等工業学校の教授から、のちに広島高等工業学校へ移る。彼が不知火に出会ったのは、不知火を調べるためではなかった。出会いは、まったくの寄り道だった。八代海の気象光学の研究の最中に、古い文献と同じ姿の火を見てしまったのだ。
土地の人も、それが不知火だとはっきり言う。1936年7月15日から18日の夜、宮西は松合の六地蔵、永尾、二本松の3か所に、測角用の装置をつけた望遠鏡を据えた。旧暦では5月27日から6月1日にあたる夜で、海の中に灯火を2つ置き、見かけの揺れを調べる。
その実験の最中に、不知火が現れた。八朔でもない、7月の夜にだ。宮西はすべての望遠鏡を不知火へ向け、焦点を合わせたまま夜明けを待つ。明るくなってから確かめると、出現場所は県営北新地の前の干潟のあたりだった。2日目からは灯火を出現場所の近くの海へ移し、赤い灯をともして、動力船で探した。
見つかった光源は、意外なほど小さく、鰻や魚をとる漁師が持つ、100から200燭光ほどのアセチレンランプにすぎない。数は、わずか数個。それが永尾の観測所からは、水平に広がる無数の火に見えていた。
倍率50から100の天体望遠鏡でのぞくと、火の主は、ごく浅い海水の中で漁をする漁師だった。写真に写ったのは、足首が浸かるほどの浅い所にいた漁師が、腰につけたランプの灯り。写真から割り出した光源の高さは、60から70センチメートルで、実際の高さと、同じ程度の値が出た。
光の飛び散る範囲を調べる実験もした。8月14日から18日の夜、干潟の縁に対して直角に船を進め、赤、白、青の順に、色の違う光をともす。干潟へ上がるときは色の順を逆にして、永尾から眺めて、光がまたたいてふたつや数個に割れて見える範囲を、割り出す。
結果は、不知火のような現象が干潟と海水の境の線より干潟の側に現れる、というものだった。落ちていく写真乾板に光の像を記録する装置も使い、3つのランプの光を撮る。光はおよそ300メートルにわたって飛び散り、大気のレンズ作用も、かなり強く現れていた。
不知火がよく出た日の朝や夕方、干潟と干潟のあいだの海面には、入道雲のような大波が立って見える。その後ろの海は鏡のように凪ぎ、船や島や干潟が、蜃気楼のように揺れて見えた。夜明けごろ、この部分を通る光が、飛び散ってまたたく。海の上にも条件の合う場所はひとつあるが、そこへ明るい火が来ることはまれだ。干潟には同じような筋が何本も現れ、漁火が運ばれてくる機会も必ずあるから、不知火はおもに干潟に出る。
干潟がレンズをつくる夜
宮西の結論は、こうだ。千灯万火が明滅して、離れては合わさる肥後の不知火は、おもに漁火が飛び散るようにまたたく現象。古い文献に出てくる姿と、そっくり同じだと、宮西は書いた。
仕組みは、こう考えられた。満潮のとき干潟へ乗った海水が日光で温まり、夜が更けると干潟は冷えて、上の空気は海の上より冷たくなる。そこへ見る方向に微風が吹くと、冷たい空気と暖かい空気が混ざり、光学的に途切れた線ができる。光はそこで曲がり、レンズのように働く。
数字も測った。光源のそばで差が大きかったとき、海面の気温は27度、干潟の上は25度ほど。干潟の上と海上の気温差が、おおよそ1度以上あることが条件になる。風は見る方向へ吹くことが欠かせず、最も盛んに見えたのは8月だった。
天気がよく、高い所から見ることも条件に入る。光は蜃気楼のように上へ曲がるため、海面すれすれの場所からは見えない。宮西は、相当に高い場所で見るのが都合がよいと書いており、永尾の観望所が高台にあるのは、その点でも理にかなう。
宮西自身が、分からない点も書き残している。なぜ火が横へ飛ぶのか。説明が付かないと認めたうえで、藤原咲平博士から示された考えを書き添えた。暖かい気流の上に、陸から冷たい気流が来て層をなし、渦のようなものができる。光がその間を縫うので、分散が著しくなるのだろう、という見立てだった。
結果は1937年1月号の雑誌『科学』にも載り、論文は気象集誌に掲載された。わずかな光源が、1里以上にわたって並ぶ無数の灯に見える。論文は、そう計算した。火の数が増えるのは、光が飛び散ってまたたくうえに、見える光源の位置も広がるからだ。
親火がふくれて、ふたつに分かれた
宮西の仕事は、のちの研究者が受け継いだ。熊本大学の山下太利は、1972年に「不知火の研究」を発表し、1994年には同名の本を出した。山下は、不知火を、気温の違う大小の空気のかたまりの中を光が通り抜けるとき、屈折を繰り返して生じる現象だと説明する。光源は民家の灯りや漁火で、条件が揃えば別の場所や別の日にも起こるという。
逃げ水や蜃気楼、かげろうと、同じ種類の現象だ。1993年には、不知火町が文献をまとめた文献集『不知火』が出た。翌1994年には、築地書館から『不知火新考』が出る。描かれた不知火の育ち方は、こうだ。親火がふくれて盛火となり、ふたつに分かれて燃え続け、さらに左右へ分光していく。
日本大百科全書は、別の条件も挙げる。遠浅の干潟は水温が下がるのに、沖の深みは下がらず、両所で3度ほど違う場合、微風が吹くと、付近の海域が密度の違う小さな気塊で満たされる。気塊はレンズと同じ働きをして、ひとつの漁火が分かれたり合わさったりして明滅する。1990年代以降は、本格的な研究が行われなくなった。
光を並べる者がいなくなった
1988年9月に永尾剱神社で撮られた1枚が、宇城市の記録に残る最後の画像だ。1990年代以降は確認されていない、とも報じられた。見えなくなった理由には、説がある。ひとつの解説書は、干潟の埋め立て、電灯で夜の闇が明るくなったこと、海水の汚染を並べる。
宇土高校の生徒は、地元の漁協で聞き込みをした。返ってきたのは、昔、不知火が見られていた時期の夜は漁をしていた、という話。不知火が見られなくなった時期と、夜に漁をしなくなった時期が重なる、とも聞いた。光源は街明かりではなく、漁火だったのだ。
漁火は、海面に近い低い所にあり、潮が引いても、高さは低いままだ。低い光は、海面近くの温度層の影響を強く受けて、よく曲がる。光路のシミュレーションでは、街灯が光源だと観望所は蜃気楼の見える範囲に入らず、漁火だと範囲に入るという結果が出た。
松合郷土資料館の担当者は、潮の干満の差があり、日中に日が照って夜に冷え込む、という気象条件がそろえば、いまでも出ると思う、と話している。
不知火は見えなくても、別の蜃気楼は見えた。対岸の光源が上下に反転して、縦にふたつの列に並ぶ現象を観測している。観望所では対岸の光源が変わらなかったのに、海岸では光源の数が変わり、これを潮位の変化が大きい海での夜の下位蜃気楼と説明している。
模型の中の不知火
海で見られないなら、室内で作ってみる。2023年、地学班はシリコンヒーターと扇風機で、不知火海の特徴を表す装置を組んだ。ヒーターを加熱して左右に温度差をつくると、ひとつの光が横に伸びる側方蜃気楼が見えた。風を送って温度の分布を乱すと、不知火に近い見え方になる。
学校は、鮮明な側方蜃気楼と不知火の室内再現を、世界初と説明している。ふつうの蜃気楼は、上下の温度差で光が曲がり、景色が上下に反転する下位蜃気楼。側方蜃気楼は、左右の温度差で起こり、ほとんど知られておらず、目撃例もかなり少ない。不知火は、その一種だと地学班は見る。
不知火海には、広い干潟がある。干潟の上には、海水が残った潮だまりができ、そこは周りより温かい。冷たい所と温かい所が入り混じるところへ、八朔のころの微風が吹いて、温度の構造はさらに複雑になる。それが光を横へ伸ばす、というのが生徒たちの説明だ。
潮の差も大きい。不知火海は日本最大級の干満差があり、大潮のときは4メートルほどになる。潮が引くと、観望所は海面から見て相対的に高くなり、見える光源の数が変わる。高さ9メートルの観望所と、1メートルの海岸とで、見え方は違った。
研究費の一部はクラウドファンディングでも集め、日本蜃気楼協議会の会員からも、助言を受けた。観測を支えたのは、永尾剱神社や宇城市、漁協など地元の人たち。
国の名勝になった海
2009年2月12日、「不知火及び水島」が国の名勝に指定された。景行天皇の巡幸にまつわる景勝地として、3か所がまとめて選ばれた。永尾剱神社、八代海の鏡町北新地の沖の海域、そして球磨川の河口近くの小さな島、水島。
水島は、書紀の4月の条に出てくる島だ。天皇が食事をしようとしたが水がなく、小左という人が天地の神に祈ると、冷たい泉がわいたという。宮西の論文が出現場所に挙げた県営北新地の前の干潟と、名勝の海域は、どちらも北新地の名を持つ。
永尾剱神社は、和銅6年、713年の創建と伝わる。祭神の海童神を乗せた巨大なエイがこの地に鎮座し、そのエイの尾から永尾の名がついたという。境内は高台にあり、八朔の日の観望所として知られ、海の中に立つ鳥居も、この神社の見どころだ。
毎年、旧暦8月1日の前後に、永尾剱神社と松合新港で「不知火・海の火まつり」が開かれる。2025年は9月21日の夕方に始まった。松明行列や、書紀の故事にちなんだ天皇巡幸船のお迎えがあり、鳥居をシルエットにして、約1800発の花火が上がった。不知火の観望は、午後11時30分まで。
名前だけが先に歩いていった
八代海は、不知火海という別の名でも呼ばれる。その名は、不知火の現象に因む。不知火町は1956年に発足し、2005年の合併を経て、いまは宇城市の一部だ。
1976年、石牟礼道子の依頼を受けて、色川大吉を団長とする「不知火海総合学術調査団」が結成された。水俣病をはじめ、不知火海沿岸の環境汚染と地域の変化を、社会学や政治学、医学などの分野から調べた。報告書『水俣の啓示』の刊行は、1983年。
名前は、海や町の外へも出ていき、海軍には、不知火を名乗る駆逐艦まであった。清見とポンカンを交配して育てた柑橘はシラヌヒといい、条件を満たした果実は、デコポンの名で売られる。相撲では、横綱の土俵入りの型のひとつを不知火型と呼ぶ。
宇土高校の発表資料が、今後の展望の最初に挙げたのは、ふたつの謎。なぜ、八朔の時期なのか。なぜ、不知火海なのか。
